2016年06月19日

故令叔大休寺殿に捧ぐ詩(うた)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、突然ですが今日は
去年の9月の記事「十五夜、秋の心」で紹介した直義関連の漢詩について
先日コメントを頂いて(↑この記事のコメント欄です)
すっかり気分が再燃して居ても立ってもいられなくなってしまったので
続きの話をしたいと思います。



それでは、まずは詩の概要から。

この漢詩は、三首の七言絶句で構成された「三部作」であり
以前紹介した其の一「春月催泪」の後に、二首の続きがあります。
作者は禅僧の義堂周信(ぎどうしゅうしん)
鎌倉殿(=鎌倉公方)の足利基氏(※尊氏の実子で直義の養子)の願いを受けて
基氏の叔父で養父の直義に捧げる為に詠まれた漢詩」
というものです。


義堂周信夢窓国師の高名な弟子の一人で
鎌倉においては基氏の帰依を受け
基氏亡き後は、幼い嫡男(※当時9歳)の2代目鎌倉公方足利氏満
教育面での指南役として、主君たるに相応しい薫陶を施し
そして京都では3代目足利義満にも重用され
私心の無い公正な人柄で、東西の足利将軍を教え導きました。

鎌倉滞在中の義堂周信
上杉能憲(※上杉憲顕の実子で、上杉重能(憲顕従兄弟)の養子)
上杉朝房・朝宗兄弟(※上杉憲藤(憲顕の弟)の子)などとも親交が深く
 (…以上、みな関東管領
彼らの交遊からは、上杉一族信仰心の高さや
「慈悲」を以て「君をたすけ、民を救う」政道を求める誠実な姿勢が見て取れますが
(『大日本史料』応安7年12月23日『空華日用工夫略集』)
これらの中でもやはり
初代鎌倉公方足利基氏義堂周信との関係は、特別印象深いものがあります。



基氏は暦応3年(1340)生まれ、 貞治6年(1367)4月26日卒(28歳)で
義堂周信は正中2年(1325)閏正月16日生まれ
嘉慶2年(1388)4月4日示寂(64歳)なので、基氏の15歳年上
そして義堂周信は、延文4年(1359)8月〜康暦2年(1380)3月3日までの
約20年間を鎌倉で過ごす事になるので
(※延文4年は尊氏が京都で他界した年の翌年
二人が親交を結んだのは
基氏は数え20〜28歳、義堂周信は35歳〜43歳の時期となります。

(ただし、基氏は康安2年=貞治元年(1362)冬頃までは
 武蔵国入間川に在陣していて(↓少し後述)
 その頃から既に交流はありますが
 鎌倉に帰って来たのは基氏23〜24歳の時です。)


鎌倉での義堂周信の周辺の人々(武家)についての概要は
【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
…の、第一章「足利基氏」、第二章「足利氏満」

が読み易くてお勧めです。
(↑一般向けの書籍ですが
 多くの一次史料を基に話が進められているので情報源としても有用で
 それぞれの人物の心情を想起させてくれる史料が豊富なので
 時代の流れイメージが非常に掴み易いです。
 こういうタイプの歴史概説書ほんと読んでて楽しい参考になります。)


で、この本より、基氏義堂周信の関係を一部引用しますと…

「関東に下ってからというもの、基氏とは地位など外的なものを忘れて、
 仲間のごとく心で交わってきた、と義堂は日記に記している。」
(※p.59より引用)


…という、めっちゃハートフルな関係だったってゆう (´;ω;`)


義堂周信の日記は『空華日用工夫略集』といい
この引用部分に該当する貞治5年(1366)6月1日条の一部を
【蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集』(思文閣出版)1982】
…より紹介しますと

「(仏法を甚だ重んじる基氏と)遊従すること朝夕、互いに形体を忘る。」

"形体" は、地位などの外形的なものの事。
"遊" は交遊の事。
鎌倉殿である基氏は本来主君の立場であり、地位的には歴然の差がある訳ですが
そんな事は忘れて義堂周信友人のように親しみ、心を交わしたと。

さらに、応安8年(1375)2月7日の事(※基氏他界8年後)
義堂周信が、数え17歳となった2代目鎌倉公方足利氏満(※基氏の嫡男)に
「今年になって文談を聴いたか」と尋ねた所
まだだと答えた氏満に対して語り聞かせた話として…

