2014年06月08日

斯波義廉(続き)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の斯波義廉回の続きです。
甲斐朝倉という斯波家の2大被官を失い
尾張国に退いた義廉(よしかど)は
『応仁の乱』が過ぎ去った世の果てに
どんな空を見る事になるのか―――

…とか、わざとらしく映画の予告仕立てにしなくても
義廉不憫属性を考えれば大体予想はつくと思いますが
期待通りの世界線をたどってくれます。


大乱終結2年前の文明7年(1475)11月
義廉は京都を離れ
守護代である織田宗家の織田敏広(としひろ)が守る
尾張国に下向します。
これは、遠江守護代甲斐が、東軍に帰参したことを受けて
残る尾張を確保する為に先手を打った "妙椿の策" だと思われます。
なぜって、妙椿は養女を織田敏広に嫁がせて
準備万端てへ☆してるからw


さて、1年ほどは平穏な日々が続きましたが
翌年の文明8年(1476)11月13日
突如として現れた織田敏定(としさだ)なる人物が
織田敏広夜襲をかけて去っていきました。
(『大日本史料』文明8年11月13日)

「って、おめー誰だよ! また東軍の刺客か??」
と思うでしょうが
どうやらそうではなく
庶流の一族である織田敏定
宗家の家督を狙って、個人的に事を起こしたらしい。
というのも、この一戦で敢え無く敗退した後
作戦を変更して
京都の幕府に取り入るべく、賄賂攻勢に出たようで
(※『蜷川親元日記』文明10年3〜8月あたり)
そのかいあって
大乱終結の翌年、文明10年(1478)8月20日には
 「尾張国の "凶徒等" 退治のこと
  "守護代" 織田敏定と相談して早よ」
と言う御内書が下されます。 (『室町御内書案』)

ってか、いつの間に "守護代" に…
しかも "凶徒" って。

この"凶徒" とは、尾張を領する旧西軍、すなわち
斯波義廉&織田敏広のことと解されていますが
ただ、厳密にはターゲットは織田敏広
尾張守護代の「争奪」が焦点の、「宗家敏広 vs 庶家敏定」の争いでした。



という訳で、幕府は
美濃の土岐成頼持是院妙椿(大乱終結後に一応幕府に帰順済み)に対し
 「織田敏定尾張入国に協力するように!」
と派兵を命じ、美濃からは
 「がってん、公方様!
との返事が来ました。
(『大日本史料』文明10年9月29日)
…ん、ちょっと妙椿の立場が気になるところですが
まあいいか。

そんな事より、織田宗家大ピンチですよ。
ってか、また礼物か!!
まあ、幕府側も、旧西軍退治に都合が良かったんだろうけど
うーん…なんだかなぁw


さて、10月当初は順調に勝ち進み、入国を果たした新守護代織田敏定ですが
しかし12月4日になって
清洲城に立て篭もる新守護代敏定
妙椿弾幕を背景とした宗家敏広の間で―――
戦闘が始まります。 やっぱりかw

ただし、これは一般には
 「織田敏広婿だったから、妙椿が幕命に背いて味方した」
とだけ解されていますが
しかし、10月に織田敏定合戦・入国を果たしてから
"2ヶ月近く経って初めて反撃" というのがどうにも謎だし
しかも、妙椿城攻め中の12月14日頃
幕府に対して「無緩怠之趣」、すなわち
 「上意をおざなりになんてしてないよ!」
と使者を介して伝えているのです。
そして、12月4日の合戦では
籠城する織田敏定方が利を得るものの
続く16日、21日の合戦では大打撃を受け、落城寸前まで行きますが
最終的には翌月
妙椿が、織田敏定に尾張国のうち二郡を宛て分けて和議が成立
城の包囲を解いて美濃に帰国
(ってゆうか、この時点でもう幕府関係なくなってる…)
以後、尾張は平穏を取り戻し
しばらくは、織田敏広織田敏定は共に尾張に在国しながら
争いも無く過ぎていきます。


つまり、以上を総合的に解釈すると
妙椿は、新守護代入国の幕命には従ったけど
織田敏定が侵攻し過ぎたから
 「おっと、尾張の治安を乱すのはそこまでにしてもらおうか」
と、報復に出ただけかと。
まあ、旧西軍の斯波義廉織田敏広の危機を、妙椿が見過ごすはずはありませんが
それに加えて妙椿
越前でも治安維持出張していたり
興福寺の尋尊には、荘園の年貢の事で相談にも乗っていて
実は、大内さんPKO-uchi伝説に匹敵する
PKmyO 傾向があるのです。
 (※ピーケーみょー=Peace Keeping みょーちん)


ところで、この12月の "妙椿反撃" に驚いた幕府は
急ぎ使者を下して妙椿城攻めを止めようと試みますが
(ってか、妙椿織田敏定入国に駆り出したお前らも
 相当どうかしていると思うぞ。)
公方からのお使いが来たと聞いた妙椿は…

  「おお、それはお待たせしては申し訳ない。
   ちょっと待っててね! いま急いで城落としちゃうから☆

ちゅどーん ちゅどどーーーーん(ターボ)

使者「……。
   って、おーーーい!! それを止めさせに来たんですけどっ!」

ちゅどーん ちゅどちゅどちゅどーーーーーん(マッハ)
   
使者「何、俺なんの為に待ってるの? 俺意味あんのこれ??」
  (「御使 無其詮逗留」)

との自問むなしく、城は半落してゆくのであった。

妙椿


(※以上『大日本史料』文明10年12月4日、文明11年正月19日)



ちなみに、この騒動の一連の記録には
義廉の「よの字」も出て来ません。
相変わらずの高ステルス性を見せつける義廉ですが
まあ、なにはともあれ、無事である事は確かなので良かったあよw
…しかし。
そう、しかし。
尾張に平穏が戻り2年半が経った頃、遂に世界線は旋回の時を迎えます。
文明13年(1481)7月23日
織田敏広のまだ幼少の嫡男千代夜叉丸(のちの寛広)が
織田宗家の家督を継ぎ
そして一族は旧東軍方の斯波、すなわち
斯波義良(義敏の嫡男、のち改名して義寛)に帰参
公方義政以下に、代替わり&帰参御礼を進上するのです。

……。
お、お、うえーーーー?!! よ、義廉はいずこ??
実は、この数ヶ月前
3月3日のこととして
万里集九の詩集『梅花無尽蔵』に
 「織田和州(=敏定)凱歌之時也」
と言う記録があり
織田敏定が、何らかの切っ掛けで地位を固めたらしい事が知れるのです。

(※ちなみにこれは
  「織田敏定宗家敏広との戦に勝って覇権を握った」
 とも解されていますが
 しかし、続く10月8日の「御内書の御礼」では
   千代夜叉丸(宗家家督)> 広近(敏広弟)> 敏定
 の順で、三者が共に進物(多い順)を公方に献上していて
 敵対している風も、宗家が極端に零落している風もなく
 その後も、共に主君斯波義寛(義敏嫡男)に従軍しているので
 武力衝突で圧倒的な優劣をつけた、という訳ではなさそうです。)


さて、以上から想定される仮説は
 「文明13年(1481)3月以前に
  宗家当主織田敏広が没したのを期に
  宗家が旧東軍方斯波への帰順を決意し
  義廉は尾張を離れた」

と考えるのが妥当かと。
織田敏広が他界したという明確な記録はありませんが
3月から、7月の代替わり&帰参の時間差は
敏広の百箇日を待ったものだと思われます。
(※当時は、100日間喪に服すのが一般的だった。)
嫡男千代夜叉丸は未だ幼少
庶流織田敏定とは和解したとは言え
いつまた対立が合戦に発展してもおかしくない状況で
当主敏広の死は、相当一族家臣を動揺させたと思います。
義廉がいつ頃尾張を離れたかは不明ですが
これを期に、やや肩身の狭かった庶流敏定の、織田一族内での地位が安定…あまつさえ
宗家の地位を侵食する事になったようです。
以後、両家は半分ずつ尾張を領し
『余目氏旧記』によると、この頃の尾張は「二守護代」がいたということらしい。



それにしても
大乱終結前年に突然現れ、幕府への礼物攻勢と
妙椿のおかげwで尾張二郡を治める事になった上に
ラッキー街道を突き進む織田敏定てめぇーーーwww
ちなみに
『文正の政変』での、斯波家被官織田家のエピソードとして…

