2016年03月04日

「バーボン室町」開店のお知らせ

(御案内)

こんばんは、本サイト管理人です。

さて、突然ですが
前々からもっと気軽にてきとーな事を言いたいなぁ
と思っていて、この度
チラ裏ブログ『バーボンMuromachi』を始めてみました。

内容は…下らないものになる予定です。
ただ少し、日々の片隅室町を思い出してもらえたら
そう思って
駄弁ってみることにしたんだ (´・ω・`)



posted by 本サイト管理人 at 21:53| Comment(0) | (御案内)

2016年03月09日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の続きです。



☆☆☆ はじめに… 今日の注意事項 ☆☆☆

本文中の建武3年(1366)の元号については
便宜上「建武」で統一してありますが
『大日本史料』では、建武3年正月〜10月までは
「延元」表記になっているので(※建武3年=延元元年)
この期間の "引用元" を示すに当たっては
 「『大日本史料』延元元年○月○日
と表記してあります。
御注意下さい。
(ちなみに同史料の10月以降は
 11月2日〜12月20日「建武」表記
 12月21日以降は、南北朝分裂の為「延元・建武」併記
 となっています。)

これはどういう事かというと…
歴史的には
建武3年2月29日、改元で「延元元年」に(at 新政権)
(↑同史料では、改元があった年は
 遡って年始から新元号表記となります)

しかしその後11月2日、和睦により光明天皇の御代となり
「建武3年」に戻るため
形式上、このように変則的な事になっている訳ですが
実態としては…
つまり武家方の認識では
8月15日の豊仁親王(つまり光明天皇)践祚の時点で
既に「建武」継続の方針は固まっていた… というか
2月半ばには光厳院の「院宣」を拝受していたので
3月以降も武家側はそのままふつーに
「建武」で通していたってゆう。
だから実際の史料では「建武3年」表記のものが非常に多く
この期間(3〜10月)における「建武」元号は
実質上は無視出来ない存在になっています。

…うん、気にしない、細かい事気にしない。
この時代は頭固いと付いて行けない。生きてけない。 
ま、『大日本史料』データベースでは
どちらでも検索可能なので大丈夫です。

☆☆☆ おわり ☆☆☆





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆今日の舞台は
建武3年(1336)〜建武4年(1337)






さて、建武2年(1335)8月当初は
『中先代の乱』の余波の偵察という
尊氏マル秘ミッション
奥州に赴任したであろう足利家長ですが
11月になって天下の情勢は一変
11月2日、直義による「打倒!新田義貞」の一斉軍勢催促
11月19日、尊氏討伐を掲げた新田義貞軍が京都より東下
そして12月半ば
『竹之下・箱根の合戦』で勝利した足利軍
遂に京都を目指す事を決める訳ですが
その足利軍の西上を追撃するべく
12月22日に北畠顕家軍が奥州「多賀」を出立
この時、同国にいた足利家長斯波家長
現地の相馬一族らと共に、その進軍阻止に立ち上がります。
 (『大日本史料』建武2年12月22日)

ただしこの時は
北畠軍を食い止める事が第一目標…というより
北畠軍が去った後の奥州〜関東
守備を固める事が主眼だったようで
各々が所々の城郭で北畠方勢力と交戦する一方
家長相馬重胤らはそのまま南下して鎌倉に入り
今後の戦略を立てていたようです。

(※相馬重胤の次男相馬光胤を奥州に下国させて城郭を構え
 現地の戦に備えています。(行方郡「小高城」
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

(※ちなみに北畠顕家
 建武3年正月13日には近江国に入っています。)




ところで、この頃の関東
尊氏たちが大軍を引き連れて西上した後ですから
かなりすっからかんだったと思われます。
そんな鎌倉の留守を預かる、という
重大任務を託された数え16歳の少年大将家長… (´;ω;`)
とかもう、最初の設定だけで泣ける話ですが
建武3年(1336)2〜3月には
再び北条時行党の蜂起があったり
 (『大日本史料』延元元年3月25日)
奥州に帰った相馬光胤たちも
それから2か月以上続く激しい戦いが始まっていて
 (『大日本史料』延元元年3月22日)
その上京都では
建武3年(1336)正月、一旦入京に成功した尊氏たちが
まさかのカウンター&ダメ押しパンチ(at 兵庫)で
九州までサプライズ船旅…
なんつー聞いてない話になっていましたから
この頃鎌倉を守っていた家長たちは
それこそ毎分毎秒を決死の覚悟で生きていたと思います。

(※この頃の尊氏たちの足跡については
 本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)



しかし、何といっても
この年の最大の危機は…
建武3年(1336)正月の一連の洛中合戦の後
3月まで京都に滞在していた北畠顕家
義良親王と共に、再び奥州へと戻るのですが
 (↑この時は父北畠親房は同行せず)
その帰国の途次、鎌倉周辺を通過する際に起こった
4月16日の相模国片瀬川での戦いです。

この戦で家長は―――
昨年の奥州以来忠節比類なく戦い続けた
相馬重胤(しげたね)相馬胤康(たねやす)を失う事に!!
(´;ω;`)そ、そんな…

相馬胤康は最前に馳せ向かって4月16日に討死
 相馬重胤「法華堂」(※鎌倉の源頼朝の廟所)にて自害。
 (明確な日付は不明ですが、おそらく胤康と同日かと。)
 …『大日本史料』延元元年4月16日)

(※ちなみに相馬胤康
 昨年末、奥州での家長の挙兵を受けて参陣する際
 建武2年(1335)12月20日付けで
 子に「譲状」を託しています  (´;ω;`)ウッ…
 …『大日本史料』建武2年12月22日)




な、なんという大打撃…
建武3年(1336)2〜3月といえば
京都では、新政権軍が尊氏たちを追いやり
すっかり勝利の甘美なムードに包まれていた頃な訳で。
(↑この頃の慢心した新政権内
 時代が尊氏に流れつつあるのを看破していたのは
 ただ一人楠木正成のみ… )

一方、4月半ばの鎌倉には
九州での尊氏たちの勝利(3月2日)は伝わっていたようですが
(『大日本史料』延元元年4月11日
 建武3年4月11日付けの斯波家長の奉書を見るに
 情報の行き来はしていたようです。 なおこの奉書は
 「尊氏の計らいで、相馬重胤に奥州の闕所地を預け置く」
 という内容のもの。
 重胤が今日まで重ねた戦功は、ちゃんと尊氏に伝わっていて
 生きている内にその恩を受け取る事が出来たんだ… (´;ω;`) )

しかし4月16日時点では
九州からの尊氏たちの東上開始(4月3日)の報が
届いていたかどうか… くらいの状態ですから
明日の行方を知らぬ家長たちの窮地たるや
まるで…
取り残された少年兵ホワイトベース状態!! Σ(゚Д゚ )なぬ!!???


しかも、ホワイトベースの艦長ブライト19歳ですけど
家長は数え16歳(満14〜15歳)だから
アムロ(15歳)が艦長やってるようなもんですよ!!
なにそのハードモード!!



…ってまあ、そんなガンダムの話はどうでもいいのですが
こんな、設定からしてギリギリの鎌倉にあって
その上次々に襲い来る試練にもめげず
少年大将家長は―――
実に甲斐甲斐しく
尊氏から託された任務を全うして行くのです。


この頃(※幕府再興前〜開始初期)の家長の活動に関しては
様々な発給文書が残されていて
軍勢催促、(戦功をあげた部下への)感状
本領安堵所領預置
寺社領への違乱停止、(将軍の祈祷料として)寺領の寄進

それから
部下への恩賞下賜の為の(京都の幕府への)軍忠の披露
(これこれこんだけ頑張ったので
 (部下への)恩賞よろしくお願いします!…というもの)

…などなど
本当に立派に働いて泣かせます。


(※この辺の事は…『大日本史料』のデータベース
 キーワード「斯波家長」で検索か、数行の要約なら
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 後半を)


しかも、京都からの(恩賞の)返事が遅れれば
軍忠についての「誓文」を添えて、重ねて注進したりして
(※誓文…絶対絶対嘘ではありません!という神仏への誓い)
部下の恩賞獲得の為に、必死に頑張る家長

(『大日本史料』延元元年4月16日
 …『相馬岡田文書』建武4年4月17日、同8月18日
 『大日本史料』建武4年4月1日
 …『相馬岡田文書』
 しかもこれは、前年に片瀬川で討死した相馬胤康
 これまでの数々の軍忠に基づき
 残されたその子息相馬胤家(乙鶴丸)への本領安堵
 京都の幕府に重ねて求めたもの。
 (↑恩賞関連は、尊氏と執事高師直の管轄)
 「前回誓文が無かったから、疑われちゃったのかな…」
 と心配したらしい。
 亡き部下の忠節に何としても報いようとするこの純真さ… )



やばい、今日はもう涙腺がやばい (´;ω;`)