「ありし日の先君(=基氏)は、毎日のように仏門儒学賢人達を招き
 暇な日が無いほどを談じを講じた為、幕下には優れた人物が集まった。
 いま(=氏満)が先君であるに倣ったなら、きっと天下に帰すでしょう」

そう諭された氏満は素直に了承したそうな。

(※参照、【田辺久子『関東公方足利氏四代』】…の p.80
 【蔭木英雄『訓注 空華日用工夫略集』】…の 応安8年2月7日)




このような基氏の振る舞いは
直義が日々禅僧達を招いて談話し、仏書を講じていた事と
よく通じるものがあると思います。
康永2年(1343)正月16日、直義は自邸に
禅僧の虎関師錬雪村友梅太陽義冲を招いて齋(さい。僧の食事)を供し
その時、本棚から仏書を取り出して
その中の「弥勒下生経」虎関師錬に講じるよう請い
直義はそれをかしこまって聴き感歎したそうで(『海蔵和尚紀年録』)
さらにその帰り際、雪村友梅侍者が見えず
履物を用意する者がなくて一人佇んでいると
なんと、それを見た直義が自ら履物を取って雪村友梅に進めたという…
直義は当時、天下の政道を担う実質最高位の人ですから
どんだけ謙虚なんだよwww ってゆう有り得ない美談な訳ですが
もちろん当時も、この話は盛大に話題になったそうな。(『雪村大和尚行道記』)

(※参照…
 【辻善之助『日本仏教史 第四巻 中世篇之三』(岩波書店)初版1949】
 【堀川貴司『詩のかたち・詩のこころ ―中世日本漢文学研究―』(若草書房)2006】
 …の、第八章「足利直義 ―政治・信仰・文学―」(1992))



…というくらい、禅僧達と身分を超えて交際し
時に自らの立場も忘れ一人の人間として、純粋に智者を敬い尊重していた直義ですが
幼い頃の基氏は、そんな養父直義の姿を良く見ていたのではないかと。




今もそこに☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆直義の思い出




…以上概略ですが、基氏義堂周信の親密な関係が伝わったかと思います。
こんな風に心を通わせていた二人ですので
義堂周信作のこの三部作は、単に美辞麗句を並べた形だけの追悼詩歌ではなく
基氏の心境をありのままに、誰よりも深く、そしてかなり正確具体的に伝えている
…という事を踏まえると
一層その真髄を感じられるかと思います。



ではではようやく、基氏直義に捧げた三部作の紹介です。

(※「原文」の出典は…
 【上村観光編『五山文学全集 第二巻』(思文閣出版)1973】
 …の「空華集」より。
 テキストでは、旧字体を適宜新字体に改めてあります。)



まずはテキスト


(原文)

奉左武衛命三詠詩同故令叔大休寺殿

 其一 春月催泪
明月傷神本在秋 不知春夜有何愁 勧君収取雙雙泪 且向花前酌一甌

 其二 対花懐昔
紛紛世事乱如麻 旧恨新愁只自嗟 春夢醒来人不見 暮檐雨瀉紫荊花

 其三 因衣哀傷
早知夢幻本非真 何必区区更湿巾 尚有愛賢心未忘 緇衣篇裡憶斯人



(訓読文)

左武衛の命を奉り、三詠の詩を故令叔大休寺殿に同す

 其の一 春月、泪(なみだ)を催す
明月に神を傷(いた)むるは、本より秋に在り
知らず、春夜に何の愁か有る
君に勧む、雙雙の泪を収取して
且(しばら)く花前に向かいて一甌を酌む

 其の二 花に対して昔を懐(おも)う
紛紛たる世事、乱れて麻の如し
旧恨新愁、只自ら嗟(なげ)く
春夢醒め来て、人見えず
暮檐(ぼえん)の雨は紫荊花(しけいか)に瀉(そそ)ぐ

 其の三 衣に因る哀傷
早知る、夢幻本より真に非ずを
何ぞ必しも区区として更に巾を湿(しめ)ん
尚、賢を愛する心有りて未だ忘れず
緇衣(しえ)篇の裡(うち)に斯(こ)の人を憶(おも)う


(※訓読文はやや適当です。すみませんw
 詳しくは下の画像を御参照下さい。
 ほんの一部、返り点・送り仮名を変更しています。)




次に原典より、画像もどうぞ。


義堂周信三部作、足利直義・基氏

(【上村観光編『五山文学全集 第二巻』(思文閣出版)1973】
 …の、p.1366より引用)



