2014年11月03日

室町絵師ランキング(第4位)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
引き続き『チラ裏日記』は、「室町絵師ベスト5」の話題です。


では早速
前回の「室町絵師ランキング(第5位)」朝倉貞景に続く
「室町画伯第4位」は、なんと―――

  後花園天皇です!!

おおう、主上にして絵師とは! 流石でございます!!



さて、『看聞日記』(※後花園天皇の実父貞成親王の日記)によると
当時、比叡山延暦寺
「足引絵」(あしびきえ)という絵巻物を所蔵していたのですが
この頃禁裏では、これを借り入れて写本の作成を進めていました。


絵巻物とは、基本的に
「絵」「詞書」(絵に添えた文章)で構成された物語ですが
後花園天皇
全5巻のこの絵巻物のを―――

すべて描き写されたそうです。
 (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポポポポーーーーン
な、なんという画力!!
これは、並大抵の耐久力では、まず実現不可能な事ですよ。


しかしもちろん、持久力だけではありません。
現物を目にした貞成親王曰く

 「絵本不相替、殊勝に被写之条、天性之御器用不可説也」
  (元の絵と変わらない、素晴らしい出来栄え!
   間違いなく天性の才能!!

  (『看聞日記』永享9年2月25日)

その巧みさも確かなものだったと!
しかもこの腕前
趣味で絵を描き続けた末の、晩年の熟練した画力…
とかいう訳ではなく
この時、後花園天皇は御年数え19歳! 満17歳ですよ?
いやはや、あっぱれであります。


ちなみに、貞成親王によると
後花園天皇と同じように
絵の才能が抜群だった "とあるご先祖様" がいらっしゃったそうですが…
どうやら、受け継がれた才能のようですね。
しかし、一体から…


(※以上、『看聞日記』永享9年2月25日、永享10年5月、7月、8月など
 ちなみに、6代目足利義教の時代のお話です。)



―――――――――


ところで、ちょっと余談ですが
「足引絵」(または「芦引絵」)とは
室町初期の御伽草子「あしびき」を絵巻にしたものですが
この「あしびき」とは…
「稚児物語」(という文学の一形態)に属する物語です。


「稚児」(ちご)とは、もともと乳児子供の意味ですが
当時の「稚児」というのは…
公家や武家、寺社などに召し使われる少年、という意味の他
幼少期から寺院に入ったまだ有髪の小童の事
(貴族や上級武士や、そのほか様々な層の子弟がいる)
または、寺社での祭礼や法会に
美装して参列したり、舞楽を舞う子供達
…などの事も指しました。

特に、仏教界での「稚児」
幼少期に寺に入って僧侶に師事し
修行を積みつつ稚児独自の役目をこなしながら
(稚児は「身なりと振る舞いが美しくなければいけない
 という決まりがあり、細かく礼儀作法が定められていたw)
だいたい10代半ばの4〜5年間活躍した後
17〜19歳までに剃髪して出家する
…というのが基本コースだった訳ですが
(※ちなみに禅宗ではこれを「喝食」(かつじき・かっしき)という)
まあその…
「稚児」には特別な意味もありまして
女犯(にょぼん)や妻帯を禁じられていた僧侶にとっての
恋愛対象でもあったと。


…いや、そのネタはスルーしとけよ
とか思わなくもありませんがw
ただまあ、いずれは触れなければならない事なので仕方ない。うん、仕方ない。
つまり「稚児物語」とは
稚児と僧侶の恋愛物語という訳ですが
ただし基本「悲恋系」
「実は、稚児は仏様の化身だった」というパターンも多い
情緒ある大真面目な文学ですので
それほど嫌悪することもない…というか
大いに評価に値する高度に完成された作品です。
(だいたいそんな事言ったら「源氏物語」も(のがw)相当なもんですからね。)


当時の現実としても
わりと純粋切ない片思い的な感じのものもあったようで
まあ、行き過ぎたものには
「うーん、どうだろうw」とか思わなくもありませんが
(とにかく、美少年は大人気だったそうだww)
仏教界については
当時の慣習だし(もちろん、全員って訳では無いが)
別に目くじら立てる事もないんじゃないかと思っています。
まあ、物語にしろ少年にしろ
みんな昔から美しいものが好きだったのだよw うん。


