2014年07月01日

畠山義就(その3)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その2)」は、めし道の話で終わってしまったので
今度こそ修羅道の話をしたいと思います。
という事で改めまして

畠山義就


…なんかちょっと、ゆるふわ系なのが気になりますが
でも良く見ると
表情には、隠しきれぬ修羅ビリティーが溢れています。
ちなみに、隣で義就にケーキを自慢されている不憫な人
本サイト『2-9』真ん中より少し上の元絵を御覧下さい。


さて、『応仁の乱』は最終的に
文明9年(1477)11月11日の
 足利義視&土岐成頼の美濃下向
 畠山義統の能登下向
 大内政弘の周防帰国
を以て、終焉となりますが
(※ちなみに、伊勢貞藤義視に御供して美濃へ行きましたw)
義就的『応仁の乱』フィナーレ
この約2ヶ月前で
9月22日、義就は一足お先に河内へ下向します。
(※以下、詳しくは『大日本史料』文明9年9月22日)


まあ、これは東軍からしたら「西軍義就の没落」なのですが
その実態はというと…
義就下向後の洛中の安心安全対策として、西軍公方義視の要請で
持是院妙椿配下の美濃・尾張・近江三ヶ国連合軍300騎が上洛し
下向に際しては、大内軍のアシストがついたりと
準備万端のVIP待遇だった上
当の義就軍の様相たるや…

 先陣遊佐25騎、次斎藤の13騎、甲斐庄19騎
 そして、大将義就75騎、射手80人超、楯180兵超
 その次隅田・平19騎、淀小橋7騎、御厨屋、後陣誉田42騎
 ―――都合、馬上200騎超、甲冑兵2000人超!!


「あれ、なにその凱旋…」みたいな
祝賀帰国パレード「the修羅・改・帝王降誕編」という状態でした。
あーあ、誰だよ
義就をここまで成長させちゃったアホは。
(※おっと、先見の明の無い(いや、ある意味ある)
 義政の悪口はそこまでだ。)


京都ではこの時
義就の行く手を遮ろうとする者は誰一人現れず
「衆人見物」する中、悠々とを後にする行粧
東軍方の者達もみな「見物」していたそうだw

って、おい!
まあでも、気持ちは分かるよ。
ってか、義就のパレードとか見てみたいわww
いいなー、生で見られた当時の人たち! とか思う。
ちなみに
南山城大和・河内・和泉などの周辺国の一部には
「義就警戒令」を出して、通せんぼを試みたようですが
まあ…その、無駄な抵抗だったようだ。
当初、畠山政長方だった河内国内の城は、次々と(そして軽々と)義就方に落とされ
早々と「俺の国」になってしまった河内の、さらにを目指して進む義就
やがて "その地" 「俺の城」を築き
(※正しくは、既にある城郭のそばに新築した屋形
栄える城下町に囲まれて
わりと幸せな日々を謳歌する事になります。

まあ、これまで散々な人生だったからなw
神様が、最後に休日を与えて下さったのだろう。
(…ん?南河内といえば、"あの森" に鎮座まします…)



さて、この辺の様子については
『大日本史料』または『大乗院寺社雑事記』をつらつら読むと
当時の情景がリアルに再現できて楽しいのですが
簡潔なまとめなら
 【森田恭二『応仁大乱と奈良』
  (大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究論集第2巻』
  (和泉書院)2003)】
がお手軽です。
それから、畠山関連の研究としては
 【小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』(清文堂)2003】
がお勧め、考察に隙がなく的確です。




ところで、義就下向の際
東軍は「触らぬ修羅に祟りなし」状態だったとは言え
まさか、政長もぽかーんと見物してたんか!!?
…という訳では断じてありません。
実は政長はその頃―――
「蟄居」していたのです。(※蟄居(ちっきょ)…自宅謹慎)

この蟄居に関して、現代の考察では
義就を下向させる口実か?」とか「自分から身を引いたんだろ」
などと解され、軽くチキン疑惑まで持たれていますが…
断じてそんな事はありません!!!
政長
政長は…
ひと月前にを亡くし、喪に服していただけなんだぁぁぁーーーー!!
(※『長興宿禰記』文明9年8月19日)


自分では身動きが取れない代わりに
大和紀伊、伊勢の軍勢に協力を要請すべく
「義就退治」の後土御門天皇の綸旨、義政の御内書を願い出て
それなりに、政長も頑張ったのですが
(※『大日本史料』文明9年9月28日)
母の中陰(四十九日)が明け
ようやく幕府に出仕が叶った10月9日には
既に、ほぼ河内は義就化した後だった、ってゆう。 ちーん
(※『大日本史料』文明9年10月9日)

畠山政長
    (いるよね、こういう奴。)


ってゆーか政長、お前ってやつは…
なんでそう、いつもピンポイントで、寸分違わずどツボ突いて来るのだ。
不憫(ふびん)仲間の斯波義廉さえも、ダブルスコアで引き離す
室町不憫界のMペラー畠山政長
(※M(エム)ペラー…M界のエンペラー)
義廉(もと渋川義廉)は、なんだかんだ言って
どこに流されようと、板倉さえいればなんか楽しそうだしw
政長の足元にも及びません。
(※板倉渋川家の譜代の重臣。主家に命を捧げている。)


ちなみに、この「政長の蟄居理由」(=母の喪中)ですが
指摘しているとか論文見た事ない。(´;ω;`)ウッ…
政長、いつも謂われ無き不名誉ばかり被って…可哀相なやつ。
きっと名誉挽回してやるからな。
(逆に貶めてないか?とかいう疑問は置いといて。)



政長の何が凄いかって
こんなにも、ずっこける級のかわいそすキャラでありながら
のようなエピソードを多数残し
ごく稀に本気出した時の武勇伝が、かっこ良すぎる
という意外性です。
人々から、これでもかと賞賛される廉直な人柄とか(『金言和歌集』)
時の管領でありながら
正月参賀では、摂関家以外の公家の館にも自ら訪問する腰の低さとか
(『大日本史料』文明13年正月1日)
乱後、すっかり政道に背を向けた義政に、みんなお手上げ状態だったところ
政長が何度も説得した結果、少しは政務を執るようになった
とか。(『大日本史料』文明13年3月29日)

"あの" 義政を感化したんですよ?
こ、この時期の義政政道に振り向かせるなんて…
政長、お前っては…もう!!
という訳で、全会一致で
日本史上の「七大珍歴史」に認定したいと思います。


それから、武勇伝としては
『上御霊社の戦い』とか『相国寺の合戦』とか既に出揃っていますが
特筆すべきは
文明11年(1479)7月2日の
行宮(あんぐう。仮の皇居)の火災です。

大乱終結の前年に『室町殿』が火事で焼失した後
後土御門天皇は、それより二町ばかり北にある
柳原の北小路殿を、皇居とされていたのですが
約3年の後、そこもまた火事に… (´;ω;`)ウッ…
しかし、その時の「主上救出劇」
政長が大活躍するのです。

家臣を多数引き連れて駆けつけた政長
御物等を速やかに運び出し
周辺の家々にも火が回って、路次の安全が危ぶまれる中
脱出経路の確保、輿の乗換えなど
すべて政長の指示で危機を脱したとの事で
「臨期の忠節、比類なし」と主上の叡感甚だしく
政長はその功により、御剣を賜ったのでした。
しかも、その御剣
以前、幕府から後花園帝に進上された「無双の御物」
まさに「美目至極」だったそうだ。(※美目…ほまれ、名誉)
(『大日本史料』文明11年7月2日)



例えばこれが "戦" なら
事前に心構えが出来ているし、相手は人間ですから
勇敢に戦えるの者は珍しくないでしょう。
しかし、「燃え盛る炎」という
人の意志では計れない突然の脅威を目前にして
素早く的確な判断が出来る人間というのは、そうそういないと思います。
まさに人の本性が試される火災の現場で
最高の勇気と冷静さを発揮する政長
…とかもう、かっこ良すぎるwww
この窮地に陥った時こそ本領を発揮」する政長の特徴は
良く覚えて置いて下さい。
『明応の政変』において
 「なぜ政長は、あのような行動に出たのか?」
という疑問を解く、大きなヒントになります。




―――という訳で、どうですか
この雑魚キャラレベルの運の無さにして
絵に描いた勇者のようなエピソードの数々!!
もう、この人ホント好きw 面白すぎるwww
普段めっぽう大人しく従順に生きて来たというのに
何の因果か
 「気付いたら『応仁の乱』オープン戦のマウンドに立ってた」
という、天に選ばれし不憫王
しかも、生涯の敵が史上最難関の男・義就。 ついてねぇーーwww




おっと、今はその義就の話をしてたんだった。

まあでも、もし政長が蟄居中じゃなかったとしても
義就を止める事は、たぶん出来なかったと思います。
なぜなら、尋尊に言わせれば―――

 「義就 "当時の名大将" 、逆らう奴はアホ。
  政長、どうすんだろ…」

 (右衛門佐は当時名大将也、可敵対者更以不覚事也
  又左衛門督進退可為如何哉)
     (『大乗院寺社雑事記』文明9年8月14日)

尋尊の人物評は、基本的に公平で贔屓が無く
むしろ武家には、厳しいコメントの方が目立つのですが
その尋尊が、思わずもらした本音がこれですw …ってゆうか orz


ちなみに、義就の河内下向は
政長蟄居(8月19日)以前、8月6日には既に決定していた事なので
 「政長が動けない隙を突いて、退散した」
という訳ではありません。
そんなタイミングで亡くなられた政長の母上
一見、いつもの政長の "ついていなさ" かと思いきや
無理に出陣して、余計な犠牲を出さなかったという意味で
最後に、天寿をもって息子の窮地に答えを与えた
お母様の機転だったのかも、知れない。



まあでも、義就
全く追いかけてくる気配の無い政長に対して、内心…

 「え、いいの? 俺行っちゃうよ?(チラッ
  あれ、誰も来ない…俺行っちゃうよ、いいの?(チラッ 」

と、何度も後ろを振り返ったに違いない。たぶん。
と言うのも
河内の誉田城が攻め落とされた際
城を守っていた政長方の家臣37人は、自害の最期を遂げたのですが (´;ω;`)ブワッ
義就はその首を丁寧に―――
京都の政長の元に送り届けたのだw
(※「討ち取った敵将の首を相手方に送る」というのは
 "弓矢の道" に適った正しい武士の道義です。)


「あれ、政長来ない…俺の事忘れてんのかな…」
とか、ちょっと寂しがっていたかどうかは知りませんが
実は義就は、"弓矢の道" を弁えた戦い方をする武将なのです。
(※例えば、捕えた敵方の兵が
 他国の者だった(=自身の分国河内の者ではなかった)ので
 助命してまで奢り、政長方に送り返した
 という、ぬくもロックな話がある。
 『経覚私要鈔』寛正2年6月21日)


やっぱり畠山家は、なんだかんだ言って
"名ある武家の筆頭" だな、と思わせてくれる
そんな、「武士の道義」をしっかり備えているのが
義就政長の素晴らしい所です。
(ただし…いやそれ故義就は、裏切り者にはめっちゃ厳しい。)
しかもこの2人は
自身「前線に罷り出る」
という、管領家らしからぬ戦い方をするのがまたが好き。
(※例えば、義就は上記の『経覚私要鈔』寛正2年6月21日
 政長は、本サイト『2-9』真ん中辺りの『相国寺の合戦』)
斯波義敏(よしとし)はもちろん
細川勝元さえ、実戦に出た事無いと思う。
まあ、それが普通なんですが
やっぱり、武家としては魅力に差が出てしまうw





さて、当時の河内国では
北河内の「若江城」、南河内の「誉田城」
2大要所だった訳ですが
義就は、この誉田(こんだ)の地に腰を据え
かつて西軍仲間と誓い合った…かも知れない
"地方に花咲かす分国統治" を開始します。

(※旧西軍大名の分国では
  河内国の誉田(畠山義就)、周防国の山口(大内政弘)
 能登国の七尾(畠山義統)、美濃国の川手(土岐成頼&妙椿)
 越前国の一乗谷(朝倉孝景)

 …などのように
 家臣を集住させて、地方都市を発展させたのが特徴です。
 この類似した城下町
 やっぱり偶然ではないと思うんだけどなあ。)


うん、まあでも
義就河内守護じゃないんだけどね、てへ☆
(※乱後、結局義政に赦免を受けなかった西軍主要メンバーは畠山義就のみ。)
でも、どう見ても普通に河内守護してて
大和国とか和泉国の堺とか、しばらくは南山城も "ほぼ" 管轄下
「自称実質守護」として、みんなに頼られてもいた、ってゆう。
(※参照…『大日本史料』文明16年5月6日とか
 あと、上記の畠山関連書籍の第二部第一章とか色々。)

ただ、それでいて義就
畠山家の分国の一つ、紀伊国には手を出していないんですよ。
(※紀伊の高野山の僧兵と、根来寺の僧兵が
 それぞれ義就方政長方から援軍を得て戦闘に及んだ事はあるが
 これは元々、高野山根来寺が不仲だった事による。
 (『大日本史料』延徳2年7月12日) )
つまり、無闇な領土拡大を望む覇権主義ではなかった
それがまた、好きなところです。

(※それ故、紀伊国はこれ以降
 どんな時も、政長方畠山の味方であり続けます。
 特に、『明応の政変』後の15年の間
 一時はすべてを失いかけた畠山尚順(政長嫡男)を
 一貫して援護し続けた粉川衆根来衆仁義郷土愛
 "室町美談" の随一です。
 紀伊はまさに、政長方畠山の帰る場所。

  「…まだ僕には、帰れる所があるんだ。
   こんなに嬉しい事は無い――― 」

 おっと、またガンダムが始まった。
 でもホント、畠山尚順の15年は涙ですよ。(´;ω;`)ブワッ
 お楽しみにw )



一方、本当の河内守護・政長
『応仁の乱』後、再び管領に就任し
しばらくは京都で、幕府の仕事に追われる日々を過ごします。
だから…
河内奪還が遅々として進まないw(´;ω;`)
紀伊越中の2か国は無事に治めていたものの
乱後しばらくは、実は山城守護でもあって
経済的にきゅうきゅうになりつつあった幕府財政の為に
同国の「幕府御料国化」を進めようとしていたのですが
これまた不運にも南山城
ある日を堺に、激しく義就化してしまい
政長では、両畠山のバトル勃発で埒が明かなくなり
やがて、業を煮やした某きのこる先生の策略で…あ、あんな事に!!



