2016年01月01日

正月奉納連画2016 第一弾

(チラ裏シリーズ)

明けましておめでとうございます。
新春『チラ裏観応日記』です。

去年一年間
この場末の室町ブログを飽きずに読んでくれた皆様
本当にありがとうございました。
室町ファン尊氏直義ファンが一人でも増えるよう
今年も一層
全力で "室町" を語り尽くして行く所存ですので
どうぞよろしくお願い致します m(_ _)m



さて、今年も一年の祈願を込めて
正月三箇日連続企画「正月奉納連画」
必死で作成しましたので
武家源氏の氏神にして大画伯菩薩であらせられる
我らが "八幡大菩薩" に謹んで脳内奉納し
新年の御挨拶に代えたいと思います。

(※「正月奉納連画」とは
 中世武士が神仏に「願文」を納めて祈願する慣習に準えて
 「連歌」ならぬ「連画」を奉納して新年の「本意」を祈る伝統行事。
 去年思い付きで始めた。)





ちなみに、去年の本意は「源氏元年」だったんですけど
何かが眠りから覚め…!!?
…たかどうかは知りませんが
でも、室町南北朝関連の
 「本格的でありながら一般向けに書かれた書籍(※)」
の類が
なんか色々誕生していたような気がしないでもないような気が…する。

(※…これまでの
 既存の説をまとめた歴史概説書や歴史系読み物とは
 かなり内容の質が異なり
 学術書を出している研究者が
 「最新の研修成果を一般向けに書き直してみた」みたいな
 読み易いのに論文レベルの本、の事です。)


まあこれは、近年の傾向であって
去年に始まった事でもなんでもないのですが
でも、今後も益々期待して
今年も引き続き「源氏二年」でよろしくお願いしたいと思います。

是非みなさんも、新しい本を色々と読んでみて下さい。
楽しいですよ。





さて、2016年の「奉納連画」に参りたいと思います。
第一弾は、新春にして初登場の―――

上杉憲顕(のりあき)です!!


上杉憲顕

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



スズメと戯れています、上杉なだけに。
(※上杉家の家紋「竹に雀」については
 ブログ「夏休みの宿題(その1)」をどうぞ。)

まあ、憲顕レベルだとスズメと会話くらい余裕だと思います。



上杉憲顕については
今の所、上記ブログ記事でチラッと語っただけで
まだ全然解説が足りていませんが
尊氏直義の従兄弟であると共に
『観応の擾乱』の謎解きの鍵を握る重要人物
今年はたくさん出番予定がある、私の中の最注目株ですので
どうぞ御期待下さい。
(さ、最注目って…
 前回登場したばかりの高経様の立場は… ま、いっか。)


確かに主要人物ではあるけど…そこまで重要か?
と思われるかも知れませんが、これがまた
憲顕になりきって憲顕の動向を追っていると… Σ(゚Д゚ )!!!??

ま、とりあえず今は
直義と仲が良い…という事だけ押さえておけば十分かと。


直義超絶マニア目線で相変わらず本当にすみません。
 今年こそはこの偏愛を改めようと
 ただ今苦行を積んでいる最中です。)




てゆうか、なんでスズメとおしゃべり中なのに
背後がイーグル(鷲)なんだよ!!
とか思われたでしょうが…



上杉憲顕に限らず
上杉家は全般に品行方正優等生のイメージがあって
 (…え、私だけかな? みんなもそうだよね??)
実際、"普段の" 上杉憲顕
室町中期(6代目義教の時代)の上杉憲実(のりざね)なんかも
見事に誠実忠実教養も格段に高く(足利学校再興とかね)
特にこの二人は
晴れ渡った空の如くハイレベルに清い
かなりわたし的どストライクなのですが
しかし憲顕というのはこれがまた
可愛いスズメかと思いきや
直義が絡むと容赦なく本気出しまくって来る
…というのは
『観応の擾乱』の見せ場の一つだったりします。
 (つまり、さらに私好みの超絶変化球投げてくる。)



『観応の擾乱』は
貞和5年(1349)に始まって
観応元年(1350)10月から翌観応2年(1351)2月にかけて
最初のクライマックスを迎える訳ですが
"京都" の幕府内での対立・衝突がメインではあるものの
この擾乱はもちろん
"鎌倉" の幕府勢をも巻き込んで進行した一大騒動でした。