さらに「三部作」部分の拡大を。


義堂周信三部作、足利直義・基氏

(※引用元同上)



それでは以下、詩の解説と私による意訳を展開致します。
まず、三部作全体題名ですが…
上の「訓読文」は原典通りに読み下したものなのですが、これはむしろ…

「左武衛の命により三詠の詩を同し、故令叔大休寺殿に奉る」

のが意味が通じるような気が…(まあいいか)
どっちにしろ趣旨はこんな感じかと思われます↓


左武衛(=基氏)の命を受けて、三詠の詩を今は亡き令叔大休寺殿に捧ぐ

(※「令叔」(れいしゅく)は他人の叔父の敬称。(令嬢とか令息と同じ)
 「大休寺殿」はもちろん、直義の事です。
 「同」というのは、この三詠の詩が三首で一作品である事を言っているのかと。)




基氏は、延文4年(1359)正月26日に左兵衛督(=左武衛に任官し
貞治6年(1367)4月26日に他界するので
その間の作という事になりますが
義堂周信が京都から鎌倉に下向したのが延文4年(1359)8月なので
この三部作が詠まれたのはひとまず…

 延文4年(1359)8月以降、貞治6年(1367)4月26日以前

…のいつか、という事になります。


"左兵衛督" は、直義が政務を執っていた時代の大半を過ごした官途で
 直義と言えばイコール左兵衛督( or 武衛左武衛というくらい
 今はもちろん、当時も代名詞的になっていたと思われる訳ですが
 基氏「武家申請」(=京都の2代目足利義詮の、朝廷への推挙)によって
 この官に任官したのは… (『大日本史料』延文4年正月26日)
 (こういうのは先例の影響が大きいとはいえ)
 直義を偲んで自ら望んだんだろうなぁ…とは
 誰しも思うところだと思われます、はい。)



基氏は他のエピソードからも
幼い頃からとして接していた直義を、心から慕っていた事が知られ
生涯、いつの日も直義を想い続けていただろうとは思われますが
とは言え、これだけの秀作(内容的には最高傑作)となると
この三部作は
 「 "特別な日のため" に詠まれたものなのではないか?」
と思われる訳で
おそらくそれは、貞治3年(1364)2月26日直義十三回忌であり
この時に捧げられた詩だと見て間違いないんじゃないかと思います。

(この年は京都でも「等持寺」直義の法会が営まれています。
 (『大日本史料』貞治3年2月26日)
 それから、鎌倉では前年3月以降、秋冬までには
 上杉憲顕関東管領として復帰していて
 改めて直義を心から悼む事が出来た色んな意味で区切りの年
 だったように思います。)


…とすると
まだ元服前の13歳の光王が、養父に永遠の別れを告げてから12年
基氏25歳の時の「令叔直義に寄せる想い」という事になります。

もうこの題名だけで泣けてくる… (´;ω;`)



ちなみに、基氏は文和2年(1353)7月28日に鎌倉を立ち(←尊氏の指示で)
9年間ほど武蔵国入間川に在陣して
康安2年=貞治元年(1362)冬頃には鎌倉に戻っている事
それと、義堂周信は貞治2年(1363)10月に一度上洛しますが
翌貞治3年(1364)3月8日には
鎌倉「瑞泉寺」基氏と共に花を観て詩を詠じているので
2月26日には既に鎌倉に帰っていたのは確実…
…という事で
この詩が詠まれた場所は間違いなく12年前と同じ "鎌倉の地"
というのもまた気になるポイントであります。




それではいよいよ本文の解説に参りますが
現代語訳というより、かなりの意訳になってたりもするので御了承下さい。


ではまず、其の一「春月催泪」について
これは以前紹介したので、それを引用しますと…


 春の月に涙する

 明月を見上げて神を思う季節は、もとよりであるのに
 春の夜に、なぜ月に愁いているのか
 その両目の涙が止むように
 (=義堂周信)は(=基氏)に、花前の盃を勧める



この詩が詠まれたのが "春" という事で
やはり直義の命日の2月26日頃の作と見て良さそうです。
(※旧暦の春は、1・2・3月。)
本来、を見上げて物思いに耽る季節はですが
なぜか春の月に愁えそして涙する基氏に、義堂周信が慰めようと盃を勧める
という情景です。
(※「雙雙(双双)の泪」は、両目いっぱいの涙 …の意味、たぶんw )
義堂周信には見えないが(という設定だが)
基氏は独り、春の月の中に
12年前のこの時期に亡くなった直義の面影を見ていたのです。
(どうやら、目の前にも咲いているようですが…)




