2026年01月01日

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2016年08月01日

将軍兄弟プロファイリング

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
今日は、先日の七夕回「君の願いは…」の後半で紹介した
康永3年(1344)4月8日の直義の鎌倉「浄光明寺」仏舎利奉納について
ちょっと気になった所を補足しておきたいと思います。


さて、幕府創設(=建武3年(1336))から8年目に当たるこの年は
直義権限立場に飛躍が見られた年で云々―――
という事を前回ちらっと解説した訳ですが…

(ちなみに、実質的な幕政の権限については
 幕府開始〜この年までの間に
 既に多くは直義の担うものとなっていた訳ですが、しかし
 康永3年に起きた変化は、これまでの(予定調和的な)変化とは異なり
 "ある明確な事情" に起因する特別なものだったらしい…
 …というのが(私が勝手に命名した)大命題「康永三年の謎」です。)


これら直義の権限における変化は、普通に考えれば
(当時の常識でも現代の感覚でも)本来好意的に受け取られる事だと思いますし
前回の記事でも、直義の前向きな感情を強調して解説しましたが
ただ、少し細かい事を言うと
この変化については必ずしも、直義自身は全面的に歓迎しておらず
内心では自分(のみ)の地位が高まる事を喜んでいなかった
…というのが実際であって
それ故、康永3年(1344)4月8日に鎌倉「浄光明寺」玉泉院
天下への祈りを込めた自筆の書状を添えて仏舎利を奉納したのも
曇りなき自信に満ちていたとか、まして自身の地位を誇る気持ちからなどではなく

 本当の所は、少し複雑な思いからのものだったのだろうな…

という事を追記&やや訂正しておきたいと思います。


(一般には、直義は自身の政治的理想の実現の為
 幕府内での自身の権限強化を(尊氏の意に反して)自ら積極的に画策した
 …という見られ方をされているように思いますが、それは違います。)



というのも、この直義の地位の変化・向上は「ほぼすべて尊氏の意向であり
直義自身「それが兄の意志ならばと、使命として受け入れた」
というのが実態だったりするのです。
(しかも(毎度の事ながら)直義尊氏がこの意向を示した本当の理由を知らない… )



なぜそう言えるのか?という史料的根拠考察過程については
「康永三年の謎」を順を追って解説する事で明らかになるので
今は結果だけしか言えなくて申し訳ありませんが
以上のような背景から
前回紹介した康永3年(1344)の自筆の仏舎利奉納状を改めて見ていたら
この時の直義は、ただひたすら輝かしく明るい心境だったのではなく
まだ少しの迷い寂しさがあって
しかし現実を受け入れ兄の決定に従い使命を全うする為に
独り天下への誓いを立てる事で、自分の背中を押す気持ちがあったのではないかな…
と、そんな気がして来た訳です。
直義が鎌倉「浄光明寺」に祈る時は
 (他と違って)個人的なものである事から考えても。)




…とか気付いてしまうと
なんかちょっと直義可哀相な感じになって来ますがw しかし
尊氏が(いわば)直義の意志に反してこの決定をしたのは
もちろん、自分の為に直義の気持ちを無視した… のではなく
自分より100倍大切に思う直義の為に自らを―――
…という深い深い事情がありますので
「なんか尊氏ひどい…」とか誤解されませんようにお願い致します m(_ _)m

そして(毎度の事ながら)この辺の事情は
唯一足利高経(というか斯波高経だけはすべて知らされていただろうなとw




高経様は☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆見えない超重要人物




ところで、尊氏直義に政道を譲った理由は
「自分より直義の方が政道に向いているから」みたいな
単純に実利的な話でもなければ(…まあ直義の傑出した統治力は事実ですが)
世捨て人に猛烈に憧れていたから」とかいう無責任な話でももちろんなく
決して明かす事の出来ない "重大な理由" があった訳ですが
しかし、"(尊氏とたぶん高経のみが知っている)本当の理由" を隠す以上
みんなへの建前として尊氏
直義のが優秀だし、俺兄貴なのにあほだしwww」
みたいな方便を使っただろうと考えられます。(他の史料から)
これらの事実と照合すると、『梅松論』の…

三条殿(=直義)は全国六十六州と二島に安国寺・利生塔を設置して
 (天下への)所願を寄せ、その振る舞いは廉直実直で決して偽る所が無い
 (そんな立派な御方なので)将軍(=尊氏)は政道を譲られた」


…という記述は
"(当時みんなが知っていた)公の事実" をほぼ正確に伝えていると言えるでしょう。

さて、さらにこの続きには…

「(将軍からの政道の移譲を)三条殿は当初、再三にわたって辞退なされたが
 将軍のたっての懇望という事で遂には了承された。
 その後は、政務の事においては一塵(=わずか)も
 将軍から御口入される事はなかった」

 (※口入(くにゅう)…意見を述べる、干渉すること)

…とあって
「当初、直義は頑(かたく)なに辞退した」というこの記述も
上述した「康永三年の謎」の分析より導かれる直義の心境と合致する事から
事実と判断される(いかにも直義らしい)エピソードですが
ただ、この『梅松論』の記述だけ見た場合
直義が辞退した理由は一見「単なる謙遜でしょw」とか
「兄に対する礼として建前上辞退する振りをした」といったパフォーマンス的なもの
…みたいに思われて軽く流されてしまいそうですが
しかし、これはかなりの核心を含んだ、思った以上に重要な記述だったりします。


なぜなら、実を言うと直義は、直義の本心では…
本当は尊氏 "一緒に" 天下の政道を担って行きたかった」のですよ。
(↑これも康永3年関連の一次史料の考察より)
だから、「再三」にわたってまでどうしても辞退しようとしたのであり
それでも結局はほぼ将軍の立場譲られちゃって「しょぼん… (´;ω;`) 」
…というのが直義の正直な胸の内だったのです。
(普通のある人間からすると信じられないかも知れませんが
 これが直義と言う人間の感じ方なのです。)



直義の政道方針発給文書に見られる特徴からすると
兄である将軍尊氏に仕える(鎌倉幕府の)執権的な存在でありたかったのだと思われます。
 (※↑これについて、詳しくはいずれまた。)
以前「正月奉納連画2016 第三弾」
直義を支える事に至上の喜びを感じていた」
と言ったのは、この辺の事実に基づくもので
政務を主導するようになってからも直義
自分の中ではあくまで兄に仕える立場であろうとしたようです。
それは『観応の擾乱』の最中(さなか)でさえ変わらぬ本心であり
に仇(あだ)なす敵を討ち、の無事を守る事こそが
直義を動かすすべての情熱の根源だったのです。


いつでも天下の為に祈り、全力を投じていたのも揺るぎない事実ですが
もしかしたら直義
"天下の為" と思いながら、心の底では "兄の為" に生きていたのかも知れない…
と思ってしまう所以(ゆえん)であります。

(取るに足らない私の妄想… のように聞こえるかも知れませんが
 しかし観応2年(1351)10月、京都に帰らぬ事を決心してから
 翌年2月に鎌倉で息を引き取るまでの直義不可解な行動の解明においては
 最大の鍵となる視点だったりします。)




これらの事実は従来の…

「二人は幕政の権限を分割した為に、政治方針や主張の違いから対立を起こし
 やがて芽生えた、相手を排し自らの元に幕府権力を一元化しようとする画策が
 『観応の擾乱』という政治抗争を勃発させるに至った」


という意味での "対立的" 二頭政治観からすると
有り得ない!! とか思われそうな世界観ですが
しかし、従来の説の方は意外にも
『観応の擾乱』誤解釈から逆算的に生まれた仮説であって
時系列に沿った史料の分析から実証的・論理的に導かれる事実ではなかったりするのです。


つまり… 従来の対立的二頭政治観の方が非現実世界だった訳ですが
特に、二人の兄弟仲に対する誤解は
広範囲に及ぶ各方面の考察に致命的な大打撃を与えてしまったかと…
例えば、『観応の擾乱』が観応2年(1351)半ばに再燃した時には
政務の座から退くように迫る尊氏に対して
 直義幕政を手放すまいと固執し徹底抗戦を敷いた」

…みたいな解釈がたまにありますが
これは全く史料に基づかない、事実と180度逆の誤解釈であって
実際は
天下静謐の為にと政務を辞そうとする直義
 尊氏が何とかして引き止めようと頑張った」

というのが一次史料的事実です。
(『大日本史料』観応2年7月19日ほか、8月6日など)
この辺の事情は極めて込み合っていて、真相の解明が非常に困難な部分とは言え
直義悪くないのに、誤解ばっかされて本当に可哀相… (´;ω;`)


「人は誰しも権力を一手に握り天下を独占したいという野心を隠し持っている。
 (その渦巻くような野心の前では、兄弟の関係など風前の塵より軽い)」

という一般論は、所詮は固定観念でしかなく
自分よりも遥かに天下を愛する直義には、通用しない定石です。
だから、直義(ってか尊氏も)の思考回路を読む為には
ひたすら地道に史料を分析して個別プロファイリングするしかない、とw



足利兄弟尊氏直義

(※クリックすると拡大します。1000×750px)



…と、話が膨らみ過ぎて来たのでこの辺でまとめに入りますと
直義が鎌倉「浄光明寺」に祈りを捧げる時は
康永3年(1344)の時も、観応2年(1351)の時も
実はどちらも、未来へ向けた希望の中に
ちょっと切ない気持ちが秘められていたようだ… という事が分かり
これは、以前『バーボンMuromachi』「『Muromachi通り』通信【2016年GW企画】」
で紹介した直義の和歌(わりと有名)の…


『新千載和歌集』
うきながら 人のためぞと 思はずは 何を世にふる なぐさめにせん

(この憂いの多い世の中で、人の為だと思わなければ
 何を生きていく慰めにしたらいいのか… )



…とも共通する感情である事からすると

つらい時や悩みがある時の直義は、その苦しみから立ち上がる為に
「天下の為」との思いを新たにする事で、いつも自身を勇気付けていた


と言えるのではないかと。
なんて健気で純粋なの (´;ω;`)

(…と感心してしまう反面
 "自分の為に" と思う感情が異常に欠落しているのは
 直義らしい菩薩気質とは言え(人間としては)少々気になる所ですが… )





直義ってわりと、心から楽しかった日々より
つらいのを我慢している日々のが多かった様に思います。
幕府創設から13年間は、実質天下最も大きな権力を振るえる立場にあったから
何でも上手く行っている人生に見られがちな所があって
(誰もがそうするように)絶頂にある自身の地位にうぬぼれたり
恣意的に強権を振るいもしただろう
…といった根拠のない憶測をされる事が多かったり
さらには
『太平記』の記述は誤り空事」(そらごと)が多いので
直義の指示で、違い目(=事実と違う部分)を(事実へ)訂正した」
『難太平記』今川了俊(←すっごい人格高い、廉直、誠実、頭脳明晰)
が証言しているのに(つまり、当然の正しい事をしただけ)
それをなぜか
「(権力者がみな歴史書にそうする様に、喧伝あるいは保身の為に)
 直義は自身に都合よく(事実を嘘に)書き換えた」

曲解されている事がある… というか
これが事実であるかのように既に通説となりつつあるのですが
(↑この曲解は本当に根拠が不明
 物事を利害だけで考える現代的思考特有の落とし穴… とでも言おうか)