京都の主君斯波義廉の危機を聞いた尾張在国中の彼らは
まず、織田敏貞がなり振り構わず一騎にて真っ先に京に馳せ上り
その頃、牢人蜂起があって国を離れられなかった当主織田敏広
織田広成猛勢を率いて上洛させ
しかし、それでも心配でしょうがない当主敏広
更に弟織田広近に同族の武将を何人も添えて無数の兵を追加上洛させた


という
清々しい武士の忠義と覚悟を見せてくれています。
義廉が家督改替の危機を脱し、晴れて幕府出仕を果たした時
千を超える警固の兵と共に、義廉に随従した3騎馬

 先陣甲斐織田広近(敏広弟)、後陣朝倉氏景(孝景嫡男)

義廉母の前で「二心なき旨」を誓った被官たちの、輝ける瞬間でした。
(※以上『文正記』より)
ああ、やっぱり義廉義敏じゃ
家臣の忠臣ぶりと目の輝きが全然違う!
義敏の前では、死んだ魚のような目が泳いでる。 ちゃぷん…



まあ、そんな訳で
斯波被官の織田家は本来(意味深)忠誠心があつく
この時も、「旧西軍の主君斯波義廉に背いた」という訳ではなく
尾張一族の行く末を考えたら
これが最善の結論だったと言えるでしょう。
(しかもこれは、旧西軍の現リーダー斎藤利国との申し合わせがあったと思われる。)

ただ個人的には
誓った忠誠を最後まで貫いた宗家当主織田敏広
一族最高の武将と讃えたいと思います。

(※ちなみに、義敏の嫡男斯波義良(改名して義寛)は
 義敏に比べたら、ずっと気概ある武将ではあります。
 まあ、言いたい事も沢山あるがw それはまたいずれ。)


ああしかし、義廉の行方や如何に…


まあ、義廉に関して現在は一般に
「見捨てられた存在」だとか「傀儡主君」だとか
散々な評価がなされていますが
しかし、まず一つ言える事は
現代人にとっては、義廉はどうでもいい存在かも知れないけれど
旧西軍諸侯にとって盟友
 「決してどうでもいい存在ではなかった」
と言う事です。
彼らは、大乱終結で離れ離れになった後も
互いに(よしみ)を通じ合い
河内国で在国ライフを楽しんでいた畠山アウトロー義就
幕府から追討を受けるとの話が持ち上がろうものなら
自分たちは幕府に帰順し公方義政良好な関係にあれど
やっぱり助けずにはいられない!「どーする?どーする?」
相談を始めたりする、そういう奴等なのです。
(もちろん、これには朝倉も普通に参加しているw)

そしてまた、この時点での義廉
もう斯波家家督に正式に認められる可能性はほぼゼロ
匿えば、下手すると幕府を敵に回しかねない
…という存在だった訳で
利害だけから考えれば、明らかに利点に欠けるのだから
それを「傀儡」にする、と捉える考察は矛盾しています。

…つまり、旧被官たちにとっては
 どんな立場になろうとも、義廉はどこまでも「主君」だった
ただそれだけの話なのです。


もし…
もし、今もまだ諦めていない主従があったとしたら
そして、たとえ非公式にでも、幕府にそれを認めさせてなお
揺るがずにいられる実力信頼を備えた者がいたとすれば
それは―――


越前の明日
(2015.6.5リメイク)


義廉が最終的にたどり着いたその空
あの日、で別れた明日でした。



posted by 本サイト管理人 at 01:12| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年06月09日

斯波義廉(続きの続き)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』は延々と斯波義廉回が続いていますが
最終日の今日は、「渋川家」の話題で締めたいと思います。

ではまず
室町幕府創生期から
『応仁の乱』『明応の政変』とその後にかけて時期の
渋川家系図です。


渋川家系図
(2015.8.26 さらに11.15 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
点線(…)は猶子(養子)関係
となっています。


さて、渋川義季(よしすえ)が渋川家の四代目
その曽祖父は、足利尊氏・直義兄弟の曽祖父のに当たります。
(※「斯波、渋川、足利」の祖、三兄弟関係については
 本サイト『2-10』最初の方をどうぞ。)

渋川義季は、鎌倉での『中先代の乱』
反乱鎮圧の為に出陣、激戦の末自害して果てるのですが
(※『中先代の乱』は、鎌倉直義軍が大敗北し
 京都から駆けつけた尊氏軍が20日余りで大逆転したあれです。
 詳しくは、本サイト『2-2』をどうぞ。)
この時のエピソードとして
譜代の家臣と共に自害を決意した渋川義季
新参の家臣の進退は拘束せず、生きる道を選ばせようとしたのに対し
その家臣は、「弓矢の道に譜代新参の別はない」と
主君の冥途の先駆けを致すべく真っ先に自害し
渋川義季を感涙させた
という、まんま『文正記』の義廉母斯波被官のような話が
『太平記』にあります。
そんな渋川義季は、享年22歳
しかも、姉が直義の正室
その上、渋川義季の忠節に感嘆した直義
その死を悼んで
  世の為に 消にし露の 草の陰 思やるにも ぬるる袖かな
という和歌を詠んで涙を流した
ってゆう
初っ端から、良い話満載渋川家!!


ところで、そもそも「渋川」という "家名"(名字)について
足利一門がみな
"氏"(うじ。本姓)が「源」(みなもと)である事は
本サイト『2-6』最後の方の「名前の豆知識」で触れましたが
"家名" の方は、各々の本領のあった地名に由来します。
たとえば
足利、渋川、畠山はそれぞれ
 下野国足利(※現在の栃木県足利市)
 上野国渋川(※現在の群馬県渋川市)
 武蔵国畠山(※現在の埼玉県深谷市畠山)
しかも、この三者は
県こそ違えど、地図で見るとかなり近い位置にあるのです。
のちの妄想のネタになりますので、覚えておいて下さい。


さて、そんな渋川家
足利一門の名門中の名門「御一家」(=吉良、渋川、石橋)であり
京都だけでなく、関東九州にも拠点を持っていて
何気に結構な一族なのですが
ややフェイドアウト傾向があって
 「あれ? 気付いたら影薄くなってる」
みたいな所が、いかんともし難いチャームポイントです。


義廉は言わずもがな、ですが
足利政知(のちの堀越公方)の側近として
関東に下っていた義廉父の渋川義鏡からして
その後いまいちどうなったか謎。
最終的には
武蔵国の蕨(※現在の埼玉県蕨市)を領する一族のもとに身を寄せたらしい…が、はて?
 (※渋川義長が「関東在住」していたそうだ。)
ちなみに
「関東管領上杉との政治抗争で失脚した」
とも言われていますが
しかし、足利政知渋川義鏡は、京都の命令に真面目に従っていただけであって
野心の輩だったってのは、割とかなり謂われ無き誤解なので
案外、細々と堀越御所に伺候し続けていたんじゃないかなぁ
と思う、消えそうな感じで。
ま、この辺の事は

【松島周一『堀越公方と鎌倉幕府―奉行人布施為基の軌跡―』
 (日本文化論叢/愛知教育大学日本文化研究室編
  第18号 2010年3月)】
【佐藤博信編『戦国大名論集3 東国大名の研究』(吉川弘文館)1983】
 …の、「湯山学『四 堀越公方と相模国』」

などをどうぞ。


ただやはり、渋川家と言えば
「九州探題」としての顔が最も良く知られています。
渋川家が九州探題を世襲するようになったのは、渋川満頼の時からなのですが
それ以前の九州
室町時代開始以来、南朝方が比較的勢力を保っていて
それでもまあ、幕府方が優勢だったのに
『観応の擾乱』で一気にガラガラポンしてしまい
何がなんだか分からない状態になってしまっていました。
その後始末を任された
一色、斯波、渋川義行…が、どうにも攻略しあぐねた難攻不落の地を
ミラクル今川了俊が、マジカル探題テク
ほぼ統一達成してしまった、ってゆう。
しかし、功績宇宙レベル今川了俊は突如
探題職を解雇され
後任に渋川満頼が任命されました。 了俊かわいそす(´;ω;`)
この方針が
将軍義満か、または時の管領斯波義将による政略なのか
(※ちなみに、渋川満頼斯波義将の娘婿)
それとも、『難太平記』で了俊自身が語っているように
讒言に嵌められたのかは分かりませんが
まあ取り敢えず、「よ〜し〜み〜つ〜」と思っておきます。


さて、これ以後
代々渋川家が九州探題を務めていくのですが
まあその…あまり振るわなかったw
徐々にその勢力範囲は狭まり
やがて、博多を中心とした
こじんまりしたエリアの「探題さま」に納まってしまいます。
しかも、なんかいつの間にか、渋川満頼の弟の満行の家系に移ってるし
本サイトでもしばしば触れたように
周防・長門の大内さんにすっかりお世話になりながら
ただそれでも、地元では「探題さま」として不思議な敬意を抱かれて
消えそうで消えない灯を、ともし続けるのでありました。

まあ、この辺の事は

【黒嶋敏『九州探題考』(『史学雑誌』第116編 第3号 2007年3月)】

をどうぞ。いい視点の論文です。渋川ファン必見!