さて一方、その後の建武3年(1336)の京都では
九州から奇蹟の大復活を果たした尊氏たちの
5月の『湊川の戦い』
5月晦日〜6月の入京
(この頃、比叡山に立て篭もる新政権軍との合戦が続く)
8月の豊仁親王(=光明天皇)践祚
11月の後醍醐天皇との和睦
そして『建武式目』を掲げて、武家政権の本格再開―――

…と
を味方に付けた尊氏の止まらぬ快進撃で
時代は一気に塗り替えられ
手探りで戦い続けた鎌倉の家長たちにも
心安らげるひと時が訪れます。

(この辺りの展開って… 結果を知っていると
 「ふーん、すごいね!」くらいの感覚ですが
 改めて常識の範囲で考え直してみると
 超常現象以外の何ものでも無いような気がするのですが
 …まあいいか。)


ただ…
南朝方に依然として
北畠顕家新田義貞という勇将が健在である間は
やはりまだ、それは "仮の安息" でしかなかった訳で。





北畠顕家
建武3年(1336)のおそらく5月末〜6月初め頃までには
奥州「多賀」に帰国したと思われますが
下向の途次でこそ、次々と足利方を制圧していったものの
 (上述の4月16日の片瀬川の戦いの他
  奥州での相馬光胤たちの決死の奮闘がまた… (´;ω;`) )

しかしその後…
まず常陸国では、これより先建武3年(1335)2月
一旦優勢を獲得した瓜連城周辺〜同国南部新政権方勢力は
 (『大日本史料』延元元年2月6日)
建武3年(1336)7、8、12月
および翌建武4年(1337)2、3月にかけて
常陸国北部からの足利方の反撃により南に追いやられ
以後、劣勢確定となってしまいます。



―――※以下、常陸国での合戦次第―――

『大日本史料』建武3年12月11日、瓜連城陥落の事。
…『茂木文書』建武3年7月12日の、家長軍勢催促状
常陸国の敵方蜂起により(大将として)
 足利少輔三郎(←誰かは謎、たぶん石橋辺りの誰か?)
 を差し下す」とあり
7、8、12月の合戦を経て、12月11日に遂に落城。

『大日本史料』建武4年正月10日
常陸国の合戦での伊賀盛光の戦功を賞する、直義感状

『大日本史料』建武4年2月21日
足利方大将石塔蔵人(頼房?)、相馬親胤など
常陸国関城(南朝方)を攻める事。

『大日本史料』建武4年2月24日
常陸国小田城(南朝方)で24日、26日、29日合戦の事。
3月10日、小田城主小田治久(南朝方)国府原に出向
伊賀盛光(北朝方)「多勢の中に懸け入って散々に合戦


…などなど。
当時の(北朝幕府方の)常陸国守護佐竹貞義
佐竹一族の指揮のもと
陸奥国南部に拠点を置く陸奥国御家人
伊賀盛光の活躍を伝える文書が多く残っています。



※その他、この頃の北関東での両者の攻防戦は…

『大日本史料』建武4年3月5日、下野国小山城(北朝方)周辺
『大日本史料』同4月11日、下野国宇都宮
『大日本史料』同7月4日
7月4日下野国小山城(北朝方)が攻められ
7月8日常陸国関城(南朝方)に反撃
(↑両城、20km位しか離れてない)…まさに攻防戦
(…この辺、足利方大将桃井貞直

『大日本史料』同7月是月
佐竹義春たち、常陸国東条城笠間城(共に南朝方)を攻める

…などなど。

―――――――――――おわり――――





北畠顕家の奥州帰国後の京都では
九州からの足利軍の復活、入京、和睦、幕府再興
…と、楠木正成の先見通りの未来が訪れる事になったのは
上述した通りですが
この1か月半後の建武3年(1336)12月21日
突然和睦破棄して吉野へ逃れた後醍醐天皇
各地の南朝方(=これまでの新政権方)へ挙兵を促して
全国的戦闘の再開を指示し
奥州の北畠顕家にも
東国の武士を従えて即刻上洛すべしとの勅書が下されます。
(『大日本史料』建武3年12月25日
 この勅書は延元元年12月25日付けの宸筆(直筆)
 つまり単独和睦破棄4日後という早さ。)



しかし、この頃の北畠顕家周辺では
上述の北関東だけでなく
奥州でも南朝方の劣勢が進行していて
遂に翌建武4年(1337)正月8日
北朝幕府方の攻勢の前に
陸奥国国府「多賀」を保ち切れなくなった北畠顕家
それよりずっと南の陸奥国伊達郡「霊山(りょうぜん)城」
義良親王と共に退却を余儀なくされてしまいます。
(『大日本史料』建武4年正月8日)

(※霊山城は、福島県の霊山の山頂辺りにあった城。
 場所は、現在の福島市と当時の行方郡の間くらい。)



そしてこの移動を境に
両者の攻防戦はさらに激しさを増していき
上述の勅書への、正月25日付けの北畠顕家の奉答には…
当国(=奥州)擾乱」のため
不本意ながら上洛延引してしまっている申し開きと
霊山も敵に囲まれ、近日合戦に出る事
下国の後は日夜籌策(ちゅうさく)を廻らす」ばかりの日々に
心労」を重ねる切実な現状が綴られている…
という。
(しかし勅書を拝見して
 そんなつらさも吹き飛びました!…と続く。)
 (『大日本史料』建武4年正月25日)

敵ながら、うーん… (過酷…)




―――※以下、北畠顕家霊山退却後の合戦次第―――

『大日本史料』建武4年正月26日
相馬胤頼(松鶴丸)ほか相馬一族、奥州宇多荘熊野堂を奪還。
(↑これは相馬光胤たちへの仇討ちといえる執念の奪還。
 涙腺崩壊な詳細は後日 (´;ω;`) )

『大日本史料』同3月10日、奥州行方郡周辺で6月まで合戦続く。
行方郡「小高城」4月9日より
足利方大将中賀野義長相馬胤時など昼夜9日間の防戦。

『大日本史料』同3月17日、足利方伊賀盛光奥州退治の軍に合流。
常陸でも奥州でもすっ飛んでって働きまくる伊賀盛光…w )

『大日本史料』同4月1日、奥州楢葉郡ほかで合戦。
足利方大将石塔蔵人(頼房?)

『大日本史料』同5月18日
足利方大将中賀野義長伊賀盛光など、「霊山城」を攻める。
反撃に出た南朝方と、奥州椎葉郡・行方郡で合戦。
…『岩城飯野八幡文書』建武4年9月1日の家長の奉書は
伊賀盛光の戦功を賞し、急いで(京都に)恩賞のお願いするね!
というもの。


(※実は、前年の建武3年(1336)5月
 北朝幕府方は、相馬一族の主要拠点行方郡「小高城」
 南朝方に落とされていて
 建武4年(1337)初頭に始まった霊山〜行方郡周辺での
 この一連の攻防戦は
 まさにプライドを懸けた、弔いの反撃でもあったのだ!)

――――――――――――おわり――――






このような情勢の中
北畠顕家が再び京都を目指して「霊山城」を後にしたのは
勅命が下ってから半年以上が過ぎた翌年の秋
前回の、足利軍の西上を追った建武2年(1335)12月の上洛から
2年も経たない建武4年(1337)8月11日事でした。
(『大日本史料』建武4年8月11日)

(※以上、この辺の概要については…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の、p.184-186 を。)



(というか、この南朝方の兵の酷使を見ていると…
 北畠顕家が、あの激し過ぎる内容の奏状を書いた覚悟が
 なんかすごい分かる… とか思ってしまう。
  (↑新政権の過ちを訴えた諫書のこと)
 京都で戦、奥州で戦、撫民や和平より大義の戦
 在地の窮状
 京都奥州の間の気の遠くなるような移動距離
 大義の前では、わずかも思い遣られる事はなく
 精神論でワープでも出来ればいいんでしょうが
 彼らだって人間なんだから、食いもんがなきゃ動けない訳で
 (そしてそのしわ寄せは全て道中の民衆達の不幸となる訳で…)
 しかし、そんな過酷な京・奥州間の行程も
 建武4年(1337)8月11日の出発を最後として
 翌建武5年(1338)5月22日北畠顕家の切実な叫びは
 7日後に遺言となってしまうのです。
 敵ながら… (´;ω;`) )






この後の事は
先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」で解説した通りです。

ただ、8月11日「霊山城」を出立した北畠軍ですが
途中、下野国小山城での足利方の抵抗もあり
上野国と武蔵国の境、利根川に達したのは実に4か月後
12月に入ってからでした。
(『大日本史料』建武4年8月11日
 『上杉家文書』建武4年9月3日付けの直義御教書
 上野国から駆けつけた上杉憲顕
 小山城で敵を退治した事を賞したものですが
 一方、『結城古文書写』(※南朝方の文書)では
 来る12月8日に、小山城足利方への攻撃を予定している
 とあるので、かなりの時間が経過していますが
 その後の北畠軍大軍化からみるに
 軍勢が集まるまで時間がかかったもよう。)