しかし上述したように
直義には一般的な権力者像の定石は通用しないのであって
定石で描いた直義像を基にした考察は
史料的事実との矛盾乖離があまりにも大き過ぎて、説として成り立ちません。


直義今川了俊のように
 利害ではなく道理・道義的「善悪」最も高い価値を置く人間は
 間違った事曲がった事保身の為の嘘不正が何よりも嫌い… というか
 本能的に猛烈な拒絶反応を示すレベルです。そういう人間は居るのです。
 了俊の晩年の手記『難太平記』
 腐りまくった世の中に対して、最後に出力1000%で "真実" をぶっ放した
 了俊渾身の逆襲の一撃… という話は
 以前の「夏休みの宿題(その3)」の真ん中へんを。
 なので、その性質上意図的な嘘は無いと考えるのが妥当です。
 ただし『難太平記』了俊の子孫の為に書かれた私的なもので
 了俊が生きている内は誰にも見せるなよ、おーこわ、おーこわ」
 とか注意書きして若干怯んでいる、やばすぎる極秘本です。)



定石で描くいわば量産型の人物像は、お手軽ではありますが
大抵は使い物になりませんので
面倒くさがらずに史料から個別に分析しなければならない… といっても
実証的・論理的な人物像 "ゼロ" から緻密に描き上げる事こそが歴史学の醍醐味だと
私は思います。
「型に嵌める」が通用しないという事は
「未知の開拓」が待っているという事と同義なのです。
まずは定石の誘惑を振り払い、主観逆説自説をも断ずる覚悟を持つ事が
真実へと至る最初の一歩となるでしょう。


とりわけ、謎なほど自己愛に乏しく(←これはほんとだと思う、要考察
極めて利他的で人の痛みを自分の事のように考えてしまう直義のような
イレギュラー度最高レベルな人物は
根本の性格から行動原理行動の目的規範意識動機・情熱の根源まで
最先端技術を駆使したフルオーダーの最高級特注プロファイリングが要求される
スペシャルな捜査対象です。

"あの" 直義の花押(※)だって
その特異な花押の形だけで判断せず
真に史実の人物像と、当時の詳細な現状分析から理由を探れば
本当の意味が見えて来るはずなのです。


(※…貞和5年(1349)閏6月の『観応の擾乱』勃発直後から
 ほんの一時期だけ現れた、直義の謎の巨大変形花押のこと。
 (本来、直義の花押は極めて洗練されていて
  いつでも変わらず美しいのですが… つまりマジで異常事態です)
 この花押の解釈も(執事高師直罷免された直後である事から)
 「幕府を独占したという自信驕りが反映されたもの」…みたいに
 野心で理解される事が多いようですが
 もちろん事実は、そうではないのです。)





ガンダムってのはな☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ジムとは違うのだよジムとは!!





という訳で、直義の分析は念入りに!というお話でした。
まあでも、直義は分かり易いのでそれほど大変じゃないんですよ
それより尊氏の方が…じゃなくて仮面被っているので
こっちのが大問題です。

上で言った、尊氏直義に政道を譲った理由である
「決して明かす事の出来ない "重大な理由"というのはもちろん
直義に関係する事なのですが
これまで、優柔不断で迷ってばっかのぐずぐず将軍と思われて来た尊氏
実は、ひとたび被ってる猫を引っぺがすと(にゃー)
驚くほどしっかりした考えと強い意志の持ち主で
強固に一貫した目的を持って行動していたりするのです。
ただ、ただし… 調べれば調べるほど
その一つ一つの(隠れた)目的、あるいは決断に迷っていた(ように見えた)理由
おめーの行動原理は全部直義かよ!!
ってくらい、あれもこれも直義という事が判明する
超絶的なブラコン将軍ってゆう (´・ω・`)
尊氏にとって直義
生きる理由生きる意味、それゆえ死ぬ事の意味であり、さらには…
幕府の意味さえも "直義の為" にあらねばならなかったのです、尊氏にとっては。


(…と言っても、尊氏天下の為との視点を片時も忘れなかった
 器めちゃめちゃでかい将軍ですのでご心配なく。
 それに、直義の為天下の為と同義でもありますから
 (↑直義はほっとけば天下の為に突っ走っていくから)
 その辺は問題ありませんです、はい。)




なぜ直義幕政(というか本心では将軍職)を譲ろうとしたのか?
なぜ天性に将軍の資質を備えながら、自分は退く必要があったのか?
なぜそこまでブラコン(重症)なのか?
なぜ(おそらく)足利高経だけに秘密を打ち明けたのか?

この辺がすべて "一つの理由" で繋がります。




…とそんな事になっていたなら
さぞかし二人は相思相愛兄弟だったのだろう… と思われそうですが
しかし、ここに大きな問題が立ちはだかるのでして
実は、尊氏からしたらそうだっただろうが
直義から見たらそうでもなかった可能性が高い
、のです。
というのも、尊氏 "ある理由" により(直義への思いを)
あまり表に出し過ぎないようにしていた(そうしなければならなかった)ので
何も知らない直義は、自分の方の思いのが強い(つまり直義→尊氏の一方通行
と認識していたっぽい… との可能性を色んな史料が示唆しているのです。

(ただしこれは大人になってから、特に鎌倉幕府終焉以降
 世の中が激動し始めてから徐々に顕著になって行く話。
 子供の頃は、尊氏も心のままに直義を(思いっ切り)可愛がっていたでしょう。
 未来がまだ夢の中だった子供の頃なら… )



ってゆうか何それ直義めっちゃ可哀相!!!! (´;ω;`)ブワアァァァッァーーーー滝滝滝
…とならざるを得ませんが
この辺の、運命的などうしようもないもどかしさが
足利将軍兄弟魅力というか真価なのかなぁ…と思ったりしています。
こんな(細かい)事情知らなくても
なんとなく、理屈じゃない潜在的な何かを感じさせる雰囲気が二人にはあって
それが時代を越えて人を惹き付けるんじゃないかなと。

初代将軍として天下に並び立ち二世紀半の一時代を築いた」
という事績だけでも十二分に魅力を放つ歴史的英雄ですが
しかしこの二人は "それだけではない"、宿命伝説を負った存在なのです。





超歴史機密☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆MUROMACHI−ファイル





ところで、尊氏直義時代の幕政を語る際
「二頭政治」という言葉は定番中の定番で使われる用語ですが…
まあ、両将軍とか両御所とか両殿とか言われたり
『太平記』でも
兄弟一時に相双(なら)びて大樹の武将(=将軍)に備わる事
 古今いまだ其例を聞かず…」

と記されているように
実際、当時の人々の間に "二人の将軍" という認識があったのだから
二頭である事には間違いは無いし、言葉自体が悪い訳ではないのですが
ただ…
「二頭政治」というのは政治制度(体制)を表す言葉ですが
尊氏と直義は別に "システム" として二頭制を採用した訳では無い、という事と
「二頭政治」と言うとどうしても政治上の対立的イメージが付随するので
やや誤解を助長してしまう言葉かな〜 と思います。


政治戦略としての "システム" と思ってしまうと
 幕府がこのような形となった本当の理由を誰も探究しなくなってしまうし
 「『観応の擾乱』システムの欠陥が招いたもの。
  (二頭政治体制における対立は歴史的必然である)」

 という誤った考察が生まれてしまったりと
 色々と真相が闇に閉ざされてしまうので。)


(※ちなみに "システムではない" というのは
 将軍としての尊氏と直義の関係についてのみであって
 それ以外の幕府機構(訴訟機関など)はもちろんシステムです。
 公正な裁判の実現の為に高度に組織化された "鎌倉幕府" を基礎にしつつ
 社会時代の要請に応えて、臨機応変に改善を重ねていった様子が
 「室町幕府追加法」などから窺えます。
 この幕府の設計・改編を主導した総責任者である直義
 今のところ(悪い意味で)鎌倉的懐古主義と大誤解されていますが
 (それで政治に失敗したとか、過去に拘って改革を拒んだとすら言われますが)
 しかしそれも実は、『観応の擾乱』の原因を直義の失政にあると仮定して
 逆算的に生まれた仮説に過ぎないのであって
 (尊氏直義の政道を求め続けたという上述の史料的事実からも
  直義の失政とする仮説には無理があります)

 従って… 時系列に沿った実証的考察によって明らかとなる事実、すなわち
 最高責任者直義の柔軟性新時代への適応力
 しかし新旧の秩序の波に惑い踊る事なく、普遍中庸に根ざす超然としたバランス感覚で
 鎌倉の良い部分を再興して受け継ぎ
 人治を退け、法治のもとに運営される知的国家の構築を推進した
 類稀(たぐいまれ)な手腕統治力、深い理念と先を見据えた構想力については
 改めて、先入観を排した正当な評価が必要なのではないかと思います。
 直義は、天下の為に道理に適(かな)っているとあらば
 社会通念に遠慮する事も過去に縛られる事もなく
 いくらでも新しい事を取り入れる考えの持ち主だった、という話については
 以前『バーボンMuromachi』「ひとまず尊氏直義観」
 私(=本サイト管理人)の返信コメントと
 「結願の日」で少し言及しましたが
 この時期の幕府の制度・構造の解明の為、追加法発給文書を分析するに当たっても
 定石による直義を基にするか、個別プロファイリングによる直義を基にするかで
 導かれる結果が虚構真実の二つに分かれるくらい180度違ってしまう訳で
 「直義の目的は、形だけの過去政局・政争にあったのでは無い」
 という視点は、とりあえずとても重要です。)



幕政における二人の関係は従来…
「多くの権限を直義が掌握していく(というせめぎ合いの)中で
 尊氏恩賞関連の権限だけは死守した」

という様な、完全な敵対関係だったと大きく誤解されていた事もあるくらいですが
実態としては
「幕政の権限を "戦略的に" 二人で分割した」のですらなく
二人の合意により、基本的にはみな直義が担う事になった中で
 恩賞関連だけが尊氏の元に残った

と言った方が現実に即していたりします。
(複数史料からの推測によると)おそらくは…
すべての権限直義に譲ろうとする尊氏に対して
 どうしても将軍であって欲しい直義
 (将軍の象徴たる)恩賞関連だけは尊氏の名で下命してくれと断固懇願した」

というのが真相なのではないかと、私は考えています。

尊氏は、直義に懇願されるとつい折れてしまうところがあるし
(↑建武2年(1335)に勅命による上洛中止した事とか)
何より、尊氏幕政固執した」とか
派閥に分かれて直義政治的に対抗した」とする解釈は
上述の『梅松論』尊氏政道に口出ししなかった」という記述とも
尊氏の和歌に表れた遁世2秒前状態の心境」とも矛盾するし
その他尊氏書状の記述など、多くの史料的事実と整合性が取れない上に
尊氏プロファイリングの結果と照合した場合、まさに
「そんな尊氏あり得ない」のです。



そんな訳で、誕生時の室町幕府をもっと的確に象徴する言葉として
(ちょっと「二頭政治」とは互換性が低いので、代わりという訳ではないですが)

 『兄弟幕府』

を個人的に推したいな〜とか思っています。
公家の日記で実際に「将軍兄弟」と呼ばれていて、史料的背景はクリアしてるし
誤解解けそうだし、なんか仲良さそうだし、楽しそうだし…