ちなみに、最後の渋川家出身の探題は、渋川義基
九州探題としての渋川家
ほぼ、大内家とともに終焉を迎えたと言えます。
そんな訳で、九州博多と言えば
  大内家か? 渋川家か!?
ってくらいのイメージであってもいいはずなのに…
誰にも気付かれていない。
もっと、渋川&大内で盛り上がってもいいはずなのに…なのに…


博多フェア


(※ちなみに、斯波義廉大内政弘
 義廉の正室と、政弘父の教弘の正室が
 共に山名宗全の娘なので、叔父の関係にあります。
 年齢はほぼ同い年ですが。
 さらに、義廉母は山名宗全のいとこなので
 実はこの2人、母方で見ると非常に近いのです。)



さて、渋川義鏡が関東へ下向し、義廉が斯波家に養子に入ったことで
京都の渋川宗家はどうなったかと言うと
どうやら、『応仁の乱』後も誰かしら在京していたようなのですが
(※参照…『長興宿禰記』文明11年5月23日)
しかし、永正年間頃、すなわち
『明応の政変』のその後の15年を経て、旧将軍が都に凱旋し
京都が十数年の「幻のほのぼの夢時代」だった頃の事として
当時の室町幕府の年中行事を記した故実書

 (…正月5日の「御一家」の公方への対面について)
 「渋川殿、近年は出仕無し

とか、書かれている。
もう居るんだか居ないんだか、きわどい線の上で見え隠れする
追えども掴めぬ、フェイドアウター渋川家であった。



ああ、しかし
どうですか、この渋川家の生き様の
狂おしいまでのフェイドアウティズム!!
この儚さに "美" を感じずにいられる日本人が
どこにいると言うのでしょうか?
押寄せる室町のアンニュイが、時の戯れ "今" を誘(いざな)えば
そこに彼らの「妄想物語」が始まりを告げる―――
…ってまあ、そんな事はどうでもいいのですが
私がなぜ渋川家をプッシュするか
分かってもらえて来たと思います。



ところで、上の系図には
義廉の子に「栄棟」(えいとう)とありますが
これは、喝食(かっしき、かつじき)だった頃の法名です。
(※喝食…幼少で禅院に入った、まだ有髪の小童のこと。)
「栄えある棟梁」とか、明らかにネタバレバレバレな法名ですが
まあ、取り敢えず今は
見なかったことにして下さい。 スルースルー




※※※ 以下余談、スルー奨励 ※※※

ちなみに、義廉のその後が気になって
ググってしまった方の為に申しておきますと

 「義廉は、鞍谷家とは関係ありません!」

この説は、既に疑問が呈されていて
私も関連史料等を確認し考えてみましたが
…うーんw どう考えても難しい説です。
従って、朝倉孝景の娘義廉に嫁いだ事実もありませんし
義廉の子息の諱(いみな)が「義俊」である証拠はありません。
しかも、この頃の義廉
実は、「斯波」ではなく「渋川」として認識されていたので
『余目氏旧記』の記述も、意味が異なってきます。
よって
本サイト『2-7』上から4分の1あたり
および、『2-10』真ん中より少し上でも触れましたが
『応仁の乱』前〜乱中の時期の "義廉の去就"
関東情勢に依存していた」という見解は
当時の武家社会の慣習家格秩序斯波渋川の関係など)と照らし合わせても
やはり、附会と思われます。

※※※ 以上余談、スルー完了 ※※※



まあ確かに
義廉の子孫の行方は、史料がほとんど残っていないので真相は闇の中ですが
僅かな可能性に賭けるなら
『鷹百首註』という歌集の存在が、大きなヒントになります。
まあ、この話はいずれまた。



という訳で
三夜連続でお送りした斯波義廉回
これ:;..:. にて :::;..::;.:.....
終わ:;....:り:;.:. :::と;..::;.:.....
:.::;.:. (´・ω:;.:... :::;..::;.:.....

(´・;.:... :;..:;.:.....
:;.:.....

;.:...


posted by 本サイト管理人 at 02:30| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年06月12日

山名宗全と細川勝元

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
『応仁の乱』のメインキャラ紹介を続けておきながら
この2人をすっ飛ばしたままなのもなんなので
今日は、遅ればせながら
『応仁の乱』東西軍の領袖――― 山名宗全細川勝元です。


細川勝元    山名宗全
(2015.6.7リメイク)


『応仁の乱』といえば、この2人が断トツの知名度…ってか
この2人しか知られていない、実際。
しかし、本サイト及び当ブログでも度々申し上げているように
宗全勝元大名頭だったのは
あくまで『応仁の乱』2ndフェーズ(しかもその途中)までです。
それでは、この大乱の真の姿とは…?


という訳で、その全体像を探るべく
応仁元年(1467)始め〜文明9年(1477)末まで
約11年間続いた『応仁の乱』を概観してみますと
だいだい、次の3局面に分けることが出来ます。



☆☆ 『応仁の乱』3フェーズ解説 ☆☆


――― 1stフェーズ(約2年)―――
 応仁元年(1467)正月の『上御霊社の戦い』と5月の『本戦開始』
 から
 応仁2年(1468)11月『足利義視の西軍公方はじめました』
 まで

 ※テーマ【細川勝元&成身院光宣院の
      西軍賊軍化イリュージョン It's showtime !!】

 ※副題 東西軍の、オールスターでマジ切れ夏祭り☆
  (…本サイト『2-8』 『2-9』 『2-10』


――― 2ndフェーズ(約5年半)―――
 応仁2年(1468)11月の『西幕府誕生』
 から
 文明4年(1472)正月の和議交渉開始とその後の頓挫
 文明5年(1473)3月山名宗全5月細川勝元の他界
         12月の『義尚の元服&9代目将軍就任』、を経て
 文明6年(1474)4月の『山名・細川両家の和解、山名東軍化
 まで

 ※テーマ義政の上意による義視の新将軍就任
      …を夢見る西軍であった】

 ※副題 東西幕府の、パラレル天下で side by side ☆☆
  (…本サイト、今のところ『2-11』 『2-12』


――― 3rdフェーズ(約3年半)―――
 文明6年(1474)4月の『山名の東軍帰参』
 から
 文明8年(1476)9月義政から大内政弘への天下和平の相談開始
         12月義政義視の書状での和解、を経て
 文明9年(1477)11月の『西軍開陣』
 まで

 ※テーマ【それでも、西の「本意」は永遠に―――】
 ※副題 【天下一統、妙椿フェーズ☆☆☆



☆☆ 結果…西軍諸大名の、在国はじめました ☆☆




こうして見ると
一般的な『応仁の乱』のイメージである

 「山名宗全 vs 細川勝元」

という、純粋な大名連合対決だったのは
実は、初めの2年だけ
洛中(京都市内)での戦闘が激しかったのも、この期間までです。
しかも、本サイト『2-6』 『2-7』
「乱に至る過程」からも分かる通り
本来、この2人は、非常に仲が良かった訳ですから

 「天下の覇権を狙う宿怨のライバル、遂に決戦の時!!」

…みたいな話ではありません、別に。
勝元はこれまで、舅(しゅうと)である宗全を、健気に擁護し続けて来ましたし
山名細川の両家は、家臣ぐるみで付き合いがあったのです。
それが、どうしてこうなったかと言えば
宗全 "やっちまい過ぎ"
(敵に回したら百害あって一利なしの)勝元
本気で怒らせてしまった訳ですが
おそらく、宗全としては
まさか勝元が、自分にミサイルの照準合わせてくるなんて
夢にも思っていなかった事でしょう。
たぶん、応仁元年5月の『本戦開始』時本音

宗全「おまえ…マジ切れするなら
   事前に予告ってもんをしろよ (´・ω・`) …」

だったと思う。
そんなほろ苦さを表現したのが、上の肖像画です。
ところで、宗全
「赤入道」と言われるほど、なんか赤かったようですが
一休宗純和尚によると

 「山名宗全は、赤面顔の鞍馬の毘沙門天の化身 …(中略)…
  その業は修羅に属し、その名はに属す」

らしい。
元祖、室町毘沙門天です。
しかも the修羅。 その上マウンテン。 役満です。


ただ、宗全単純にハチャメチャだったのではなく
どうやら妙に人望があったようだ、というのが
当時の日記等から受ける印象です。
ちなみに、ぶち切れ勝元の方は髪型がちょっと分かりづらいですが
これらの肖像画は、実は元々半身くらいの大きさで描いてまして
元の画像はこのようになっています。

