2014年05月30日

斎藤利国

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の持是院妙椿の跡取り、斎藤利国(としくに)です。
跡取りと言っても
妙椿は「パーティ組めども妻帯せず」の完全出家僧ですから
利国は養子で、実際は妙椿の兄利永の子
入道後の法名で「斎藤妙純」(みょうじゅん)としても知られている
妙椿の甥です。

斎藤利国

利国の生年は明らかではありませんが
正室の生年(1456)や、彼女が山名家臣垣屋の一族である事から
婚姻山名宗全存命中の文明5年(1473)以前だと思われ
しかも、今を時めく裏ボス妙椿の跡取りが
30過ぎまで独身…なんてこたぁ有り得ないだろう、という事で
1440年代後半生まれのもろ「応仁世代」と推定します。
(※「応仁世代」については
 当ブログの『伊予の国から2』『朝倉氏景』をどうぞ。)


という訳で、『応仁の乱』でも
養父の妙椿と同様、上洛こそしなかったものの
周辺国では武将として活躍していたようです。

(※伊勢国(←かつて土岐の本国だった)への
 利国ほか美濃勢の出陣は…『大日本史料』文明5年10月29日。
 尋尊によると
 「妙椿自身出陣、数万騎」って…。 数万、すーまん…)


まあ、妙椿の目立ちっぷりのせいでやや存在感薄めですが
利国も劣らず、「随分の弓取り」(by尋尊)であり
統率力もあるなかなか立派な人物で
文明12年(1480)に妙椿が他界した後も引き続き
美濃の斎藤家
『応仁の乱』から『明応の政変』にまたがる時期の
周辺国の旧西軍諸侯をまとめる中心的存在でありました。
もちろん、足利家 "義視" と言う求心力を抱えていたのも大いに影響しているのですが
それにしても、守護家の土岐シースルー感が半端ねぇ…。


しかし、何より特筆すべきは
美濃の斎藤家越前の朝倉家は、非常に関係が深い!
という事だったりします。
(非常に個人的な感想ですみません。)


ところで、「妙椿は、美濃国守護代だったのか?」
という問題ですが
利永没後は、宗家の家督は嫡男利藤が継ぎ
妙椿はその後見的立場だったようなのですが
その有能さと、主君土岐成頼からの信頼
そして、公方義政から直に命令を受ける立場とが相俟って
妙椿に始まる持是院家は、世間からはほぼ守護代と見做されていた
というのが現状だったかと。


まあ、利藤は、利国の実兄であり本来の守護代であるのに
謎なほど全く以て影が薄い訳ですが
しかし、妙椿没後に…
利藤利国の間で合戦が勃発してしまいます。
これは、利国養父妙椿の遺領8万石ほどを
守護の土岐成頼に返還したことに端を発したもので
結局、利藤方の敗北、隠居で終わります。
『大乗院寺社雑事記』には
美濃国に、即刻静謐が戻ったことへの安堵が、歓迎と共に記されていますが
守護土岐成頼の支持があり、家臣にも勇士の多い利国方に対して
利藤方はどう出たかと言うと―――
公方義政を味方につけようとしたそうだ。
この件で尋尊は(義政に対し)
 「また、礼物か! 自分の進退もままならないのに
  人の事に干渉してる場合じゃないだろ! もう!」

全力疾走で完全同意せずにはいられない意見を述べていますが
相変わらずな義政流され易さと、周りに群がる賄賂政治奸臣どもには
本当にうんざりします。
ああ、何で義視次期将軍にならなかったんだろう…

(ちなみに義政は、乱中の文明5年(1473)12月
 9歳の息子義尚に、将軍職を譲ってしまっています。
 この! 約束破りめ!!
 まあ、これは
 義政の御台の誹謗中傷賄賂兄妹の宿望なのでしょうが。
 …おっとすまない、本当のこと言い過ぎた。)


しかもこの時
旧西軍大名で、乱中は大いに妙椿に助けられた近江の六角高頼
なんと利藤方に味方したそうで
尋尊はその振る舞いを「以ての外、悪しく候」と批判しています。
ったく、どいつもこいつも!

