2014年08月09日

南無!八幡大菩薩!!

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、だいぶ間を空けてしまいました。
さて、突然ですが今日は
『チラ裏人物記』番外編、『チラ裏神仏記』です。

記念すべき第1回は、日本が誇る鎮護国家の最高峰
前回の「畠山義就(その6)」の最後で
その神々しいお姿をチラッと垣間見せて下さった
俺らのラスボスこと、武家源氏の氏神―――


八幡大菩薩
(2015.3.4リメイク)


弓矢の守護神八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)です!!
おおう。ありがてぇありがてぇ。
こんな、「なんか果てしなく最強そうな神様」なのに
神使が、というちょっと可愛い一面があります。 ズコー!


八幡様については、これまで本サイトで…

『2-4』最後の方、足利直義邸跡『鎮守八幡宮』の話
『2-5』最後の方、6代目足利義教の歌の話
『2-7』真ん中へん、『文正の政変』寸前のハチャメチャ天下に
思わず神頼みする経覚の話、と
上から3分の2、「復活義就八幡大菩薩の化身と噂されるの巻」の話
『2-8』上から5分の2、八幡大菩薩正直な者に宿るよ!の話
『2-9』最後、『室町殿』に降りてきた白旗
畠山政長の勝利を知らせに来た八幡様の仕業くさい(妄想)、の話
『2-11』最後の方、八幡様神様だけど大菩薩なんだよ!の話
それから「神仏武士の関係」&「日本の神仏について」の話

…と、小出しにして来ましたが
とにかく、中世の武士…いや、日本の歴史そのものが
八幡大菩薩抜きには語れない!!
と言うくらいに、歴史の要所要所で日本を導いて来た
神出鬼没、目撃情報超々多数の要注意神仏です。
…あ、いや、良い意味で。

八幡大菩薩抜きの「日本の歴史」なんて
武家を無視して「鎌倉・室町時代」を語るようなもの
なにそのファンタジー意味あんのそれ?ってくらい
長い間、日本の歴史の "ソフト面" の根幹を成して来た神様で
日本の古来の精神文化、世界観、国家観、宇宙観
色んな意味で、この国の核心を詰め込んだような存在です。


うん、まあつまり、何が言いたいかと言うと…
神様と言うと、宗教的な意味でしかないと思われがちですが
日本の神仏、こと、八幡大菩薩に限っては
"歴史的な目" で見ることが、本当に重要だと言う事です。



さて、では歴史的に見た八幡大菩薩とは…
とその前に
上の御影(みえい。神仏や貴人の肖像)の言い訳をしておきますと
まず、神様のビジュアル化はちょっと憚(はばか)れるかなぁ〜
とも思ったのですが
実は八幡様は、平安の昔から
「僧形八幡神」として、絵画彫像が作成されてきた神様なので
私もそれに乗っかって、心を込めて描いてみました。
イケメン…のつもり。
今のところ、道歩いててもにつんつんされないので
お気に召して頂けたかと。
ま、それにしても、神様なのに僧形(そうぎょう。僧の姿)という
実に、マニアにはたまらない神様であります。


(※ちなみに、先に言っておきますと
 を矛盾しないものとして考える「神仏習合」
 なんとなく罪悪感を覚える方がいるかも知れませんが
 決してそんな事は無いので、安心して下さい。
 それは、日本の長い伝統
 "悪習" として否定・破壊した時代のプロパガンダであって
 その影響が今でも拭い去れず
 なんとなく禁忌なイメージに付きまとわれているだけです。
 仏教は外来のものですが
 千年を遥かに超える時間を経て、この地に馴染んで行ったのは
 それが「この国に相応しいものであった」という事
 そして、
 「もとより親和性の高い共存可能な存在だった」
 という事実を示しています。
 その歴史を突然否定した「廃仏毀釈」「神仏分離」の方が
 実は、一部から起こった "人為的で政治的な思想" なのであって
 本当は「神仏習合」
 時間をかけて広く根付いた "精神的、文化的な思想" だった
 という訳です。
 現代日本人にとっては
 いささか、コペルニクス的 (  Д ) Д ) Д ) ゚゚゚゚゚゚ ポーーーーン
 な衝撃の事実ですが
 全ての日本人が知るべき、自国の(悲しい)真実です。)



…ってゆうかでも
僧形なら坊主だろ!!なんだそのロングな金髪は!!
と突っ込んだそこの君! 
フッフッフ、私は史実妄想主義ですので、これには正当な理由があります。


八幡様に縁が深い動植物といえば「鳩」ですが
もう一つ、「銀杏」(いちょう)があります。
まあ、明確に関連付けられている訳ではないのですが
銀杏御神木としている八幡宮が多かったり
銀杏にまつわる伝説が残る神社があったりと
古くから、八幡様銀杏は深く結びついていました。
その中にあって
最も心に残る銀杏、それは…
鎌倉の鶴岡八幡宮の御神木、「大銀杏」です。

樹齢千年と言われ
平安中後期の源頼義・義家父子から鎌倉の源頼朝
そして、室町の足利尊氏・直義兄弟、と
武士と共に歴史を刻み続けてきた「大銀杏」ですが
しかし―――
ご存知の通り、2010年3月10日の明け方
昨夕から吹き続けた強風により、根本から倒れてしまいました。
そんな…(´;ω;`)ブワッ


武士が生きた証が、また一つ消える…
と悲しみに打ちひしがれてしまいますが
しかし、懸命な再生活動により、僅かに残った根本から育った一本の若木
現在、すくすくと成長中なのです! おお!!
こうなったら、千年後に再び "往時の雄姿" が甦る事を祈るしかない!
だから、どうかその日まで
ありし日の「大銀杏」を、武士が生きた証を、忘れないでいて欲しい
という願いを込めて
八幡大菩薩の御影に、「大銀杏」の記憶を重ねてみました。
つまり、これは金髪ではなく
色づいた「黄金の大銀杏」なのです。
試しに、「僧形八幡神像」「鶴岡八幡宮 大銀杏」のキーワードで
それぞれ画像検索して、見比べてみて下さい。
…ね?上の御影になるでしょ?でしょ?(必死)

みんなが忘れないでいれば、きっと甦る!
という訳で、これから1000年間の「僧形八幡神像」
「黄金の大銀杏バージョン」でよろしくお願い致します。
あ?何勝手に決めてんだよって?
大丈夫です、まだにつんつんされてないので、OKが出たかと。
「僧形大銀杏八幡神」、何気に流行って欲しい…のですがw
どうですかね。
日本無双の、歴史ある「武神」を取り戻す為に。





さて、本題は「歴史的に見た八幡大菩薩」の話でしたね。
しかしこれ、とてもじゃないがブログの一記事で語り尽くせるものじゃありません。
というのも
実は、わりと謎の多い神様で、明らかになっていない部分が多く
本気で調べようと思ったら
それこそ、日本誕生の古代(神代)史から、つまり
(八幡神という "いち神様" ではなく)もっと巨視的に
"神の系譜" から探る必要があるからです。
(※ここで言う「神」とは
 宗教の神ではなく、「日本の太古の先祖」と言う意味です。)


そんな訳で私、自分で言うのもなんですが
かなり深くまで探究してみましたw
本サイト『2-1』で、初っ端から
室町そっちのけで、古代の話に道が逸れているのは、そのせいです。
語りたい事は山ほどありますが
一応ここでは自粛して、要点だけ抽出すると
『古事記』『日本書紀』(=「記紀」)だけでなく
各地方の『風土記』や、『古語拾遺』『先代旧事本紀』などの書物
それから、古い神社の「縁起」「祭神」、古代豪族の「家系図」
これらを総合すると
実は、かなりリアルな "太古の日本" が甦ります。

 
それから、主要な日本の神様って
かつて "日本に実在した先祖" そのものなのであって
宗教上の観念的な存在では無い、という事と
一般に言われているような、単純な自然崇拝とも少し違う
という事です。
(※自然を神格化したと言うよりは
 先祖(=神)自然が、混淆されたのです。)


これに気付いて「古代豪族の系図」を読み込むと、ホント面白いですよw
なんというか
 おとぎ話だと思っていた神話が、現実だった」
と言う感じで
「記紀」で活躍している神様が、元をたどれば誰なのか、とか
「記紀」 "物語" 部分は、どんな伝承を元にしていたのか?とか
実在の神様(先祖)と、後から作られた神様(観念)の区別も割りと明確で
しかも、「記紀」だけでは気付かなかった、ある "神の系譜"
浮かび上がって来るのです。

(※ここで、日本の(原始)古代を探る上での注意点ですが…
 "トンデモ説" にだけは、決して嵌り込まない様に!ww
 何でもかんでも、渡来の○氏だとか異民族の話にしたり
 古来の神様を、勝手に祟り神と決め付けたり
 やたら自然現象にこじつけたり…
 余りに飛躍した無責任な内容でも
 まだ知識が浅い段階では
 なんか本当っぽく思えてしまうので、十分に注意!)


まあ、神代〜古代史については、大体の情報はネットでも集められますが
特に八幡神については、荒唐無稽なトンデモ説が横行しているので
もし参考にするなら
無難に、全国の八幡宮公式サイト「御由緒」あたりを。
それ以外は、スルー奨励です。
(※八幡大菩薩は、「神仏習合」の嚆矢であり代表格なのと
 以下に述べる理由から
 後になって、外来神的な話が付会されて行っただけで
 歴(れっき)とした日本の神様です。)



ところで、みなさんは「神社の祭神」というものに
注意した事がありますか?

まあ、私も、ごくごく一般的な現代日本人でして
日本固有の精神、伝統、アイデンティティーというものが
"極めて希薄な時代" に生まれ育ちましたから
神社の違い、祭神の違いなんて真剣に考えた事も無かったし
の違いすら、なんか良く知らない
昔ばあちゃんに連れられて、よく○○寺に行ってたなぁそーいや
くらいの状態だったので
全く以て偉そうな事は言えないのですが
実は、この「神社の祭神」を調べていると "ある傾向" に気付くのです。
そしてそこには
日本の大きな秘密が隠されているかも知れない、ってゆう。
もちろん、これはトンデモ説ではなくw
事実は、トンデモよりもとんでも無いようです。


「神社の祭神」のほとんどは、「記紀」に登場する神様なのですが
これはもちろん
「記紀」を元にして神社を作った、という訳ではなく
太古の昔から、人々が続けてきた
「先祖(=神)を祭る」という祖先崇拝の慣習が
"神社の原型" となったのであり
彼らが、一族で語り継いで来たその「先祖(=神)の伝承」朝廷が集めて編纂し
結果、奈良時代になって誕生したのが
『古事記』『日本書紀』、という訳です。

(※ちなみに、なぜ先祖を祭ったかと言うと
  先祖(=神)の力を借りて物事を成し遂げる」
 という信仰があったからです。
 しかも、時には先祖の御魂(みたま)を
 "術"(すべ)として使う、という割りと積極的な感じw
 この「術魂」の概念は
 今以て未解決の銅鐸銅剣の謎にも、関連があるのでは…
 と思っていますが、まあ詳細はいずれ。)


しかし、そうであるならば
日本各地の神社の祭神はてんでんばらばら…になりそうですが
しかし、これが不思議な事に
祭神の多くは、ある "神の系譜" にたどり着く「同族」なのです。
ならばそれは、素直に考えれば「歴代天皇か?」となりますが
しかし、それも違います。
古代の天皇が祭られた神社って、実はそれほど多くなく
縁のある土地に "個別的" に祭られている、という場合がほとんどで
日本で広く "普遍的" に神となって祭られているのは
その "とある一族" なのです。
…え、それって
かつて日本を治めていた "土着の王族" が滅ぼされて、入れ替わったってことじゃ…
とか思ってしまいそうですが
それもまた違います。
なぜなら、今なお、その一族は
「日本の主要な神」であり続けているからです。