さて、其の二「対花懐昔」は…


 を懐(おも)う

 世の中が麻の如く乱れに乱れ(その戦乱の中であの人は亡くなった)
 その当時の悲しみと、今もまた新たに生まれる悲しみに、ただ独り嘆き続ける
 ふと春の夢が醒めて、あの人は見えなくなってしまった
 ただ夕暮れの檐(のき)の雨が、紫荊(しけい)の花に降り注いでいる



直義が世を去った『観応の擾乱』の頃の事を思い出しているようです。
幼い基氏(光王)にとって、最愛の養父を奪ったあの擾乱は
永遠に拭い去れない深い傷をその心に残したのでしょう。
(※「旧恨」の "恨" は、ここでは憎しみではなく、悲しみ嘆きの意味です。)

どんなに深い悲しみも、大抵はが癒してくれると言うのに
12年経った今もまだ新たな悲しみが生まれ続けてるって… (´;ω;`)
私はこの詩を見るたび、基氏が抱えていた痛みに呆然としてしまいます。

直義の死をこんなにも悲しみ続けていた人がいたんだ…という事実は
 直義ファンにとってはこの上ない慰めでもあるけれど
 やっぱりつらい… (´;ω;`) )



さて、その続きの第三句と第四句ですが…
春の夢が醒めて夕暮れ…?
さっきまで、晴れた夜空を見ていたはずでは??
と思われるでしょうが、これはつまり…つまり…
先ほどの其の一の詩は、「春の夢」だったという事です。


 (;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


(…といっても白昼夢(という設定))の中で基氏
夜空を見上げて、直義を想っていたのですが
実際は外はまだ夕暮れで、しかもが降っていて当然など見えません。
"花前の盃" というのは基氏現実の世界に引き戻す切っ掛けとなるアイテムで
は夢側、は現実側の象徴です。
義堂周信に盃を勧められて、はたと夢から醒めた基氏
現実にはが出ていない事を知り
同時に月に見ていた直義(=あの人)は居なくなり(幻だったという事)
そして、目前の雨に濡れる花(=現実)に気付くのです。

さっきまで目の前に居た直義はだった…なんて (´;ω;`)

紫荊の花に注ぐ雨の無常さに、胸が張り裂けそうな瞬間です。



(この辺の事はもちろん、実際のエピソードを詩に構成し直した
 「…という設定」の話ではありますが
 (逆に言うと、でありながらほぼ実話…という点は重要です)
 そうすると、(事情を知っているだろう)義堂周信
 「なぜ春の月に」と(わざと?)不思議がって見せている事から
 この月にも、何かしら現実的根拠が有りそうですが… )





ところで、「紫荊」(しけい)というのは「花蘇芳」(はなずおう)の事で
これは新暦の4〜5月前後に開花する大陸原産のマメ科の落葉低木
紅紫色(=蘇芳色)の小さな花を枝いっぱいに密集して咲かせます。
ちょっとこぢんまりしたものですが、参考までに↓
(「ハナズオウ」で画像検索した方が良い写真いっぱいあります
 もっと満開に咲く花です。)



紫荊花


(ただ、「花蘇芳」は江戸時代初期の文献で名前が見える事から
 その頃渡来したとされているようで(でも詳細は不明?)
 しかも「紫荊」で画像検索すると出て来る「洋紫荊」や「艶紫荊」は
 またちょっと違う花なので
 室町初期の「紫荊花」も少し違う品種なんだろうか…
 とか思うけど、おそらくは 
 江戸時代に改めて再輸入され
 その時「花蘇芳」という名で広く知られるようになった、ってだけで
 それ以前に細々と渡来していた可能性が高いかと思います。
 特に鎌倉時代後期は、大陸からの禅僧の渡来が最も盛んな時期で
 禅宗を手厚く保護した執権北条一族が治める鎌倉の地には
 様々な物がもたらされていただろうと思われるので。)



