2015年09月12日

夏休みの宿題(その2)

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
が終わったようで終わらないような日々が続いていますが
(…というか、天候の不安定さに心が痛みますが)
本格的なが到来するまでは
過ぎ行く夏の思い出に身を委ねたいと思います。


では、前回に引き続き
夏休みの宿題 "第3弾" !!
今回は自由研究です。
各種「室町のロゴ」を作ってみました。

私はこれでも
 「どうすれば室町分かり易く伝えられるか?」
を、常日頃から
割とかなり真面目に考えているのですが
やはり
短い言葉や単純なイラストといった
 一言に凝縮した要約、一目で主張する象徴
が必要なんじゃないかと思って
なんか… 急に思い立って作ってみたw


ってゆうーか、ロゴなら家紋で良いだろ
と思われるかも知れませんが…
ええ、私もそう思います。
日本の伝統的家紋の意匠というのは
最高に洗練されていてセンスが良いので
 シンプルなのに訴えるものが多大!!
の素晴らしい芸術作品だと思います。
(ってゆーか、この日本人の突出したセンス
 近代以降一体どこへ… ってまあいいかw )

だから私もこれまで
『見聞諸家紋』などを参考にちまちま作図しては
各所で多用して来た訳ですが
今回は、一言要約を添えた "室町解説ロゴ" を作成したかったので
室町の堂々たる家紋「二つ引両」をベースに
折角なので、室町のイメージ向上の為…フレンドリーな感じにしてみた。


すみません、無類の室町マニアの私としては
なんか家紋に失礼な事しているようで、かなりどうかとも思ったのですが
あくまで愛する室町の為、という事で御了承下さい。
…というか
「二つ引両」は見れば見るほど
可愛過ぎてやばい…とみんなも思っているに違いない。
やばいくらい可愛いという事はつまり―――

  「二つ引両」かわいい
 → かわいい正義
 → 室町正義!!


という三段論法が成り立つ、ってゆう!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?




さて、言い訳はほどほどにして
「室町は正義!!」を訴えるべく全身全霊で取り組んだ
夏のフリーダム研究の成果を発表したいと思います。

先ず初めは
室町時代の初期、中盤、後半戦をアピールする
「sunrise 三兄弟」です。


その一、初期(the early days)
尊氏直義の「室町創生期」をイメージしました。


室町ロゴ


"midnight sunrise" すなわち
「夜半の日頭」「真夜中の日の出」
当ブログ「画像修正しました」の最後で解説したように
夢窓国師と直義の『夢中問答集』を出典とする
史実フレーズです。

 極限にシンプルで、究極に深遠―――

という、史上稀に見る素晴らしい言葉だと思うのですが
どうでしょうか?

(※ちなみに、この文言の解釈について
 やっぱりちょっと違うかも…と考え直したので
 当該記事を少々修正しました。)



「室町創生期」については
このブログで、まだ解説が始まったばかりですが
真相を知ればきっと
初期室町をここまで的確に表現した言葉は他に無い!
と賛同してもらえると思います。

(…実は直義は、本当に
 "とある暁"(あかつき)を夢見続けていて
 それが、政道への原動力になっていたようなのです。)


ってゆうか、言葉は良いけど
がどうしようもない感じですが
まあいいか。
一応、「真夜中 → 月 → うさぎ」という連想です。
あと、なんか直義うさぎっぽいから …って益々どうでもいいかw




その二、中盤(the middle days)
6代目足利義教の時代です。


室町ロゴ


室町の中盤って言ったら
3代目義満の北山時代か4代目義持だろ常考
とか思うでしょうが
…すまん、私は義教のマニアなのだ。


ま、義教については本サイト『2-5』を御覧いただくとして
"promised sunrise" …直訳すれば「約束の日の出」
とは何かと言うと、これは
「 "彼の岸" の日の出」を、私が無理矢理英訳したものです。


(※「彼の岸」(かのきし)とは
 「悟りの境地」「涅槃」(ねはん)の事で
 仏教で最終的に目指す "理想の世界" を意味します。
 本サイト『2-6』「君が見ていた彼の岸は遠く…」の最後の方
 「彼岸」「此岸」(←応仁のアイ乱ド)の話と
 当ブログ「室町絵師ランキング(第3位)」仏教解説
 御参照下さい。)


「涅槃」というと、英語では "nirvana"(ニルヴァーナ)なのですが
それだとちょっとニュアンスが違う…というか
ここでの「彼の岸」とは
仏教的な意味というより
現実世界での "理想の境地"、つまりは
道理に基づいて正しく治まった泰平な世」という意味で

 未だ誰も見た事の無いそれを、追い求め続けていた

という事を、「未来の日の出」に喩えて表現するなら
"nirvana" ではなく "promised land"(約束の地)
のが近いかなぁ…と思って
こうなりました。


ところで、私はこれまで
義教が将軍となって天下の政道に生涯を捧げて以来
抱き目指し続けていた理想
「彼の岸」と呼んで来ましたが、それはなぜかと言うと…
実はこれにも元ネタがあるのです。(※もちろん一次史料です。)

今日の所は、詳細は保留しますが
義教は本当に、人々にとっての理想郷道理に則った公平な天下
心から求め続けていたのですよ
たとえ、その身が果てたとしても―――


だからこそ義教は、既得権者には厳しかったのですが
貧富に関係なく道理を適用する」という
万民に公平な世を目指していた、というのは
当時の上層階級(公家武家含む)からは非難されたとしても
後世の日本人からすれば
賞賛して余りある素晴らしい将軍のはずなのに
それが理解されていないのが、なんとももどかしい。

 道理公平第一で、既得権者に優しくない

なんて、どストライクだと思うんですが。
(ちなみに、義教は基本は人に優しいです。
 スイッチ入った時のぶち切れ傾向が多少大問題なだけで
 かなり思いやりエピソードに溢れた将軍です。)


ただ、将軍としての義教「彼の岸」を求め続けていた
という事は、裏を返せば
当時の世の中では、それは実現していなかった
という事になる訳で
 (まあ、これは現代も(ってか現代のが)深刻ですが… orz)
それほど、"理想の世界" というのは遥か彼方にあって
本当は、夢見るだけで決して届かぬ存在なのかも知れないけれど
それでも明日を見続けて
自分の亡き後も、その思いを繋いでいって欲しい
と(密かに)言い残した義教の願いよ、今に甦れ!!
…という祈りを込めて
「彼の岸の日の出」という言葉を選びました。


いや、それにしてはアザラシってどうなんだよ
とか思うでしょうが
すまん、他のロゴを先に作成してたら
ネタ切れしてしまったんだ。
ま、まあ、アザラシかわいいし。
(ちなみに私、ゴマフアザラシ触った事あるんですが
 むにむにでした。)





その三、後半戦(the latter days)
「応仁世代」&「明応世代」のやつらのモットー
かつ、この本サイト&ブログのメインテーマ


室町ロゴ


"stand for sunrise"(日の出の為に戦う)です。

これが本サイトのタイトル「戦国黎明記」の英訳である事は
当ブログ「晩夏の香り」の最後でつらつら語った通りです。

(ロゴでは "Stand for sunrise !" と命令文ですが
 これは、自分(or 自分達)に言い聞かせているのであって
 "We will stand for sunrise." という意思表明に近い感じ
 …のつもり。)


『応仁の乱』にしろ『明応の政変』とその後の15年にしろ
その時代を生きた者達は
薄暗い戦国の縁(ふち)にありながら
しかし確かな「本意」を胸に掲げてを目指していた
という
絶望の入り口にあってなお、希望を諦めない言葉
…だと個人的には思っているのですが
……。


うん、まあ今の所
『応仁の乱』は、意味目的信念も無い戦いで
西軍は単に負けただけだと思われているしね (´・ω・`)
それどころか
『明応の政変』義材たちなんて
(↑11代目足利義材畠山尚順、それから義材に従った奉公衆
 義材陣営は他に、大内義興美濃斎藤、能登畠山、越前朝倉などなど)

不当なクーデターで京都を追い出されたのに
なぜか当然の敗北者扱いで
同情すらされて無いしね (´;ω;`)

でも…
彼らは最後に勝つんですよ。
もちろんそれは
単なる主導権争いだとか、権力への欲望だとかいう
自己の小さな利益に突き動かされた結果ではなく
彼らが、乱されてしまった天下に対し
再び道ある世を取り戻すべく身を捧げた戦いの中で
15年絶え間なく抱き続けた思いは―――

 月と日の 光さしそう 天が下 ついに治まる 御代となるべし

という、綺麗過ぎるくらいの
純粋な正義希望だったのです。


(※この歌の出典は、『明応の政変』の超重要な真相を秘めた
 『金言和歌集』という歌集で
 クーデターで覆された当時の社会についての
  「乱れ行く世」「悪しき世」「濁世」(じょくせ)
 などの極めて厳しい表現が、この政変の本質を物語っていますが
 しかし一方で
 光射す世を決して諦めない、希望に満ちた歌にも溢れていて
 さらに特筆すべきは
 「後世の人々」(つまり私達)へのメッセージを含んでいる
 というタイムカプセル歌集ですので、お楽しみに。
  (※金言(きんげん)とは
   古人の残した模範となる尊い言葉格言のこと。)

