2015年08月05日

暑中御見舞い申し上げます

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏観応日記』です。
ますますが本気出して来ました。
暑さに負けそうです。


さて、ここまで観応日記は
前置きばかりでいまいち目標が見えない…と言うか
霧中でぐるぐる気分だったので
ここらでそろそろ
"時系列" に沿った概観を提示して
「観応攻略計画」の見通しを立てよう ピコーン!
…かとも思ったのですが
しかし、ここ数回の話だけでも
この時代について多少なりとも知識がある方は

 えっ!? ちょ、何言ってんの?? あ、え、うぇうぇ

と、混乱されているかと思います。
ただでさえ寝苦しい熱帯夜なのに
気になって気になって眠れないモードで、すっかり睡眠不足に…
って、そんな人別にいませんね、はい。
まあでも
いいから先に結論さらせやゴラァ!!
と、イライラがMAXな方はいると思いますので
今日は、夏の特別企画『観応 "夏" 日記』といたしまして
従来の説と大幅に異なる部分を
ちょっとだけ先にネタバレしたいと思います。


ちなみに…
もし「自分で大日本史料を読み込んで謎解きしたい!」
と考えている方がいましたら、今日の話はスルーを奨励します。
ただ、ノーヒントだとちょっとハードモードですので
ノーマル 〜 イージーモードでの迷宮探検を希望の方は
攻略ヒントとしてご活用下さい。 それではどうぞ↓



(…と、出発の前に私からの餞別です。
 初期装備として、『観応の擾乱』についての概説を。
 これは、幕府誕生の13年後
 政治的対立から起こったとされる内部抗争
 それまで幕府の実質主導者であった直義の失脚と復帰
 幾度かの和睦の模索を経る過程で
 擾乱は収束拡大を繰り返し
 勃発から3年弱の後に、一方の大将である直義
 "鎌倉" で急逝を遂げます。
  (狭義の『観応の擾乱』は、ここまでですが…)
 しかし、その頃には既に
 幕府の内部問題を超えていた擾乱は
 南朝勢力をも巻き込んだ――― "天下崩壊への序奏"
 という新たな局面を迎えていました。
 尊氏の奮闘により、3年の後には大方の趨勢は決定し
 それから他界までの3年間は、京都は束の間の静謐を保つものの
 燻(くすぶ)る火種は再燃
 幕府が、かつての泰平への回帰を誓って
 ようやく再出発の朝を見たのは
 そこからさらに5年
 直義亡き後から、実に11年の月日が経った頃でした。)



  ☆☆☆という訳で、今度こそどうぞ↓ (`・ω・´) GO!!☆☆☆




まあ、何と言っても一番訂正を要するのは
尊氏直義の関係だと思います。
これは、非常に仲の良い兄弟だった」
という事を示す有名な史料(※)があるので
 「もともとは、良好な関係だった」
としている説は多いものの
(※…『梅松論』のあのエピソード
 「直義が死んじゃったら、俺生きてる意味ねぇぇーー!!」
 「清水寺の願文」が双璧、でしょうか)

一方で
 「最後は決裂し、の手では殺された」
と考えられているので
その結果から "逆算" して
 「もとからそこまで仲良くなかった
 「権力争いは必然その程度の関係」

といった論調が主流となっている訳ですが
しかし―――
もし、「尊氏直義を殺した」
という説自体が誤りだったら…?

これは、相っ当ーーっっに衝撃的な理論修正を要求される
ガクブル((((;゚Д゚))))あわあわ事態となる訳ですよ。
私の観応攻略の旅も、ここから始まりました。



(ちなみに、「直義の死因」を伝える一次史料は無く
 毒殺説を記しているのは『太平記』のみです。
 (「(黄疸)による急逝と発表されたが
   世間では毒殺だろうと噂された」という書き方。
  つまり、『太平記』の筆者の自説という訳ではなく
  当時の人々の間での(おそらく実際の)風聞です。)

 従って、本来真相は不明
 それ故、この事に関して、南北朝関連の概説書では
 極めてあっさりし記述しているものもあるのですが
 やはり、多くの研究者は
 『太平記』の毒殺説支持しているのが現状です。
 (『観応の擾乱』真っ只中の当時の状況を考えれば
  人々が意図的な "何か" を疑うのは無理も無いので
  噂自体があった事は、私も事実だと思いますが…)

 この、ほぼ確定した通説
 一次史料からの論理的推理で覆せるか? という事ですが
 これが…覆せるのですよw)



と言っても
私も元々、尊氏による毒殺説が覆せるなんて夢にも思っていなかったし
他に直接の史料が無い以上、真相は永遠に謎なんだろうなぁ…
と初めから諦めていた口なので
決して、覆そうと思って覆したのではなく
ひょんな事から、あれ?っと思ってもう少し調べたら
え、ちょ、うぇうぇwwww  …となっただけであって
初めて気付いた時は、そりゃもう
飛び出しそうな目ん玉押さえるのに必死でした。

それを切っ掛けに
『観応の擾乱』周辺の史料を調べ直したら
「非毒殺説」で理論構築した方が
圧倒的に辻褄が合う…というか
『観応の擾乱』自体が、これまで考えられていたものとは
割とマジで根本から別物の事件だったもんだから
そこでついに、 (  Д )  ゚ ゚ ポーーーーーン ですよ。



(※『太平記』の毒殺説
 (根も葉もない噂ではなく)「おそらく事実だろう」
 と支持されている理由の一つは
 『観応の擾乱』が
 "一見" すると、尊氏派直義派の分裂と衝突に見える事から
  「尊氏直義の(相手の排除を目的とした)対立
 …だと考えられているからですが
 しかし、これが「違ってた」となると―――
 そっから従来説の連鎖崩壊が始まって、一旦更地まで行って
 気付けば目の前荒野ですよ ( ゚Д゚)ポカーン )


(※それから、もう一つの大きな支持理由に…
  毒殺の日が(尊氏派とされる)高師直の命日だったから」
 というものがあります。(つまり、報復だったと… )
 (※高師直(こうのもろなお)は、尊氏(足利家)の執事
  『観応の擾乱』勃発の原因となった人物で
  政敵を私的に殺害した報復で、1年前に誅殺されている。)

 この日付の一致については
 当時の鎌倉在住者の記録で
  「高武州滅亡月日云々」(高師直と同じ月日…)
   (『鶴岡社務記録』文和元年2月26日)