(※この時期の六角の振る舞いは、本当に定見がありません。
 まあ、六角高頼自身の不誠実さなのか
 家臣を上手くまとめられなかっただけなのかは分かりませんが
 ホントかなり風見鶏的。
 子の六角定頼は名将だと思うんだけどなあ、うーんw)

(※以上、『大日本史料』文明12年8月27日)


まあ、この合戦はすぐ収束し、再び平穏が続くのですが
しかし、この対立の火種は『明応の政変』後
守護の土岐家の家督騒動が加わって
家臣のみならず
周辺諸国を巻き込んだ美濃の一大騒動『船田合戦』へと発展してしまいます。
そして、この対立の陰には
京都のクーデター政権側による
旧将軍親衛側の「勢力削減」の意図がありました。
(※斎藤利国と周辺の旧西軍諸侯が、旧将軍援護側です。)



さて、だんだんややこしくなってきたので
ここで美濃守護代斎藤家
『応仁の乱』から『明応の政変』の時期をクローズアップした
抜粋家系図を示しておきます。


斎藤家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる利藤利国は、二色刷りとなっています。
点線は「養子」、二重線は「婚姻」です。


さて、ここで大注目は
利国の娘の「祥山禎公」(しょうざんていこう)です。
なぜなら彼女は…
朝倉孝景の孫(つまり氏景の子)で、教景(宗滴)の最初の主君
すなわち、「明応世代」の朝倉家当主、朝倉貞景の―――
なのです!
おお! にわかに気になってしょうがなくなって来ますね!!
え、来るよね?…ね?
彼女は、数少ない貴重な女の子キャラの一人という事もあって
私の中では全力贔屓対象です。
(※ちなみに最重要女の子キャラは、別にいます。
 楽しみにしていて下さい。)


当時の女性の実名は、記録に残る事が稀で
ほとんどが法名しか伝わらないのが残念ですが
「祥山禎公」の「祥」も「禎」も
「幸い、めでたいこと」と言う意味を持ち、"さち" と読むので
以後、彼女は「さっちゃん」でよろしくお願いします。

さて、もう一つ重要なのが、利国の正室でさっちゃんの母上の
「利貞尼」(りていに)(※これも法名)です。
彼女は上述したように、山名家臣の垣屋の出身で
『大乗院寺社雑事記』によると
公家の甘露寺親長養女になっていたそうですが
一説に、利貞尼一条兼良の娘とも
(※一条兼良は、尋尊の父上で
 妙椿と親交が深かった博学多彩な当代随一の学者。)
また、甘露寺親長の養女ではなく、親戚だという説もありますが
まあでも
妙椿利国、そしてさっちゃん公家社会での顔の広さから
いずれにしても、公家と関係の深い女性だったと思われます。

(ちなみに、妙椿には「細君がいた」という説もあるのですが…
 うーん、還俗した様子は無いので何かの間違いかとw
 あと、この斎藤家
 のちの戦国大名の斎藤道三とは、血縁的つながりはありません。)


という訳で
朝倉貞景斎藤利国婿である」という関係から
上述の『船田合戦』では、朝倉軍斎藤利国方として大活躍し
(「朝倉高名なり」by尋尊)
圧勝に近い勝ちを収め、優勢のまま終わるかに見えたのですが―――
しかし、しかし、この合戦の結末には…
利国の戦死が待っていたのです。 うう、さっちゃん&貞景ショックorz

これは
長引く戦況に、双方に厭戦気分が漂い、「和睦」が成立した後の事で
近江の寺院に布陣していた斎藤利国軍が、開陣したその直後
そこを狙って、六角方の馬借が襲い掛かってきたのです。
(※近江の馬借は、延暦寺の僧兵と同じく
 一揆を得意とする武装集団
 六角方馬借はこれ以前から出陣していたが
 動き出したのはこの時です。
 …『大乗院寺社雑事記』明応5年10月19日、12月10日、12日)

数万人とも言われる六角方馬借の急襲で
利国をはじめ、多くの一族(おそらく嫡男利親も)
そして家臣が多数自害
一瞬にして壊滅的な最期を迎えることになったのです。

……。
うーん、何とも後味が悪い展開。
これを、「合戦を続けてきた因果」と見るか
和睦を装っただまし討ちという「道なき戦いの卑怯さ」に嫌悪するかは
それぞれだと思いますが
これ以降、美濃は騒乱の絶えない地となって行きます。

土岐成頼は、乱中は西軍諸侯の主要な一人で
在国するようになった乱後も
斎藤持是院家共々、幕府とは関係も良く
そして斎藤家の代々の武将は
「民を治めてがあり、清廉とか器量の男」などと言われ
文芸にも秀で、分国に京文化をもたらしたように
立派な人物を輩出する武家であっただけに
正直、無念でなりません。



ところで、上述の利国の正室利貞尼
夫の戦死を期に尼となったそうですが
彼女は、現在の京都の『妙心寺』に、多大な功績を残します。
すなわち、『妙心寺』のために広大な土地を買い求め
寄進したのです。
これにより、その寺領は二倍ほどになったとか。
つまり、『妙心寺』が現在の規模になったのは、彼女の功徳によるのです。
そして、『妙心寺』と言えば実は…
私が全力で尊敬する花園天皇が、その離宮を禅院にしたことに始まる
「歴史」非常に深い寺院なのです。
さっちゃんのお母様、なんたるグッジョブ!!