(巻き込んだ…は語弊があるかな。
 『観応の擾乱』はむしろ
 鎌倉にこそ、最初の火種がくすぶり育っていた
 …という事に、誰も気付いていなかった
 のがすべての始まりだった
 という事件だったりするので。 Σ(゚Д゚ )!!!?? )

(※↑ちなみにこれは、上杉憲顕は関係ありません。
 (直接の当事者ではない=悪くない、という事。)
 ―――2016.1.23追記 )



…まあ、この辺は
今後詳細に解説していく事になりますので
今日の所は、関連箇所の簡単な紹介だけ。




観応元年(1350)当時の鎌倉は
前年に鎌倉の主君として下向した
11歳の足利基氏(※尊氏実子で直義猶子)と
それを補佐する関東執事
上杉憲顕高師冬(こうのもろふゆ)(※高師直の従兄弟で猶子)
という態勢だったのですが
京都での「直義」「尊氏・高師直」という対立は
鎌倉では、「上杉憲顕」「高師冬」の対決という形で現れます。


ただしこれは
単に "派閥" を背景とした代理戦争…という訳ではなく
前年の貞和5年(1349)の京都での騒動で
上杉憲顕は、実の従兄弟で義兄弟の上杉重能
高師直に殺害されているので
(さらに、上杉憲顕の実子能憲(よしのり)は
 重能の猶子となっていたので、養父を失った事になる)

上杉一族にとっては
弔い仇討ちを兼ねた、鎌倉平定かつ京都への援護射撃であり
そしてその他の鎌倉勢
幕府誕生以来
長らく関東執事として政務を主導して来た上杉憲顕に従う者が
圧倒的に多く
鎌倉でのこの時の騒動は
京都より1か月早く、上杉憲顕方の勝利で決着します。


(※京都にいた上杉重能(しげよし)は
 尊氏の側近であり、直義の近臣でもあり、従兄弟でもあり
 二人にとっては、血の繋がりもあって特別な重臣でした。
 一般には "直義派の重要人物" とされていて
 尊氏との関係に注目した文献は数えるほどしかないのですが
 ここにこそ、真相の一端が隠されていた
 という大注目ポイントですので、気にしておいて下さい。)



というか
観応元年(1350)11月12日
上杉能憲(※憲顕実子で、亡くなった重能の猶子)が
直義派として常陸国で旗揚げした為
12月1日上杉憲顕が鎌倉を立って上野国に向かったところ
12月25日高師冬
足利基氏(※この時点では元服前なので光王御前)を連れて
鎌倉を出て相模国毛利庄湯山に着陣… するのですが
12月26日には、上杉方が基氏を取り返し
3日後の12月29日
上杉憲顕基氏と共に鎌倉に帰還
という、イリュージョン的な早業

その後、甲斐国逸見城に立て篭もった高師冬を討つ為
観応2年(1351)正月4日
上杉憲将(※憲顕の嫡男)が数千騎を率いて出陣し
正月17日に、高師冬が討ち取られて(あるいは自害により)
2週間で決着…


どう見てもスズメの速度ではない…



しかし、問題はこの後で
鎌倉静謐でほっと一息… するかと思いきや
上杉憲顕はなんと
その勢いのままで、京都にとっ込もうとしていたってゆうww
しかも、完全な独断でw
京都では、直義高師直を相手に戦っている最中でしたから。

やつにとって、この鎌倉の一大騒動
準備体操でしかなかったのか…


上杉憲顕の上洛計画を知った直義
この度の戦功を絶賛すると共に…

「じょ、上洛??
 (落居直後で)今大変な時なのに、じょ、上洛???
 (こっちは大丈夫だから落ち着いて!!www)」
  (↑3行目エスパー意訳)

…と、めっちゃ驚いて止めに入った書状↓


直義書状

(足利直義自筆御内書(上杉家文書)
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究(写真編)』
 (国書刊行会)2001】 …の、p.83-84より引用)



これは、直義の自筆なのですが
直義偏愛マニアの私に言わせると
直義にしてはだいぶ字が崩れている…ので
相当焦って記したと思われるw

書状の日付は2月3日(at 京都(※正確には石清水八幡宮)
となっていることから
正月17日の決着後
本当に間髪入れず飛び立つ気だったらしい。
完全にタッチアンドゴー