で、この義堂周信作の其の二「対花懐昔」の詩については
これだけ単独で(其の一、三直義基氏などの背景無しに)解釈したものを
ネット上でいくつか見かけることが出来
(↑コメントで教えて頂きました m(_ _)m )
それらのうち、この「紫荊花」を故事に準えて解釈しているものがあって
うーん、そんな故事があったんだぁ… と参考になったのですが
漢籍の『続斉諧記』によるその故事というのは―――
昔、ある三兄弟が亡き父の財産を三等分しようと
家の前の紫荊の樹も三つに切り分けようとした途端、たちまち樹は枯れてしまった。
これを見て驚いた兄弟達は
無理に分けようとした事を恥じて反省し、樹を切るのを止めた所
また元のように元気に繁って花をつけたので
その後は、その他の財産も分けるのを止めて三人で共有して仲良く暮らし
親孝行の兄弟として讃えられるようになったそうな。

この事から「紫荊花」
兄弟が財産を共有して仲良く暮らすこと」を褒めた言葉となったそうで
この意味を踏まえれば
其の二「対花懐昔」 "紫荊花"
尊氏直義兄弟の "思い出" の象徴としての架空の花、とも考えられそうですが
(幼少期を京都で過ごした基氏は、尊氏直義の仲が良かった事を
 良く知っていたと思われるので)
(※ちなみにネット上で見られる解釈は、まただいぶ違った解釈でした)

ただ、この三部作全体を "通して" 意味を考えると
ここでの紫荊花は、あくまで実際に目の前に咲いていた現実の花であって
おそらく12年前も同じ様に咲いていただろう…
という気がします。
(旧暦2月26日過ぎなら、そろそろ開花時期なので。)




という訳で、其の三「因衣哀傷」の解説を先に…


 の中の哀傷

 それが夢幻(ゆめまぼろし)である事も
 取るに足らない小さな幻に、これ以上涙する事が馬鹿げている事も
 分かっているはずなのに、それでも―――
 賢く誠実だったあの人を愛してしまう、どうしても忘れられない
 墨染めの衣の中に、今もあなたを想い続けている



第一句と第二句は
(始め、義堂周信基氏に諭している設定かなぁ…とも思ったのですが)
基氏自問自答している場面かと思われます。
もうあの人は居ないのに
夢幻の中の面影を追っては、悲しみに打ちひしがれる自分の愚かさに
分かってはいるけど…でも…
と堂々巡りを繰り返す、抜け出せない苦しさが伝わって来ます。

(※「何ぞ必ずしも」は、どうして…する必要があるだろうか、という意味。
 「区区」(くく)は、取るに足らないつまらぬ事、小さな事、の意味。)



さて、第三句と第四句はさらに自信無いのですが
思い切って私の想像を述べてみますと
もしかして基氏
亡くなった時の直義の法衣を大事に保管し続けていたのではないか?
と思うのですが…


(※「賢」は、賢者・賢人の意味で直義の事を指しているのかと。
 (↑やや自信無し。でも第四句に「斯(こ)の人」とあるので
  「賢」=「斯人」= 直義 と解してみました。)
 「緇衣」(しえ)は墨染めの衣(黒く染めた僧衣)の事。
 「篇」(=ひとまとまりの詩歌・文章、ひと綴りになった書物)
 がよく分からないのですが…
 元の意味が「竹簡を綴り合わせたもの」だから
 "緇衣篇" = "繋ぎ重なった布としての緇衣" みたいな感じで
 物質としての意味を強調したものなのかなぁ… とエスパー妄想。)



12年も前に別れたあの人が忘れられなくて
法衣を抱きしめては、かつてそれを纏っていた亡き直義をその中に想い続けていた
…のだとしたら
なにそれもう!!! (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) ですよ!!!

しかも、題名によると "衣" の中に見出していたのは
懐かしさや淡い思い出ではなくて "哀傷" ですよ!
ああもうこれ以上は言葉にならない、解説不可能です!!
(…ただし、妄想し過ぎの誤訳だったらすみません)

それがたとえ夢幻であっても、想い続けずにはいられないほど
愛した人だったのでしょう。
直義がかつて袖を通していた衣… なんて
そりゃあ何度抱きしめても涙が溢れてしまうよね…




今は冷たい☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆墨染めの衣




さて、とりあえず三部作の解説が終わりましたが
三首が巧妙につながって素晴らしい物語を構成している、という
すごい傑作だと思います。
というか最高傑作だと思う!!(独断ですが)