しかし、12月以降の南朝北畠軍の進撃は早く
12月13日の利根川合戦、16日の武蔵国安保原の合戦
そして12月23日には鎌倉に討ち入り
24日の合戦を経て
遂に12月25日、「杉本城」
落城の日を迎えてしまうのです。 (´;ω;`)はぁ…





…ところで
北畠顕家進軍の早さ(=移動日数の短さ
よく語られるところですが、これはもちろん
第一の要因には、北畠顕家の統率力の高さが挙げられるだろうし
錦の御旗を掲げている事もその一つと言えるかも知れませんが
いま一つの理由には…
「ホームとアウェー」の問題があったのではないかと思われます。
 (※ただし通常の用法とはちょっと違う意味で。)


建武5年(1338)正月2日
鎌倉を出て京都に向かう北畠軍の行軍についての
有名な『太平記』の一節…

北畠顕家の率いる奥羽の50万騎の大軍が
 夜を日に継いで(=昼夜の別なく)
 海道を道いっぱいに広がって上洛して行ったが
 (彼らはアウェーの者達なので)
 路次の民屋では略奪を尽くし、神社仏閣焼き払って行った
 この軍勢の過ぎ去った後は、地を払ったように
 一軒の家も、一本の草木も残らなかった」


…まさに焦土。

(※これについては…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の p.187-188 と
 『大日本史料』暦応元年正月2日)



もちろん、兵粮の現地調達は北畠軍に限った事ではなく
どの戦においても
軍勢の通り道となった土地の民衆の被害苦しみ
想像するだけでもマジ鬱 (´;ω;`) …な話でいたたまれませんが
特に奥羽の軍勢にとっては、関東以西アウェーですから
通り過ぎた後の事を考慮する必要が無く
速度を最優先すれば当然
その惨状は、想像を絶するものとなったのでしょう。

これが足利軍だったら
東海道には味方の所領が沢山ある、いわばホームなので
土地に対する思いも、少しは違うものがあったんじゃないかと。


(…というか、現地奥州では「多賀」でも霊山城でも
 北畠顕家はあんなに苦戦していたのに
 京都へ遠征となったら(50万騎は誇張にしても)
 ここまで軍勢が膨れ上がっていったのはなぜ??
 …とか素朴に疑問。 アウェーだから??
 南朝北畠顕家といえば「強い!」のイメージで通っていますが
 奥州での軍勢召集の時間のかかり方をみても
 ホームではなぜか厳しい北畠軍… )





建武4年(1337)12月25日に「杉本城」を落とした北畠軍
上述のように、翌建武5年(1338)正月2日には
早々に鎌倉を後にして上洛を再開しますが
道中に比べたら、鎌倉は遥かに物資に富んだ都市ですから
この1週間の間にどれだけ鎌倉は奪い尽くされたのだろう…
と思うと
足利方の総大将家長が、どう見ても勝ち目の無い北畠の大軍を相手に
決死の覚悟で徹底抗戦に挑んだ気持ちが
なんか痛いほど分かってしまって、もう… (´;ω;`)ウウッ
(おそらく、去年の北畠軍の奥州帰国の際も
 結構な被害に遭っていると思われる。)


鎌倉京都という都市は
外から攻められる事に非常に弱いので
戦力差が圧倒的なら逃げるしかないし
互角若干の劣勢なら
一旦退いて敵を誘い込み、攻守反転した上で一斉攻撃
…という作戦が有効で
これはよく『観応の擾乱』時尊氏が取った戦略ですが
しかしこの時、家長鎌倉での防戦を選んだのは
経験の浅さによる誤算なのではなく
上記の理由をその一つとして、もしかして家長
負けるのが分かってて「杉本城」に向かったのではないか?
と、ふと思う訳ですが…

それでは、家長勇気を与えたのは何だったかと言うと―――




私は先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」
この時に鎌倉での防戦を主張した『太平記』の逸話は
当時数え8歳の千寿王(義詮)によるものではなく
関東執事かつ総大将だった家長の言葉だろうと言いましたが
これは、上述の家長多岐にわたる活動を鑑みれば

「自分は東国の管領を任されているから…」(『太平記』)

という強い自負を持って生きていたのは
間違いなく家長だと
賛同してもらえると思います。

ただ、建武2年(1335)8月に15歳奥州へ旅立ってから
2年と数ヶ月の家長の足跡を追っていて
もう一つ思う事がありました。



この『太平記』の逸話を意訳すると―――

利根川合戦以来、士気を失った足利方劣勢により
 一旦安房上総への退却を相談する面々に対して
 家長(※『太平記』では千寿王)が主張するには…)


「そんな意見はあなた達らしくない!
 戦においては、必ず一方は負けるものなのだから
 負ける事を恐れていたら、なんて出来ない。
 俺は東国の管領を任されて鎌倉にいるのに
 相手が大勢だからと言って、一戦もせずに逃げたとしたら
 敵にあざけられるだけじゃないか。
 たとえ味方が小勢であっても
 敵が押寄せれば馳せ向かって戦い
 敵(かな)わなければ討死すればいい。
 もしそこで逃げるべきとなったら
 その時は、一点突破して安房上総に退き
 その後、上洛する敵を追って(京都の手前の)宇治・勢多
 (西からの)味方前後から攻めれば
 きっと敵を倒す事が出来るに違いない」


…と、思慮深く道理を尽くして訴えたので
みなこの一言に励まされて、討死覚悟で鎌倉での決戦に挑んだ
という訳ですが
この眩しいまでの勇ましさ
思うに、この時の家長の心の中には
昨年の建武3年(1336)4月
奥州へ帰国する北畠軍との片瀬川の合戦
鎌倉を守って果てた
相馬重胤相馬胤康の姿があったのではないかと。





建武2年(1335)8月の奥州赴任
おそらくそれまで父高経のもとにあった家長にとって
一人で手勢を率いての初任務だったと思われます。

…という事は、奥州の相馬一族
家長にとって、初めての自分の部下だった訳で
しかも、相馬重胤たちの忠誠ぶりは
本当に素晴らしいの一言に尽きるのですが
 (↑実は今回紹介し切れなかった史料が…)
斯波家(※当時は足利尾張家)の嫡男とは言え
まだ十代半ばの駆け出し大将でしかない自分を信じて
支えてくれる彼らの存在は
相当励みになったと思われます。
 (鎌倉が極端に手薄だった建武3年(1336)前半は特に。)
家長相馬胤康の恩賞に必死だったのも
こういう心情的な背景があるのではないかと。


(この頃、家長に属して活躍した奥州相馬一族
 惣領の相馬重胤をはじめ
 家臣も含めてかなりの数に上ります。
 (…『相馬文書』などの着到状や軍忠状より。)
 当時の敵味方の流動性の高さ
 一時期の足利勢の致命的な劣勢を考えると
 彼らの一貫した姿勢
 わりとかなり特筆すべき事かと思います。)




もちろん、武家社会は広いですから
家長には、譜代の家臣も鎌倉時代以来の御家人層もいて
建武3年(1336)後半からは、京都からの帰還組も増えて
多くの部下を「関東執事」として統率していたのでしょうが
しかし奥州「斯波殿」として初めて出会って以来
鎌倉までも付き従い
足利軍の未来が絶望に瀕した時期を共にし
そして、鎌倉を守って戦死を遂げた相馬重胤たちには
たとえどんなに恩賞の吹挙(すいきょ)を頑張っても
結局は、同じように命を懸けて戦う事でしか
彼らの忠節に報いる事が出来ないと
17歳の少年ならそう考えてしまうんじゃないかな。

そして今、今度は自分があの時と同じ状況にいる
そうなったら
迷う事など何もなくなってしまうでしょう。



(※先日解説したように、「杉本城」陥落後
 上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂らは
 千寿王(義詮)を擁して一旦鎌倉を脱出し
 その後、軍勢をひたすらかき集めて北畠軍の後を追う訳ですが
 これが上記の家長の言葉の通りである事からすると
 もしかしてこの言葉の真意
  「 "自分が" 討死したら、残った者達は鎌倉から逃れて
   そして敵を追ってくれ」

 という覚悟だったのかも知れない…
 と、深読みしてしまう (´;ω;`) )




一般に、奥州相馬一族の去就については
足利軍建武政権と決別した時、足利方になった」
…くらいのさらっとした書き方で
家長との関係を掘り下げたものはあまり見かけない気がしますが
(というか、そんなマニアックな事気になって仕方ないのは
 私くらいでしょうが)
でも、誰もが通り過ぎてしまう歴史の片隅
本当の物語が待っている
というのが、この太平記時代の特徴です。
一次史料だけなら、誰もが目に出来る形で知れ渡っているのに
その一歩先に広がる世界
見ようとしてくれる人がいない
というのもまた、この太平記時代の負った宿命です。

つまり… 太平記時代の実力こんなもんじゃないよ!!
きっとまだ
とんでもないものを隠しているに違いない… Σ(゚Д゚ )なぬ!!???