ところで
『応仁の乱』では決着が付かなかった義就政長の、その後の関係ですが
基本的に、公方義政の意向は「義就治罰」
政長を擁護し続けました。
(※ただし、この背景には多分に伊勢貞宗の計略があったと思われる。)
しかし、義就が河内及び周辺地域を
 「わりと平穏にw統治している」
という厳然たる事実の前では
そうそう幕府といえども、優勢を得ること叶わず
やがて伊勢貞宗
山城国人や、義就の赦免を強く望む越智古市(=義就方大和国人)と関係を結ぶ事によって
"戦略的妥協策" へと、路線を変更して行きます。


(※ちなみに、文明17年(1485)の「山城国一揆」
 民衆(山城国人)が幕府権力を廃し、自治権を獲得した…
 という従来の説は誤解で
 実際は
 山城国の「幕府御料国化」を実現させるために
 国人一揆という建前で、両畠山を撤退させた

 張良・伊勢貞宗の策です。
 詳しくは
 【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】
 …の、第二章をどうぞ。

 そもそも、山城守護に関しては
 以前から、伊勢貞宗の主導で話が進められて来たのだし
  (『大日本史料』文明13年7月10日、文明15年正月是月)
 結局、この翌年には
 伊勢貞陸(貞宗嫡男)が守護に就任しているのです。
  (つまり、幕府権力排除どころか
   黒幕は "もろ幕府の策士" だった、ってゆう)
 伊勢貞宗は極力証拠を残さない策士ですが
 これは、和泉国の堺南荘の一件と酷似しているので
 その関与は、疑いの余地が無いと思います。
  (『大日本史料』長享元年10月3日) )



さて、一方政長
文明14年(1482)に本格的に河内に出陣し
ややゴタゴタがあったものの
この年の8月の終わり頃
橘嶋正覚寺(誉田城の少し北)への進軍に成功してからは
そこに在陣して、義就と対峙を続けます。
(※この正覚寺とは、"橘嶋正覚寺" という地域or都市名でもあり
 "正覚寺城" という城名でもある。)

ただし、基本膠着状態
以後はあまり戦闘行為には及んでいなかった模様。
和泉や北河内、山城など
離れた所では、局所的にやや派手な衝突はしていたのですが
当の本人たちは、一番近くで…何してたんだろ。
かなり疑問。
しかも、この正覚寺については
もっとどえらい謎がある。
「うん?んん?」と、かしげた首が
360度ぐるんと回って戻って来るくらいの謎。
お前らは、本当に対陣…して… んん?んあ?


まあ、いずれにしても
政長は、どうしても自分の代で
この問題に決着をつけたかったのだろうな、と思います
"ある理由" から。

しかし、『応仁の乱』終結から13年が過ぎた
延徳2年(1490)12月12日
その "答え" を置き去りして
義就は、病により他界。 享年、数え54歳
人生の半分以上、30年間
実の従兄弟、かつ義理の兄弟政長との
"長い戦の物語" として綴った一生でした。



そして、この2年と2か月後
大乱終結以来15年、未解決だったこの問題に
遂に終わりを告げるべく
時の将軍、足利義材(義視嫡男)率いる "諸大名連合" の幕府軍として
政長は、義就方畠山(当主は義就次男畠山基家)の居城
河内の誉田城を目指して出陣します。
(※ただし、当初は話し合いによる和睦を想定していた)

しかし、その2か月半後
公方の留守を狙い
京都で、御台細川家、そして伊勢貞宗による新将軍擁立クーデター
『明応の政変』が起こり
畠山基家と密かに通じていたクーデター政権によって
足利義材は将軍の座を追われ
そして―――
政長はその翌月、出陣先の正覚寺で自害し、果てるのです。
義就に遅れる事、2年半
またも闇の中に取り残された "答え"
以後、彼らの子供世代、すなわち「明応世代」に受け継がれ
ここから再び、朝を探す戦いが始まるのです。





さて、ちょっとしんみりしてしまった所で、最後に一言。
上で述べたように
乱後の義政は、(もとからやや厭世傾向があったとは言え)
すっかり政道に意欲を無くしますが
(※ただし、完全に退いた訳ではない)
その理由は
 「大名たちが公方の下知(命令)に従わなくなった」から
という事でした。
(…と言っても、実際はみんなそこそこ素直に聞いてたと思うけどw)

まあでも
幕府は何かしら "建て直し" を迫られる状態だったのは事実で
そんな幕府救世主
政所策士・きのこる伊勢貞宗先生だった訳です。

(※伊勢貞宗の活動は、表面的には見えづらいので
 これまでスルーされて来たようですが
 この時期の幕府の実態は、貞宗抜きには解明出来ません。
 まあ、至る所で石づき…じゃなかったしっぽ出しているので
 今後、貞宗研究が進む事を期待しています。)


とは言え、そんな幕府のしわ寄せはもちろん…
政長にw
(※例えば、公方関連の仏事料を、みんな納めないもんだから
 政長が一人で負担したり。(´;ω;`)ウウ…
 (『大日本史料』文明17年8月8日))

というか、政長が怒らないのを良い事に
伊勢貞宗は、強引な策略取り過ぎだろww とか思う。
まあ、問題山積でイライラしてただろうその気持ちは分かるが
山城の事とか、両畠山和睦未遂事件とか
和泉国の堺南荘(※当時、政長の管轄下だった)とか
先に相談してやりゃいいのに、いっつも事後承諾で
お人好し政長は振り回されてばかり、ってゆう。
ただ、これらの事案を鑑みると
『明応の政変』でも、伊勢貞宗政長
暗に "何か" を期待していたんじゃ無いかな…
というのが私の推測です。

まあでも、政長死んじゃうんだけどね。(´;ω;`)ブワッ
しかも、それでも最後まで
貞宗の事は友達だと思ってたっぽいんだけどね。(´;ω;`)ブワワッ




とにかく
義就政長の家督問題については、ホント
公方義政近臣が、メチャメチャな事繰り返したせいだと思う。
2人とも、公方には健気なくらい敬意を持っていたのに
公方の気まぐれで何度も裏切って
不誠実極まりない!
ちなみに、この文明18年(1486)の両畠山和睦未遂事件では
また政長は、泣きを見るw
事前に相談もなく、不意打ちで「義就赦免」ですよ?
これは、どう考えても
『上御霊社の戦い』がフラッシュバックしたはず。
(あの時の義政は酷かった、うん。)

これも、シナリオ書いたのは伊勢貞宗だけど
言い出したのは―――
ボンボン義尚てめぇーーー!!
室町は終わって欲しくないけど
おめーらは一度天誅を食らえ!
…って、めったな事言っちゃいけませんw
何より、義就政長自身が
そんな事これっぽっちも願っていませんからね。
決して公方の不幸を望まないのが、室町の武士なのです。
だから余計、泣かせる。

(※義就は、こう見えて実は
 義就の方から幕府に反旗を翻した、と言えるような事例はなくて
 赦免とあれば、いつでも応える準備があったのです。)



まあ、義就政長も、色々と誤解されていますが
私は、運命に翻弄されながらも
武士としての道を守り
最後まで挫けもせず、堂々と生きた彼らの一生を
出来るだけあざやかに描き直し
その魅力を伝えられたらと思っています。



posted by 本サイト管理人 at 02:52| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年07月09日

畠山義就(その4)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その3)」
畠山政長の「かわいそす物語(´;ω;`)ブワッ」で
終始、泣いて終わってしまったので
今度こそ、戦々慄々とした話をしたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就


…ややモフモフですが
『応仁の乱』の11年は、彼らにとって
夢の中のモフモフみたいなものだったそうです。
ちなみに、義就と差しで酒が飲める数少ない貴重な友達
本サイト『2-10』最後の元絵で、ご確認下さい。


あと、ついでに天野酒について説明しておきますと
河内国の名酒「天野」
室町幕府の武家故実によると
畠山家が年に3回、二月、七月、十二月の朔日(1日)に
5樽を進上する慣わしになってた、という
由緒正しき伝統の日本酒です。(しかも、今も健在です)
ちなみに
「河内がバトルで取り込み中の時は、京都の柳酒で代用」
とかいう決まりまである。
このお酒は、朔日の出仕で幕府に参上した人々に振舞われ
「管領以下、事のほか沈酔して退出」する
ここまでが武家故実です。 彼らは何しに来てたのか。
(※以上、群書類従22『公方様正月御事始之記』)



さて、前回までの解説で
『応仁の乱』後の世界のイメージが、なんとなく掴めて来たかと思いますが
いきなり「戦国」に突入…なんて事では当然なくて
引き続き彼らは
公方大名とで構成される「幕府」という秩序のもとに
生きていたのです。
…まあ、その中身は、色々と変更が加えられた訳ですが。


乱後の幕政については、追々どっかで語るかも知れませんが
取り敢えずは
 【鳥居和之『応仁・文明の乱後の室町幕府』
  (久留島典子編『展望日本歴史11』(東京堂出版)2006)】
を読めば、だいたい宜しいかと。
いかに、これまでの一般的な歴史認識
現実と乖離していたかが分かると思います。


そもそも、京都というのは
当時の政治経済文化の中心、主上が御座する
日本の最大都市ですから
『応仁の乱』後、荒廃したままだった…
なんて事は有り得ない訳で
ちょくちょく洛中で大きな火災が起きている事からも
家々の再建、人々の往来の回復は進んでいたのです。
ただ、乱前までの京都の繁栄寺社の規模は相当なものなので
それに比較すると、「ありし日の京都」とはかけ離れてしまったのは事実です。
しかし、それでも京都天下の中心であり続けました。
"つい最近" まで、この国の都が京都であった事は
改めて考えてみる必要があると思います。


さて、大名同士の関係はというと
東西分裂が解消されれば、彼らはまた、以前のように "同僚" に戻ります。
室町武士てのは、こう見えて基本「和」を好む生き物で
何事も無ければ泰平を一番に望むのです。
(※これは、『応仁の乱』や『明応の政変』(+その後)での
 大名たちの言動から見えてくる事実です。)
ただし、いざ戦うとなれば
とんでもなく勇敢ハチャメチャメチャ強い
というだけであって。


ところで、『応仁の乱』の終結
最終的に西軍が解散した文明9年(1477)11月11日ですが
西軍諸侯は、正確には
義政からの赦免(または東軍帰参)を以て
各々、正式に「幕府の一員に復帰」となります。

大半は、"終結後" に改めて赦免を受けたのですが
"終結前" に東軍へ帰参した例では
例えば…
越前の朝倉孝景
文明3年(1471)5月21日、越前守護職委任の義政の御内書
石見の益田貞兼
文明4年(1472)11月13日、所領安堵の義政の御教書
が、それに当たります。
(※ただし、彼らが西軍と関係を切っていなかったのは
 既に述べた通りです。
 それから、朝倉 "越前守護職" については
 少し詳細な説明が必要ですが、まあ、いずれまた。)


それから、山名政豊
文明6年(1474)4月の「細川との和睦 & 東軍帰参」ですが
これは、西軍との関係を清算した上でのもので
その後、洛中で明確にとして戦闘しています。
(※『大日本史料』文明6年7月7日、26日、8月1日など)
まあ、山名宗全亡き後、山名家の存続を考えたら
西軍より、細川との旧縁を取るのは仕方無いかな、とは思うけど
西軍の筆頭山名家が…と思うと、ちょっと切ない。


そして、大内政弘
乱終結ひと月前の10月3日(義就河内下向の11日後)
従四位下、左京大夫に叙任された上
周防、長門、豊前、筑前の4か国守護職と、石見・安芸の所領を安堵される
という、ペナルティ0どころか超VIP待遇を受け
帰国途中には、義政から
 「帰路、順調みたいね、うんうん。
  これからも京都西国の為によろしく頼むね、うんうん。」

という、嬉しそうな御内書を下されていて
どっからどう見ても、敵でも敗軍でもありませんw
まあ、大内家ほど
朝廷にとっても幕府にとっても天下にとっても
めっちゃ役立つ最強な武家は、そういないからな。

ただし、これは乱終結 "以前" の事ですから
形式的には「東軍への帰参」となるので
一見、西軍からの離脱(そして、西軍公方義視への反意)
と受け取った者も、少なくない様ですが
しかし、尋尊にはしっかり

 「今出川殿(=義視)、土岐成頼、大内政弘、畠山義就、畠山義統
  こやつらは、相変わらず一味同心してるらしい」


との情報が漏れていた、ってゆうw
(※以上、『大日本史料』文明9年10月3日、11月11日)



ただ、西軍の同盟が乱後も変わらなかったと言っても
それは決して
 「あわよくば、またを蒸し返して天下転覆しめしめ…」
などと、せこい欲心を抱いていたのではなく
基本的に泰平、無為を好み、「礼節」を弁えた彼らは
幕府に(概ねw)従順、協力的です。
ただ、11年同じ時間を過ごし
すっかり仲良くなった彼らの友情がその後も続き、事ある毎に助け合った
というだけの意味です。

彼らは単なる "寄せ集め" ではなく
同じ「本意」を共有し、共に戦い続けた仲間ですから
その繋がりが、そう簡単に終わるようなものではない事は
想像に難くないと思います。
(※特に大内政弘は、22歳から32歳という
 人生で最も熱い時期を、西軍に捧げているw)

ただし、もし天下の正義が侵される事があれば
彼らは再び共に立ち上がるでしょう。
そしてその日は、15年後
『明応の政変』という形で訪れる事になるのです。



さて、一方 "乱後" 赦免組み
乱終結翌年の文明10年(1478)
 2月27日の六角高頼
 7月10日の、義視、土岐成頼、持是院妙椿
 9月1日の畠山義統
 10月22日の京極高清