 ちなみに『金言和歌集』 "2種類" あって
 これがまたスペシャル重要で目ん玉ポーーーーーーン級
 …なのですが
 歌集自体が壮大なカラクリになっているので
 未だに真相は闇の淵で眠ってる、ってゆう。
 そろそろ寝た子を起こし…… Σ(゚Д゚|||)ギャアァァァァ━━!!! )



というか、そんな "希望" を掲げた戦いの象徴にしては
中途半端な動物になってしまいましたが
これは一応、クマたぬきです。
実はこのロゴは
当ブログ「一周年です」の画像を原型にしたものなので
本当は、最初はにしたかったのですが
他にどうしてもにしたいロゴがあった、ってのと
しっぽをきのこの石づき風にすることで
この時代の最重要人物きのこる先生(=伊勢貞宗を暗喩…
ってどうでもいいかw
つまり、これはしっぽに見せかけて実は石づきなので
クマの様なたぬきではなく、たぬきの様なクマが正解…
まあ、どうでもいいか。


(※2015.9.23…イラスト(とイラストの解説)を
 ちょっと変更しました。)





以上、夜明けの光を未来に夢見る「sunrise 三兄弟」でした。
イラストはへっぽこですが
詰め込まれた思いの大きさは本物です。







さて、続いては
室町の三大長編ミステリー
 『観応の擾乱』 『応仁の乱』 『明応の政変』
の核心を一言でアピールする
「三応(さんのう)兄弟」です。


3つの元号に偶然共通する「応」という漢字についての
私のどうでもいい考察は
「チラ裏総目録「2014年10月〜」」を御覧下さい。


それから "長編" とは言いましたが
この3つのうち、一般的には
『観応の擾乱』は、貞和5年(1349)閏6月(or 8月)から
観応3年(1352)2月までの "3年弱"
『明応の政変』は、明応2年(1493)4月末〜閏4月末の "一時的な事件"
…と思われていますが
しかし実は
これらの事件の謎を解くには
"帰結" までを含めた巨視的な考察をする必要があり
そうすると
 『観応の擾乱』は14年 『明応の政変』は15年
となって
『応仁の乱』の11年と同様に、超長編ストーリーとなるのです。


は?? そんな話聞いた事ねーよ!!
と思われるでしょうが
『観応の擾乱』は3年弱、『明応の政変』はほんの1か月
と考えるのは
『応仁の乱』を、洛中戦の激しかった最初の2年だけ
と考えるのと同じ事で
この誤解があったからこそ
これまで全体像を把握出来なかったのであり
10年を超える長編ストーリーだったという事に気付けば
理論的解明、歴史的意味付けが面白い様に捗るのです。
(※ただ、『明応の政変』は
 巨視的な考察が進みつつあるかなぁ…と思う。)




という訳で
室町ミステリーの解明に貢献すべく立ち上がった三兄弟!!
参ります。

その一、『観応の擾乱』(the Kan-no days)は…


室町ロゴ


これはちょっとネタバレ感満載で
現時点では説明の仕様がありません。

…って、いきなり役立たず宣言ですまんw
でも、最後にはきっと分かって頂けると思います
これが――― どれほど悲しい物語であるのかを。



ま、でも完全放置はプレイが過ぎるので
概略だけ説明しておきますと
"the westerly sky" とは、直訳すれば「西の方の空」ですが
これは「西天」を私が勝手に英訳したものです。
(※読み方は、「さいてん」または「せいてん」
 私は後者で読んでいますが…どっちが普通だろ?)

「西天」とは「西の空」「天竺(てんじく)、インド」の事で
仏教の誕生した地
或いは禅宗においては
始祖の達磨大師(だるまだいし)がやって来た方角
という事で、極めて深い意味を持ちます。


達磨大師は、南インドに生まれ
教えを広める為に
6世紀初頭、海路で大陸のに、その後さらにに渡りました。
それほどの遥か西から祖師達磨大師がやって来た意味は何か?
すなわち極言すれば、禅の真意とは何か?
…を問うのが
 「祖師西来意」(そしせいらいい) (『碧巌録』第17則)
という禅語で
禅宗においては、"西" といえば即達磨大師
という感じです。(…で合ってると思う、たぶんw)

(※仏教で "西" というと、一般には
 西方十万億の仏土を隔てた場所にあるという
 西方浄土=極楽浄土を思い浮かべるかも知れませんが
 その西とはちょっと違います。)



という訳で、なぜ『観応』のロゴが
"the westerly sky" =「西天」かと言うと
これは…
 「尊氏が仰ぎ続けていた
とだけ、今は言っておきます。
(※この「西天」も、一次史料的根拠のあるフレーズです。)


尊氏は信仰心が厚い将軍で、夢窓国師に深く帰依していましたから
禅宗の祖師達磨大師を敬っていた事は言うまでもありませんが
しかし、尊氏にとっての「西天」
憧れと共に、苦しいくらい深く重い意味を持った空だったのです。



さて、イラストは
フレーズが尊氏目線なので、絵の方も…てな訳で
タレ耳犬にしてみました。
てゆーか、なんでついてんだよ!!
とか思うでしょうが
尊氏の麾下(きか。旗下)の軍勢には…

平一揆
 (平氏の武士で構成、具足から笠標(かさじるし)まで赤一色
白旗一揆
 (上野国〜武蔵国北部の国人一揆、旗と笠標と馬も白系
御所一揆
 (足利一門と外様大名の部隊、二つ引両を掲げて将軍尊氏守護



などの各種一揆が結成されていたのですが
その中に意味不明な一揆があった、それが―――「花一揆」


饗庭命鶴丸(あえば みょうづるまる)を大将として
色とりどり、思い思いのを着た(つまり超オシャレした)
若武者たち
薄紅の笠標と、兜の真向(前面)には梅花の枝を挿していたもんだから
四方(よも)の風が吹くたびに、鎧の袖が香った…
とかいう魅惑(?)の一揆ですが
いかんせん、みんな若かったもんだから
思慮も無く(勢いだけで)敵にとっ懸かっていったら
新田義興(新田義貞の子)の軍勢に蹴散らされて
一返しも返さず終了した…ってゆう。 ちーん。

(※以上『太平記』情報。
 観応3年(1352)閏2月のお話。)



って、意味ねぇ一揆作ってんじゃねーよwwww


ちなみにこの時
新田義興(よしおき)は、花一揆の対戦相手に
同じく若武者の一揆児玉党(こだまとう)を差し向けたのですが
これはなぜかと言うと…
児玉党 "団扇" の紋の旗だったので
 「…か。 面白い、が吹けば散るだろう」(※やや訳)
と思ったから。
つまり団扇(うちわ)でぱたぱたしてみた、ってゆう。


って、同じ若者に負けてんじゃねぇよwwwwww
 (そんな事より、新田の勝因がギャグだったとか…衝撃。)


これは突っ込まずにはいられないコーヒー吹かすエピソード
という事で、つけてみました。
尊氏さん、なんて風流なの。


(※ちなみに、かの有名な饗庭命鶴丸については
 色々語る事がありますので、また後日。
 単なる尊氏の寵臣…と思われていますが
 思った以上に鍵を握るスペシャルなキャラです。
 (花一揆ではずっこけましたが
  命鶴は本当はかなり出来る子です。)
 『太平記』によると、この時(数え)18歳
 「容貌当代無双の児」だそうです。 なんだそれww)





その二、『応仁の乱』(the O-nin days)の核心を一言で
と言ったら…


室町ロゴ


となるでしょうか。
一般的な『応仁の乱』認識では、有り得ないフレーズですが
本サイトと当ブログを一通り読んでくれた方なら
まさにこれ認定してくれると思います。

西軍なんて、義視義政も大好きですからね
「We love 公方様s」ですよ。
大内政弘が大軍率いて上洛した理由も
西軍が、本気で東軍をぶっ潰さなかった理由も
大乱が長引いた理由も
これですべて説明出来る!! ってゆう。


ちなみに、イラストはねずみです。
まあ、あんま理由はありませんが
ちゅうちゅう、って感じでしょうか。





その三、『明応の政変』(the Mei-o days)は…これしかない!!