何より、この幕府は将軍兄弟の秘密が生んだ幕府である」という
最大級の核心を衝いた言葉でもある、ってゆう。
(しかもそれは、この国の本当の仕組み…というか
 世界の仕組みをも明かしかねない最重要機密だったりする訳で… )



mFBI捜査官としては(※mFBI=室町連邦捜査局)
二人の仲を引き裂き、機密の抹消を企む宇宙人の陰謀を阻止しなければ…!!
くっ、このままでは地球はいずれ…
何としてもやつらより先に二人の身柄を―――

しかしその一方で、将軍兄弟の秘密を追うmCIA(=室町中央情報局)宇宙人と情報を共有し始めてどうたらこうたら云々…



モルダー、あなた疲れてるのよ (´・ω・`)



-
posted by 本サイト管理人 at 22:45| Comment(7) | ★チラ裏観応日記

2016年07月07日

君の願いは…

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
今日は七夕なので、なんか願いが叶いそうなこの妙な雰囲気に便乗して
今年も天の川でお星様きらきらな七夕絵を描いてみました。

去年は尊氏さん一人で寂しげだったので(こちらです→「七夕」
今年は直義と一緒にして差し上げました。
喜んで頂けるでしょうか? 恩賞にお団子下さい。



尊氏直義

(※クリックすると拡大します。1200×900px)


直義が何書いたのか気になって気になってチラ見するブラコン将軍尊氏です。


本人は何をお願いするつもりなんでしょうね…
直義と一緒に空が飛べますようにとか書こうとしたけど
でも直義にバレたら恥ずかしい///やだどうしよういやんっっ☆☆と内部では激しくパニクりながらもあくまで表面はしれっと涼しい顔して平静を装うクールな将軍ポーカーフェイス尊氏、みたいな。


直義の方は、早々に書き終えて目を輝かせている所です。
直義はいつでも大きな希望祈りを抱いてきらきらしている感じです。
大抵の大人なら、どうせそんな願い… と祈る前に諦めてしまうような
遥か夢の向こうの願いだって…
腐敗の無い、平穏幸せ秩序ある天下の為の天下のような世界を
本気で目指してしまえる透き通った心の持ち主なのであります。
(その一方で、現状の人々の苦しみを思って毎夜胸を痛めている
 とかいう所がもう… (きよ)過ぎてやばいww )



そんな直義の願いと言えば…
これは鎌倉「浄光明寺」慈恩院
直義が「天下泰平」「仏法紹隆」「寺院安全」を願って
仏舎利一粒を安置した時の自筆の書状ですが…


足利直義自筆書状「浄光明寺」

(※足利直義筆蹟
 【高柳光寿『改稿 足利尊氏』(春秋社)1966】…の巻頭より引用)



"天下の為の祈り" といったら
全国六十六州と二島に設置した「安国寺利生塔」(の利生塔への仏舎利奉納だけでも
もう68回繰り返しているはずなのに
こうやって事あるごとに天下の幸せを願い続けていた本気で純粋な人なのです
直義というのは。


ちなみに、紹隆(しょうりゅう)とは
「先人の事業を受け継いで、さらにこれを盛んにさせる事」で
"仏法紹隆" とは
釈迦誕生以来の長い歴史の中で、檀越として仏法を保護し(主に国王や権力者)
あるいは修行者となってを伝え広めて来た先人達の跡を追い
さらに一層の隆盛を願う意味の言葉で
それによる一切衆生の済度(救済)を切望する心が込められています。
具体的には
国家の安泰繁栄、人々の精神知性の向上、衆心の平穏といったところでしょうか。

"仏法"(仏の教え)とは
今で言えば倫理道徳、人の踏み行うべき正しい道、心を満たす生き方・考え方
そして学問智慧といった広い意味に捉えると分かり易いと思います。
精神思考心のあり方といった
人間のすべての知的活動に根本的な指標を与えてくれるものです。

(さらにはこの世の仕組みも説いているけれど
 これはまあ実証されるのにまだ何千年とかかりそうな事なので
 今はまだ誰も真実を知らない… )




という訳で、な、なんという生き仏な願い事… な話ですが
「天下泰平」「仏法紹隆」というのは、まあ普通に普遍的な祈りではあるものの
しかし、直義がこのフレーズを用いたのは単に定番だから…というのではなく
一応元ネタらしき出どころがありまして
直義夢窓国師に「仏法とは、とは?」を問うた問答集『夢中問答集』の第9問の
夢窓国師の答えにこの言葉が登場します。

(※非常に長い答えなので該当部分だけの紹介です。
 メインは後半で、これはだいたい原文に即した訳文ですが
 前半は一部分の要点だけかいつまんだ要約となっています。
 元の原文現代語訳について詳しくは…
 【夢窓国師(川瀬一馬訳)『夢中問答集』(講談社学術文庫)2000】)




 仏菩薩やその化身である諸神一切衆生を憐れむのは
 衆生を救い、等しく利益(りやく)を与える為であるから
 その憐れみに親疎偏頗(へんぱ。不公平や贔屓)は無い。
 もし仏菩薩敵の調伏をする場合も、それは仏法に害を為す者を除き
 あるいは邪心を断ち切って正しい法の道に導く為であって
 ひとえに仏法を流布し衆生を利せんが為である。
 だから祈る人間の方も、(利己的な理由で)敵を怨んでその滅亡を望み
 自分だけは世俗の名利栄華を求める、という様な身勝手な心であったなら
 現世でも来世でも悪い報いを受けるだけで、願いなど叶うはずもない。
(=仏菩薩の慈悲一切衆生の為に分け隔てなくあるのだから
 同じ心で祈るならば、きっと利益が得られるでしょう。)
 
(…というそんな仏法であるから)(…中略…)

 たとえ乱世であっても
 仏法さえ世に広く行われているならば、嘆く事は何も無い。
 それ故、禅・教・律と立場(宗派)は違っても
 仏弟子となった者は皆、同じく天下太平・仏法紹隆と祈る事が大切である。
 そうしたならば、この世のどこかにいる相応しい誰か
 天下に仏法を紹隆するという前世からの約束を負って生まれ
 時勢その力をも備えた人が、その祈りを聞き届けてくれるだろう。


(※親疎偏頗…関係が親しいか疎遠かによって、不公平な贔屓(ひいき)をする事。)




…という訳ですが
直義は他にも、夢窓国師の言葉のままに行動したと思われる事例がいくつも見られる事から
上の「浄光明寺」仏舎利安置状「天下泰平、仏法紹隆」の文言も
この『夢中問答集』の国師の説法からのもので
上記のような意義が込められていたと見て間違いない、と思われます。


直義って、本当に素直に夢窓国師の教えに従っていて
それは国師が極めて優れた指導者だったというのもあるけれど
やはり、心から夢窓国師を信頼し慕っていたんだなぁ… というのが
もうひしひしと伝わって来て
そういう意味でも『夢中問答集』は面白い訳ですがw しかし
『夢中問答集』が、直義の行動の "元ネタ探し" として楽しめるなら
逆に、直義の行動の "推測" に役立つ可能性がある… とも言える訳で
「こういう時、直義ならこうするこう考える)だろう」
といった考察の論拠を与えてくれるかも知れないので
そういう視線で読んでみる価値は、大いにあるかと思います。
(これらはもちろん、尊氏の場合にも当てはまる事ですが。)





ところで、上の問答の後半部分の意味というのは…

世の人々が仏法を尊び「天下太平・仏法紹隆」と祈ったならば
相応しい力地位のある者が仏法の守護者となり、それを実現してくれるだろう

…という事を言っているのですが
つまり、天下の政道を担っていた直義は実は
人々の願いを聞き届ける "仏法の守護者側" である訳です。


もちろん、夢窓国師もそのつもりで言ったのだろうし
直義自身も分かっていたはずで、実際、直義(と尊氏)は
天下に仏法を紹隆する為、国家事業として様々な政策を実行していますが
「天龍寺」の建立、全国「安国寺・利生塔」の設置、五山十刹の制定
 各種追善・供養の法要、『夢中問答集』の刊行などなどなど…)

それなのに、この「浄光明寺」の書状が示すように
一方で直義は、どこまでも一人の仏弟子として "祈る側" でもあり続けた訳です。


なんて謙虚な人なの (´;ω;`)www
…ともう感動を通り越して笑ってしまうレベルですが(君、祈り聞く側でしょ…)
「どんなに権力を持った王であっても
 自らもまたいち仏弟子として仏の道を求めてゆくべき」

というのはまあ、夢窓国師の教えの基本でもあって
これまた直義はきっちり教えを守っている…
という子供のように素直な話でもあるのですが
それにしても、実質天下の最高位という地位に立ちながら
決して傲慢や慢心に飲み込まれる事なく、これほど純粋な心でい続けられる人って…

やっぱり直義は尊氏とは別の意味で理解不能な極東の奇蹟…というかもう宇宙の奇蹟!!
直義宇宙規模でも人気出ておかしくない逸材!! とか言ってみる。


直義ファンクラブに入会しようと地道に修行を続ける直義、というのも
あながち妄想ではない…  ってまあいいか。




宇宙で直義☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆来るでこれ




さて、この「浄光明寺」直義自筆書状については
もう一つ指摘すべき点がありまして
この書状の日付が観応2年(1351)4月8日だという事です。


観応2年(1351)4月といえば
貞和5年(1349)閏6月に始まった『観応の擾乱』の序盤のクライマックスで
直義勢尊氏勢に大勝した2月の大合戦から程無い頃
一時期の内訌を乗り越えて、再び直義のもとで幕府が再スタート… といった時期ですが
(ただ、残念ながらこの平穏は5か月程で終わってしまいます)
この時期になぜ、直義が鎌倉「浄光明寺」
このような祈りを捧げたのかと言うと―――



ところで、これまで繰り返し予告していますように
『観応の擾乱』は従来思われていたような「政治方針の違いによる政争」ではなく
極端な話、全くと言っていい程違った顔の事件であります。

例えば…
高師直(こうのもろなお)が "尊氏派として行動していた" というのも実は違うし
直義と足利家の執事高師直が(擾乱以前から)長らく "政敵" だったというのも
直義の地位の実態を考えると、常識的に考えて有り得ない対立構造です。

執事直義では本来比べ物にならない… というかそもそも直義主君です。
 「部下主君の意に沿わない」という事はしばしば有ったでしょうが
 「"対等な敵" として派閥を作って対立する」なんて事は
 直義の地位を知っている幕府内部の人間からしたら
 「え、何それ???」となるでしょう
 外部の人間で、実態をよく知らなければ誤解したかも知れませんが。
 (幕府の風評被害を望んだ南朝重鎮北畠○房とか… おっと
  あの時は南朝方の結城親朝(←尊氏に勧誘され中)の気を引く為に
  なり振り構っていられなか… というか
  当時既に尊氏ヘッドハンティング完了済み
  あの情報操作は失敗に終わっているのですが。
  この話、詳しくはまた後日。)

 なお、(擾乱前の)当時の幕府は直義のもとに一つだったのであって
 尊氏のもとに(幻の幕府が)もう一つ有った、とかいう訳ではありません。)

では、地位的に高師直 "敵" となり得る者(たち)といえば…
もう少し言うと、この者達が敵意を向けられたのは
彼らこそ本当の意味での(いわば)"尊氏派" だったから―――
…おっと、今はここまで。