が主なところです。

ちなみに、六角高頼については
なんか、独断専行の抜け駆けっぽい行為だったらしいw
(『大日本史料』文明10年2月27日)
六角高頼は、あれだけ助けてもらった美濃斎藤家への裏切りといい
都合が悪くなるとすぐ、旧西軍諸侯に擦り寄る日和見さといい
本当に訳が分からん。
まあ、旧西軍大名たちは気の良い奴ばかりだから
それでも、見逃されていたかも知れないけれど―――
ボンボン義尚さんは甘くないで。
近江に幕府丸ごと移動する非常識さでとっ込んで来るで。 そのうちなw


それから、美濃衆の義視、土岐、妙椿の赦免は
以前から、妙椿、それから伊勢貞宗が計画を進めていた
 大々的な「義政と義視の和睦パーティー」
といった様相のものでした。
(※義政義視は、既に内々の和睦は済んでいます。)
7月10日に、義政から赦免の御内書が下され
義視、土岐、妙椿の使者(名代)が、それぞれ御礼の進物を持って参上
8月23日に、殿中で一献と御対面があり
名実共に、目出度く東西は一つになりました。


ちなみに、この時の義視の名代は、伊勢貞藤の息子の伊勢貞職
そして、使者50人の京都の宿の準備なども含め
全面的にサポートしたのは伊勢貞宗
(だから当然、両伊勢家連携があったと思われる。)
ついでに言うと
上記の大内政弘の東軍帰参、官位叙任の斡旋も伊勢貞宗
以後、旧西軍諸侯
幕府・公方との関係において、伊勢貞宗にお世話になりまくります。 
越前の朝倉なんて、貴殿様とか呼び始めるほど
伊勢貞宗は、京都に居ながらにして彼らを手なずけ…
ではなくて、父貞親の「遺訓」を固く守り
すっかり社交的に成長したのです。
(※少年伊勢貞宗の超絶人見知り&ひきこもり属性については
 当ブログ「伊勢貞宗」をどうぞ。)

(※ちなみに、貞宗は旧東軍大名との関係も良好で
 若狭守護の武田国信とは、特に親しかったようですが
 個人的な付き合いが目立つのは、その被官たちです。
 赤松被官の浦上とか、細川被官の上原とかはかなり要チェック
 やつらは、屋形(主君)より伊勢貞宗の指示で動いてたくさいw マジで。)


そのほか、文明13年(1481)5〜6月頃
大内政弘の重臣、陶弘護
伊勢神宮への参拝のため、こっそり上洛した際は
家宰の蜷川親元を遣わせて乾杯贈り物を贈答し合った
という、見違える人付き合いの良さw
この、伊勢貞宗天下の潤滑油的立場
清濁併せ呑んで、すべてを味方に取り込んでしまう手腕は
重要ポイントなのでよく覚えて置いて下さい。
(そして、彼らを繋ぎ留める事は
 形を変えつつあった幕府の "存続" の為であり
 延(ひ)いては公方の為であった、という事も。)



実は『明応の政変』において、伊勢貞宗は一見
人が変わったような、かなりヘビーな個人プレーに出ます。
バランスを保っていた天下をぶち壊し
これまで築いた信頼を、かなぐり捨てるような。
しかし、伊勢貞宗本来の行動原理を知っていれば
これは、富や権力に目が眩んだ浅はかな愚行…なのではなく
もっと別の理由があったのでは無いか、との可能性に気付くのです。

(※伊勢家にとっての公方とは?」を探るには
 群書類従の「伊勢関連故実書」を数種類、読んでみるのが一番の近道です。
 百聞は一見にしかず!
 彼らは、足利将軍家に仕える家であることに高い誇りを抱いていたのです。
 …決して、形だけのドライな主従ではなく。
 伊勢家が守り伝えた「礼節」
 公方を戴く武家社会の根本、幕府の秩序の根源ですが
 しかし、彼らの本当の宿命とは
 第一に公方を守る事」
 そして公方が帰る場所である京都を、その日まで守り抜く事」
 …たとえ
 どんな手を使ってでも――― (←ここが一番のポイント) )




ところで
実は、能登守護の畠山義統
妙椿たち美濃衆と一緒に、8月に使者を上洛させたのですが
赦免までに一人だけちょっと時間差が出ている…のは、なぜかと言うと
もともと、義政赦免の御内書
土岐成頼妙椿
寺社本所領の返還に応じまーす!」との請文を提出し
その代わりに下されたものだったのですが
畠山義統だけは、その請文が未提出だった為
赦免の御内書が下されていなかったのです。

未提出…といってもこれは
畠山義統が一人でワルだった…とかいう訳では決してなく
美濃に比べて能登が遠方だった為に
 「速やかに上意が伝わらなかっただけ」
という、単なる手違いだったのですが
そのせいで、畠山義統の使者は一人
進物を受け取ってもらえず、待ちぼうけを食らってしまいますw


しかし! ここに
 「改めて御内書を下せば、畠山義統は上意に従うはずだから」
と、間を取り持ってくれた人がいて
無事、9月1日に御内書が下され、使者は御礼の進物を献上し
一件落着となりました。

この時、畠山義統の誤解解消に一役買ってくれたのは
誰かと言うと―――
旧東軍で現管領の畠山政長です。
ずっと義就に味方し続けていた畠山義統を、ですよ。
政長公平さ気立ての良さは、本当に素晴らしい!!

(※他にも、『親元日記』文明15年6月27日で
 畠山義統から義政への進物の取次ぎを引き受けていたり。
 旧西軍大名の取次ぎは基本、伊勢貞宗なのだが
 やつはたまにドS政策を取るのでw
 (※ドS政策については→当ブログ「畠山政長と伊勢貞宗」
  それから『大日本史料』文明11年5月是月) )

足利直義畠山政長のエピソードは
なんか、調べてるこっちが恥ずかしくなってくるほど
本当にきよきよ侍で困ります。

(※以上、『大日本史料』文明10年7月10日)



あと、ちょと分かり難いのが一色義直
文明6年(1474)5月7日
山名政豊と同時期に、子の一色義春(当時9歳)が義政に謁見し
一応、東軍に帰参、という事になったようですが
これはどうやら、旧領回復の為の戦略でもあったようで
京都では東方として、義政から三河国の「御判」を得て
在地では西方として、細川成之の被官(東軍)と戦っていた、とか。
ただし、乱後の一色
"在国 & 城下町繁栄路線" の旧西軍大名とは違い
"基本在京" の旧東軍大名的性格の方が強いので…うーん、何とも。


まあしかし
義政の、ほいほい許す全方位慈悲成敗はひどいですよw
三河国の他に、一色の旧領の丹後国・伊勢国も認めちゃうから
その頃、丹後に進攻していた隣国若狭の武田と丹波の細川
寝耳に水の「え、ちょっ!そりゃないよ」状態で
三河の件もあって、東軍内で内輪揉めが勃発。
そして、東方だった伊勢国司の北畠政郷(伊勢に在国)は
この「一事両様」の成敗に激おこして
 「よろしい、ならば…西軍化だ!」
と、乱終結年に、まさかの滑り込み大転回ww
終いにゃ、北畠政郷畠山義就親子分になるほど意気投合し
乱後はすっかり
西軍ネットワークの一員として活動していた、ってゆう。
(※以上、『大日本史料』文明6年5月7日
 文明8年9月12日、文明9年5月18日、9月24日とか)

義政は「大名たちが言う事聞かない!」
と嘆いていたけれど
まあ、その天性の政道センスの無さにも問題があったと。




あと、最後に
禁断(?)の斯波義廉についてですが…
背景の詳細を端折(はしょ)って、無責任に結論だけ言い放ちますと
文明15年(1483)4月
越前を治める朝倉の、主君(=屋形)である事が認められました。
……。
な、なんだってーー!!?

しかし、これはもちろん
斯波家の家督を認められた、という意味ではなく
(※斯波家督は、旧東軍の義敏系斯波
幕府に復帰したのでもありません。
(※義政の御内書の御礼は、朝倉だけが進上している)
極めて内々の赦免だったようですが
義廉は、朝倉の主君 "渋川義廉" として越前に在国
遂に安住の地を得たのです。

(※参照…『大日本史料』文明15年3月19日とか、『朝倉家記』とか)
(※それから義廉の復習は…当ブログ「斯波義廉」
 「(続き)」 「(続きの続き)」をどうぞ。)


ちなみにこれを
 「朝倉が、傀儡主君として義廉を立てた」
とする考え方がありますが、そうではありません。
もしそうだとしたら、秩序を守る立場の幕府
 「元被官の朝倉が、元斯波家家督(しかも足利一門で御一家)を
  傀儡にする企てに賛同した」
という、余りにおかしな話になってしまうからです。
そもそも、東軍となった朝倉
 「旧西軍の義廉を推戴させて下さい!」
なんて、かなり言い出し難いお願いですよ、普通に考えて。
そんな無理な願いが通ったのも
この頃の朝倉が、地道に謙虚に
守護としての役目を果たしていたから、だと言えますが
(※参照…『親元日記』とか色々)
それだけではなく、実は
義廉その子息が越前に迎えられたのは、この約1年半前の事なのですが
それには、美濃の斎藤利国(妙椿跡継ぎ)の協力があったのです。
(『大乗院寺社雑事記』文明13年10月6日、11月4日)


これがもし
義廉を "単なる傀儡" として利用する朝倉の企みだったのなら
西軍ネットワークの中心的存在の斎藤利国
旧西軍仲間義廉への不義を、許すはずはないでしょう。
つまりこれは、義廉の為でも、朝倉の為でもある
「西軍の総意」だったのであり
しかも、ただ匿うだけではなく
内々とは言え、義政からの承認を獲得したのは
むしろ、「旧恩への報い」と言ってもいいと思います。

(※ちなみに、フェイドアウター渋川である義廉自身は
 幕政に復帰する意志も、斯波家督への執着も
 あんま無かったと思うw 尾張に居た頃から。)



なんか、中世の主従って
ふた言目には「傀儡」で済まされる傾向があるけれど
個々の事情を勘案せず
何でもかんでも「傀儡」と言って片付けてしまうのは
考察の放棄でしかないと思います。


(※ところで、この "義廉認証" の一件は、実は
 この当時、義敏嫡男の斯波義良(のちの義寛)と甲斐
 乱後も "越前奪還" に執念を燃やして
 同国へを挑み続けていたのですが
 彼らと朝倉との、「和睦」の一環だったのです。
 従って、義政の御内書は斯波義良側にも下されていて
 この時は、義政の(珍しくまともな)成敗を受け入れ
 越前を諦めて、尾張に帰国した斯波義良ですが
 しかしなんと
 その後、将軍が「義尚→義材」と変わるたびに
 話を勝手に白紙に戻して、訴訟を繰り返して来るのです。
 一旦承諾した公方の成敗を、一方的に無かった事にして、ですよ。
 風向きが変われば、過去の誓約を破って
 良く事情を知らない新将軍を味方に、自身の利を図ろうとする
 …ってそれはおまえ、あまりに卑怯だろ。
 気持ちは分からなくも無いが、義政の立場はw
  (ってか、『長禄合戦』から『文正の政変』の
   斯波義敏のハチャメチャわがまま放題を考えれば
   "斯波宗家家督&尾張国&遠江国" を獲得しただけでも
   奇跡の棚ボタだってのにw)
 まあ、これらの一連には全て
 事情を良く知る伊勢貞宗が一枚噛んでいた(←ここ重要ポイント!)
 という事と
 朝倉は、立場は弱いが味方が非常に多かったので
 簡単には、斯波義寛側の主張は通らなかったのですが
  (※実は、朝倉の東軍化は、単なる義政の気まぐれではなく
   伊勢・細川・赤松など
   東の主要メンバーの多くが関わっていた)

 …しかし、『明応の政変』で斯波義寛
 そんな恩をかけてくれた将軍義材をあっさり見捨て
 またまた新将軍に取り入った為に…やがて遠江国まで失う事に。
 因果って容赦ないよね。 (´・ω・`)… )


まあ、色々と疑問は残ると思いますがw
この辺の真相は、追々語っていく予定です。





という訳で以上
乱後の彼らが、どのように日常に戻って行ったかを見てきました。
まあつまり、割と仲良くやってたんだよ!w
この辺りは『大日本史料』が刊行済みなので
でもHPのデータベースでも、ぱらぱら目を通して見れば
 「あれ、まだ余裕で幕府続いてるじゃん」
と、納得されると思います。

旧西軍諸侯は、義政にも義尚に対しても
素直に公方として敬意を持っていたし
義政義尚にとって大名たちは
旧東・旧西関係なく、みな等しく部下であり
彼らは、怨みを引きずってなどいなかったのです。
(※まあ、尋尊
 ちょっとでも雲行きが怪しそうな噂を聞くとすぐ
 「ああ!また天下分裂か!!」と毎回絶望してはいるがw)

まあつまり、大名たちにとってはやはり
"俺らの公方" であり、"俺らの幕府" であり
それが彼らの日の本なのです。
そしてもちろん、主上にとっても。


これは、非常に見落とされている点ですが…
武家政権の本質というのは、天下の「公」ですから
私的な「幕府乗っ取り、公方追い出し」と言った行為は
社会の利益を損なう反道徳的・非人道的な行為となります。
現代から、過去の事件を "歴史" として眺めていると
善悪の意識を感じる事は少ないと思いますが
当時の人々も何も感じなかった…なんて事はもちろん有り得ず
秩序の破壊や、私的で身勝手な天下の翻弄というのは
極めて受け入れ難い悲惨な出来事で
それゆえ、「道義」「礼節」を弁えた武士ならば、望む所では無いのです。
まあ、天下への良識があれば
疑問憤りを感じるのは、自然な事だと思います。

そしてそれは、武家に限った話ではなく…
主上と公家(つまり朝廷)は
武家 "私的なゴタゴタ" には介入を拒みますが
(当然ですね。奴等のヒャッハーには付き合ってはいけないw)
しかし、それがもし
"天下の安寧" を害するものだった場合は―――