細川勝元
(※クリックすると拡大するので、逃げて下さい。400×533px)
(2015.6.7リメイク)


なんか魔力で舞い上がらせているのでしょうか
それとも、数多いる内衆(家臣)が後ろから風当ててるんでしょうか
よく分かりません。
まあでも、勝元も意外とロックな精神の持ち主だったんですね。

…いや、それ rock やない、lock や。




(※2015.6.7 おまけ)

細川勝元






さて、これまで頑なに
西軍との和議を拒んできた細川勝元ですが
文明4年(1472)の年明けから
山名細川による「最初の本格的和睦交渉」が始まります。
…がしかし実はこれ
かなりとんでもない事になりました。(その上見事に破談
当時の関連史料は
「『大日本史料』文明4年正月15日」にまとまっているものの
結構、様々な解釈がなされ錯綜している部分ですので
ここで改めて時系列に注意して読み解くと…
真相はこうなります。

 正月15日以前に
 山名細川の間で和睦の話が持ち上がったが
 播磨・備前・美作の三ヶ国の件で
 山名と利害が対立する東軍の赤松断固反対
 その進退がネックとなる。
 東軍の構えを出ろと言われた赤松が
 御所に祗候と称して、大勢率いてとっ込んで来た…とか
 色々うわさが飛び交う中
 和議がまとまらぬ事への引責からか
 正月21日夜山名宗全切腹を図る。(?!)
 これは、家臣の懸命な処置で一命を取り留めた
 「宗全、入滅」のうわさまで流れる。

 2月16日宗全は改めて、西軍諸大名に対し
  「各々の申立てについて
   上意(=義政の意向)を伺ってみてはどうか」
 と提案したところ
 みな賛意を示し
 特に、日頃から公武に掛け合っていた畠山義就大内政弘
 事のほか喜んだという。
 ―――しかし
 3月5日以前細川勝元と、養子で跡継ぎの細川勝之
 家臣十余人と共に
 髻(もとどり)を切って遁世、出家を図る。(!!?)
 (ただし、これも未遂に終わる)


さて、後半部分にやや謎が残りますが
 (西軍は何を "申立てた" のか?
  細川父子&家臣の、突然の遁世未遂の理由とは?)

これを最後に、和睦交渉は頓挫したらしく
その後はむしろ
東軍から西軍への、攻撃の勢いが増していきます。(←ここも謎)
さらに
義政嫡男の義尚(よしひさ)の元服&将軍就任
翌文明5年(1473)(=3月に宗全、5月に勝元が他界した年)の
12月19日に執り行われたのですが
これは当初、同年2月には既に、来る4月22日に決定していたのが
4月に入って、急遽延引となった
という経過をたどります。(←ここも謎)
(※ちなみに、山名宗全入滅は3月18日)



という訳で以上から、後半部分の解釈を試みますと
2月16日に西軍諸侯義政に伺いを立てようとした内容は

 東軍方にとって、非常に不利な事だった」

のではないかと考えられます。
それに焦った細川父子が、隠居という最終手段にまで出た為
和睦交渉は決裂し
東軍は一転、西軍退治の方針を固める事になったと。
(例えば、西軍補給路の断絶作戦とかw ああ、腹減る。)


(※ところで、この細川父子遁世事件については
  「宗全が、勝元に対し
   養子細川勝之を廃嫡して、勝元の実子(母が宗全養女)を
   細川宗家の次期家督にするようを要求したので
   廃嫡に反対した細川勝之が反発した」

 との解釈がありますが… うーーーん
 史料にはそういう話は無いし
 宗全は、条件を強要する優位な立場にあった訳でもないし
 何よりこの説では
 "父子で" 遁世を図った理由を、説明出来ないと思います。
  (養父勝元に反抗して、2人で "一緒に" 遁世…って
   かなり不自然かと。))



では、細川父子がそこまで拒否った「西軍の申立て」とは何かと言うと

 和睦の暁には、当初の約束通り "義視の将軍就任" を」

と言う事だったと思われます。
これが、兼ねてからの西軍の主張だったのは
他の史料から読み取れる事実ですし
さらに…
義尚元服&将軍就任
これは本来なら、先例の関係で
初めから11月or12月に予定されてもいいはずなのに
なんだか、随分急ごうとしたように思われるのです。
つまり
  "義視の将軍就任" なんて事になる前に、一刻も早く義尚を!!」
というのが
東軍(それから御台とか)の切望する所だったのではないかと。


まあ、優柔日和見義政が万一
この「西軍の申立て」に同意してしまったら
東軍方の大名たちは相当ガクブルでしょう。
そうなったら、細川宗家の次期家督なんてどう考えても罰ゲーム
…と、細川勝之が思ったかどうかは知りませんが
細川父子と家臣の "隠居騒動" とはつまり
勝之の廃嫡云々といった家中の問題ではなく
 公方義政に対する、最大限の抗議だった」
と考えるのが妥当です。

(※大名将軍と意見を違えた時、よく隠居をチラつかせます。
 将軍が折れて慰留するのを分かった上でw
 これは室町の慣習…というかコント様式美です。
 ただ、この時の勝元達は、かなり本気だったと思う。)

(ちなみに、細川宗家の家督は結局
 翌年の勝元臨終の際、8歳の実子が継承しますが
 この時既に、宗全は故人である事からも
 細川勝之は、廃嫡を迫られた訳でも家督に執着したのでもなく
 むしろ、「"自ら" 次期家督を退いた」と考えた方が
 理に適っていると思われます。
 勝之は程なく遁世するのですが
 (『大乗院寺社雑事記』文明5年7月15日)
 この時期は、頼りの養父勝元が急逝し
 次期将軍は未確定(義尚の将軍就任はこの半年後)という
 先の見えない状況でしたから
 勝之の心境は、察して余りあるかと思います。)



…という訳で
この一連の騒動の果てに、将軍職は義政の実子義尚のものとなるのです。
まあ、東軍方大名の立場は分かるにしても
義視との約束がありながら、当然の如く義尚を新将軍に就任させた不義
許し難いものがありますが。




一方、西軍からしたら、この「申立て」
必ずしも、自分達の利害の為だった訳ではなく
彼らは純粋に
「義視の立場と行く末」が、心配だったようなのです。

これまでずっと
『応仁の乱』は、「東軍=是、西軍=非」の視点でしか見られて来なかったので
西軍「本意」が見落とされ
大乱がこんなにも長引いた原因
今日まで誰も、的確に説明出来なかった訳ですが
しかし、視点を広げて史料を読めば
西軍の大名たちの、時に切ないくらいの本音に出会えるのです。
(※特に『大乗院寺社雑事記』)
そしてまた、義視義視
何が何でも幕府権力を!…などと固執していたのではなく
常にを優先する、実に清々しい君徳を備えた主君でした。



…あーいや、今日は宗全勝元の話でしたね。
では、この続きは次回(→『晩夏の香り』)と言う事で
話を戻しますと
和睦交渉が決裂した翌年の
文明5年(1473)3月18日、そして5月11日
2人は相次いで世を去ります。
まあ、山名宗全70歳でしたから、当時としては大往生ですが
その後、2か月もしないうちに
細川勝元が流行り病により、享年44歳で急逝したことは
当時の人々に、因果を感じさせずにはいなかったようです。


再び分かり合える日を迎えることなく逝ってしまったのは
彼らにとって未練だったのか…
物事が、どうしても "否" で終わって欲しくない私は
無理にでも "答え" を探し出そうとしてしまうのですが
でも、『応仁の乱』といえば
常にその名を並べて語られるという事実だけで
十分、悪縁善縁に戻ったと
言っていいのだと思います。



ってゆーか、それはむしろスペシャル不名誉な事なんじゃ…
とか、言わない!
お、応仁の乱は、こう見えて "生んだもの" も多いんだから!(震え声)
越前とかね。 あと越前とか越前
それから―――
そう! 西幕府の思い出とか。

楽しかったなぁ…
あの頃の夏祭り
夏の終わりの、



posted by 本サイト管理人 at 23:00| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年06月16日

晩夏の香り

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏ウマー日記』です。
今日は、熊本生まれの初夏の柑橘
夏の日差しを切り取ったような色の
「天草晩柑」(あまくさ ばんかん)です。

天草晩柑

うーん、気持ちいいくらいにお日様色です。
sunshinesunrise です。

天草晩柑は、熊本県天草市や愛媛県のごく一部で
4月〜8月にかけて収穫される、わりと稀少なみかん
 「和製グレープフルーツと呼ばれるさわやか柑橘」
だそうですが
味はグレープフルーツよりも、もっと奥深く奥ゆかしく
甘さの少し後ろに見え隠れするほろ苦さ
ただひたすら楽しかったはずの夏の日々に感じる
あの不思議に切ない、届かなかった夢のような感覚に似ています。
…ってもう、うっとうしい解説はどうでもいいから
早速頂きたいと思います。 もぐもぐ

ウマーー(゚д゚)ーー!! ポロポロ(;∀;) ウマーー(゚д゚)ーー!!