 と記したものがあった事から
 研究者の間では、早くからよく知られていました。
 まあ、冷静に考えると
 「人を怨む事を知らない尊氏が、怨みを晴らす為に
  日付まで指定する執着ぶりでを殺す…?
  だとしたら、より高師直のが大事で
  復讐・見せしめで弟殺して満足した…ってこと??
  しかも、この2か月前の戦の結果
  二人は和睦しているのだから(※この時の勝者は尊氏
  じゃあ尊氏は、命日を殺す為に
  わざわざ付いて和睦して延命させたってこと???
  …え、何その陰険さ。 普通に考えて尊氏じゃ無い……」
 といった感じで
 両者に因果関係を見出すには、あまりに疑問が多過ぎるし
 上記の記録の筆者も、「人為的な毒殺を疑った」というより
 "偶然の一致" に「(中世の共通認識である)仏教的な因果」を
 想像したのだと思いますが
 「全く同一日」というインパクトの為に
 現在は、毒殺説を補強するものと捉えられいるようです。
 しかし―――
 高師直は、一般に "完全な尊氏派" だと思われていますが
 史料を慎重に読み直すと…
 いや、それを脇に置いたとしても
 この "インパクト" を上書きする "インパクト"
 実は存在するのです。
 つまり、この支持理由もまた… 瓦解 (  Д ) ゚ ゚ スッポーーーーン )




ちなみに、毒殺を実行(命令)したのは
尊氏ではなく、高師直派の誰か(もしくは義詮
だと考える説もありますが…
(ただし、この説には史料的根拠はありません。
 でも、尊氏の人物像を深く探究した研究者ほど
 「どう考えても、やつに直義は殺せない
 との考えに至るのは、至極尤もだと思います、はい。)

要するに…
いずれにしても、毒殺ではなく
尊氏と直義の合意の上での服毒…でもなく
偶然過ぎる唐突な病死…という可能性も限りなく低く
 (つまり、『太平記』の伝えるように
  「病気」という発表は、やはり建前だと思います)
一次史料が示す僅かなヒントを組み合わせると―――

あーいや
今日は経緯をすっ飛ばすネタバレ回でしたね。
では結論だけ
直義は… 全部自分で決めて逝ってしまったのですよ。

推理の過程は、また後日。



(※ちなみに
 「直義は自ら命を絶った」との説を提言しているのは
 今のところ
 【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』
  (吉川弘文館)2002】

 …のみでしょうか? (他にあったらすまんw)
 当時、尊氏直義と共に鎌倉にいた足利基氏(もとうじ)は
 尊氏の実子かつ直義の養子で、初代鎌倉公方となる人物ですが
 この基氏と、養父である直義の関係や
 直義の死(2月26日)が
 基氏の元服(2月25日)の翌日である事など
 これまで盲点だった素晴らしい指摘がなされている本です。

 ただ、直義の最期については
  「直義の死が、高師直の命日(2月26日)と同日ならば
   尊氏による毒殺と考えられる」
 という主流の立場に立たれていて
 しかし、尊氏による毒殺を疑問視する観点から
 (数種の史料の比較分析の結果)
 直義の死が、基氏の元服(25日)の "翌日" ではなく
 同日の "直前" で、偶然の出来事だった可能性の指摘
 (事前に日取りが決まっていた元服(吉事)の前に
  毒殺を実行するとは考えられないから。ただし
  これは史料の誤記の可能性のが高いとされています)
 或いはまた
 直義の死を25日とも、26日朝とも記す史料があることから
 当時の日付変更の概念(午前0時夜明け時の2通りがあった)
 に鑑みて
 実際は、25日〜26日をまたぐ深夜(真夜中過ぎ頃)の出来事で
 直義基氏の元服を見届けて覚悟の死を遂げたのかもしれない」
  (…原文引用、p.29より)

 といった論旨です。
 
 しかし、この辺もう一歩踏み込んでみると…
 これが、尊氏による毒殺では無い事の、もう少し強い証拠
 この頃の尊氏直義の関係
 (一般に「直義は幽閉(冷遇)されていた」とされていますが…)
 それから、直義の心境など
 謎に包まれた最期の日々を、より具体的に知る事が出来そうです。)





ところで、私は常々公言しているように
自分でもアホかと思うほどの直義好きですので
もしかしたら、ちょっと私情が入って
 「直義が、尊氏に殺されたと思いたくない
  (仲の良い兄弟でいて欲しい)」
との願望から
無意識の内に贔屓目な推理しちゃってんじゃないのぉ? ああ??
…とか、やや疑われてそうですが
 (ってか、私が自分を疑ったw)
しかし、この当時の状況をリアルに探ると
 「たとえ、尊氏
  兄弟としての愛情が1ミリも残っていなかったと仮定しても
  直義を殺す事は(戦略的に)有り得ない

という結論が導けるので大丈夫です。


(※「尊氏が直義を毒殺したのは、擾乱を終わらせる為
 或いは『観応の擾乱』は、直義の死によって終結した」
 との説がありますが
 実際は、直義の死後の方が戦乱は劇的に悪化するので
 後者は明らかな事実誤認で
 (むしろ、2か月前の和睦〜直義急逝までの方が
  一時的にしろ小康状態にあった)
 また前者は、比較的(ってか最も)メジャーな考え方ですが
 しかし後述するように、尊氏は唯一
 当時の各勢力の状況を正確に理解していた傑物なので
 (つまり、直義を失ったら
  戦乱は収束ではなく悪化する事を知っていた)
 従って、これも実は180度逆の誤解だった
 という事になります。 はい、 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン )


それに、一般的には『観応の擾乱』では
 「尊氏は、直義を排除しようとしていた」
と考えられているので
やはり、この圧倒的な先入観を乗り越えるのは
たとえ私情を挟んだとしても
そう簡単な事ではなく
その上私は、贔屓目に見てしまいそうな時は
予防措置として
望まない方の説を優先して考慮するようにしているので
 (…M式考察法とでも言おうか、まさに苦行ww)
初めの頃、まだ核心が見えずに模索していた頃は
そりゃもう、常時ぶち切れモードで苦労しました。

「どーせ直義が死んでも、何とも思わなかったんだろう!」(# ゚Д゚) ムッカー
「そんなに自派の大名息子がかわいいか!!」(# ゚Д゚) ムッキー
「あんだけに尽くしたに、よくもそんな冷淡になれるな!!」(# ゚Д゚) ムッホー

とか、見えない敵と戦ってた。
(※ちなみに、ここで言う息子は2代目義詮(よしあきら)のこと。)


今思うと、見事に全部はずしていた訳ですが。
実際は「何とも思っていない」どころか―――
まあこれは、直義亡き後
尊氏が生きた6年間の行動の "真意" を追うと見えてくるのですが
(つまり、表面からは見えない、だから誰にも知られていない)
悲し過ぎて言葉を失う… (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)






ところで
『観応の擾乱』という迷宮事件を解明するには
主要登場人物の言動の "真意" の解明が、最重要事項となる訳で
それには各人…特に尊氏直義の性格を
的確に分析する必要があります。

直義の性格は分かり易いものの
(なぜって…本当に人間離れした正直者で素直過ぎるので
 なんにも隠し事が出来ないタイプだからww
 とにかく、清くて正しくて優しくて思いやりがあって賢くて
 謙虚で献身的で慎ましいけど、意志は強くて真っ直ぐで…