利国の戦死という悲劇の悪縁
500年後の現在に繋がる善縁をもたらしたのだとしたら
それはもしかしたら―――
"良い事" なのかも知れない。

そういう訳で、上図の斎藤家系図には
特別に利国の正室、利貞尼を明記しているのです。



 物は否を終えず悪事転じて善事と成る。
  法は定相無し、逆縁却って順縁となることを。
  此れ其の禍福同源冤親一体なる所以の者なり」
 
 (すべての物事は、最終的に(ひ)では終わらない。
  は転じてとなる。
  この世の条理は定まった形を持たず、逆縁がかえって順縁となのは
  禍と幸せ、怨みと親しみは
  その生ずるところを同じくする、本来一つのものだからである。)




これは、室町幕府創生期夢窓国師の言葉です。
不可抗力の運命の中で逆臣となってしまった足利尊氏
そして足利直義
先帝後醍醐天皇の菩提を弔う為に
夢窓国師を開山として建立した禅院『天龍寺』
君臣の悲劇が、禅の教えを広め人々を教化する "善" に転じた」
そう言っているのです。

繰り返される戦乱
多くの犠牲が積まれてゆく現実の冷酷に対峙しながら
なお、それを "否" で終わらせまいともがく当時の人々の強さ
乱世の悲しみの中で見出す
未来への希望の眩しさが込められた言葉です。


夢窓国師の言葉は続きます。


 古来、兵革は世を乱し続けて来た。
 或いは王位を取り合い、或いは逆臣を誅し
 その一負一勝
 ただ(ごう)を重ね、怨みを増してゆくだけであった。
 (この『天龍寺』のように)悪縁を転じて善縁に変えた例は
 今日まで聞いたことが無い。



足利尊氏が、先帝の逆鱗に触れ逆臣とされていった切っ掛けが
佞臣の怨みによる讒言であった事
それゆえの戦であっても、彼らがその罪を強く悔いていた
そして、戦乱の終結太平の世を、痛いほど心から望んでいた事が
夢窓国師の言葉が語る「歴史の真実」です。

(※以上、より詳しく知りたい方は…
 【柳田聖山『日本の禅語録 第七巻「夢窓」』(講談社)1977】
 上記の言葉は「陞座」のごく一部と、その意訳です。)


室町幕府創立へと流れ着くことになった "時代の真相"
乱世に生きた人々が『天龍寺』に込めた "切実な願い" とが
当時のままの姿として現代に甦る時
この国は、本来の過去と、本当の未来を取り戻す事になると
そう予言します。


室町幕府、そして足利尊氏が受けた過去の非難は
凄惨な悪縁だったけれど

    「物は否を終えず」

この言葉を信じて、これから来るだろう善縁
ワクテカしていたいと思います。



posted by 本サイト管理人 at 04:20| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年05月31日

斯波義廉

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は、足利一門「御一家」渋川家出身の斯波家家督
『応仁の乱』開幕前後の室町幕府管領にして西幕府ナンバー2
…という圧倒的な初期値を示しながら
極めて上品な権勢欲で、すっかりレアキャラと化してしまった
渋川義廉改め、斯波義廉(しば よしかど)です。

斯波義廉
(2015.6.4リメイク)

義廉については
本サイト『2-6』上から3分の2辺りで初登場
『2-7』「文正の政変」に至る幕府のドタバタ劇
『2-8』の最後の方で
義廉家臣達の涙出る話、気丈な義廉母の逸話(『文正記』)
『2-9』真ん中より少し下
斯波義廉邸を死守する家臣達の奮闘(『応仁私記』)
『2-10』最初の方、「斯波、渋川、足利」の関係、先祖三兄弟のこと
そして、同じく『2-10』真ん中以降の
義廉管領罷免、被官朝倉孝景の離京」
…以上が
今のところの、本サイトでの主な登場箇所です。


まあ、こうして見るとエピソードが少なくも無い。
しかも、どれも重要かつ胸打つ物語を秘めている。
さすが義廉!!
…とまあ、私は義廉大プッシュ派なのですが
一般の評価が低い、というか気にされていない。