室町ロゴ


"We'll be back !!"(きっと戻る)です。

主語の We は
主役こそ、11代目足利義材畠山尚順(畠山政長の嫡男)ですが
広く "義材親衛軍" を意味し
周防長門の大内義興や、能登の畠山義元
義材と共に諸国を旅して苦難を分かち合った近習奉公衆
伊勢家で義材の為に奔走した隠れた重要人物伊勢貞仍
それから、上洛こそしていないものの
水面下で義材を支持し続けた越前の朝倉貞景
などなどなど…

公家の中には、義材の元に参じた者もいますが
京都にいながら密かに通じ
義材の帰りを待ち続けた者たちもいます。

それぞれの地にあった彼らの
を一つに繋いでいた合言葉が…「きっと、帰って来る」


京都奪還へ向けて、人々の期待を一身に受けていたのが
政変で父政長を亡くした畠山尚順(ひさのぶ)当時19歳(満17歳)。
京都の公家から
その戦いぶりを「神慮」(神の御心)と讃えられたほどの人物ですが
その尚順に寄せられた人々の祈りとは…

 時節をも 待ちて世にまた 尾張殿 出でて喜悦の 眉ぞ開かん

(※「尾張殿」畠山尚順のこと。
 「喜悦(きえつ)の眉を開く」は、運を開く、幸運を掴む
 といった意味。 出典は同じく『金言和歌集』)


つまり―――「Come back 尚順 !!」


(※畠山尚順英雄ぶりについては
 当ブログ「畠山義就(その5)」の上から3分の2辺り〜
 『明応の政変』の先走り解説も御覧下さい。)



そしてもう一つ、『金言和歌集』より

天下の政道が、先の御代の如く
道を道に正しく成敗されて、諸国が相おさまり
安全無為に帰すようにとの願いを歌にして――― (※以上詞書、訳)

 引き返し 御代の政道 正しくて 行き来安かれ 四方(よも)の国々


…という訳で、「きっと戻る」の言葉には
義材たちの「京都に戻る」という決意
道を誤った世を「かつての正しい世に戻したい」願う心
二つの意味を込めてあります。


(※ちなみに、"We'll be back." は一歩間違えると
  (サイトの)メンテナンス中です! とか
  (番組の途中ですが)ここでCMです!
 とかいうズコー!!な意味になってしまうのですが
 まあ… ある意味合ってる。  でも15年て…。 )




ところで
このフレーズと翼と「二つ引両」でロゴを作ろう…とは
かなり以前から考えていて
誰も覚えてないと思いますが、開設当初の本サイトの背景画像
大きく広げた二筋の曲線を描いていたのはその原型で
 「義材とその仲間達が京都に舞い戻る為の
をイメージしていました。
…それが、やっと形になったと思ったら
なんかちんまいクマになってしまうとは…


ってゆうか、なんだこのぬるいクマは!!
放浪野生児義材尚順の闘志が伝わってこないよ!!
…との不満が聞こえて来た気がしたので
 (ちなみに、二人とも元超絶ボンボン
もっととがったバージョン作ってみました。


室町ロゴ


BATタイプです。 ワルそう!!…でもないな
「二つ引両」の可愛さが破壊力でか過ぎて―――ワルくならない!!

さすが、正義ですね。

期せずして、冒頭の三段論法を証明してしまいましたが
まあでも、ちょっとロックな感じにはなったと思います。



以上、歴史の真相を叫ぶ「三応兄弟」でした。
(最後だけ双子です。)




ま、なんだかんだ言っても
この「明応世代」が本サイトの主役ですので
クマをデフォルトの室町キャラにして
どうでもいいんですが一応「むろまくま」と命名し
 「室町とは何か?」
をテーマに、最後にグランドロゴを作成しました。

"the prayers of MUROMACHI"(室町の祈り)です。


室町ロゴ


天下泰平の為に生まれ、天下泰平を祈り続けた幕府
この紛れも無い史実フレーズは
創始者である "二人の将軍" の一生に
深く刻み込まれています。




さて、まだもう少し派生キャラを作ったので
夏休みの自由研究の発表は次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 16:26| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年09月18日

夏休みの宿題(その3)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
…という訳で
夏休みの宿題 "第3弾"「室町ロゴ」の続きです。


先ず初めは
本当は前回の「sunrise 三兄弟」と一緒に紹介したかったロゴです。


「sunrise 三兄弟」は基本的に "京都" の幕府を基準としたロゴですが
室町幕府にはもう一つの重要拠点――― "鎌倉" があります。


京都の幕府が
"室町殿"(将軍) "管領" を軸に構成されるのと同様に
"鎌倉殿"(=鎌倉公方) "関東管領" で構成されるのが
「鎌倉」(=鎌倉府)で
室町幕府の一翼として東国を統治していました。
(※なお、現在の鎌倉公方・鎌倉府という呼称は学術上のもので
 当時は一般的ではありません。)
鎌倉についてはこれまで…

本サイト『2-4』「室町幕府の仕組み」
『2-5』「鎌倉のこと」(※最後の方に、2015.5.29追記少々あり)
『2-6』「それは東国の渚から」(『享徳の乱』)
『2-10』「ところで、東のあいつらは」(『応仁の乱』時期の鎌倉)

などで断片的に語って来ましたが
室町の歴史というのは基本、京都を中心に記述されるものなので
鎌倉はどうしても実態が見え難い存在ではあります。
(というか、根本的な問題として
 京都は、家業として日記をつける公家のお蔭で
 一次史料的にとっても恵まれている。)


なので、歴史学上の位置付けとしては
京都の "いち地方機関" …というかモブキャラ
みたいな空気が無きにしも非ずだったり
また一方で、逆に京都に対する東国の独立性を強調する見方もあるようですが
しかし―――
どちらにしろそれらは、現代人の主観的イメージでしかなく
真実というのは、当時の人々の認識の中にあるのであって
その認識は何かと探れば、それを "形成していたもの" の存在に行き着くのですが
いわば根源たるそれとは何かと言うと…
何かと言うと…
室町における「鎌倉」の "始まり" を作った
尊氏直義に他ならないのです。  Σ(゚Д゚ ) …!!!


実は、室町の「鎌倉」というのは
"統治機構の一端" という単純にシステムとして作り出されたものではなく
(あるいは、自然発生的に形成されたものでもなく)
初代将軍である尊氏直義意志が深く介在する…
というかむしろ
 二人の意志そのものとして誕生した
と言っても過言ではない存在だったのです。

…これは、尊氏直義の対立的なものではなく
 むしろその逆で、二人の祈り願い誓いと言えるものです。)

…という事を
ここ最近『観応の擾乱』の真相究明に没頭する過程で知って
わりとマジで震えが来ましたw


(※正確に言うと、『観応の擾乱』"以前" の鎌倉は
 純粋に地方統治機関だったのですが
 (↑この十数年間の鎌倉の主は、のちに京都の将軍となる
  2代目足利義詮(尊氏の実子で、幼少〜20歳の時期。
  なので、実質的に権力を振るっていた訳ではない))

 しかし、『観応の擾乱』を境に "特別な意味" が付加され
 (潜在的な意味で)生まれ変わる事になる、という意味です。
 (↑これ以降の鎌倉の主は
  足利基氏(義詮の同母弟で、当時13歳)とその子孫

 ちなみに…
 一般には、『観応の擾乱』を境に
  「(それまで直義の影響下にあった)鎌倉
   尊氏によって直義派一掃されて
   完全なる尊氏派の勢力圏として生まれ変わった」

 という解釈が主流ですが
 この見方が実は誤解で
 一見表面的にはそう見える、というだけだったのです。)



この「鎌倉」の特殊性
(観応期の)誕生時の一時的なもので終わる事はなく
その後も代々、東国武士を中心に受け継がれて行ったようです。
(これは、今川了俊の手記『難太平記』
 ある東国武士の回想録『源威集』から読み取れる
 "暗黙の共有認識"(…だったらしい)なのですが
 ただ、表には出さず行間に含ませる書き方をしているので
 かなり分かりづらいw
 でも、謎に包まれた『源威集』の "真の執筆意図" にも直結する
 極めて重要なポイントです。)


鎌倉京都の関係というのは、一触即発の事態に陥ることが
当初から…
3代目義満と、鎌倉2代目氏満および3代目満兼
4代目義持と、鎌倉4代目持氏
6代目義教と、同じく鎌倉4代目持氏
8代目義政と、鎌倉5代目成氏

…と
繰り返されて来たのが特徴ですが
これも、単なる権力争いではないある種の "因果" の中に
彼らが輪廻を続けていただけ…なのかも知れない―――
という話は、今はこの辺で。



ま、鎌倉の詳細(というか正体)は『観応の擾乱』の真相そのものでもあるので
今後の解説で明らかにしていく事になりますが、しかし…
 鎌倉は、スペシャル重要である」
という事を知ってしまったからにはロゴを作成しない訳には行かない!