『明応の政変』
今上天皇後土御門帝は、どの様に受け止められたと思いますか?
これは、単なる叡慮の推量…ではなく
『明応の政変』の核心に迫る超重要ポイントです。
いずれ、史料的証拠を以て、解説する予定です。



ところで
長い間、"つい最近" まで
この国の「公」であり続けた武家社会
その「秩序」ごと、ある日消えて無くなりました。
それは、単なる時代の変遷だったのか
それとも―――
もしかしてこの国は
伝統文化のような、この国をこの国たらしめる
失ってはならない "根幹" を失って
今、"何か" が欠けている状態なのか…


この命題は、ちょっと壮大なので今は保留して置きますが
武家とは、単なる "封建時代の身分" だったのではなく
日本独自の "条理" の一端であった、と言う事は
本サイト『2-4』真ん中より少し上「武家政治について」で
ざっと述べた通りです。
もしあの時、人為的に国を作り変え "過ぎて" しまったが為に
今、アイデンティティーを失った状態なのだとしたら
この国の "真相" というのは
それ以前の歴史に探すしかありません。





さて、今回ここまで義就の話まるで無し!
お詫びに、心優しいその友達の話をして終わりたいと思います。

『応仁の乱』半ば、文明4年(1472)9月23日の宵
周防国から、京都に訪れる者がありました。
 「尋来当大内而上洛」(『大乗院寺社雑事記』)
大乱初年に上洛して以来
5年経っても未だ帰らぬ主人、大内政弘を尋ねて
一人、遠路遙々やって来たのは…

     水牛!! (もー)

なんか、人に連れられずに、牛単体が歩いて来たらしいww
って、なんだよそれ!!
尋尊
 「所存如人倫云々」(なにそれww人みたいwwww)
とか言ってますが
この水牛は、単なる牛ではなく
政弘父の大内教弘が、唐土(大陸)から取り寄せた2匹の内の1匹で
頭から尾までは3m15cm、角の長さは85cm、その幅は15cm
という
当時の日本では大変珍しく、そして立派な水牛でした。
何しろ、「牛車」(ぎっしゃ)は当時の最高級の乗り物でしたから
こんな立派な水牛は、人々の羨望の的、大いに注目を集めました。


しかしまあ、ご主人様の帰国が待ちきれず
会いに来ちゃったんですかね。

 「すぐ帰るって言ったのに…」

と、東の空を遠く見つめるも太郎
 (※大内も太郎…私が勝手につけた名前)

 「そうだ、会いに行こう。(・д・) 」

周防山口に別れを告げ、長い旅路に出る決意をしたも太郎であった。

泣ける!!
一見、ドナドナのようですがしかし
牛の方から来た訳ですから、これは―――逆ドナです!!
大内さん優しいから、きっと泣いちゃったと思う。

大内政弘

 (※以上、『大日本史料』文明4年雑載)


ああしかし
ドナドナを超える感動の牛物語
500年以上前の日本に、存在していたなんて!!
『応仁の乱』は、一体いくつの奇蹟を内に秘めているのでしょうか。
これは満場一致で、日本史上の「七大珍歴史」に認定でいいですね。
いやもう、映画化決定
ハリウッドがアップ始めるレベル
映画『逆ドナ』―――そして全米が泣いた。


(※ちなみに、ちょっと冷静に考えて
 もともと、大内政弘が京都に運ぶよう指示したのだが
 港で荷降ろし最中に逃げてしまい、単体で上洛

 とも思ったが、こんな稀少牛逃がしたとなったら
 家臣は血眼で捜索に当たるはずだし
 普通、人里離れた草むらを目指すだろうに…なぜか上洛
 大内政弘の居場所を知っていたのか?
 だいたい、なんで途中で誘拐されずに無事入洛してるんだよ!
 当時の治安、どうなってんだよ!
 まるで謎。)


ところで、このも太郎
5年後の大乱終結に当たり、主人大内政弘と共に周防に帰国…したのではなく
朝廷に献上されたのです。
(※公方に進上、との記録もあるが
 どうやら幕府経由で主上に献上されたらしい。
 以下、『大日本史料』文明9年11月11日)

確かに、大陸から取り寄せた水牛なんていったら
超超高級牛ですから、一目見ようと諸人が市を成し
廷臣ワクテカ炸裂するのは分かりますが
しかし、最後の西軍(大内・義視・土岐・畠山義統)が京都から去り
遂に、11年の大乱が幕を閉じる
という記念すべき瞬間だと言うのに
なんか

 「大内たちがいなくなるーーー!!」
 「大内の水牛が来るぅぅーーーーー!!!」

みたいな感じなんですよ、みんな。
おい、それでいいのか?
主要大名オールスターで戦い続けた『応仁の乱』
みたいに歩いてきたに、話題かっさらわれて終わるとは…
これがホントの
 『もー人(にん)の乱』
なんつってw

…って、ふざけんな! 俺たちの11年を返せ!!


わきかねつ 心にもあらで 十とせあまり ありしは うつつ

 (あー俺的にどうなんだろ、とか思ってたら
  いつの間にか10年以上経ってたwww 夢見てたくさい…)


これが、『応仁の乱』の本質を最も的確に詠い上げた
西軍筆頭大名、大内政弘の一首です。 (『拾塵和歌集』より)
詞書によると
この頃「心ならぬさまにて都に」いた、という大内政弘
どうやら、こんなに長居するとは思ってもいなかったらしい。
つまり彼らは…
夢の中のモフモフに騙されていただけなんだよ!!



という訳で
「応仁」に始まり「もー人」に終わった11年でした。
それにしても、大内政弘はホント、気持ちいいくらい気前が良いですね。
も太郎も、大出世です。
ご主人様に会いたい一心で逆ドナしたら
まさか、朝廷VIPドナされる事になるとは。
 (※VIP(びぷ)ドナ…VIP待遇のドナドナ)
文明9年(1477)11月17日
後土御門天皇叡覧に供せられるも太郎であった。

ご主人様は周防に帰っちゃうけど
新しいご主人様は、日の本の天子様だ。 頑張るんだぞ。

 短い…間だったけど…
  ご主人…様と、一緒、に、過ごせ、て…楽しかった…です
  いつ…までも、お元気、で――― (・д・) 」


号ーーー泣うぅぅーーーーー!!!
ああもう、前が見えなくなってきた。
オペラ『VIP(びぷ)ドナ』
バレエ『も太郎の湖』
全世界が泣いた!!



てゆうかも太郎メスだったらごめん。



posted by 本サイト管理人 at 23:19| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年07月16日

畠山義就(その5)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その4)」
に話題かっさらわれて終わってしまったので
今度こそ、の話をしたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就
(2015.5.29リメイク)


なんか、本人どん引きしていますが
このうっとうしい薔薇は、一体…?



さて、今回は冒頭からガンガン義就の話で攻めて行きます。
まずは、「諱」(いみな)から!

義就というは、「よしなり」と読むのですが
しかし、「よしひろ」という読みが併記されている事もあります。
ってか、最近は「よしひろ」説のが優勢か?
しかし、自称義就マニアの私が、ここで決着を付けたいと思います。
義就

 「よしなり」です!!

そもそも、「よしひろ」説の出所はというと
『東寺百合文書』
寛正2年(1461)正月23日付け、義政の御内書の写し
(※金剛峯寺(高野山)衆徒に、義就退治への合力を命じたもの)
その本文中の「義就」「就」の部分に
 「ヒロト云々」
という、注意書きが添えられている事に由来します。
しかし、「云々…」という言い方がなんか引っかかる。

東寺は、義就以前から畠山家とは親しい関係があったようですが
その東寺関連の記述と言う事を考えると
これは、むしろ
 「え、今まで「なり」だと思ってたけど「ひろ」だったの??」
みたいな
 「一般的には「ひろ」とは読まれていなかった」
的な印象を受けます。
つまり、その時たまたま耳にした意外な風聞
不確かなまま、とりあえず書き留めただけなのではないかと。


そこで、当時の他の記録を探すと
 『応仁略記』 『応仁私記』 『金言和歌集』(略本)
に、「なり」の記述があるのです。 
(※ちなみに、「ひろ」は他に見たこと無い)

 「河州よりゑもんのすけ よしなり」 (『応仁略記』)
   (※義就の官途は、右衛門佐)
 「惣門のつめにたむろをなしたる畠山義なり (『応仁私記』)
   (※この他に「義なり」×2、「よし就」×2)
 「右衛門佐よしなりが時よりそ…」 (『金言和歌集』(略本))

まあ、写書を繰り返すうちに、後世の人間が仮名書きにしてしまった
という可能性もありますし
これらは、日記ではありませんが
全て、当時をリアルタイムに知る者達が関わっている上に
『応仁略記』畠山家に近しい人物によるものらしい事
『応仁私記』当事者からの証言を書き留めた "聞書" である事
そして何より
三者が「なり」共通している上
上記の東寺の記録以外に、「ひろ」が見当たらない
というのは、偶然とは言い難いので
やはり当時は、「よしなり」と読まれていた可能性が
最も高いと考えられます。
という訳で、義就の読みは

 「よしなり」です!!

ってゆうか、「よしひろ」より「よしなり」の方がかっこいいし…
じゃなかった、これは極めて真面目な考察です!
きっと、賛同してもらえると思います。


ちなみに、義就は初め
元服した義成(のちの義政)から「義」の偏諱を賜り
「義夏」と名乗っていました。
(※父持国が亡くなり、中陰が明けた時「義就」に改名。)
「夏」がつく諱って珍しいし、これもなんかかっこいいw
義就の誕生日は5月13日なので、その関係でしょうか。
(※旧暦では、4〜6月となり
 それぞれ異称が、4月「初夏」5月「仲夏」6月「晩夏」です。)
ちなみに
義就の誕生日は、本来不明とされていますが
義就マニアの私が、5月13日である事に気付いてしまいました。なんと!
後でちゃんと説明します。


(※「義就」の読みについての関連記事です↓
 『バーボンMuromachi』「ふと思い立って畠山義就の話」(2017.3.23))




さて、続きまして義就の母上のお話です。
義就の母については
非常ーーーーに、まかり間違った話が無責任に広まっていますが
あれ、本当の話じゃありませんよ!
あまりに有り得ない出鱈目です!!
ってか、あんなアクロバットな話
どこをどう間違ったら信じられんの!!!
ちょっと考えれば、おかしいのすぐ気付くでしょ!!!!
…って
興奮の余り話がつんのめってしまった。
まあ、義就のWikipediaあたり読んで頂ければ分かりますが
ほぼ見事に出鱈目った誤解です。


結論から言いますと
義就の母は、文明18年(1486)8月時点で80歳
この頃、患っていた病が回復したそうですが(『蔗軒日録』文明18年8月23日)
4年後の延徳2年(1490)8月19日に他界。
晩年は、河内国の西琳寺に住まわれていました。(『大乗院寺社雑事記』延徳2年27日)

つまり、母上は応永14年(1407)生まれで
義就父の畠山持国(応永5年(1398)生まれ)の "9歳年下"
義就は、母 "31歳の時の子"
そして、"享年84歳"
という事になります。


さて、義就母のトンデモ説は
「小笠原家の系図」と、細川関連軍記『二川物語』によるのですが
それによると

 「3人の諸侯になった女性がいて
  彼女は、畠山持国小笠原政康、飛騨国の江間、と
  次々と男性遍歴を重ね
  それぞれの間に生んだ子が
  長男畠山義就、次男小笠原持長、三男江間の子


だそうだが
まず、小笠原持長の父は、小笠原政康ではなくその兄の長将です。
そして小笠原持長は応永3年(1396)生まれです。
どやったら、永享9年(1437)生まれの義就になんの!
ってか、41歳差 "同母の兄弟" なんて有り得ないよ!!
百万歩譲って、長男と次男の順番が逆
この女性が、10代そこそこで小笠原持長を生んだとしても
義就を生んだのは、50代半ばですよ!?
どんな魔女だよ!!
しかも、50代にして
39歳の管領家の惣領、畠山持国を落としてたってことですよ?
どんだけ妖艶なんだよ! ってか、妖怪だよ!!
…いやむしろ、畠山持国はどんだけ熟女好みなんだよ!
悟り開けるレベルだろ、それ。
さらに、義就母は延徳2年(1490)に他界したんだから…
100歳超えって事になるじゃん!! 
まさに、スーパー☆熟魔妖女!!
そりゃ、持国も落ちてしまうわな。…じゃなかった
んなヤツ居る訳ねえぇぇーーー!!!


実は、この空説は
 「義就小笠原持長が "同母の兄弟" だったから
  その縁で、時の管領畠山持国
  家督問題で小笠原持長を "支持した"」

と説明する為のものだったのです。

このように
ある人物の行動や、事の成り行きを説明するとき
架空の血縁や婚姻で理由付けて"扶持・同盟関係" があったから」
とする "創作" がたまにあるので
特に、「軍記物」の記述には十分慎重になって下さい。
鵜呑みにせず、まず保留! が肝心です。


確かに、義就の母の出自は不明な点が多く
 「義就は、皮屋の子。乗泉(僧侶)の従兄弟」(『東寺過去帳』)
という説や
家臣の中には「義就は、持国の実子ではない」と
疑っていた者がいたのは事実ですが(『東寺執行日記』享徳3年4月3日)
既に述べたように
当主の母というのは、家中での地位がとても高いので
たとえ、初めの身分が低くても
惣領義就の母である以上、大切に扱われ
ずっと下働きのままとか、妾扱いだとか言う事は
当時の常識では、まず有り得ないのです。



という訳で以上、義就の母上について巷の誤解を解いてみました。
まあでも、義就は、しっかり持国の血を引いていると思うよ。
どう見てもw


…というのも、義就の一般的イメージって、たぶん
 「生涯、戦い続けた男」とか
 「幕府に反抗し続けた男」とか
なんか、反社会的な "はみ出者" と思われている風がありますが
この人は、そんなんじゃないのですよ、実は。

確かに、人生急転直下ハチャメチャ修羅街道まっしぐらで
実は、室町不憫界のラスボスなんじゃね?
とかいう疑惑までありますが(私の中で)
しかし、普通そこまで行ったら
もっと徹底的に落ちぶれるか、激しく零落してしまうだろうに
義就というのは―――
どこまでいっても、あくまで "源氏の御曹司" なのです。
に見放されても、が見捨てておかない。 没落中も「王子」
だから、話が面白くなるww
つまり、義就の一生とは…
その本質について
今ここで "驚くべき真相" を明らかにしますので、心の準備を。
義就の一生とは…
単なる「波乱万丈なアウトロー武士の一生」などではなく

 「貴種流離譚」(きしゅ りゅうりたん)だったのです!!

