2015年10月05日

チラ裏総目録「観応日記」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏総目録』です。
『チラ裏観応日記』がいい感じに回を重ねて来ましたので
目録を作成してみました。


――――――――――――

『チラ裏観応日記』(2015年6月〜)

※『チラ裏観応日記』開始の経緯については「かんのう日記予告」を御覧下さい。
要するに、「室町創生期」尊氏直義時代真相究明を目標としたカテゴリです。




六月になったので第六編の話
 【大日本史料第六編の話と、歴史解釈のトラップ――現代の錯覚】
七夕
 【南北朝動乱期のスタンダード解説書と、七夕の歌】
忘れられた歌
 【南北朝期研究の概要と、迷宮将軍尊氏の誰も知らない "我が心" 】
暑中御見舞い申し上げます
 【『観応の擾乱』フライングネタバレ回。鎌倉浄妙寺と京都等持院】
夏休みの宿題(その1)【上杉足利物語。上杉家紋と八幡宮三つ巴】
夏休みの宿題(その2)【室町ロゴ…「sunrise 三兄弟」と「三応兄弟」】
夏休みの宿題(その3)【室町ロゴ… もう一つの sunrise「鎌倉」】
夏休みの宿題(その4)【室町ロゴ… 茶、みつはちマン、室町くん他】
十五夜、秋の心 【史実妄想観月図。秋の愁いと春の月】
 (↓以下、追記)
直義の年齢(その1)【厄年の話と、直義の生まれ年 最終決着】
直義の年齢(その2)
 【重厄祈祷が明かす光厳院と直義、尊氏と直義の関係】
室町的鎌倉旅行記(その1)
 【『鶴岡八幡宮』と尊氏の笙、鎌倉3代目将軍源実朝と公暁の事】
室町的鎌倉旅行記(その2)
 【『杉本寺』と建武4年足利家長の事、足利高経と尊氏の秘密】
正月奉納連画2016 第一弾 【上杉憲顕初登場!】
正月奉納連画2016 第二弾 【足利高経のやんごとないお名前】
正月奉納連画2016 第三弾 【直義の子供達と、4人の太平記時代】
室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」
 【建武2年(1335)8〜12月の足利家長の奥州斯波(?)紀行】
室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」
 【建武3〜4年(1336〜7)関東執事足利家長と、奥州相馬一族の事】
室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」
 【足利家長と従兄弟の兼頼の話、家長の家系と源氏の宝刀「鬼切」のゆくえ】
2016年GW企画 国宝『神護寺三像』 【尊氏と直義の肖像画の秘話(準備中)】
故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた) 【最愛の令叔直義に捧ぐ三部作】
君の願いは… 【七夕と、直義の祈りの話】
将軍兄弟プロファイリング 【尊氏と直義のプロファイリング】

…つづく


――――――――――――


うん、まあよく見たら
本格的な話、全然始まっていませんでした。

お詫びに、今日はPCモニタ用の壁紙をご用意しましたので
どうぞご自由にお持ち下さい。

なんと! 室町の夏をいつでも好きな時に楽しめる
巨大「むろま珍魚すくい」です!!


むろま珍魚すくい
(※クリックすると別ウィンドウ(orタブ)で拡大します。
2016.7.25 大き目画像に差し替え。)


いらねー
しかも 1920×1200px のワンサイズ、とかいう不親切さですみません。


それでは、重ねてお詫びに
上記「夏休みの宿題(その4)」みつはちマンのハードボイルドバージョンが
全然ハードボイルドじゃないよ!!
半熟もいいとこよ!!
…という不満でいっぱいの固ゆでマニアの方々の為に
もっと激しい感じの作ってみました。


蜜八幡


「みつはちマン」は、漢字で書くと「蜜八幡」です。
今後の活躍が期待されます。


さて、なんかこれじゃない感が蔓延して来たので、重ね重ねお詫びに
同じく「夏休みの宿題(その4)」で紹介した尊氏自筆「八幡大菩薩の神号」の―――
カラーバージョンを御覧下さい!!


尊氏八幡大菩薩

(※足利尊氏自筆 八幡大菩薩神号旗 絹本着色
 【小松茂美『足利尊氏文書の研究U図版篇』(旺文社)1997】…の巻頭より引用)


おおう! 三度目の正直!!