(※ちなみに、この僧侶による美少年への並外れた(?w)審美眼
 後でちょっと重要になってくるので覚えておいて下さい。
 …どういう事かと言うと
 中世戦国含む)の武将では
 一般に「イケメン」といわれている人物が何人かいますが
 しかし、その根拠を尋ねると
 身内や関係者による後世の二次史料の記述だったり
 美化300%の肖像画や、或いは完全に江戸時代の作り話だったりで
 実は、上記のうち「史実イケメン」と言えるのは皆無なのです。
  (夢を壊してごめんw)
 しかし! ここで朗報です。
 恋愛感情やお世辞抜き
 当時の(目の肥えたw)僧侶に「美しい」と称された
 一次史料による確実な「史実イケメン」がいるのです
 応仁 or 明応世代のどこかに。
 …という訳で、誰なのかを予想しつつ楽しみにしてて下さいw)



ただ、この「男色」(だんしょく・なんしょく)の慣習
(※または、江戸以降は「衆道」(しゅどう)とも)
確かに、かなり昔から貴族階級の一部では盛ん(?w)で
戦国期の武家社会に至っては「常識だった」(それどころか「ステータスだった」)
とさえ、現在一般には言われていますが
しかし―――
どうも当時の日記等を見るに
少なくとも室町時代後半 "前期" くらいまでは
(仏教界ではなく)公家や武家の「俗界」での男色
基本的に人目を憚るもので、時に揶揄(やゆ)の対象でもあったようです。
(特に武家ではそこまで一般的ではなく
 やはり人によるといった感じのようですが…? )

つまり、公然とかステータスといったものではなく
そういう文化が水面下で脈々と生き続けていたのは確かだが
本来、密かに嗜む(?w)ものだったと。
まあ、こういう事は禁断である事に美学がありますからね。(たぶんw)
戦国期に大きく流行したのは
「男色こそ上流階級の証だ」みたいな認識が新興大名の間にあった
ってのもあるでしょうか。
(そして江戸以降は、庶民の間にも広まって行ったと。)


このように、「文化」という性格を持つ男色
時代によってその性質に大きな変遷が見られます。
したがって―――
特に室町時代の足利将軍に関して
単なる寵臣を、史料的裏付けも無く片っ端から
"みんな" 男色相手と決め付けている例がありますが
その短絡性にはかなり疑問が残ります。
(※例えば義満とか義政。(もちろん全否定はしないがw)
 義教の話なんて、あれは軍記物の捏造です。
 ただし義尚は "そういう和歌" が残っているから本当w)


あと、基本的に当時の俗界の男色は「両道」です。
ガチというのは、ほぼ聞いたことがありません。
(ただし『明応の政変』は、唯一ともいえる両道じゃない人が関わってきます… )
そして、相手は「若衆」(わかしゅ。若い男子)であり
「同輩」(同等の友達)という例は、中世ではあまり無かったようです。
(※若衆は、単なる若い男子という意味だけでなく
 男色相手という意味もあるので、用法に注意。)

つまり、現代の同○愛とは本質の異なるもので
「男色」とは
  性的指向の問題ではなく、文化の問題である
という点に十分注意しましょう。
(なんか、真面目に分析している自分に疑問も感じるがw)



という訳で、戦国以前から公然の常識だと思っていた方には
残念な(?w)お知らせでしたが
でも、人目を忍んだ関係は大いにあったと思いますし
妄想は自由ですので、何でもありでいいと思います。
…って、余計なお世話かw


―――――――――



さて、ヘビーな話題でした。
HP(ヒットポイント)の残りも少なくなってきたので
話を戻します。


この「足引絵」の写本全5巻のうち
第一巻第五巻については
「詞書」(ことばがき)も後花園天皇宸筆(=直筆)だったそうです。
いやー多才ですね。
(※絵巻物の「詞書」を書くには
 相当高レベルな能書スキル(文字を巧みに書く能力)が求められます。)

後に『応仁略記』に
詩歌、管絃(笙と箏)、入木(書道のこと)、蹴鞠、画図…等々の
才覚に溢れた「近来の聖主」
と称される事となる後花園天皇
10代の頃から既に、その貫禄を現されていたと。