な、なんだってーーー!! 
ってゆーか、ズコー


ちなみに、「貴種流離譚」とは
民俗学上の物語の類型の一つで

 「本来なら、高い地位に就くべき貴い血筋に生まれた英雄
  何らかの宿命か、謂われ無き罪により
  故郷を追放されて流浪するが
  どんな不遇にもめげず、旅路の途中で正義を発揮しながら
  様々な苦難を乗り越えて成長していく
  (…そして大抵、最後には何かしら報われる)」


という、悲しいながらも胸のすく "英雄冒険物語" です。
日本史上の「貴種」の意義については
既に、足利家や九州探題渋川家の例を紹介したように
この国の "真相" かつ "深層" に迫る大きなヒントを秘めているので
この手の物語は…しかも創作ではなく史的物語であるなら尚更
超重要研究対象であります。
(…にも拘わらず、これまで軽視され過ぎて来たと思う。)
ついでに、日本の「史的3大貴種流離譚」

 「スサノヲ」 「畠山義就」 「足利義材 & 畠山尚順」

です。(私の中で)
 (※足利義材…義視嫡男。 畠山尚順…政長嫡男。)
みな実は王子
しかも、一般に信じられている悪者説
あれみんな誤解です。 悪者に仕立てられているだけ。(きっぱり)


(※ちなみに、次点の「貴種流離譚」「足利義視」です。
 追剥に遭いつつ身一つ伊勢国に落ち延びたり
 雑人の格好で徒歩で比叡山に逃げ込んだり (´;ω;`)ブワッ
 何度、命の危険にさらされた事か。
 それでも "正義" を貫く義視。 (´;ω;`)ブワワッ
 ただし、本人に自覚が無さそうなので、選外となりました。)

(※2015.4.6追記
 しまった、「足利直冬」を忘れていました! ふ、不覚…
 現在『観応の擾乱』探究中なのですが
 直冬の一生も、相当な "物語" を秘めていそうです。)




だいたい、義就 "反社会分子" として見てしまうと
味方の多さが意味不明なのですよ。
『応仁の乱』後も "戦い続けた" っていっても
河内の奥地に潜伏してゲリラ戦してた…ってんじゃなくて
人が行き交う誉田の城下町に囲まれた「俺の城」
「太守」(=一国の領主)をしてたのですから。
(※季弘大叔の日記『蔗軒日録』で
 義就「太守」とか「府君」(太守の敬称)と呼ばれているw)

さらに、その守備範囲は
町人で栄える大和南山城と、相当に広く
家臣大和国人いっぱい呼んで「猿楽」興行したり
大和で父子3人「鷹狩」(たかがり)したり
和泉の堺で「勧進猿楽」催したり(※勧進…チャリティー)
…と
どう見ても楽しそうなのである。
(『大日本史料』文明12年8月2日、9月10日、文明13年2月25日)


(※ちなみに、「鷹狩」とは
 飼い馴らした(その他猛禽類)を放って獲物を捕える狩りで
 アジア大陸に起源を持ち
 平安時代は、天皇貴族の間でも盛んだったようだが
 中世は特に、武士の間で大いに流行り、日本での歴史は長く深い。
 室町一の "鷹好き" はもちろん
 を愛し過ぎて、人工繁殖に成功してしまった朝倉教景(宗滴)
 鷹狩は、武士の嗜み・遊興であると共に
 「地形の把握」という、戦への備えでもあった。)


つまり
尋尊をして「名大将」と言わしめたのは
武士としての素養に加え
人を惹きつけて止まない、天性の王者 "源氏の血" の為せる業
という訳だったのです。
(なんか、厨ニ心をくすぐる設定ですね。)
ただし、本人は修羅っ気を気取りたかった模様。
(※理由…2人の息子の幼名がアホすぎるから。)
しかし、どんなに表面を繕っても
生まれ持った王子属性は隠しきれなかった、ってゆうw




そんな義就の、『応仁の乱』前史については
本サイト『2-6』上から4分の1、真ん中より少し下あたりで軽く説明しましたが
当初、石清水八幡宮の法師(社僧)となるはずだったところを
父持国の意向で、家督を継承すべく12歳元服したのが
文安5年(1448)11月。
(↑記念すべき一転目王子人生スタート☆)
(※年齢は、断りの無い限りすべて数え年です。
 ちなみに、政長は義就の5歳下。)


翌文安6年(1449)4月、義成(のちの義政)15歳の元服の儀に際しては
白直垂に身を包み、椀飯(おうばん)を務める義夏13歳
(※椀飯…大名が、御所で将軍に饗膳を献ずる儀礼的な宴会。
 参照→本サイト『2-8』冒頭)
ちなみに、白直垂
元服などの「一段の御祝い」の際に着る特別な直垂(ひたたれ)で
公方様は「正月は30日間白直垂を召される」という決まりがありました。
白直垂で主君義成に仕える義夏、かっこいいw


しかし、順調に貴公子街道をゆく…かと思いきや
享徳3年(1454)8月、山名宗全細川勝元の悪巧みで
突然の家督剥奪落飾(らくしょく)の上、を追われる事に!!
(↑涙の二転目「第一次グッバイ京都」
(※落飾…貴人が髪を剃り、出家する事)
ただ、これは相当義政も怒ったらしく
12月には山名宗全隠居、義夏復帰と相成ります。

裹髪、つまり裹頭(かとう。布で頭を包んだ状態)で
幕府に出仕を果たす義夏18歳。 嬉し恥ずかし涙目の三転目
ちなみに、帰洛の際は
「騎馬と甲冑兵500〜600」を引き連れていたそうだ。
そして翌享徳4年(1455)、父持国が他界。
名門畠山家の惣領として
「諱」も新たに、一歩を踏みしめる義就19歳


翌康正2年(1456)、義政右大将拝賀では
「大名一騎打」先頭という栄誉を担います。
かつて、義教右大将拝賀で先頭を務めた父持国に続き
堂々と晴れの舞台に立つ義就20歳
(※「大名一騎打」「右大将拝賀」については
 本サイト『2-5』真ん中より少し上、一色義貫の "あの珍騒動" をどうぞ)



しかし、そんな穏やかな日々は、流浪の明日に繋がっていて…。
これもまた、王者源氏ゆえの、血の "定め" だと言うのか。
長禄3年(1459)6月、運命を告げに来た3羽の鳩―――



翌長禄4年(1460)9月
公方義政からの、突然の隠居命令
(※今回の首謀者はおそらく、伊勢貞親細川勝元
弁解の余地もないまま
冷たい都への、それでも断ち切れぬ思いを引きずって
河内国へ落ち行く義就24歳
(↑運命の四転目王子人生オワタ\(^o^)/
 そして義就の "本番" が始まる、「第二次グッバイ京都」
(※ただし、没落時の行粧は、衆人が「称美」するほど
 美しいまでに武装を極めていたと言う。『経覚私要鈔』長禄4年9月26日)


その先は、上記本サイトの通り
河内国の嶽山城で、政長軍と対峙した2年半の篭城戦
寛正4年(1463)4月の嶽山陥落後
大和国の吉野に身を潜めること3年
このまま―――
時の流れの中に、忘れ去られてしまうのか…

しかし、その血を惜しまれた。



前年には、吉野の天川で再始動の気配を見せ始めた義就
文正元年(1466)
忌わしくも愛しい故郷京都を目指して
上洛を開始した30歳、夏の終わり。
(↑奇蹟の五転目、まさかの復活帝王「義就・改」) 
遂に果たした12月の入洛
翌文正2年(=応仁元年)(1467)正月、政長との家督交替
そして、『上御霊社の戦い』へ―――
(※義就復活は本サイト『2-7』『応仁の乱』開始『2-8』をどうぞ)


以後は
応仁元年(1467)
5月の『応仁の乱』本戦開始、6月の西軍賊軍化
義就31歳、怒涛の六転目
おそらく、一番濃い京都時代だったろう『応仁の乱』の11年を過ごし
河内平定を誓って、故郷京都 "最後の別れ" を告げた
文明9年(1477)9月、義就41歳
未だ明けぬ夜空を見た七転目
二度の涙を超えて、「第三次グッバイ京都」は、花道となった。


2年後の文明11年(1479)10月、河内誉田新邸完成
歩き続けた棘(いばら)の道に、いつしか咲き乱れる懐かしの花
思い出す故郷の日々は、苦くもあり、甘くもある。
束の間の休息
そして、その3年後
『応仁の乱』終結以来、5年の空白を経て
政長との戦いが本格的に再燃
文明14年(1482)8月の合戦で、河内誉田の北
"橘嶋正覚寺" という懐に入り込まれた義就46歳、夏が秋を告げる頃。
その人生を締めくくる八転目
政長との再会―――すなわち、"原点" への回帰でした。

そして8年間、"最後の不思議な対陣" が続くのです。




以上、畠山義就的「貴種流離譚」ダイジェストでした!
元服から「第二次グッバイ京都」までの、12年間の京都時代
その後の流離時代とのギャップが良いですね。
本当に、御曹司だったのですよ、ププw いや失礼。
しかし、運命の無情なこと。
確かに、義就上意に違う事をいくつかやらかしましたが
はっきり言って、この頃の山名宗全細川勝元に比べたら
全く以て可愛いもんだと思います。
こんな酷い目に遭う謂われはないのに…

ちなみに、『長禄寛正記』によると―――
長禄4年(1460)9月、身に覚えの無い咎でを追われ
それでも上意に従って、穏便に河内国へ下向する義就
淀の大橋で、御迎えに上がった河内衆と落ち合った後
石清水八幡宮の参道で下馬し
「(八幡)大菩薩を伏し拝み」ます。
それからまた、洞ヶ峠でを顧みて、思わず溢れた本音…

憂かりける 都に何の なさけ有りて 袖引くばかり 残る面影

 (この冷淡な都に、何の情けがあるというのだ。
  分かっているのに…思いが断ち切れない。)

義就おまえ…(´;ω;`)
やっぱりつらいよなぁww
『長禄寛正記』は一応軍記なのですが
かなり正確な記録に基づいた、公的な「年代記」に近い性格のものなので
(おそらく、蔭凉職の季瓊真蘂が執筆に関わっている)
この歌は、たぶん途中まで下向に同行した奉行人あたりが伝えた
義就の本当の歌だと思われます。




さて、どうでしょうか
義就に注目すると
『応仁の乱』もまた違った見え方をして来る事が、分かって頂けたと思います。
畠山家の家督問題が、他の良くある家督争いと違う所は
 「当事者に罪が無い」
と言う事です。
義就政長も、悲しいくらい素直なのですよ。
どう考えてもワルの根源
山名宗全細川勝元伊勢貞親アホ公方のコラボ! もう!もう!
(まあでも、彼らは因果を受けたかな。
 武家のうち『応仁の乱』一番痛い目に遭ったと思う、この4人。)


そしてもう一つ、義就政長の一生で特筆すべき点は…
義就の生涯のライバルとなった政長もまた
"源氏の王子" であり、しかも性格が仏
どこまでも真っ直ぐに生きためっちゃ泣かせる人生
だと言うことw
普通、こういうのってどっちかが悪役じゃないですか。
でも違う。

義就政長を、よくある「骨肉の家督争い」だと思ったとしたら
それは非常に表面的な理解です。
この2人は、野心を基準とした
「覇道アルゴリズム」で理解するのではなく
"弓矢の道" を弁えた武士は
道義天道に基づいた「王道アルゴリズム」で読み解いて初めて
本当の、この国の "深層" を映し出した真実が、姿を現します。
民俗学としての日本の歴史
繊細で儚く、悲しいけど美しい
勝者敗者強者弱者
そんな単純で薄っぺらい「二元論」ではなく
もっと深くに、を秘めている。
室町は、知れば知るほど
切ない情緒に彩られたカタルシスの宝庫なのです。


そして何より
「日記」が最も多く残っている時代だから、実話なんですよ、これ。
「軍記物」ファンタジーじゃない。
なんでこんな素晴らしい時代を、この国は総スルーして来てしまったのか!?
本当もったいないと思う。
「王道」を忘れて「覇道」を崇めてきた結果が
道理情緒が失われ
利益至上主義に堕ちた現在なのだとしたら…余りに情けなく、悔しい。


義就は、幕府の勝手な都合で
「公方の御敵」とか「朝敵」にされ続けましたが
幕府ないし東軍正義、という見方は
から見た場合、必ずしも正しいとは言えません。
表層的な考察では、そうそう真相にたどり着けないのが
『応仁の乱』の厄介なところですが
『大日本史料』に纏められた日記の記述を、丹念に組み合わせれば
真実一点に収束します。
道理に則った、正しく深い洞察力で解く『応仁の乱』
広く知れ渡って欲しいと願います。


(※特に、『応仁の乱』から『明応の政変』(+その後)にかけての時代は
 特定のいち大名を中心に叙述するする風潮があって
 真相が見えなくなっているようです。
 正直、3回くらい解脱(げだつ)してから、ゼロに戻って
 一次史料を読み直す必要があると思う。
 これは、特に戦国期に顕著な傾向ですが
 「覇者」正義を見出して来たこれまでの
 "勝つか負けるか" だけでしかない価値観を改め
 もっと、"天道是か非か" の視点で歴史を分析して欲しい。
 そうすれば、この国の未来はかなり変わると思う。)