という訳で
京都の室町三時代を象徴する「sunrise 三兄弟」従兄弟
…という設定で
"the KAMAKURA days of MUROMACHI"(室町の鎌倉な日々)
です。


室町ロゴ


"the another sunrise" とは
そのまま読めば「もう一人の sunrise 三兄弟」
ああ、ふーん従兄弟だからね… で終わってしまうフレーズですが
上述のように、鎌倉は "スペシャル" なのであって
 (だから蝶ネクタイがついてる。 ってひねりねぇ…)
このフレーズには非常に深い意味があります。



ところで、実は初めは
"the Guardian of MUROMACHI" …つまり
 「室町を守りし者」(or 室町の守護者
にしようかとも考えていました。

これは、今川了俊の手記『難太平記』の記述によるもので
『観応の擾乱』真っ只中、当時13歳の足利基氏
初代鎌倉公方として坂東八ヶ国を任される事になった時の話で
鎌倉について語った尊氏直義の言葉として
 日本国の守護たるべし」「(京都の)御代々の守りたれ」
などと記されているのです。


(※足利基氏(もとうじ)は、尊氏の実子ですが
 "幼少期" から直義の養子として育てられた人物です。
 …ちなみに以前は
  『観応の擾乱』の頃、"名目上" 直義の養子になった」
 と考えられて来ましたが
 実はそうではなかった、という事が
 前々々回のブログ「暑中御見舞い申し上げます」で紹介した文献
 【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
 で明らかにされています。)


まあ、こうして一部分だけ切り取っても
本来の正確な意図(微妙なニュアンス)を読み取る事は出来ませんし
そもそも、前後の文脈があったところで
『難太平記』のこの部分自体が
非常に難解(真意が掴み難い、何通りにも意味が取れる、主語が謎)
私が目にしたいくつかの文献では(※ただし、言及している文献自体が少ない)
研究者によって印象がまちまち
というかそもそも
未だ定まった解釈が存在していない、と言っていいかと。


というのも、実は
(現代の研究による)これまでの『観応の擾乱』の解釈とは
か な り 相 容 れ な い 内 容 なので
解釈の仕様がなくて見事にスルーされている…
という印象w
(言及されている場合でも、全体を包括的に…ではなく
 一文や一部分を参考までに…という感じで
 史実としてあまり重視されていない模様。)


しかし、直義関連の記述とあらば意地でも解読せずにはいられない私が
とことん食い下がってみたところ
どうやら、この『難太平記』の記述こそまさしく
当時を(じか)に知っている人物(=今川了俊)が
真相をありのままに、しかもかなり正確に、そして詳細に伝えている
という事実が判明しました。  Σ(゚Д゚ ) …!!!!!

(※『難太平記』だけ読んでても
 文言の解釈は主観的な妄想にしかならないので
 他史料の分析から導かれる説と照合しながら
 整合性が取れる解釈が可能かどうか、という試行錯誤を繰り返し
 結果、『難太平記』の記述が
 他史料の内容と相互に補強し得るものである事と
 ほぼ一義的に意味が取れる事を、客観的に確認しました。)

というか…
もし了俊がこの手記を残してくれなかったら
『観応の擾乱』の謎は永久に解けなかったかも…
(そして、尊氏直義の関係は永遠に誤解されたままだったかも)
というくらいのミラクル貴重な証言です。
なんか放置されていたから
 石ころかと思ってとっ込んだら、宝の山にダイブしていたでござる
です。



(※ちなみに、『難太平記』という表題は
 筆者の今川了俊自身が命名したものではなく
 この手記の中に
  『太平記』について語っている(難じている)部分
 があったので、後世の人間が便宜的に名付けたものであって
 『太平記』関連の記述はあくまで一部分です。
 この手記はもともと
 今川了俊(※了俊は入道後の法名、本名は今川貞世(さだよ))
 晩年に一生を振り返り、子孫に伝えるべき事柄を書き留めたもので
 その内容は、一族の事から幕府内で起きた事件の真相まで多岐に渡りますが
 やはり、了俊の若かりし頃
 つまり尊氏直義がいた時代の話が、特別異彩を放っている…
 と言うかなんか、のように輝いてる…(ような気がする。)

 (例えば、源義家足利家時「御置文」の話や
  尊氏直義誕生時の産湯の山鳩(←↑当ブログ「源八幡太郎義家」
  元弘3年上洛時の奇瑞未来を告げて夢の如く去って行った女人
  直義「清き武者」の話(←当ブログ「正月奉納連画 第三弾」
  尊氏直義に付き従った家臣達の、奮闘の日々
  そして『観応の擾乱』の秘話―――などなど。
  ちなみに、了俊は正中2年(1325)生まれなので
  幕府誕生時は12歳、『観応の擾乱』当初は25歳です。)


 『難太平記』が記されたのは
 応永9年(1402)了俊78歳の時ですが
 了俊は文武に卓越したとんでもなくスペックの高い武将なので
 記憶力も相当に良かった模様。
 つまり―――
 内容の信憑性が極めて高いのはもちろん
 巧妙に(時に意図的に)真実が仕込まれているので
 脳みそ溶けるくらい、全力で読み込む必要がある…かも。)


…これはなぜかというと
 了俊は、律儀なまでに長幼の序君臣の義を守る
 「弓矢の道」一徹!!…みたいな武士だったのですが
 皮肉な事にそれゆえ―――
 今川家の相続の件では、父範国に期待され一家の事を任されながらも
 兄の子を立てて家督を譲ったのに
 なぜか逆恨みで讒言される目に遭い
 九州探題の件では、身を粉にして無理ゲー状態の九州を平定し
 将軍義満に忠節を尽くたのに
 なんか知らんけど疑われた上終わればポイ、で
 『応永の乱』では、同じく○満からいきなり謀反を疑われて万事休す
 …という、めっちゃ不遇な人生後半だったので
 言ったら激ヤバな事ばっかなのは知ってるんだけど
 それは分かってるんだけど、どうしても―――

  本当の事を書き残さないと、気が済まなかったからw

 (だから『難太平記』は、正直者が泣きを見る理不尽な世への
  了俊の愚痴…じゃなくてもどかしさに満ち溢れている。)
 なんて世の中は冷たいんだろうね、了俊… (´;ω;`)
 でもそのお蔭で、『観応の擾乱』の迷宮が攻略出来たよw
 尊氏直義にとっては超時間差時空忠臣だから、元気出して!!
 ……
 それにしても『難太平記』を読んでいると
 尊氏直義の時代の幻のような輝かしさとは裏腹に
 二人亡き後の世界の
 「不道不義無礼」(※原文)の輩が罷り通る黒さには
 衆生を救いに来たが去って、欲に溢れた人の世に戻ってしまった
 …ように思えて仕方ない。
 うーん。  Σ(゚Д゚ ) …ハッ!!!!!!! )





それはそうと…
この記述に従えば
"the Guardian of MUROMACHI"(=室町の守護者)てゆうか
"the Guardian of JAPAN"(=日本の守護者)じゃん!
何それ、どういう事!!
軽く目ん玉飛び出るんですけどっ!!
…とか思われるかも知れませんが
にも拘わらず、なぜこのフレーズが却下されたかと言うと
実はよくよく読むと――― もっとすごいからです。




上記の言葉は、尊氏直義のものですが
直義亡き後の尊氏の言葉(おそらく遺言としての言葉)の部分を採用し
その意訳として
"the another sunrise"(もう一つの日の出)
としました。
あえて "the" をつけたのはもちろん "スペシャル" だからです。


(※つまり、直義の死を境に「尊氏の心境変化があった」
 という事です。
 (…ただし正確に言うと
  直義を失った直後と、尊氏が遺言を残す頃とでは
  また少し変化があります。(←とある戦の結果による))

 みなさんも薄々気付かれて来たかと思いますが…
 従来、「尊氏は主導権争いの末、直義を毒殺した」
 と考えられて来たので、問題にすらされなかった論点
  尊氏にとって、直義の死はどう受け止められたか?」
 という事ですが、これは―――
 (※ショックを受けたくない人はスルーして下さい↓
  見え難い場合は反転を)

  世界が音を立てて崩れるほどの絶望

 だったと言えるでしょう。
 なぜそう推測出来るのか?…というと
 ここに、前回の「西天」の真意が絡んで来るのです。)




ではその "こころ" は…というと
これは、一見かなりアクロバットな事になるので心して下さい。
"the another sunrise" とは詰まるところ…


 "the MUROMACHI compatible"(=室町互換機)


という意味なのです!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?



もちろん、別にパソコンの話をしているのではなくて。
京都と互換性のある "sunrise"
それが「鎌倉」だと言うことです。

なぜそういう事になったのか?
…というのがまさしく
『観応の擾乱』とは如何なる事件だったのか?
擾乱の最中(さなか)、尊氏何を考え何を思っていたのか?
…というに対する答えとなるので
お楽しみに。





室町時代の「鎌倉」については
京都に比べ遅れをとっていた研究が近年、一気に加速しつつあって
喜ばしい(というかホント助かるw)のですが
その位置付け役割を定義するには
統治機関としての制度的な性格だけでなく
「鎌倉」の在り方に最も強い影響を及ぼしたもの―――
すなわち
当時の人々の意識の中に脈々と生き続けた "初代将軍の意志"
探る必要があります。



鎌倉にしろ京都にしろ
というか "室町そのもの" が、遥か後代まで

 創始者である尊氏直義
 不思議なほど強く規定された幕府である


というのが、『観応の擾乱』の探究を通して私が知った
「どう理解したらいいのかまるで分からん事実」ですが
これはもちろん
表面的に "意識してやっていた" という意味ではなく
(儀礼的には(つまり表面的な部分では)ほとんど
 3代目義満の先例が踏襲されています)
そうではなくて
誰もが気付かぬ内に "その夢の中に流転していた" ようなもので
そのような観点に立ち "本質" で室町時代の歴史を解読し直すと
6代目義教の生涯や『応仁の乱』『明応の政変』もまた
繰り返された輪廻 "一章" でしかない―――
…おっと
オカルト妄想はこの辺に、と言いたいとこですが
これがまた、史料的裏付けのある大真面目な話だったりするので
もう何がなんだかwww
(どういう事かと言うと
 輪廻が繰り返される事を知っていた人物が… Σ(゚Д゚ ) …ハッ!!!!!!!!! )


