2014年04月07日

足利三兄弟

(チラ裏シリーズ)

やあ (´・ω・`)
ようこそ、バーボンハウスへ。
この将軍御用達「天野酒」はサービスだから、まず飲んで落ち着いて欲しい。

うん、「また」なんだ。済まない。
仏の顔もって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。

でも、伊豆堀越の空を見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない
「ときめき」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とした室町の中で、そういう気持ちを忘れないで欲しい
そう思って、足利成氏討伐をお願いしたんだ。

じゃあ、反省会を始めようか、兄さん。       義政




…という訳で今日は
 「また騙されて関東に飛ばされて来た訳だが」
足利政知(まさとも)です。
 (※ちなみに上記の元ネタは「バーボンハウス」で検索!)

足利政知
(※2015.5.7リメイク)

政知義視と同様、義政のアホ政策の被害者ですが
(※政知については、今のところ本サイト『2-6』の真ん中辺と
 『2-10』の真ん中よりちょい上辺りに登場しています)
しかし彼は
文句も言わずに真面目に堀越公方としての職務を全うします。
なんたって、23歳まで天龍寺の香厳院で門主をしてた還俗公方ですから
徳が高くない訳があろうはずがないに違いない!

( ※「天龍寺、夢窓国師、足利尊氏、足利直義」のキーワードは
 室町の超重要チェックポイントです。 忘れずにいて下さい。)


ただし、義政義政
結果的にとは言え、兄弟を還俗バーボン送りにしてしまった事を申し訳なく思っていたようで
政知義視の子息の面倒をよく見ているのです。

(政知の子を天龍寺
 義視の子を慈照寺(銀閣寺)に入寺させています。
 ただし、この優しさが後に裏目に出る…のですが。
 なんてこったw
 しかも、両者とも『明応の政変』に関わってくる、ってゆう。)

まあ、詳しくは本サイトの方で訳を述べますが
政知は○○家の○○と結託して京都の公方の座を狙ってなんかいません。
彼らに降りかかる運命は冷たかったけれど
彼らはそれぞれに兄弟を信頼していたのです。




ところで、政知
義政
が生まれる前年(正確には約半年前)に生まれた異母兄なのですが
と誤解されていることがあります。
(…例えば、当時の記録では『大乗院日記目録』が
 『碧山日録』がとしている。)
これはなぜかと言うと
実は、数え年では、政知と義政は "同い年" になってしまう
と言うカラクリのせいなのです。


「数え年」とは、生まれた年を1歳として
以後(誕生日ではなく)年の初めに年齢を加算していく数え方ですが
当時は "旧暦の1月1日" ではなく
"立春" に歳をとるとされていたようです。
…つまり
太陰太陽暦に基づく旧暦の1月1日と、十二節気に基づく立春
どちらを「年の初め」と見るか?
と言う話ですが
両者には微妙なずれがあり
立春が、1月1日の前後どちらに来るかは、年によって異なります。

  年の内に 春は来にけり 一年(ひととせ)を
     去年(こぞ)とや言はむ 今年とや言はむ


これは『古今和歌集』の最初の一首ですが
1月1日より "前" に立春が来た年の年末に

 「あー春来ちゃったよ、まだ年明けてないけど
  この一年はじゃあ去年なの? それともまだ今年なの?
  どっちなの!!」

という
割とどうでもいいけど気になってしょうがない感を詠った歌です。



…さて以上を踏まえて
政知は永享7年(1435)7月12日生まれで、この時点で1歳
義政は永享8年(1436)1月2日生まれで、この時点で1歳
しかしこの年は、7日後の1月9日が立春だったので
しかしこの永享8年の暦では、9日後の1月11日が立春だったので
(※永享8年1月9日は "正確な" 立春でした。当時の暦では1月11日との認識です。
 すみません。―――2018.2.23訂正 )

この時点で2人は同時に2歳となります。
つまり、(太陰太陽暦に基づく)生まれ年は違うのに
立春の関係で、年齢からすると同じ永享7年生まれになってしまい
「1月2日生まれの義政が兄、7月12日生まれの政知が弟」
という誤解が生じたという訳です。

(※母の身分差から、兄なのに弟とれていた
 …とする解釈がありますが、そうではありません。
 ちなみに、義政の母も正室ではなく側室です。)