うん、まあ最後の方は
若干妄想が入ってしまっているかも知れませんが
でも、ここまで調べる切っ掛けをくれたのが
去年の秋の『杉本寺』への訪問だったので
きっと、そんなには間違っていないんじゃないかなぁ…と
自分では思っています。


というか、あの時は正直言ってこの辺の事
全っっ然知らなかったから
 「高経の嫡男家長〜〜ルンルン♪」
くらいのあほあほな気分で行ったので
もう一回行かない事には話にならなよね (´・ω・`)
今度は、源頼朝の『法華堂跡』相馬重胤をなむなむしに行こう
と、思いますた。はい。







独り立ちした15歳の家長が戦った日々は
2年と4か月と言う短い時間だったけれど
尊氏たちが去った後の鎌倉を背負い
建武政権との対峙から幕府再興という激し過ぎる時勢の中で
見事に任務を全うしていきます。
奥州での最初の出会いは
まだ幼かった少年を、一人の立派な武将へと成長させました。
決して敵に背中を見せる事をしなかった家長の最期が
残された者達の勇気となって
翌年の勝利に繋がったのだとしたら
それは、紛れもなく「任務完了」という事で
胸を張って将軍尊氏に報告出来るのでしょう。


(実際、分かっててもあそこで戦わなかったら
 東国武士南朝化を促進してしまっていただろう
 …とは思う。 人心って戦の行方を左右する一番大事な要素。)



家長「杉本観音堂」で最期を遂げてから
来年でちょうど680年ですが
今になって、私が家長を知る事になったのも
何か意味があるのかも知れない… という事で

 680年後の未来に届くほどの輝きを放った数え17歳の生涯

これを私なりの "答え" としたいと思います。

なにか、遠く離れた星の光
今初めて地球に届いた… みたいな不思議な気分。


つまり太平記時代は―――

六百うん十光年先の宇宙に、今も存在してるんだよ!!
Σ(゚Д゚ )なぬ!!???




うそです☆


でも、重力波も検出されたらしいし
そろそろやつらも検出され…  うそです☆



足利家長




――――※最後にワンポイント――――

建武2年(1335)12月に
尊氏たちが上洛した後の鎌倉の体制
形式的には…
 「主君」千寿王(義詮)を補佐する「関東執事」足利家長
となりますが
 (つまり「千寿王の意を奉じて政務を行う」という形)
ただし実質的には
総大将家長を年上の足利一門家臣たちが支えて
諸事を執り行っていた感じでしょう。
恩賞関連では
尊氏の意を奉じた家長奉書も多く残っています。
(※奉書(ほうしょ)…主人の意を奉じて出す文書。
 この場合、尊氏の意を受けて家長の名前で出す文書。)


 以下、自分用メモ↓
『大日本史料』延元元年4月11日(相馬重胤宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月10日(小早川宗平宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月28日(小山大後家宛、所領預置)
『大日本史料』建武3年11月22日(相馬親胤宛、所領預置)
『大日本史料』建武4年7月16日(甲斐大善寺に料所寄進)
(↑これは奉書ではないけど
 将軍尊氏の御祈祷の為のもの、という事で一応)



つまり家長は…
数え15歳〜17歳に最も人生を輝かせた
少年大将かつ少年執事のみならず実質少年主君
しかも、飾りじゃなくて健気に働きまくる上に
尊氏マル秘ミッションのエージェントだったりもして
んでもって高経長男(その上、高経数え17歳の時の子w)
…とかいう
ネタ的にわりと果てしなく夢が広がる感じ。



(※ついでに余談ですが…
 尊氏のマル秘エージェントは、他にもまだ数人います。
 (先日紹介した高経はその最たるものですが、他にも…)
 これに気付くと
 特に『観応の擾乱』スペシャル異次元化してくるのですが
 もちろん、マル秘なので一見したところでは分かりません。
 ほんの少しの勇気を持って覗き込めば
 その一歩先に、もう一つの世界が広がっているのです。
 Σ(゚Д゚ )なぬ!!??? )



―――――――――おわり―――




…という訳で以上
建武3年(1336)〜建武4年(1337)の
「足利家長関東編」でした。

というか、今日話したかったのは
家長の従兄弟の兼頼(かねより)の動向だったんですが
またまたその前提の話で終わってしまいました。
相馬関連の話が興味深々過ぎました。)

つまり… さらに次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月21日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」
の続きです。
ようやく本題です。



まずは今日の本題その一
足利家長の年下の従兄弟である兼頼(かねより)
建武3年(1336)あたりの動向です。

(※兼頼は、足利高経の弟家兼(※初名時家)の次男で
 のちに羽州探題最上家の祖となる人物です。
 当時は足利兼頼(竹鶴)とも、斯波兼頼とも。)



さて、もともと建武政権時の高経
越前守護としての活動や
紀伊国飯盛城での合戦で活躍した記録があるので
当初、高経一家(そしてたぶん家兼一家も)は
尊氏と同様に京都(時々越前に滞在していたようです。
そして建武2年(1335)8月
『中先代の乱』鎮圧の為、尊氏に従って東国へ向かう軍勢の中に
高経の名前が見えるので(at『太平記』諸本)
(※以上、この辺の事は…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.375-377を)

この時、家長兼頼ほかの子供達も
一緒に鎌倉に赴いたのでしょう。

(ただし、幼い兼頼や家長以外の弟達
 遅れて下向、あるいはもともと上洛せずに
 鎌倉周辺に留まっていたとも考えられますが
 まあ、細かい事はいいか。)


その後すぐ、家長は単身奥州を管領しに出発しますが
建武2年(1335)12月以降(おそらく年明けくらい?)には
尊氏たちが去った鎌倉に戻り
以後は、千寿王(義詮)を補佐する関東執事として
奥州を含めた東国の統治を担う事になります。

(この "鎌倉新体制" はもちろん
 すべて尊氏の指示によって築かれたものでしょう。
 (家長の発給文書に見られる明確な権限からするに。)
 「直義が死んじゃうぅぅーーー!!」とか言って
 てんやわんやで鎌倉を飛び出した割には
 きっちり事後の事を考えているという
 わりとマメな男尊氏。)

こうして見ると
家長東国の管領を任されるに至ったのは
事態急変による偶然の要素が強かったんだなぁと思う。





さて、鎌倉に戻った家長
尊氏たちが京都時代を動かす大仕事をしている間
武家の聖地東国を保守するという
地味だけど重要なミッションに着手します。
その一環として
前回少し触れたように
奥州から行動を共にしていた相馬重胤(しげたね)の
次男相馬光胤(みつたね)を帰国させ
奥州相馬一族の主要拠点、行方郡「小高城」
来(きた)る戦に備えさせます。
(『大日本史料』延元元年3月8日)


この計画は
『相馬文書』建武3年3月3日相馬光胤着到状によると

斯波殿(御教)書ならびに親父重胤事書に任せて
 今月八日下国せしむ」


…とあるので
家長相馬重胤相談して決めたんじゃないかな、と思う。
相馬重胤の「事書」(←色々言い付けを記したもの)が
建武3年(1336)2月18日付けなので
それから程無く鎌倉を出発して
3月8日行方郡小高に到着した相馬光胤たち
3月13日には早々に、押寄せる新政権方との戦闘を開始し
その後息つく間もなく
激しい攻防戦を繰り広げて行く事になります。



(※ちなみに…
 この『相馬文書』建武3年 "3月3日" 相馬光胤着到状
 日付についてですが…
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 214)

 この着到状3箇所目の欠損による空欄[ ]
 『相馬文書』建武3年2月18日相馬重胤事書目録
 の第二条と照合すると
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 209)

 「成[御敵一]族等押寄楯…」だと推測でき、従って
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写
 第一条の合戦の事だと思われるので
 (↑『大日本史料』延元元年3月22日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 223
  「一族等引別為御敵之間、三月十三日
   押寄同心一族相共対治畢」)

 3月3日ではなくて "3月13日" の事なのでは?と思う。
 (3月3日じゃ小高城到着前だし、「今月八日」が
  2月4月という事も有り得ないので。)

 『南北朝遺文東北編』第1巻は2008年発行ですが
 既に他にどこかで指摘されている事だろうとは思いつつ
 一応、自分用メモとして記しておきます m(_ _)m )





やっと本題☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆兼頼登場!!