私が前々回「夏休みの宿題(その1)」
「室町は思った以上に "本物" 」と言ったのはまあ、そういう意味なのですが
 (つまり人智を超えている、と)
ただ、もっと重大なのは
いま仮に
 「我が七代の孫に生まれ変わって天下を取る」
と書き残した源義家「御置文」が事実だとするならば
この輪廻は "室町" に始まったものではなく
初代の二人、尊氏直義"遥か過去" から繋がる天命を受け継いでいた
という事になる訳ですが
ならばそれはどこから…と、根源を尋ねて遡ると―――
どうも、二人の一生天性の王として天下泰平に治めてから
『観応の擾乱』の悲劇に至るまで…

とある神話に喩(たと)える事が出来る、というか
その神話の焼き直しに過ぎない…

すみません、なんか頭のおかし過ぎる話になって来ましたが
でも、本当に不可思議な類似性で何がなんだかまるで分かりません。
もしかしたら、輪廻というのは地球規模で繋がっているのかも…?
だとしたら、二人の天命もまた受け継がれ
この世界のどこかに―――


あーいや、さすがに話がぶっ飛び過ぎて来た
この辺にしよう。
(それにしても、尊氏直義って一体何者… Σ(゚Д゚ )…!!!!!!!!!!! )





それでは気を取り直して
最後に、イラストについてですが
これをどうしても猫キャラにしたかったが為に
「sunrise 三兄弟」の三男がクマたぬきになってしまった、ってゆう。

では、なぜ猫かと言うと
室町時代の「鎌倉」の中心
鎌倉殿「御所」と言えば―――「浄妙寺」の東隣り!!

鎌倉「浄妙寺」については
前々々回の「暑中御見舞い申し上げます」の最後で紹介したように
その近隣には、鎌倉時代から足利家の邸宅があり
かつ足利貞氏(二人の父)の法号で、しかも直義が眠る場所でもあります。
そんな「浄妙寺」には現在…
がいっぱい住み着いてぬこぬこしているらしいw
という事で
猫にしました。 にゃー




さて、思いの外「鎌倉」の解説が長引いてしまったので
続きの派生キャラは、これまた次回に持ち越しです。



posted by 本サイト管理人 at 22:38| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年09月20日

夏休みの宿題(その4)

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
…という訳で
夏休みの宿題 "第3弾"「室町ロゴ」の続きの続きです。


さて、前回まででレギュラーメンバーは揃ったのですが
なんかこの室町ロゴシリーズ
ネタさえあれば、無限に生成出来るような気がして来てしまったので
試しにもうちょっと作ってみました。



その一、8代目足利義政の「東山文化」を象徴した
"the Higashi-yama days"(東山な日々)です。


室町ロゴ


ほんの気まぐれから
今に受け継がれる濃茶のレガシー(遺産)
うっかり残してしまった功績を讃えて
「茶」としました。
まんまです。 それ以上でもそれ以下でもありません。

(※義政濃茶の関係については
 当ブログ「茶道のあの謎」「初瓜献上」の後半
 を御覧下さい。)


ちなみに、頭に乗っているのは
「茶入」(ちゃいれ)のフタで
足のように見えるのは、足付き「茶釜」の足部分です。
(※茶入…茶(濃茶用の抹茶)を入れる陶器の小さな壷。
 茶釜…茶の湯で用いる、湯を沸かす為の釜。)


つまり、頭は「茶入」で足は「茶釜」
という、ハイブリッドな新☆クリー茶ー(※略して新茶
むろま茶幕府のどうしようもない公方よしま茶が始めたという
幻のむろま茶道(ちゃどう)を広めるべく
時空師範として茶イムマシーンで現代に来てみたら
なんか、みんな普通にむろま茶道濃茶を嗜んでいたから
 「あ、あれ? どういうこと?? よしま茶様がいっぱい…」
と、状況が把握出来なくて
ちょっとうろたえている図。

(※ちなみに、「茶道」の読みは
 現在は "さどう" が一般的ですが、元々 "ちゃどう" とも読み
 かつては後者のが通常だったようです。)

やる事がなくなってしまったので
抹茶ソフトを食べながら
しばらく東山の観光スポットをとぼとぼと歩いていたのだが
「青蓮院門跡」の前に差し掛かった所で
義教に見つかってしまい… 万事休す!?


すみません、どうでもいい小話でした。
はい、次!!





その二、室町の「本質」禅語の如くズバリ指し示す
"the quality of MUROMACHI" です。


室町ロゴ


『応仁の乱』の本質が
大後悔の果てに上陸した此岸(しがん)=「応仁のアイ乱ド」
しかもよく見たら「むー大陸」だったよ!!
どうすんだよ!!
…という説については
本サイト『2-6』「君が見ていた彼の岸は遠く…」の最後の方と
『2-8』 『2-11』の冒頭をどうぞ。

(※此岸此の岸(このきし)。「彼の岸」の対極にある
 全然解脱出来ていないこっちの世界。 …はあ。)


ただでさえ黒歴史感はんぱ無いので
せめてイラストの方は
夢と希望の冒険に満ち溢れた感じにしてみました。
…うん、だめだな。 全然反省が足りない。





その三、同じく、室町のクオリティ
ありのままに再現しました。


室町ロゴ


『応仁の乱』時の西軍
容赦無き獰猛(どうもう)については
当ブログ「畠山義就(その2)」をどうぞ。

ただし、「めし」が絡まないとやる気出しません。





さて、「室町」の象徴といえば
やはりあの御方にも登場して頂かないと
画竜点睛を欠くようで物足りない…という事で
八幡宮神紋「三つ巴」八幡大菩薩ロゴを作成してみました。

(※すみません、大菩薩ともあろう方に
 大変失礼な事している予感がしないでもありませんが
 ただ、「三つ巴」は左巴右巴も(その派生系も)
 普通に家紋として用いている武家もたくさんあるので
 室町&源氏の氏神様そろそろ復活!!「源氏元年」計画
 の一環としてどうぞお許し下さい m(_ _)m
 という訳で… )


その四室町武士界の頂点に立ち、全室町武士を統べる俺らの正義
"the justice of MUROMACHI" です。


室町ロゴ


ザ☆八幡グレート菩薩、とか何それ強そう!!(…でもないな)
慈愛に満ちている!!
(…いやせいぜい)はちみつが滋養に良さそう?


てゆうか、なんだこの可愛らしさは!!
あまりに室町が人気無いからって
ちょっと媚びはいっちゃってんじゃないのぉ〜?
…とかいう疑惑を払拭するため
もっと室町らしく
アウトローハードボイルドなバージョン作ってみました。

その五"the last-boss of MUROMACHI" です。


室町ロゴ


口が ω になりました。 ⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーーーン




ところで、なんでみつばちなのかと言うと
"はち" まん様だから…以外の何ものでもないのですが
もう一つ、取って付けた理由があって

 室町のデフォルトキャラ「むろまくま」仲良しだから!!
(というかむしろ、この為に室町のデフォキャラクマにした。)

なんというジャストフィット!!
…いや
クマは蜂蜜とか蜂の巣とか食っちゃうだろ。大好物だろ。
とか、現実的なこと言わないで下さい ><

むろまくまみつはちマン(…と、いま命名しました)から
パワーを分けてもらってるだけなんです!! ><



(ふっ…仕方ない)室町と八幡様の親密さをアピールする為に
わりと有名な
尊氏自筆&花押入り「八幡大菩薩」の神号をご紹介します。


尊氏八幡大菩薩

(※足利尊氏自筆神号(大和文華館蔵)
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究(写真編)』
  (国書刊行会)2001】…の、p.137より引用 )



絹本に書かれた文字なので、いつもとちょっと筆勢が違いますがw
これはかつて、(のぼり)かとして
戦場に翻っていたものなのではないか?…と考えられています。
(それが江戸時代中頃に、軸物として装幀(そうてい)され
 現在に至るらしい。)



尊氏への八幡様の御加護
どう見ても本物…ってかマジカル武運過ぎて意味不明
…というのは
尊氏の戦歴が示す歴史的事実ですが
現代科学をもってしても、未だ解明されていない大いなる謎です。




―― …折角なので、ちょっとここで余談 ―――――――――


武運マジカル…と言っても
尊氏が唯一ボロ負けした戦として
建武3年(1336)年初の京都&兵庫戦がある訳で
その結果、九州転がり込むちょっと退避する
という予想外の展開を迎える事になるのですが
しかし実は…
尊氏はここで、自らの人生の正体を改めて知る(再認識する)
という重大な経験をします。
(↑さらっと流してしまいましたが、ここめちゃんこ重要です。)
つまり結果的に見れば…

 「尊氏九州に行かなければならなかった」
  極言すれば、
 尊氏九州に呼ばれた」

と言い切る事が出来るので(アホかと思われそうですが本当ですw)
この京都&兵庫戦の敗退は
単なる負けではなく「天のシナリオ」
その他の戦でも、一旦本拠地を退いて敵を誘い込んだ後反撃
という戦略的後退が何度かあるだけで
従って、尊氏は生涯 "連戦連勝" だったと言っていいでしょう。

……。
てゆうか
 『観応の擾乱』の最中も、一回直義に完敗してんじゃん
あ、気付いてしまいましたか、フッフッフ…
(※観応元年(1350)冬〜観応2年(1351)2月にかけての
 尊氏方 vs 直義方の大合戦の事。)

実はあの戦こそ
見た目はすっとぼけたテラワロス将軍、しかしその脳内では
一人遥か未来を先読みしてすべてを手中にしてしまう
「未来に生きるワロス仮面将軍」の本領が発揮された
奇蹟の大イリュージョンだったのです!! (↓にちょっと補足)

 (;゚Д゚);゚Д゚);゚Д゚) な、なんとぉぉぉーーーーー!!?

