2015年03月31日

一周年です

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
という訳で、サイト&ブログ開設一周年記念です。
正確な日付は自分でもよく分からないのですが
まあ、だいたい2014年3月末からってことで。


本サイトは、一年間まるまる放置されてたかの様に見えますが
実は、結構ちまちま改訂を重ねています。
…いや、そんな微修正どうでもいいから話先に進めろよ
とか思いますが
まあ以前と考えが変わった所があってだな…うん。
最近も、初心に帰ってまた見直し事業を進めまして
あちこちだいぶマイルドな事になって来たかと思います。



さて、今回そこそこ加筆した部分もあるので
少し紹介しておきますと

『2-8』「応仁記の謎を解く」(『応仁の乱』の原因の事)
「紐解けばそこに、武士の道」後半(『応仁の乱』の目的の事)

『2-9』「義視、加速する」(義視、京都脱出の事)
「歴史を見る目」(歴史の考察方法)

『2-10』「室町の非日常」(伊勢国にいる義視の事)
「ムロマチスト義視の、西幕府はじめました」最後
 (『応仁の乱』の目的、この後の展開について軽く言及)

それと『2-5』「夜が明ける日」の最初のカッコ内(直義と義教の事)

…などなど。


『2-9』『2-10』は、わりと全体的にあちこち修正しました。
『2-9』「義視、加速する」と『2-10』「室町の非日常」の改訂は
これは、『都落記』という史料を加味したせいなのですが
『都落記』とは、足利義視(義政の弟)自身の手記で
短い史料ですが
乱開始3か月後、義視が伊勢国へと逃避行した頃の経緯心境を綴った
かなり興味深々な代物です。
…ま、実は去年の秋頃には既にゲットしていて
 「あーサイトの関連箇所書き直さなきゃなぁー」
とはずっと思っていたのですが
こういう追加史料が一つ加わっただけで
「理論再構築 & 修正被害広範囲」とかいう苦行が始まるので…
ぐずぐずしていました☆  てへ&ぺちーん ゴフ…
歴史迷宮探検は、本当に過酷や。
そんな切ない思いの丈を『2-9』「歴史を見る目」にぶつけてみたら
無駄に長くなってしまいました。


それから、この辺の「西幕府誕生」に関するもので
『2-11』「知られざる、西幕府誕生秘話!」で紹介している
大内政弘書状についてですが
こ、これ…
冒頭部分、ちょっと読み間違えしてた☆てへ
…じゃなくて、本っ当ーーーーーっっっにすみませんwww
まあ、大筋の理論には致命的な影響はなかったのですが
気付いた時、蒼ざめました。 ((((;゚Д゚))))アアアアアアアーーーー
うん、まあ良くやるんですが、こういう事。
歴史迷宮には、魔物が潜むで。


その他、意味不明な文章の改善、無駄話削除で
だいぶが通って分かり易くなった…(と自分では思ってる)
本当は、絵も書き直したいし
そろそろTOPページもどうにかしろって感じですが
 (※2015.4.3追記―――本サイトTOPページ更新しました)
とりあえず、一周年という事で「原点」に帰り
記念の奉納絵を描いてみました。


足利義材


尊氏とか直義とか義教とか義視も大好きなのですが
なんだかんだ言って私の「原点公方」
本サイトのTOPを飾り、当ブログ冒頭で場末のぬる酒を飲んでいる
11代目足利義材(よしき)です。

(※一般には10代目です。 それから「諱」は
  義材義尹(よしただ)→ 義稙(よしたね)
 と変遷を重ねていて(理由…気合入れ直したかったからw)
 「義稙」と表記されることが多いのですが
 私は最初の「義材」が好きなので、それで統一しています。)



さて、義材については、色々誤解されている…というか
妙に評価が低いのですが
本当はめっちゃ良い奴だし、みんなに愛されていたんですよ。
「放浪」というのは、これは
『明応の政変』で失脚(´;ω;`) → その後京都脱出
以来15年間、諸国を冒険するはめになったからですが
「含胡」(がんこ)とは、(声を出さずに)頷(うなず)く事
「一咲」(いっしょう)とは、微笑む事です。
 (※昔は、「笑」を「咲」と書いた)


『応仁の乱』で西軍だった義視・義材父子
乱終結の文明9年(1477)に美濃国の持是院妙椿のもとに下向し
そこで十余年を過ごすのですが
 (この頃、京都で将軍だったのは義政嫡男の義尚
色々あって13年後、義材は京都で将軍となっていました。
この辺も、義政・義尚父子(この時点で既に故人)と確執があった
とか言われていますが
それも、史料的根拠のない話でして
 (…どうも、一昔前の歴史解釈って
   「肉親は骨肉の争いをするものだ」
  という、ドロドロ大前提が主流だったらしい。
  …うーんw 何でそんな見方するんだろ。)

むしろ、病が重くなりつつあった9代目将軍の義尚
生前から、義材後継者にと考えていたのです。
 (※『大日本史料』延徳元年4月15日の
  『後法興院記』同4月13日と『宣胤卿記』同4月14日)

ボンボン義尚は奇行公方ではありますが
わりと「おまえ、実は良い奴だなw」という
ムロマチスト公方らしいエピソードがあったりして
従兄弟である義材にも
意味の無い怨みとか敵対心を抱かず、好意的だったのが
人間的に小さい奴じゃなくて好きな所です。