という訳で、ご利益満タン
10月も引き続き室町幕府をよろしくお願い致します m(_ _)m



posted by 本サイト管理人 at 00:11| Comment(0) | ☆チラ裏総目録

2015年10月31日

直義の年齢(その1)

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
気付けば10月も終わりです。

さて、今月はどんな横道に逸れていたかと言うと
そろそろ本サイトコンテンツ増やさなくちゃなぁ〜
と思って
『三、室町人物記』の作成を進めていました。
適当に人物羅列するだけの簡単なお仕事…かと思いきや
系図の作成が思いのほか大変で苦戦しています。
微調整に微調整を重ねる、微調整地獄です。
しかも私は
「狭く深く」系の探究には苦痛を感じないのですが
人物記は「広く浅く」タイプの知識が要求されるので
もう半ば成仏寸前です。

しかし、系図も無しに話を進めるのも
いい加減限界かと思いますので、苦行続行中であります。



という訳で、まだもう少し時間がかかりそうなので
今日は、ちょっと気になるこま切れのネタを気まぐれに語る
「こまネタ回」でお茶を濁したいと思います。




さて、何が気になるかって…直義の年齢ですよ!!
まあ、結論から言うと
直義は徳治2年(1307)生まれ享年46歳
「尊氏の2歳年下の弟」なのですが
実は、わりと最近まで
嘉元4年=徳治元年(1306)生まれ享年47歳
「尊氏と1歳違いの弟」
だと考えられていました。
 (※年齢はすべて数え年です。)


直義の年齢を記す史料のうち
『尊卑分脈』(諸家の系図集)や
『鎌倉大日記』(鎌倉中心の武家の年代記)では
「享年46歳」(=1307年生まれ)となっているのですが
 (他に、享年45歳とする系図もある)
『公卿補任』(公卿の官職補任記録)の
 「貞和五年(1349)十二月八日出家 四十四
との記述(※逆算すると1306年生まれ享年47歳
最も信憑性が高いとされて来たからです。


しかし! 近年になって
醍醐寺の僧で、足利家や朝家の護持僧だった
三宝院賢俊(さんぽういん けんしゅん)の日記『賢俊僧正日記』
暦応五年(…の正月と2月とあと少し)が発掘され
そこに記されていた
 「暦応5年(1342)で直義36歳!
との記述から
 「実は直義は1307年生まれだったんだよ!
  尊氏の2歳年下だったんだよ!!」

という事実が明るみに出て
な、なんだってぇぇーーー!!?となった訳です。


この賢俊の日記については…
【山家浩樹『本所所蔵『賢俊僧正日記』暦応五年条について』
 (『東京大学史料編纂所研究紀要』第9号 1999年3月)】

を御覧下さい。
(※『賢俊僧正日記』はこれまで
 貞和二年文和四年の2年分のみが知られていました。)
「東京大学史料編纂所」の公式サイトで公開されている論文なので
上記サイトから「 編纂・研究・公開」→「研究紀要」と進んで
「第9号(1999年)」で今すぐ見られます。



さて、問題の記述を
上記論文の2ページ目下段より引用すると…
(※カッコ内は注釈です)

二月  御衰日
 将軍(尊氏)卅八卯酉  三条殿(直義)卅六丑未
 大方殿(上杉清子)七十三卯酉
 御台(赤橋登子)卅七丑未  三御台(直義室)卅六丑未
 鎌倉若君(義詮) 若君(聖王)辰戌  三若君(基氏)子午
 姫君  一ヽ姫君 六丑未

(※「三御台」「三若君」は「三条殿の御台(or 若君)」の略語。)


これは、暦応5年(1342)における
足利家一家の「御衰日」(ごすいにち)を記したものです。
(なお、尊氏の子供については、後日足利家系図で紹介します。)

「衰日」とは
陰陽道で、生まれ年の干支や年齢によって決まる
「万事に忌み慎むべき悪日」の事で
足利家の日常の加持祈祷を担当していた護持僧
賢俊の記録であることから
「うっかり間違えちゃった☆」なんて事は よ も や 有るまい
と思われる信頼出来る情報です。