 ってまあいいかw )
しかし、尊氏の方はというと…
めっちゃめちゃめちゃ分かり難い性格で
(直義と違って隠し事が出来る超ポーカーフェイスw)
最善から最悪まで、色んなパターンを想定しながら史料を読み返し
最も理論的に成り立つ性格を模索しなければなりませんでした。


( "理論的に成り立つ性格" って意味分からんな。
 でも、それくらい
 尊氏の言動は(一見)矛盾マジカル☆ワールド
 これまでは、"精神不安定" とか "躁鬱" とか
 "イミフ" とか "カオス" とかで片付けられていました。
  (もしくは、見なかった事にされていたw)
 まさかそこに、一貫した人物像が隠れていたなんて…
 諦めなければ、宇宙の謎は解けるんだなぁ…と思いますた。)



ま、結果を簡単にいえば
この兄弟は
似てるようで似て無いようでやっぱりそっくりなのに違うけど似てる
一言でいえば
 「違うけど同じ」
みたいな感じですが、私は以前は
尊氏はもっとてきとー
あんまり物事深く考えない性格かと思っていました。
尊氏wwwww ワロスwwwwwww
とか思っていた自分を殴りたいです。 ゴフ…


戦に強いのも
意味不明な運の強さによる "棚ぼた的" 勝率…かと思っていたら
(もちろん、人知を超えた武運の存在は否定しないが)
実は、並外れた状況判断力情報処理能力先読み能力による
必然的な結果だった、てゆう。

(本当に、軍師要らずの有り得ない将軍なのですよww
 それを極力表に出さなかったので分かりづらいのですが
 『観応の擾乱』を詳細に分析するとバレバレです。
 (…でもこれまでバレてないから、やっぱり策士です。)
 特に、南朝勢力と三つ巴になり始めた最も複雑な時期
 誰もが状況に踊らされていたような中で
 日本中で尊氏ただ一人だけ
 天下の状況を正確に把握して行動していた
 …ってくらいの、信じられない軍師将軍です。
 ただし、表面的にはやはり
 ワロス将軍です。)




ところで、前々回のブログ記事「七夕」では
直義ど贔屓の私が
 「『観応の擾乱』での尊氏良い奴
みたいな事を言ったので
もしかしたら、他の直義ファンから
え、何それ、じゃあ直義が悪いって言うの!
てめーふざけんなこの裏切り者がぁぁぁ!!!!!
…とか糾弾を受けて
直義好き界を追放されそうな勢いですが(私の脳内で)
しかし、大丈夫です。
私は今でも、誓って直義ファンです。
(ちなみに『観応の擾乱』では、直義も悪くありません。)


ただし、私は割とかなり…尊氏好きでもあります。
というのも
直義と言うのは、調べれば調べるほど兄に献身的なのですよw
もう泣けるほど一所懸命。

(※『観応の擾乱』では
 直義兄尊氏を超えようとしていた」
 もっと言えば…
 尊氏を退け、自らの元に幕府権力一元化しようとしていた」
 との解釈もたまに見ますが
 これは一次史料的事実に反する誤認です。
 反証は、有り過ぎるほどたんまり有るので、また後日。)

だから、私も
(従来の『観応の擾乱』の通説にも拘わらず)
どうしても尊氏を嫌いになれなかった…訳ですが
二人とも好きという意見は、結構珍しいような??


というのも
この辺の文献を読んでると
研究者によって
尊氏直義、どちらに正当性を見出しているか?
という緩やかなものから
尊氏派直義派か!?ってレベルで
スタンスがあからさまなものまで色々あって
 「あれ? もしかして『観応の擾乱』始まってる??」
みたいな事になってるからww


まあ、私はこういう場合は
直義派のウェーブに乗り乗りしてしまう方ですが
やはり、現状は尊氏派が優勢のようです。
何か、時代を超えて人を惹き付ける魅力があるのでしょうw
でも、『観応の擾乱』の真相が知れ渡ったら
この争いにも、終止符が打たれる事と思います。
つまり―――
尊氏&直義派の私大勝利wwwww
みたいな日が来る (`・ω・´)しゃきーん!!(はず。)
みなさんも、今のうちに二股派に鞍替えしておくといいですよ。








てゆうか、結局ここまで尊氏直義の話しかしていない…
仕方ないので、他に予定していたネタバレ
てきとーに済ませてしまおうと思います。


( ゚Д゚) < その一

まず、『観応の擾乱』についてもう一言。
これは、一般に言われているような
 「尊氏と直義の二頭政治の過程で
  幕府が(利害関係から)二派に分裂して起きた内訌

…ではなく、むしろ
 『観応の擾乱』が起きたから、幕府が二つに割れた」
と考えた方が妥当です。

いきなり因果関係が全く逆で、おめー何言ってんだ??
とか思われそうですが
以前当ブログ「GW企画 国宝『神護寺三像』」
 天動説が上から崩れ落ちてくる」
と言ったのは、そういう事です。


従来、幕府発足から13年間の幕府の内情
尊氏と直義の、牽制的・対立的な「二頭政治」、或いは
直義派高師直派という「派閥理論」で語られて来ましたが
これが "虚構の天" であったことに気付く必要があります。

分裂は、二頭政治ゆえの必然
という、13年間の幕府そのものに問題を見出す見解
或いは、直義高師直の立場を "対等" 的に捉える解釈は
『観応の擾乱』という衝撃が見せていた "錯覚"
結果からの逆算が生んだ "存在しない原因" だった訳で
この偽りの天を穿つ方法は
「康永三年の謎」(←私が勝手に命名)を解くことにあります。


では、『観応の擾乱』が起こった本当の理由とは?
という事ですが
これは、派閥の対立が臨界を迎えて…といった
"なあなあなもの" ではなく
もっと、明確な故意によって引き起こされた "事件" だった
という事です。


ちなみに、割とメジャーな原因説として

尊氏は、かつて自分から直義政務を譲りながら
 後になって、嫡子義詮に将軍職を継がせたいと心変わり
 (でも前言撤回は出来ないから)密かに高師直と謀り
 クーデター装って直義を強引に失脚させて出家に追い込み
 義詮執政開始を演出した」


という
普通に考えて「あまりにひどい!!!」話があり
あまりにひどい為に、(現代の)尊氏派からは
触れてはいけない事になっている(ような気がする)話がありますが
これは…
史料の誤解釈ですので安心して下さい。
(こういう全く別方向の解釈が可能になってしまう所が
 『観応の擾乱』が迷宮たる所以です。)

もちろん、擾乱勃発の "切っ掛け"
 「直義に対する、高師直のクーデター
であり、その結果
何の罪も無いのに
それまで、天下に歓迎される正しい政道を一心に努めてきた直義
突然政務の座を追われたのみならず、出家を余儀なくされ
当時鎌倉にいた義詮が上京して、執政を開始した
…のは紛れもない事実ですが。