って、お前はどんな戦闘機なんだよwwww
落ち着けよwwww


という訳で
背景がイーグルになりました。




ちなみに上杉憲顕
この直義の一言で、広げた翼を休める気になったものの
2月8日には
「東国軍勢数千騎」(『園太暦』)を率いた嫡男の上杉憲将
さらに2月15日には
上杉能憲(※憲顕実子で重能猶子)も上洛していますから
あんまり気持ちは静まっていなかったようだw

とは言えこの…

イーグル遷移状態上杉憲顕をコントロール出来るのは
 直義だけ」

という点はよく覚えておいて下さい。
これは、『観応の擾乱』における憲顕の行動を解明する
重要なヒントになります。

二人の最後の別れの… (´;ω;`)
おっと、悲しい話は今日はよそう。




というか、言ってはなんだか
上杉憲顕直義よりも戦強いと思うw
 (いや、直義が弱すぎ… すみません禁句でした)
一見、文武なら文道特化型っぽく見えて
戦で予想外の無双を見せつけてくる意外性キャラ
ってのが、すごく好きなのですが
その上直義マニアとか、もうどうなってんだよ!!
 (師匠と呼ばせて下さい m(_ _)m )
やばい、ほんとやばい!!!
錯乱する!!

…という事が早くみなさんに伝わるよう
今年は

憲顕直義が絡むと
 戦闘機にトランスフォームして見境がなくなる

という「上杉憲顕イーグル説」
大々的に唱えて行きたいと思います。



(…というのも、憲顕はさらにこの後
 これまでとは比べ物にならない覚悟で大空に飛び立ちます。
 だいたい予想は付くと思いますが… 直義亡き後、その直後に。
 ああもう、この辺は涙腺が崩壊するから
 今日は保留!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) )





という訳で
「正月奉納連画」第一弾は上杉憲顕でした!

第二弾はお待ちかね…
うん、まあ、明日に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 15:06| Comment(2) | ★チラ裏観応日記

2016年01月02日

正月奉納連画2016 第二弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春二日目『チラ裏観応日記』です。

という訳で
三箇日連続企画「正月奉納連画」第二弾
前々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
彗星の如く初登場を果たした "太平記時代" の裏要人

足利高経(たかつね)です!!


足利高経斯波高経

(※クリックすると拡大します。750×1000px )



え、何、もう記憶から消えかけていただと?
まあ、私が
僅かながらも知名度のある "斯波高経"(しばたかつね)と呼ばないで
頑(かたく)なに "足利高経" と呼び続けているから
誰それ状態を誘発してしまっているのでしょうが
 (つまり、とんだ逆効果)
しかし、やはり名前は重要です。



ところで、背景の翼は「鶴」をイメージしたのですが
これはなぜかと言うと
高経の元服前の幼名(おさなな、ようめい)が…

 「千鶴」(ちづる)だから。 (あるいは千鶴丸

なにそれかわいいw
しかも、3歳下の弟家兼(初名時家)の幼名は…

 「千代鶴」(ちよつる)(or 千代鶴丸

ひな鶴兄弟ww


さらに記録が残っているものでは
家兼の次男兼頼「竹鶴」なので
 (※建武3年3月相馬長胤軍忠状に「大将軍足利竹鶴殿」)
おそらく、この頃の斯波家の子弟はみんな
ひよこ時代は "鶴" がついていたんじゃなかろうか…
という事で
私の中で室町最初期の斯波家は
「鶴」のイメージで決まってしまいました。

美しく儚げな感じがぴったりです。



というか、「鶴の翼を描こう」と思って
参考に "タンチョウ" の画像検索をしてたら
タンチョウの舞(いわゆる求愛ダンス)が気になってしまって
YouTubeで動画を探したところ
素晴らしいのをいくつも上げてる方がいて見入ってしまいました。
タンチョウってこんなに美しい鳥だったんだ…と。
本当に芸術品のようです。


(こう思っている人はあまりいないと思うけど…)
私にとっては、尊氏直義が活躍する "太平記時代"
奇蹟のように美しい話にあふれた時代なので
それとタンチョウの舞う姿が重なって
思わず涙が出てしまいました。
なんというか
美し過ぎて届かない…ような思いに駆られて妙にへこんだw
同じ国の、昔あった本当の話なのに―――




…って、高経ネタからの派生で感動してしまうなんて!!
私の中で高経はそんな立ち位置ではない!!