という訳で
今回はようやく、義就の話を進めることが出来ました。
どうです
どんなに修羅に生きようと
どこまでも王子属性が抜けない義就「貴種流離譚」
寛正4年(1463)4月の嶽山城陥落で落ちて行った時も
被官人たち一人残らず付き従ったというw
(※西十郎左衛門宛、義就書状
 『大日本史料』延徳2年12月12日)



ちなみに、「王道アルゴリズム」で天から見た場合
正邪の判断が一筋縄ではいかない『応仁の乱』に対して
『明応の政変』は、かなり明確に道義的 "正義と悪" に分かれます。

ただし、現時点での研究では
『明応の政変』は、「覇道アルゴリズム」により
  単純な「権力抗争」
として捉える考察が主流のようで
その為、なかなか核心にたどり着けず
矛盾する日記の記述の多くを、上手く理論付けられていないようです。
見た目の勝者を、「社会的にも認められた正しい勝者」
と勘違いしてしまいがちなのが
「覇道アルゴリズム」の最大の落とし穴ですが
『明応の政変』では、仮初(かりそめ)の勝者「道義的悪」です。

(※これは、現代の主観でも私の個人的妄想でもなく
 史料的裏付けのある、 "当時の価値観" です。
 例えば、尋尊の『大乗院寺社雑事記』は
 「王道アルゴリズム」で世の中を見ているので
 考察の際の指標とすると…色々と捗るぞ、うん。)

しかし、それに気付かず
(道義ではなく弱肉強食で考える)現代的「覇者=正義」の感覚で
将軍足利義材を追い出した "クーデター政権側" 正義だと思い
そこに主眼を置いてしまうと―――
「 "当時" の真相」を見逃してしまう訳です。
例えば…


クーデター政権側保身の為に、なり振り構わず敵の殲滅に走る一方で
旧将軍親衛側は、可能な限り和睦の道を模索し
敵の殲滅ではなく
あくまで「世の無為」(=天下泰平)を目的に戦っていた事。
(それゆえ、旧将軍側は、15年の後に京都を取り戻すものの
 帰参したクーデター政権側大名を排除する事も
 怨みを持ち続ける事もしなかった。)

さらに
京都では、クーデター政権側に迎合する公家たちの一方で
道義的正義から、密かに旧将軍側に立つ公家たちもいて
彼らにとってクーデター政権時代
"倒されるべき" 暗黒時代であった事。
(それゆえ、15年後に旧将軍足利義材が戻ってきた時は
 公武共に、京中が祝賀ムードに包まれた。
 つまり、みんながその帰りを待ち望んでいたと言う事。)

なんたって
旧将軍側筆頭、畠山尚順(ひさのぶ)は
『明応の政変』で父政長が自害した時、再起を誓って紀伊国に逃れ
その後15年の間、畿内各地で
京都奪還に向け、戦闘に明け暮れる事になるのですが
すべての裏事情を知る(つまり後土御門天皇の叡慮を知る)京都の公家から
その勝利の報を聞いて密かに
 「神慮か」とか「希代の天運」
とか言われた男なんですよw
(…それなのに、尚順は誤解され過ぎててつらい。(´;ω;`)カワイソス)


世の人々の祈りを一身に受けてただ一人
に立ち向かい、すべてを失いながらも戦い続ける英雄―――

…って、どこのハリウッド映画だよ!
んな宇宙人vs地球人戦ヒーローみたいなやつ居るかよ!
と思われるかも知れませんが
居たんです。 しかも日本に。
(※畠山尚順は、父政長だけでなく
 戦いの中で大事な弟3人も失っている。(´;ω;`)ブワワワッッッ!!!!!! )

しかも、天下の為に戦い続け
満身創痍の末最後の敵を倒し、遂に泰平を勝ち取ったっていうのに…
なのに…
何の見返りも求めず、平和が戻った京都を去って隠居したんですよ?
おそらく、弟たちのために。
(しかもまだ30代半ば
 昇進すら求めず、本来「左衛門督」に任じられる畠山宗家の惣領なのに
 最後まで「尾張守」のまま。
 京都に残した、まだ元服もしていない嫡男稙長
 能登より呼び寄せた畠山義元義統嫡男、能登守護)に託して。)


それなのに、この辺も
 「他大名との権力争いに負けて、幕政を握れなかった」
とか何とか
権力が最高!の「覇道アルゴリズム」で勝手に解釈されてるんですよ、もう!
なんで、欲と野心でしか歴史を見られないの!! もう!
確かに、そういう覇者戦国期には少なくなかったでしょう
しかし
畠山尚順行動原理目的意識は、そんなんじゃない
「弓矢の道」であり「天道」なのです。
なぜならやつは…

 再び将軍となった足利義材から、実は一番信頼を寄せられていて
 諸大名の会合となれば、最も上座に座る地位で
 その娘たちは、京都の公家からとして引っ張りダコで


それなのに―――
望めば、権力なんて簡単に手に出来る状態にあって
その上で、何も求めず去ったのです。
公方義材(よしき)の幸せと、京都の平和だけ見届けて
一番つらかった15年間を支え続けてくれた、紀伊国
それまで、神懸ったように戦い続けた日々が嘘だったかのように
静かに帰って行ったのです。

(ついでに言うと、最後も「嫡男稙長決裂した」とか誤解されてる!
 決裂どころか連携してたのに。 ホント、不憫なやつ!

(※ちなみに、畠山尚順京都を去ったのは
 弟たちの冥福に資するため、という理由に加えて
 (やつはこの時、若くして既に入道(出家)していた)
 実は、公方義材京都の平穏のために
 "敢えて" 退いた、と思われる節があります。
 その「泣かせる理由」とは――― まあ、また今度w)


父政長も、アホみたいにお人好しきよ侍だったけど
こいつも輪をかけて、ばかばかばかぁぁぁぁぁーーーーー!!
とボコボコにしてやりたい、清すぎるアホ侍です。
たぶん、『明応の政変』の真相のすべてが、正しく解明されたら
畠山尚順はきっと、日本一の英雄と言われる様になると思う。



…おっと、今日は義就の宣伝をしてるんだった、失敬。


まあ、そんな訳で
どんなに不遇な流浪の旅路を行こうとも
は、正しき者を知っている。
 「帰りを待ち望まれた将軍、足利義材
 「神慮と言われた男、畠山尚順
天下を舞台にした壮大な「貴種流離譚」
日本一悲しくて輝かしい、希望の物語なので
お楽しみに。

(※ちなみに、畠山家の御曹司である畠山尚順
 19歳(満17歳)まで、京都で王子人生送ってた。
 その後の15年の修羅道といい、名大将の素質といい
 義就とすごく似てるw)




ところで、『応仁の乱』中
西幕府で政所頭人っぽい事をしていた伊勢貞藤ですが
どうやら若い頃は、幕臣として
幕府畠山家の間の「申次」(もうしつぎ)をしていたらしいのです。

(※参照…『長禄四年記』長禄四年9月23日、『長禄寛正記』
 それから、伊勢家の故実書『伊勢貞親以来伝書』に
 「我等畠山殿の申次を仕り候…」だったので
 「よく(事情を)存じ候」とあります。)

康正3年(1457)には
上意に違う事をやらかしがちだった義就(当時21歳)から
罰として没収された所領が、伊勢貞藤に下されているのですが
これもおそらく、その特別な間柄によるものでしょう。
(『経覚私要鈔』康正3年7月6日)


さて、そんな伊勢貞藤
彼が変態美学を極めていた事は、当ブログ「伊勢貞藤」で紹介しましたが
青春時代の彼に多大な影響を与えた
「金吾様」(きんご さま)なる人物がいたのです。


『故実聞書』(著者:たぶんきっと伊勢貞藤)によると

 男は、見るからに角々しく
 男伊達(おとこだて)をするようではいけない。
 田舎人は、いつも目を血走らせて
 荒々しく威嚇して刀を振り回し
 笑う者があれば、すぐカッとなって切捨てる
 やれやれ ┐(´ー`)┌

と、常々仰せられては、御笑いになっていたという金吾様

 いかにも生臭い魚とか、味噌臭い味噌とか
 食えたもんじゃないだろう。
 人を従えようと、あからさまに猛々しく振舞っても
 ただ恐れさせるだけだ。
 そういう輩は心得ない事だが
 よくよく後生を心に掛け、身の程を弁えていれば
 如何なる難所も潜り抜けられるというものだよ。

と、折に触れて仰っていたそうだ。

(※後生(ごしょう)…来世の事。または、来世の幸せを願い、この世で徳行を積む事)


そんな、気品溢れる京人の鏡のような金吾様
若き伊勢貞藤にとっての目標、まさに憧れの的だったのでしょう。



さて、そろそろお気付きかと思いますが
「金吾」とは、「衛門府」の唐名です。
そして、畠山宗家の代々の官途(極官)は「左衛門督」です。
当時、こんな美学を語る品格を備えた人物といえば―――


伊勢貞藤


伊勢貞藤を、変態美学に目覚めさせた「金吾様」とは
名門畠山家惣領、畠山持国、という訳でした!

って、義就の父ちゃんだったのかよ!!
ズコー!



ちなみに当時
武家で「金吾」と呼ばれ得る人物は、他に
山名宗全もいるのですが
ただし、宗全なら「金吾入道殿」「金吾殿」となりそうだし
何より、言ってる事の内容が、どう見ても山名宗全とは正反対
ってかむしろ、これ宗全批判なんじゃないか?とか思うww


ついでに言うと、『北条盛衰記』という軍記には
 「『応仁の乱』で伊勢貞藤西軍に走ったのは
  山名宗全と深い知音(親しい仲)だったから」
という記述がありますが
しかし、この軍記はかなり後世になってから書かれた物で
しかも、伊勢貞藤伊勢新九郎盛時の父としていたり
伊勢新九郎盛時が東国に下った経緯が、ほぼ創作である事から
上記の記述も、事情を良く知らない後世の筆者が
とりあえず
「西軍大将と親しかったのだろう」という話にしてしまった
ってだけの、想像の "理由付け" だと思われます。
(…というのも、伊勢家の者が西軍についたというのは
 普通に考えたら割と不思議な事なので。)


伊勢貞藤西軍になびいたのは
本サイト『2-9』上から5分の1辺りで述べた『応仁記』
 「公方義政自身が、西軍に心を寄せていたから」
という説や
西軍公方となった義視との関係も大きいと思いますが
おそらく
「金吾様」こと畠山持国の忘れ形見、義就の存在が
隠れた一番の理由だったんじゃないかなぁ、と個人的には思っています。




いや〜しかし、持国だったかー 伊勢貞藤「美の菩薩」にしたのはw
って事は、義就も本当は
薔薇が似合ってしまう素質が…
まあでも、本人は一生懸命 "貴公子属性" 隠して
"鬼神" を前面に押し出そうとしていたようだけどw
ただ、「子は親の鏡」というから
息子を見れば、その本性が見えてしまうのかも…知れない。




という訳で今日は
単なる修羅界の暴風雨かと思われてきた義就
意外な一面を覗いてみました。
しかし、この王者源氏の持つ、伝説にも似た "貴さ"
決して侮ってはならない視点です。

伊勢貞藤にとっての畠山持国
大内政弘朝倉孝景にとっての畠山義就
どんなに特別な存在だったか。

それは、当時の武家社会の基礎をなしていたと同時に
もしかしたら今も…
気付いていないだけで
体のどこかに受け継がれている "伝統" なのかも知れないと
ふと考えながら、遠い先祖を思う
お盆の夜の、ある夏の懐旧でありました。



posted by 本サイト管理人 at 02:23| Comment(2) | ★チラ裏人物記

2014年07月26日

畠山義就(その6)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その5)」
途中で、畠山政長の嫡男畠山尚順の宣伝を始めてしまったので
今度こそ、義就の良い所を見せつけたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就
(2015.5.24リメイク)


ちょっと寝ぼけちゃってるようですが
ボーっと何考えているんでしょうか。
「腹減ったなぁ」とか?
いや、「孝景元気かなぁ…」とかかな。(※朝倉孝景)
でもキミ
随分油断しているようだけど
その頭上のに気付いてる? ねぇ、来ちゃったの、気付いてる?