(※直義以外の各人の年齢は、上杉清子については新事実で
 それ以外は、他史料の情報と一致します。)


(ちなみに、三宝院賢俊
 建武3年(1336)2月、備後国の鞆にいる尊氏のもとへ
 光厳上皇「院宣」を届けた密使です。
 (足利軍の「京都敗退&九州逃避行」ついては
  本サイト『2-2』「西へ」を御覧下さい。)

 足利軍の命運がかかった超重大任務を成功させた功績から
 以来、尊氏直義の信頼厚く
 公私共に極めて密接な関係にあった真言宗の僧です。
 特に、尊氏との関係は深く
 今後も色んなエピソードに絡んで来るので、要チェックです。)




…と、いう訳で
この情報ならもう異論の余地は1ミリも無いだろう
と言いたいとこですが
しかし、かなり最近の文献でも
従来の「1306年生まれ説」を取っているものが少なくない…

一般向けの書籍の他
【東京大学史料編纂所編『花押かがみ 六 南北朝時代二』
 (吉川弘文館)2004】

においても、享年45歳、46歳を異説として
享年47歳説で年齢が振られている…


なぜ?なぜ??www
この賢俊の日記の話
既によく知れ渡っているものなので
『花押かがみ』はもちろんですが、その他の著者もみな
この日記の記述を考慮した上でなお
享年47歳説に信ずる余地があると判断されたのでしょうが…
うーんww

(実は、他の賢俊の日記
 尊氏の正室赤橋登子の年齢で辻褄が合わない記述があって
 もしかしてそれで疑問符が付いた??…とも考えてみましたが
 しかし、そっちの記述はあまり知名度高くない様なので
 そもそも矛盾に気付いている人が少なそうだし
 あるいは、賢俊の筆跡は難読だそうなので(※上記論文(注1))
 翻刻の際の手違いの可能性が有るかも知れないし…
 うーーーんww )



やっぱりあれですか?
尊氏直義の結末があまりに劇的だから
「1歳違いの兄弟」とした方が
なんか運命的で、ネタ的においしい…(しめしめ)
…とか言う訳では無いとは思いますが
しかし―――
もうすぐ涅槃に達しそうなレベルで直義マニアの私がここで断言します。
やはり直義は…

 確実に1307年生まれ享年46歳です!!

実はこれ、かなり意外な事に
賢俊の「暦応五年分の日記」が発掘されるずっと前から
自明の事実だったのです。
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーー!!?

しかも!!
私の妄想成果…じゃなかった大真面目な研究成果によると
ネタ的にも、年子より2歳違いくらいの方がおいしいのです!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) ぬぬぬ、ぬあんだってーーーーー!!!??




直義情報.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆キタワァ〜〜!!!!!




ところで
現在でも「厄年」の慣習は身近なものですが
当時ももちろん
「衰日」と同様に、陰陽道による「厄年」「重厄」「慎歳」
要注意事項でした。
ただし、完全にが確定している現在とは違って
当時は結構まちまちだったようですがw
室町時代の将軍の場合も色々ですが
特に42歳「重厄」
記録の残る義満・義持・義教・義政で共通していて
全力で厳戒態勢だったようです。



尊氏の例で有名なのは
延文2年(1357)53歳の時のもので
2月10日、賢俊は石清水八幡宮に願文を納めて
この年の尊氏の無事を祈ったのですが、その内容が…

「(将軍との)多年の芳契は浅からず
 これまで数々の深い重恩を受けて来た。
 その恩に酬(むく)いる為
 "この身を以て、大樹の命に代えて欲しい"
 (八幡大菩薩の)大慈大悲の方便、仏力法力の加被により
 どうか、どうか我が願いを聞き届けてくれ」


(※一部抽出、訳)
(※大樹(たいじゅ)…将軍のこと。 加被(かび)…神仏の加護。)

(『大日本史料』延文2年2月10日)


これは、賢俊の尊氏への忠誠を語る上で
よく引用されるエピソードですが
実は… この年の閏7月16日、つまり半年後に
賢俊は59歳で入滅してしまうのです。


偶然…と言ってしまえばそれまでですが
しかし、当時と言えど僧侶では長寿の者も多く
武将でも70、80歳まで生きる者は珍しくありませんでした。

上記の願文は
醍醐寺三宝院に伝えられた賢俊自筆「案文」(あんもん)ですが
(※案文正文(しょうもん)に対する控え、下書き。
 この場合「正文」は八幡宮の神殿に奉納されている)

