2014年05月04日

慈視院光玖

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
ここへ来てようやく朝倉家の登場です。
高らかに朝倉贔屓宣言をしておきながら
全然贔屓がなってない現状を、自分でも疑問に思っていたのですが
そういう訳で、今日は張り切って参ります
慈視院光玖(じしいん こうきゅう)さんです!

慈視院光玖

なんで第一弾が朝倉孝景(たかかげ)じゃないんだよ
…とは、まあ私も思いますけど
光玖さん孝景の弟で、完全なる出家僧です。(つまり、入道ではない)


孝景には、割とたくさんがいるのですが
『応仁の乱』前後の時期の
 「朝倉家存亡の危機から、一気に逆転大躍進!
の裏には
兄であり朝倉家当主である孝景の活躍を支えた3人の弟
経景(つねかげ)、慈視院光玖景冬(かげふゆ)の存在がありました。


この朝倉四兄弟
なんか危なっかしくて見てらんない感じの兄弟が多い室町にあって
間違いなしに安心安全絆の固い兄弟です。
というのも
彼らの父である朝倉家景が亡くなったのは
長男孝景が23歳の時なのですが(祖父は健在)
弟達は、孝景とはかなり歳が離れていて
すぐ下の経景でも10コ下の13歳、光玖さんは未だ11歳でした。
そんな彼らにとって
父亡き後の一家を支え、幼い弟達の面倒を見る兄孝景
父親のような存在であったらしいのです。

そんな訳で、弟達は兄ちゃん大好き!
『朝倉孝景十七箇条』には
親を失った苦境の中で、それでも決して身の修養を怠らず
遂に一国を治めるという大業を成し遂げた孝景
苦労の様が述べられていますが
早くに逝ってしまったものの、父家景は何ものにも代え難い弟達を残してくれた
最高にいい父ちゃんだったのでありました。


さて、『応仁の乱』における朝倉家の動向については
本サイトでは今のところ『2-10』
西軍の孝景が、公方義政と策士伊勢貞親の誘いによって東軍に降ることを決意し
3人の弟を連れて越前国に下ったところまで解説していますが
この3人が、上記の経景慈視院光玖景冬です。

ちなみに、その後の事を簡単に述べておきますと
下向の3年後、遂に朝倉軍は再始動の時を迎えます。
同時に、それまで京都のにいた孝景嫡男の朝倉氏景
西軍諸侯に別れを告げて合流し
越前の最大勢力であり、かつての被官仲間である甲斐との激しい合戦の末
最終的に越前を勝ち取ります。
勝ち取る…と言っても、これは朝倉の独断行動ではなく
公方義政の意向であり、その承認を得ての一国平定です。
ただし、甲斐との幾多の合戦は熾烈を極めるものであり
強いられた犠牲の多さは、双方ともに癒えぬ深い傷となりました。



という訳で、本サイト『2-8』でチラっと述べたこの慈視院光玖こそ
南都の成身院光宣や、美濃の持是院妙椿と同じく
非入道型完全出家僧でありながらパーティ組んでしまう
朝倉家のドラクエ禅僧だったのでした!

幼少期に寺に入った光玖
この頃は、京都の建仁寺あたりにいたらしいのですが
既に『応仁の乱』以前から
兄孝景におつかいを頼まれて、しばしば越前国に下向しては
所領の管理など諸事に携わっていたとは言え
孝景に突然の越前下向を聞かされた時は驚きを隠せなかったろうなあw

 光玖「え…俺も行くんすか?!」
 孝景「うん」
 光玖「そうですか。 …え、俺も行くんすか??!」
   (※大切な事なので、二度聞きました。)
 孝景「うん」
   (…光玖さんの僧侶人生は終わった。)

   (※上の画像は、固まる光玖の図:原題「マジすか」)

まあでも、実際は兄の命令には快諾しただろうし
(というか、進んで付いていったと思われる)
以後の光玖さんの活躍は
戦の大将から政治家としての領国運営まで、兄にも匹敵する優れた才覚を発揮します。
越前平定後の基盤固めに、弟光玖の政治手腕が不可欠だと読んだのだとしたら
孝景の慧眼はすごいと思うw


実は、『応仁の乱』終結の4年後孝景がこの世を去り
さらに、次期当主の嫡男氏景も、その5年後に病により早世してしまい
次に家督を継いだ氏景嫡男の朝倉貞景(さだかげ)は
この時点でまだ14歳(満13歳)
…と、朝倉家の当主は短期間に入れ替えがあったのですが
それでも動揺することなく、初期の不安定な時期を乗り越えられたのは
孝景の弟達、特に慈視院光玖の冴え渡る社交感覚があったからのです。


そう、これまたこの光玖さんこそ
伊勢貞宗との良好な関係を築いて
歴代当主を見事に補佐した、朝倉家隠し玉だったのです。

ただ、光玖さんは、策士と言うよりは
人との関わりにおいてとても誠実
戦での敗者を深く弔う慈悲深い心もあり
各方面の人達…公家朝廷からすらも頼りにされていました。
興福寺の尋尊からは、年貢の事で感謝もされているし
畠山義就とは、その子の代まで親しい関係を続けていた、誠意ある人です。
成身院光宣妙椿もそうですが
パーティ組んでる出家僧に、悪いやつはいない!…ような気がする!