さて、ここで今日の本題その一が関わってくるのですが
相馬光胤たちはこの時
 「足利兼頼に属して(=兼頼を大将として)奥州へ向かった」
のです。
(『大日本史料』延元元年3月8日
 …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


この兼頼の立場はつまり、これまでの家長のそれな訳で
奥州の管領を任務としていた「斯波殿」家長
関東執事と言う立場になったので
おそらくそれまで鎌倉にあった兼頼
家長の役割を継承する事になった、と見ていいかと思います。

ただし、この時の兼頼
まだ「大将軍 足利竹鶴殿と幼名で呼ばれているように元服前
(『大日本史料』延元元年3月22日
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写)

家臣の氏家道誠が代理として判形(花押)を加えていた
…という子供大将だったのもあり(※上記、氏家道誠注進状案)
史料を見る限りでは
奥州全域の総大将という訳ではなく
 「奥州行方郡周辺の作戦での大将」
という限定的なものだったようですが。

(この方面での軍事作戦では、常陸国守護の佐竹一族
 この後、石塔義房桃井貞直なども参戦して
 指揮を取っているのと
 兼頼の奥州での活動期間は
 結果的に1年間ほどだったようなので(※少し後述↓)
 もともと建武3年(1336)2〜3月という緊急事態での
 臨時的な名代だったのだとも考えられます。)


とは言え
相馬一族と共に奥州での作戦に従事する」というは
まさに家長の分身と言えるかと思います。



という訳で、先日
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭の追記のお知らせ
兼頼「家長の分身的立場にあった…」と言ってみたのは
以上の事実を根拠にしたもので
それで、戦死した家長の代わりに
兼頼「鬼切」が渡ったのではないか?…と想像した訳です。





ちなみに、この家長と兼頼の関係を反映している
…のかも知れないもう一つの形跡があって
(【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.387 註(13)
 原文は『大日本史料』暦応元年10月5日
 または『南北朝遺文関東編』第1巻 890 より…)

『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状案の末尾に
 「志波殿 承候了 在判」 (※志波=斯波)
とあるのです。
(※『南北朝遺文』によると、
 この「志波殿」の文字は案文に記された後筆です。)

つまり
家長が戦死した1年弱後である暦応元年(1338)10月に
足利方として戦った常陸国の烟田時幹軍忠状
「一見しました!OK!」の判を加えた「志波殿」とは誰か?
という話ですが…


これは、『大日本史料』と『南北朝遺文』では
(兼頼の父である)家兼(=高経弟)としていて
上記文献では
(当時京都方面で活動が見られる家兼とは考えられない
 という的確な指摘から)

『茂木文書』建武3年7月12日の家長の軍勢催促状にある
「足利少輔三郎」であり、且つ
家長の子(養子)とされる詮経(※後述↓)と同一人物
と比定されていますが
ただ、数え17歳で他界した家長
既に成人した人物を生前に養子にとっていた
…というのは少々考えづらいので
この「志波殿」
普通に兼頼を指すものと見ていいような気がしますが…

家長亡き後、当時関東で「斯波殿」と呼ばれ得るのは
一時奥州相馬一族の大将も務めた同族の兼頼以外に
いないのではないかと。
(判自体は、兼頼代理の氏家道誠のものだったかも知れませんが。)


(※この頃の奥州では、建武4年(1337)春夏頃から
 中賀野義長石塔蔵人(頼房?)が指揮を執り始めていて
 (『大日本史料』建武4年3月10日、4月1日など)
 また、兼頼家臣氏家道誠の奥州での活動を伝える史料は
 建武4年(1337)2月6日付けの
 武石道倫への本領安堵の奉書が最後のようなので
 (『大日本史料』建武4年2月6日)
 兼頼が奥州で大将だった時期はおそらく
 建武4年(1337)正月26日合戦(※詳しくは後日)
 くらいまでだったと思われ
 暦応元年(1338)には鎌倉〜関東近辺にいたと考えても
 無理は無いように思います。)


そうすると兼頼
(関東限定の一時的な認識としても)
家長の名跡を継いでいたと言えるかも知れません。






――――――※ちょっと余談――――――

家長の名跡を継いでいたかも…」
とか、さらっと言ってしまいましたが
斯波に行った事もなければ家長実子でも養子でもない兼頼
「斯波殿」と呼ばれていたとしたら
それはあまり看過出来ない事のように思うので
ちょっと気になる事を、ついでに突っ込んでおきます。


家長関東執事として
建武3年(1336)〜建武4年(1337)12月25日まで
2年間ほど鎌倉で活躍しますが
この関東執事が後に関東管領と呼ばれるようになるので
(便宜上)家長は「初代関東管領」とも言われます。

で、家長の次に関東執事に就任した2代目は誰かと言うと
上杉憲顕なのですが、その就任時期は
建武5年=暦応元年(1338)5月頃になります。
(※建武5年8月28日「暦応」に改元)


これはなぜかというと、先日解説した通り
建武4年(1337)12月「杉本城」の合戦の後
鎌倉を脱した上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂たちは
軍勢をかき集めて上洛し
「青野原の戦い」畿内での南朝方との合戦に従事していた為で
上杉憲顕が再び鎌倉に戻って来たのが
建武5年(1338)5月末〜6月初めくらいの事だったからです。

(※以上、この辺の事は…
 【黒田基樹編『関東管領上杉氏(シリーズ中世関東武士の研究
  第十一巻)』(戒光祥出版)2013】
 …の、第2部T
 「小要博『関東管領補任沿革小稿 ― その(一)―』1978」)



つまり、家長卒後から上杉憲顕の就任まで
関東執事は半年弱ほど空席の状態だった訳ですが
まあ、鎌倉の主君である千寿王(義詮)も三浦に避難していて
鎌倉に帰って来たのはこの年の7月11日なので
 (『大日本史料』暦応元年7月11日)
建武5年(1338)の前半と言うのは
先の建武3年(1336)の前半と同じくらい
人員的にもすっからかんな非常事態だったと言え
平時の体制が整わなかったのは仕方の無い事でしょう。


…とはいえ、それでも人々の日常は続いていく訳で
政務の継続が求められる以上
一応の代表者と言うのはやはり必要になります
特に武家政権では。

とすると、この主要人物軒並みかっさらわれた鎌倉
形だけでもいいから代表者になり得る人物って…
と考えると、やはりここは
足利尾張家の子息兼頼しかいないのではないかと。



もちろん、実際の政務は鎌倉に残った数少ない御家人や
兼頼家臣の氏家道誠が執り行ったのでしょうが
もし、この建武5年(1338)前半の半年間に

兼頼は "鎌倉の代表者として" 家長の後継者に立てられた

…という事実があったとしたら
上述の『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状
「志波殿」なる記述はもしかして
兼頼がこの時、家長「斯波殿」という肩書きを

鎌倉代表と言う "地位の裏付け" として継承していた

という事実を反映したものなのではないか?
…との推測も可能かと思います。


(※建武3年(1336)3月時点で「足利竹鶴殿」だった兼頼
 建武4年(1337)正月時点でも
 家臣氏家道誠が代理で花押を据えていた幼子大将ですが
 暦応2年(1339)3月には「式部大夫兼頼」と元服済みなので
 (『大日本史料』延元元年3月8日
  …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)

 もしかしたら、この建武5年(1338)前半の事情の為
 (早めに?)元服したのかも知れません。)


(※それから、10月時点では既に上杉憲顕が関東執事で
 また、常陸国の豪族である烟田時幹はもともと
 常陸国守護の佐竹一族の指揮下にあったのですが
 (『大日本史料』建武4年2月24日、7月是月『烟田文書』)
 ただ、この暦応元年(1338)10月の合戦は
 実はかなりの緊急事態でして…
 同年5月北畠顕家、続く閏7月新田義貞の戦死により
 戦略変更を迫られた南朝方
 奥羽〜東国での南朝勢力再建を企図し
 南朝の重鎮北畠親房9月、伊勢国から海路で常陸国に漂着
 これが、常陸国南部を中心に5年にも及んだ長期戦の
 幕開けとなったのでした。 
 つまり、北畠親房の登場という
 関東勢にとっては相当衝撃的な重大事件でして
 急遽、鎌倉から「斯波殿」兼頼が特任大将として向かった
 という事は十分に有り得るかと思います。)



という訳で、もしこの推測が少しは的を射ていたら
家長の「斯波殿」という称号が
単なる「居所由来の家名」ではなく象徴的意味を持っている
という先日の一考とも合致しますが
何より、家長と兼頼の関係
(奥州の大将としてだけではない)
想像以上に "近い" ものだった
という事が明らかに…なった、かも知れない? Σ(゚Д゚ )!!!??