さて、前回までの解説で
『応仁の乱』の本質が、かなり深くまで見えて来た…
ような…いやむしろ
意味不明感が増量キャンペーン始まった気がしないでもありませんが
まあ取り敢えず
 東西どっちもどっち
と思っとけば、間違いありません。

確かに
『応仁の乱』の日々の様子を伝える、公家や僧侶の日記では
大半は、"義政" という「権威」を取り込んだ東軍
正義と見ていますが
しかし一方で
『大乗院寺社雑事記』の尋尊のように
「権威」のみではなく
「道理」も加味して世の中を見ようとしている者もいます。
そして、西軍の大名たち
武家社会の秩序に生きる武士ですから
「権威」を尊重するのは大前提ですが
しかし、彼らは「権威」を凌駕する存在として
「道理」をその上に見据えて行動しています。

どうやら当時は、「権威」を絶対と見て "従う" 者が多い中で
一部の、特に理念ある武家では
「道理」を至上と見て "考える" 傾向があったようです。
(※尋尊は公家出身の僧侶ですが
 父が「日本無双の才人」と言われた一条兼良であり
 柔軟な思考の持ち主だったようです。)


まあ確かに
「権威」を絶対として、社会のルールを単純化してしまえば
民衆を一律に従えるには、一見都合がいいようですが
しかし、本サイト『2-9』の最後の方で、『六韜』『三略』『孟子』などを参考に
「君徳」(支配者が身につけるべき徳)について述べたように
絶対的なルールで民を従えようとする "君徳無き" 支配方法では
一瞬、バブルのような虚構の栄華が訪れた後で
何も残さず滅びます。
を吸い上げるだけで、を顧みない
それは、「天道」(天の条理)に悖(もと)る方法なのです。


前回、「源氏の貴種性」について取り上げましたが
源氏将軍の幕府である室町幕府が、15代まで続いたのは
単に、その血統の貴さに因るのではなく
武士の長たる足利家が、初めの足利尊氏・直義の代から
政道において、強く「徳」「撫民」「道理」を意識していたからです。

(※参照…『建武式目』
 本サイト『2-5』足利義教の王道政治、それから
 【榎原雅治『室町殿の徳政について』
  (国立歴史民俗博物館研究報告 第130集 2006)】
 などなど。
 それから今川了俊の手記『難太平記』の、足利直義の逸話で
 了俊が足利直冬尊氏実子、直義養子)から
 直接聞き及んだ実話として、直義は…
 (=家柄、血筋)によって身を立てようと考えてはいけない。
  文道をたしなみ、によって身を立てなさい」

 と、いつも語っていたそうだ。
 源氏嫡流に生まれながらこの心。 もう本当に素晴らしいw )



そしてまた、それは主上においても同然で
朝家という "生まれ" だけではなく
「君徳」(=聖徳※)こそ、君主に必須の要素であり
民の為に学問の労を惜しまず
仁愛の習得を何より重んじ、無徳を恥ずべしと自省する君主こそ
天道に適うとされたのです。
…と
私が全力疾走で尊敬する花園法皇が仰られております、はい。

(※聖徳…天子の徳、優れた徳)
(※花園帝『誡太子書』については…
 【石野浩司
 『『寛平御遺誡』および花園天皇『誡太子書』に見られる
  皇統思想の新展開 ―『孟子』受容と仁政徳治主義の台頭―』
  (皇學館大学神道研究所紀要 26 2010年3月)】

 をどうぞ。
 これは、皇太子時代の甥の光厳帝への訓戒です。
  「請うらくは太子、自省せよ」
 …とかもう、めっちゃかっこいいのですよw
 はいこれ、みんな必読!…と言いたい珠玉の書なのですが
 花園帝の知性は、常人のレベルを遥かに超えているので
 解説がないと(いやあっても)
 理解は相当に困難です。 でも本当お勧めです。)



「なぜ皇統は、時代を超えて存続し得たのか?」
と問われる事がよくありますが…
その答えとして、先ず一つに
主上は、己が為ではなく民の為に君たるからです。
 「天生烝民樹之君」『誡太子書』)
従って、(理論的には)がゼロにならない限り続きます。
 (己が為に支配者たる者は、当人がいなくなれば終わりです。)
それからもう一つ
中世の武家政権誕生以降は
武家「天子の御代官」として、政道を担って来たからです。
形あるものに終わりが訪れるのは世の常ですが
時代の変遷において、"滅びの定め" を引き受けて来た者
それが―――
政治的権力者である武家だったのです。


 「時代が変わっても、変わらない皇統
それは、社会が複雑化していった中世以降
武家の存在無しには語れません。
しかし、この事実を大きく誤解して
 「なぜ、歴代武家政権は、朝家を滅ぼさなかったのか?」
という、対立的視点で見る傾向が強いようですが…
それは近代以降、多くの日本人が
近世以前の歴史の深層を知らずに(もしくは、意図的に教えられずに)過ごしてきた
痛ましい弊害です。


室町中期の成立
最後の勅撰和歌集『新続古今和歌集』「序」の言葉を借りれば
征夷大将軍とは…
 「元首(=主上)に股肱たりて黎民に父母たる」存在
実際の歴史では、そう認識されていました。
(※股肱(ここう)…主君の手足となって働く、最も信頼された忠臣)
(※黎民(れいみん)…万民)

つまり、将軍もまた万民の為の存在であると共に
 「天子の股肱を、武家というが担う」
そういう相対関係
本来の伝統的姿、歴史が出した「答え」です。


もちろん、新興の覇者の中には
本来的な天子と武家の関係には無かった者もいたとは思いますが
しかし少なくとも
室町時代の公武(朝廷と幕府、主上と将軍)は
君臣として、理想の関係に到達しました。
それは、両者が共に
「徳」を至上とする心を "共有" していたからだと言えます。
(※室町時代の公武関係については
 本サイト『2-3』『2-12』真ん中より少し下などをどうぞ。)


仁政徳治「王道」を是とする主上
「覇道」を目論む覇者とは、相性が良くありませんが
「王道」を目指す王者とは、理想の君臣として共に国を育み
時代が移り変わる時は
武家が、その身代わりとなって滅ぶ
そうして700年近い時を繋いで来たのが
武士という独自の理念を発展させた、極東のこの国の歴史です。



しかし―――
これは日本の長い歴史から言えば "ごく最近" の事ですが
近代に至り突如
政権としての「武家」が消滅し
公武で成り立っていたこの国の歴史が終わります。
室町幕府が、近年ここまで貶められるようになったのも
これ以降を画期としますが
それだけではなく、実はこの時
日本古来の歴史皇統慣習神仏への
「これまでの認識・伝統」が書き換えられました。
…極めて政治的な理由で。
室町幕府のみならず
これほどの主上、花園天皇がほとんど知られていないのには
深い事情があったのです。


今からでも遅くない
どうか、武家の真実に気付いて欲しい。
そして、作られた歴史を脱却し、もう一度思い出して欲しい。
日本にはかつて、天子を支えるがいて
その君臣は自らを絶対とせず
天道のもとに、相対であった事を。
今の言葉で言えば、それが
この国独自かつ古来の "民主主義" です。
朱子学的「大義名分論」による、硬直した絶対的支配は
実は、あまり歴史的に成功していないのです。



…上記の "事情" 補足
 この辺の事は…チキンなので言及しづらいがw

 花園天皇は、持明院統(つまり北朝)であり
 仁政徳治「儒学」に基づく哲学を展開されていた事
 そして、「朱子学」をかなり強く批判されていた事
 『誡太子書』を授けられた甥の光厳天皇
 近代になってある日突然
 "北朝初代" (つまり非正統)に改められた事
 それは、南朝 "正統" とされたが故の書き換えだった事  
 その南朝では当時、「朱子学」が重視されていた事
 近代以降の歴史観では
 室町幕府は、"正統な" 南朝に対する賊臣とされた事
 これら近代日本の国家思想の土台は
 「朱子学」を絶対視する「水戸学」であった、という事 

 …つまり、そういう事です。
 え、何、それじゃ分からないだと?
 まあでも、そろそろ全部明らかにならんといけない頃だからね
 チキンとか言ってられないか。
 つまり―――
 北朝を "非正統" とし、室町幕府を "絶対悪" と見做し
 「朱子学」国家を目指す近代日本の国家体制にとっては
 どう考えても…
 花園天皇の、天の条理を穿つような壮大な竜徳(=聖徳)は
 とんでもなく都合が悪い!
 そこに真実があるから!
 北朝室町幕府、非難出来なくなっちゃうから!
 こんなの直視したら、精神崩壊してしまう!ならば!
 スルーするしかない!!
 …ってなにその理不尽さwww
 ああもう、全部全部全部明らかになってしまえ!!)



室町幕府の創生期、「南北朝期」の開始前後という時代には

 花園天皇『誡太子書』
 夢窓国師『夢中問答集』
 足利直義『建武式目』


こんなにも
「王道」を説いた、国宝級の誇らしい書が生まれているのです。
この時代が間違っていなかった証拠です。
彼らこそ、「天道」を目指した賢聖(けんじょう)であるのに
なぜ、見過ごされ、誤解され、貶められているのか。

日本は近代に始まった国ではない!!
その政治、思想、精神において
670余年前の時点で既に、これ程までの高みに達していたのです。
それなのに―――
この国は、余りにも自国の真実を知らな過ぎると思う。






…と、少々(ってかだいぶ)話が逸れましたが、そんな訳で
東軍の細川勝元
どんなに公方義政を背景とした「権威」によって西軍を黙らせようとしても
なかなか西軍諸侯が屈しなかったのは、彼らが

 「権威」は、「道理」を伴って初めて「権威」たり得る
 ( = 権威は天道を越えない )

と考えていたからです。


『応仁の乱』に対する世間一般の認識では
もしかしたら
 「天下静謐を目指す東軍と、覇権を狙う西軍
みたいな話になっているかも知れませんが
それは謂われ無き妄想構図です。
まあ、"東軍が悪" とは言わないまでも
むしろ割とかなり「逆」…と言いたいw

実際、西軍公方の義視や、西軍ラスボスの持是院妙椿
"天下の視点" を持っていたのに対し
東軍は―――
まあ、赤松が、山名から播磨・備前・美作を取り戻す為に
「東西軍の分裂継続」を個人的に望むのは分からなくもありませんが
(…いやまあ、分かりたくは無いが)
しかし、細川の保身の強さには…うーんw


文明5年(1473)頃のこと
(※『応仁の乱』2ndフェーズ、山名宗全・細川勝元他界の年)
美濃の妙椿
"東軍と西軍"、そして "京都と関東" の対立を憂慮し
それぞれの和睦を実現しようと奔走していたのですが
天下思いの妙椿
 「さて、物申したいから上洛しようかなぁ〜」
と計画していたというのに…
そんな妙椿への、東軍細川の仕打ちが酷いんですよw
"朝廷権威" と "公方の威光" をフル活用して

 綸旨の力で上洛阻止! そして、幕命で美濃衆退治!!

御内書で「凶徒」と呼ばれる美濃衆…。(@和睦画策してるだけ)
細川の要請で、幕府から奏請を受けた朝廷
一旦は勅使を立てて、延暦寺の山門僧徒妙椿上洛を防がせようとするのですが
しかし
 「実は妙椿は、(京都を荒らす為ではなく)
  "和睦の調停" をしに来たいらしい」

と言う事実を、後土御門天皇が聞き思し召され
 「え、それは防いじゃダメなんじゃ…」
と、天下を道義的立場から見据える主上は、困惑なされたと言う。

(※ちなみに妙椿は、朝廷に礼銭を献上したりして
 誠意を伝えるべく頑張っているw
 それから、一条兼良ととっても親しい。
 妙椿道徳的教養の高さが窺い知れます。)

(※以上、『大日本史料』文明5年正月21日、2月16日、21日
 『大乗院寺社雑事記』文明5年10月11日)



正直、これは余りに酷い!
朝廷への讒言にも等しいですよ。
和平を目指す者を、天下を害する朝敵に仕立てたんだから。
妙椿上洛が、東軍細川にっとって都合が悪いのは分かるし
自陣の勝利を目指す気持ちももっともですが
もう少し、妥協の道を探れなかったものか。
もちろん、言われるがままにお墨付きを与える義政に、一番問題があるのだけど。
(この義政の成敗センスの無さ
 『応仁の乱』のそもそもの原因だったな、そう言えば。)


ちなみに、この頃の細川家の中心的人物は
宗家当主の細川勝元
宗家の補佐役だった分家、典厩家の細川政国
(※典厩(てんきゅう)とは、当主が代々称した官途、右馬頭or右馬助の唐名。)
文明5年(1473)5月の勝元他界後は
幼少の勝元嫡男を、細川政国が後見したのですが…
実は、『応仁の乱』後
細川宗家の家風はひどく乱れていき
 緩怠(かんたい)狼藉(ろうぜき)、人々が驚くほど」
 (『後法興院記』文明17年7月12日 ※摂関家 近衛政家の日記)

と言われるような状態で
非人道的な事件を度々起こすようになってしまいます。
余り触れたくない暗部ではありますが
この(家臣達を含めた全体の)家風の乱れ保身の傾向は
『明応の政変』が起こった重要な背景の一つとなるので
学術上致し方ない…という事で、続きはまたいずれ言及します。



ああもう
なんか気分ががっかり感満載になって来てしまったので
ぬくもる歌で、心を清めたいと思います。

『応仁の乱』中の、とある秋の日のこと。
西軍公方義視が御所としていた、斯波義廉邸
返り咲きをしたがありました。
(※返り咲き…季節はずれに花が咲く事。特に、春の花に咲く事。)
その桜の花に寄せて、義視が詠んで、大内政弘に贈った歌

のどかなる 世にかへれとや 桜花 紅葉の秋の 名を忘れつつ

 (穏やかな世に返れと伝えたくて、秋を忘れて咲いたのか、よ)

義視おまえ…(´;ω;`)
あんな酷い目に遭い続けながら、それでも
そうやって、いっつも天下の事ばかり心配しているんだな。
ああ、やっぱり
義視に将軍になってもらいたかった…。


という訳で
西軍天下の事を考えていたんだ!という証拠の
桜の花の歌でした。 (※出典『拾塵和歌集』)




さて、『応仁の乱』前後での大きな変化として
一つに、「大名の在国化」が挙げられますが
もう一つ、「寺社本所領の押領」があります。

これについては、本サイト『2-6』上から3分の2辺りで解説した通り
室町幕府は、誕生当初から「寺社本所領」の "領主側" を保護し
それを押領する武士達に、領主への返還を命じ続けていたのですが
既に時勢となったその流れを止める事は、時計の針を戻すに等しく
やがて、俗に「応安の半済令」(はんぜいれい)と呼ばれる

 都の領主在地の武士
  "年貢半分こ" でギリギリ win-win 政策


を打ち出します。
しかし、それでもこの流れは、時を経る毎に加速し
特に、秩序を厳守し "領主側" を保護した6代目足利義教
『嘉吉の変』で暗殺された後は、一気に崩壊が進み
朝廷公家寺社の "本当の苦難の時代" が到来します。
そして『応仁の乱』では
そのカオスに便乗して、さらに寺社本所領の押領が進行しました。
実は…
義政が「武士どもが言う事聞かない…」と嘆いていたのは
主にこの、「寺社本所領の返還」に関してだったのです。


(※ちなみに、昔の説では
 この「半済令」は、幕府が "領主から"
 寺社本所領の年貢の半分"新たに" "召し上げて"
 武士に与えてウハウハする為の法令(領主迫害)だった!