さて、少々話が先走り過ぎました。
この辺の真相は、今のところ、余り明らかにされていないようです。
(それが、単なる研究途上のせいなのか
 それとも、意図的に憚られているのかは… 分かりませんがw
 ただ、朝家に不敬って事にはならないと、私は思います。
 なんたって、この国古来の神様の話ですから。)


「記紀」を読んでいるだけでは気付き難い、しかし
日本各地に自然と広がり、愛され続ける「神の一族」
とかもう、どんなファンタジーだよ!って状態ですが
まあ、私もこれに気付いた時は (  Д )  ゚ ゚ ポーーーーン でした。
でも、語ると膨大な事になるので
すみません、詳細はこの先少しずつw
ポイントだけいくつか指摘しておきますと…
この "神の系譜" とは

 「イザナキ・イザナミスサノヲ →(5代略、ここ重要)
  → 大国主命まだまだ続く(ここも超重要)…」

を基本とする系統で
俗に "国津神" と呼ばれている、日本の土着の神様の一族ですが
神話の中での、"天津神"(天神) "国津神"(地祇)の区別にはあまり囚われない事
(※本来、この系譜に属する神が
 神話の中では、"天津神" として "再構成" されている
 という場合が、結構あるので。)

それから、天照大御神大国主命(というかスサノヲ命)は
本当は「対立する存在ではない」という事
(※神代史を考える場合に限っては
 天照大御神は、本来の名であるオオヒルメノムチとして捉えると良いです。
 もちろん、この系譜の神様。 しかもスサノヲの姉ちゃん。)

それから、この系譜の末裔である「古代豪族」に注目!という事
(※本来、神(=先祖)を正しく祭る事が出来るのは
 その血族の子孫だけなのです。
  "氏族の神" ではなく
   "産土神"(うぶすながみ。土地を守る神)なら
  その土地の人達が神の子孫。)

 ただし、現在の神社の「社家」(神職の一族)については
 残念ながら過去に2度
 時の政権によって
 古来の祭祀氏族(=神と血縁のある古代豪族)が
 強制的にその地位を奪われていて、ほとんど原型を留めていません。
 公権力が、子孫から先祖を取り上げた…と思うと
 非常に痛ましい歴史です。 神様かわいそす…(´・ω・`) )

…などでしょうか。


あとは、神代〜古代史に関しては
細部まで完璧な結論を出すのは、まず不可能ですから
断定する事に執着せず、大まかなラフ画を描くイメージで探究すると
見えてくるものが多いと思います。




ちなみにその昔、まだ祭祀(まつりごと)とが同一だった頃
国家体制を確立する為だろうか、時の権力者たちが
 「新しい "観念上" 最高神を作って
  全国の諸々の神豪族の系譜を
  その最高神の下に、人為的に再編成しようとした」

という
おいおいそのタブーはやばいだろ、的な横政の形跡があるのですが
結局その神様、あんま流行らなかったようだ。
(※ちなみに、「記紀」に痕跡は残っているので
 興味があったら、読み込めば気付くと思います。)

どうやら日本と言う国は
この土着の "神の系譜" じゃないと、素直に受け付けないらしいw
…なぜかは知らん。
まあ、隔絶した天の神より、を下ろした神のが好きなのかな。


そういう訳で、古代豪族の系譜や、その祖神の由緒
真相虚構がこんがらがっていて非常に厄介なのですが
僅かに残った手掛りから、上手く元の姿に戻せたなら…
これまで、それぞれ無関係の "点" にしか見えなかった個々の祭神
一気に "線" でつながります。
まさか、全国的なあの神社あの神宮あの大社と…が
みんな同族だったとは! ( ゚Д゚)アングリ





さて、では八幡様の話に戻ります。
日本全国、その数で神社のツートップに君臨するのは
  稲荷神社 と 八幡神社(八幡宮)!!
…な訳ですが
稲荷神社の主祭神は、穀物・食物の神様である
「ウカノミタマ様」(宇迦之御魂神 or 倉稲魂命)です。
そして、この神様はスサノヲ命の子孫ですから
上記の "神の系譜" に属します。
(※ちなみに、もともとスサノヲ命自身に、"食物の神" 属性がある。
 詳細は…全国の熊野大社(特に、出雲の)をどうぞ。)
全国に広まったのも納得、の神様です。


一方、八幡宮の主祭神は
「誉田別尊」(ほんだ(or ほむた)わけのみこと)
すなわち15代応神天皇です。
(※"応神" は、後世に選定された諡号(しごう))
実は、応神天皇
神として、全国くまなく "普遍的" に祭られている
数少ない…というかほぼ唯一の天皇(※当時は大王(おおきみ))
なのです。
…おっと、いきなり上の理論破綻か!?
とか思われそうですがw
しかし、始めから応神天皇 "そのもの" が八幡神だったのではなく
その経緯はちょっと複雑で
実は、八幡神の原型は
古来、九州の宇佐の地で祭られていた「土着の女神」
応神天皇の時代(4世紀頃、古墳時代)から2〜300年ほど "間を空けて"
この太古の女神様と、応神天皇が習合されて「八幡神」となり
さらに、当時、日本に伝来して間もない仏教と相俟って
「八幡大菩薩」となったのです。

そして、この女神様とは
八幡宮の総本宮「宇佐神宮」 "二之御殿"
つまり中心に祭られている
 「比売大神」(ひめおおかみ)=宗像三女神
すなわち
スサノヲ命オオヒルメノムチ系の神様ですから
八幡神とは
その本質から言えば、まさしく "神の系譜" に属する
という訳です。
(※ちなみに、「宇佐神宮」の
 "一之御殿" 八幡大神(応神天皇)
 "三之御殿" 神功皇后(じんぐう こうごう。応神天皇母)です。
 詳しくは、「宇佐神宮」公式サイトをどうぞ。)


さらに、「宇佐神宮」の創建には
この "神の系譜" の末裔の大神(おおみわ)一族が深く関わっていて
しかも、その昔
神功皇后三韓征伐に参陣した豪族達には
この "神の系譜" の末裔豪族大神氏以外にも色々)が多く
またこの時、神威を発揮して神功皇后を助けたと伝えられるのは
みな、この系譜の神様なのです。
(つまり、豪族たちがそれぞれの祖神を奉じて参陣した、と言う事。
 特に、住吉三神の正体はというと…まあいいかw)


(※ちなみに、八幡神 "渡来系" と誤解され易いのは
 この時の「海の向こうに "行って" 帰って来た
 という話が、いつしか
 「海の向こうから "やって" 来たと言う話に
 すり替わってしまったからです。
 同じく、渡来系と誤解されている神の代表格に
 スサノヲ命と、その子神の五十猛命(イタケルノミコト)
 がいますが、実はこの父子神
 "別の名" で、神功皇后と共に遠征しています。
 伝承として語り継がれてゆく間に
 "元の神の名" に戻り、時系列がこんがらがり
 そして、ここだけ切り離されて一人歩きしてしまった、と。
 (※参照…『日本書紀』神代 上、「八岐大蛇」のところ)
 という訳で…
 八幡様スサノヲ五十猛も、みんな日本の神様です!!
 しかも、この遠征で活躍したと言う伝承から
 五十猛命は「新羅の攻撃から、自国を防衛する神」として
 日本海側の古社に祭られてすらいるのです。
 そんなありがてぇ神様を渡来系とか言うなんて!
 もう!罰当たりな!!)


…と、話を戻して
つまり、"八幡神の誕生" とはすなわち
九州宇佐の地に太古から祭られてきた比売大神(宗像三女神)
"リビジョンアップ" だった

…とも言えるのですが
なぜそれに、応神天皇が選ばれた(※)のかと言うと
神功皇后応神天皇は、この遠征によって九州の地に多くの伝承を残していた上
もともと、"神の系譜" の末裔豪族と深い関係を持っていた
もっと言えば、その属性が色濃くあったから、という訳です。

(※…もちろん、伝承では、6世紀後半頃
 宇佐の社に、応神天皇の御神霊が "3歳の童子" として顕現し
 「八幡神は…私です」と自ら宣言された
 …と伝えられています。
 ちなみに、応神天皇はその前段階として
 "金色の鷹" とか "金色の鳩" の姿で出現されている。
 おお! やっぱり八幡神といえば "黄金" なのだww)



…あ、ああ、でも
これ以上突っ込むと、流石にやばいかなw
では、今はこの辺で。
要点だけ纏めておくと―――
応神天皇神功皇后、もしくは八幡神
なんか妙に、大陸由来的なイメージを持たれがちですが
実際は、"土着の神" の末裔豪族に強く支持されていて
また、各地の『風土記』に多くのエピソードが残る事からも
むしろ、日本に "堅固な基盤" を持つ存在であった、と言う事
それから、どうも応神天皇
歴代天皇の中では、ちょっと際立つ存在だ(やや私見)
と言う事です。


当時の大和から見たら
いち地方に過ぎない(失礼)"宇佐" で誕生した八幡大菩薩
なぜその後
こんなにも日本中に遍(あまね)く広まり
長く、厚く、人々に頼られ愛され続ける事になったのか?
これまで "大きな謎" とされて来たその秘密の解明に向けて
とりあえず、一歩を踏み出せたと思います。
(という訳で、神様の話
 今後も時々、室町そっちのけで続きます。よろしくw)



ちなみに、その後の経緯を概説しますと…
奈良時代に「宇佐神宮」が創建された後
平安時代の初め
宇佐の八幡神を、山城国に勧請したのが「石清水八幡宮」
平安京の裏鬼門を守る "鎮護国家の神" として、朝廷から厚く信仰され
そして平安時代中期以降
八幡大菩薩 "氏神" として崇敬する、武家源氏の源頼義・義家父子によって
鎌倉に八幡宮が勧請され
これがのちに、鎌倉幕府を開いた源頼朝によって
「鶴岡八幡宮」として生まれ変わります。
こうして、武士と共に歩む長い歴史が、始まるのです。




ところで、現在、日本の神様といえば
「伊勢神宮」天照大御神が "絶対のトップ" と言う感じですが
実は、つい最近まで
「石清水八幡宮」は、「伊勢神宮」と共に「二所宗廟」と言われ
かつての "錦の御旗" には、二神が並んで記されていたように
八幡大菩薩は、天照大御神と相並ぶ "国家神" だったのです。
(※宗廟(そうびょう)…天子の祖先をまつる所)

本サイト『2-11』(最後の方)の繰り返しになりますが
八幡様
 「国家の一大事に際し、(しょっちゅう)神託を下しては
  華麗にピンチを救う、鎮護国家のヒーロー的な神様」

ですから
両神の関係を分かり易く言うと
 "鎮座" する天照大御神と、"実働部隊" 八幡大菩薩
と言う感じで
それぞれに役割を持った、互いに "相対" の関係なのです。

(※もちろん、日本の神様は八百万(やおよろず)ですから
 二神のみならず、すべての神様 "相対" なのですが。
 …とは言え、この両神の関係
 室町時代「知ろしめす主上と、実働する武家
 という関係にも反映されているようで
 日本という国家の "見えざる基本構造" を探る上で
 非常に興味深い。うむうむ)


しかし―――
日本の歴史において、これほど大きな役割を果たして来た八幡大菩薩ですが
現在は…かつての "国家神" としての面影がすっかり薄れてしまっている。
中世の武士なんて、「おまえら…どんだけ八幡様好きなんだよ」
ってほど
戦となれば「南無八幡大菩薩!!」
ってゆうか四六時中「八幡大菩薩、御照覧候へ!!」
"弓矢の道" の根底にあった神様なのに。