ただ、これが「関東執事と言えるか?」と言われれば
あくまで臨時の "機転" であって正式なものではなく
でも実質的にはそれと同等の立場を想定してたんじゃないかなぁ…
くらいに個人的には思うのですが
 (これでもちょと言い過ぎかな?と思うのですが)
しかし暦応2年(1339)3月に
既に任官して「式部大夫兼頼」となっていると言う事は
もしかしてもしかしたら
京都の指示の上での正式な "何か" があったのかも知れない
とも考えられてしまうので、うーん… 何ともw

(あの尊氏が、半年近くも中途半端な状態で鎌倉を放置する
 とはとても思えないし、特に「斯波殿」の名乗りは
 そんなに勝手にはしないだろうと思われる訳で… )


まあここでは取り敢えず
初代関東執事足利家長と2代目上杉憲顕の間の

 1.5代目関東執事(仮)「斯波殿」兼頼

…という可能性だけ、提示しておきたいと思います。


(ここまで突っ込んどいて何ですが
 この仮説、まるで見当外れの可能性もあります
 \(^o^)/ナンテコッタ )



――――――――――おわり―――――





という訳で
「いいかげんマニアック情報やめて… (´・ω・`) 」
みたいな話になってしまって申し訳ありませんが
「鬼切」高経から兼頼に伝わった背景が
どうしても気になって気になって仕方なかったので
 (え、みんなも「鬼切」気になるよね?ね?)
高経の亡き長男家長兼頼の関係を掘り起こしてみました。



この暦応元年(1338)の「志波殿」兼頼を指すのだとしても
その後の、奥州〜東国での兼頼に関係しそうな史料は
翌暦応2年(1339)の家臣氏家道誠による
相馬胤頼の(2年以上前に遡る)軍忠についての
再度の注進状くらいなので
(『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

家長亡き後、しばらくは関東にいただろう兼頼
2〜3年以内には京都に移ったのだと思いますが
しかしほんの一時期でも
家長の片腕となり、その跡を継承した(ような気もする)日々の記憶は
長く残ったのではないかな… と思います。




ただ…
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭お知らせの最後
ちょっと追記(2016.2.29)しておいたのですが…
「鬼切」の伝わり方は
もうちょっと複雑な経路をたどったのかも知れない
…とも思う訳で。




すまん.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから再び家長情報





家長は数え17歳で他界してしまったので
『武衛系図』に

 「無子、自斯波養子云々」

…とあるように
子が無かったので "斯波" より養子を迎えたらしく
(※ここでいう斯波とは "他系統" くらいの意味かと)
実際、『奥州斯波系図』には

 家長 ― 詮経 ― 詮将 ……

と、家長の子に詮経(あきつね)
その孫に詮将(あきゆき)が記してあって
後にこの系統が奥州斯波郡に定住し
(おそらく詮将の代から)代々当地を治めて行く事になります。

ただ、養子と言っても
これは家長の没後しばらく経ってから
おそらく父高経の意向で
名目上…というか名誉的意味合いを込めて
長男家長の跡として由緒ある奥州斯波の地を継がせる為の
便宜だったのだろうと思います。(※詳しくは後述↓)

(家長の孫とされる「詮将」
 高経の次男氏経の子(=家長の弟の子)である「義高」
 同一人物とも考えられていて
 私もそう思いますが(もしくは兄弟?)…まあ詳しくはまた。)





そんな訳で
家長には実子が無く、名目上の子孫が跡を継いだらしい
そうなのかふむふむ… で終わるかと思いきや―――
終わらないのです。 Σ(゚Д゚ )ナント!?



実は『常楽記』に
 「文和二年五月 斯波三郎入滅 十七歳
…という記録があって
文和2年(1353)5月に享年17歳(=生年建武4年(1337))
斯波三郎って誰だよ!!
と突っ込まずにはいられないこのネタに
え?家長養子?? 実子…な訳ない、よね??
と、私はずっと疑問に思っていたのですが…。

(この時点では「斯波」は一族の家名として定着してないし
 当然家長はもういないし
 でも "三郎" は代々この家系の多くが通称としていて
 主要人物っぽい気配満々だし
 (家長は正確には弥三郎だが(『相馬文書』)
  『太平記』では斯波三郎と記されていて
  それで通っていたようだ)
 何より生年が、高経家兼の子とするには中途半端で
 該当者がいない… \(^o^)/ドウイウコッタ )

しかしその後
【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
…の p.14 で
「斯波三郎=詮経」としているのを読んで
あ、やっぱり家長の子でいいんだ
と呆気なく解決した、という次第であります。

(※これについては
 【今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 下』
 (新人物往来社)1988】の「斯波氏」の項 p.42 にもありました。)



……。
てゆうか、一件落着でほっと一息お茶飲んでる場合じゃないですよ!!
これはつまり

 家長には、「杉本城」で戦死する年に生まれた実子がいた

って事じゃないですか!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?

わたし的には、わりと不意打ちな衝撃的事実なんですが
…まあいいか。


(※ところで『常楽記』では
 通常の俗人「他界」と記されていて
 「入滅」と表現されているのは結構な高僧に限られるので
 なんかちょっとうっかり間違えたのだと思いますが
 まあ、死因は病などの平時のものだったのでしょう。)




しかしそうすると、上記の『武衛系図』の
「子が無かったので斯波より養子を迎えた」
という記述は家長ではなくて
実際は、家長の実子斯波三郎(=詮経)のものであって
どちらも享年17歳だったので、のちに混同してしまった
…という可能性もあるかも知れません。

詮経の「経」が祖父高経の偏諱である事からすると
 (※「詮」はのちの2代目義詮の偏諱)
将来を期待していただろうに… 高経ショック (´;ω;`)
(この頃は、高経の次男氏経や三男氏頼
 父を支えて活躍し始めていたとは言え… )

おそらく、この斯波三郎(=詮経)の跡を絶やさぬ為に
惣領高経の意向で
次男氏経の子詮将を名目上の養子としたのだと思われ
従って上記の『奥州斯波系図』の記述は正確には

 家長 ― 詮経 = 詮将 ……

となるのでしょう。(※=は養子関係)





という訳で
上のブログ記事の冒頭の追記で
「鬼切」兼頼に渡ったのは文和2年頃かも知れない…」
と追記しておいたのは
可能性の一つとして…

建武5年(1338)閏7月2日の越前の合戦
「鬼切」は一旦、家長の忘れ形見三郎詮経に渡ったのだが
17歳にして父家長と同じく早世してしまったので
ショックを受けた高経
かつて東国〜奥州家長の分身として頑張った兼頼
家長の面影を偲んで「鬼切」を受け継がせたのかなぁ


…とも考えてみた訳ですが、うーん?
(※この翌年の文和3年(1354)
 兼頼は父家兼や兄直持と共に、奥州へと旅立ちます。)




ただやはり
「鬼切」兼頼に渡った背景が
東国での家長と兼頼の関係にあるのなら
(↑もちろん、この仮説自体が誤りの可能性もあるけどw
 でもこれ以外に「鬼切」兼頼の接点を見出せない… )

暦応2年(1339)以降
程無く京都へ移っただろう兼頼
建武3年(1336)という一番大変だった時期を乗り越えた
家長兼頼 "二人の" 功績を讃えて
当時直接、高経から兼頼「鬼切」が捧げられた
…と考えた方が自然でしっくり来るように思います。

幼くして鎌倉に残っていた兼頼
それゆえ、大将として戦場に赴くという重責を負った訳で
それは特別に褒められていい事なんじゃないかと。

(兄直持が嘉暦2年(1327)生まれなので
 弟兼頼は2〜3歳は離れていたとすると
 1329〜1330年生まれくらい?でしょうか。
 (ちなみに千寿王(義詮)は1330年生まれ)
 とすると奥州に赴いた建武3年(1336)は数え7〜8歳
 暦応元年(1338)でようやく9〜10歳といった所。)




まあ、真実のみぞ知る訳ですが
私としては、建武5年(1338)閏7月2日の奇蹟的な勝利に
高経はきっと家長の事を想っただろう
…と思っているので
東国帰り兼頼
戦功への褒賞と感謝の意を込めた「鬼切」
受け渡されたのではないかと、そう想像しています。





―――――※最後に豆知識―――――

文和3年(1354)
奥州管領として京都から当地へ移った足利家兼一家はその後
家兼の長男直持の系統の奥州探題大崎家
(…拠点は、宮城県仙台市の少し北辺り)
家兼の次男兼頼の系統の羽州探題最上家
(…拠点は、山形県山形市「山形城」)
の2流に分かれ
そして奥州斯波郡の地(※岩手県盛岡市の南)
高経の長男家長の養子としての奥州斯波家(高水寺斯波家とも)
が定住し、以後
奥羽の斯波一族はこの3系統が栄えて行く事になります。

(※奥羽両探題についてはこの後(40年後くらい)
 鎌倉公方2代目足利氏満、3代目足利満兼の時代に
 鎌倉府との関係で色々と色々な事になって行きますが
 …まあ、先の事はいいか。)



それではおまけに、前々回の奥州〜関東周辺地図
マイナーチェンジ版をどうぞ↓

家長兼頼の奥州関東地図


―――――――――――おわり―――



以上☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆家長兼頼鬼切
あったかも知れない昔々のお話



さて、ようやく本題…といいながら
結局本題その一までしか終わりませんでした。
というか、実はその一すら終わってなくて
兼頼相馬光胤の話まで行けませんでした。

という訳で次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:30| Comment(0) | ★チラ裏観応日記