しかし何と言ってもこのみかん、とっても香りがいいのです。
写真で伝わらないのが、本当に残念ですが
例えるなら…
今日まで忘れていた、あの夏の雲の彼方に憧れた心が
風になって舞い戻ってくるような……ってまあ、どうでもいいか。


ところで、天草晩柑
正式名称を「河内晩柑」(かわち ばんかん)といいます。
生まれ故郷の熊本県熊本市河内町(かわちまち)に由来する名なのですが
実は私、"天草晩柑" という別名を知るまで
"河内晩柑" は、大阪の河内国に由来するみかんだと思っていて
 「河内の晩柑かぁ…
  河内といえば畠山義就だな、じゃあ義就晩柑だな」
とか、あさっての方向に妄想を膨らませていました。
いや〜お恥ずかしい。
でも、これでみなさんも一つ勉強になりましたね。
…え、そんな勘違いしてたの私だけですか?

とは言え、一度刷り込んでしまった印象はそうそう上書きできませんので
私の中ではすっかり、河内晩柑義就であり
その香り
『応仁の乱』の西軍に、イメージが結びついてしまいました。

(※彼らが、なんか晩夏の夏祭り好きだったっぽい事は
 本サイト『2-7』「文正の政変」から
 大乱開始1〜2年の『2-9』 『2-10』をどうぞ。
 あと、どうでもいいけど当ブログ記事
 「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました」



さて、西軍と言えば
前回の『チラ裏人物記』の「山名宗全と細川勝元」の続きになりますが
乱の半ばで、2人が舞台を去ったその翌年
文明6年(1474)4月3日
山名家細川家は、大乱開始以来7年の決裂にようやく終止符を打ちました。
ここへ来て、年明けから急に進展したこの和議
前年末の、義政嫡男義尚への "将軍職継承" を受けてのものと考えていいでしょう。
義政から義視への "約束の実現" を夢見た西軍の「本意」
文字通り、に帰してしまったのです。


既に前年から被官人の出入りが始まっていた両家の間には
彼らを長らく隔てていた堀にがかけられ、人々の往来が始まります。
(つまり彼らはお隣さんであった)
この時の山名家当主は、宗全の息子の山名政豊
細川宗家の方は、勝元嫡男がまだ9歳なので
同族の細川政国細川成之が一族をまとめていたと思われますが
彼らは前当主、宗全勝元のように
諸大名に対しても主導的な立場にあった訳ではありませんでした。
4月半ば、山名政豊とその嫡男(のちの俊豊)は新将軍義尚に謁見し
名実共に東軍に帰参
西軍諸侯と袂を分かち、去って行くのです。


「山名の東軍化」という限定的な結果で終わってしまったこの時の和議ですが
実は、2月の時点では
東西諸大名の和睦が模索されていて
東軍方では、細川宗家と庶家武田等、そして畠山政長も賛意を示し
赤松だけはやはり反対の姿勢を崩さず
西軍方では、みなが賛同する中、畠山義就だけが同意せず
という状況でした。

つまり、東軍西軍
ほとんどの者は、和睦を「然る可し」と考えていたのです。
こう見えて彼らは「当初から天下静謐を目指していた」というのは
本サイトでも度々述べた通りですし
西軍諸大名にとっても、現時点での正統な公方
やはり東軍の義政なのです。
(※これは見落とされがちですが重要なポイントです。
 だからこそ彼らは
 義視への将軍職継承を認める "義政の上意"
 待ち続けていたのです。)
つまり、西幕府の夢が破れた今
自分達の利害、今後の事 "のみ" を考えたら
早々に和睦、もしくは東軍に帰順してしまった方が得策のなのです。
ただそれでも、結論に至らなかった。
それははなぜかと言うと―――
西軍の大名たちは、"義視の事" で揺れていたのです。


この時点では、既に将軍職は義政嫡男の義尚に譲られてしまっていますから
東西軍が和睦となれば
実は一番立場が危うくなる…というか進退が窮まってしまうのが
義視だったのです。

4月、尋尊にいつも "西軍方の情報" を届けていた
美濃担当からの話―――

 西軍諸大名は(義視との)主従が諦め切れない、と言う」
  (「諸大名主従未練事共也」『大乗院寺社雑事記』文明6年4月7日)

天下の無為に向け、一度は和睦の道を探るも
彼らはどうしても、義視との主従を思い切れなかったのです。
もはや、将軍になる道は断たれた主君なのに。
そして迷いの果てに、保身より主従を選ぶ決意をしました。
これが利害を超えたものであることは
『大乗院寺社雑事記』の

 大内政弘は、(義政と義視の)和与があれば
  今出川殿(=義視)に御供して東軍に参る、と言う」

   (文明6年4月18日)

 大内ほかの西方諸大名は、(義政と義視の)和与がなければ
  決して東軍には帰参しないと申し切り
  こうなったらもう、何年に及ぼうと耐え忍んでやる!
  との覚悟だと言う」
 (文明6年閏5月15日)

という記述に現れています。
たとえ将軍の道は断たれようとも
義視の立場が保証されるまでは、どんな困難も共にする
と決めたのです。


大内政弘なんて、分国の事が心配で本当は早い和議を望んでいたし
実際、いつでも、しかもかなり良い条件で帰参出来ただろうに
(※大内政弘は最終的に、義政から破格の待遇を受けているw)
それでも率先して
義視と進退を共にする道を選んだのです。
室町には
自己の利を後回しにしても「諦められない主従」が実在した
という、信じられないけど本当のお話です。



ちなみに、当の義視はと言うと
西軍の大名頭、山名宗全が没した翌月の文明5年(1473)4月
自身の進退について―――
美濃の持是院妙椿を通して、一条兼良に意見を仰いでいます。
(『大乗院寺社雑事記』文明5年4月23日)
一条兼良といえば
のちには、将軍義尚に「政道の指南書」を進呈している
仁政徳治の「王道」を熟知した、当時の一大博学者です。
つまり、義視を動かしていたものは "覇権への欲望" などではなく
道義的にどうあるべきか」という "正しさへの信念" だったのです。


大内政弘は、義尚、義政、義視への追悼に
胸打つ和歌をいくつも残していて
本当に面白いくらい素直で、にもにも溢れた人なのですが
それゆえ、義視への仕打ちやその境遇の理不尽さには
簡単には納得出来なかったのでしょう。
どうしても不義に屈することが出来ない
室町の武士の、どうしようもない(さが)と言えます。


つまり、この西軍の大名たち

  「道理と主従への、諦めの悪さ」

これが『応仁の乱』が延長に延長を重ねた、その真の理由だったのです。




室町「弓矢の道」
本当は一番この国らしい、最も素直な "武士の道" だと思います。
それなのに…
いつしか "本物" は偽りの塵に埋められて
賊の仮面に閉ざされた室町の真の姿を、誰も見ようとしなくなってしまった。
どうして、この時代が葬り去られなければならなかったのか
なぜ人は
"そこにある真実" よりも、"教えられた偽り" を信じ続けるのか
私には分かりませんが、しかし
室町『応仁の乱』から『明応の政変』にかけての時期は
本当にたくさんの日記が残っていて
講談や小説ではなく
真実なのに素晴らしい、宝のような話が数知れず実在します。
それを少しでも多くの人に伝えたい
どうか本物の歴史に感動してもらいたい
それがの、そしてたぶん彼らの願いです。




という訳で
たとえ西軍公方の将軍就任が叶わぬ夢となろうとも
義視の為に、義政との和与の実現だけはと願う西軍の彼らは
「本意」を貫くことを選ぶのです。 永遠すら恐れずに―――
畠山義就大内政弘
合戦に及ぶかどうか、今後の指針について持是院妙椿の指令を仰ぎ
以後、『応仁の乱』は3rdフェーズに突入するのでした。