実は、過去の歴史を調べていると
 「日本の歴史って、一回どっかで途切れたっけ??」
と考えたくなってしまうほど
どうにも形容し難い違和感が沸いて来るのです。



それでは、一体、いつ、何が起こったのか―――と言うと…
八幡大菩薩は、その名の示す通り
「神仏習合」が進んだ神の代表格だったので
今から遡ること約150年
明治時代の宗教政策、「神仏分離」「廃仏毀釈」において
凄まじい被害を受ける事になってしまったのです。
もう、ズッタズタです。
千年以上、この国を守り続けて来た神の名
この日を境に消滅しました。
実は、「八幡大菩薩」という名が、現在、聞き慣れないのは
この時、新政府によって禁止されたからなのです。


こ、こんな麗しいお姿の神様に、なんて酷い事を…(´;ω;`)ブワッ
まあ、御影は私の妄想ですが。

って、冗談言っている場合ではなくて
余り…と言うかほとんど知られていませんが
これは、単に「を分ける」とか
神社寺院を区別する」といった、生易しいものではなく
特に、かつての八幡神社
「八幡宮寺」と呼ばれるまでに、習合が進んでいたので
境内にある、仏教色の強い建造物は
その重い歴史を顧みられることなく、軒並み破壊され
経典仏具、数え切れない仏像
廃棄、売却、破壊の、凄惨な末路をたどりました。  
もちろん、全国の寺社も同様で
残っていれば超一級の文化遺産となっただろう伽藍(建築物)も
昨日まで大切に安置されていた本尊
二束三文で売りに出されるか、刻んで(まき)にするか
ただひたすら破壊されるか
寺社だけではなく、道端の地蔵菩薩までも
をもぎ取られる、という
残忍な方法で破損され、痛ましい姿で山積みにされて行きました。



明治維新については
現在、全面的に好意的な捉え方をされていて
(情けない現代に比べて)国の歴史誇りが大切にされた時代だ
という認識が優勢なので
 「実は、文化伝統において日本が壊された時代だった」
と言ったら、多分、ほとんどの方は驚くと思います。
しかし、残念ながら
直視に堪えないほどの自国文化の破壊伝統の否定や軽視が横行し
国宝級の文化財が、海外に大量に流出して行きました。
…と言っても、現在、海外の美術館で保管されいるそれらは
ある意味、破却の難を逃れた幸運なもの達です。


こんな大破壊が日本で起きた事が信じられない、というか
信じたくないのですがw
なんたって、その頃、日本文化を最も愛し
その貴さを真に理解し
それ故、破壊の現状を心から憂いて献身的保護に走ったのは
「当時のお雇い外国人だった」っていう
まさに、コペルニクス的(  Д ) Д ) Д ) ゚゚゚゚゚゚ ジェットストリーム ポーーーン
の、衝撃の事実。


…いやだから、冗談言ってる場合ではなくて
明治の宗教政策は一見
仏教寺院だけが被害を受けたと勘違いされていますが
実は、神社も…「神仏習合」が進んだ大きな神社だけでなく
土地に密着した小さな無数の神社
非常に痛ましい被害を受けたのです。

「廃仏毀釈」の原因を、当時の仏教界の堕落に求め
新政府の政策を正当化しようとする論調までありますが
しかしそれでは
それまでの神道も、修験道などの民間信仰
禁止改変の対象にされた理由が説明出来ません。
実は、明治の新政府が目指したものは
自国誇りを持った上での近代化、とは言い難いもので
その実態は
劣った日本を捨てて、進んだ西洋になる事でした。



すなわち、明治の宗教改革とは
脈々と受け継がれてきた "日本古来の神道" を廃し
新しい "国家神道" という
西洋的な "一神教" に倣った神道に作り変える事で
その為に
全国各地の、土地土地で大切にされてきた無数の産土神の社が廃されて
由来を捨てられた "神だけ" が、一つの社に統合され
都合の悪い神は、その名を改変させられ
もしくは、祭神そのものが入れ替えられ
結果、膨大な数の神社その歴史が、消え去って行きました。

みなが相対の関係にある「八百万の神」という
"多神教" 的な思想や民間信仰は、後進的であるとされ
西洋の絶対的な "一神教" こそが
近代化、中央集権化には不可欠だと考えられたからです。

(※上で、「神社の祭神」について解説しましたが
 実は、明治期に書き換えられたものが非常に多いので
 もし調べる時は、十分注意して下さい。
 何となくぎこちない、新しい感じの祭神
 雑多に詰め込まれたぎゅうぎゅうの祭神、などがそれです。
 ああ、神様おいたわしや…(´;ω;`) )


特に、神道における社家の廃止」
仏教における「僧侶の肉食妻帯解禁」
致命的でした。
本来、子孫であるべき神職が、世襲を禁止され
戒律を守り、師匠から弟子へと受け継がれる仏教寺院が世襲となる
つまり、その "精神" という根本から
日本の信仰は、崩れていったのです。




明治という時代については
否定的な見解を示すと
なんか変な誤解を受けそうで、非常に躊躇われるのですがw
しかし
ここ最近、自分達の "日本" と言う国を、特に "戦後" を見直そう
という気運が高まりつつあって
それ自体は、良い傾向だと思いますが
(ただし、戦後だけでなく戦前も見直した方がいいと思うがw)
しかし
「では、これから目指すべき「本当の日本」とは?」となった時
明治以降の日本が "本当の日本" だと
"伝統的な日本が復活した時代" だと誤解されている事に
非常に強い危機感を覚えています。


(もちろん、賞賛すべき部分も沢山あるし
 一般国民レベルではいつの時代も、素晴らしいものを持っていると思いますが
 しかし―――)
明治の神道が、仏教儒学が伝わる以前の "純粋な古神道" だ」
というのは
古来の祭祀氏族の世襲を禁止している時点で
残念ながら誤解です。

絶対的な神のもとに、強力な中央集権を推し進め
 国民に対して、権力者の "絶対優位" を確立する」
というのは
つまり、覇者による「覇道政治」です。
支配者の「権威」よりも「道理」を至高とし
撫民仁政徳治「王道」を目指した "武家の精神"
(そして花園天皇の理念)とは
対極にある価値観です。

さらに
新政府自身によって「神聖にして侵すべからず」とされた天皇も…
これは、言及するのも畏れ多い事ですが
実は、主上のあり方…と言いますか、その意義歴史的姿
根本的に改変を受けています。
具体的にどのように…というのはまあ
チキンなので今は伏せて置きますがw
言うなれば、主上を慕う当時のまともな公家たち
 「朝家が…終わる」
と絶望したくらい。
明治の新政府が目指した「天皇を中心とした国家」の "天皇" とは
必ずしも "伝統の" ではなかったのです。


前回、「なぜ、皇統は途切れることなく続いてきたのか?」
という愚問…失礼w 疑問への答えを提示しましたが
実はもう一つ
そしてこれが "最大の要因" なのですが
日本には、長い歴史に培われた「先例」という "最強の不文法" がありまして
それが、朝家を守ろうとする社会の合意人々の意識
暗黙のうちに形成していたが為に
時代を超えて、皇統が保たれて来たのです。
しかし、その「先例」の多くが、明治と言う時代に破られました。
その後の事については…
すみません、畏れ多くて限界ですorz 今はここまで。




という訳で
少々話が重くなってしまって、すみませんでした。
なぜこんな言及し難い事に、敢えて触れたのかと言うと…
それは
もしこれから、本当に正しい未来を望むなら
公平公正な目で、過去を再検証する必要があるからです。


現代の日本人
どこか自国を心から愛せずに、恥ずかしさ憎しみさえも抱きながら
劣等感に縛られ続けているのは
敗戦により、全てを失ったからだ」とされていますが
しかし私は
実は、もっと以前
幕末から明治の開国により、西洋と言う "近代国家" を目の当たりにした衝撃から
その反動で
日本の伝統のすべてを、"非近代国家の悪習" と敵視し
あの時、自国の歴史・文化・伝統を否定し過ぎてしまった為に
精神の拠り所を失ったせいなのではないか
…と考えています。

足りなかったのは科学技術だけで
政道文化信仰
"自分達のやり方" が立派にあったのに
それをまとめて、劣等感で塗りつぶしてしまったが故に
今なお、自国の何を信じて自信を持ったらいいのか
分からずにいる。

だとしたら
本当の日本を取り戻すには、あの当時の現実を、その功罪
直視するしかない。
何を失って、何を忘れてしまったのか?
それは、文化か、武家の「王道」か、長い歴史か。
私たちは、世界を相手に大きな挫折を経験したショックからか
"それ以前" 自分達の歴史に正面から向き合う勇気
少し欠けていると思う。



私が、神代〜古代の歴史に注目しているのは
そこになんとなく、本来の "日本の枠組み" が見えてくるからです。
と言っても決して、「 "太古" の日本こそ本当の日本だ!」
とか思っている訳ではなくw
どうやらそれは
"現代" に至るまで、見えない根底の部分日本の基礎をなしているのではないかと
しかも、その太古の世界
不思議な事に、室町時代の日本
どこかシンクロするものがある様に感じるのです。


…あ?ちょっとオカルト入って来てるだと?
しかし、この宇宙には
極めてシンプルな "万物の理論" と言うものが存在する訳ですから
現代の理論物理学や、仏教方面からのアプローチだけでなく
「日本」と言う、摩訶不思議な国 "条理" なるものからそれを探ってみるのも
ありなんじゃないかな、と思って
本サイトのメインである史実妄想物語『黎戦記』
『明応の政変』の真相と共に、「日本の謎」にも迫ってみよう
と言う事で
室町キャラと共に、神様にも登場してもらう予定です。





あーさて、流石に長くなり過ぎましたw
肝心の、八幡様畠山義就の話まで結局たどり着けなかったし。
なんてこった。
では、続きは次回、「畠山義就(その7)」ということで。



ところで、鎌倉の鶴岡八幡宮「大銀杏」ですが
その昔、建保7年(1219)
鎌倉幕府の2代将軍源頼家(=初代頼朝嫡男)の子の公暁
この「大銀杏」の陰で、3代将軍源実朝頼家弟)を待ち伏せし
父頼家の仇として暗殺した
という伝承から
「隠れ銀杏」との異名があります。

2010年3月10日の倒伏は、非常に悲しい出来事でしたが
オカルト的には一説に
 「もう、隠れる所はない」
という意味でもあるとかなんとか。
つまり、これまで隠されていた事真実
すべてが明らかになっていく時代が来た、と。
そういえば最近、世の中で悪事がばれまくっているような…


おお!!
もしや、室町幕府の真相解明、名誉回復キタコレくさい!!
これは全力で、八幡様にワクテカ待機ですね。
大銀杏八幡大菩薩、御照覧候へ!!
なむなむ!