ついでに
高師直が謀反を起こした "理由" については
一説に…
 先手直義派で、高師直の暗殺を企てたから(その反撃)」
と言われていて
これは… 高師直の素行が余りに梟悪淫乱なので
政道を立て直すには、除くしかない
直義の近臣達の間で意見が一致し、直義もそれに同意したので
計画された …とされていますが
普通に考えると、「先手暗殺」というやり方は
直義にしてはどうにも似つかわしくない卑怯さなので
(現代の)直義派からは
一斉スルー協定が結ばれている(ような気がする)話ですが
これも…大きな誤解ですので安眠して下さい。

(※この暗殺未遂説
 『太平記』の記述を根拠にしたものなのですが
 一次史料の記録との妙な "ズレ" に気付くと
 巨大なカラクリが見えて来て、そっから一気に
 すっ (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン です。
 直義悪くありません!!w )




( ゚Д゚) < その二

次に、直冬(ただふゆ)の事ですが…

(※足利直冬は、尊氏の実子だが正室の子ではなく
 直義の養子となった人物。(上述の足利基氏正室の子。)
 『観応の擾乱』時は、中国〜九州地方にいて
 一般に、直義派一大勢力として
 尊氏派と死闘を繰り広げた、とされていますが…)

直冬は、なぜか
父尊氏に対する怨みだとかコンプレックスだとかいう
憎しみ全開のフィクション要素
勝手にどろどろした感じで描かれている事が多くて
主観入れ過ぎでそれはちょっとどうなの???
みたいな事になってますが…
(これも、「尊氏直義の対立」との説から膨らんでしまった
 誤認…なのだろうか??
 それにしても、かなり激しい論調のものもあって…)

しかし、実際の史料を見ると
『太平記』では
 「政道が正しくて、人々からいよいよ好かれた
と褒められていて
一次史料には
 「どこまでも(尊氏)を慕っていた
という証拠が残る、泣けるほど健気な子です。
まあ、ごく稀ですが
これらの史料から、直冬正当に高評価している文献もあります。
(でも、今のとこ見たの一つだけかもw (´;ω;`)ブワッ )

ちなみに、養父直義には…
めっちゃむちゃむちゃ懐いていた、という一次史料的証拠があるw


ただ…
それなのに、尊氏から(一見)討伐の対象にされ
不遇な戦いを強いられ続けたのは事実なので
(そして流浪の末孤立し、零落して行った
 という、スペシャル不遇な子だと考えられているので)
正直、こればっかりは
救いようのある真相は見つからないだろうなぁ…
と、中盤までは諦めモードだったのですが
("ぱっと見" は本当に
 庶子直冬と嫡子2代目義詮に対する尊氏の待遇には
 ほどの差がある… (´・ω・`) )
しかしこれがまた…
救いよう…どころか、直冬こそ真の勇者!!
くらいの、とんでもない話が隠れていて
ジェットストリーム (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポーーーーン
してしまいました。
ひっくり返った… (´・ω・`) )


まあ、私でなくとも
 「あの温厚寛大尊氏の性格で、直冬にだけ
  こんな別人のように冷酷になれるだろうか??」
との疑問を抱いていた人は、少なく無いと思いますが
これまで、どうにもこうにも
納得出来ないでいた直冬ファンの方々には
これから大逆転が待っていますので
目ん玉押さえて、待機していて下さい。

従来、怨みや憎しみというフィクションで語られて来た
「直冬の戦った理由」とは、本当は何だったのか?
この解明が全てです。
直冬派、大勝利!! ですよ。

しかもなんと…
尊氏&直義派兼任で大勝利出来ます。 Σ(゚Д゚;)マジデ!?





( ゚Д゚) < その三

それから、あともう一つ。
めっちゃめちゃ秘密を握っていたのが、なんと―――
誰も注目していないであろう…足利高経!!

(※高経(たかつね)は
 足利一門最高「斯波」(しば)の祖で
 現在は便宜上「斯波高経」と表記されていますが
 当時は「斯波」を名乗った事はありません。)


高経は、尊氏の曽祖父のの家系なので
 家格意識が高い為に
  宗家の足利家にライバル心を燃やして、尊氏に疎まれた」

とか言われてて
影薄いどころか、嫌なやつ認定すらされている不憫さですが
高経尊氏の本当の関係に気付いたら…
つまり、上の説の虚妄を見抜いたら
その時君は、真の観応の勝者になっている!! …に違いない。
(ちなみに、二人は同い年。)

というのも
私も高経の真相に気付いたのは
観応攻略の、ホントにホントの最後の段階で
完全にラスボス裏面ラスボスレアボス
最最最難関だったから。
「はあ? 高経なんて重要度最弱空気キャラだろ」
…とか思っていたら
後でひっくり返ってピクピクしてしまう事になります。

(その上、この高経の真相
 実は、あの「管領制創設の謎」にも関わって来るので
 制度研究の面からも、大真面目に再考察する必要があるのです。)


そんな虚無キャラ足利高経ですが
室町創生期からの朝倉家の主君でもあるので
私は、密かに気にしていました。
(それで、たまたま気付いた訳です。)

(おそらく、現時点では私以外一人もいないだろうが)
高経派、大大大勝利!!! ですよ。
もちろん、高経派も
尊氏直義直冬派兼任で大勝利出来ます。 Σ(゚Д゚;)ママママジデ!!???





☆☆ようやく*・゚*:。.。:*゜(・∀・)゚*:。.。:*゚・*まとめキタ〜〜☆☆





という訳で
今日は『観応 "夏" 日記』ということで
言いたい事、言いたいだけ言ってみした。
 (ただし、これでもまだ2〜3%)
なので、予備知識が無いとちょっと分かりづらかったかも
すみません。
というか、予備知識があったら今日の話は
暑さで頭がおかしくなった人の戯言(たわごと)
にしか聞こえないかも ( ゚Д゚) <…


最後の暴露では
もう敵味方関係が、従来の説と比較すると余りにハチャメチャで
 「尊氏直冬高経派兼任ってwwwww
  直冬と高経は直義派で、反尊氏派の筆頭なんだよ!
  こいつ何も分かってねぇwwww」
とか思われるだろう事は、重々承知していますが
でも、天動説が信じられていた時代は
地動説は、頭のおかしいやつの寝言だったのですよ。
ただ地道にを観察していたら
が動いている事に気付いたから
現実をありのままに伝えただけなのに。




尊氏と直義について
 「政治的に対立した」
 「尊氏は、直義政務の座から追う事が目的だった」
という通説には
私は、詳しく調べ始める以前から
(単なる直感的なものですが)違和感があったのですが
どうも、一般には
私曲の無い正しい政道を目指す(古い鎌倉的な)「法治主義」直義に対して
尊氏
婆娑羅大名と呼ばれる武士たちが
私欲を解放して土地や財貨を囲い込む「人治主義」を奨励していた
それが、新しい "武士の世" だ!
(これは良い事で、みんながそれを求めていた!)
…みたいに捉えられていて
どうにも解せないw