それでは、この2年と少し後に "遂に" 始まる
「最終的な東西軍和睦」に至る交渉の
その切っ掛けとなったのは何か?と言う事ですが
それは―――
かつて「邪徒両三輩」と称された邪臣のうちの一人
義視に、誹謗中傷を浴びせ
賄賂私曲で幕政を汚し続けた御台の兄
文明8年(1476)6月14日に他界した事だったと考えられます。

(※ちなみに、この "京都の和睦の動き" について
 「東国の長尾景春の乱と連動する」との解釈もありますが
 うーん…
 確かに、足利成氏討伐の強硬姿勢を取り続けた東幕府方に対し
 西幕府方は、妙椿を中心として
 堀越公方足利政知(京都方)と古河公方足利成氏(東国方)の
 和睦の道を推進していたのは事実ですが
 最終的な京都関東の「都鄙和睦」は
 大乱終結の5年後なので、やはり両者は別問題であり
 因果を見出すのは、やや難しいのではと思います。)



この御台兄妹は本当に凄いですよ。
乱中、困窮した者達への金貸し利息膨大な蓄財
…は有名な話ですが(『大日本史料』文明9年7月是月)
この頃、公方義政への取次ぎはこの兄妹が独占していたらしく
話を通すには金・金・金
西軍大名との和平交渉では、間に入って相当な礼銭を得たそうだ。
(純粋に天下の和平を望んでいたなら、利権を利用して錬金なんてしない…orz)
平和って金になるんだなぁ…とか思う。
もちろん、それを自由にさせた義政の罪は計りかねますが。
(※他界する約1ヶ月前、御台の兄
 この家格の公家としては超異例の、左大臣に任官したのですが
 これは、前月から腫瘍を患い始めたため、昇進を所望
 義政が朝廷に執奏したんだそうだ。
 そのせいで、前日に左大臣に任命された九条政基たった1日で辞任している。…orz
 てめぇ義政!!
 本当におまえの近臣甘やかし分別無き慈悲はどうしよーもねぇな!)


まあでも、単なるお金好きならまだ良かったのですよ。
「誹謗中傷」による精神攻撃のほか
本サイト『2-10』で被害者となりかけた烏丸益光義視のように
気に入らない者を○す、というのは何とも…。
しかも御台は『明応の政変』で、人としての一線を越えます。
そして、被害者を助けるのはいっつも大名たち
…あーいや、この兄妹の話題は心がすさんで来るからいい加減にしよう。

(※御台の兄については
 本サイト『2-8』真ん中より少し上でも、多少触れましたが
 怖いもの知らずな方は、『大日本史料』文明8年6月14日のP.896
 肖像画の「自賛」を御覧下さい。(HPのデータベースで閲覧可)
   (((((( ;゚Д゚))))))ガクガクブルブルガクブルブルガク 
 私が、この兄妹名すら避けたがる気持ちが
 分かると思いますw )


さて
義視と対立関係にあった義政の側近
伊勢貞親と、御台の兄が幕府の中枢を去った事で
ようやく、「義政と義視の和解」が、実現の日を迎えます。
『大日本史料』文明8年12月20日の、義政から義視への書状には

 「あの時は、義視の言い分も聞かず
  讒言鵜呑みにしちゃってごめんね!
  次は絶対、ちゃんと話聞くから!
  これからは仲良くしようね!」 (超意訳)


って、おめー義政!!
初めからちゃんと義視の話聞いとけよ!!

(※ところで、伊勢貞親はいつの間に退場…
 と思われるでしょうが
 これは遡ること5年、文明3年(1471)の
 "朝倉孝景の越前での再始動" と関連します。
 ちなみに、「文正の政変」で伊勢貞親義視を謀殺…
 というのは、誤解が生んだ誤解だと、個人的には考えています。
 詳しくは、本サイト『2-7』真ん中より少し下をどうぞ。)



こうして、当初の思いとはやや異なるものの
西軍の「本意」は達成され
翌年、最後まで京都に残っていた大内政弘畠山義統
義視を伴った土岐成頼が一斉に離京した
文明9年(1477)11月11日をもって
西軍は開陣となり
長かった『応仁の乱』は、ここに終わりを告げます。
ただ…
西軍の大名たちにとっては、それは始まりでもあったようです。
というのも
東西軍の大名頭、山名宗全細川勝元が去り
義尚新将軍に就任し、山名家が東軍に帰参…と
次々に過去が清算され行く中で
望むと望まぬとにかかわらず、大乱終結のずっと以前から彼らは
"次の未来" に向き合い始めていただろうと考えられるからです。

 ―――それでは、彼らが見ていた明日とは?



ところで、『応仁の乱』の結果は一般に
 東軍の勝利、西軍の敗北」
であり、"京都を制した" 東軍諸大名に対し
西軍諸大名は、分国に "没落して行った" とされていますが
しかし
在京在国の違いはあれど、乱後の彼らは
公方への進物、幕命による軍勢召集段銭の徴収…などなど
(これは、かなり意外に思われるでしょうが)
幕府公方との関係では
東軍西軍も、それまでと基本的には変わらないのです。
やや(いやかなり)言う事聞かなくなっては来ましたがw
しかしそれでも
あくまで室町幕府は、公方大名"俺らで幕府" であり
将軍敬愛すべき存在である事に、変わりはなかったのです。


私は、『応仁の乱』の終焉がもたらしたものは
"勝ち負け" という結果なのではなく
これまでと変わらない明日を見ていた東軍に対し
西軍が見ていた、しかも明確な意志を持って見据えていた
  "少し違う明日"
なのではないかと考えています。


なぜなら
在国の道を進んだ彼らが帰った国には―――
  周防山口、美濃、能登、越前 (あとちょっと特別枠w、河内
場所は違えど、「同じ花」が咲くのです。
つまり、京都だけでなく

 「これからは、地方にも花を咲かせよう」

これが、共に過ごした西幕府の日々
彼らが語り合った "未来" なのではないかと
そしておそらく、既に城下町が栄えていた美濃の持是院妙椿
周防の大内政弘の「在国統治」が参考にされたのではないかと
やや妄想混じりですが、そう考えています。

「西軍諸侯の下国」とはすなわち
明日を断たれ、都に居場所を失った敗者の失意の没落なのではなく
確かな目的を持って、次の未来を掴む為に "自ら" 選んだ一歩だった
それが、11年の戦いの先に
彼らが見つけることになった「答え」なのです。



それは、夜半の日頭(=真夜中の日の出)を心に思い続けた
足利直義のように
の明日にを信じるような、途方も無いものだったかも知れないけれど
でも、信念の為なら、永遠を恐れず戦える彼らですから
まだ見ぬ日の出を目指す事に
躊躇(ためら)いなど、感じはしなかったのでしょう。

京都で追いかけた、でも半分しか届かなかった「本意」
少し苦い思い出になってしまったけれど
それぞれの国に帰った彼らの、今日から始まる新たな「本意」

    stand for sunrise

そして見事に彼らは
夏の日差しの色をした、懐かしい晩夏の香り
「小京都」という花を咲かせるのです。

(※stand for 〜 =(信念、主張など)〜のために戦う
    他には… 〜を支持する、〜を意味(象徴)する)



『応仁の乱』の後に彼らが進んだ "未来"
「戦国」ではなく、「黎明」だったのだという事実を
どうしても彼らに代わって伝えたくて
本サイトのタイトルに込めました。

(※普通に考えたら、応仁・明応という
 「戦国の黎明期」= the beginnings of SENGOKU
 なのですが、実はそうではなくて
  戦国に堕ちそうな時代の縁(ふち)で
   それでも黎明(=夜半の日頭)を目指した
   彼らの「本意」の物語」

 という意味で、英訳は stand for sunrise となります。
 …うん、まあ、割とどうでもいい話なんだけどね。
 でもこの「本意」
 足利尊氏、足利直義の時代にも当てはまるのはもちろん
 実は、『明応の政変』後の世界にも受け継がれ
 「応仁世代」の彼らの子供達もまた
 「黎明」のために戦う事になるのです。)




それでは最後に
楽しかった西幕府の思い出の一枚を。


西幕府の思い出


たぶん、真ん中で "座布団" 敷いてるのが義視
あとの、斯波義廉畠山義就畠山義統
大内政弘伊勢貞藤朝倉氏景は、適当に当てはめて下さい。
本当はここに土岐成頼もいるべきだけど
すまんw、『明応の政変』に繋がるキャラを想定してるんだ。



という訳で
『応仁の乱』という
長い長い西軍の夏
それでも終わらぬ「本意」のお話でした。



posted by 本サイト管理人 at 00:41| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記