八幡大菩薩


あ、これ、鶴岡八幡宮にいた



posted by 本サイト管理人 at 03:03| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年08月16日

源八幡太郎義家

(チラ裏シリーズ)

こんにちは
今日の『チラ裏人物記』は
再び畠山義就ネタに戻る…つもりだったのですが
ちょうど「お盆」ですので
もう少し、彼らの遠い先祖に思いを馳せてみようかと思いまして。


ちなみに、「盆」とは
かつては、旧暦の7月15日を中心に行われていた
「先祖の精霊をお迎えして祭る行事」
日本古来の「祖先崇拝」の慣習と
仏教の「盂蘭盆」(うらぼん)とが混淆した伝統であり
その起源は、気が遠くなるほど古く
(だから詳しくはよく分かってないw)
それ故、日本人の根底に流れる素直な感覚をそのままに形にした
これ以上無い "精神文化" と言えます。

現在の「盆」
新暦の7月15日とする地域(関東に多い)もあれば
少数ですが、旧暦の7月15日(新暦では8月あたり)に
"きちんと" 合わせる地域もありますが
最も多いのが、"だいたい" 旧暦7月15日に当たる
新暦の8月13日〜16日とする場合で
これを「旧盆」「月遅れ盆」と言います。


まあ、生まれ育った地域によっても様々だと思いますが
かつては「正月」と並ぶ一大行事だった「お盆」の習慣も
今ではだいぶ、消えかけて来てしまっている… ああ…
しかしそれは
廃れていく伝統への懐古感傷ではなく
私は、日本と言う国は
「先例」「慣習」という "精神文化" で繋いで来たからこそ
現存 "世界最長国家" なのであり
同時に科学技術で "摩訶不思議の最先端" を走っていると思っていますので
どうしても、繋いで来た火を絶やしたくない
もし、失ったものがあるなら取り戻したい、と思う訳です。


室町時代には
毎年、旧暦7月15日の1〜2日前
精霊に捧げる「燈籠」(とうろう)を
義教や義政など足利家の将軍廷臣から、主上へ献上する習慣が
いつしか生まれ、定着していきました。

先祖の精霊を迎える道案内としての「迎え火」
帰り道を照らす「送り火」
ただ静かに先祖を思い、灯し続けてきた火の意味
もう一度考え直してみて欲しい
今日はそんなお話。





という訳で、前置きが長くなりましたが
足利尊氏足利直義をはじめとする室町の歴代将軍
…のみならず、畠山義就畠山政長斯波義廉ほか色々の
偉大な先祖と言えば―――

源義家
(2015.2.27リメイク)

源八幡太郎義家(みなもとの はちまんたろう よしいえ)です!

まあ、源氏の氏神である "八幡大菩薩" こと応神天皇
さらに偉大なご先祖様な訳ですが
その "八幡様と武士の蜜月" の原点こそ
この、平安時代中後期の源頼義・義家父子なのであります。
そんな訳で
前回の「南無!八幡大菩薩!!」では
ようやく八幡大菩薩の概説が済んだので、話が進め易くなりました。
何しろ武士の時代、特に、もろ源氏将軍室町時代
八幡様系の小ネタがわんさかしているので。


(※ちなみに、「源氏」には
 "武家" となった源氏も、"公家" となった源氏もいます。
 そして元々は、京都の平野社(平野神社)を氏神としていて
 八幡宮を氏神としたのは、源頼義・義家父子以来だそうです。
  (※『十輪院内府記』文明13年3月25日)
 つまり、八幡大菩薩
 正確には「武家源氏」の氏神なのですが
 本サイトおよび当ブログでは
 単に「源氏」と言ったら、「武家源氏」の事と思って下さい。)



それでは、「武家源氏の "八幡様クロニクル" 」
と題しまして―――

頼義長男の源義家
「石清水八幡宮」(いわしみず はちまんぐう)で元服した事から
通称「八幡太郎」と名乗っていたのは有名ですが
源頼義の、関東進出の "最初" の足跡として
長元3年(1030)東国への道中、戦勝祈願の為
「石清水八幡宮」(一説に「宇佐神宮」)を勧請したのが
現在の神奈川県茅ヶ崎市の
「鶴嶺八幡宮」(つるみね はちまんぐう)です。

その後、『前九年の役』(1051-1062)では
頼義の援軍の為、奥州へ向かった嫡男義家
ここで同じく戦勝を祈願し、銀杏を手植えしたと伝えられますが
これが現存の「鶴嶺八幡宮」の大銀杏。 貫禄のある大木です。

この奥州出陣の途次では、他にも
八幡様のミラクルネタを今に伝える八幡神社が、いくつかあったりしますが
何と言っても外せないのは、康平6年(1063)
奥州平定を成し遂げた源頼義・義家父子が、その帰途で
氏神、八幡大菩薩への感謝を込めて
鎌倉に「石清水八幡宮」を勧請した「由比若宮」です。
この社は、約120年後
源頼朝によって、規模を新たに生まれ変わる事となるのですが
これこそ
その後長く武士の歴史を語り継ぐ存在となる
 「鶴岡八幡宮」(つるがおか はちまんぐう)
という訳です。
(※それ故、「由比若宮」は現在、元八幡とも呼ばれます。
 場所は「鶴岡八幡宮」と海岸の中間、やや海より。)


さて、鎌倉幕府は、源氏将軍源頼朝によって開かれた
武家政権の "記念すべき第一歩" ですが
残念ながら、源氏将軍の血筋は、3代で途切れてしまいます。

源頼朝足利尊氏の偉大な祖先である源八幡太郎義家
武士の "伝説的ヒーロー" として
後世には、多くの逸話が語り継がれた一方で
実は…全盛期の活躍とは裏腹に、晩年は余り恵まれなかった訳でして
その後の平安末期にかけては
我が世の春を盛大に謳歌するのは平家だし
源頼朝が開いた鎌倉幕府
執権北条一族(平氏)に乗っ取…失礼w 運営されて
源氏の正統後継者足利家は、日陰時代でちんまりしてた
といったように
実は、源氏は、大いなる英雄を輩出して来た一方で
割りとしょっぱい歴史をたどってきた
ソルティ王子の一族なのです。 (´;ω;`)ブワッ


しかし、それでも
平安に始まった八幡宮と源氏の運命
導かれるように、伝説を綴り続けて行きました。
何度もに消え入りそうになりながら、それでも不思議に
彼らを照らすは、必ずやって来るのです。



鎌倉時代末期
嘉元3年(1305)、そして2年後の徳治2年(1307)
のちに室町幕府を立ち上げる「二人の将軍」
足利尊氏と、足利直義が生まれます。

この時の話として
今川了俊の手記『難太平記』によると(つまり、たぶん本当の話)
尊氏が産湯(うぶゆ)に浸かった時
2羽の山鳩が飛んで来て、左の肩先と柄杓(ひしゃく)の柄に留まり
直義の産湯の時は、同じく山鳩が2羽やって来て
柄杓の柄と、湯桶の端に留まったそうだ。

…って、つんつんされとるwww
これは確実に、八幡様からのお知らせじゃないですかぁぁーーww
(※ちなみに、「八幡宮」の「八」の字は
 向かい合った2羽の鳩で表される事がある。
 →「鶴岡八幡宮 鳩」で画像検索どうぞ。)

ただし、その当時は
執権北条一族に憚って、人々はこの話を口に出さなかったそうで
後になって沈黙を解いた彼らは
ああやっぱり、将軍になるべく生まれて来た二人だったのだと
八幡大菩薩の託宣を、改めて噛み締めた事でしょう。




ところで、足利尊氏・直義兄弟と
その祖先、源八幡太郎義家
そして八幡大菩薩にまつわる、こんな逸話があります。

どんな運命に導かれたのか
気付いたら将軍になっていた二人ですが
室町幕府が誕生して10年ほど経った頃の、ある4月5日
直義は、祖父足利家時がその昔
臨終の際に、家臣高師氏に託した「御書」を初めて目にして、あまりに感激
 「この御書を手元に留めておきたいので、写しを返す」
と、その家臣の孫の高師秋に書状を送りました。

(※これは、直義自筆の現存の書状です。
 ちなみに、高師秋(こうの もろあき)は、高は高でも
 最後まで主君直義に忠節を尽くした高(こう)の一人です。)


さて、その足利家時の「御書」の内容ですが
これは、これまた今川了俊の手記『難太平記』の記述と合わせると真相が見えてきます。
それによると…
源義家はその昔
 「我、七代の孫に生まれ変わりて、天下を取るべし」
と誓った「御置文」を残していたと。
しかし、その七代の孫となった足利家時
未だ時が至らない事を悟り
 「我が命を縮めて、三代のうちにて天下を取らしめ給え」
と、"八幡大菩薩" に祈って―――
自害したのだそうです。
(※この自害は、当時の幕府内の(かなり壮絶な)権力抗争である
 『霜月騒動』が遠因とも言われている。)

そして時が過ぎ
家時二代の孫(※家時を一代と見れば三代目)に当たる
尊氏・直義が、天下を取った後のこと
その誓いを記した足利家時自筆の「御置文」
今川了俊は実際に
尊氏・直義の御前で、父今川範国らと共にこの目で拝見した
という確かな話です。
(※ちなみに、"了俊" は入道後の法名。実名は今川貞世です。)


今川了俊が見た、この足利家時の「御置文」
直義自筆の "高師秋宛て書状" に言う、足利家時の「御書」
同一のものである、という保証はありませんが
しかし、そう見てほぼ間違いは無いと思われます。
つまり、尊氏・直義兄弟は
源義家や、祖父足利家時の決意を "知らずに"、動乱の天下を駆け抜け
室町幕府を立ち上げた後に
先祖の誓い(発願)を知ったことになります。

尊氏と直義は、今川範国・貞世(了俊)父子たちの前で
 「今、天下を取ったのは、ただこの発願によるものだ」
と語っていたそうですが
この「御置文」の存在を知った時の二人の心中を思うと
見えない何かが導いたのだと
信じないでいられる自信が…ない。


ちなみに、かつては
 「この置文があったから(知ってたから)
  尊氏・直義は天下取りに走ったのだ」
と、誤解されていました。
…って、それじゃ時系列おかしいじゃん!
何でそんなに、欲深い覇者にしたいのさ!もう!
…と、相変わらず
激おこゲージ満タンにしてくれる "近代的南北朝史観" ですがw
ただ普通に、実証的に史料を分析しさえすれば
もともと、尊氏・直義
権力自体への欲で動いた訳では無い事も
世の静謐と、「王道」で治められる天下を願っていた事も
割りと簡単に引き出せる結論なのに
当時の現実をありのままに記した
『二条河原の落書』『北畠顕家奏状』
夢窓国師の『語録』、勅撰和歌集に残された2人の「和歌」
そして、花園天皇の『誡太子書』をもスルーして
"室町憎し" で歴史を語るのは
余りにフェアじゃ無さ過ぎる!!
というか、これらを読めば
尊氏・直義を責める事が出来る人は、いないと思う。


新政権内部の近臣の讒言で、彼らが追いやられた事も
立ち上がった彼らが「王道」を目指した事も
それが、花園天皇の説かれる「仁政徳治」と合致していた事も
みな事実です。
自己の幸福の為に天下を取るのは、「覇道」の覇者であって
それと対極にある
「王道」のもとに天下に君臨する者は
民の苦しみの全て、戦で積まれた罪の全てを背負うという
重く苦しい宿命に耐えているのです。(※参照『夢中問答集』)
特に、光厳院足利直義なんてもう… (´;ω;`)ブワワワワッ

この時代の、北朝武家を歪曲することは
この国の本来のあり方その深層をも曲げてしまう
非常に危険な史観…と言ったら、言い過ぎかも知れないけれど。


(※花園天皇『誡太子書』を記されたのは
 『正中の変』(1324)の6年後
 『元弘の乱』(1331)の1年前である
 元徳2年(1330)ですが
 当時の天下の様相から、その後の(鎌倉幕府の終焉による)
 "乱世の到来" を予感されていた花園天皇の慧眼には
 本当に感服します。 ただ…
 「国の乱れは、天子の不徳」とされたこの国で
 打ち続く戦乱、人々の愁嘆の絶えない時代に即位した甥の光厳天皇
 自身の度重なる不遇をも顧みず
 生涯、ただひたすら民を幸せを思い続けて
 厳しい自戒の日々に身を置かれた、その心中には
 どんなに敬意を示しても足りませんが
 このような激しい時代だったからこそ
 世の泰平の為に、民の幸せの為に
  「天子とは、どうあるべきか」
 を力強く記した『誡太子書』
 本当に重みのある、貴重な書です。)



ただし、細かい事ですが
 「足利軍は、持明院統(北朝)の天皇の為に戦った」
というのとは、少し違います。
直接的に "天皇の為"、というより
足利軍は(特に足利直義は)、"道理の為" に戦ったのであり
同じく、足利軍に院宣を下された持明院統の光厳上皇
それは保身を目的としたものではなく
「道理」を至上とする世を、理想の姿だとされていたからであって
つまり両者は、その価値観を共有していたが故に
同じ方向を向いて、次の時代を築いて行けたのだと。