でもこれは
『観応の擾乱』から逆算してしまった誤解であって
本当は、尊氏の政道の方針って
 「 "私" あるべからず」(『臥雲日件録』享徳4年正月19日)
とあるように
正に、直義のそれなのですよ。

『梅松論』にも
 「(直義は)御身の振舞いが廉直にして誠実で全く嘘が無い
  "此ゆえに" 将軍は(直義に)御政道を御譲りした

とあるし
今川了俊の手記『難太平記』にも
『観応の擾乱』で(一見)二人が仲違いした時の事として

 「(どちらと決め難いほど二人とも)私曲が無い
  (どっちも良過ぎて選べない!…ってのがみんなの意見)」


と記されているように
(※私曲…よこしま、不義、不正、自己利益しか頭に無いこと) 
やはり、本来の "武士の世" って
「私曲の世」ではなく
鎌倉の北条泰時に代表される「道理の世」であって
それが、尊氏にとってもこの時代の大多数の武士たちにとっても
"良い事" なのだと。

(※激動の時代であった当時でも
 やはり、人々の根底に流れていた価値観というのは
 「"普遍的な" 善悪や美意識」なのであって
 「"古い" は悪い、"新しい" は良い」という表面的な価値観ではない
 …という視点は、歴史考察の際に極めて重要な要素なので
 覚えておくと色々面白いように捗ります。)


という事は…
尊氏は、直義の政道には
反対どころか「心から賛同して満足していた」
と考えるのが自然であって
つまり、直義の失脚は "尊氏の策略" どころか
尊氏にとっては "痛恨の非常事態" だったのではないかと。

(※この発想の転換をすると
 『観応の擾乱』攻略が一気に加速します。
 でもチート級のターボなので
 振り落とされないように気を付けて下さい。)


私としては
詳しい事情を知らない頃からそんな予感があって
尊氏が、憎しみから直義を殺したとはとても思えず
毒殺説を信じていた頃は
 「だとしても、直義本人同意があったんじゃないかなぁ」
と、つまり…
 「切腹では、直義派が弔い合戦に燃えてしまうから
  病死を装う為に服毒を…と
  むしろ、直義から強く申し出たのであって
  尊氏は、擾乱を終わらせる為に苦渋の選択をしたのでは…」
と勝手に想像してました。

(※直義は、天下の為なら
 「自分の命なんてなんとも思って無い」のは
 史料的事実ですが(…2度の討死覚悟とか浄土寺和歌とか)
 しかし「擾乱を終わらせる為」と
 (直義はともかく)尊氏が考えるはずが無いのは
 上述した通りです。)




私は、あくまでも史実妄想主義なので
どんなに仲良くあって欲しいと思っていても
それが史実に反するものならば
妄想の中でさえ、親しい兄弟として描く事が出来ません。
(いや、勝手にしろよ、とか思うでしょうがw
 でもやっぱり、であっては意味が無い… )

だからもし
従来の説を実証的に覆し切れなかったら…
それどころか、本気で決裂した確証が見つかってしまったら…
どうしよう マジ\(^o^)/オワタ
…となる所でしたが
ひと先ず、現時点での結論としては

 「こんなに仲の良い兄弟はいない」

と言えるかと。
というか、常識的に考えても不思議なくらい仲が良いんですよw
(…って、一次史料が言ってるんですよ。)
これにはまた、一層不思議な理由があるのですが
しかし、じゃあなんで
それが良い話で終わらず、(毒殺ではないにしても)
あんな悲しい結末を迎えなければならなかったのか―――
とは、直義好きなら誰もが抱く疑問だと思いますが
その答えを、いま一言でいえば…

 「それぞれがお互いの為に生き過ぎてしまったせいで
  擦れ違うことになってしまった」

みたいな話なんですよ、本当に。
もう、こんなに悲しい話が、この世にあっていいのか??
ってくらい悲しい話で
これが作られた物語ではなく
実話であることが信じられない (´;ω;`)

(特に、上の "不思議な理由"
 尊氏目線で見た場合に関係して来るのですが
 これがもう… (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) )


もし二人に
人間なら誰しも持つ、自分の幸せを求める心が
少しでもあったなら…
と、訪れる事の無かった未来を考えてしまいますが
でも、あまりに劇的過ぎる運命に生まれ
それなのに、あまりに突然途切れてしまった一生だったから
もしかして…
まだ物語は終わっていないのかも知れない―――



もし今、その "続き" が始まったとしたら
今度こそ完結するだろうか。
でもきっと
今はまだ鎌倉京都に隔たって
同じだけど違う空の下にいるんだろうな
そこから、始まるんだろう。
…というそんな妄想で今日のまとめ
夏の絵日記です。


足利直義


足利尊氏

(※クリックすると少しだけ拡大します。500×667px)



鎌倉「浄妙寺」
鎌倉時代初期の創建の臨済宗の寺院(当初は密教寺院)で
中興の開基である足利貞氏(尊氏直義の父)のお墓があり
(貞氏の法号は「浄妙寺殿」といいます)
鎌倉時代以来、足利家の屋敷がこの近隣にあった
という、縁(ゆかり)の深い禅院です。

そして、『観応の擾乱』では
観応2年(1351)12月、尊氏との最後の戦ののち
和睦した二人は、翌観応3年(1352)正月5日鎌倉に入り
直義「浄妙寺」西隣の寺院で
ひと月半と少しの時間を過ごした後
幼少の頃より我が子として育てた基氏の、数え13歳の元服を見届けて
翌2月26日の朝
46歳で、兄尊氏に先立ちます。

直義が最期の日々を過ごした禅院については
「延福寺」(尊氏直義の異母兄、高義が開基)と
「大休寺」(この後直義の菩提寺となる。直義の法号は「大休寺殿」
の両説があるのですが
この2〜3年後の時点で、両寺院は月山希一が住持を兼帯しているので
場所的にも実態も、極めて近接した寺院だったようです。

「大休寺」は、直義の "没後" に菩提寺として建てられた
 とも言われていますが
 『源威集』に、鎌倉入りした直義が「大休寺御座」とあるので
 亡くなる前には既に存在していたように思われます。
 (※『源威集』は後年の記録ですが
  筆者は当時をリアルタイムに知る東国武士
  記録の信憑性の高さが指摘されています。)
 おそらく、出家して慧源(えげん)と名乗っていた直義
 居所となるべく、その頃整えられた寺院なのではないかと。
 だとしたら…
 まあ、この続きの推測はまた後日に。)

「延福寺」「大休寺」
残念ながら廃寺となってしまいましたが
その旧跡は、現在「浄妙寺」境内として散策が可能です。


それから、京都「等持院」
本サイト『2-4』「始まった場所」で紹介した
室町を代表する足利家の菩提寺
尊氏お墓がある、室町好きには基本中の基本の禅院です。



是非、今年の夏の冒険に!
…と、すぐにでも出発したいとこですが
この暑さじゃ、とてもじゃないけど冒険出来ません、マル!