後年、その奥書に
この宿願が即時成就した事
「尤も感動に堪えない」その事実を後世の人々に伝える為として
三宝院満済の一筆が添えられています。
(※満済は、6代目義教の重臣。本サイト『2-5』で登場します。)


尊氏の6歳年上でしかない賢俊が先立った事はやはり
「将軍の厄を代わりに受ける」と立願した祈りの奇蹟だと
この「案文」の存在を知った満済は受け取ったようです。


賢俊の四十九日にあたり
尊氏が書写した「般若理趣経一巻」が現存しています。
尊氏は、本気出すと楷書もとても綺麗です。
相当、心を込めて写経したのでしょうw
折角なので、ここで紹介したいと思います。

巻首部分の一部
尊氏理趣経


巻尾(奥書)
尊氏理趣経(奥書)


(※理趣経 足利尊氏筆 一帖 醍醐寺(京都府京都市)
【『足利尊氏―その生涯とゆかりの名宝―』(栃木県立博物館)2012】
 …の、p.48より引用 )


奥書の翻刻を載せておきます。

 三寶院大僧正賢俊 相當四十九日佛事 般若理趣経一巻 自書寫者也
   延文二年八月廿八日
     正二位源朝臣尊氏  花押


尊氏の真蹟(真筆)というと、やはり草書が醍醐味で
尊氏の草書ファンはかなり多いと思いますが
私は、楷書もとても好きです。
なぜって…すごく人間っぽいからww
なんか過去の人って感じがしないんですが
そう感じるのは私だけだろうか??

ちなみに、直義の楷書は…世俗を超越しています。
両者の比較がまた楽しいので、期待していて下さい。




(ところで…
 賢俊の渾身の祈願により、この年を乗り切った尊氏ですが
 翌年の延文3年(1358)4月30日
 54歳で、病によりこの世を去ることになります。
 賢俊のお蔭で永らえた命が… (´;ω;`)
 と思ってしまうかも知れませんが、しかし!!
 尊氏の最期というのは
 これがまた、深く深く探求すると
 未だ誰にも知られていない劇的な真相が姿を現します。
 どんな映画でも適わないような、最高のラストです。
 もしかして、前年に旅立つ事になっていたら
 この最期を迎える事は出来なかったかも知れない―――
 つまり、やっぱり賢俊は将軍尊氏の恩
 すべてを懸けて酬いたと言えるでしょうw )


(それからもう一つ…
 現実的な意味では
 賢俊の祈願はとある人京都に呼び戻した」
 という効果をもたらしました。
 石清八幡宮での賢俊の祈願により
 「尊氏の厄年の風聞」がその人の耳に入った
 …という可能性が考えられるのです。(私の考察によると)
 それは、晩年の尊氏の最大の悔恨だったので
 もしこの推測が正しければ
 賢俊はその意味でも、尊氏に最大限酬いた事になります。
 これらの悲しくも温かい物語の結末についての詳細は…また後日。)






さて、さてさてさて
それでは最も重大な
 「42歳」の時の尊氏直義はどうだったのか?
と言うことですが…


まず、尊氏
尊氏は嘉元3年(1305)生まれですから
42歳貞和2年(1346)に当たります。
記録に残るものだけでも…

正月4日
 賢俊による「不動護摩法」結願(12月27日開白)
4月8日
 賢俊ほか諸僧による「逆修」法事結願(3月27日開白)
 (本尊不動明王、最終日の導師夢窓疎石
10月13日
 賢俊による「地蔵法」重厄のため別儀で修する 20日結願

(※逆修(ぎゃくしゅ)…
 生前に予(あらかじ)め自分の死後の冥福を祈って修する仏事。
 死後の仏事より利益(りやく)が大きいという。)

(※密教の「修法」(しゅほう)については
 当ブログ「かんのう日記予告」の冒頭をどうぞ。)