しかし、斯波義廉斯波義敏とでは
よくよく史料を読むと、家臣の忠誠度が全然違うのですよ。
斯波義敏はホント、「こりゃ嫌われてもしょうがないわ」
としか思えない振る舞いが非常に多い。
なんと言いますか
幼稚な嫌がらせとか、地位や所領への執着とか
"ちっささ" が目立つんですよ、斯波義敏はw
でも、幼稚ゆえに敵としては問題外…ってか
いつもあっさり負けてくれるので
義敏てめぇーーーーwww」と笑っていられる
そんな
"ムカつくけどそんな嫌いじゃないかも…まあでもどうでもいいか"
というポジションです、私の中では。
ちなみに、肖像画は…まあどうでもいいか。


一方、義廉
 「己の保身で名を穢すくらいなら、潔くフェイドアウト
みたいなところがあって
 「武士に有らざる振る舞いが無い」
という流石の品格を見せてくれます。
ただ、貴種特有の生存欲の低さが如何ともし難い、ってゆう。
まあでも、義廉は相当育ちが良いですよ。
それでいて、ボンボン特有の我侭、奇行、妙な自尊心がない!
(…おっと、ボンボン将軍義尚の悪口はそこまでだ)
 
(※ただし、義尚父義政に比べれば
 自ら家臣を率いる気概ある、武家らしい将軍だったと思います。
 しかし、その血統に気負い過ぎたのか
 不養生もあって25歳で早世。
  「義尚は死んだ、なぜだ!」 「坊やだからさ」
 …いや、違うな
  「君は良い将軍であったが、君の父上がいけないのだよ」
 …って、本当のこと言わないで下さい><
 ってか、誰なんだよシャアは。 …そんなこと知りません>< )


まあ、義廉義敏の違いは
御一家渋川家(義廉)と斯波家の分家(義敏)という
家柄のせいもあるかも知れませんが
義廉については、やはり
山名家出身の母の影響を、多大に受けていると思います。
なんたって、義廉母
『文正記』によると
 小刀、長刀、脇差を肌身離さず、合戦で潰える事あらば
  いつでも自害する覚悟を定め持つ」

という
"武士の何たるか" を完全に理解した女性で
保身執着とは対極にいるので
もし義廉が弱音でも吐こうものなら
たぶん一緒に腹切りかねませんよ、この母上はw


そんな訳で、『応仁の乱』での義廉
その高尚な気概ゆえ
西幕府ナンバー2の管領でありながら… 話題に上がらない。
西軍公方となった義視を自邸に迎え
御所として同居していたはずなのに… 動静が聞こえてこない。
そして、第一の被官、朝倉孝景越前下向を決意した時も―――

…とそこが、義廉&朝倉孝景好きにとっては
『応仁の乱』最大の "気になって気になって不眠ポイント" な訳ですが
結論から言うと
義廉朝倉孝景の越前統治に同意し
別の道を進む自由を、尊重したと思われます。


まあ、ちょっと綺麗事過ぎるようですがw
しかし、『文正記』にある
 「渋川家の "譜代の家臣" と、斯波家の "被官" の違いを
  明確に捉えていた」

という義廉母のエピソードを鑑みれば
この時も義廉は、"最も主君らしい振る舞い" をした
と考えられますし
当ブログ『朝倉氏景』で触れた
「朝倉へ。 おい、西軍に戻って来い」の書状
義廉西軍諸大名の連署で来ているので
決して「裏切り」「下克上」主従を断ち切ったのではない事が裏付けられるのです。
(※参照『朝倉家記』)


まあ、そういう意味では
朝倉孝景にとっては、報いるすべも無いほどの
多大な恩を被った主君と言えます。



さて、ここで
斯波家の被官について復習しておきますと
甲斐、朝倉、織田の3家で
甲斐越前遠江の守護代、織田尾張の守護代
朝倉は越前を本拠地としていましたが、守護代ではありませんでした。
ただ、甲斐朝倉公方の直臣でもあるので
3被官の中では、甲斐朝倉の存在感が目立ちます。

と言っても、もとは甲斐のが優勢で
朝倉が並ぶようになったのは
自己中義敏が越前をかき回した『長禄合戦』が切っ掛けです。
(※『長禄合戦』については
 本サイト『2-6』真ん中以降をどうぞ。)
義敏の自滅&孝景一人勝ちで終わったこの騒動の後
寛正2年(1461)に、義廉斯波宗家の家督につくのですが
既に述べたように、この時朝倉孝景
 公方義政から、越前守護代の任命について相談を受けた」
のです。
(『大乗院寺社雑事記』寛正2年10月17日)
しかし、それは実現しませんでした。
まあ当然、甲斐が承諾しないでしょう。
それでも、甲斐との関係が険悪になった様子はありませんから
朝倉孝景は、別段不満の色を見せることなく忍耐したようです。
おそらく―――
地道に誠意を重ね、実力を蓄える事で "その日は必ず来る"
確信していたからでしょう。