という訳で、本サイトの方でも
政知にはしっかり「足利三兄弟」の長兄として活躍してもらいます。
義政が兄じゃ、頼りないしww
(もちろん、登場しないだけで義教の子息はもっといますが。)

まあややこしい話ですが、義政の年齢については
実質永享7年(1435)生まれとして計算するとらくちんです。




それにしても、生まれて一週間9日で2歳ってw
しかもこの年は、さらに12月20日22日も立春だったので
(※12月20日は正確な立春でした。訂正 m(_ _)m )
義政はなんと、生まれた年に既に3歳となったのです!
だから、俗に「三歳若君」と言われてて
しかも幼名が「三春」ってゆう。
(読みは "みはる" か "さんはる" か知らんけど
 個人的には後者を支持します。 なんかおもろいからw)


まあちょっと笑ってしまいそうな話ではありますが
当時、公方公方の子息に目出度い事があるってのは、大変な吉兆でもありましたから
人々は大いに喜び合ったことでしょう。

現在、"将軍" つまり武士の頂点と言うと
「武力で勝ち取ったボス猿的地位」というイメージですが
室町の公方様というのは
それとはちょっと(いやかなり)違います。
なんちゅうか、基本的にみんなに愛されているのです。
よく、足利将軍家
武士のトップの割りに「権力基盤が弱い!」と言われますが
それは彼らの失策なのではなく
武力経済力で圧倒しなくても統治が可能だったからに他なりません。
みんなの支持を集める謎のへっぽこ公方様! …失礼。



しかしそれは逆に、公方に不吉な事があれば
人々は天下の災いを予感して恐怖することになる訳で
それが、これまた『明応の政変』の遠因になるのです。

ちなみに、上で紹介した和歌もまた
『明応の政変』の真相の一端を語ってくれることになるので
よく覚えておいて下さい。



…と、目出度い春の話が
『明応の政変』の闇で、暗雲立ち込めて来てしまった。
春の天気は変わり易くていけない。

ところで、義政天気で気分が変わったらしいですよ。
 (↑これ、一次史料(日記)の記述ww)
ま、「春に三日の晴れなし」って言うしね。
…ってそれ、三春ディスってんのかよ!!

室町幕府



posted by 本サイト管理人 at 23:52| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月09日

畠山義就と畠山政長

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は…
 「俺が河内だ」自称実質河内守護 畠山義就
 「いやそれ俺の国…」室町不憫界の重鎮 畠山政長です。


畠山政長     畠山義就
(2015.2.27リメイク)


2人は実の従兄弟ですが(義就の父持国と、政長の父持富が兄弟)
持国が生前、政長を自身の猶子にしていたらしく
彼らは義理の兄弟でもあります。
ああ、また厄介な兄弟が…

上の肖像画は、本サイトの解説通りのイメージだと納得して頂けることかと思います。
…って、いや!
政長はこんなおっかない顔しない!
生き仏の政長としたことが、義就の修羅っ気に毒されるなんて!くっ!

では、いつものきよ侍(きよざむらい)に戻ってもらいます。


畠山政長
(2015.5.9リメイク)

これは本サイト『2-4』
歌の解説をした時に例で挙げた連歌の発句ですが
実はこれ、政長が詠んだものだったのです。


この連歌会
当代随一の超有名連歌師の宗祇(そうぎ)が、上京に草庵を新設し
そのお披露目会として開かれたもので
草庵の名前は「種玉庵」と言いました。
(ちなみに、政長の発句に脇句(第二句)を付けたのは宗祇)
日付は文明8年(1476)4月23日
ちょうど深見草(=牡丹)の季節です。
(ただし、旧暦だからちょっとずれるかな)
それから、『古今和歌集』序文の冒頭より…

大和歌は、人の心として、よろづの言の葉とぞなれりける」
 (大和歌とは、人の心を種として生まれてきた無数の言の葉である)

これらを踏まえて―――

  「この新しい草庵でこれから、言の葉の種
   牡丹のように美しく咲き続けていきますように」


という思いを詠んだのが、上の発句なのです。
…って、清いwwきよすぎるww
しかも、憎いほど気の利いた発句!
政長、なんて出来る子なの!!