こんな立ち位置↓

千鶴高経


ちなみに右から…

上杉憲顕 徳治元年(1306)生まれ
足利直義 徳治2年(1307)生まれ
足利尊氏 嘉元3年(1305)生まれ
足利高経 嘉元3年(1305)生まれ

です。

(上図はデフォルメしてあって子供っぽいですが
 直垂を着ているので、みんな成人後のおっさんです。)



それから、翼はあくまで背景イメージのつもりで描いたので
高経天使になっているとかいう訳ではありません。
まあでも、高経様はやんごとないので
羽くらい生えていたと思います。

ついでに言うと、高経の髻(もとどり)は
単なるポニーテールではなく
結わいた根本を隠したアップ系です。
なんか… ゴージャスな感じ。






ところで、名前といえば
高経にはもう一つエピソードが。

当時の(広義の)法名的なものには色々あって
在家の仏教徒で言えば
入道後に法体(剃髪&僧衣)となって名乗る「法名」の他
俗人のままでも
帰依していれば「道号」とか「別号」とか名乗ったりしていて
そして、亡くなった後に贈られる「追号」というのもありました。


直義で言えば…
道号が古山、法名は慧源(えげん)、追号が大休寺殿
で、繋げると
「大休寺殿古山慧源」となります。

それから、尊氏の追号は言わずと知れた「等持院殿」ですが
このように
追号は墓所である「菩提寺」の寺号である事が多いです。



で、高経はと言えば
道号が日峰、法名が道朝
追号は当初「東光寺」だったのですが
後に「霊源院」(れいげんいん)に改められました。

これはなぜかと言うと
高経の四男は
足利義将(よしゆき)(or 勘解由小路殿)といって
3代目義満、4代目義持の時代に
管領を何度も務めた室町幕府の重鎮中の重鎮ですが
その義将が、ある日父の夢を見た。

夢の中で父曰く…

 高経「今、霊源院ってところに居るんだ〜」

そして義将は、父の追号を「霊源院」に改めた。



つまり…
高経の追号は、墓所とか菩提寺とか
そんな目に見える現世の存在なんかじゃなく
あちらの世界でお住まいになっている本当のおうちだったんだよ!!

(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


"霊" が「神霊」「神秘」という意味だから
「神聖なる源氏の御殿」と言ったところか…

さすが高経
現世でも「玉堂」とかいうヘブンっぽい所に生息していたのに
実際ヘブンでも宮殿系にステイとは。

やっぱり高経様くらいのレベルとなると
あの世でもやんごとない暮らしをなされているんですね。
納得です。


(※以上、夢の話の出典は『斯波家譜』です。
 『斯波家譜』は『大日本史料』にも部分的に掲載がありますが
 まとまった翻刻は
 【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
 …をどうぞ。)





という訳で、新年早々
ありがたい高経様のおめでたいお名前の話でした。

七條殿とか玉堂とか千鶴とか霊源院とか
高経は楽しい名前がたくさんあって、ネタに事欠きません。
キャラ付けが捗る捗る。




というか…
なんでそんな立ち位置(どんなw)の高経なのに
思い詰めた顔してんの?
と思われたでしょうが
この絵は半年ほど前
高経の真相に目覚めた時に紙に描いておいたイメージ図を
下書きにして描いたものなのですが
高経尊氏が抱えていたものって…
本当に深刻な物語なのですよ。

尊氏は、みんなの前では「軽々しく」振舞っていたい(『梅松論』)
と笑っていたけれど
後ろに悲しみを隠したものの放つ輝きというのは
この世のものとは思えない美しさがあって
胸が締め付けられます。



おっと、新年なのだから明るく明るく。
まあ高経
表面的にはクールを装っているのだけど
尊氏に遊ばれるキャラ… みたいな?
いや、みたいな?とか聞かれても。


さて、三日目の明日は遂に…
今年の「本意」が完成しますw



posted by 本サイト管理人 at 19:58| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年01月03日

正月奉納連画2016 第三弾

(チラ裏シリーズ)

こんばんは。
新春三日目『チラ裏観応日記』です。

では早速
「正月奉納連画」に詰め込んだ今年の "本意"
天に届けてくれるのは…

足利将軍兄弟直義尊氏です!!