…という具合で
周囲の者達の並々ならぬ緊張感が伝わって来ます。
というか
夢窓国師は禅僧なのに、密教的な修法の導師って…
どんだけオールマイティーなんだよww

夢窓国師は、9歳で出家した当初は
 天台密教を学んでいたのですが
 19歳の時、自分が禅宗に縁がある事を知り
 この時「夢窓疎石」と法名を改め、禅の道を歩み始めます。
 さらに、北は奥州白鳥(平泉の先)から南は土佐まで
 信じられないくらい各地を(しかも僻地を)行脚している…
 という、僧力値無限大で間違いなくスカウター吹き飛ぶ
 ホントにとんでもない偉人です。
 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン  )




ところで、これらの 「重厄」祈祷記録のうち
『大日本史料』貞和2年正月4日条10月13日条には
上述の賢俊日記の「御衰日」と同様の記録があって
内裏(光明天皇)と仙洞(光厳上皇)のほか
尊氏、直義、尊氏室、直義室など記載が見えます。
 (※どちらも賢俊の日記『賢俊僧正日記』です。)


それでは、これを順に見て行きますと…

 「(内裏の略語)26歳  仙(仙洞の略語)34歳

とあって、これは事実と合致します。 OK!賢俊正解!!
そして…

 「(将軍の略語)42歳  兵(兵衛督の略語)40歳

将軍=尊氏が42歳なのはもちろんOK!
では兵衛督(ひょうえのかみ)は誰の事かというと…
って、直義の事じゃないですかぁぁーーーーっっ!!!




んんーーww この記述は見落とされていたのだろうか??
それとも、「内」とか「兵」とか
賢俊の略語が意味不明だったから、保留扱いされてたとか??
それとも―――


実は、正月4日の記述には、さらに続けて…

 上台 44(←実際は漢数字)辰戌  同姫
 下台     同若 同姫


との記述があるのですが
これは10月13日の記述と合わせると

「上台」は「上御台」のことで尊氏室
  (尊氏邸が鷹司東洞院(北の方)だから)
「下台」は「下御台」のことで直義室
  (直義邸が三条坊門高倉(南の方)だから)

…と解読が出来ます。
ついでに
「上台」「姫」は、当時(たぶん)5〜6歳の鶴王
3歳の女子(※ただしこの年の7月7日に夭折)
「下台」「若」は7歳の光王(のちの基氏、初代鎌倉公方)で
「姫」は4歳の女子(法名了清)のことです。
 (※ただしどちらも尊氏の子w つまり直義の養子。)


しかし!! ここで問題が。
「上台 44歳」って…?
貞和2年で尊氏室の赤橋登子は… 41歳のはず。
暦応五年(1342)の日記では尊氏の1歳下なのに
貞和二年(1346)の日記では尊氏の2歳上って
ちょっと賢俊、どうなってるのよ!!www



赤橋登子は貞治4年(1365)5月4日に60歳で没しているので
1306年生まれで尊氏の1歳下のはずなのですが…
うーん、まるで謎。
これが、さっき上で
 「他の賢俊の日記で、赤橋登子の年齢が辻褄合わない」
と言ったやつですが
正月4日10月13日のどちらにも「44歳」とあるので
賢俊の誤記や、翻刻の手違いの可能性は低い、と言わざるを得ない…

まあでも、どちらも裏書(紙の裏の記述)
内容が酷似している事を考えると
一方の記述を写した "メモ程度のもの" にも思えますが
それでも、賢俊による尊氏一家関連の情報に
間違いがあるとはどうしても思えない…
もしかして、尊氏より年上なのを憚(はばか)ってサバ読んで
おっと失礼w


ただ、今の所この史料はさほど注目されてない様だし
直義の年齢、スルーされてるからw)
また、安易に誤記と断定し得る記述でもないので
(むしろ、正しい情報として扱われていいような気が…)
これが為に、賢俊日記の信憑性に疑問を感じている人は
やはりいないと思います。
(そもそも、その程度で日記の信憑性は落ちないし。)

まあ、ここでは一つの可能性として

赤橋登子の年齢は
 公然には尊氏の1歳下(1306年生まれの享年60歳)
 とされていたのだが
 裏書メモには実年齢(1303年生まれ、尊氏の2歳上
 で書いてしまった
 …のかも知れないかも知れない」