2014年06月21日

畠山義就(その1)

(チラ裏シリーズ)

おはようございます、『チラ裏人物記』です。
畠山義就(よしなり)は、だいぶ前に畠山政長と一緒に
適当に終わらせたはずなんですが
余りに適当だったので、ここへ来て再登場です。

前回の『チラ裏ウマー日記』「晩夏の香り」
だいたい、『応仁の乱』のあらすじは終えましたので
今日は…

畠山義就
(2015.2.27リメイク)


「義就的『応仁の乱』」というコンセプトで行きたいと思います。


…とその前に
ここで一度基本に立ち返り
「『応仁の乱』の原因とは?」という
一言で答えろったって無理だろ常考、な疑問に触れておきます。
(※以下、適宜『チラ裏人物記』「山名宗全と細川勝元」
 「『応仁の乱』3フェーズ解説」を御参照下さい。)


さて
"対立関係" に視点を絞れば
初めの初め『上御霊社の戦い』 "義就vs政長" であり
4ヵ月後の『本戦開始』 "勝元vs宗全" であり
その後は、1stフェーズ全体を通して "東軍大名vs西軍大名" であって

 「 "義視vs義尚" という将軍家の家督争いではない」

という点に注意して下さい。
まして、『応仁記』に言う「西軍が義尚を託された」という説は
東西180度ひっくり返っています。
さらに、2ndフェーズにおいても
基本的に、義政義視は家督を争っていた訳では無く
義視は、義政の腐りきった近臣にぶち切れて西軍大名を召喚したのであり
西軍大名たち
義政からの、スムーズな将軍職継承を求めていたに過ぎません。
大内政弘からの、家臣麻生弘家への書状」を見る限りでは
当初は、結構その方向で話が進みそうだった…というか
そもそも、大乱開始後も依然として
義視次期将軍である事に、変更は無かった
と考えるのが理に適っています。

本サイトでも述べたように
西軍諸侯が、伊勢国に逃れていた義視(当時はまだ東軍)へ
必死にオファーを送っていたのは
決して
 「東軍の義政に対抗する為に将軍家の分裂を謀った」
のではなくて
その時点では
 義政が認める正統な次期将軍が、義視だったから」
なのです。
(※上記の大内政弘書状については
 本サイト『2-11』真ん中より少し上をどうぞ。)


ですから
もし、早くから東軍内「義尚将軍化の動き」があったとしたら
当時の人々もかなりの噂好きですので
誰かしら書き留めていそうなのですが…
これが意外にも、どの日記でも話題にされていないのです。
なので、2ndフェーズ終盤「義尚の将軍就任」
実は、一次史料だけ見ていると、かなり唐突な印象を受けます。

まあ、結果的に義視を追い出した讒言兄妹は
実子義尚を将軍に!との欲で密かに動いていたのでしょうが
定見無しで何にも自分で決めない義政は、ずっとのらりくらりしていたと思われ
"義尚新将軍" が突然既定路線となったのは、やはり
細川勝元勝之父子&家臣の「遁世騒動」
決定打になったのだと考えてよさそうです。
言っちゃなんですが
義政の成敗は、よく日記で「また、一事両様か!」と批判されているように
本当に、近臣に甘くて言われるがままに裁許を覆し
政道センスが皆無です。
(※ただし、義視にだけは切れるのが早いw
 まあこれも、信頼の裏返しだった訳ですが。)


乱の原因について、尋尊が終結時に

 「なんかこれと言った理由は見当たらんけど…
  まああれだ、公方の近臣
  賄賂でハチャメチャな朝令暮改を繰り返したからだ!
  公方の成敗がなっとらんからだ! んもう! んもう!」

  (『大乗院寺社雑事記』文明9年12月2日)

と言っているように
政道が乱れた事が、天下の激動に繋がった
という回答が、一番漠然としているけど一番的確だと思います。
(※この辺は、『応仁記』でも強烈に批判されています。)


厳密なまでに道理に基づいた政道というのは
確かに、それを受ける世の人々にとっては厳しいかも知れないけれど
それを貫く為政者にとっても
強い精神孤独を強いる、極めて厳しいものなのです。
6代目義教の正室三条尹子の内助の功と
超過するほど公役を負担していたその兄三条実雅の誠実さを思うと
蓄財三昧、私曲三昧の義政の御台その兄って一体…。

義教の裁許の厳密さを疎み
ひたすら許されるだけの政道を望んだ世への天罰か…
とか思いたくもなりますが
(※義教については→本サイト『2-5』
 長いですが読んで下さい。義教に代わってお願いします。)
こうなるとやはり、尋尊の後日談にあるように

 「何もかも天狗流星のせい!
  もう初めから不可抗力だったんだよ!!」

  (『大乗院日記目録』)

という、「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃぁぁ!!」説
最有力候補でしょうか。
ああ…学術的回答から遠ざかっていく…



でも、義政は自分の政治センスのなさを自覚していて
自ら望んで弟義視に将軍職を譲ろうとしたのに
まるで運命に邪魔されたかのように破局してしまったのは
弟直義に政道を託し、その幸せを心から望んでいたのに
"定め" に翻弄されて悲劇を迎えた足利尊氏の人生にも似ていて、考えさせられます。
…ただそれでも
いつでも室町は、明日を繋いでいった。
あの日の花火は、「小京都」という花に姿を変えた。
ならば、寛正6年(1465)初秋の夜空を裂いたあの赤い大流星
"終わりの宣告" だったのではなく―――
!!?
まさか、人々を "試しに来た" と言うのか!?
くっ! シャアめ、一体何が目的だ!…
(※ガンダムに例え出すと切りがないので、止めておきます。)




さて、ではようやく話を戻して
『応仁の乱』の嚆矢(こうし。オープン戦第一球)は
応仁元年(文正2年)(1467)正月18日の夕刻から
翌19日のにかけて繰り広げられた
  義就vs政長の単独決戦 『上御霊社の戦い』
という、当時としては衝撃的な洛中ファイトだった訳ですが
本サイト『2-9』の最後でも述べたように
義就政長は、これ以降
大乱終結まで正面切っての勝負はしていません。

政長はともかく、義就はちょっと意外な気もしますが
両陣営とも、割とチームワークを大切にしていたのかと。
大乱初期の朝倉孝景との連携とか
大乱中盤の、京都郊外での大内政弘軍とのコラボとか
なんか楽しそうw とか思う。
ついこの間まで、大和国の吉野でひきこもりをしていた義就
たぶん、友達が出来て嬉しかったのでしょう。
まあ、脱ひきこもりの祝賀上洛パレード「the修羅・改」の様子は
恐ろし過ぎますが。
(※参照…本サイト『2-7』←赤い大流星の話もこちら。
 あと、どうでもいいけど当ブログ記事
 「2-7 室町幕府の後半戦はじめました」



とは言え
義就のお友達になれるほどの勇気を備えた者は
やはり、そんなにはいなかったようで…。
文明6年(1474)2月
前年末の義尚新将軍就任を受けて、西軍内に諦め和睦ムードが漂う中
一人、首を縦に振らない義就のために
西軍公方義視は、西軍諸侯の会合を計画します。
義視…、本当は自分が一番つらい境遇だろうに。 (´;ω;`)ブワッ
さて、会場は義就邸が選ばれたのですが
当日は…
大内政弘しか来なかったww
(『大乗院寺社雑事記』文明6年2月)

さて、これは尋尊が聞いた話によると
 「他に誰も来ない上に、大内政弘も盃一杯飲んで
  そそくさと帰っちゃったから、義就が蒼ざめた」

となっていますが
しかし西軍内の状況を考えると、どう見てもこれは尾ひれが付いたうわさ
本当のところは
 「一人機嫌激ワルの義就の屋形で
  義視が大名たちの酒宴を開かせてみたものの
  みんな恐れをなして近寄らず
  唯一、大内政弘だけが義就を宥めにやって来た」

と言ったとこでしょう。
そりゃ、腹空かしたシャークさんの館に
ノコノコやって来るぽっちゃりあほペンギンはいなかろう。


大内政弘義就は、この2年前
最初の山名・細川間の和議がいきなり壁にぶつかって
山名宗全が切腹を図り洛中騒然…となった翌日

 「直接会って、お互いに決して見放さない事を誓い
  一揆同心した」
 (『経覚私要鈔』文明4年正月25日)

というくらい、本当に仲が良くて
義就が大乱終結の年の9月、分国の河内に下向する際は
大内軍が弾幕アシストで花道を整えています。

 グッバイ京都、forever!! 今度はいい夢見られたぜ!!!