足利直義


足利尊氏

(※クリックすると拡大します。750×1000px )


背景の翼はもちろん
伝説の瑞鳥「鳳凰」をイメージしました。
まあ、鳳凰とか見たことありませんが。
でも聖人の出現の兆しとして、この世に現れる事があるらしいですよ。




さて、今回は
それぞれ縁のあるアイテムを持たせようと思って
上杉憲顕にはスズメ尊氏には鳳笙
それから高経には虚無被衣(きょむかづき)
…にしたかったのですが
描けませんでした (´・ω・`)
(折角、安易なキャラ付けアイテム考えたのに描けないとか
 自分どんだけ致命的なんでしょうか。 苦行が足りてません。)


では、直義が不思議そうに見つめているのは何かと言うと
「如意宝珠」(にょいほうじゅ)です。


(如意宝珠についてはブログ「室町絵師ランキング(第3位)」を。
 要するに、お地蔵様が左手に大事そうに持っているたまたま
 あらゆる願いを不思議に叶えてくれると言われます。)


理由はもちろん
直義の(実の)一人息子、「如意王」(にょいおう)からです。




直義には40歳過ぎまで子供が出来ず
兄の尊氏から養子を貰って大事に育てていた
…という話は以前少ししましたが
なんと、数え41歳にして奇蹟的にも子を授かります。
この時、直義の奥さんも同じ歳だったので
 41歳初産とは…」 (『園太暦』ほか)
と、当時の日記に公家達の驚きが記されているように
やはり普通に考えても普通の事ではなかったのではないか…
と思われて仕方ない訳ですが
何より…
一番直義本人が驚いたと思うw
自分の子はすっかり諦めていた頃だろうし
直義にとって兄の子
心の底から可愛くて仕方なかったでしょうから
 (↑直冬基氏の懐き方が尋常じゃないのでw)
未練もさほど無かったと思うし。


如意王誕生時、直義の元には
 光王(のちの基氏)8歳、女の子5歳
 それから既に直冬(20歳くらい)もいたのは間違いないから
 実は直義夫婦
 二人だけの寂しい家庭…ではなく
 子供に囲まれた賑やかな家庭を築いていたんだったりするw)





というか、如意王については…
『観応の擾乱』が始まる2年前
あれだけ子供が出来なかった夫婦に突如として
しかも41歳の初産にして平産(安産)」(『園太暦』)という
無為無事大慶(『師守記』)で生まれた男の子
そして
 希代大合戦」 (『観応二年日次記』観応2年2月18日)
と言われた
擾乱最初の一大合戦が、直義派の快勝で決着した直後に
数え5歳(満3歳10か月半)で父に別れを告げて逝ってしまった
…という
考えれば考えるほど、幻のような存在
もしこれが『太平記』だけの記述だったとしたら
絶対に実在を信じなかったレベル。
でももちろん
日記とか書状とか、現存の一次史料に多くの記録が残る
確実に確実な史実なのです。




とは言え、そのあまりの不思議さから
(よく知られた話ですが)『太平記』では…

ある日
南朝の亡き者達…護良親王と天狗と化した僧侶達が集まって
武家による太平の世が妬ましいので
再び天下を崩壊させて見物を楽しむ為に
僧侶達は、近臣達の心に乗り移って幕府に内紛を起こし
護良親王
人並み外れて禁欲・清廉な直義の心に邪心を抱かせる為
"直義の子として生まれ変わり"
尊氏直義の仲を引き裂こうと企んだ

という話にされているのですが―――

正直この話は本当に酷い!!




まあ『太平記』は
世の中の成り行きを "因果" "自業自得" で説明しようとしていて
それは、人々の今の行いを正し
太平の世を願う気持ちからのものであって
悪意からのものではないのですが(…と私は思う)
とは言え
 勝者正しいから勝った、敗者間違っていたから負けた」
という論調にする為
時にやり過ぎなこじつけがあって
"道徳を説く" という本来の目的に逆行しているのが何とも…。


まあ、大人の心なら
その "弱さ" に魔物が巣食うという事はあるでしょう
しかし
何の罪も無い子を「禍の種として生まれた」だなんて
長く生きられなかった幼い子の事も
幼子を亡くした直義の気持ちも
あまり無視し過ぎていて、感覚が麻痺しています。
(# ゚Д゚) ムッキームッカー!!!