私は、直接的な(つまり朱子学的な)天皇への崇拝ではなく
を同じくする事で成り立つ、間接的な君臣こそ
本物の君臣だと思っています。
(※参照は…本サイト『2-12』上から5分の4くらい
 後花園天皇6代目足利義教の、素晴らしい「公武関係の話」をどうぞ。)


というのも、歴史を見れば隠れなき事ですが
声高に "尊皇" を叫ぶ者ほど、その本音は天皇権威の "利用"
という、かなり痛い事実…
そして、「道理」より「権威」を上に置くと
国も組織も、例外なくおかしくなって破綻する
という、笑い事じゃない事実…orz
やはり、「権威は天道を越えない」のが日本の条理だと思うし
本当に主上敬意を持った者は
暗黙のうちに、天意に適った政道を実現し得るのです。


花園法皇監修、光厳上皇親撰の勅撰和歌集『風雅和歌集』より
足利直義の一首

たかき山 ふかき海にも まさるらし 我が身にうくる 君がめぐみは

高い山も、深い海さえも適わない。
 この身に受ける、君(主上)の恩恵は。)

うーんw 相変わらずの、なんちゅうきよきよ侍



まあ、そういう意味で、足利尊氏や直義
南朝との関係においても、結果的に対決する事になってしまっただけで
南朝への "敵意" "憎しみ" から、対立した訳でもなければ
そもそも、対立したかった訳でもなく
当初から、一貫して和睦を望み続けていたのであって
後醍醐天皇の菩提を弔う為に『天龍寺』を建立したのも
『観応の擾乱』(※幕府の内訌)の際
直義尊氏が、南朝との停戦・和睦を求めたのも
なんら不思議な事ではないのです。


(…ただし
 この時の尊氏側の行動は、実は
 「陰謀を企む家臣の独走」が先行したもので
 尊氏自身は、とある「不審」(『園太暦』)を抱いていたという
 複雑な問題です。
 『観応の擾乱』については、いずれ改めて詳述する予定です。
 ―――2014.11.27追記 )



(※ちなみに、6代目足利義教
  「特に義教は、格別に旧院(後花園帝)への御奉公
   比類無きものだったと聞き及んでいる」

 と、後土御門天皇(後花園天皇の皇子)が
 宸翰(=天子の直筆の書状)で語るほどの
 本物の忠臣だったりする。
 ※参照…【末柄豊『禁裏文書にみる室町幕府と朝廷』
     (『ヒストリア』第230号 2012年2月)】
 義教批判
 こういう都合悪い史実、いっつもスルーしてる(´・ω・`)
 そろそろ改めた方がいいと思う(´・ω・`) )



ところで、
足利家時の「三代のうちに…」という「御置文」は本物だとしても
源義家の「七代の孫に生まれ変わって…」という「御置文」
語り継がれた "伝説" の域を出ないのかも知れませんが
でも、否定するに足る証拠もありませんし
折角のロマン溢れる物語なので、素直に信じてみますと…
尊氏・直義兄弟は、「源義家の生まれ変わり」
だと言う事になります。


この2人は、が同じで、2歳しか違わず、元来とても仲が良く
しかし、性格が正反対という不思議な兄弟です。
尊氏
「俺は、軽々しくいたい」とか自分で宣言しちゃってるように
考えるより、感じるんだ!タイプで
どんな難局もノリで乗り切り
その仁徳で、理屈抜きに万民から慕われる人物で
天下を(無意識のうちに)牽引する素質を、十分過ぎるほど備えています。
一方、直義
これ以上無いほどに廉直正直
武士としても政治家としても、ひたすら清く真面目に生きて
民の苦しみを、自分の事のように受け止めては心を痛め
それ故、荒れた世を正そうとする気概に満ちていて
その為の知性高い道徳意識を兼ね備えています。
とんでもなく頭が良いのは
夢窓国師との問答を記した『夢中問答集』 "原型"
 直義自身が日頃
  夢窓国師にお目にかかったついでに尋ね聞いた事
  何となく書き留めていたもの」

である事からも明らかです。
(※『夢中問答集』を読んで頂ければ分かりますが
 「これ、覚えてたんかい!!」とコーヒー吹きます。)


この、鎌倉幕府終焉から室町幕府創生期にかけての
ダイナミックすぎる天下の激動を考えれば
おそらく、2人でなければ
それぞれの能力を足して挑まなければ
源義家の発願は、達せられなかったんじゃないかと思います。


私の妄想では(ホントに妄想ですみません)
源義家は、まずは家時として生まれ変わってみたものの時が至らず
今度は慎重に時勢を読んで
"一人の" 尊氏として生まれる予定だったのだが
思った以上に、時代がカオスになりそうだったので
 「てゆーかこれ、俺一人じゃ無理くさいwww」
と、あっさり怯(ひる)み
2年の間を挟んで
尊氏と、それを補完する能力を持った弟直義
"二人の" 兄弟として生まれることに
急遽、予定変更したんじゃないかと。
しかし、そうすると
本来は、一人の人間として生まれてくるはずだった尊氏と直義
もしかして始めから
一人に戻らなければならない宿命を背負って、この世に生を受け……
だとしたら、天下を治めた暁には―――


なぜ、こんなに仲の良かった2人が
『観応の擾乱』で決裂しなければならなかったのか
しかもなんで
この世で一番廉直直義
誰よりも、正しい政道を進めてきた直義
死ななければならなかったのか
もう、何度考えても納得出来なかったのですが
これはつまり―――

よ〜し〜い〜え〜〜 (`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)
おめーが怯んで分身したから
直義あんな事にならなならんかったのか!!www
おいコラ!!
これは、きちんと本人に説明してもらう必要がありますね。
では、日本史上最も互いを思い遣っていた兄弟の悲劇の落とし前は
本サイトのメイン、史実妄想物語『黎戦記』でつけてもらう
という事で
平安の源義家にも、室町物語(※時間軸現代)に登場してもらいます。



ちなみに、足利尊氏足利直義…かも知れない
との疑いがひじょーーーに強い
とある神○寺「一対の肖像画」がありますが
その肖像画、実は詳察すると
目以外は "ほぼ同じ" というくらいそっくりに描かれていて
重ね合わせたら、対消滅しちゃうんじゃないか、おい!?
というレベルの代物です。

ってゆーか、どう考えても「○護寺三像」尊氏直義!!
でも、未だに認められていない
こんなに理論立てて実証されているのに…(´・ω・`)

(※詳しくは…
 【黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書)2012】
 直義の政道への姿勢や『観応の擾乱』の解釈には、やや異議ありですが
 (絵としての)絵画の分析については
 多方面からのアプローチを極めた秀逸な論説です。
 しかも、この肖像画の謎には
 これまた八幡様が絡んでくる、ってゆうw)



という訳で
長いソルティ時代を経て
遂に、真の源氏将軍の時代がやって来ました。
もう消えてしまったかと、諦めかけていたその火
それでもどこかで、繋がり続けていたのです。


…うん、まあ、室町時代も割りとしょっぱい事多いんだけどね。
ってゆうか、尊氏も鎌倉幕府の御家人時代(29歳まで)は
結構ちんまりしてたんだけどね。

(※なぜって、鎌倉時代の歴代足利家の当主はみな
 「執権北条一族の娘を母に持つ者」だった
 言い換えれば
  「北条の血筋でなければ、例え長男として生まれても
   家督継承の資格を与えられず、庶子として扱われた」
 という
 超ソルティルールがあったから。
 なんてかわいソルティ源氏嫡流足利家… (´;ω;`)ブワッ
 尊氏・直義兄弟の母は上杉清子(つまり北条でない)。
 2人には、北条の血筋の兄高義がいたのですが
 彼が早世(と言っても、多分20歳以上)したことで
 尊氏が例外的に、家督を継ぐことになったのです。
 実は…
 祖父の足利家時と、尊氏・直義の隠れた共通点は
  「歴代足利家の当主で、北条一門を母に持たない」
 ということ。
 これ確実に、源義家は狙って生まれ変わって来てるだろww)


何で源氏って、いつもこうなんでしょうか。
ただ、彼らが、妙に人々に愛される存在だったのも事実で
室町幕府創生期の、世相を伝える記録の節々にそれが読み取れます。
例えば、今川了俊の手記『難太平記』には
 「(将軍が)天下を取られて後
  日本国の人で、この御恩の下にない者はいない」
とあったり。
そもそも、当時の動乱を思えば
足利家が、"私的" に源氏の再興を望んだとしても
簡単に事が運ぶような甘い時代ではなかった訳で
実際、その最初の一歩となった "北条への反旗" を支持したのは
尊氏に期待する足利家の家臣達であった事からも
そこには、「源氏将軍」の再来を待ち望む
人々の集合意識のようなものがあった
だからこそ
尊氏の声で、無数の軍勢が集まり、時代が動いたのでしょう。

(※元弘3年(1333)4月29日
 尊氏たちは丹波国篠村
 源氏の象徴「白旗」を高らかに掲げて挙兵を宣言し
 八幡大菩薩戦勝を祈願します。
 源氏が動く時、そこには必ず八幡様!とな。
 篠村八幡宮には、尊氏の願文が納められています。
 ※参照…【上島有『足利尊氏文書の総合的研究』
  [本文編]および[写真編] (国書刊行会)2001】)

どうやら、いつの時代も人々は
"源氏" というしょっぱい王子を、心のどっかで待っているらしい。


鎌倉幕府については
『御成敗式目』に見られる北条泰時の理念は、間違いなく "武家の精神" の根本だし
全体的に、磐石な政権だったとは思うけど
北条一族による、特に初期の、有力御家人への粛清の嵐は…
うーん、なんとも。 ってか絶句ww
ただ、『梅松論』夢窓国師談によると
初代将軍の源頼朝
賞罰に私曲が無かったのだが、罰が厳しく仁に欠ける所があった、と。
それに対して、尊氏
仁徳を兼ね備える上に、なおも三つの大きな徳がある
…以下、有名な

第一に、その心、にして
    絶体絶命の窮地ですら、恐れる事なく笑ってる
第二に、天性の慈悲で、人を憎む事を知らず
    怨敵だって我が子の如く許しちゃう。
第三に、金銀も土石も、同じと思す広大な心
    財貨に執着まるで無し
    山のような貰い物も、人と物を見比べることなく
    手当たり次第、残らずみんなにあげてっちゃう


末代まで、このような将軍はそう現れはしないだろう
という事だそうだ。

そりゃあ、こんなやつそうそう居てたまるかよ…
改めて考えると、尊氏って何者なんだよww
って感じですが
日本の歴史を、巨視的俯瞰していると気付くのは

 「本物は、伝説を残す」

と言う不思議な傾向です。
源氏と言うのは、昔からあちこちに伝説を残していますが
実は、前回の「南無!八幡大菩薩!!」で触れた
"神の系譜" に属する神様達も、多くの伝説に彩られている一族で
両者は、その点でよく似ているのです。
(一方、新しく作ったっぽい神々には、"伝説が無い" のです。)

その内容の真否は別にしても
愛されなければ、物語なんて伝説になる前に廃れてしまう訳で
なぜか自ずと、そして広く人々の口に語り継がれる存在というのは
この国の、この土地に根を下ろした "本物" なのではないかと。


(※尊氏直義については、多くの発給文書自筆もたくさん)が
 今日まで、各地に残されていますが
 当時の人々にとって、実際、彼らがどんな存在だったのかは
 その「字」の中に、見えてくるものがあります。
 百聞は一見にしかず! 参照は上記の…
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究』[写真編](国書刊行会)2001】 )