あの戦については、尊氏の行動が謎過ぎ
実は未だに、誰も真相に踏み込んでいない……
一応表層的に
 直義が "勝ち"、尊氏が "負け"
  んでもって直義は、尊氏を(なぜか)超寛大に許した」

という理解で放置されている……
のが現状だったりするのですが
しかし、ある公家の感想に
 「今度静謐非凡慮之所測也」(『園太暦』観応2年3月6日)
 (今度の戦の落着ぶり…凡慮じゃない気がす。)

とあるように
やっぱりあの戦は、"ただの戦じゃない" のです。
 
今でさえ、南北朝好きの間では
尊氏人気は相当高い(一番?)ですが(ただし直義を除く。私の独断で)
この尊氏の真の顔を知ったら
2位を億万光年単位で引き離す事態が発生してしまうと思います。
だって、日本史上ひっくるめても
こんな有能軍師数人分の能力値持った武将、いないですもん。
しかも、人に優しく金銭欲無く権威に執着無いとか…仏かよww
…ただし、あの戦では
尊氏自身は「 "ある人物" に助けられた」と思っていたようです。
その人物とは――― (´;ω;`)




…上の補足) (2016.8.16 わりとかなり論調を訂正)

あの戦の最後についてですが…
とある私的な独占欲と、とある忘恩の慢心から
謀略で『観応の擾乱』を引き起こし
政敵を殺害するという非道な手段で野心の実現に猛進した
いわば中心的首謀者(=高○直)が、敗北の末出家
しかしその直後、一族と共に誅殺される結果を迎えるのですが
ただ、その結果までを含めた "全て" が尊氏意図的な策略だった
…というのは、少し違うかと思います。

(※出家の説得をしたのは尊氏だろうなとは思いますが。
 (ただしその時点で、滅亡の結果が避けられないだろう事も
  分かっていたと思いますが…)
 ちなみに、これとは逆に
 この首謀者(=高師○)と尊氏は完全な共謀者
 「この戦で、尊氏は自派の最有力大名を失って苦境に立たされた」
 との説も有りますが(というかたぶん、これが主流)
 しかし、実はそれが一番矛盾が多い解釈だったりする。)

まあこの結果は
自ら犯した罪業が返って来ただけの全くの自業自得
とにかく多くの武士達の反感を買っていた事実からも
 (あの戦で、直義勢が大勝したのは↑このため)
どうあがいても避けられない結末…だったと言えますが
しかし尊氏は―――
そのような道を誤った者でさえ、の意志で裁きを決するのではなく
の意志に委ねる事で最終的な結論とする、という考えの持ち主だったようです。


…と言うのも、尊氏の言動を見ていると
どうにも悪い奴等に優し過ぎる…と
イラっとしてるのは私だけではないはず、と思うのですがw
 (私は、道理にもとる奴等は問答無用で天誅!派です)
しかしこれは決して
甘いとか、我関せずの放任&無責任主義ではなく
"ある事" を現実として知っていた尊氏
人の運命人智でどうにか出来るものではない事を悟っていて、それと同時に
人を罰する事による憎しみの連鎖を絶ちたいと、切実に願っていたようなのです。

(※建武3年(1336)12月に、一旦和睦した後醍醐天皇が密かに吉野に逃れた際
 周囲が取り乱す中、尊氏だけは「御進退叡慮に任せて自然と落居するのがいい。
 の定める所であって、人の浅智を挟むべきものではない」
 と語り、まさに天下の将軍たる器の人だと人々を感心させた
 という有名な『梅松論』のエピソードも、どうやら根拠があるようです。)



では、その "ある事" とは―――

これは、私も今までそういう考え方は持っていても
現実としては信じていなかった事なので、戸惑っているのですが…
うーん…。
しかし尊氏の不可思議は、その多くが現実となっている
というのもまた、一次史料が示す事実な訳で…

おっと、核心に切り込み過ぎた、今日の所はこの辺で。


―――終わり――― ⊂二二二( ^ω^)二⊃ ブーーーン ―――――




という事で、不思議将軍尊氏にパワーを与えてくれる
正義のみつはちマンでした。




…と、ここでふと思いついた。
(まあ、ここまでも大概思いつきですが。)
原点に帰って、もっと素直にノーマルな「室町」キャラを作ろう!
という訳で
その六、「むろまくま」の「室町くん」が出来ました!!


室町くん


って、なんかさみしそうwwwww

室町くんは、かつて天下の為に
みんなの幸せを第一に考えて、一生懸命この国を治めた
とっても優しいむろまくまなのですが
江戸時代が終わる頃、突然いじめられ始め
何も悪い事して無いのに石ころとかいっぱい投げられて
たくさんたくさん悪口言われて
おうち(…みたいな石の塔)もボコボコにされて
にいられなくなってしまったので
森の奥に引き篭もってしまったのでした。


…って何それ、可哀相すぎる!!!!!


てゆうか、これ実話だからシャレにならん。
私は、これだけ日本史に深く突っ込んでいる事からも分かる通り
自分の国は好きだし、良い国になって欲しいと願う
ごく普通の日本人ですが、その私から見ても
戦前の日本の
自国に対する価値観・歴史観の異常性(間違った歴史への盲信性)は
極めて深刻です。

別に過去の事なんだからいいじゃん!とかいう
無責任な考え方もあるかも知れませんが
この盲信性は、恐ろしい事に未だに根絶していませんし
一度本気で向き合わないと、必ずまた再発します。
 (というか、以下の理由で根本的な完治が不可能なので。)
なんたって、日本人の良心に巣食って
それを腐らせる(=間違った方向一気に増殖させる)という
質(たち)の悪過ぎる病気なので
正義感が強く正しい事をしたいと望む心が強い人ほど
強烈に狂って暴走してしまう、ってゆう。orz

(つまり、良心病巣になるという事。だから本当に恐い… )



あああ…
ちょっと嫌な話になって来てしまったのでこの辺でw
ま、とにかく
道義的に正しい事をした者を貶めて
それと全く逆の歴史で国を作り変えてしまった訳なので
価値観ひっくり返さんと、ってゆう。
(逆賊逆賊と散々ヒステリックに叩かれましたが
 実際は、尊氏直義朝家に対する姿勢
 そして光厳上皇との信頼関係は本当に素晴らしくて
 涙が出るほどなんですよ。
 つまり… なんかもう色々と\(^o^)/オワテル )



ちなみに、室町初代の尊氏直義の考え方の特徴は
 (天下)の幸せと共に、国民一人一人の幸せを切に願っていた
という事。
(つまり「個人の幸福が第一で国はどうなってもいい」とか
 「国の為なら国民は犠牲になって当然」とか言う思想とは
 比較にならない真っ当な精神です。)


もちろんこれは、現存文書が証明する史実です。

史上稀に見る驚異の善根「安国寺・利生塔」については
これから頻繁に語る事になると思いますので、お楽しみに。





長い間いじめられ続けて
今ではすっかりも枯れ果ててしまった室町くんですが
でも、森の奥ではみつはちマンと一緒に暮らしているので
少しずつ、心の傷は癒えているようです。

ちなみに、ご存知のように(→当ブログ「南無!八幡大菩薩!!」
みつはちマンも、おうちをボコボコに大破壊されて
大事な仏像を、もいだり燃やしたりいっぱい酷い事されて
これまでの千年以上の歴史を捨てさせられて
名前まで変えさせられる…という凄惨な目に遭っています。
ああもう… (´;ω;`)

かつては、日本全国を飛び回って
みんなに幸せの「みつはち」(←みつはちマンが集めたはちみつ
を届けていたみつはちマン
今では、森の奥の室町くんのおうちの隣に
たった一つのおうちを残すだけで
あとはみんな、どこかへ消えてしまいました。
いつかまた
日本中の野山をみつはちマンが駆けめぐる日が
来ることはあるのでしょうか。



ついでに…
江戸以前の歴史たち(鎌倉くんとか平安くんとか他いろいろ)は
本当の日本の歴史を共有する仲間として
室町くんが間違っていない事を良く知っているので
みんな心配しているみたい。

街でお祭りがある時とか、みんなで公園で遊ぶ時とか
いつも室町くんをさそってみるんだけど
室町くんは、なかなか森の奥から出て来ません。
どうやら
あの時、離れ離れになってしまったお友達の事が、今も忘れられずにいて
自分だけ幸せになっちゃいけないって思ってるみたい。

そのお友達とは―――



…とか史実妄想し出すと
涙がに!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)ゴォォォーーー!!!!!!