(…まあ、前回のグッバイ京都(17年前)は切なかったからな。
 今度こそ forever で頼むぞ。
 ※前回のグッバイ京都→本サイト『2-6』真ん中より少し下)




…ところで
上記の文明6年(1474)の和睦(山名の東軍化で終わる)の際
義就が一人、頑なに反対したのはなぜだと思いますか?

東軍の赤松が、山名との分国の事で断固反対したように
義就も、政長との家督の事で…
と考えるのが普通ですが
しかし、大乱終結で京都を後にした義就
自力でいとも簡単に河内一国を "俺の国" にしてしまった上に
隣国の大和、山城、和泉にまで影響を及ぼすようになります。
つまり、その気になれば
いつでも単独で片を付けてしまえたのです。
従って、個人的な家督問題だけで、西軍仲間を引き留めようとしていたとも思えず
まして、一人未解決の問題を抱えていたため置いてけぼりを食らった…などという
弱い立場にあった訳でもないでしょう。


義就は、この最後の下向に先立ち
東寺願文を納めて
分国平定の「本意」を達せんことを祈願しています。
(※『大日本史料』延徳2年12月12日の、現存「東寺文書」
 いま「東寺百合文書」で話題の、あの東寺です。)


つまり、誓った「本意」は貫く主義義就にとって
それを途中で諦める事は、意地でも許せなかった
これが正解だと思います。

だから
「和睦已む無し」と傾きつつあった他の西軍大名
義就の屋形に行かなかった(行けなかった)気持ちがよく分かるw
 「ああ?おめーら魂(たま)ついてんのかゴラ!!怒怒怒怒怒」
とか責められたら、ちびってまう。
この和睦交渉が流れた後
祇園社への願文で、改めて決意を宣言し3rdフェーズに突入していった事を鑑みても
義就消極的理由で一人孤立していたのではなく
一貫して、強い意志断固「本意」の元に行動していたのだと言えます。
まあ、その意地の源泉が「義視への忠義か?」と聞かれたら
絶対認めないとは思いますがw



ところでこの時
義就が西軍内で一人、和解したくても和解できず
困っているとでも思ったのか
そこに付け込んで大金をせしめようと
 「現金で2100貫文の礼銭を払えば、進退について取り持ってやる」
との話を、御台の兄が持ちかけてきたそうな。
尋尊
 「とんでもない!!以ての外だ!!」
と、驚きと怒りを露(あらわ)にしていますが
本当に、信じられないくらい汚い人物ですよw いやワロえない。
御台兄はこの頃、公方義政への取次ぎを独占し
 「現金でなければ、一切話を通さない」
と言い切っていたといい
御台はと言えば
 「一天下之料足は此御方に有之様に見畢」
つまり、一天下の現金を吸い上げていたというから
尋尊
 「ああ、もう天下に頼れる者など誰もいない…」
絶望しているように
この御台兄妹によって、どれだけ世の中が汚されて
どれほどの人が困窮したんだろう…と思うと泣けくる。
(※以上『大日本史料』文明6年閏5月5日、文明9年7月是月)


まあ、ここまで来ると
何で周りの奴等は、こんなののさばらせ続けたんだ!
と思うでしょうが
しかし、御台に逆らうというのは、公方に逆らうのと同じ事ですから
残念ながら、みんなそのやり方に従うしかなかったのです。
また、大名たち公方に取り次いでもらうには
この御台兄妹に礼銭を贈るしかなかった訳ですが
そうまでしても、彼らにとって公方との関係は大事だった
と言う事でもあります。
ただ、それによって賄賂政治が助長され
『建武式目』の精神が穢されていく悪循環は何とも…
当時、それにNOを突きつける事が出来たのは義視くらいだったのですが
その義視が「将軍就任の道」を断たれた今
『室町殿』に巣食う魑魅魍魎
いよいよ、その欲望を暴走させて行くのでした。

(※ちなみに、新将軍義尚はまだ9歳なので
 御台の兄が「御代官として世務を指南」し「権威無類」で
 「和漢の重宝を山岳の如く集め置いて」いたそうだ。
 もう、なんだそれ!)



これが、御台(将軍の正室)または大方殿(将軍の母)が「強大な権力を持つ」という
当時の慣習の恐ろしい所です。
一方で、斯波義廉の母や、大内政弘の母(どちらも山名家)のように
武士の道を弁え
一族家臣の良き求心力となった立派な女性もいたので
その名誉を貶めるようで… なんか一層悔しいorz

しかも、この無双の権力の為に
『明応の政変』では遂に、世界は地獄を見る事になります。 はぁ…orz
ただ、この弊害は古来、繰り返されてきた訳で
歴史に学び、それによる惨禍を未然に防ぐべく
室町幕府創建の誓い『建武式目』には
 「今に始まった事じゃないが…
  権門貴族、女性、僧侶の口入は禁止な」

との条文があります。
(※これはもちろん、利権を悪用する輩の口利きに限った事で
 室町幕府では、高度な知識と人格を備えた公家僧侶
 大いに政道に参加しています。)



ああ、武家の政道というのは
本来、どこまでも清廉
美しく貫かれた厳しさの上に、分別ある慈悲を備えた
「王道」の中の「王道」だったのに!
なぜ義教が目指した「彼の岸」
人は信じようとしなかったのだ!
これが、厳密より甘い許しを選んだ世への呪いだと言うのなら―――
赤い流星の炎に、すべて焼き尽くされてしまえばいい!
天狗流星、行け! 忌まわしい記憶と共に!!」

( ( ゚д゚)ハッ! ファーストしか認めない私としたことが、逆シャアなど!!)


まあでも、そんなめったな事言うもんじゃない訳でして
実は…
『応仁の乱』終結のほぼ1年前
文明8年(1476)11月13日
紅蓮の炎は、『室町殿』を焼き尽くしてしまうのです。
たった一宇も残さずに―――


信じられますか?
あの大乱の中、10年の不落を貫いた「東軍の本陣」
あれだけの戦火を潜り抜けた「花の御所」
土倉・酒屋からの失火
欠片も残さず、焼け落ちてしまったなんて。

しかも、当時の『室町殿』
「将軍御所」のみならず「内裏」でもありましたから
朝家の累代の記録抄物楽器などの貴重な宝物も悉く失われてしまったので
笑い事ではないのです。
もちろん、義政の私物も、御台の物も、残らず焼失した上に
周辺の公家の屋形武家の陣所も、相当数が焼けてしまったそうだ。
(※ちなみに、この約5ヶ月前
 大徳寺あたりも数百家が火災で焼失している。)


洛中での戦火が鎮まって久しい乱の終わり
よりにもよって、中世の金融業者でもある土倉・酒屋からの火で。
…こんな最後って、あるのでしょうか。
ただし、当時の御所(幕府)の内情は
政治が汚染されていただけでなく、連日の大酒でかなり堕落していたそうで
それを思うと
人々の業が招いた、因果という定めだったのかも知れないけれど
でも…
乱前は、四季を通して無数の花が咲き誇り
人々が行き交った華やかなりしあの日々の記憶がもう戻らないなんて
あまりに悲し過ぎる。
10年の戦いを刻んだ牙城は、なぜ沈んでしまったのか…



『室町殿』は消えた、なぜだ!」
「坊やだからさ」
なんつって、ププッww
って、冗談言ってる場合じゃないですよ!
もう、なんなんだこの暗示的な終わり方は。
本当に…『応仁の乱』の勝者は、東軍なのか?
と考え直したくなってしまう。
確かに、東軍西軍は "終戦協定" を結んだけれど
ホワイトベースは沈んでしまった
という、あのやる瀬無さ。

(※ちなみに、"東軍が京都を制した" とは言いますが
 その後、在京を安定して継続した大名は実は少なく
 大半は、乱後の後始末(またの名を、地方の延長戦)で
 分国への下向を余儀なくされたのでした。)


ああ、終わってしまうのだろうか…
室町はもう、やり直しも許されぬまま、赤い炎と共に―――

坊やだからさ

!!?
おい、誰だおまえは!
シャア…じゃないな、ん?
その特徴的なきのこるカットは、もしや―――
ってゆーか、立ち位置それでいいのか? なんか違うようなw
まあでも、室町が続くなら何でもいっか。

(※正体が気になる方は、とりあえず気休めに
 「坊やだからさ」で画像検索して下さい。)



あれ、なんか義就の話、半分もしてないような…まあいいか。



posted by 本サイト管理人 at 05:18| Comment(4) | ★チラ裏人物記