そんな源氏将軍の幕府室町と言う時代は
主上と将軍の関係、将軍と大名公家と武家源氏と平氏の関係も
生まれた文化も、礼節儀礼も、そして「王道」
色んな意味で、実に日本っぽい
そして何と言っても、公方が妙に愛されていたw
(※室町の文化については
 義政に関連付けられた逸話がよく目に付きます。
 あんなにダメダメだったのに
 公家にも武家にも、懐かしく偲ばれる謎の公方義政。)


主上がいて、それを支える将軍がいて、将軍を慕うがいて
みなが "相対" の関係だったのは
天照大御神八幡大菩薩、そして八百万の神 "相対" だった事に
よく似ています。
ちなみに、室町幕府の平氏といえば…伊勢家
鎌倉時代の北条家足利家の関係とは打って変わって
公方の「御父」として甲斐甲斐しく世話を焼く
本名、平(たいらの)貞親、平貞藤、平貞宗、ほか色々
おまえら、公方好き過ぎんだろ
というくらい、せっせと公方の日常を書き記した故実書
大量に残してくれました。


それなのに―――
近代になって、なんであんな酷い中傷にさらされてしまったんだろう (´;ω;`)
足利尊氏 "正当に評価" しただけで
集中攻撃を受け、大臣が「辞職」に追い込まれた時代。
WW2の頃は、尊氏ゆかりの寺院(京都市内ではない)に
○軍関係者が訪れては
「国賊」だとして、尊氏の墓碑を蹴り倒していた
という悲し過ぎる実話。
平安の昔から、長く長く日本人の心に灯され続けて来た
源氏将軍を想う小さな火が踏み消され
先祖を思い、故人を敬する心すら
歪められた歴史の前に否定され、狂って行く。
一体あの時、この国はなぜ
こうなってしまったのか。

もちろん、明治から敗戦までの80年を単に非難したい訳ではなく。
ただ、戦後の日本はこれまで
他国に対しては誠意を尽くして来たと思うけれど
自国自国に対する過ちを、誰も省みていないのは
非常に大きな問題だと思います。
自国に目を瞑(つぶ)り続けているうちは
どんなに世界に目を向けようと
本当の意味で「日本の戦後」が終わる事はない
置き去りにされた問題が、余りに多過ぎる。

(※私には、終戦の約2年前
 夜間銃撃戦の末、南方のソロモン上空に散った海軍航空隊の大伯父がいまして
 決死の覚悟勇敢に戦った大叔父を、心から誇りに思っています。
 この国は、前線ですべてを賭して戦った彼らに
 今も支えられていると思っていますが
 ただ、「彼らが願うこの国の未来とは?」と考えた時
 それは、長い歴史から読み解いた "本物の日本" の延長線であって
 明治に一部の為政者によって作られた日本の続きでは無い
 と思うようになりました。
 彼らが、学問の自由が無い時代の歴史を学んだ事も承知していますが
 でも、すべてを知ったらきっと、真実の方を選んでくれる
 と、個人的には自信を持っています。)



さて、「お盆」の最後の日、8月16日は
お迎えしていたご先祖様をお送りする為
夕刻に「送り火」を焚いて、帰り道を照らす日です。
有名なのは、京都の夜空に灯される「五山の送り火」ですが
実は、この火も
明治初頭から約10年間、新政府によって禁止されました。
先祖の精霊を祭る「盆」
近代国家に相応しくない "迷信" であるとされたからです。

精神文化を破壊した張りぼての根無し草国家のが
よっぽど非近代国家だろがぼけ!
…とかいうマジ切れコメントは自重して
禁止令が解かれて再開したものの
伝統文化が急速に廃れてゆく時代の中で
かつて十山で灯されていた「送り火」は、半分まで減ってしまいました。
それは残念な事ではありますが
しかし、現在まで脈々と受け継がれているのも事実で
それはきっと、京都の人たち譲れぬ思いの賜物なのでしょう。


私は、伝統と科学技術の共存こそ
"摩訶不思議国家" 日本の、未来図だと思っていますので
ちょっと失い過ぎてしまった伝統を思い出す為に
少しの提案が出来たらと考えています。

たまには、小さな火の中に
遠い先祖を思ってみるのも良いものです。
日本の夏の夜に灯され続けてきた
単なる迷信なんかではなく
もっと "大きなもの"
過去から受け継ぎ、未来へ伝えて来たのだと思います。


迎え火

これは、13日の「迎え火」…のつもり。
本来は野火であるべきなんだけど
現代の住宅事情では、これが精一杯。



posted by 本サイト管理人 at 14:57| Comment(0) | ★チラ裏人物記

2014年08月30日

畠山義就(その7)

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏人物記』です。
前々々回の「畠山義就(その6)」以降
「南無!八幡大菩薩!!」
「源八幡太郎義家」
と、夏の特別編をお送りしておりましたが
今日は再び通常モードに戻って…


畠山義就


いつまで義就のネタ続くんでしょうか。
ってゆうか、そろそろ義就自身がネタになって来た…


さて、前回までの解説で
八幡大菩薩武家源氏が、極めて親密な関係にあった事
それが、現代人の想像を遥かに超えて
日本の歴史の中で、人々の意識多大な影響を与えて来た事が
見えて来たと思います。
まあ、"人々の意識" というものは
歴史の表層的な出来事・事件に対する、いわば "深層" であり
目立たぬが故に軽視されがちですが
これに気付かずに史料を分析してしまうと
肝心な所がスコーンと抜けたなんちゃって歴史」になってしまい
あんま役に立ちませんので、慎重な考察が必要なのです。


例えば、6代目足利義教
 「くじ引きで選ばれた将軍wwwww」
といった感じで
"現代感覚" ではネタにされてしまっていますが、しかし
鬮(くじ)が引かれたのは、天下の "八幡宮の神前"
つまり義教
 「八幡大菩薩に選ばれた男」
な訳で
これは当時においては
武家だけでなく、主上公家にとっても非常に重い意味を持つと同時に
みんなが賛同出来る、納得の良策だったのです。

(※八幡大菩薩は、"源氏の氏神" である以前に
 「鎮護国家の神」であり、「宗廟」でもあるので。
 八幡宮 "神前の鬮" で将軍が決定した事に対して
 朝廷の歓迎ほのぼの祝賀については
 本サイト『2-5』最後の方、義教の「三回鬮」の解説をどうぞ。)
 
 
まあ、実際
義教は日本史上の歴代将軍で、公私共に最も主上に御奉公を尽くした将軍です。
これはホントにホントw
前回紹介した「後土御門天皇の宸翰」をはじめ、色々と証拠ザクザクです。(※詳細はまた)
朝廷への崇敬が厚かった足利尊氏・直義
まだその頃は、主上将軍はそこまで私的には親しくないし
足利義満以降は、私的には非常に親しいのだが
緊張感に欠けるやつがいたのは確かw
上記の宸翰
とある案件で、両者の主張が一致しなかった時のものなのですが
 義教の忠節に比べて、義政おまえってやつは…」
という苦言だったりする。
コラ!よしまさ(`・ω・´)

(※ただしこれは、あくまで "意見の齟齬" であって
 互いの立場の否定や敵対ではありません。
 公武統一政権と言われる室町
 公武は「相対」「補完」で、互いの「信頼」が前提だったので
 こういう事がよくあったw)


(※ちなみに、鎌倉幕府については、源氏3代以降は
 京都から迎えた幼い摂家将軍または宮将軍であり
 実質権力を持たなかったのだが
 これは、実質権力者執権北条一族による
  「成長したら、京都に(強制)送還
 そしてまた新しい幼君に…というドライな政策による。
 見事なまでに開き直った傀儡政策である…。 
 まあ、それで政権が安定していたのも事実。でも、ひどすw)



それなのに…
一番の忠臣が、一番誤解され叩かれている事実(´;ω;`)ブワッ
室町に限っては忠君行為は無かったものと見做す」って
どんなアクロバットなイデオロギーに染まったら
こんなダブスタ、真顔で全開出来んだよ…
…とかいうマジな突っ込みは自重して。
とは言え『嘉吉の変』
なんか現代では、どっちかってーと義教が悪者、天下の敵みたいにされてますが
実際は
 「人倫紀綱(=おきて)を乱し、朝命を遮り
  天吏(=武家)の戦争を招いた」
 (※天吏…天命を奉じた役人)
のは
義教を暗殺した "赤松" であり
天下の「仇讐」(=かたき)として、その誅罰

 「国に忠を尽くし、家に孝を致す、ただこの時にあり!!」

と、主上御自らの加筆&勅筆(直筆)『綸旨』で命じられているのです。
(『建内記』嘉吉元年7月30日)
(※『嘉吉の変』については、本サイト『2-5』真ん中へんの概説
 『2-6』上から5分の4くらいの詳説をどうぞ。)


室町朝敵・逆賊と信じるのは、尊皇の裏返しなのだろうけど
室町批判の為なら、史実の主上の叡慮をもスルーって
なんか、かなり間違っていると思う(´・ω・`)
それ全然尊皇になって無いじゃん …おっと、本当の事は自重。

(※ついでに言うと義教
 私曲不正を特権だと思っているような役人が大嫌いで
 道理に背かぬよう「誓約書」を書かせるほどなので
 既得権益で美味しい思いをしていた官僚集団にとっては
 誹謗中傷で引き摺り下ろしたい将軍No.1だったのだw
 (※詳しくは本サイト『2-5』上述の「鬮の話」の少し上)
 それを考え合わせると
 義教批判を展開しているのは、御用学者が多いのだろうかw)
  

…ただ、遣り切れないのは
義教亡き後
禁裏襲撃・全焼という、主上の一大危機『禁闕の変』が起きてしまった事と
(※『禁闕の変』については
 本サイト『2-6』最後の方「赤松家再興」の話をどうぞ。)
そしてその後
(『応仁の乱』前までは華やかな時代だったものの)
中長期的に見た幕府の衰退が、そのまま朝廷の衰退に直結していた、という悲劇からも
実は、義教の突然の死で
結果的に一番苦難を負う事になったのは、朝廷だった…てゆう(´;ω;`)


…おっと
また、義教の話めり込んで来てしまった。失礼。
しかし、歴史を曲げると、必ずも曲がるので
どうしても正しい理解が広がって欲しい訳です。
室町の "公武関係" の正当な考察
これまでの
 朝廷幕府は相容れないもの」
という二元論的な認識の誤りを正し
マクロに見た日本の深層を明らかにしてくれる
期待の分野です。





あーさて、前置きが長くなりました
肝心の義就八幡様の話を始めます。

長禄3年(1459)6月、につんつんお知らせを受け
翌長禄4年(1460)9月に、涙の没落となった義就ですが
その後の、奇蹟的逆転ヒット(でもゴロ)の連発を考えると
落ち行く途次で
「石清水八幡宮」に捧げた祈りは届いたようであります。

(※義就の一生ダイジェストについては
 当ブログ「畠山義就(その5)」をどうぞ。)


確かに、嶽山籠城戦&吉野ひきこもりはコテンパン時代でしたが
復活した時は
 「八幡大菩薩の化身」(by『応仁略記』)
になってた、とか。 どんだけどんななんだよww

そして京都復帰
正月の『上御霊社の戦い』を経て、応仁元年(1467)5月末の『本戦開始』までは
山名方大名たちの、うっきうき有頂天期間(※ただしまやかし)
だった訳ですが
この時期、ひきこもり明けで、まだ人界の光も眩しい義就
更なるめでてぇ話がありました。
31歳にして、遂に正室を迎える事となったのです!!
おお!
よかったなぁwww
(…それにしても、嫁も無く引き篭もってた没落義就の不遇って (´;ω;`)ブワッwww )