という訳で、このネタで4コマでも展開しようかと
今マジで考え中です。
(まだ人間キャラの史実妄想物語も始まってないというのに… )




あーさて
そろそろ方向性がおかしくなって来たので
我に帰りたいと思います。
えっと、夏休みの宿題の発表をしていたのだった…ような気が…

ところで、夏といえば―――金魚です。
と思って
色々試行錯誤を続けていたら、室町金魚が出来ました。


その七、魚マニアの間でも目撃情報をほとんど聞かない希少種
幻の「むろま珍魚」です!!


むろま珍魚


わーい!!

って、本当にすみません。
でも折角なので、夏の思い出
みなさんに金魚すくいでも楽しんでもらおうかと思いまして
会場をご用意しました。

という訳で
「むろま珍魚すくい」出来たよー  わーい!!
ゆっくりしてってね!!


むろま珍魚すくい


なんか全然希少種でもなさそうですが…まあいいか。

ちなみに、背景の水面ぶくぶく
前々々回の「夏休みの宿題(その1)」で紹介した
ハイクオリティなブラシを駆使して描いたものであって
私の画力が急に上がった訳では全く以てありませんので、ご注意下さい。

ちょっと前にリメイクした画像ですが
当ブログ「山名宗全と細川勝元」の4枚目の "おまけ" も
背景の稲妻に、同じ人のブラシを使っているのですが
ホント、このクオリティどうなのwww
描いてて笑いが込み上げてくる凄さですよ。
あー、ありがてぇありがてぇ m(_ _)m ペコペコ




という訳で、まだ夏の余韻の残るうちに
宿題提出を終える事が出来ました。
ハイパークオリティブラシのお蔭で
みなさんにも珍魚すくいをいっぱい楽しんでもらえたと思うし
いい夏だっと思います。


最後に、8月中に出しそびれてしまった画像で
夏の終わりとしたいと思います。


観応夏日記


―――『観応夏日記』おしまい。



posted by 本サイト管理人 at 16:03| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2015年09月27日

十五夜、秋の心

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
お彼岸も過ぎ、いよいよ本格的にが始まりましたので
私も心を入れ替えて、いざ本題へ突入!!
…と思ったのですが
今夜は「十五夜」ですので、ちょっと寄り道して
を思いながら歴史のレジスタンス酒場、バーボン室町
駄弁(だべ)る事にしました。
(…要するに、雑談です。)




さて、その前に一つお知らせです。
前々々回の「夏休みの宿題(その2)」で紹介した
「sunrise 三兄弟」の三男の事なのですが
当初 "猫だぬき"(猫耳にたぬきしっぽ)だったイラストを
"クマたぬき"(クマ耳にたぬきしっぽ)に変更しました。
(それに伴い、イラストの解説も少々訂正しました。)


というのも…
ネット上の海外のミーム的キャラクター
「ポーランドボール」というものが有るのですが
これは、ボール状の各国の国旗に目が付いたキャラで
それぞれの国のボールが
色々と風刺的なやり取りをしているイラスト漫画(もちろん英語)に
用いられているそうです。
主に海外の画像掲示板などで広まっているそうですが
私は過去に一回だけ
日本の掲示板に貼られていたのを一枚、ちらっと見かけた記憶があるだけで
その時は名前も知りませんでした。


それがですよ、上記のブログ記事をUPした後に偶然
たまたま何となく開いた掲示板のスレで
この絵が、海外のネットで広まっているキャラで
名前も付いてるという事を知って
「ふーん、そうなんだ〜」と思いながら何枚か画像を見ていたら
日本のボールが、基本は白丸赤い日の丸が描かれたものなのですが
なんと、しっぽがついたバージョンがある
(たぶん、モナーとかの猫キャラが元でしょうか?)
という事を知り、衝撃を受けました。

なぜって、私が描いた "猫だぬき" と
シルエットがそっくりだったからwww
もちろん、も全然違うのですが
誰が見ても似てる…という事で
急遽、三男のイラストを変更する事にした、という訳です。


まあ、私が思い付くくらいですから
しっぽを強調したキャラなんて、結構普遍的なデザインだろうし
(元祖は…狸とか狐の化け姿あたり?)
そんなに気にする事も無いかなぁ…とは思ったのですが
(そもそも猫だぬきはあくまで象徴化したロゴであって
 単体で動く事を想定したキャラではないので…)

しかし知ってしまったからには仕方ないw
諦めました。


猫だぬき、結構気に入っていたので本当は残念…というか
実はかなりショックだったのですが
まあ、このお蔭でクマたぬきが生まれた訳で
これも何かの縁だと思う事にしました。
さすがに、クマ耳たぬきのしっぽ
…と見せかけて石づきがついているキャラは、そうは居まい。
むろまくまたぬきのこ、とかいう
意味不明なクリーチャーになってしまいましたが
自分ではなかなか気に入っています。




私は普段
描き込まれたイラストのメイキングなどは
画力向上の為、しばしば参考に見ていますが
簡略化したイラストやマークなどのデザイン的なもの
出来るだけ見ないようにしています。
なぜって…
良いものを知ってしまうと
自分のアイデアが出てこなくなってしまいそうだからw

しかしそうすると
偶然似てしまう事態をどう防ぐか…という問題が生じる訳で
相当、誰も考えそうに無い変態的なものしか作れなくなってしまう…
どうしろって言うのさww (´;ω;`)
まあでも、その点
室町は不人気ゆえに先駆者が少ないので助かってます。
「室町くん」なんてめっちゃ単純過ぎて
なんかのゆるキャラと被ってたらどうしよう…
とか思わなくもありませんが
逆に言うと、これが被ってないって
どんだけ室町は歴史の場末レベル高ぇんだよ、ってゆう。
こっからどう挽回しろって言うのさ… (´;ω;`)



まあそんな訳で
「さよなら猫だぬき」という
秋の哀愁ただよう、ちょいうつな話でした (´;ω;`)ブワッ





お月見☆*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆キタワァ〜!!!!!





さて、ではようやく「十五夜」の話です。

「十五夜」
とはもともと
旧暦の毎月15日、特に8月15日の夜の事を言い
古来、この日の夜は
お供え物をしてを愛でる習慣がありました。
太陽太陰暦を基準とした暦で
(さく。=新月の日を毎月一日とするので
十五日目の月のはだいたい満月となり(ずれる時もある)
「十五夜」は絶好のお月見日和、となる訳です。

それから、旧暦8月15日の月は「中秋の名月」とも言いますが
これは、旧暦では7・8・9月なので
「秋の真ん中の日の名月」という事でこう呼ばれます。

(※旧暦7・8・9月の異称はそれぞれ
 「初秋」「仲秋」「晩秋」といいます。)



という訳で
今日9月27日が、旧暦の8月15日に当たるので
今夜がまさに「十五夜」
バーボン室町で月見団子注文して脳内もぐもぐしています (゚д゚)ウマー
 (※ちなみに、満月は明日28日です。)


あーが綺麗だなぁ…
とか、脳内月見ばかりしていても妄想が過ぎるので
折角だし、みなさんにも「十五夜」の月を楽しんでもらおうと思って
史実妄想観月図を描いてみました。

モデルは相変わらず尊氏直義です。


足利尊氏


足利直義


上が尊氏、下が直義ですが
尊氏の方は、全然月見てないですねこれ。

ちなみに以前
ブログ「画像修正しました」の冒頭で述べたように
『神護寺三像』のあの "一対の肖像画"
二人のものだと認められて欲しくてたまらない私は
尊氏直義の絵を描く時は必ず
 直義が右(=向かって)、尊氏が左(=向かって
となるようにイメージして描いています。
史的レジスタンス活動を続ける小心者の、ささやかな願掛けです。


(※伝平重盛像(=尊氏寿像右向き
 伝源頼朝像(=直義寿像左向きとなっているのは
 通常、上位者左側に来るからです。
 (↑この場合、兄で将軍の尊氏。)
 つまり、この寿像は並べた時に向き合うように描かれた
 まさに "対"(つい)である事にすべての意味がある

 …と言って過言ではない肖像画なのです。
 『神護寺三像』については
 当ブログ「GW企画 国宝『神護寺三像』」
 「室町絵師ランキング(第1位)」も参考にどうぞ。)


という訳で、向かって…
 【直義】【尊氏】
となるので、この観月図は並べると…そっぽ向きますw



まあ、そんな事はどうでもいいのですが
詩歌の解説をしたいと思います。



先ずは、尊氏の歌について。


 憂きことも 月見るほどは 慰むに 秋を愁へと 誰かいいけん


これは、貞和2年(1346)尊氏42歳の時の秋の歌です。
歌の意味は…

「日頃の悩み心配事
 を見ている間だけは忘れていられるのに
 なぜ、秋の心と書いて "愁へ" と言うのだろう」


……。
って、お前はなんでそう
ワロス仮面の下の素顔が暗いんだよwww
普通の人は
秋の夜には、普段には無い哀愁を感じるものなのに
普段悩んでいるのがデフォの尊氏
秋だけは、名月のお蔭で刹那の慰めを得られる―――
日頃、心に相当重い悩みを持っていなければ
こんな歌は詠めないと思います。