という、ややアクロバットな説を提示しておきます。

(でも、個人的にはわりと可能性高いと思ってます。
 赤橋登子は北条一族の出身で、政略的な輿入れだった事も
 年上である事に憚りを感じる理由になるかな、と思うので。
 そう考えると、これはかなりのシークレット裏書情報…ゴクリ )



ちなみに、尊氏直義の父足利貞氏
『尊卑分脈』によると文永10年(1273)生まれなので
文永7年(1270)生まれの上杉清子のが年上だったりするw
 (※ただし貞氏の "正室" は、例の如く北条一族の娘。)
まあでも、貞氏は素晴らしい奥さんを貰ったよ
子供二人とも菩薩だものww



ついでにもう一つ
 貞和2年は、尊氏の42歳の重厄に当たる」
というこの事実は
とある有名エピソードの謎を解き明かしてくれる
スペシャルヒントだったりします。
これは、年不詳「直義自筆書状」の年代比定を可能にするほか
鎌倉時代以来の、足利家の近臣的被官だった
(こう)と上杉の関係や
鎌倉のあの有名寺院の山号と寺号の謎まで絡む
尊氏直義好きにはたまらん情報ですのでお楽しみにw




直義情報.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆こっからターボよ〜〜!!!!!




はい、そんな訳で
 「貞和2年(1346)で直義40歳!
という、この賢俊裏書メモを以てしても
やっぱんりなんか、あと一歩決定打に欠ける…訳ですが
しかし!! 心配は要りません
こっからが本当の本番です。


尊氏42歳の「重厄」が貞和2年なのなら
直義のそれは…
翌年か、翌々年か、それですべてが明らかになる訳です。
ついに、直義の年齢が確実に確定する瞬間が!!
全国の直義ファンのみなさん、準備はいいですか?
ばくばくそわそわな方は、お茶飲んで落ち着いて下さいね。
それでは―――
『大日本史料』第六編の11、p.363より…


 入道尊円親王冥道供ヲ修シ、直義ノ厄年ヲ祈リ給フ


おおう!!
ちなみに、尊円親王(そんえん しんのう)
花園帝の弟で、光厳上皇・光明天皇兄弟には叔父に当たる御方
『青蓮院門跡』の門主で、天台座主を何度も務めた天台宗の僧です。
そして「冥道供」(みょうどうく)とは
閻魔大王を本尊とする密教の修法です。
すなわち―――

 正月十八日 左兵衛督直義卿厄年 四十二歳 の祈りの為
 冥道供 三箇夜 を修し始める (『門葉記』)


まさに42歳!!
で、年は? 年は何年なの!!
もちろん―――

 貞和四年(1348)、尊氏の2年後です!!

やっぱりかぁぁぁ!!!!
ってゆうか
ずっと前から、こんなはっきりした記録があったんじゃん!!www
わりと、ズコーー☆☆


この仏事の記録はかなり詳細なもので
直義とのやり取りの記録も含んでいますし
何より
尊円親王に懃修を依頼している "特別さ" からも分かる通り
直義の無事を祈る事は
幕府の存亡…というか天下の存亡にすら直結する重大事項ですから
 「厄年の年齢、間違えちゃった☆てへ」
なんてドジっ子展開は よ も や 有るまい
ってか、そんな事があったらどんだけ直義お茶目なんだよww
とかいう訳になってしまいますので
貞和4年(1438)直義42歳」すなわち…


  直義1307年生まれ、尊氏の2コ下で享年46歳


この事実は
何がどう転んでも、疑う余地1ピコミクロンも残されていない
確実に確実な事実です。
なぜこれが、長い間スルーされて来たのか??



まあつまり、わりとおいしい情報
手付かずで残っていたりするのですよ、『大日本史料』の中には。
(情報としては既知なのに、考察としては未開拓、という意味で。)

みなさんも是非、尊氏直義のマニアな情報を再発掘して
にまにましてみて下さい。 楽しいですよ。




さて、直義の年齢がめでたく解決して
全歴史界の直義ファンこれで安眠…するのはまだ早い!
直義情報はむしろこっからが本気ですので
まだ寝ないで下さい。

でも長くなったので一旦切って
「直義の年齢(その2)」に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 13:07| Comment(0) | ★チラ裏観応日記