ところで、牡丹(ぼたん)というと
知っているけど見たこと無いって人が多いような気がするので
参考画像をいくつか挙げておきます。
実は牡丹って、花の中で最も美しいと言っていい程
華やかで艶やかで、正に「魅せられる」という表現がぴったりの花なのです。

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

畠山政長

ちょうどこれから(4月下旬くらい)が牡丹の時期ですので
是非、お近くの牡丹園に出かけて、実物を見てみて下さい。
日本人ってのは、品種改良が三度の飯より好きなようで
色とりどりの個性ある牡丹が、目を楽しませてくれる事でしょう。


ところで、この連歌には
さらに心温まるエピソードが秘められています。
ちょっと涙出てしまいそうなその話の詳細はまたいつか。
それまでは、頭の片隅に白い牡丹と共にしまって置いて下さい。



…と、春の花でうきうきして来たところでなんですが
美しければ美しいほど…花は儚い。
そして心が清ければ清いほど、それは花のように散ってしまう。
実は政長
『明応の政変』で散ってしまう、美しき花でもあったのです。


『明応の政変』については、今は聞き流してくれて構わないのですが
この事件は、まだ解明されていない部分が多々あります。
一般的には、政長は「敗れた」という事になっていますが
しかし、それには疑問が残ります。
なぜなら
  「政長は、死ななければならなかった訳ではない」
のですから。
  「それではなぜ、政長は自ら自害という道を選んだのか?」
ここが
『明応の政変』の闇を解くスタート地点になりますので
本サイトで解説するその日まで、どうぞもんもんとしていて下さい。


あれ、なんかすっかり義就の事忘れてた。
ま、いっか。



posted by 本サイト管理人 at 01:59| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月15日

大内政弘

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏人物記』です。
今日は、前回の畠山回ですっかりスルーしてしまったお詫びに
義就のお友達をご紹介します。
「西国全域俺の庭」大内政弘です。

大内政弘
(2015.6.4リメイク)

大内さんは「余裕」の一言に尽きますね。
 領土、経済、軍事力
 人望、仁徳、統率力

なんかもう夢のような大名です。
どうなってんでしょうか。

『応仁の乱』は、一応東軍が勝者ってことになってますが
どう考えても、大内さんは負けた気配がありません。
ってか、最後の方なんて京文化を楽しみ始めたりしてるしw
ホント、何しに来たんすか。 人生楽しみ過ぎです。


性格の良さでは、畠山政長と似ていると思うのですが
大内政弘室町のNo.1リア充の座を恣(ほしいまま)にしていた一方で
一人せっせとピンポイントで不憫を拾い集める政長
何が明暗を分けたと言うのだ。

ま、器用か不器用かってとこが違うだけで
素直さでは共通する2人ですから
それぞれに心打つ物語を残してくれていたりします。
実は、『応仁の乱』の主要メンバーでありながら
『明応の政変』においてもキーパーソンとなるのが、この2人なのです。
(ただし、政弘は政変当時、周防国に在国していて
 大内軍の大将として在京していたのは
 まだ十代の嫡男、義興(よしおき)です。)



『明応の政変』は
『応仁の乱』終結の約15年後に、畿内を舞台にして起こった事件で
一般には

 「日野○子と細川○元がクーデターを起こして将軍をすげ替え
  以後幕府権力を掌握し、将軍は傀儡となった」

と理解されていますが
どうやら、真相はかなり "別の顔" をしているようです。
基本的に「勝者=正義」史観だと

 「人々は、不当なクーデターの勝者を
  何の疑問も無く正当な権力者として受け入れた」

という事が、当然の前提になってしまっていますが―――
果たして、当時の人々は本当に
その手段の善悪を問わず歓迎するほど、間抜けだったのだろうか?



歴史と言うのは、往々にして現代の価値観を用いて評価されていますが
当時の人々の声を無視した解釈は
結局は、現代版歴史ファンタジーでしかありません。
しかし幸いな事に、『明応の政変』に関しては
当時の人々の切実な叫びが、様々な形で史料に残されているのです。

大内政弘も、それを残した者の一人。
彼の偉大な業績の一つに

 『新撰菟玖波集』誕生における最大の後援者だった

という事が挙げられます。
この連歌集は、足利尊氏の時代に編纂された『菟玖波集』に続く
ただ2つの准勅撰連歌集であると同時に
『菟玖波集』は『観応の擾乱』の
『新撰菟玖波集』は『明応の政変』の
  "数年後に誕生した"
と言う共通点を持ちます。

そして、前者との性格の違いを追及するとそこには
『新撰菟玖波集』の完成に奔走した人々(※)が
この連歌集に何を託し、何を訴えたかったのかが見えて来るのです。
 (※…その一人が前出の連歌師宗祇

勝者が綴る歴史は描かれた幻想
当時に生きた人々の声に耳を傾けて初めて、歴史は本物になる。
それが、本サイトのコンセプトの一つでもあります。



あーそれにしても、大内政弘は偉大だw
文化活動でもPKO-uchi活動でもいい話残し過ぎ!
性格いいリア充とか、無敵過ぎて人気出ない理由が分からない!!