と、そんな訳で
従来の『観応の擾乱』観は、各人の立場思惑敵味方構造根本原因などなど…
諸々の齟齬が積み重なって大きな誤解を含む事になってしまった訳ですが
(やはり一番影響が大きいのは
 "高師直の思惑" に対する誤解かな〜と個人的には思います。
 それから(従来、共謀関係と思われていた)尊氏高師直目的・認識
 実は か な り 違います。 あの時、尊氏は何を考えていたのか?
 ここめちゃめちゃ重要ポイントです)

従って…
この観応2年(1351)4月8日を含む半年弱の幕府再興期についても
やはり多くの謎を残した状態で、特に…
「なぜ半年も経たずに擾乱が再燃したのか?(しかも一層残酷な戦禍を伴って)」
という疑問については未だ究明されていません。

(↑これは今の所「直義の失策」とか「尊氏と直義の不和」とか
 あるいは「(さしたる理由の無い)単なる幕府内の派閥争いの再発
 などの解釈が試みられていますが、実際は
 明確な故意によって引き起こされた内乱罪に該当する(全国規模の)事件
 です。 詳しくは後日。
 直義尊氏が悪いのではなくて良かったものの
 (それと直義方の武士たちも悪くないです)
 事実はかなりショッキングなものなので心の準備を… orz )



…という現状の為、今ここで全体像を解説するのは困難なので
とりあえず今日の所は、この時期の直義の様子についてだけ採り上げてみますと
一般には
擾乱を引き起こした高師直一派が誅伐された事で
(それまで一旦政務の座から退いていた)直義
政道再興意欲を持って取り組んでいた」
…という見方が主流かと思います。

(これは私も同意見です。
 ただし、直義はいつでも "天下の為の政道" を志していたのであって
 「(敵対勢力を排し)自派の者で幕府を固めた」との政局的な見方
 擾乱の実態に対する誤解があります。
 直義が廉直政道に私曲を交えなかったと伝える『難太平記』『梅松論』の記述や
 親疎偏頗を誡める夢窓国師の教えを、直義が忠実に守っていた事実にも反します。)


しかしこれとは全く逆に
2月の大合戦の直後に数え5歳(満4歳弱)の実の息子如意王を亡くした為に
「この時期の直義は全く無気力で政務にやる気を見せなかった」
という意見もかなり前からあるようですが…
うーん、やはりそれはちょっと(史料的には)無理があるかと。


この時期は追加法も出されているし
引付方のメンバーも戦功のあった者に入れ替えがあったり
("ある理由" で突然破談するまでは)南朝との和睦交渉も順調だったし
そもそも直義合戦の勝者
帰京後は尊氏を自邸に招いて懇切丁寧にもてなしてむっちゃご機嫌だったりと
むしろ極めて元気やる気に満ちているのです。
如意王に起きた事を考えると、不思議なくらいに… )

そしてさらに―――
実は上掲の「浄光明寺」仏舎利安置の書状
この事実を裏付ける証拠となってくれるのです。



なぜ直義がこの時期にこれを…という疑問は
この書状と "同日" に出されたもう一つの書状が答えを示してくれるのですが
直義はこの日、京都「臨川寺」(りんせんじ)の塔頭「三会院」(さんねいん)
亡き息子如意王の追善の為に、但馬国太田庄秦守の地を寄進しているのです。


 奉寄 臨川寺三会院
  但馬国太田庄内秦守事
 右為亡息如意王追善料所、々寄附之状如件

   観応二年卯月八日  慧源


(※出典…『大日本史料』観応2年4月8日『臨川寺重書案文』)


つまり、鎌倉「浄光明寺」慈恩院 "天下への祈り" を込めて仏舎利を安置したのは
実は、ひと月半ほど前に亡くなった如意王への "追善の一環" だったという事です。

(※直義の実の子如意王については…「正月奉納連画2016 第三弾」




臨済宗の寺院である京都「臨川寺」の塔頭「三会院」
夢窓国師が草創し、そして "終の住処"(ついのすみか)となった場所なのですが
建武政権が始まってすぐの元弘3年(1333)6月
後醍醐天皇(…の命を受けた尊氏の使者)によって
鎌倉から京都に招かれた夢窓疎石(この時59歳)は8月に「臨川寺」に住し
建武元年(1334)(or 2年?)10月には同寺の開山とされて
寺の北に「三会院」を草創します。
その後は、建武政権から北朝幕府への時代の変遷の中で
南禅寺天龍寺の住持を歴任し、尊氏直義光厳上皇の政道を支え
文字通り「国の師」として、激動に崩れかけた天下の再構築の為に残りの生涯を捧げ
そして如意王他界の7か月後となる観応2年(1351)9月30日
(直義による如意王追善の料所寄進からは5か月半ほど後)
数え切れない僧俗(僧侶と俗人)に見守られる中
ここ「三会院」にて示寂し、同所に埋葬されす。
以後、この「三会院」
夢窓国師の「滅後入定之御在所」(観応3年6月27日尊氏書状(案文))として
後世に至るまで、歴代足利将軍をはじめ人々の厚い崇敬を受けてゆく事になります。

(※現在の京都「臨川寺」本堂は、かつて「三会院」だった所だそうです。)




…という訳で
「臨川寺」三会院に(何かにつけて心を込める)あの直義
亡き息子如意王の追善の料所を寄進したというのはつまり…
まさに直義にとって
夢窓国師父の如き存在だったという事の証な訳ですよ!! (´;ω;`)ナニソレモウ!!!!!!


もうこれだけでも涙腺崩壊して仕方ないエピソードですが (´;ω;`)ゴオォォォーーーーー!!!!!
一方で鎌倉「浄光明寺」の書状の方は
如意王の事には全く触れずに「天下泰平、仏法紹隆」 "天下の為の祈り" に徹している…
一見、ちょっと(常人には)ちぐはぐな印象を感じずにはいられませんが
これはつまり―――
私的な悲しみの中にいてさえも、自分だけの救いを求めるのではなく
広く "天下の幸せ" を求める事で "自身の救い" とする

…という直義の特徴が良く表れた事例、と言えるでしょう。


直義にはこのような傾向がよく見られます。
 「個人的な願いを、天下への祈りに昇華してしまう」
 という、この "天性の菩薩気質" については
 以前「直義の年齢(その2)」の初め方でも言及しましたが
 これが「他の事例」の一つだったりします。
 上記の『夢中問答集』第9問の国師の答えそのままに
 直義は何事も無私の心天下万民の利益(りやく)を祈っているのです
 いつだって。)


晩年に授かった幼い一子を失って
本当は泣き崩れたいくらいの悲痛な胸の内だったろうに
自分の涙は押しとどめて、天下の未来のため歩き続ける道を選んだのです。
無気力どころか、こんなに強くて健気な人いるだろうか… というエピソードかと。

上で「(この時期の直義は)如意王の不幸の事を考えると不思議なほど元気…」
と言いましたが
それは、その悲しみが大きかったからこそ気丈に振舞っていたから、という訳です。
直義、なんて我慢強い子なの… (´;ω;`)




まだまだ続く☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆直義の祈り




ところで、この「臨川寺」三会院への料所寄進や「浄光明寺」慈恩院への仏舎利安置は
如意王四十九日(=4月15日)に臨んでの追善だったと考えられますが
しかし、4月8日では少々気が早いような…?
と思われるかも知れません。
しかし、これにももちろん理由があって
陰暦4月8日というのは他でもない、お釈迦様の誕生日なのです。

この日はどこの寺院でも釈迦牟尼の降誕を祝って
古くは「潅仏会」(かんぶつえ)(※現在では「花まつり」とも)
と呼ばれる法会が行われる、仏教においては極めて大切な日であり
それ故、ちょっと早いけど直義はあえてこの日を選んで祈りを捧げたのです。
きっと、仏菩薩の慈悲一切衆生に遍(あまね)く行き渡るようにとの願いを
如意王の追善に重ねて祈っていたのでしょう。



直義というのは、日付とか由緒とかそいういう小さな関連
とても大切にして、いつもきちんと心を込める傾向があります。
何というか、絶対記念日忘れないタイプ…というか
花を贈る時は花言葉まできっちり考えるタイプw
一つ一つの行動がとても誠実繊細
本当に根っから優しい人なんだな〜と、何度でも感心してしまいます。


良い話だなぁ〜〜 (´;ω;`)
(というか、こんなに可愛くていいんだろうか直義45歳
…と、ここで終わっても十分にハートフルな心温まる話なのですが
しかし―――
この4月8日という日に書状を認(したた)めた直義の心にあったのは
釈迦の降誕への善縁を…」という普遍的な祈りだけではなく
"とある7年前の記憶" が甦っていただろうと思われるのです。


康永3年(1344)4月8日
実は直義は、この年の釈迦牟尼降誕の日にも
今回と似たような事をしていたのです。


足利直義自筆書状「浄光明寺」

(※足利直義仏舎利寄進状
 【鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 史料編 第1』(吉川弘文館)1972
  (初版1958)】…の巻頭より引用)


これは、直義が鎌倉「浄光明寺」玉泉院
仏舎利一粒を「常住の本尊」として奉納した時の自筆の書状で
三宝(仏、法、僧)が再び隆盛して、正しい仏法が末世を覆し
 絶える事ないその恩恵で
 郡萌菩提の道(悟りの境地)に導かれる事(=一切衆生の済度)を願って…」
との奉納の旨趣が述べられています。




つまり、如意王追善の為の書状を四十九日には少し早い4月8日付けとしたのは
7年前の康永3年(1344)の仏舎利奉納に合わせる為でもあって
観応2年(1351)の直義は間違いなく
"あの時の心" を思い出していただろうと考えられるのです。
…というより
7年前と同じ事をする為に、如意王追善を4月8日に合わせて
鎌倉「浄光明寺」(今度は慈恩院)に仏舎利を奉納したのであって
それは "あの時と同じ心" を誓う為だったのではないかと。



私は以前から時々「康永三年の謎」というキーワードを使っていますが
幕府創設から8年目に当たるこの年は
直義の地位や立場、環境に大きな飛躍があった年で
幕府の訴訟機関である引付方の改編三方内談方の新設
従三位に昇進して公卿に列した事、下文や裁許状の署判の変化
その他、文化面でも気になる出来事が目白押しの年で(それから尊氏の周辺でも…)
「なぜこの年に、様々な変化が集中しているのか?」
という謎に迫る為に、色々と解説しなければならない事があるのですが
とりあえず、この康永3年という年の直義の心境は
「これからきっと、世界は素晴らしい未来に向かっていく」という
新しい希望目標に満ちていたと思われ
4月8日に「浄光明寺」玉泉院に仏舎利を奉納して天下の明日を祈ったのも
大きな区切りとなったこの年の、直義の "始まりの決意"
形として記しておく為に思い立ったのだと考えて間違いないでしょう。


そして観応2年(1351)4月8日
直義は再び7年前と同じ祈りを捧げます。
その胸にはきっと、強い思いが込められていたはずなのです。

あの時、直義は再び未来に目標を見据え、夜半の日頭を探し続ける事を誓った。
実子を失った悲しみで政務に背を向けるのではなく
政務を全うし天下の為に尽くす事で、幼くして消えた命への手向けとする
それは、これ以上無いほど "直義らしい" 考え方なのではないかと。