さて、義就の正室は
山名宗全の分国、備後国の国人金澤家の娘で
(『大乗院寺社雑事記』延徳2年8月27日)
金澤勢は、この2月下旬頃上洛したようです。
(※『経覚私要鈔』応仁元年3月6日
 山名細川の対立が本格化するのは5月に入ってからで
 2〜3月頃なんて最も太平ムード
 特に山名方は、ギリギリまで油断し切ってましたから
 これは対戦準備の上洛ではなく、嫁入り上洛だったと考えていいでしょう。)

しかしなんと!
上洛の途中、丹波国(細川勝元の分国)で一行が襲われ
「金澤が殺害された」という情報が京都に届き
ブチ切れた山名宗全が、細川勝元への報復準備に入り
細川一族も反撃態勢に入って、あわや京都一触即発!!
という事件が起こります。
…ただし、被官人に少々犠牲者が出たものの
金澤本人は無事だと言う事が判明し、洛中合戦には至らずに済みました。
経覚に言わせると
 「天魔所為!!」 (天狗じゃ!天狗の仕業じゃぁぁーー!!)
と言うくらい
バクバクの事態だったのですが
(…まあ、この2ヶ月弱後に待ってるのは天狗ってレベルじゃないが。)
それにしても
嫁入り一行を襲うとは。 そこには無いのかww


(※ところで、上記の『大乗院寺社雑事記』によると
 これは、23年後の延徳2年(1490)の記述ですが
 義就のところには「御上」と呼ばれる正室
 「御料人」と呼ばれるその妹も傍にいたそうで
 さらに「御上」の乳母の冷泉局
 この3人はみな
  「義就に物申せる人」
 だったそうだ。(by尋尊)
 つまり、なんか取り次いでもらいたかったら彼女達に!
 という裏技情報なんだけど
 もしかして、あれだけ家臣の統率力分国統治力もあった義就
 割りと嫁には頭が上がらないタイプだったのだろうか。
 …ってどうでもいいか、そんな事w)


まあ、そんなトラブルはありましたが
無事、嫁迎え(婚儀)は済んだ様で
翌応仁2年(1468)に長男、そのまた翌文明元年(1469)に次男が誕生します。
…ってゆうか
めっちゃ乱中ww
しかも、洛中近辺戦闘真っ盛りの大乱初期ww
おめー本当マイペースだな。

しかし、そんな希有な時期に生まれた我が子に
何を思ったのかこの義就、とんでもない幼名をつけてしまった。
その名も―――

  修羅 と 乱

……。
って、確実にアホだろwww
修羅で乱なのは、お前だけにしとけよww
この史上稀に見る完全無欠のDQNネーム
なぜにお前は、そこまで時代の先を行くのか。


ちなみにこの兄弟は
通称、「修羅法師」「乱法師」と呼ばれていたのですが
(※法師とは、ここでは「男の子」という意味)
兄の修羅法師は、正しくは
 「修羅和光」(しゅらわこう)
と言いました。

「和光」すなわち「和光同塵」とは
現在一般には
 「優れた才能学徳を隠し、俗世間に同化して生きる事」
という意味ですが
おそらく当時は、仏教的な意味での
 「仏・菩薩が、知徳の光を隠して(和らげて)
  煩悩の塵にまみれたこの世に仮の姿を現し、衆生(しゅじょう)を救済する事」

を意図した命名だったと思われます。
(※衆生…生きとし生けるもの、一切の生物・人類の事)

つまり
 「内は和光で外は修羅たれ、我が息子!」
という
不動明王みたいな壮大な命名な訳ですが
(※不動明王については当ブログ「足利義教」をどうぞ)
それにしたって…
なんちゅうネーミングセンスだよww 
だいたいそれじゃ、持国じいちゃん(義就父)の教えとまるで逆じゃないか。
持国美学の一番弟子、伊勢貞藤から指導が入るぞ。
…いや、そんな事より
こんな名前付けたら、確実に子供グレますよね。
この兄弟、その後どうなってしまったと思います?
こんな名前付けるから…
こんな名前付けるから…
この兄弟は―――

 なんか「優しい子」に育ってしまったんです!!

はい、ズコー
しかも、初めに言って置きますが
義就は、超子煩悩です。


まず、兄の修羅法師ですが
応仁2年(1468)5月生まれで
文明9年(1477)の大乱終結&河内下向時10歳
義就の跡継ぎとして、将来を嘱望された御曹司だったのですが
しかし―――
6年後の文明15年(1483)11月14日
16歳にして、早世してしまいます。
義就、大ショク(´;ω;`)ブワッッッ
だがそれ故
修羅法師改め、法名永興寺清仲の法要たるや
すこぶる手厚く行われたw
年忌はもちろん、毎月の忌日にも祈祷が実施され
そしてこの仏事は主に、以前紹介した『蔗軒日録』の筆者
東福寺住持で、今は和泉国堺の海会寺在住の
季弘大叔(きこうだいしゅく)が勤めていました。


それでは
延徳元年(1489)永興寺殿清仲七回忌「法語」より
(※これは、建仁寺住持の天隠龍澤による。季弘大叔は長享元年(1487)8月7日に入滅。)
修羅法師の人物像とは…

 永興寺殿(=修羅法師)は、身丈適長にして、天性昂然とし
 弓術・馬術『六韜』『三略』をも極めれば
 その言葉は、士卒いたわり慈しみ
 を平らかに治め、漁猟(殺生)を禁じ、酒色に溺れる事を誡め
 若年にして、(その才知・人徳は)老人の如くなれば
 その徳の恩恵に及ぶこと
 百里の河を潤し、千里の海を満たすにも似て計り知れない
 (彼を失った事は)天下の大不幸である

な、なんという生き仏ww
うん、まあ
「法語」「画賛」は、故人を顕彰するものですから
120%(ってか200%)の美化は、当然されている訳ですが
故人を知る者達の前で披露するものですから
極端な嘘は無い、という事と
「勇猛果敢」だった人物を、「繊細で文道を専らにした」みたいに
あさっての方向に褒めるような事もない
つまり、誇張はされていても方向性は合っている、と。

しかも、どうやら容姿も端麗だったようで
没後に作成された肖像画には、季弘大叔「画賛」を添えたのですが
それによると…

 永興寺殿清仲は、人界の鳳凰、天上の麒麟
 とを備え、とを携える
 その輝ける風姿は、芙蓉の如し、秋水の満つるが如し
 温厚にして和気なれば
 即ちこれ、にも似た陽春の輝き


 (※鳳凰・麒麟…聖人出現の前兆として現れる想像上の動物。
  傑出した人物の例えでもある。
  ※秋水…秋の頃の、清く澄み渡った水。)

…まあ
スペシャル美化なのは百も承知ですが、ただ
「勇ましい、たくましい」ではなくて
「美しい」と表現されている事が、気になって仕方ないw
(ってゆうか、"芙蓉" って美人の例えだよね…)

季弘大叔は、義就との交流が深く
その家族とも、実際に面識があった事は確実ですから
この「画賛」は割りと的確に
修羅法師生前の姿を伝えていると思うのですが…。
(ってゆうか、ここから想像される父義就の容姿って一体…)
しかも、義就の人柄を良く知る人物ですから
それは、父義就の意向に沿ったものでもあるだろう、と。
(※実際、義就はこの「画賛」の草案を確認している。(『蔗軒日録』文明16年5月4日))
なんという親バカ…じゃなかった、溢れる我が子愛

(※以上、『大日本史料』文明15年11月14日、延徳2年12月12日)




ところで、修羅法師については
ちょっとけったいな噂があって
尋尊がこんな "浮説" を書き留めています。

 「去年(文明15年11月)他界した修羅御曹司
  子息(遺児)が先月(文明16年8月)生まれたのだが
  既に家督は、義就次男の乱法師と決まった後だったので
  その子は無益一家の乱の元となる、といって
  義就が、妻子共々成敗してしまった
  …とかいう噂聞いた。  なにそれマジなの??」
  (『大乗院寺社雑事記』文明16年9月10日)

という事ですが。
うーんw どう考えてもそれは無いと思いまーーす!
なぜって、この翌年の三回忌なんて
 「仏事驚耳目」(仏事盛大、人みな驚く)
   (『蔗軒日録』文明17年11月14日)
ってほど溺愛する修羅なのに
その遺児を切り殺すなんて、流石の義就でも有り得んだろう。
たぶん、みんなが井戸端会議

 「んで、修羅法師の後の家督はどうなったんだ?」
 「次男の乱法師に決まったらしいぞ」
 「ふーん。 あれ、修羅法師には子はいなかったのか?」
 「さあ? 聞いた事ないけど。いないんじゃね?」
 「いや、生まれた直後にさっくり成敗したらしいぜ!(なんつって)」
 「マ・ジ・で・か?! …でも、やつならやりかねんな」
 一同「義就、恐えぇぇぇぇ!!!」 (そして都市伝説化

とかいうネットの噂だと思う。

だいたい、臨終の直前なんて病床に伏していただろうし
そもそも、正室がいたことすら怪しいですよ。
というのも
修羅法師は、元服後の(いみな)が知られていないのですが
七回忌に関する記述で『蔭凉軒日録』に
(当事者の天隠龍澤からの話として)
 畠山修羅法師殿七年忌陞座…(云々)」
とある事から
そもそも、元服していなかった可能性が高いのです。

実は、弟の乱法師が元服したのも
修羅(享年16歳)の他界後すぐ…ではなくて
2年後の文明17年(1485)8月6日、17歳の時なのですが
これは、当時の平均に比べてかなり遅い元服です。
理由としては(憶測ですが)
祖父畠山持国の元服(いつだったかは不明)の「先例」に倣った
もしくは
公方義政赦免を待っていて、それまで息子の元服を控えていた
などが考えられますが
個人的には、義政の赦免現将軍義尚からの「偏諱」
期待していたのかなーと思います。
(※実は、公然の秘密ながら義就
 幕府側の人間との交流が、細々とあったのであるw)


まあ、正室がいなくとも
とある娘が、父親が修羅らしい子を産んで…(ry
と言う可能性もありますが
「法語」「画賛」修羅の人物像から察するに
そんな軽率な事もしなさそう。

ただ、義就は筋の通った人物で
特に、罪科人謀反人に対しては、一貫して厳しい成敗で臨んでいたのは事実で
これに関しては
義就猶子(≒養子)で、かつての跡継ぎだった畠山政国の一件が思い出されますが
(※畠山政国については当ブログ「畠山義統(続き)」をどうぞ。)
ただし、これはよくある
 「男子に恵まれなかったので、養子を跡継ぎに定めたが
  その後に実子が出来たので、約束を反故に…」
というのとは少し違って
畠山政国義就の猶子となったのは
能登守護畠山義忠(政国の父or祖父)の算段で
しかも、康正2年(1456)独身義就20歳の時だし
その上、応仁元年(1467)の婚姻は
間違いなく山名宗全仕業…じゃなかった、斡旋ですから
一概に
 「猶子政国がいるのに、実子修羅を儲けた義就の不義」
と言ってしまうのはだよなぁ、と思います。

畠山政国には、個人的に同情しているのですが
やっぱり、乱中の単独下向 "謀反" になってしまったのだろうな、と。
宗家の安泰を願った畠山義忠の老婆心が、裏目に出てしまった訳です。
うーん…(´;ω;`)
誰も悪くないのに、かくも冷たい現実のもどかしさ。




はい、では、気を取り直して
早世した兄修羅の跡を継ぐ事になった弟乱法師
文明元年(1469)生まれの1コ下
文明17年(1485)8月6日、17歳で元服して
諱を「基家」(もといえ)と名乗ります。

基家(乱法師)については
残念ながら、その人柄を伝える史料はほとんど無く
唯一の記述が―――
これは『明応の政変』の少し前
父義就没後、基家(乱法師)が家督を継いで2年経った頃
『拾芥記』(公家の五条為学の日記)の記述なのですが