では、室町画伯第4位の受賞記念に、自画像を…
と言いたいとこですが
流石に私も、主上のビジュアル化は自重します。
代わりに
こんな時、真っ先に祝賀に駆けつけそうな人物がいますので
登場してもらいましょう、どうぞ。


足利義教
(2015.5.3ちょっと修正 12.10また修正w)


なんで義教なんだよ!www
とか思われそうですが
実際、義教以外いませんよ、ここは。


後花園天皇義教については
常々、その素晴らしい君臣関係を小出しでもったいぶりながら触れて来ましたが
一般に、君臣関係というと
型に嵌り過ぎて、が置いてきぼり…というか
血の通ったものでない事が、往々にしてあり
多くの近臣に囲まれながらも、一人、主君の心は孤独
と言う場合が多々ありますが
(特に、権威を目当てにした上辺だけの尊皇というのは
 残念ながら少なくない…)
しかし、義教の場合は
単に主君としてではなく
一人の人間としても、主上の事を心から気に掛けていたようなのです。


というのも
御年10歳でかなり異例な即位をした後花園天皇
本サイト『2-12』「その君臣の永遠」で解説したように
実父である貞成親王に、「自由に会うことが出来ない」
という現実がありました。
そんな主上に対して義教
永享6年(1434)と永享7年(1435)の春頃、つまり
後花園天皇が、数え16-17歳(満14-15歳)になられた時期から
学問に励むよう、しきりに勧めていたそうなのです。
永享7年2月1日の『看聞日記』に

 御学問の事は
  室町殿(=義教)から(主上へ)申されているそうだが
  なお、私(貞成親王)からも重ねて申すよう依頼されたので
  主上へ書状で申し上げた」

とあるように
かなり熱心に心配していたそうだ。

君主としても、としても
学問第一に重要である事は
花園天皇『誡太子書』で、繰り返し仰っている通りですが
逆に言うと
学問を勧めるってのは、最も相手の為を思った行為と言える訳です。
権威目当ての臣下なら、主君は傀儡でいて欲しいと願うので
 間違っても学問なんて勧めない。)
おそらく義教は、その劇的な践祚(せんそ)に立ち会った一人として
(というか、ほぼ全て義教たちのお手柄だったw)
天命とは言え
10歳で実父の元を離れなければならなかった主上の境遇を気の毒に思い
親心のようなもの(…と言ったら語弊があるかも知れないが)
を抱いていたのではないかと思います。


(※例えば…永享6年(1434)8〜11月頃
 後花園天皇は重めのを患い、一進一退を繰り返していたのですが
 義教は心底心配し、毎日容態を尋ねていたそうだ。
 (「室町殿被入御心 毎日被尋申」『看聞日記』永享6年9月7日)
 その他にも義教
 色々と諸事を肩代わりしていた様子が見られます。
 朝廷・公家社会における貞成親王の立場向上に必死だったのも
  (もし、主上の権威を独占したかったのなら、
   その実家地位向上なんて絶対に望むはずは無いw)
 それが、道理に照らして正しい事だと
 そして、それが主上の幸せだと、信じての事だったのでしょう。)


…って、泣ける(´;ω;`)ブワッ
なにその良すぎる話ww
本当に、義教ほどの本物の忠臣っていないんじゃないかと
史実を知るほどに、実感します。

(それなのに、恐怖だとか暴君だとか
 この期に及んで未だに室町丸ごと逆賊だとかさ! 意味分からん。
 …って、しつこいかww)



という訳で、主上絵師ランキング入賞
義教ご満悦のようですね、うん、う…?
あ、あれ、よく見ると
わりと若干激怒しているような… ((((;゚Д゚))))
も、もしかして
第4位とかいう微妙な順位に不満が… ((((;゚Д゚))))

すすすすみまんせん。
現物が残っていたなら、また違ったのですが
が存在しない事には、いかんとも…はい。
本当に申し訳ありません、はい…。


ん、という事はつまり―――
そうです、第3位以上はなんと

 自筆の絵(もしくはその模写)が現存しているのです!!

おお!! これは熱くなって来ますね!!



という訳で、次回の第3位はお待ちかね、あの人です!!



posted by 本サイト管理人 at 23:45| Comment(0) | ★チラ裏日記