ところで、鎌倉「浄光明寺」
以前「室町絵師ランキング(第1位)」で言及したように
直義の念持仏である「地蔵菩薩立像」(通称、矢拾い地蔵が伝わる真言宗の寺院ですが
当時は浄土・華厳・真言・律宗 "四宗兼学" の道場であり
これら四宗の勧学院(慈恩院、華蔵院、玉泉院、東南院)を建立する計画に対し
直義の援助があったといい
直義はこの寺院に個人的にとても心を傾けていたようです。

禅宗(臨済宗)ではないのに… と思うと、一見ちょっと不思議な気もしますが
その理由の一つはおそらく
(むしろ)「浄光明寺」四宗兼学だった事にあるのではないかと私は考えています。
…というのも、『夢中問答集』第10問の夢窓国師の答え
このような言葉があるからです。(ちなみに、夢窓国師自身は臨済宗の僧)
(↓以下、訳文)


 普通の人々ならば、前世の縁によってどれでも一つの宗を信じれば
 自身の悟りの為にはそれで足りるが
 (しかしそれでは仏法を広める事は出来ない、だから)
 外護者となって、広く天下に仏法を紹隆する使命を負った(王たる)立場にある者は
 一宗のみを信じてを捨てるような事があってはなりません。
 (そのような天命を受けて生まれたあなたは)
 まず、国家に仏法を護持するという大願を発し
 外(=行動)では大小の寺院を興隆し、内(=心)では真実の道心に安住し
 諸宗を広め、普(あまねく)く善縁を結び
 万人を導いてみな同じく悟りを証せるよう、深くお誓いなさい。


…つまり、四宗兼学の鎌倉「浄光明寺」
夢窓国師への(そして天下への)直義の誓いにぴったりな寺院だった
という訳です。

康永3年(1344)の方の奉納状には
 「この玉泉院は、古徳の玄風を伝授し天台の奥旨を談論する浄場なので…」
 と、仏舎利奉納の理由を述べています。
 それから観応2年(1351)の方では「天下泰平、仏法紹隆」と並べて
 「寺院安全」と記し、「浄光明寺」そのものの安泰も祈っています。)


直義は、尊氏とそして光厳上皇と共に
国家的な規模で仏法に捧げた祈りが多い(目立つ)と言えると思いますが
この「浄光明寺」への場合はわりと個人的なもの
 「自分への約束としての天下への誓い
という感じのものだったかと。

(人の見えない所でこんな純粋な誓いをする人って… 直義はほんと、裏が無さ過ぎるw )

「何かにつけて善縁を結ぶ」というのもまさに直義
また何たる素直… ってゆう話 (´;ω;`)



ただ… この二通の自筆書状を比べると
やはり観応2年(1351)の方がいささか寂しさを感じさせるので
実際は相当無理して元気に振舞っていたんだろうな… と思われる訳ですが
それでも… いや、だからこそ
泣いてばかりいないで、もう一度あの時の心を思い出して前を向く事を
如意王に誓ったのでしょう。


それなのに―――
直義の思いは、残酷な形で再燃した擾乱によって
絶ち切られてしまう事になります。
『観応の擾乱』が、天下にとってどれほど痛ましい出来事だったかは
絶たれた祈りの大きさを知ってしまうと、やり切れないものがあります。


許されるのなら、途切れた直義の祈りが再び始まる日が来る事を
私は天に祈りたい…




空飛ぶ☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ブーーン将軍




という訳で以上
直義の祈りについて、推測材料となりそうな史実を紹介してみました。

尊氏が必死でチラ見する直義の短冊には、こんな感じの願い事が書かれて…
…いたとしたら、あほな事書こうとしているクール仮面将軍
益々恥ずかしい事になってしまう…  (; −`д−´)う、うおう…

しかし私は
案外直義尊氏と似た様な事を書いたんじゃないかな〜 と思っていますw
というのも、どうも直義
天下兄貴の区別があまりついていなかったんじゃないか??…とか思うのだが
まあいいか。


でも、もし直義も同じ願い事だったら
嬉しさ100倍で本当に空飛べちゃいそうですね
"あの時" みたいに―――




さて、新暦の7月7日は今日一日で終わってしまいますが
去年と同様に、室町ファンにとっては当時の慣習に倣い旧暦の7月7日七夕本番です。
今年の旧暦7月7日は新暦8月9日なので
まだまだ一ヶ月七夕気分をお楽しみ下さい。

一ヶ月もあっても暇なんだけど… という方は
冒頭の画像からデネブアルタイルベガを探して
「夏の大三角」を作って暇つぶししてて下さい。

ヒント↓

   ベガ☆(織姫)

デネブ☆     ☆アルタイル(彦星)




今年も無事に、織姫彦星が会えますように。



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posted by 本サイト管理人 at 02:30| Comment(2) | ★チラ裏観応日記

2016年06月19日

故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、突然ですが今日は
去年の9月の記事「十五夜、秋の心」で紹介した直義関連の漢詩について
先日コメントを頂いて(↑この記事のコメント欄です)
すっかり気分が再燃して居ても立ってもいられなくなってしまったので
続きの話をしたいと思います。



それでは、まずは詩の概要から。

この漢詩は、三首の七言絶句で構成された「三部作」であり
以前紹介した其の一「春月催泪」の後に、二首の続きがあります。
作者は禅僧の義堂周信(ぎどうしゅうしん)
鎌倉殿(=鎌倉公方)の足利基氏(※尊氏の実子で直義の養子)の願いを受けて
基氏の叔父で養父の直義に捧げる為に詠まれた漢詩」
というものです。


義堂周信夢窓国師の高名な弟子の一人で
鎌倉においては基氏の帰依を受け
基氏亡き後は、幼い嫡男(※当時9歳)の2代目鎌倉公方足利氏満
教育面での指南役として、主君たるに相応しい薫陶を施し
そして京都では3代目足利義満にも重用され
私心の無い公正な人柄で、東西の足利将軍を教え導きました。

鎌倉滞在中の義堂周信
上杉能憲(※上杉憲顕の実子で、上杉重能(憲顕従兄弟)の養子)
上杉朝房・朝宗兄弟(※上杉憲藤(憲顕の弟)の子)などとも親交が深く
 (…以上、みな関東管領
彼らの交遊からは、上杉一族信仰心の高さや
「慈悲」を以て「君をたすけ、民を救う」政道を求める誠実な姿勢が見て取れますが
(『大日本史料』応安7年12月23日『空華日用工夫略集』)
これらの中でもやはり
初代鎌倉公方足利基氏義堂周信との関係は、特別印象深いものがあります。



基氏は暦応3年(1340)生まれ、 貞治6年(1367)4月26日卒(28歳)で
義堂周信は正中2年(1325)閏正月16日生まれ
嘉慶2年(1388)4月4日示寂(64歳)なので、基氏の15歳年上
そして義堂周信は、延文4年(1359)8月〜康暦2年(1380)3月3日までの
約20年間を鎌倉で過ごす事になるので
(※延文4年は尊氏が京都で他界した年の翌年
二人が親交を結んだのは
基氏は数え20〜28歳、義堂周信は35歳〜43歳の時期となります。

(ただし、基氏は康安2年=貞治元年(1362)冬頃までは
 武蔵国入間川に在陣していて(↓少し後述)
 その頃から既に交流はありますが
 鎌倉に帰って来たのは基氏23〜24歳の時です。)


鎌倉での義堂周信の周辺の人々(武家)についての概要は
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
…の、第一章「足利基氏」、第二章「足利氏満」

が読み易くてお勧めです。
(↑一般向けの書籍ですが
 多くの一次史料を基に話が進められているので情報源としても有用で
 それぞれの人物の心情を想起させてくれる史料が豊富なので
 時代の流れイメージが非常に掴み易いです。
 こういうタイプの歴史概説書ほんと読んでて楽しい参考になります。)


で、この本より、基氏義堂周信の関係を一部引用しますと…

「関東に下ってからというもの、基氏とは地位など外的なものを忘れて、
 仲間のごとく心で交わってきた、と義堂は日記に記している。」
(※p.59より引用)


…という、めっちゃハートフルな関係だったってゆう (´;ω;`)


義堂周信の日記は『空華日用工夫略集』といい
この引用部分に該当する貞治5年(1366)6月1日条の一部を
【蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集』(思文閣出版)1982】
…より紹介しますと

「(仏法を甚だ重んじる基氏と)遊従すること朝夕、互いに形体を忘る。」

"形体" は、地位などの外形的なものの事。
"遊" は交遊の事。
鎌倉殿である基氏は本来主君の立場であり、地位的には歴然の差がある訳ですが
そんな事は忘れて義堂周信友人のように親しみ、心を交わしたと。

さらに、応安8年(1375)2月7日の事(※基氏他界8年後)
義堂周信が、数え17歳となった2代目鎌倉公方足利氏満(※基氏の嫡男)に
「今年になって文談を聴いたか」と尋ねた所
まだだと答えた氏満に対して語り聞かせた話として…

「ありし日の先君(=基氏)は、毎日のように仏門儒学賢人達を招き
 暇な日が無いほどを談じを講じた為、幕下には優れた人物が集まった。
 いま(=氏満)が先君であるに倣ったなら、きっと天下に帰すでしょう」

そう諭された氏満は素直に了承したそうな。

(※参照、【田辺久子『関東公方足利氏四代』】…の p.80
 【蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集』】…の 応安8年2月7日)




このような基氏の振る舞いは
直義が日々禅僧達を招いて談話し、仏書を講じていた事と
よく通じるものがあると思います。
康永2年(1343)正月16日、直義は自邸に
禅僧の虎関師錬雪村友梅太陽義冲を招いて齋(さい。僧の食事)を供し
その時、本棚から仏書を取り出して
その中の「弥勒下生経」虎関師錬に講じるよう請い
直義はそれをかしこまって聴き感歎したそうで(『海蔵和尚紀年録』)
さらにその帰り際、雪村友梅侍者が見えず
履物を用意する者がなくて一人佇んでいると
なんと、それを見た直義が自ら履物を取って雪村友梅に進めたという…
直義は当時、天下の政道を担う実質最高位の人ですから
どんだけ謙虚なんだよwww ってゆう有り得ない美談な訳ですが
もちろん当時も、この話は盛大に話題になったそうな。(『雪村大和尚行道記』)

(※参照…
 【辻善之助『日本仏教史 第四巻 中世篇之三』(岩波書店)初版1949】
 【堀川貴司『詩のかたち・詩のこころ ―中世日本漢文学研究―』(若草書房)2006】
 …の、第八章「足利直義 ―政治・信仰・文学―」(1992))



…というくらい、禅僧達と身分を超えて交際し
時に自らの立場も忘れ一人の人間として、純粋に智者を敬い尊重していた直義ですが
幼い頃の基氏は、そんな養父直義の姿を良く見ていたのではないかと。




今もそこに☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆直義の思い出




…以上概略ですが、基氏義堂周信の親密な関係が伝わったかと思います。
こんな風に心を通わせていた二人ですので
義堂周信作のこの三部作は、単に美辞麗句を並べた形だけの追悼詩歌ではなく
基氏の心境をありのままに、誰よりも深く、そしてかなり正確具体的に伝えている
…という事を踏まえると
一層その真髄を感じられるかと思います。



ではではようやく、基氏直義に捧げた三部作の紹介です。

(※「原文」の出典は…
 【上村観光編『五山文学全集 第二巻』(思文閣出版)1973】
 …の「空華集」より。
 テキストでは、旧字体を適宜新字体に改めてあります。)