あれですか、やっぱりみんなちょいワルが好きなんですか?
でも義就までいくと、テラワルですよ。
しかも、そんな義就と普通に友達やってる大内政弘だって
涼しい顔して、ホントは何考えてんのか分かったもんじゃないですよ。
フフッ

あ、そうだ
大内さんにはもっとぶっ飛んだ友達がいたんだった。



posted by 本サイト管理人 at 01:36| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月18日

伊勢貞藤

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏人物記』です。
今日は、『応仁の乱』でうっかり誕生してしまったなんちゃって幕府
ムロミー☆ウエスタン
政所頭人っぽい事をしていた西の才媛、伊勢貞藤(さだふじ)です。

伊勢貞藤

あ、すみません。 貞藤伊勢貞親の弟です。
彼は、ウエスタン公方こと足利義視(よしみ)に仕え
西の猛獣達と仲良く暮らす事になる訳ですが
別に、東幕府の足利義政や兄の貞親に喧嘩売っていたのではなくて
『応仁の乱』終結後は
伊勢家当主の伊勢貞宗(貞親の嫡男で、貞藤の甥)とは非常に関係が良く
どうやら彼らは協力して
持是院妙椿と共に美濃国に下った義視
京都の義政との間を、取り持っていたようです。
そして晩年は、かなりほのぼのした日々を過ごしていたらしい
…という、まあ、そんなに変哲も無さそうな人物なのですが
ただ彼は… 芸術の極地に達っせんばかりの美学を持っていた
ってゆう。


伊勢家については
本サイトの『2-4』 『2-6』 『2-10』あたりで話題にしていますが
政所頭人を務めた貞親流の宗家だけでなく、いくつもの庶家
将軍の近習、かつ政治・経済・武家故実のプロフェッショナルとして
室町幕府そものものを支えていました。
そして彼らは、それらの膨大な知識(故実)を脳内に格納するだけでなく
書物として書き残してくれたので
現在、群書類従『貞丈雑記』の中に
彼らの生きた室町の証を、見ることが出来ます。
(※『貞丈雑記』…江戸時代、伊勢貞丈が、自家に伝わる数多の文書を編纂した故実書)

要するに、「室町の礼法・作法・殿中儀礼」
伊勢家によって大成したと言ってよく
その "知と美の結集" である伊勢故実
室町幕府の斜陽をも力強く生き抜き
戦国期の諸国の大名家から江戸幕府の徳川家に至るまで
多大な影響を与えることになるのです。

…の割りに、知名度に欠ける、というか
現在、礼法と言えば「小笠原」オンリーって感じですよね。
うん、まあそれはなぜかと言うと
江戸時代に大衆への浸透を目指した小笠原流に対して
伊勢ってのは
 「これが室町の美学だぁぁぁーーーーー!!!」
と言わんばかりに、あくまで硬派一徹オレの道を貫いてしまったかららしいんだ。
(※参照『貞丈雑記』)
(ただし小笠原流も、硬派な武家系と、大衆系は別らしいが)



そんな、どっか弾けたところがある伊勢家ですが
貞藤の美学を知った時、私、目が点になりました。

貞藤の記した故実書といえば『御供故実』がありますが
もう一つ、著者不明とされていますが間違いなく貞藤の作だろう『故実聞書』があります。
これはどうやら『御供故実』草案だったらしく
走り書き的で意味が取りづらい部分も多いのですが
両者に重複する記述や
「れんし、伊勢の貞親」(連枝=兄弟)という一文から
貞藤認定はOKで間違いなさそうです。