(※これは決して、私の理想的妄想ではなく
 『朝倉孝景十七箇条』や『大乗院寺社雑事記』の記述より
 孝景は、道理に対する強い信念を持っていて
 厳しいくらい誠実に任務を遂行する人物であると
 想定されるからです。)


そして、"その日" というのが
『応仁の乱』での、義政からの「東軍への勧誘」だった訳です。

つまり、朝倉孝景が主君義廉と袂を分かち
強い未練をも断ち切って西軍を去ったのは
 甲斐対峙しなければならなかったから」
であり
西軍諸侯が背中を押したのは、『長禄合戦』の頃から既に
 越前を治めるべきは朝倉であると、誰しも予感していたから」
であり
しかしそれは、余りに突然な訪れで
孝景にとっては、必ずしも望んだ方法ではなく
抗う余地のない運命に近いものでした。

(※なぜなら、甲斐との決着が "合戦" という方法になった事は
 意外かも知れませんが、朝倉は後ろめたく思っていたようで
 朝倉家の関連軍記には、その痕跡が見て取れるのです。)

しかし、決めたら最後
その道を貫くのが武士というもので
駆け抜けるような戦の月日の果てに、朝倉孝景は見事、越前に明日を勝ち取ります。
敗れた甲斐は文明7年(1475)2月、東軍に帰参し
(※この時、遠江守護代のみ安堵される)
以後、義敏方斯波の被官として
越前の朝倉との対立を、続けていく事になります。



と、ここで「どっちがで誰が対決してんのかイミフ…」
になって来た訳ですが
この時点で、甲斐朝倉東軍です。
しかし、甲斐は、東軍の斯波義敏を主君としたのに対し
朝倉は、東軍帰参当初から一貫して
同じ東軍でありながら、斯波義敏を主君と認めていません。
実は…
朝倉孝景東軍の勧誘を受けた際に示した
絶対に譲れない条件、それが
 「斯波義敏だけは、主君として認めない」
というものだったのです。
それでも、どうしても朝倉の帰参を望む東軍側
最終的にそれを認め
公方義政から斯波義敏に対し
 「越前で朝倉が合戦を始めても、手を出さないように」
との上意が伝えられました。
しかしもちろん、斯波義敏にとってそれは不満であり
(だから、途中で邪魔しに来るw
 そして義政に怒られ、孝景によって丁寧に京都に運搬されるw)
それゆえ、同じ東軍となったにもかかわらず
甲斐+斯波義敏とは、激しい敵対関係が続く事になるのです。

(つまり、これまで
 「朝倉(東軍)vs 甲斐(西軍)     義敏(傍観)」
 だったのが
 「朝倉(東軍)vs 甲斐+ 義敏(東軍)」
 となる。)


それにしても
東軍に帰参しながら
東軍の斯波家に仕えない事を認めさせてしまう朝倉孝景って…
とか思うw
まあ、一旦「子々孫々まで家督として認めねぇ!!」
と誓った決意は、どこまでも固かったという訳です。 さすが孝景


さて、この辺はまだまだ語らなくてはいけない詳細がありますが
今はとりあえず置いといて、斯波義廉の話に戻します。
この時点で、主な被官の朝倉甲斐までも失った西軍の義廉
甲斐が東軍に帰参した年の冬
つまり、大乱終結2年前の文明7年(1475)11月に
一足早く京都を後にし
残った被官、織田敏広の守る尾張国へと下ります。


では、その後の義廉の行方は?
気になるところですが、長くなったので一旦切ります。
ちなみに、なんか寂しい事になってしまった義廉ですが
(さすが、畠山政長と双璧を為す室町不憫界期待の王子…)
しかし、義廉には
渋川家 "譜代の家臣" 板倉(いたくら)というのがいて
義廉がどこに流れていこうとも
地の果てまでお供してくれますから、心配は要りませんw

それからもう一つ
斯波義敏を何が何でも認めなかった朝倉孝景ですが
それでは、もう一人の斯波、義廉との関係は?
孝景が越前に立った時、もうその主従
完全に切れてしまったのだろうか?

彼らの行き着く未来がどこなのか
ヒントは、前回のこの言葉

  「物は否を終えず」

"否" では終わらないのが
誠実に生きた室町武士の一生なのです。



posted by 本サイト管理人 at 03:17| Comment(6) | ★チラ裏人物記