2016年03月29日

二周年です

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
突然ですが、本日3月29日は… 本サイト開設記念日です!
という事で2周年を迎えました。


去年のブログ記事「一周年です」では
「正確な日付は自分でも不明…」とか
てきとーな事言ってしまいましたが、これはなぜかと言うと
本サイトをUPしたのは3月29日なんだけど
ブログ『Muromachi通り』3月24日に始めてしまっていて
何これどうしたらいいの!…と混乱した為ですが
やはり記念日はちゃんとしておこうと思いまして
3月29日をスタートの日とする事にしました。
ちょうど桜も咲く頃だし
毎年心を新たにするにもいい日です。

そんな訳で
ネットの片隅でしがない室町幕府応援活動を始めて
2年となりました。
まだまだ世間にも宇宙にも何の影響も及ぼせてはいませんが
いつか必ず、室町時代の真価は天地の知るところとなる…
と大袈裟に信じていますので
これからもよろしくお願い致します m(_ _)m



「きっと彼らはもう一度戻って来てくれる…」
そんな願いを込めて、今年も記念の奉納絵を描きました。
モデルは本サイトの主役「明応世代」より
私の原点公方11代目足利義材(よしき)(左)と…
実質初登場の畠山尚順(ひさのぶ)(右)です。



足利義材・畠山尚順
(※クリックすると拡大します。1000×750px)


なんか去年と雰囲気変わんない…

自分でも描いてて
技法センスにほとんど向上が感じられなくてやや絶望したので
お花いっぱい舞わせて、希望に満ち溢れてるっぽくしてみました。

(※明応世代のキャッチフレーズについては
 当ブログ「夏休みの宿題(その2)」
 "三応兄弟" の三男「We'll be back!!」を御覧下さい。)




さて、主役といいながら
最近とんと『明応の政変』関連はご無沙汰していて
尊氏直義時代に嵌り込んでしまっていますが
決して『明応の政変』への興味が薄れた…とかいう訳ではなく
それどころか許されるなら
今すぐにでもいくらでも語り出したいくらい
義材畠山尚順他のメンバーも大好きなのですが
ただ、室町の歴史ってのは
もうとにかくあっちもこっちも意外な真相ばかりで
どっからどう手をつけていいのか
ああ、もうああぁぁぁーーーーーー!!!
と錯乱している
…という話は以前もしましたが、それに加えてここ最近
短期間に太平記時代の知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだせいで
『明応の政変』関連の情報が脳からはみ出していっちゃってて
 (なんてスペック低い脳みそなの…)
解説を始めるには改めて知識入れ直さなきゃならんから
そうすると本腰入れる為に
まずは尊氏直義時代の解説に一応の目処を付けないと…
ってなって、ああもうあああぁぁーーーー
とかいう輪廻錯乱です、もう (´;ω;`)



というかそもそも…
南北朝動乱期のように
日本史の中でもそこそこ知名度人気もあって
相当に詳しい人も多いという時代ならまだしも
『明応の政変』って
太平記時代が天体ならこっちはUFO未確認飛行物体かよ!!
ってくらい、見た人が誰もいないレベルの知名度なので
(…って言い過ぎかw
 じゃあせめてMFO(むーえふおー。む確認飛行物体
 ってどうでもいいか)

そういう訳で
どんな風に説明していったら上手く伝わるのか
見当が付かなくて困っていたりします。

(まあ、考え過ぎなのでしょうが
 でも義材畠山尚順は本当に良い奴なのに
 なぜか酷く誤解されているので (´;ω;`)
 どうしても本当のところを上手く伝えたいのです。)



ま、取り敢えず今日のところは
これまで概要に触れたブログ記事を挙げて
ごくごく簡単におさらい… でお茶を濁したいと思います。


「畠山義就(その3)」の後半

『応仁の乱』終結の5年後、河内国を舞台に
畠山義就畠山政長(※尚順の父)の対決が再開します。
(この頃、旧西軍義就は河内国誉田で「俺の城」経営中
 旧東軍政長は幕府で管領をしていて京都在住だったのですが
 これ以降、河内国に在国して義就と対峙を続けます。)

しかし、8年間の対陣の後
二人は決着を果たせぬまま義就が他界。
その2年と少し後
つまり『応仁の乱』終結後15年以上
置き去りにされて来た両畠山家の問題に、遂に終焉を告げるべく
義就方畠山(※当主は義就次男の畠山基家の居城
河内国「誉田城」へ向けて
11代目将軍足利義材率いる大名連合幕府軍が出陣します。
(↑この幕府軍側が、畠山政長とその嫡男畠山尚順
 ただし出陣と言っても
 当初は戦闘ではなく話し合いでの和睦を企図していて
 出陣時はみな優雅なものだった。『金言和歌集』)


しかしその時…
すなわち明応2年(1493)4月の京都において
義材を廃し、新将軍(のちの12代目義澄)を擁立するという
ごく一部の首謀者によるクーデター『明応の政変』が起こり
河内の義材・畠山政長たちの幕府軍と
京都のクーデター政権との立場が逆転。
我先にとクーデター政権に恭順の意を示し
昨日までの主君を忘れて保身を図る大名が多く
屈服を良しとしない大名
抵抗を諦めて国に帰還してしまい
状況はまさに "一変" してしまうのです。

そしてそのひと月後の翌閏4月
幕府軍の本部、河内国「橘嶋正覚寺」において
将軍義材と共にあった畠山政長が家臣数名と共に自害
嫡男畠山尚順紀伊国へ逃れ
そして将軍義材京都へ護送され、幽閉の身となるのですが…
しかし2か月後
味方の手引きにより大雨夜陰に紛れて脱出
それから再び京都に戻るまでの15年間
夜明けを目指す戦いが始まるのです。



「畠山義就(その5)」後半

『明応の政変』を攻略する為の視点
王道覇道正邪を正しく見極める事で
当時の世論・人心を的確に掴み、本当の歴史を捉える事が出来ます。
(↑ここを間違えると
 『明応の政変』は180度まるで違った事件になってしまうので
 極めて重要なポイントです。)


それから、畠山尚順にスポットライトを当てた話を少し。
『明応の政変』その後の15年では
流浪将軍義材として
大名・奉公衆・国人・寺社勢力・公家衆…と
様々な立場の者達が各地で活躍していますが
やはり、京都を包摂する畿内において
都に王手をかけられる唯一の存在として
 「畠山尚順こそが天下の期待を一身に背負っていた」
という事実は
この歴史的事件を
権力者目線ではなく)天下の人々の目線で理解する為の
最重要ヒントの一つとなります。

視点を変えれば真相が見えて来る、それが『明応の政変』です。



「夏休みの宿題(その2)」

"sunrise 三兄弟" の三男「Stand for Sunrise!」
"三応兄弟" の紹介の冒頭と、三男「We'll be back!!」の箇所で
ざっと輪郭を解説。

『明応の政変』はこれまで

「(社会的合意の無い)"力" によって将軍権力が否定され
 その結果 "力" による権力掌握が社会に "許容" された歴史的画期
 戦国時代の幕開け」


という理解が主流だったようですが
しかしそれは、この政変を
事件が発生した明応2年(1493)4月末〜閏4月末の
"点" として見て "全容" で捉えない場合にのみ成り立つ解釈です。
『明応の政変』 "帰結" までを含めた15年の物語として見る事で
その本来の歴史的意義が明らかになります。

社会が "力による理不尽" を許容しなかったからこそ
将軍義材は15年後、人々の喝采の中で京都に返り咲いたのです。



…などなど。



うん、極めててきとーにマクロな概念的解説で
不親切もいいとこです。 本当にすみません m(_ _)m


まあでも、『明応の政変』どマイナーとは言え
ネットで検索すれば結構な情報が集まるので
個人的に気になって気になって仕方ない事を
やっぱり先走って言い訳しておきたいと思います。




歴史学的☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆レジスタンス




まず、最初に浮かぶ疑問は
 「この政変はなぜ起こったのか?」
という事だと思いますが
一般には
 「諸大名 "一致団結" して、新米将軍義材を追放した」
と思われがちなようですが
決してそういう訳ではありません。

(※『応仁の乱』後、父義視(※義政の弟)と共に
 それまで11年以上美濃国で暮らしていた義材
 京都に戻ってからこの時点で約4年
 正式に将軍になってからは3年弱で、それ故
 義材は「京都における基盤が脆く味方が少なかった
 という考察が主流ですが
 しかし、これはあくまで政変から逆算した考察であって
 当時の日記の記録では
 新米将軍義材奉公衆にも大名達にも普通に受け入れられ
 (少なくとも政変首謀者となった一部勢力以外とは)
 上手く行っていた様子が読み取れるのです。)