さて、それによると
京人たる武家の嗜みとは―――

   「絵に描いた女のように振る舞うべし」 

( ゚д゚)
(  Д ) ゚ ゚ ポーン

京人の仕草は「柳の風に従う」が如くしなやかに!
男気丸出しのバキバキ折れる榎が如き振る舞いは、無粋と心得よ!
 by貞藤!!
…って、おーーーーーい

しかし、これを以て「貞藤はナヨナヨしたおとこおんな
などと誤解してはなりません。
貞藤の美学はこんなもんでは終わらない。
外見は、美人画さながらに振る舞えども

   「男は、内にて鬼神をねじ挟むべし!!」

( ゚д゚)゚д゚)゚д゚)
(  д ) д ) д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポポポポーーーーーン

ちょっと中性的とか、密かに男らしくとか
そんなマイルドなもんじゃあ、断じてない。
は、女どころか、女以上の女を目指し
は、男らしくどころか、荒れくる鬼神をねじ挟む。
両方向にメーター振り切ってます。
貞藤さん…ド変態っすわ。
ってか、「ねじ挟む」ってwww
ま、"男らしさ" くらいだったら "秘める" で大丈夫でしょうが
"鬼神" じゃ、きっちり挟み込んどかないと
いつ暴れ出すか分かりませんからね。


ところで
大内家は代々京文化に興味津々、強い憧れを持っていて
周防国山口小京都、いやほぼ京都にしちゃったくらいの
文化大好きっ子だったのですが
京の礼法について、伊勢家の者によく諮問していた記録が残っていて
親しい付き合いがあったことが分かります。
在京中の大内政弘も、伊勢貞藤と近くの寺に紅葉を見に行って
和歌なんぞ詠んでいたようです。(『拾塵和歌集』)
ってゆーか、一応「応仁の乱中」なんですけど。
まあ、終盤はだべってただけらしいですが
紅葉きれいだ(*´・ω・)(・ω・`*)ねー
とかやってたんでしょうか。 ホント何しに京都来たんすか。


ま、そんな伊勢故実ファン大内さんの事ですから
西軍にいる間に、大いに貞藤の美学に感化されたに違いない!
「これが京人の作法だよ政弘君、フフッ」とか言われて、心に鬼神を…
…って、そ、そんな! 
あんな涼しい顔した政弘が、そんなワイルドなものをねじ挟んで…!!


まあ、顔は私の妄想ですが。
そんな訳で、私の中ですっかり「美の菩薩」となってしまった貞藤ですが
やはり、妙な気概を内に秘めていたらしい事も史料から伺えます。
『2-9』で紹介した『応仁記』の記述は
割と信憑性が高いと思うのですが
あれなんか、討ち死に覚悟で御所にとっ込もうとしてますしね。
ってか貞藤さん鬼神丸出しになっちゃってるよ!!
しまって!しまって!!


いや〜それにしても、「室町の美学」って前人未到の域に達していたんですね。
ところでこの美学、貞藤が独自に編み出したのではなく
彼が薫陶を受けた「美の師匠」がいたそうです。
それは意外にも…やつの父上だったりする。 ぬえーーーっっ!!?


さて、伊勢貞藤を紹介したからには
あの兄に言及しない訳には行くまい。
まあ伊勢ですからね、彼も美学は極まってるんですよ。うん。



posted by 本サイト管理人 at 02:05| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年04月22日

伊予の国から

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
なんとなく、ブログってのは頻繁に更新した方がいいのかと思いまして
『チラ裏ウマー日記』を始めることにしました。
ま、どうでもいい日々のネタなんて、食いもんくらいしかないしね。


という訳で、愛媛県は西宇和から「せとか」が届きました。

せとか

「はじける甘さ、濃厚でジューシーな味わいが自慢の
 おいしいえひめのニューフェイス!!」
だそうです。
ぬおーーーっっ! なんて美味そうなんだ!!
この溢れるフルーツ感、そして実際美味い! もぐもぐ


さて、存分に「せとか」の宣伝をしたところで
愛媛県すなわち伊予国と言えば…河野通春!
伊予の河野通春と言えば…
寛正5、6年、細川勝元がしでかした職権濫用討伐作戦!

みなさん、覚えていますか?
あの、大内教弘による華麗なブーメランを。(復習はこちら→『2-7』
伊予国から
「うるあぁぁぁーーーーwwwww」と笑顔で投げ返したブーメラン
京都の細川勝元に見事にめり込むんですよ。
こんな面白い話、なぜもっと知られないんでしょうか。

という訳で
これから伊予のみかんを食べるときは
550年前の甘酸っぱいブーメランの思い出に、心を馳せてみて下さい。

ブーメラン



posted by 本サイト管理人 at 02:07| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記