さて、将軍となった義材25歳
美濃国での生活が長かったので、京都の事情には不慣れなものの
政所頭人の伊勢貞宗(義政の第一の腹心、きのこる先生)や
蔭凉職の亀泉集証(禅林界の事務を統括してた)の支えで
頑張ります。

ちなみにこの辺も
義材は京都に味方が少なく孤立していた…とか言われていますが
それは
「『明応の政変』で失脚したから、負けた義材が悪かったに違いない」
という
史料的根拠がある訳ではない逆算的憶測なのですよ。
し、しどい…(´;ω;`)

亀泉集証が日々の政務を書き記した『蔭凉軒日録』からは
義材幕臣達和やかな雰囲気が読み取れるし
『明応の政変』というのは、あくまで一人の
しかし最も恐るべき存在である○○の鬱憤(というか逆恨み)で
あんな事になってしまった、というのが真相であって
(この○○に協力した一大名家を除く)ほとんどの大名近習
義材を将軍として歓迎したのです。


『蔭凉軒日録』には、この頃(=第一次義材将軍時代)の
公方様の動静がこまごまと記されているのですが
亀泉集証が何か説明すると

  公方様は「御含胡」「御一咲」した

と、よく書かれているのです。
つまり、「うん」と頷いて「てへ」って感じですよ。
なんてかわいい公方なのだww
という訳で、私の中で義材はすっかり
「含胡一咲☆てへ公方」になってしまいました。


それから、義材が御供の近習たちと共に
足利家の菩提寺『等持寺』に参詣した時の事。
ここには、十万体の地蔵菩薩像が安置されていたのですが
先の『応仁の乱』でその多くが行方知れずとなってしまった…
という話を、亀泉集証から聞きます。
さて、仏殿での焼香を終え
施食(せじき。僧に食物を施すこと)の最中
義材「御落涙」―――つまり、ポロポロ泣き出してしまったそうだw
なんて優しい公方なのだww
 (『蔭凉軒日録』延徳3年7月14日)

ちなみに、この十万体の地蔵菩薩像、実は…
戦で討ってしまった者達への供養の為に
初代将軍足利尊氏が造立を命じて『等持寺』に納めたものです。
 (『補庵京華新集』)
尊氏はホント、良い話&伝説を沢山残しているのですよ。
義材が泣いちゃう気持ちも分かるw
ちなみに…何となくですが、私の中では
義材は「ちっちゃい尊氏」みたいな印象があります。




さて、そんな超優しいニコニコ公方の義材ですが
一方で、めっちゃ逞しい公方でもあるのです。
何たって、義材こそ
歴代足利将軍中、知られざる剣豪将軍なのですから! な、なんだってー

「剣豪将軍」といえば
14代目義輝(※一般には13代目)がそう呼ばれていて有名ですが
実は、最強は義材だった、という
お待ちかね、ほとんど誰も知らないどマイナー情報です。


これは、義材が15年間の冒険旅行から帰還し
京都で第二次義材将軍時代(※この時の諱は義尹)を開始した頃の事ですが
なんと、夜中の12時過ぎに侵入してきた2人の刺客
寝込みを襲われてしまうのです。
義材絶体絶命のピーーーンチ!!
しかし―――
結局、この暴漢は逃げ去って行きました。

なぜって、義材が刀取って応戦したから。
しかも、一人でw
その上、前夜に酒飲んで寝てた、という酔っ払い状態でww
しかも、この2人の刺客は「近江国の無比悪党」という極悪人。
それなのに、8箇所前後の傷を負いつつ、一人で追い返す義材
なんて強い子なのwww
公方の命に別状が無い事に安堵した公家達
 「諸天の冥助」「天運神助の儀」
と、神の御加護を思い
公方自ら「凶賊」を退治したという「前代未聞」の「武勇」に
三条西実隆
 「末代の美談なり」
と、深く感銘を受けたのでした。
 (※以上『大日本史料』永正6年10月26日、すべて日記の記述)


義材…あんまり長い間あちこち放浪してたもんだから
すっかり逞しくなっちゃって…
しかも、特技が「毒味」ってww
 (※これについて詳しくはまた後日。
  毒盛られるくらいへっちゃら、そんなん2秒で見抜けるぜ!
  みたいな感じ。)
それは…
公方様のする事じゃありません!!



そんな超剣豪美談公方の義材ですが、最後に一つ。
明応2年(1493)、政変で京都を追われた義材
まず越中国に逃れ、そこで数年を過ごします。
 (※越中国は、現在の富山県。
  畠山尚順(政長の嫡男)の分国の一つで、
  この時尚順(ひさのぶ)は、義材の為に再起を誓い
  紀伊国で、時が来るのを待っていた。)

ああ、閑居な地方の寂しい日々…と思いきや
将軍義材を護ろうと集まった者達は、至って意気軒昂
その内の一人と対面した、禅僧で歌人の万里集九
 「(髭は雪のように白い翁だが)
  のように笑い語り、心もまたのように温かい」

という詩を残しています。
 (『梅花無尽蔵』)

義材、なんて花咲か公方なのww

きっと、明日から始まる新しい日々にも
義材を咲かせてくれる事でしょうw



posted by 本サイト管理人 at 23:56| Comment(0) | ★チラ裏日記