 「(義就の)子、次郎(=基家)微弱…」
  (『拾芥記』明応2年2月15日)

微弱てwww
まあ、義就と比べたら誰だって微弱になってまうでしょうが
修羅法師の人柄から察するに
乱法師も兄に似て
慈悲に溢れた、慎ましい系だったのではないかと。

この翌年の明応3年(1494)正月5日
『応仁の乱』終結から16年と少しが過ぎた日
かつての義就の盟友、越前朝倉家慈視院光玖(朝倉孝景の弟)が他界したのですが
この時、基家(乱法師)は朝倉方に
緞子(どんす。上等な絹織物)や盆、香合、茶碗、花瓶、太刀を贈り
また、当主朝倉貞景(朝倉孝景の孫)への書状に
 「慈視院光玖卒去の事を聞いて
  言葉にならないくらい驚いています。為すすべもありません。
  皆さんの深い悲しみ、お察しします」

と認(したた)め
香典20貫文を贈っていますので
人の痛みの分かる、優しい子だったのでしょう。
(『大乗院寺社雑事記』明応3年2月17日、6月30日)




という訳で
"あの" 義就なら、息子を
「室町最猛☆猛禽シャーク系ソルジャー」に育てそう
かと思いきや
意外にも、菩薩のような「後光射してる系」だった、てゆう。
…それはちょっと
むしろ畠山政長に通じるんだがw
(まあ政長は、臨戦時だけは戦闘力めっちゃ高いけど。)
ってゆうか
政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)のハイパースペックを考えると
義就政長は、確実に息子取り違えたと思うww


ちなみに、義就の意外性はこれだけではなくて
季弘大叔の日記『蔗軒日録』には
色んな「薬」が登場するのですが、その中で注目は

 耆婆万病円、これは
  太守(義就)が3年前に調合した霊薬。…尤も霊験あり」
 「蘇合香円、これは
  太守(義就)が調製した貴重なもの、秘すべし

  (『蔗軒日録』文明18年8月13日、9月25日)

って、おめー健康オタクだったのかよ!!
いやむしろ、調合オタクか?
しかも、なんか妙に不思議な薬扱いされているのが気になって仕方ない…。
何者なんだこいつは。


まあ、そんな意外性どうでもいいっちゃいいのですが
伊勢神宮石清水八幡宮春日社に祈祷料を寄進し「泰平の祈祷」をしたとか
(『大日本史料』文明14年3月是月)
それから、修羅法師が亡くなった時
絶望した義就が、興福寺の維摩会に300貫文を寄進し
尋尊が、(  Д ) ゚ ゚ ポーーーン な・に・そ・れっっ☆☆☆
と仰天した
(『大乗院寺社雑事記』文明15年11月15日)
とかいうエピソードは良いと思います。
あと
文明15年(1483)には、畠山家の代々の佳例として
摂津国の住吉社(※現在の大阪府住吉大社)に
 「第三大鳥居(浜大鳥居)」
を建てたり、とか。 (『大日本史料』文明15年4月15日)

義就は、"戦上手の名大将" というイメージで通っていて
かなり時代の先行く事もしているのですが(※例えば足軽段銭とかw)
伝統礼節を重んじる名主君でもあったのです。


まあ、義就ので修羅と乱の祖父畠山持国
どこか悟ったような優雅さがある人物だったようですから
(※特に、『応仁の乱』以前の
 血気盛んな山名宗全&細川勝元に比べるとw
 参照は…当ブログ「畠山義就(その5)」最後の方、「金吾様」の話をどうぞ。)
きっとこれが
本来の畠山家の家風なのでしょう。
一見、修羅は、義就とは正反対に育っちゃったように見えますが
もしかしたら、義就が隠していた本性
ありのままに映し出していたのかも…知れない。


そう考えると、
「修羅和光」とは本当は義就自身のことで
運命に翻弄され、修羅道を行くしかなかった義就
たどりそびれたもう一つの道があったのなら…

 「物は否を終えず」(すべての物事は、否では終わらない)

あの神様ならきっと
その波乱万丈な人生に、答えを用意してくれている…はず。





―――と、いう訳で
ここまで壮大な前置き、こっからが今日の本題です。 なにー



『応仁の乱』終結年、文明9年(1477)9月
義就一行が向かった先は
河内国誉田(こんだ)に建つ「誉田城」
(※現在の大阪府羽曳野市誉田)

(※当時の河内国の2大要所
 守護所だった北河内の「若江城」と南河内の「誉田城」
 後者が選ばれたのは
 京都からの距離がある、経済の要所和泉国堺に近い
 被官人の本拠地…などの、地政学的な要因だと思われます。)


さて、ここを本拠地と定めた義就
屋形を新造して分国統治を開始するのですが
実はここ
八幡大菩薩こと応神天皇=誉田別尊(ほんだわけのみこと)
「御陵」がある場所なのです。
(※「応神天皇陵」で地図検索GO! ついでに画像検索もGO!)

(※「誉田」は、"こんだ" と読むのですが
 太古は "ほんだ" と読んだようです。
 応神天皇は別名、誉田天皇(ほんだのすめらみこと)
 とも呼ばれます。)


つ、つまりこれは、八幡大菩薩の里帰り
…とかいう妄想はさて置き
応神天皇陵「誉田御廟山古墳」と呼ばれ
大阪府堺市の仁徳天皇稜(※仁徳天皇は、応神天皇の皇子)に次ぐ
全国第2位の前方後円墳ですが
"墳丘長" では仁徳天皇陵に及ばないものの
"墳丘体積"(使った土の量)では
実は、応神天皇陵全国第1位、という巨大な古墳です。

ただ、「誉田城」にしろ、義就の「新造屋形」にしろ
今のところ遺構が特定されていないので
残念ながら、詳しい事は分かっていません。
応神天皇陵の東側で発掘された「茶山遺跡」との関連が指摘されているので
今後の研究にワクテカ待機しましょう。


(※中世では、古墳を利用した城郭は珍しくなかったらしいのですが
 ただ、「誉田城」は室町初期から存在し
 この頃の両畠山の合戦でも、結構何度か落とされてる割りに
 応神天皇陵の測量図では
 頂上の社殿(後述↓)以外に、目だった遺構は見当たらないので
 (※前方部の崩落跡は、天平6年(734)の大地震によるものです)
 やはり、屋形はもちろん城郭
 堀の内側にあった訳ではなさそうです。
 (せいぜい、最終手段の籠城に使われたくらい?) )



ちなみに、江戸時代までは
応神天皇陵の南に隣接する「誉田八幡宮」から、放生橋を渡って
陵墓頂上の社殿まで自由に参拝に行くことが出来たそうだw
ついでに言うと「誉田八幡宮」には
『誉田宗廟縁起絵巻』『神功皇后縁起』という
永享5年(1433)に足利義教が奉納した重要文化財があってだな…
おっと、また私の中の義教フォルダが火を噴き始めたすまぬ。



という訳で
当初、「石清水八幡宮」社僧となるはずだった義就
その希有な人生を一回りしてたどり着いたのは
八幡様こと応神天皇のお膝元だった
という、ちょっと不思議なお話

『応仁の乱』後の十数年、幕府から討伐対象にされ続けながらも
なぜかここらは、割りと繁栄
文明14年(1482)秋以降は
「橘嶋正覚寺」というご近所に、畠山政長が引っ越して来てしまったと言うのに
なぜかそこだけ、割りと平穏
(※『蔗軒日録』によると、季弘大叔はもちろん
 みんな普通に行き来していたっぽい…のだが?)
…という
謎に包まれた義就の誉田時代ですが
それにしても、八幡様
最初から最後まで、義就の事が気になって仕方なかったのだろうかw

(※という訳で、本サイト『2-1』の最初の画像
 「誉田在住 Y.H.さん」の正解は
 "Yよしなり Hはたけやま" さん、でした。
 ちなみに、八幡(はちまん)の当初の読みは
 Yや)Hはた)です。 な、なんだってーー
 どうでもいいですね、そんな豆知識。)



しかし―――
泰平とは、願うほど遠のき、祈るほどとなってしまうのか
「誉田城」はこの後(義就没後)
「橘嶋正覚寺」と共に、『明応の政変』の舞台となってしまいます。
(…なので、場所をよく覚えて置いて下さい。
 「大阪市平野区加美正覚寺」で地図検索GO!「誉田」の北西に当たります。)

なんで…
彼らにばかり
こんなに冷たい運命が、降り積もるんだろうなぁ(´;ω;`)ウッ…


ただ、『応仁の乱』終結後
義就と、2人の息子修羅は、誉田の屋形で共に過ごしていた訳で
それは、結構幸せな事だったように思います。
畠山政長なんて
橘嶋正覚寺を落としてからは、ほぼ河内国に在陣義就に付きっ切りwで
少年期を一人、父に代わり京都将軍に仕えていた嫡男畠山尚順
もしかしたら、寂しい思いをしたかも知れない。
(※ただし、これには
 とってもぬくもるエピソードがついてきますのでお楽しみに。)




ところで河内国
「河内源氏の発祥の地」であり
実は武士の歴史において、宇宙の始まり『特異点』にも匹敵する存在である
ということはご存知でしょうか?

…うん、まあ、ちょっとそれは言い過ぎですが
武家源氏の主流となった「河内源氏」とは
もと「清和源氏」の一流で
清和天皇の4代の孫に当たる源頼信(※源義家の祖父)が
河内国司に任ぜられて、この地を本拠地にした事に始まり
この源頼信と、子の源頼義、孫の源義家の3代が
俗に「河内源氏三代」と呼ばれます。

その後、武家源氏東国に拠点を移していくのですが
現在も、河内源氏の菩提寺だった「通法寺」の跡地には
頼信・頼義・義家3代の墓がそれぞれ残っていて
(※「大阪府羽曳野市通法寺」で地図検索GO!「誉田」の少し南東に当たります。)
また、すぐ南には「壷井八幡宮」がありますが
ここは、『前九年の役』から帰還した源頼義・義家父子が
その戦勝を感謝して、自邸の傍に「石清水八幡宮」を勧請したことに始まります。
(※ちなみに、自邸は京都にもあった。) 


つまり、南河内
武家源氏の故郷であり
彼らの "八幡様クロニクル" の1ページ目であり
義就たち武家源氏の一族にとっては、非常に縁の深い土地と言えますが
しかし、もっと言えば
彼らを「武家の棟梁」として戴き発展した武家社会
武士の精神武家の政道という
他国に類を見ない独自の精神文化と政治を生んだ、という壮大な歴史を知れば
やはりここは
その時は誰も気付かなかったかも知れないけれど
後になって振り返れば
日本日本として生まれ変わった "特異点" という
特別な意味を持っているのでしょう。
ならば今、そこから始まったクロニクルを再考する事は
現在を正し、未来に道筋をつけるヒントになるだろうと思い
こうしてせっせと、武家の真相に迫っている訳です。



では最後に
室町時代初期から、後半戦途中くらいまでに期間を広げた
畠山家系図(改訂版)を示しておきます。


畠山家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字『応仁の乱』世代青字『明応の政変』世代
両者にまたがる畠山政長畠山義統は二色刷り
点線(……)は養子関係
破線(- - -)は異説を表しています。


畠山家はもちろん、河内源氏の末裔ですから
本名は、源(みなもとの)義就 源政長、源義統…となる訳ですが
でも、彼らほとんど通称「次郎」だから
まとめてみんな「源次郎」ですよ。
あいつもこいつも「源次郎」ですよ。
超名門畠山家がそんな適当な事でっっ!! …まあいいか。

そんな事より、次郎と言えばセカンド
セカンドと言えば
全国第2位、誉田の応神天皇陵
うーん、やっぱり繋がっている!!



posted by 本サイト管理人 at 15:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記