秋まで、妄想で我慢しよう…という事で
本サイトのTOPページ夏空仕様に変えてみました。
よし、これで脳内絵日記完了。 宿題一コ終わた。


それでは最後に

観応夏日記


今日は、これが言いたかった。



posted by 本サイト管理人 at 02:25| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年08月31日

夏休みの宿題(その1)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
またずいぶん間を開けてしまいましたが
別に、夏休み気分でバカンスしていた…訳ではなくて
8月後半は
全国の小学生恒例の「夏休みの宿題追い込み期間」に便乗して
私も色々とセルフ課題をこなしていました。

気付けばすっかり涼しい毎日で
夏も終わってしまったかのようですが
しばらくは
夏の宿題提出編 "観応思い出夏日記" をお送りします。




では早速
前回の「本サイトTOPページ更新」に続き
夏休みの宿題 "第2段"
家紋シリーズに、新たな2種が加わりました!

その一、上杉家の「竹に雀」(たけにすずめ)です。


上杉家紋


あれ、なんか違う…
と思った方もいるかも知れませんが
「上杉 家紋」で画像検索すると、普通は
九枚笹(三枚笹を三方に配したもの)の家紋がヒットして
現在は、上杉といえば "九枚笹バージョン" で定着していますが
しかし、室町時代はどうだったかと言うと…
『応仁の乱』中に成立した家紋集『見聞諸家紋』では
上杉家の家紋は

上杉家紋
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)

…となっているのです。
なので、"室町の上杉" ということで
五枚笹×5の "二十五枚笹バージョン" で作図してみました。
ついでに、雀ちょっとでかくしてみた。
片方くち開いてるとか可愛過ぎるからw

(※これは、仁王像狛犬と同様に
 「阿吽」(あうん。万物の初め(阿)と終わり(吽))
 を表したもの。 雀なのに、雀なのに…宇宙を…
 ちなみに
 「竹に雀」の家紋は、他にも色んなバージョンがあります。)




ところで、"上杉" というと
現在は「上杉謙信」があまりに有名過ぎて
一般的にイメージされるのは
室町末期、戦国期の "いち大名家" …というか
"新興の戦国大名の一人" みたいな位置付けがされているような気がしないでもありませんが
しかし本来、上杉家はもっと歴史が深い一族ですし
上杉謙信は、(鎌倉時代末頃から)上杉家の被官だった "長尾家" の出身です。
(※ちなみに、長尾家も歴史は長いです。)


…というのも
私が今さら、ちまちまと上杉の家紋を作図したもの
ここ最近「室町創生期」にどっぷり深入りした結果
"初期室町" における上杉の重要度の高さを、コテンパンに思い知らされたからです。
(当初、本サイト&当ブログでは
 「室町幕府の後半戦」をメインに想定していたので
 上杉の真価を半スルーしてた。 すまぬ…すまぬ… )



室町時代の上杉と言えば
上杉清子が、尊氏直義兄弟の母である事から
一族は、足利一門とはまた別の、特別な存在であった訳ですが
遡れば、上杉家は
もともと勧修寺流藤原氏、つまり京都の公家
鎌倉時代中頃、建長4年(1252)に
後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が、鎌倉幕府の6代目将軍となる為
関東へ下向したのですが
その際、上杉重房が随伴していた事から
鎌倉との関係が始まります。

(※"上杉" を称するようになったのも
 この頃、上杉重房が丹波国の上杉荘を賜った事によります。)

(※それから、上杉家の家紋が「竹に雀」なのは
 その出自である勧修寺家の家紋が「竹に雀」(意匠はちょっと異なる)
 だったからです。
 (『尊卑分脈』上杉重房の注釈に「幕紋竹丸飛両雀」とあります。)
 ちなみに…
 現在、武家の家紋で
 似たような「向き合った雀と笹」の家紋をよく目にしますが
 これは、武家となった上杉家が繁栄し
 恩賞や親交の証として家紋を下賜することがあった為
 一族以外の武家にも広まったからです。)




さて、上杉重房の後は

 重房(1) ― 頼重(2) ― 憲房(3) ― 憲顕(4)
(しげふさ よりしげ のりふさ のりあき)(※他兄弟省略)


と続くのですが
このうち
上杉重房(1)の娘が足利頼氏に嫁いで
足利家時(尊氏直義の祖父)を産み
上杉頼重(2)の娘(=清子)が足利貞氏(家時の嫡男)に嫁いで
尊氏直義を産みます。
(要するに、上杉重房(1)から見ると
 足利貞氏はひ孫で、上杉清子はに当たる。
 んでもって、二人の子が尊氏直義。)



つまり、上杉家足利家の親密な関係は
鎌倉時代中期から始まっていた訳ですが
鎌倉時代の足利家は代々
執権北条一族から正室を迎えていて
北条家の母を持つ者しか、嫡男として家を継げなかったのに
上杉重房(1)の鎌倉下向を境にして
上杉家の娘が2代続けて、足利家惣領の側室となった上に
生まれた家時尊氏
"例外的" に家を継ぐ事になった、ってゆう。
しかも
家時と先祖の源義家「御置文」によると
もしかして義家が狙って生まれ変わって来てたくさい
…とかいう、私の脳内疑惑が濃厚な話まである
ってゆう。
(※この疑惑については、1年前のブログ記事
 「源八幡太郎義家」をどうぞ。)




そんな訳で
鎌倉幕府の特別有力御家人足利家の外戚となった上杉家
その後、京都では引き続き廷臣として
主に女院の蔵人を務める一方で
鎌倉では足利家の被官として
武家としての歩みを始める事となります。
(たぶんですが…どうやら兄弟で分業していた模様。)

尊氏直義の伯父である上杉憲房(3)
二人から厚く信頼される重臣であった事は
今川了俊の手記『難太平記』
上杉憲顕(4)宛の "直義自筆書状" に見える通りです。
(※この直義自筆書状については
 当ブログ「画像修正しました」の冒頭をどうぞ。)



ただ、上杉憲房(3)
建武3年(1336)正月27日
京都四条河原の合戦で討死してしまう為
二人の甥による新しい時代の幕開けに立ち会うことは
出来ませんでした (´;ω;`)ウッ…
この合戦は
足利軍の一度目の上洛で、一旦入京に成功した約半月後
再び京都撤退を余儀なくされた決戦で
官軍の激しい攻撃に

 「両大将御馬を進められて
  思し召し尽きたる御気色みえしほどに…」(『梅松論』)


つまり
尊氏直義が "決死の覚悟" をした、というほどの激戦だったのですが
しかしその時

 「勇士ども、我も我もと御前に進みて防戦し」
 「を捨てて、忠節を致しける」 (『梅松論』)