まずはテキスト


(原文)

奉左武衛命三詠詩同故令叔大休寺殿

 其一 春月催泪
明月傷神本在秋 不知春夜有何愁 勧君収取雙雙泪 且向花前酌一甌

 其二 対花懐昔
紛紛世事乱如麻 旧恨新愁只自嗟 春夢醒来人不見 暮檐雨瀉紫荊花

 其三 因衣哀傷
早知夢幻本非真 何必区区更湿巾 尚有愛賢心未忘 緇衣篇裡憶斯人



(訓読文)

左武衛の命を奉り、三詠の詩を故令叔大休寺殿に同す

 其の一 春月、泪(なみだ)を催す
明月に神を傷(いた)むるは、本より秋に在り
知らず、春夜に何の愁か有る
君に勧む、雙雙の泪を収取して
且(しばら)く花前に向かいて一甌を酌む

 其の二 花に対して昔を懐(おも)う
紛紛たる世事、乱れて麻の如し
旧恨新愁、只自ら嗟(なげ)く
春夢醒め来て、人見えず
暮檐(ぼえん)の雨は紫荊花(しけいか)に瀉(そそ)ぐ

 其の三 衣に因る哀傷
早知る、夢幻本より真に非ずを
何ぞ必しも区区として更に巾を湿(しめ)ん
尚、賢を愛する心有りて未だ忘れず
緇衣(しえ)篇の裡(うち)に斯(こ)の人を憶(おも)う


(※訓読文はやや適当です。すみませんw
 詳しくは下の画像を御参照下さい。
 ほんの一部、返り点・送り仮名を変更しています。)




次に原典より、画像もどうぞ。


義堂周信三部作、足利直義・基氏

(【上村観光編『五山文学全集 第二巻』(思文閣出版)1973】
 …の、p.1366より引用)



さらに「三部作」部分の拡大を。


義堂周信三部作、足利直義・基氏

(※引用元同上)



それでは以下、詩の解説と私による意訳を展開致します。
まず、三部作全体題名ですが…
上の「訓読文」は原典通りに読み下したものなのですが、これはむしろ…

「左武衛の命により三詠の詩を同し、故令叔大休寺殿に奉る」

のが意味が通じるような気が…(まあいいか)
どっちにしろ趣旨はこんな感じかと思われます↓


左武衛(=基氏)の命を受けて、三詠の詩を今は亡き令叔大休寺殿に捧ぐ

(※「令叔」(れいしゅく)は他人の叔父の敬称。(令嬢とか令息と同じ)
 「大休寺殿」はもちろん、直義の事です。
 「同」というのは、この三詠の詩が三首で一作品である事を言っているのかと。)




基氏は、延文4年(1359)正月26日に左兵衛督(=左武衛に任官し
貞治6年(1367)4月26日に他界するので
その間の作という事になりますが
義堂周信が京都から鎌倉に下向したのが延文4年(1359)8月なので
この三部作が詠まれたのはひとまず…

 延文4年(1359)8月以降、貞治6年(1367)4月26日以前

…のいつか、という事になります。


"左兵衛督" は、直義が政務を執っていた時代の大半を過ごした官途で
 直義と言えばイコール左兵衛督( or 武衛左武衛というくらい
 今はもちろん、当時も代名詞的になっていたと思われる訳ですが
 基氏「武家申請」(=京都の2代目足利義詮の、朝廷への推挙)によって
 この官に任官したのは… (『大日本史料』延文4年正月26日)
 (こういうのは先例の影響が大きいとはいえ)
 直義を偲んで自ら望んだんだろうなぁ…とは
 誰しも思うところだと思われます、はい。)



基氏は他のエピソードからも
幼い頃からとして接していた直義を、心から慕っていた事が知られ
生涯、いつの日も直義を想い続けていただろうとは思われますが
とは言え、これだけの秀作(内容的には最高傑作)となると
この三部作は
 「 "特別な日のため" に詠まれたものなのではないか?」
と思われる訳で
おそらくそれは、貞治3年(1364)2月26日直義十三回忌であり
この時に捧げられた詩だと見て間違いないんじゃないかと思います。

(この年は京都でも「等持寺」直義の法会が営まれています。
 (『大日本史料』貞治3年2月26日)
 それから、鎌倉では前年3月以降、秋冬までには
 上杉憲顕関東管領として復帰していて
 改めて直義を心から悼む事が出来た色んな意味で区切りの年
 だったように思います。)


…とすると
まだ元服前の13歳の光王が、養父に永遠の別れを告げてから12年
基氏25歳の時の「令叔直義に寄せる想い」という事になります。

もうこの題名だけで泣けてくる… (´;ω;`)



ちなみに、基氏は文和2年(1353)7月28日に鎌倉を立ち(←尊氏の指示で)
9年間ほど武蔵国入間川に在陣して
康安2年=貞治元年(1362)冬頃には鎌倉に戻っている事
それと、義堂周信は貞治2年(1363)10月に一度上洛しますが
翌貞治3年(1364)3月8日には
鎌倉「瑞泉寺」基氏と共に花を観て詩を詠じているので
2月26日には既に鎌倉に帰っていたのは確実…
…という事で
この詩が詠まれた場所は間違いなく12年前と同じ "鎌倉の地"
というのもまた気になるポイントであります。




それではいよいよ本文の解説に参りますが
現代語訳というより、かなりの意訳になってたりもするので御了承下さい。


ではまず、其の一「春月催泪」について
これは以前紹介したので、それを引用しますと…


 春の月に涙する

 明月を見上げて神を思う季節は、もとよりであるのに
 春の夜に、なぜ月に愁いているのか
 その両目の涙が止むように
 (=義堂周信)は(=基氏)に、花前の盃を勧める



この詩が詠まれたのが "春" という事で
やはり直義の命日の2月26日頃の作と見て良さそうです。
(※旧暦の春は、1・2・3月。)
本来、を見上げて物思いに耽る季節はですが
なぜか春の月に愁えそして涙する基氏に、義堂周信が慰めようと盃を勧める
という情景です。
(※「雙雙(双双)の泪」は、両目いっぱいの涙 …の意味、たぶんw )
義堂周信には見えないが(という設定だが)
基氏は独り、春の月の中に
12年前のこの時期に亡くなった直義の面影を見ていたのです。
(どうやら、目の前にも咲いているようですが…)




さて、其の二「対花懐昔」は…


 を懐(おも)う

 世の中が麻の如く乱れに乱れ(その戦乱の中であの人は亡くなった)
 その当時の悲しみと、今もまた新たに生まれる悲しみに、ただ独り嘆き続ける
 ふと春の夢が醒めて、あの人は見えなくなってしまった
 ただ夕暮れの檐(のき)の雨が、紫荊(しけい)の花に降り注いでいる



直義が世を去った『観応の擾乱』の頃の事を思い出しているようです。
幼い基氏(光王)にとって、最愛の養父を奪ったあの擾乱は
永遠に拭い去れない深い傷をその心に残したのでしょう。
(※「旧恨」の "恨" は、ここでは憎しみではなく、悲しみ嘆きの意味です。)

どんなに深い悲しみも、大抵はが癒してくれると言うのに
12年経った今もまだ新たな悲しみが生まれ続けてるって… (´;ω;`)
私はこの詩を見るたび、基氏が抱えていた痛みに呆然としてしまいます。

直義の死をこんなにも悲しみ続けていた人がいたんだ…という事実は
 直義ファンにとってはこの上ない慰めでもあるけれど
 やっぱりつらい… (´;ω;`) )



さて、その続きの第三句と第四句ですが…
春の夢が醒めて夕暮れ…?
さっきまで、晴れた夜空を見ていたはずでは??
と思われるでしょうが、これはつまり…つまり…
先ほどの其の一の詩は、「春の夢」だったという事です。


 (;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


(…といっても白昼夢(という設定))の中で基氏
夜空を見上げて、直義を想っていたのですが
実際は外はまだ夕暮れで、しかもが降っていて当然など見えません。
"花前の盃" というのは基氏現実の世界に引き戻す切っ掛けとなるアイテムで
は夢側、は現実側の象徴です。
義堂周信に盃を勧められて、はたと夢から醒めた基氏
現実にはが出ていない事を知り
同時に月に見ていた直義(=あの人)は居なくなり(幻だったという事)
そして、目前の雨に濡れる花(=現実)に気付くのです。

さっきまで目の前に居た直義はだった…なんて (´;ω;`)

紫荊の花に注ぐ雨の無常さに、胸が張り裂けそうな瞬間です。



(この辺の事はもちろん、実際のエピソードを詩に構成し直した
 「…という設定」の話ではありますが
 (逆に言うと、でありながらほぼ実話…という点は重要です)
 そうすると、(事情を知っているだろう)義堂周信
 「なぜ春の月に」と(わざと?)不思議がって見せている事から
 この月にも、何かしら現実的根拠が有りそうですが… )





ところで、「紫荊」(しけい)というのは「花蘇芳」(はなずおう)の事で
これは新暦の4〜5月前後に開花する大陸原産のマメ科の落葉低木
紅紫色(=蘇芳色)の小さな花を枝いっぱいに密集して咲かせます。
ちょっとこぢんまりしたものですが、参考までに↓
(「ハナズオウ」で画像検索した方が良い写真いっぱいあります
 もっと満開に咲く花です。)



紫荊花


(ただ、「花蘇芳」は江戸時代初期の文献で名前が見える事から
 その頃渡来したとされているようで(でも詳細は不明?)
 しかも「紫荊」で画像検索すると出て来る「洋紫荊」や「艶紫荊」は
 またちょっと違う花なので
 室町初期の「紫荊花」も少し違う品種なんだろうか…
 とか思うけど、おそらくは 
 江戸時代に改めて再輸入され
 その時「花蘇芳」という名で広く知られるようになった、ってだけで
 それ以前に細々と渡来していた可能性が高いかと思います。
 特に鎌倉時代後期は、大陸からの禅僧の渡来が最も盛んな時期で
 禅宗を手厚く保護した執権北条一族が治める鎌倉の地には
 様々な物がもたらされていただろうと思われるので。)



で、この義堂周信作の其の二「対花懐昔」の詩については
これだけ単独で(其の一、三直義基氏などの背景無しに)解釈したものを
ネット上でいくつか見かけることが出来
(↑コメントで教えて頂きました m(_ _)m )
それらのうち、この「紫荊花」を故事に準えて解釈しているものがあって
うーん、そんな故事があったんだぁ… と参考になったのですが
漢籍の『続斉諧記』によるその故事というのは―――
昔、ある三兄弟が亡き父の財産を三等分しようと
家の前の紫荊の樹も三つに切り分けようとした途端、たちまち樹は枯れてしまった。
これを見て驚いた兄弟達は
無理に分けようとした事を恥じて反省し、樹を切るのを止めた所
また元のように元気に繁って花をつけたので
その後は、その他の財産も分けるのを止めて三人で共有して仲良く暮らし
親孝行の兄弟として讃えられるようになったそうな。

この事から「紫荊花」
兄弟が財産を共有して仲良く暮らすこと」を褒めた言葉となったそうで
この意味を踏まえれば
其の二「対花懐昔」 "紫荊花"
尊氏直義兄弟の "思い出" の象徴としての架空の花、とも考えられそうですが
(幼少期を京都で過ごした基氏は、尊氏直義の仲が良かった事を
 良く知っていたと思われるので)
(※ちなみにネット上で見られる解釈は、まただいぶ違った解釈でした)