 と誤解されていました。 ひどいww
 鎌倉幕府終焉〜南北朝動乱のカオスで "ゼロ" になって久しく
 絶望的に回復していなかった年貢
 武士から、半分 "返還させる" 法令(領主保護)だったのに。
 しかも、禁裏御料所寺社領は例外で全返還な!
 という、配慮も為されているのです。
  (※理由…主上は言わずもがな
   寺社国家の安寧を祈る、"天下の為" の存在だから。)
  (※以上、詳しくは…
   【桑山浩然『室町幕府の政治と経済』(吉川弘文館)2006)】
   …の『南北朝期における半済』 をどうぞ。)

 なんで室町幕府、いつも悪者にするん? (´・ω・`)
 ちょっと調べれば、矛盾する証拠ボコボコ出て来るのに。
 「室町幕府=欲と野心の覇者」と思い込んでいるばっかりに
 理論的に整合性を欠いた、消化不良な論説が山ほどある…
 というのは、悲しい現実だと思います。
  (※特に6代目義教とか。あと義教とか義教。)
 室町幕府
  「王道アルゴリズム」でないと理解出来ない幕府である
 という事実に気付けば
 面白いように謎が解けていくと思います、はい。)



まあ、とは言え「押領」については一見
武士側が絶対的に悪い!
という印象を持つと思いますが、しかし
(『応仁の乱』前くらいの時代を例に話すと)
一言に「押領」「違乱」と言っても
その主体は
守護大名その被官だけではなく
在地の武士や、寺社、公家、幕府奉行人など、様々なケースがあり
さらに、「押領」の概念についても
これは必ずしも、年貢ゼロになった事態を言うのではなく
寺社本所側が、直務が出来なくなれば全て「押領」と言っていたようで
実際は、幕府の許可を得ての「半済」
また、在地の武士が領主の「代官」なった場合なども
「押領」と呼ばれていました。

それから、当時の在地の現状は
本サイト『2-6』最後の方の「半国守護職」の解説で述べたように
権利関係が "つぎはぎ" 状態で
守護大名がその分国を「一国平定」していたと言っても
それは「一円知行」していたと言う意味ではありません。
だから、その土地での押領は、全部その大名の犯行…なのではなく
押領に悩む元の領主から、守護大名 "相談" を受けて
年貢の回復 "協力" する、というケースは
実はかなり多いのです。


(※例えば、大和国の興福寺
 越前国に、大規模な荘園を有していたのですが
 大乱の混乱で年貢が途絶え、あわや消滅!となった時
 その回復に奔走し、「半済」を実現したのは誰かと言うと…
 朝倉孝景の弟、慈視院光玖だったのです。
 尋尊はそれを「蔵主(=光玖)のなり」と感謝しています。
 (『大乗院寺社雑事記』明応3年正月23日) )



確かに、寺社本所領の押領による公家寺社の困窮は
筆舌に尽くし難いものだったと思うし
「半済」を守らず、完全に年貢を接収してしまうような場合も多く
そういう悪行は許されるものではありませんが
しかし、そもそも
を引き離し
その土地で生まれた富の恩恵を、遠く離れた都の人間が全て頂く
というのは、実は "不自然な" 社会の形とも言えます。

もちろん、まだ社会が小さかった頃は
それが国家としての日本を形成していく、不可欠な原動力になったでしょう。
しかし、栄えた都の繁栄は、それを支えた地方の "人" "土地"
いつか還さなければいけない。
いつまでも、地方の富中央に吸い上げ続ける
という構造は
やはり、健全とは言えないのです。
無論、元の領主の権利を否定する訳ではありませんが
元をたどれば、荘園制は人が作った制度であり
それが、自然の摂理に背くものであったなら―――
離れた土地の富で肥大した
やはり砂上の楼閣でしかなく
自らの業火で滅ぶ未来を、避けられないでしょう。

本来は、その土地は、その土地の者が管理する権利があるはずで
その点、在国大名が代官となる「年貢請負」は理に適っているし
在地で年貢を分け合う「半済」
経済文化を牽引する "都の繁栄"
国全体としての発展に不可欠な "地方の成長" とを
 「バランスよく実現する」
という意味で
時代を反映すると共に、天道に則した
理想的な政策だったと思います。


そしてまた
大名側も、得た富で自らの栄華のみを考えていた訳ではなく
この頃の
特に、在国して分国統治に当たった旧西軍大名の本音としては…
出来れば、寺社本所領は返還したくない
(=「代官」として土地の管理は自分達でしたい &「半済」は認めて欲しい)

けどその代わり
朝廷や幕府の公事etc.の料足(=費用)は、ガッツリ納めるよ!
というものだったのです。


(※参照…『大乗院寺社雑事記』長享元年8月19日、27日
 これは、寺社本所領の押領が特に激しかった近江国
 時の将軍、9代目ボンボン義尚
  幕府引っ提げて殴り込みに行くぞてめぇ六角!!
 と、ご計画中だったので
 なんとか怒りを静めて頂こうと考えた近江守護の六角高頼
 「数千貫」の料足を納めたのですが
 その心は
  料足は納めるけど、寺社本所領は一切渡さないから!
   それでもダメって言うなら、もう立て籠もっちゃうから!
   あ、これ、美濃越前近江の話し合いの結果ね、てへ☆」

 という事だったそうだ。
 …って
 六角てめぇww美濃越前道連れにする気かwww
  (※ちなみに、美濃越前は時々返還に応じております)
 こうゆう時だけしれっと
 「俺たち、仲間だよな?」的態度とりおって!
 こん時は、諦めの悪い斯波義寛(※自称元越前守護)の
  越前、やっちゃいましょうよ義尚さん
 ってな口入(くにゅう)のお蔭で
 朝倉も相当やばかったんだぞ!おいコラ!!www
 ただし、ボンボン義尚さん
 河内越前はお許し下さいました。(『同雑事記』同年11月8日)
 セーフセーフ
 しかし、六角はとっ込まれますた。ちーんw )


まあ、『応仁の乱』後の十数年間は
義尚の奇行に翻弄されつつも
割りとみんな仲良く盛り上がっていたのだ、とな。
…って、そんな事はどうでもよくて
要するに
寺社本所領から直接、都の領主が年貢を収集すれば
在地の大名は蚊帳の外ですが
「その国の大名を通して料足を上げる」或いは
「大名が代官となって、年貢を沙汰する」
という形なら
その手柄の対価(※)は、その分国の大名が受ける
すなわち、土地の恩恵が、その国に還ることになります。
(※…年貢請負料の他には、例えば
 主上将軍からの栄誉、それによる分国の安定
 また、領主である公家との繋がりは、都の文化学問を伝播する。)


つまり、『応仁の乱』後に
在国&城下町繁栄を目指した西軍大名たち
幕府の一員として「公」の任務を果たす、という
従来の役割に加え
その分国で生まれた富を「土に還元する」、という
重要な、そして新しい武家の役割を切り拓いた
と評価する事が出来るのです。
ただし
"土地との結び付き" を原点する武士の本質を考えれば
「西軍大名の在国統治」とは

 遂に、武家本来の "真の" 役割に到達した瞬間だった

と言えるんじゃないかと、個人的には主張したいw



まあ、かなり贔屓目に見ればの話ですが
『応仁の乱』という混沌を乗り越えて、この頃、中世の社会は緩やかに
地方 "共存共栄" という、時代に応えた姿に変容しつつあった
のだと思います。
もし、この移行が上手く行って
中世が、地方が足並み揃えて繁栄する "より良い未来" に発展していたなら
一部の覇者が、武力で日本中の土地を収奪していく、という
急激で破壊的な統一、すなわち戦国の覇道時代
訪れずに済んだかも知れない…
というのはまあ、私の願望ですが。


(※例えば、越前国に大荘園を持つ興福寺
 押領がさらに激しさを増す戦国期に至っても
 朝倉「王道」を以て越前を治めていた100年間は
 「半済」が実現していましたが
 朝倉家が滅亡し、越前が荒れ果てるに至って
 遂に、この荘園からの年貢は消滅しました。
 戦国期の大名は、一般に
 「分国の一円知行(=完全支配、荘園制の否定)を目指していた」
 と一概に思われていますが
 「私」より「公」の意識が強い大名は
 元領主の権利を尊重して、「義理」を通したのです。)




という訳で、前置きが非常に長くなりましたが
幕府に認められていなかった畠山義就
河内で割りと普通に「太守」をしていたのは
当時は、土地を介した荘園領主との "実質的な" 関係が重要だったからであり
別に、「武力制圧で全領地を自分のものにしていた」
という意味ではありません。
在地の現状年貢の沙汰が、義就の成敗で成り立っていて
 「みんなが義就の威勢を必要としていた」
というのが実状なのです。
(まあ、「頼らざるを得なかった」とも言えるが
 どちらにしても、幕府立場無し…である。)



まあ、大乱真っ最中は
兵粮に充てる為、また在地の混乱とで、寺社本所領は大打撃を被った訳ですが
大名達による押領は、東西軍が共にやらかしていた事ですし
しかも
 東軍方の分国でこの有様(=酷い押領)なんだから
  西軍方の分国なんかもう、惨憺たる状況だろう
  …と思ったら、なんか西軍方の寺社本所領は
  結構無事なとこがあるらしい。 たまげた」 by尋尊

とかいう記録があるw
 (『大日本史料』文明4年12月7日)

ちなみに、乱中、興福寺の衆徒
押領された寺社領返還を求めて、東幕府西軍大名のそれぞれに訴えたのですが
その返事が面白いw  (※以下『大日本史料』文明5年6月9日)

畠山義就 「ああ悪ぃ、乱中は無理だわwwすまんなwww」
って、おめーは正直すぎるだろw

大内政弘 「ごめん、知らなかった。すぐ調べて指導するね!」
なんて素直な大名なんだww

六角(在国中)「書状で詳細伝えてくれれば、下知(命令)するよ!」
意外とまともw

そして東幕府…「早々に雑掌(担当者)を上洛させるように」
なんか冷たい。

興福寺の衆徒は、これを拒否したそうだが
東幕府の下知は、一旦安堵してもすぐ撤回したりして
 「(義政の)御成敗も、管領(細川勝元)も全く頼りにならん」
とか言われてる。
(『大乗院寺社雑事記』文明5年2月15日)


まあ、西軍良い所ばっか宣伝するのもなんですが
大内政弘は乱中でも
上山城寺社本所領を悉(ことごと)く元の領主に返したり
(『大日本史料』文明6年正月11日)
興福寺大乗院の門跡、尋尊から直々に相談を受ければ
すごく丁寧な返事を送って、所領の返還に協力しています。
(『大日本史料』文明7年4月20日)

大内政弘、なんて良いやつなんだww
さすが、に愛されるだけあるな。
…あーいや、今日は義就の宣伝しなきゃならんのだった。



乱後の話ですが
文明16年(1484)春頃から
義就は、その頃勢力圏だった山城国河内国について
同国内の寺社領返還させる計画を開始しました。
(『大日本史料』文明16年5月6日)

おお! 義就良いやつw
…いやその前に
何でおめーが、幕府のお膝元山城国を治めてるんだよ!
とかいう意味不明さは…この際、気にしないで下さい。
…まあ、乱中
この辺一帯で "応仁無双" を enjoy していた
大内ときどき義就コラボ軍の "時間差" 置き土産、といいますか
彼らが撤退した乱後
幕府側に戻った山城国は、しばらくは何事も無かったのですが
文明14年(1482)に再燃した義就vs政長戦の余波で
文明14年末〜15年初めにかけて、義就南山城に再突入して来て
一瞬で以前のように "俺の庭" にしてしまった
(つまり、地下人(じげにん。土地の民衆)や国人たちと関係を結んでしまった)
ってゆう。
(※本当の山城&河内守護→ (´・ω・`)… 畠山政長



まあでも、当時の武士が寺社を尊重するのは、そんなに珍しい事ではなく
確かに乱中は、陣所となった寺社の被害は甚大なもので
それ故、公家僧侶の日記では
彼らは(ってか、特に義就はw)
 仏法・神道の敵! 神仏の冥罰食らえ! もう!もう!」
とは、よく書かれているのですが(ひどすw)
しかし彼らが、神仏素直謙虚だったのもまた、確かに事実なのです。


乱中、京都の東福寺を守った大内政弘しかり
(※本サイト『2-12』上から3分の1辺り)
乱後、清水寺の再建に、多大な寄進をした朝倉孝景しかり
(※『大日本史料』文明11年3月是月、本サイト『2-11』上から5分の1辺り)

義就も、乱後の、季弘大叔とのほのぼの交流、とか
(※季弘大叔…元東福寺住持。
 晩年は和泉国堺の海会寺にいた僧で
 その頃の義就情報に富んだ日記『蔗軒日録』の筆者。)
それから、摂津国の住吉社(※現在の大阪府住吉大社)に大鳥居(浜大鳥居)建てたり、とか
(『大日本史料』文明15年4月15日)
実は、ぬくもる神仏エピソードが揃っているw
義就が、その決意を強く誓う時
祇園社東寺に「願文」を納めて "本意" を宣言していたように
"名将" と呼ばれ得る武士は、総じて神仏を尊び
その心に「卑怯」がなくて、すごく「正直」
なんか、神様に愛されそうなやつばかりなのです。



だいたい、義就人生八転して3回も都落ちしてんのに
最後まで威勢が衰えることなく、それどころかむしろ進化を重ねて
名大将の素質を存分に発揮し
晩年は誉田(こんだ)の「俺の城」で割りとハッピーライフ
…だったのは
よく考えたら非常に不可思議な訳で
なんか神様のアシストでもあった…としか―――

あ、そういえば…
長禄4年(1460)9月の第二次グッバイ京都の前年
長禄3年(1459)6月27日に、謎の目撃情報が。
なんでも、京都の義就の館の上に、鳩が3羽やってきて
一日中そこに留まってたそうな。
しかも、そのうち1羽は…「矢をくわえていたと。
(『大乗院寺社雑事記』長禄3年7月13日)


尋尊「なにそれ珍事wwってゆうかなのなの??」
と計りかねていますが
翌年の、王子人生強制終了 & 義就の "本番開始"
という運命を考えると、これは…
どう見ても "お知らせ" に来た鳩w

しかも、といえば… "あの方" の使い。
も、もしや…最終的に、義就誉田の地に導いたのは―――


畠山義就


なんか、神々(こうごう)しいお方キタコレ!!
つんつんされる義就の明日や如何に!!



posted by 本サイト管理人 at 03:56| Comment(0) | ★チラ裏人物記