(※上の和歌では(…というかこれまで紹介した和歌は全て
 読み易い様に適宜ひらがな漢字に変換してありますが
 和歌は本来、大部分はひらがな表記です。
 「うれえ」という意味の「憂え」「愁え」
 心配悩みが主の場合は "憂"嘆き悲しみ "愁"
 と、現在では使い分けますが
 昔はそれ程区別は無かったように思います。)



貞和2年といえば
幕府創設10年、京都も幕府も平穏無事な時期で
実際尊氏は、みんなが居る所では
"仁" に溢れた本当に明るい将軍だったと思いますが
(でなきゃ、こんなに人望が有る訳ない
 …と "仁山" の道号が語っている)

しかし、一人で居る時は…
たぶん時々泣いていたと思うw


もちろん、天下の事も常に気に掛けていた責任感ある優しい将軍ではありますが
(これは私の贔屓妄想ではなく
 本当に、数々の史料に証拠が残る事実です)

その一方で
一人の人間としての尊氏が抱えていた悩みは…
これはもう
こっちの涙が止まらなくなって来る話で
ああ、名月がうるうるに霞む… (´;ω;`)




まあでも
あんまり悲しい歌ばかりでもなんなので
もう少し明るい秋の月の歌も…


 うたた寝も 月には惜しき 夜半なれば なかなか秋は 夢ぞ短き

があんまり綺麗で、うたた寝するのも惜しい…
 ってしてると
 今度はが短くなってしまうよね、秋は (´・ω・`) )


これは、『藤葉和歌集』という
康永3年(1344)12月以降、翌年8月以前の成立の
私撰集に収められた一首です。

なんかちょっと無邪気な感じで良いですね。
、どっちも捨て難いなぁ〜ってw
いつもどんな楽しい夢を見ていたのでしょうか?

…と言いたい所ですが
実は、尊氏の夢というのは
そんなに無邪気に楽しんでばかりもいられないもの…
だったようで―――

ああまた、秋の心で十五夜の月が霞む… (´;ω;`)


(※中世の夢の解説は、ブログ「夢想クリスマス」をどうぞ。
 尊氏の夢についてもちょっと予告しています。)





では次に、直義の方を。

こっちは至ってご機嫌そうですね。
きっと誰かと一緒にお月見しているのでしょう。
隣にいるのはたぶん…
目に入れても痛くない我が子、直冬基氏(※でも尊氏の子)か
それとも
(部下なのに)親友で従兄弟で幼馴染の上杉憲顕か…


ところで、直義
『観応の擾乱』での敗北者、というイメージのせいか
残された者達の心情に思いが及ぶ事が
これまであまり無かったように思いますが
しかし、直義の「半分仏かよ!という性格からも容易に察しが付くように
直義の死を、心の底から悲しみ続けた者達は少なくないのです。


直義についてはこれまでの所…
 「真面目だけどそれゆえ冷淡
 (あるいは、堅物冷徹なイメージ)

という評価がなされていることが多いですが
(※ただし、必ずしも悪い意味ではなく
 直義ファンの意見でもあるw)

しかし、もう少し…
というか割とかなり徹底的に史料を漁ってみると
直義ってのは、これが意外と
「八割がた菩薩かよ!ってくらい、すんごく温かい人間なんですよ。

(※私の描く直義の絵が、初期の頃に比べ
 最近めっさ穏やかな感じになって来たのは
 この事に気付いた為です。)

私も以前は
直義は堅実実直でいつでも強く揺るぎない
「道理一徹!!」みたいな人物だと思っていましたが
(もちろんそれはそれで合ってるし、それだけでも大好きでしたが)
実際は、すごく感情が豊か
それを天性の素直さで表に出すので
 (例えば、喜び感動愁嘆、人の痛みや苦しみへの共感
  特に人の死を悼む時とか)

当時、直義と直(じか)に接していた人たちには
現在の私達には分からない "温かさ"
大いに与えていたと思われます。
こんな人を失ったら
そりゃあ悔やんでも悔やみ切れないよね (´;ω;`)


まあ、具体的エピソードはまた後日に披露しますが
直義の性格についてはやはり
本人と頻繁に交流があって、人の本質を見抜く事に長けた
当時の禅僧達の証言が一番信頼に値します。

(※直義は、当時の超一流の禅僧達
 非常に親密に交際していたスペシャル教養人
 …というのは、かなりの重要チェックポイントです。)

何というか、直義ってのは
世俗を超越した印象を与える人だったようです。
十割がた仏かよ!!




さてさて、漢詩の説明をそろそろ。

この七言絶句は、直義の作ではなく
直義のため
ある人物が、親しい禅僧に頼んで作ってもらったもので
 「その人物から直義への思いを込めた詩」
といったものです。

しかも、題名に春月、涙をうながす」とあるように
に詠まれた詩なのですがw
まあ、ちょっとも関わって来るので
参考までに載せてみました。

詩の内容をごく簡単に訳すと…

 明月を見上げて神を思う季節は、もとよりであるのに
 春の夜に、なぜ月に愁いているのか
 その両目のが止むように
 (=作者の禅僧)は(=その人物)に
 花前の盃を勧める

だいたいこんな感じです。(ちょっと間違ってたらすまんw)


さて
春の月に映っていた "愁い" の対象はもちろん――― 直義ですが
春の月直義を想い涙を流していたのは…
誰かと言うと…

初代鎌倉公方の足利基氏です。


もう、ドバァァァーーー(´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`)ーーー!!!!!
ですよ。
という事は、この観月図は
「基氏の記憶の中の直義」という事になって
さらにもうどうしよもなくなって来る訳ですが
何より、この七言絶句は実は三部作
続きはもっと泣ける上に
私の予想では、直義他界後10年以上経った頃の作
つまり…
以後ずーーーーっと悲しみを引きずってたって事ですよ、基氏は。


こんな悲しい話があっていいのか…
ってくらいの衝撃の事実ですが
ただ、基氏直義を慕っていたのは良く知られた事実で

直義が、政道の妨げになるからと演劇を好まなかったので
 基氏もそれに倣って、生涯一度も田楽を観なかった」

という話は、よく引用されているのですが
なのに、この漢詩だけは
基氏関連の文献で紹介されているの見た事ないのだが…なぜ?w


まあ、近いうちこのブログで紹介しますのでお楽しみに。
今日はとりあえず
 「これほどまでに直義慕われる人物で、こんなにも強い印象を残す人だった」
という事を伝えられたらと思いまして。




春の月に ☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆ 直義……





という訳で以上
 「十五夜」の月見酒のお供に、史実妄想観月図
でした。

今夜は「バーボン室町での他愛も無いよもやま話」
という事で、ライトな感じに纏めてみましたが
尊氏直義の人物像と言うのは
将軍としての「政治史的な動向」からの分析だけではなく
一見、枝葉に思える文化仏教方面での記録から…というか
むしろこっちの方が大いに真相を秘めていて
とっても重要です。

私の尊氏直義評は、一般の説とだいぶ乖離しているので
所詮妄想野郎乙!とか思われているかも知れませんがw
そうではなくて
かなり地道にこっち方面の史料や文献を調べています。


この観月図で
尊氏は和歌、直義は漢詩としたのも
二人の特徴を表したもので
尊氏の歌人ぶりは良く知られていますが
直義の方は、漢詩をよく好んだようで
和漢で言えば
 尊氏は "和"、直義は "漢"
というイメージなのです。

(※もちろん、二人ともそれぞれに
 和歌にも漢詩にも通じています。
 当時「和漢聯句」(わかんれんく)なるものが流行っていて
 直義邸ではよく「和漢聯句会」が催されており
 尊氏もこれに同席していた記録が残っていますが
 (※参照【金子金治郎『菟玖波集の研究』(風間書店)1965】)
 この「和漢聯句」とは…
 連歌のように、みんなで和句漢句を連ねていく
 つまり「連歌の和漢ミックス版」という
 めっちゃめちゃ高い教養を要求される文化ですw )


その他、二人の違いを挙げるなら…
尊氏と直義は
法楽和歌願文写経など
本当にたくさんの "祈り"(天下の祈りから個人の祈りまで)を
各地の寺社に残しているのですが
直義の祈り
暗い絶望的な世の中にあっても

 「祈りの中に希望がある」

という感じで、前向きな明るさが溢れているのですが
尊氏の祈りというのは…

 「絶望の中で祈ってる」

みたいな、救いようの無い悲しみに満ちているんですよ。
だから、なんでお前はそう… (´;ω;`)


直義の幸せを祈ったという、かの有名な「清水寺の願文」については
いずれここでも紹介しますが
もう一つ、「祇園社の願文」というのがあって
これがもう―――





あーさて、秋の月夜とは言え
今日はさすがに "愁え" 過ぎてしまったので、この辺で。
でも、バーボン室町はまだまだ営業中ですので
どうぞ、月見団子いっぱい食べていって下さい。


あとそれから
夏仕様だった本サイトのTOPページ
秋仕様に変更しておきました。
月見団子、チョコレート味
みたいな感じです。


それではみなさん、よい十五夜を (´;ω;`)ブワッ



posted by 本サイト管理人 at 20:48| Comment(2) | ★チラ裏観応日記