これにより
尊氏直義は、九死に一生を得た
という、スペシャル泣ける奇蹟の一戦だった訳ですが
この "勇士" のうちの一人が
二人のおじの上杉憲房だった、ってゆう (´;ω;`)

直義なんて、心が折れてしまいそうだったろうなぁ…と思う。
 上記の自筆書状によると、その後ずっと
 「(上杉憲房の討死に)万事力を落とし候て、悲歎無極
 だったそうな。)


今川了俊の伝える所によると
上杉憲房は、上杉家だけに伝えられた
(尊氏と直義は知らない)足利家時足利貞氏
とある "思い" を知っていたので

 「殊更、其人(=上杉憲房)骨を折りて河原合戦に討死しける」
 (『難太平記』)


だったそうだ。
歴代主君に尽くした上杉憲房…… 泣ける (´;ω;`)


(※以上は、本サイト『2-2』「西へ」辺りの話です。
 それから、この上杉家に伝えられた秘密
 上記の家時「御置文」
 (↑これは執事の高(こう)家に伝えられたもの)
 とも共通するもので
 他エピソードにも絡む核心ポイントですので
 気にしておいて下さい。)




さて、"室町の上杉" といえば
何と言っても
「関東管領」(※鎌倉公方の補佐役)と
「越後守護」としての顔ですが
これは、尊氏直義のいとこである
上杉憲顕(4)に始まる歴史です。

(※その他、関東の上野守護
 伊豆国、武蔵国、相模国なども重要です。
 上杉家は、室町幕府誕生時は
 京都尊氏直義に近侍する一族が一番多かったのですが
 二人の時代が終わった頃くらいから
 山内家、犬懸家、宅間家、扇谷家などに分岐します。
 これらの名字がみな
 鎌倉の地名に由来する事からも分かるように
 室町の最初期以降、上杉一族は "関東" を本拠地とし
 越後国はいち守護国、のちには京都に祗候する一族もいた
 という感じです。)


しかも、この上杉憲顕は徳治元年(1306)生まれなので
誕生年的には
 尊氏(1305)― 憲顕(1306)― 直義(1307)
となって
3人は年子みたいにきれいに並ぶ、ってゆう。

(※ちなみに、私の一押し足利高経尊氏と同い年。
 あ?しつこいだと? でもここ、後で超重要になってくるからっ)




まあ、上杉憲顕からしたら
尊氏直義は、あくまで "主君" なのですが
足利家上杉家は、どうやら家風がとても合ったようで
特に禅宗関連で、帰依僧に共通点が見られる…
というか、ほぼ一体だったんじゃないか??
と言っていいかと。
(※この辺の参考文献と詳しい話は、また後日。)


上杉家は、もともと京都の公家ですし
『上杉系図』には上杉頼重(2)について
「文武達者。歌人」とあることからも
代々京文化に精通していただろう事は容易に想像出来ますが
一方、孫の尊氏は…
これは良く知られた話ですが(それでもやっぱり意外ですがw)
趣味の域を超えたかなりの歌人であった事からも
両家の相性の良さが窺えます。

(ってゆうか、尊氏
 歌に超絶長けてた歌人将軍…どころか
 和歌だけを望みに生きていこう… (´ー ω ー`)
 とすら思っていた事があるっていう。
 なんて切ない将軍なのw)


つまり、足利家にとっては
上杉家は単なる被官ではなく、私的な親交が極めて深い間柄で
特に、直義上杉憲顕
信仰政道に見られる類似性から
おそらく、性格も良く似ていて
小さい頃から気が合ったに違いない…というのは私の妄想ですが
しかし
現存文書の内容をかなり突っ込んで分析すると
上杉憲顕は、相当に直義を慕っていたらしい
という事が改めて判明したりするw
(※これについてもまた後日。)


まあ、二人の信頼関係については
「上杉家文書」が有名なので
既に広く知られた事実で、誰も異論は無いと思いますが
この関係は、単なるほのぼのエピソード
…で終わるものではなく
『観応の擾乱』の真相究明で、超重要事項になって来るので
よく覚えておいて下さい。
上杉憲顕の行動から、直義の真意が読み取れる
 という意味で。)





という訳で
上杉家足利家のちょっと気になる関係について
簡単に述べてみましたが
実は、(わたし的に)最も気になるポイントは
両家の関係が
 「宗尊親王の鎌倉下向を機に始まった」
という点です。


というのも
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が終焉を迎えたのは
足利軍が後醍醐天皇の勅命を拝し
執権北条一族に反旗を翻した事による訳ですが
これは
それまでの北条得宗家の専制政治に対し
御家人達の反感が限界に達していた、という事が
直接かつ最大の要因…ではあるものの
遡れば
皇族将軍である6代目宗尊親王足利家
さらには、京都の公家社会足利家の関係を一気に深めた
"上杉家の存在"
極めて重要な意味を持っていたのではないかと。

(※ちなみに、鎌倉幕府の将軍は
 6代目宗尊親王から、宗尊親王の嫡男である7代目惟康親王
 と続きます。)



この上杉家の位置付けを論じたのは

【田中大喜編『下野足利氏(シリーズ中世関東武士の研究 第九巻)』
(戒光祥出版)2013】
…の、第2部W
「田中奈保『高氏と上杉氏―鎌倉期足利氏の家政と被官―』2005」


という論文で、とっても興味深い&素晴らしい指摘満載です。
6代目宗尊親王の王女は
大覚寺統の後宇多天皇の妃となった永嘉門院という女性である事や
(※後宇多天皇はつまり…
 後二条天皇後醍醐天皇の父帝です(母は永嘉門院とは別))
それから
上杉家は代々女院の蔵人(※身の回りの日常諸事係)を務めていて
例えば、上杉重房(1)
式乾門院(四条天皇の准母で、宗尊親王を猶子とする)の蔵人
上杉憲房(3)(もしくは、兄弟の頼成)は永嘉門院の蔵人だった事
…などなど。

…これについては、系図により差異があるのですが
 私の予想では、永嘉門院の蔵人は頼成
  頼成が京都の廷臣上杉家憲房が鎌倉の足利被官上杉家
 をそれぞれ担っていたのでは? と思う。
 (もう一人、重顕という兄弟も京都担当だった模様。)
 理由は…
 上杉憲房は突出して尊氏側近としての活躍が目立ち
 重顕の子息には、京都公家社会との関わり見られるから。)

上杉家は従来
代々の足利家の家宰だった高(こう)家とは
同じ足利家の近臣的被官として
"並列的" に語られる傾向が強かったのですが
上杉は、その意味合いがかなり異なるのではないか
と結論付けられていて、うーんなるほど大納得です。