ただ、この三部作全体を "通して" 意味を考えると
ここでの紫荊花は、あくまで実際に目の前に咲いていた現実の花であって
おそらく12年前も同じ様に咲いていただろう…
という気がします。
(旧暦2月26日過ぎなら、そろそろ開花時期なので。)




という訳で、其の三「因衣哀傷」の解説を先に…


 の中の哀傷

 それが夢幻(ゆめまぼろし)である事も
 取るに足らない小さな幻に、これ以上涙する事が馬鹿げている事も
 分かっているはずなのに、それでも―――
 賢く誠実だったあの人を愛してしまう、どうしても忘れられない
 墨染めの衣の中に、今もあなたを想い続けている



第一句と第二句は
(始め、義堂周信基氏に諭している設定かなぁ…とも思ったのですが)
基氏自問自答している場面かと思われます。
もうあの人は居ないのに
夢幻の中の面影を追っては、悲しみに打ちひしがれる自分の愚かさに
分かってはいるけど…でも…
と堂々巡りを繰り返す、抜け出せない苦しさが伝わって来ます。

(※「何ぞ必ずしも」は、どうして…する必要があるだろうか、という意味。
 「区区」(くく)は、取るに足らないつまらぬ事、小さな事、の意味。)



さて、第三句と第四句はさらに自信無いのですが
思い切って私の想像を述べてみますと
もしかして基氏
亡くなった時の直義の法衣を大事に保管し続けていたのではないか?
と思うのですが…


(※「賢」は、賢者・賢人の意味で直義の事を指しているのかと。
 (↑やや自信無し。でも第四句に「斯(こ)の人」とあるので
  「賢」=「斯人」= 直義 と解してみました。)
 「緇衣」(しえ)は墨染めの衣(黒く染めた僧衣)の事。
 「篇」(=ひとまとまりの詩歌・文章、ひと綴りになった書物)
 がよく分からないのですが…
 元の意味が「竹簡を綴り合わせたもの」だから
 "緇衣篇" = "繋ぎ重なった布としての緇衣" みたいな感じで
 物質としての意味を強調したものなのかなぁ… とエスパー妄想。)



12年も前に別れたあの人が忘れられなくて
法衣を抱きしめては、かつてそれを纏っていた亡き直義をその中に想い続けていた
…のだとしたら
なにそれもう!!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) ですよ!!!

しかも、題名によると "衣" の中に見出していたのは
懐かしさや淡い思い出ではなくて "哀傷" ですよ!
ああもうこれ以上は言葉にならない、解説不可能です!!
(…ただし、妄想し過ぎの誤訳だったらすみません)

それがたとえ夢幻であっても、想い続けずにはいられないほど
愛した人だったのでしょう。
直義がかつて袖を通していた衣… なんて
そりゃあ何度抱きしめても涙が溢れてしまうよね…




今は冷たい☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆墨染めの衣




さて、とりあえず三部作の解説が終わりましたが
三首が巧妙につながって素晴らしい物語を構成している、という
すごい傑作だと思います。
というか最高傑作だと思う!!(独断ですが)

二首目の予想外な展開といい
一首目からして悲しいと言うのに、三首目はそれを遥かに上回る悲しさで完結する
…というマジカルな完成度といい
しかも、慰める術(すべ)のない残酷なまでの現実の悲しみ
物語のように美しく綴る事で、不可能かと思われた救いを与えている。
詩とは本来 "人の心のため" にあるんだなぁ… と再認識させてくれる
詩歌の中の詩歌! だから最高傑作!!
(この詩を見た時、基氏の痛みはどれほど癒されただろう… )

この三部作に込められた想い
基氏が、もう二度と会えない直義に伝えたい "すべて" だったろうと思われますが
それを三首の七言絶句に余す事なく詠み込んだ義堂周信の技量は
素晴らしいの一言に尽きます。
652年経った今読んでも
心情情景も生き生きと甦って、溢れる泉のように広がっていく…
詩に閉じ込められた想いが今も生きている、そんな印象です。


(散々分かったような事言ってしまいましたが
 私、漢詩の知識とか全然ありません、すみませんw
 でもすごくすごく良い詩だと思う、ただそれだけ。)




まあ私の感想文はいい加減にして、もう少し全体の分析を進めてみますと…
三首(の題名)を通して見ると
それぞれ「月」「花」「衣」がキーワードとなっていて
其の一の「月」も其の三の「衣」も、その中に "直義の思い出を見ている"
…という共通項を考えると
やはり其の二の「花」も(故事としての紫荊花(=兄弟仲)ではなくて)
そこに "直義を見出している" のではないかと思われます。


で、「衣」が実際に直義が着ていたものだとすると
「月」「花」現実的根拠のあるアイテムなのでは?と思われる訳で
私の予想では
観応3年(1352)正月、直義尊氏と共に鎌倉に入ってから
突然に世を去る2月26日までの間に
当時13歳だった光王(=基氏)は、直義と一緒に月を見た夜があって
直義が亡くなった頃の「浄妙寺」「大休寺」(あるいは足利邸)では
紫荊の樹がいっぱいに花を咲かせていたのではないかと。


其の一で基氏が見ていた「春の月」は、夢の中の存在である事から
生前の直義との "淡い思い出" を象徴していると思われる事
それから、秋の月(=中秋の名月)と対比されている事から
おそらくそれは、満月に近い月だったと思われ
そうすると、1月か2月… たぶん2月15日辺りの月だったのではないか?
…とかエスパーしますと
それって、亡くなるほんの10日ほど前ですよ (´;ω;`)
きっと来(きた)る2月25日の元服式を前にして
大好きな養父直義と一緒に、ただただ楽しい夜を過ごしていたのではないかな
その先に、どんな悲しみが待っているとも知らずに―――


(ちなみにこの頃、直義基氏に色々言い聞かせてたっぽい気配があります。
 そして基氏は、生涯その言い付けを守ったらしい… (´;ω;`)
 それから、鎌倉入り後の直義は『太平記』で悲惨な感じに描かれているせいか
 「尊氏に幽閉されていた」と思われているようですが
 そんな罪人のような扱いを受けていたとは考えられません。
 (↑色んな事情を勘案すると)
 まあ "建前上" 監視は付けておいたでしょうが
 過保護な尊氏の事ですから
 "実質" は直義の身の回りの安全確保情報収集の為のエージェント
 と言ったところだったかと。)



それから其の二の「紫荊花」
題名が「に対してを懐(おも)う」となっている事からも
この詩が詠まれた当時12年前とで同じ様に目の前に実在していて
(涙のような)が降り注いでいる、という描写である事から
直義の "悲しい思い出" を表しているように思います。
あの日の悲歎が、美しい花と共に基氏の胸に焼き付いていたのだろうか…
とか妄想して凹む (´;ω;`)




という訳で、三部作を全体として解釈すると…

 「月」「花」「衣」も、12年前のそれと同じ

…という事実に突き当たり
其の二で「旧恨新愁」と言っている様に
"旧"(=直義が亡くなった当時) "新"(=この詩が詠まれた今)を対比し
その悲しみが「等価である」というのが
この三部作のメインテーマなのではないか、というのが私の結論です。

上で、詩が詠まれたのは "鎌倉の地" と敢えて言ったのは
この「月」と「花」の分析からも
12年前の昔とが "同じ" である事が導かれるからです。


季節が巡るたびにに涙する基氏の悲しみを
義堂周信はよく理解していたのでしょう。
ただ、それを隣で見ているのはどれほどつらかっただろう…と思います。
こんなに愛すべき人が、こんなにも愛された人
どうして一番大事な人である直義が、逝かなければならなかったん (´;ω;`)
もうこの感想しか浮かんでこない… orz



『観応の擾乱』って一般には
 直義にも原因の一端(悪い所)があった、とか
 先制攻撃は直義から、とすら思われていますが
 実際の事件の真相は… 直義全然悪くないんですよ、本当に。
 (政治方針の対立による政敵の排除、とも思われていますが実はこれ
  事件を起こす為にでっち上げられた罠だった、ってゆう)

 しかも…あんな酷い目に遭ったのに、最期は誰も憎んでいなかった
 と思われるのですよ(←これは基氏の行動から推測される)
 だから猶更、悔しくて悲しくてもどかしくて、只ひたすら胸が痛い…
 のですが、ささやかな救いもまた無い訳では無いです、はい。)




直義…☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆戻って来て





という訳で、以上で私による「三部作」の解説は終わりですが
どっかしら間違っている可能性があるので
別意見がありましたら、是非是非ご意見お待ちしております m(_ _)m

私は漢詩に関しては完全に素人なので
これらの解釈も、電子辞書で一個一個分からない漢字を調べてひたすら試行錯誤…
という付け焼刃です。 本当にすみませんw

でも、この詩を初めて見た瞬間から、本当の意味が知りたくて知りたくて
自分なりに精一杯考察しました。
(その日のうちにすぐに調べて
 ひとまずだいたいの意味が分かった時は…泣きました。)



これが詠まれたのは春なので
直義の命日の2月26日近くの作である事は確かだと思いますが
そのについては、直義十三回忌の貞治3年(1364)ではなく
基氏が鎌倉に帰った翌年の貞治2年(1363)〜貞治6年(1367)のいつか
という可能性もゼロではないとは思います。
まあいずれにしても10年以上後の作となるので
悲しみの深さには変わりはありませんが
私としてはやはり、直義他界の12年後と考えています。
(別意見あったら、よろしくです m(_ _)m )

前年に帰って来てた上杉憲顕もこの三部作見たのかなぁ〜
…とか妄想し出すと止まりません。



ちなみにこの漢詩は
「空華集」(※義堂周信の作品集)をパラパラと見てて偶然見つけたのですが
全然予想してない所でいきなり「大休寺殿」とか出て来たからめっちゃびっくりした。
じゃあ「左武衛」って基氏の事じゃん!…え?え??
…ってプチ半狂乱しました。 マジで神仏に感謝したw
(ちなみに、もともと別の漢詩を探していたのだが
 そっちは見つけられなかった (´・ω・`) 神様… )



少なくとも有名どころの基氏関連南北朝関連の文献では
見かけた事は無いのですが(た…たぶん)
しかし遥か以前に翻刻されているものなので
どこかで誰かしらが(三部作として)解釈を施されている可能性はきっとあると思うので
広く目撃情報をお待ちしております。
(それとめちゃめちゃ違う解釈だったらマジ恥ずかしいww)


この素晴らしい詩が、完璧な解釈と共に
一人でも多くの人の心に届く事を願っています。



(※『バーボンMuromachi』関連記事↓
 「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」
 「足利基氏25歳」
 「観応3年、春の夢」 )




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posted by 本サイト管理人 at 02:07| Comment(4) | ★チラ裏観応日記

2016年04月29日

2016年GW企画 国宝『神護寺三像』

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
今年も生尊氏生直義を拝める季節がやって来ました。


京都『神護寺』所蔵(※京都国立博物館 寄託)の日本一有名な肖像画
伝平重盛像(尊氏)」伝源頼朝像(直義)」
毎年GW期間の5月1日〜5月5日に『神護寺』で一般公開される
…という話については
去年(=2015年)の記事「GW企画 国宝『神護寺三像』」をどうぞ。