ところで、伊勢家の家宰蜷川親元『親元日記』
基本的に、主家の日々の政務を記録したものなのですが
日記の中で、主人である伊勢家当主が何と呼ばれているかと言うと…
「貴殿」ですよ、「貴殿」www
貴殿、どこどこへ行く」とか
「誰々から貴殿へ贈り物」とか
たまに、「(来客があって)貴殿、酩酊」とかw
まあ、普通に二人称で使う場合は単なる敬称ですが
日記で三人称的に使われていると、なんかコーヒー吹きますよ。
しかもこの「貴殿」、なんと更に活用形があって
場合によっては「貴殿様」となります。

って、それはあれか?「さかなクンさん」みたいなつもりなのか?
こんなアホな敬称のインフレさせてんのは誰だよ!
とか思ったら… 朝倉でした orz


蜷川親元への、光玖氏景の書状で
伊勢貞宗のことを「貴殿様」と呼んだものがあるのですが
そこは普通、伊勢守殿でいいんじゃないのか?
(※伊勢守は、伊勢宗家代々の官途。
 政所頭人伊勢家当主=伊勢守、と覚えておこう)
まあ、単に「貴殿」と呼んでいるものもあるのですが
なんで、朝倉まで内輪の呼び方をしているのか、謎です。
(ただ、他がどうなっているのかちょっと自信ないので
 今度、改めて『蜷川家文書』とか調べてみるつもり)

(※↑これについて、ざっと調べてみましたが、うーん…
 他家からの書状の類では見当たらず
 伊勢家に伝わる故実関連の文書で(つまり、身内の者から)
 伊勢貞陸(貞宗の嫡男)が「貴殿様」と表記されているものが
 2つほどありました。 ―――2015.4.3追記 )



まあ、被官クラスだった朝倉
いきなり守護級のデビューを果たしちゃった訳ですから
幕府との関係では、伊勢貞宗の尽力が人一倍必要だったので
実際、感謝してもし切れません。
「貴殿様様」どころか「貴殿様先輩ちぃぃーーーっす」です。


ちなみに、(私の)貞宗の肖像画
直垂(ひたたれ)の色が桃色っぽいのは
別に、なんか妄想が炸裂している訳では決してなく
きちんと根拠があって
「梅染」(うめぞめ)の色をイメージしているのです。
 (※直垂…当時の武士の一般的な着物)

「梅染」とは、梅の樹木を利用した伝統的な染色技法
染め方によって様々な色合いが出るのですが
美しく染められたものは
梅の花のような艶やかな色に仕上がるそうです。
是非、受け継いでいって欲しい、そして今後もっと人気が出て欲しい
伝統の日本の色です。
みなさんも一度、「梅染」または「梅染め」で画像検索してみて下さい。



さて、『親元日記』より…
ある日、光玖さんは、貞宗梅染の帷子(かたびら)を3枚贈った。
 (※帷子…下に着る単(ひとえ)の衣)
その約1ヵ月、今度は朝倉家当主氏景から、貞宗梅染の帷子が20枚届いた。
……。
つまり、これはあれか?
まず光玖が、貞宗の好みを内々に確認してから
貴殿様、お気に召されたようですね、では…」と
改めて朝倉家当主から正式に進上したってことか?
(もしくは、思いの外気に入った様子だったので
  「ピコーン!じゃあ当主名義で追い討ちを!」というサプライズ)

光玖さん、なんという貞宗キャッチャー
貞宗が気に入ったくらいだから、きっと梅よりももっと梅色
美しい帷子だったに違いない!
つまり、貞宗梅染のような色の着物が好きに違いない!
…という、やや飛躍した理論により
私の中では、貞宗梅染色になってしまいました。



という訳で今日は
"室町一の安心できる兄弟" のお話でした。
なんかオチがない上に冗長ですみません。
朝倉家の話は、油断するとどんどんマニアックになって
誰も聞いてないよ状態になってしまう。

ちなみに、光玖さんは『明応の政変』で
かなり気になる行動を取るのですが
これが、この事件の真相の鍵の一つであると、私は踏んでいます。
(この時の朝倉家当主は、孝景の孫で氏景の子の朝倉貞景。)


なんか、『明応の政変』の鍵
あっちにもこっちにも散らばってって、今のところ意味不明でしょうが
最後にはきっと、きれいに一本の線を描くはずですのでお楽しみに。
ちなみに、私の話には、過度な妄想が含まれますが
歴史的事実の究明に関してだけは、断じて
一次史料をこよなく尊重する実証主義であり
天に誓って、妄想完全ガードを貫いています。



posted by 本サイト管理人 at 03:48| Comment(21) | ★チラ裏人物記