まあ、室町創生期前後の時期の
足利家にとっての上杉家の "位置付け" については
追究すればするほど
これまで思われていた以上に
『観応の擾乱』に深く関わって来る "実は最大級の鍵"
他にも紹介したい論文があるので
続きはまた後日に。
…という事で
今日は、両家の関係をビジュアル化しておきましたので
復習どうぞ。


上杉足利系図


二重線(=)は婚姻、点線(…)は猶子(養子)です。

上杉家については
上杉憲房は、姉妹の加賀局の子の重能重兼兄弟のほか
もう一人の女子と、加賀局自身も猶子にしています。
(おそらく、加賀局の夫勧修寺別当宮津入道道宏が没した後
 残された母子を、全員引き取って面倒を見たのでは、と思う。)

それから、重行上杉憲房の実子ですが
重顕の猶子となっています。

上杉憲顕の世代では、憲顕のほか
重能朝定(ただし朝定はちょっと若い)が特に重要ですが
この次の世代も含めて、続きはまた後日に。


足利家については
「足利一門の祖」を記入しておきました。
ここには記載し切れませんでしたが
鎌倉幕府成立時の足利家当主は、義氏たちの父の足利義兼
その兄弟の義清が、仁木・細川の祖となります。

桃井の祖については
父の義助が『承久の乱』で討死した後
子の義胤が、祖父の義兼の猶子となって跡を継いだようです。

石橋の祖
家氏の後で、庶長子の義利(石橋の祖)と
嫡男の宗家(斯波の祖)に分かれます。


足利泰氏の子については
本サイト『2-10』「愛しのへっぽこ公方様」の最後で解説したように

 長男家氏(斯波) 次男義顕(渋川) 三男頼氏(宗家足利)

の順番です。
家氏義顕の母が、名越流北条家
頼氏の母が、北条得宗家
…で、長男の家氏が家督に…と思いきや
大人の事情で三男の頼氏が足利を継ぐ、と。
なので
家氏の子孫は室町初期まで
「斯波」ではなく「足利」を名乗っています。
(先祖の官途から、尾張殿と呼ばれることもあった。)

渋川義季は、尊氏より9歳も下ですが
その姉は直義の室で、直義と同い年です。

足利高経は…高経です。


この世代は、年齢の近さといい
最も身分の高い尊氏直義めっちゃ性格良いし
みんな子供の頃から仲良かったんじゃないかなー
…というのは、私の妄想です。



ちなみに、足利義氏の娘が
四条隆親に嫁いでいるのですが
(時期はおそらく、1240年くらい?)
初代〜三代の将軍、源頼朝、頼家、実朝はもちろん
源氏はもともと、公家社会との縁は深い一族ですから
建長4年(1252)に宗尊親王に随伴して東下した上杉重房
不慣れな鎌倉で足利家との繋がりを求めたのも
ごく自然な流れだったと思います。
その時は
80年後の未来に待っている運命など、知る由も無く―――


ところで
ここでもう一言突っ込んでおきたい事があって
"室町幕府創生" というのは
尊氏直義たちの人望と奮闘によるものですが
しかし、その大前提となる
"鎌倉幕府終焉" というのは
これはやはり、後醍醐天皇の存在と行動力無しには
起こり得なかった歴史だと思います。
そして、さらに元をたどれば
後醍醐天皇の討幕の意志と、もっと言えばその帝位・存在自体が
鎌倉後期に始まる
後深草天皇を基点とする「持明院統」と
同母弟の亀山天皇を基点とする「大覚寺統」という
"皇統の分裂" に起因する事を考えると
「室町幕府の誕生」というのは
ここまで因果をたどる事が出来るのではないかと。


上で私は、上杉家と足利家の関係について
「宗尊親王」が最も気になる…と言いましたが
これはなぜかと言うと
なぜかと言うと…
宗尊親王後深草天皇亀山天皇は―――
みな後嵯峨天皇の皇子、つまり兄弟だから!!
(※宗尊親王のみ、母が違います。)


 (;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


ってことは… つまりあれですよ!!
すべてはここで始まっていたって事で
上杉重房の下向も、足利家との出会いも
室町幕府は80年前に描かれていた既定の世界線でしかなく
尊氏直義が生まれた時点というのは
準備の整った舞台に、主役が降り立った "仕上げ" だったという訳で
半世紀の時を経て
整然と噛み合った無数の歯車が一斉に回り始めた
つまりは、「天のシナリオ」でしかなかった訳で―――



…とか考え出すともう Σ(||゚Д゚)ギャアアァァァーーーーー
ですが
まあでもしかし、室町幕府
近代になってから本当に酷い否定のされ方をして来たので
本当は
 「室町幕府こそ、天に定められた運命だった」
という事になれば
この時代を見る目も一層変わるのではないか、と
密かに期待しています。



え、史実妄想主義とか言ってるくせに
妄想分が暴走し過ぎですか?

ところで、みなさんは
未来は決まっていると思いますか?
私は、まあ大まかな輪郭くらいは存在していて
でもそれは、小さな誤差の蓄積で日々描き直されてゆくもの
少し先の未来となると
原型はあまり意味を持たないんじゃないかなぁ
…という凡人の発想でしたが
しかし
「室町創生期」という時代を調べていて思うようになったのは
こんなにも、偶然にしては
あまりに出来過ぎた奇蹟が重なり合った時代が実在したのなら
やっぱり未来は決まっていて
ならば、それを知っていた人間ももしかして―――


…おっと、今日の所はこの辺にしておこう。
妄想解除、妄想解除っと。
まあ、一言だけ先走っておきますと…
室町というのは、思った以上に "本物" ですよ。






さて、「家紋」の話がまだ終わっていませんでした。
では、ちょっと急ぎ足で
その二、八幡宮の神紋「三つ巴」(みつどもえ)です。


八幡宮神紋


「三つ巴」には
"巴" の回転方向が逆の、左巴右巴がありますが
これは左巴になります。
(※『見聞諸家紋』による。)

八幡大菩薩については
本サイト&当ブログでちまちま語っているので
まあいっか、という事で
夏休みの宿題 "第2段" 「家紋シリーズ」追加分の発表でした!
(投げやりで本当にすみません。)



ちなみに、背景の金魚がとってもかわいいですが
これは、私が使っているペイントソフトの
公式HPで公開されている素材
上の「上杉家紋」と「上杉足利系図」の背景にも
同様の素材を使用させてもらってます。
(※主に、ブラシツールや背景パターン素材。)


いや〜クオリティ高過ぎ
毎回コーヒー吹く!!
この場を借りて御礼言っとこ、どもども m(_ _)m
らくがきしているだけで楽しいんですよ、ホント。

ってか、そんことばっかやってるから
宿題が先に進まない、と。
まあでも、今日は何とか
全国の小学生全力疾走の8月31日に間に合いました。

ずさーーー⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡≡≡ーーーーーっっっ



posted by 本サイト管理人 at 23:59| Comment(0) | ★チラ裏観応日記