(というか「天下の崩壊を見物して楽しむ」って…
 護良親王にも失礼だと思う。
 しかも、この話は
 擾乱が起きる以前にどっかの僧侶が天狗の談合を垣間見て
 その後、実際すべてがその通りになった
 …という筋書きなのですが
 どう見ても、結果を知った者完全後出しで捏造した噂話
 という稚拙な風説で、後味の異常な悪さだけが残ります。)



人の世には時に、が勝ち、が負ける時もあって
その時は
に善を、に悪を見出して現実を誤魔化すのではなく
ありのままに「天道是か非か」を問う事で得た教訓を
後の世に生かすべきでしょう。
それが本当の "因果" であるはずです。


「なぜ、天は悪を選ぶ時があるのか…」
 という、もどかし過ぎる命題は
 『観応の擾乱』第二期に突きつけられる事になるので
 覚えておいて下さいw )




そもそも、兄を支える事に至上の喜びを感じていた直義
自分の子が出来たからと言って
我が子を将来の将軍にしようと、いきなり尊氏叛意を抱く
…なんて筋書きには
無理がありまくりもいいとこです。 ヽ(`Д´#)ノ ムッキー!!

私に言わせると
子を授かった直義の心に、一番に浮かんだ最大の喜びは…

「(自分を支えたように)
 将来自分の子が、将軍となった兄の子を支えるんだ」


という眩し過ぎる未来だったと思います。
それはつまり…

 自分がいなくなった後も「自分を支えていける」

という事を意味する訳で
直義は本当に、こういう事に究極の喜びを感じるようなやつなのです。
如意王の誕生は直義に
(ありふれた欲望なんかではなく)
もっと美しい自信希望を与えた事でしょう。


(まあこの辺は、今は妄想にしか聞こえないと思いますがw
 この先色々なエピソードが明かされていけば
 きっと賛同してもらえると思います。)






…という訳で
私は基本的に『太平記』はとても好きなのですが
だからこそ
この如意王の話だけは、何が何でも認められん!!
断固として改心を要求します!!

とは言え、何かの生まれ変わり…とか思いたくなるほど
如意王の存在が常識では考えられない気がするのは確かな訳で
『太平記』の説に異を唱えるのなら
じゃあ、これをどう説明するのか…
という難問に直面する訳ですが―――


しかし安心して下さい、この謎については
なんと、尊氏が有り難い証言を残してくれています!!
もちろん一次史料でw  Σ(゚Д゚;) マ・ジ・デ!!?

如意王はもっと特別な存在です。
きっと、直義が純粋だからこそ授かった奇蹟なのでしょうw





ところで、「如意王」って
如意宝珠 → 地蔵菩薩 を連想させるから
どっちかっていうと尊氏っぽい命名のような気がしませんか?

直義が、自分の初めての子の命名を尊氏に求めた
…というのは200%くらい有り得そうな話ですが
如意王の正体を知っていた… かも知れない尊氏なら
実に付けそうな名前だな〜 と私は妄想していますw





奉納☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆八幡大画伯!!






さて、「正月奉納連画」が出揃った訳ですが
繋げると今年の本意は…

 「the truth in 太平記」

です。

……。
新年早々痛いこと言ってすみません。
で、でも、キャッチコピーは多少厨二なくらいが
め、目が覚めていいんじゃないかと…



(まあ気を取り直して…)
これは、"軍記物語としての"『太平記』の真実…という意味ではなく
『太平記』が描いている時代…すなわち "太平記時代"
歴史の真実が甦るように
という気持ちを込めた願いです。



『太平記』というのは
鎌倉時代末、後醍醐天皇の即位(1318)くらいから始まって
『元弘の乱』(1333)による鎌倉幕府終焉
約2年半の「建武の新政」を経て
尊氏直義による室町幕府の創設(1336)
それから13年間の
北朝幕府による天下の秩序回復京都安定期
その一方で打ち続く南朝との戦い
そして『観応の擾乱』(1349〜)を境に再び訪れる乱世
それを生涯最後の仕事として平定し
人生の幕を閉じた初代将軍尊氏(1358)
最後は、次の世代である
2代目将軍義詮初代鎌倉公方基氏の時代の終わり(1367)まで
…という
壮大な歴史を記した一大軍記です。