というかそもそも
「伝平重盛像」が実は尊氏で、「伝源頼朝像」が実は直義
んでもってこの "対" の肖像画の秘密には―――
八幡大菩薩空海(弘法大師)がお互いを描いた肖像画
神護寺の伝説『互いの御影』が関わって来るんだよ!!
衆生を苦しみから救う瑞相という伝承を持つ『互いの御影』
遥か未来に至るまで天下と万民の幸せを願う祈りを重ねて
尊氏直義の肖像画が奉納されたんだよ!!
…という話については
上記ブログ記事に加え「室町絵師ランキング(第1位)」をどうぞ。



観たい! 是非観たい!!
と心が叫んでいますが、今年もやはり行く予定のない私は
脳内妄想スクリーンで、一人悶々と生尊氏生直義を鑑賞するのみ…
…とかやってるだけでは何か寂し過ぎるので
今年も本サイトのTOPページ「期間限定GW仕様」に変更して
なんちゃって「修法」を修し、健全に悶々としたいと思います。
(※修法(しゅほう・すほう)…密教の加持祈祷。)


何のお願いかって…
この「伝平重盛像」「伝源頼朝像」については
美術史方面からも歴史学方面からも実証的な研究が進んでいて
もはやほぼ尊氏直義で真相は間違いない
…という所まで明らかになっては来ているものの
ただ、どうしても
これまで源頼朝像として信じられて来た歴史
(…といっても、記録が残るのは江戸以降ですが)
を乗り越えるには、やはり時間が必要な訳でありまして
しかしこれが、純粋な真実であり
その真実を求める心に偽りが無いならば
必ずは応えてくれるだろう―――
…と思って去年からなむなむしてる、という話については
「かんのう日記予告」をどうぞ。



さて、今年の「修法」
GW期間の4月29日(金)〜5月8日(日)の10日間
初日の今日は「開白」(かいびゃく)ですので
脳内本尊様(←私の中では十一面観音菩薩
祈願の趣旨を述べたいと思います。

 「尊氏直義認定、よろしくお願いしまーす!!」

あくまで無私の心で、天下の為に祈るのがポイントです。
そしてこれから最終日の「結願」(けちがん)まで
毎朝自分のHPを開いては修法仕様のTOPページに向かって
なむなむ自画自拝するGWが始まるのであった… ちーん。

(相変わらず正月奉納絵の使い回しですみません。
 でもちょっと新緑っぽくしてみました
 いつもの高性能ブラシツールでw)



(※2016.5.9追記―――GW期間が終わりましたので
TOPページを元に戻しましたが
上の話が意味不明になってしまうので
この時の背景画像の縮小版を掲載しておきます。
尊氏直義
※左上のキャッチコピーなど文字部分を除く。(左:直義、右:尊氏))



無私の心で願念すれば☆:。*゚(`・ω・´)゚・*。☆は必ず応えてくれる
…って直義が言ってた





さて、康永4年(1345)4月23日に
京都『神護寺』に奉納された尊氏寿像直義寿像について
これまで明かされている事実に関しては
上記ブログ記事で主要な部分はだいたい解説しましたが
その先の事について…つまり
この "対" の肖像画に隠されたもう一つの真意については
私は以前、2015年5月19日のブログ記事
「室町絵師ランキング(第1位)」の後半で

「さらに深い、極めて具体的な目的(願い)が込められていた
 (しかもそれは清く純粋でかなり泣かせる話)」


と述べたのですが…

(↑ちなみにこれは
 尊氏にとっては直義と対である事 "だけ" が
 直義にとっては尊氏と対である事 "だけ" が意味を持つ
 という涙腺崩壊案件 (´;ω;`)
 こんな兄弟愛あっていいのだろうか… という話。)




なの で す が
記事をUPした約半年後(つまり去年の11月くらい)になって
この真相の奥に、さらにもっとショッキングな事実が秘められていた…
という事に気付きました。
当該部分に追記もしておいたのですが…
ラスボス倒して悦に浸ってたら
頭上から巨大なラスボスアルティメットが現れて
え、ちょ、もうMP残ってないよ!
エリクサーとか使い切っちゃったよ!!
どうすんの!これどうすんだよ!!状態です。


まあでも、事実なのなら仕方ない… 戦うしかありません。


ではその真相真相とは―――
という話を始めたいところではありますが
流石にラスボスラスボスだけあって
ここにたどり着くまでの道のりはめちゃむちゃ長かった…というか
その果てしない道のりの全過程を解説しないと、説明不可能な結果なので
現時点では手も足も出ません。 すまぬ、すまぬ… (´;ω;`)


一応、(その道のりの)具体的な要素だけ挙げてみますと…
有名な「宝積経要品」「清水寺の願文」
長門の『忌宮神社』に奉納した法楽和歌とか
尊氏の十一面観音のエピソードとか、尊氏画伯の事とか
というかこれまでの尊氏の言動のあれこれとか
「康永三年の謎」(←私が勝手に命名)とか
政務を譲った事、出家騒動尊氏邸引越しの事…

などなどなどなど
とにかく尊氏の人生のすべてを凝縮したような話で
これらあらゆる史実複雑に総合した結果として導かれる事実
…というエクストラハードモードの最難関迷宮でして
正直、私の慎ましいスペックな脳みそには無理ゲーもいいとこでした。
(未だにHP(ヒットポイント)全快してません。)


というか、本当はもっと早く
『観応の擾乱』の真相や「尊氏の秘密」の解明が大方完了した
去年の5〜6月の時点で気付くべき事だったのに
半年も後になって知るなんて… なんてあほなの
とやや絶望しますが、しかしそれだけ
尊氏の、つまりは太平記時代の真相って
一回の考察では決して解けない謎ばかりで
だけど何度も何度も史料を読み返し、考察を重ねに重ねてたどり着いた真実は
その苦労に見合って余りあるほどの夜半の日頭の如く美しい話だったりします。




取り敢えず今は、言える事だけ精一杯言っておきますと
この二人の肖像画は、奉納の趣旨を述べた「直義の願文」と共に
『神護寺』に納められたものであり
当時の天下政道を主導していたのが直義である事からも
肖像画 "制作" の指揮は直義が執っていた、と考えて間違いない訳ですが
そうすると普通に考えて
もともと肖像画の "提案" をしたのも直義だった
…とするのが妥当であり、私も当初はそう考えていたのですが
これがまた―――


実は、提案は尊氏でした。 Σ(゚Д゚;) マ・ジ・デ!?


しかも尊氏は、真の意図を隠して直義に提案したのです。
上の例えでいうと
尊氏は、ラスボスを理由として
「『夢中問答集』の夢窓国師の説法にある
 八幡大菩薩と空海の『互いの御影』に準(なぞら)えて
 『神護寺』に二人の寿像を奉納しようよ」

と提案し
これに大大大感激した直義がもうめっちゃ張り切って色々頑張った
という感じで
実はあの「宝積経要品」も、最初の切っ掛け(発端)は
これに関連するものだったと考えられます。
(つまりここまでは、直義の他にも知っていた公の話。)

(※ちなみに「宝積経要品」(ほうしゃくきょうようほん)は
 高野山金剛三昧院に奉納された写経&和歌の事。
 詳しくは後日また。)



このラスボスというのは
上述のように「涙腺崩壊の兄弟愛」…という温かい話で
また「宝積経要品」も、肖像画奉納時の「直義の願文」
共に広く天下への祈りが込められたものであり
これら "表の理由" 自体も決して建前ではなく
"本当の理由" の一端(というか大部分)である事に偽りは無いのですが
ただ尊氏
その表の理由(=ラスボス)の裏に
真の理由(=ラスボスアルティメット)を隠して
肖像画の制作を直義に提案したのでした。


つまり、あの肖像画の "真意" というのは
直義にとってのそれと
尊氏にとってのそれとでは
実は若干の違いがあるのです。 Σ(゚Д゚;) !!!!?????


直義尊氏の "両者" にとっての真意であるラスボスの方は
誰しも思わず涙してしまうだろうハートフルな話なのですが
尊氏 "だけ" にとっての真意であるラスボスアルティメットの方は…
こっちの方は…
いやあぁぁぁぁあぁぁぁあーーーーーっっっ!!!!!
と私が錯乱するレベルです。


まあ、見方によってはこれも "温かい話" というべきものなのですが
ラスボスが「涙腺崩壊の兄弟愛」なら
ラスボスアルティメットは… うーん…
上手い言葉が見つかりませんが
 「最愛の代償とは、絶望の事だったのか」
と悟った私が絶望しました orz


まあとにかく一つ言える事は
この二人の兄弟愛というのは…
他人の想像の及ぶようなもんじゃないですよ
(仲良しであって欲しいな〜とか思っていた私の希望すら
 桁違いで超えたものでした… )

たとえどんなに世が乱れ、天がに覆われ人の悪意が渦巻こうとも
二人の間に入れるものはこの世界に存在しない、と言ったところです。





あと最後に… この尊氏の真意
実は明らかになる日が来るはずだったのですが
結局隠されたまま終わる事になりました。
(それはもちろん良い事と言えますが。)
なので、直義は生涯それを知る事は無かったと思われますが
(てゆうか、もし知ったら直義気絶しちゃう… )
ただもしかしたら、しばらく経った後で尊氏
(この絶対誰にも言っちゃいけないレベルの秘密を)
足利高経(というかいわゆる斯波高経"だけ" には
後日談として打ち明けた可能性があるんじゃないかな〜と
長門『忌宮神社』に奉納された法楽和歌から
(まあ半分くらいの確率ですが)思ったりします。

(※この法楽和歌については
 今のところ解説無しの画像のみですが
 「夢想の結果」尊氏直義の)と
 「室町的鎌倉旅行記(その2)」高経の)を御覧下さい。
 ちなみに、この和歌自体は肖像画奉納より(時間的に)の話。)



てゆうかまた高経か!
存在感最モブステルス界の王子かと思いきや
おいしいとこだけピンポイントで颯爽と登場!!(そして速攻で退場…)




高経様は☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆今日も健在




…という訳で
今日の話は解説準備が出来ていないと言いながら
ただ、この『神護寺』の肖像画には
深い深い思いが込められている」という事だけ
どうしても早く伝えたくて、壮大にフライングしてしまいました。



ちなみに、肖像画の真意(ラスボスの方)は
直義の最期にも関連する話なので頭の片隅に置いておいて下さい。
(というか、直義亡き後の尊氏の行動にも大いに関連するのだが…
 まあいいか。)

(※直義の鎌倉での最期
 定説となっている『太平記』の尊氏による毒殺説ではなく
 直義はすべて自分で決めて自ら命を絶ったのだ…という話の概要は
 ブログ「暑中御見舞い申し上げます」の前半をどうぞ。)



なぜ直義は、尊氏と和解した "あのタイミング" で
自ら尊氏に先立つ事を選んだのか?
誰にも告げる事の無かっただろうその理由を
この一対の肖像画が教えてくれます。






(※2016.6.19追記―――
 この記事をUPした直後、気になる所をもう少し詰めて考えてみたら
 もしかすると尊氏が隠していた真の理由
 さらに遡ると、当初はもう一つの別の理由だった可能性が出てきた…
 つまりラスボスアルティメットの方は、途中でトランスフォームしていた疑惑!
 うーーーんw )




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posted by 本サイト管理人 at 16:11| Comment(0) | ★チラ裏観応日記