政変当時は、クーデター政権による情報操作
諸大名一味同心している」との虚構が大々的に発表されたのですが
それはもちろん、政変を正当化する為のであって
 (※以上3行、2016.4.24追記)
この突然の政変に驚いた大名の中には
義材と(政変で擁立された)新将軍義澄との "和睦" と言う形で
事態の収拾を模索している者がいるらしい
…という噂まであったように
多くの者達にとってこの事件は、不意打ちの強行でした。
(※『大乗院寺社雑事記』閏4月19日
 大名達は、義材の側近の一人には不満を抱いていたのだが
 義材自身には背くつもりも
 まして追放など望んでいなかったのが実際です。)


しかしそれでも… 善悪を差し置いて従うしかない "理不尽な権威"
背後に控えていたのです。



それからまた、この政変は
「将軍義材の方に非があり
 いち大名が将軍のすげ替えに成功して
 幕府権力を掌握し "専制政治" を敷いた画期的な事件

といった感じで
権力の下克上を評価するような見方がありますが
その視点はあくまで現代のものであって、当時の現実とは違います。

当時の世論においてこの政変は
人道に背く極めて卑劣なものであり
評価どころか、人々から非常に厳しく非難されていた事は
上掲のブログ記事でも触れましたが
そもそもこの政変の背後にあったのは
(いち大名の権力ではなく)
8代目将軍義政(※この時点では既に故人)の "御台の権威" であって
この政変を遂行させたのは、政所頭人伊勢貞宗の計略です。
(↑特に、将軍の直臣たる奉公衆
 義材から瞬時に大量に離反したのは伊勢貞宗の策
 伊勢貞宗(さだむね)は、当ブログでも度々登場している
 あの "きのこ" です。)


一般に "一番の首謀者" と見做され
クーデター計画を立てた策謀家のように思われている大名
細川宗家の当主細川政元(まさもと)は
実は、政変で主導権を握っていた訳ではなく
一貫した姿勢も持っていなかった節があり
その後の言動からも
幕府権力の掌握・独占専制政治を望んでいたとは
考えられないのです。


(※以上、『明応の政変』についてもっと知りたい!となったら
 【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】
 …の、第一章(それから第二章、第三章も出来れば)
 を一番にお勧めします。専門書ですが分かり易いので是非。)





…という訳で
いきなり何がなんだか分からなくなって来ましたが
『明応の政変』(…の発生原因)を解く最大の鍵
首謀者である

 義政の御台、細川宗家細川政元、政所頭人伊勢貞宗

この三者の思惑には
実は "かなりのズレ" があった、という事実です。

(さらに言うと、細川宗家内では
 当主の細川政元とその家臣内衆)たちの間で
 思惑利害も相当なズレがあり
 実際には(当主細川政元の意図とは反する)
 内衆の一部の思惑が実行されています。)



従って…
政変当時は、京都でも河内でも
様々な細かい事件・出来事が発生しているのですが
その一つ一つについて
 「どの事件誰の思惑によるものか?」
という事を慎重に紐解いていく必要があります。
(とにかく一枚岩でもなければ
 単に権力を求めた下克上ではない点が最大の注意点です。)


特に、伊勢貞宗の行動の意図・背景はとても複雑で
前者の2人の意図とは… "隔絶" しています。
(なんたって、深く追求すればするほど
 伊勢貞宗誰の味方か分からなくなってくる、ってゆう。)

しかしここにこそ
『明応の政変』本当の姿が隠れていると思われるのです。




政長☆.*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆お前ってやつは…な話




ところで、かなり以前の話になりますが
私は当ブログ「畠山義就と畠山政長」の最後で
この政変での(大名での)唯一の犠牲者である畠山政長
"敗れた" のではなく
 「死ななければならなかった訳ではないのに
  敢えて自ら自害の道を選んだ」

と言いましたが
それはなぜかと言うと…


先ず一つに、この政変の目的は一般に
 「(将軍義材だけではなく)
  将軍義材 "政長方畠山" を幕府から追放する事」

と捉えられていたりもしますが
これは… 半分は結果から逆算した誤解です。
(正確には、主語を誰にするかによって変わってきます。
 "義政の○台が" あるいは "細川宗家の内衆の一部が"
 というのなら当たっていますが… )



当時の日記の記録には
京都にいるクーデター側の細川政元から
河内に在陣する畠山政長へ伝えた意向として

「(政長とは)当家(=細川宗家)は代々扶持関係にあるので
 河内から(政長が)上洛する事を待っている。
 等閑(おざなり、疎遠)になる事は望んでいない。
 ただ公方(=義材)一人に不満があるだけだ」
(『大乗院寺社雑事記』閏4月10日)


という情報があるのです。
つまり、畠山政長自身の身の上を優先したなら
義材を見捨てて上洛する事も不可能ではなかったのです。
ただし、政長がそんな考えを抱く訳はありませんが。


(※『応仁の乱』の頃の
 細川勝元(※政元の父)と畠山政長の関係は
 本サイトでも度々言及した通り、極めて親密良好です。
 乱中は、細川勝元邸内政長の陣所があったくらいですから。
 (『大日本史料』文明3年6月11日)
 ただし、『明応の政変』当時は
 細川宗家の内衆の一部畠山基家(※義就次男)と通じていて
 主君政元に無断で、政長方畠山の排除を目論んでいた事
 (この政変後、畠山宗家の家督は義就方畠山へと移ります)
 それから細川政元自身は
 父の勝元のように一貫した心情がない…というか
 畠山政長に対してはともかく、息子の畠山尚順には
 どうも複雑なものがあったようですが…
 まあいいか。
 ちなみに「将軍義材に不満があった」というのも
 ちょっと一方的な言い分で
 実際はむしろ、これまで細川政元の方が幕政に非協力的
 義材が困っていた訳なのですが… まあ詳しくはいずれ。)




それからもう一つ
将軍義材畠山政長は、布陣していた「橘嶋正覚寺」
細川宗家の内衆の軍に "攻め落とされた"
つまり
 「政長 "合戦に負けて" 進退窮まり自害に及んだ」
と一般には思われていますが
(まあ普通に考えれば
 大合戦があったと思ってしまうのは当然ですが)
しかし意外な事にこの時
実は大した戦はなかったのです。

 「不及一合戦而破了」
((正覚寺の陣は)一合戦に及ばずして破れた)

(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月25日)

これは大和国興福寺大乗院尋尊の貴重な証言です。
驚くべき事に、政長は戦に負けた訳ではなかったのです。
(せいぜい「在々所々」で小競り合いがあったくらい。)


確かに、『応仁の乱』の頃の政長を思い起こせば
「上御霊社の戦い」でも
(※本サイト『2-8』「天に告ぐ!上御霊社の戦い」
「相国寺の合戦」でも
(※本サイト『2-9』「相国寺に紅蓮舞う」
圧倒的に不利な状況にも拘わらず
巧みな戦略戦術奇蹟的な戦い方をするのが
政長のやり方だったはずで
大火災に向かってなお
冷静沈着に自己を保つ強靭な精神の持ち主であり
(※このエピソードはブログ「畠山義就(その3)」の前半を)
窮地に陥った時こそ本領を発揮して来たのが
政長だったはずです。


その政長が、それ程の主力軍ではない敵を相手に
簡単に敗北する訳がない

つまり―――


政長の自害後
「正覚寺」には(政長方より)火が放たれたので
(敵側には)政長の行方は「不分明」だったとあるように
(『蔭凉軒日録』明応2年閏4月26日)
幕府軍の本陣「橘嶋正覚寺」の最後
政長方の "筋書き" によって描かれたものだったのです。



ではなぜ、政長 "敢えて" 自害したのか?
もっと言えば…
自害をして "敗北を演出した" のはなぜか?
それは―――
義材の為だった、というのは想像に難くないと思いますが
政長と共に「正覚寺」にいた義材はこの時
 最後まで義材に付き従った数十名の奉公衆と共に敵方に降り
 京都へ護送となります)

この時の政長の思いと言うのは
上述の伊勢貞宗の思惑と
"擦れ違いながらもリンクする" という悲しい話
かも知れませんので、頭の片隅に置いといて下さい。

(ちなみに畠山政長伊勢貞宗
 かつてはとても仲の良い友達でした (´;ω;`) )




次回の☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆おまけ予告




さて、ちょっとおさらい… のつもりが
なんか益々めいて来てしまったので
今日のところはこの辺で撤退したいと思います。

(上述の解説は概要の為、史料の提示が不完全ですが
 基本的に日記を中心とした一次史料を根拠としています。)



うん、まあつまり何が言いたかったかと言うと…

 義材政長も悪くないのさぁぁぁぁーーーー!!!

これだけ伝われば今日はもう満足です。




ちなみに、本サイト開設記念日という事で
今日はスペシャルなおまけを用意していたのですが…
久々に『明応の政変』の話をしていたら
思いのほか気分が乗って長くなってしまったので
おまけは次回に持ち越しです。



posted by 本サイト管理人 at 23:48| Comment(9) | ★チラ裏日記