約50年間と言う期間の長さと
激しく動いた「動乱の時代」という事で
登場人物も多岐にわたり
も留まることなく移り変わって行くので
読む人によって、その主題主人公も様々だと思いますが
ただやはり
この時代に、誰よりも特別な存在感を放っているのは…
足利尊氏だと思います。



…というと
方々から反発を受けそうですがw(本当にすみません m(_ _)m )
決して他の魅力的な登場人物を否定している訳ではなく
それでもやっぱり『太平記』って
尊氏が活躍していた25年間が妙に輝いている… というか
それゆえ尊氏亡き後
世界が急に精彩を欠いてしまうように感じるのは
人々の心に
ぽっかり穴が開いてしまったせいなのではないかなぁ… と。


『梅松論』に…

「この(尊氏の)ような将軍の時代に生まれ合い
 国民が軒を並べて楽しみ栄える事が出来るのは
 なんと目出度い事だろう」

とあるのは、大袈裟な事でもなんでもなく
本当にそういう人だったんだろうと思います。

尊氏を中心に時代が回っているように見えるのは
(決して室町好きの私の贔屓目ではなく)
やはり、当時の人々の心がそこに最も惹き付けられていたから
…という必然なのでしょう。



(※ちなみに私、現時点では
 『太平記』断片的に読んでしまっていて
 頭から通読していないので
 実は全く以て偉そうな事を言える立場ではありません。
 そのうち通読します。 本当にすみませんww m(_ _)m )




そんな訳で
この "太平記時代" を語るなら
尊氏と、それから直義が中心となる事に異論は…
(…あると思いますが、取り敢えず今は大目に見てw)



とは言え、この時代は
尊氏直義で完結するものではなく
『太平記』が次代義詮基氏まで綴っているように

 「次の時代に繋いで行く者達」

もまた…
いや、尊氏と直義の遺志を受け継いだ "彼らこそ" が
この物語の "帰結" を語ってくれる訳で
それが誰かと言えば―――

 足利高経 上杉憲顕

この二人なのです。




という訳で
前々々回の「室町的鎌倉旅行記(その2)」
 「太平記時代の主人公レベル
  尊氏直義高経の他にもう一人いる」

と言いましたが
最後の一人は…上杉憲顕です。

(先日頂いたコメントで、従兄弟の憲顕の事が触れられていて
 奉納連画描いている最中だったので
 「ちょw ばれてるばれてるww」とお茶吹いてしまいました。)





尊氏亡き後の時代では
足利高経は京都の "管領" として
上杉憲顕 "関東管領" として活躍するものの
そこまで注目されていない…というか
脇役であって
主人公と見られる事は先ずありませんが
しかし、この二人の目線で時代を見る事で
隠れた真実が明らかになります。


特に上杉憲顕
『観応の擾乱』を境に幕府を離脱した後
復帰までに10年以上のブランクがあって
しかも、その他の上杉一族もほぼ姿を消していた
という状態の中で
もしかしたら…
そのまま歴史に名を残さず時が流れてしまった可能性すらあるのに
その後は「関東といえば上杉」
となるまでに確固たる地位を築いていくのは
単なる偶然では無い
"ある意志" が働いた結果だと見るのが自然です。



この二人がどう時代を繋いで行ったのか
あるいは、なぜ二人が時代を繋ぐ主人公として選ばれたのか
それが…
"太平記という時代" に込められた祈り
物語の帰結です。


(しかも4人はほぼ同年代、というネタ的奇蹟!!
 だれがシナリオ書いたん? (´・ω・`) )




という訳で、今年の本意は開き直って

 「the truth in 太平記」

で行きたいと思います。

どこまで届くか分かりませんが
もし "鳳凰" を見かけたという方がいましたら
目撃情報をお待ちしております。 わくわく


それでは
どうぞ本年も、よろしくお願い致します m(_ _)m



posted by 本サイト管理人 at 20:27| Comment(0) | ★チラ裏観応日記