二首目の予想外な展開といい
一首目からして悲しいと言うのに、三首目はそれを遥かに上回る悲しさで完結する
…というマジカルな完成度といい
しかも、慰める術(すべ)のない残酷なまでの現実の悲しみ
物語のように美しく綴る事で、不可能かと思われた救いを与えている。
詩とは本来 "人の心のため" にあるんだなぁ… と再認識させてくれる
詩歌の中の詩歌! だから最高傑作!!
(この詩を見た時、基氏の痛みはどれほど癒されただろう… )

この三部作に込められた想い
基氏が、もう二度と会えない直義に伝えたい "すべて" だったろうと思われますが
それを三首の七言絶句に余す事なく詠み込んだ義堂周信の技量は
素晴らしいの一言に尽きます。
652年経った今読んでも
心情情景も生き生きと甦って、溢れる泉のように広がっていく…
詩に閉じ込められた想いが今も生きている、そんな印象です。


(散々分かったような事言ってしまいましたが
 私、漢詩の知識とか全然ありません、すみませんw
 でもすごくすごく良い詩だと思う、ただそれだけ。)




まあ私の感想文はいい加減にして、もう少し全体の分析を進めてみますと…
三首(の題名)を通して見ると
それぞれ「月」「花」「衣」がキーワードとなっていて
其の一の「月」も其の三の「衣」も、その中に "直義の思い出を見ている"
…という共通項を考えると
やはり其の二の「花」も(故事としての紫荊花(=兄弟仲)ではなくて)
そこに "直義を見出している" のではないかと思われます。


で、「衣」が実際に直義が着ていたものだとすると
「月」「花」現実的根拠のあるアイテムなのでは?と思われる訳で
私の予想では
観応3年(1352)正月、直義尊氏と共に鎌倉に入ってから
突然に世を去る2月26日までの間に
当時13歳だった光王(=基氏)は、直義と一緒に月を見た夜があって
直義が亡くなった頃の「浄妙寺」「大休寺」(あるいは足利邸)では
紫荊の樹がいっぱいに花を咲かせていたのではないかと。


其の一で基氏が見ていた「春の月」は、夢の中の存在である事から
生前の直義との "淡い思い出" を象徴していると思われる事
それから、秋の月(=中秋の名月)と対比されている事から
おそらくそれは、満月に近い月だったと思われ
そうすると、1月か2月… たぶん2月15日辺りの月だったのではないか?
…とかエスパーしますと
それって、亡くなるほんの10日ほど前ですよ (´;ω;`)
きっと来(きた)る2月25日の元服式を前にして
大好きな養父直義と一緒に、ただただ楽しい夜を過ごしていたのではないかな
その先に、どんな悲しみが待っているとも知らずに―――


(ちなみにこの頃、直義基氏に色々言い聞かせてたっぽい気配があります。
 そして基氏は、生涯その言い付けを守ったらしい… (´;ω;`)
 それから、鎌倉入り後の直義は『太平記』で悲惨な感じに描かれているせいか
 「尊氏に幽閉されていた」と思われているようですが
 そんな罪人のような扱いを受けていたとは考えられません。
 (↑色んな事情を勘案すると)
 まあ "建前上" 監視は付けておいたでしょうが
 過保護な尊氏の事ですから
 "実質" は直義の身の回りの安全確保情報収集の為のエージェント
 と言ったところだったかと。)



それから其の二の「紫荊花」
題名が「に対してを懐(おも)う」となっている事からも
この詩が詠まれた当時12年前とで同じ様に目の前に実在していて
(涙のような)が降り注いでいる、という描写である事から
直義の "悲しい思い出" を表しているように思います。
あの日の悲歎が、美しい花と共に基氏の胸に焼き付いていたのだろうか…
とか妄想して凹む (´;ω;`)




という訳で、三部作を全体として解釈すると…

 「月」「花」「衣」も、12年前のそれと同じ

…という事実に突き当たり
其の二で「旧恨新愁」と言っている様に
"旧"(=直義が亡くなった当時) "新"(=この詩が詠まれた今)を対比し
その悲しみが「等価である」というのが
この三部作のメインテーマなのではないか、というのが私の結論です。

上で、詩が詠まれたのは "鎌倉の地" と敢えて言ったのは
この「月」と「花」の分析からも
12年前の昔とが "同じ" である事が導かれるからです。


季節が巡るたびにに涙する基氏の悲しみを
義堂周信はよく理解していたのでしょう。
ただ、それを隣で見ているのはどれほどつらかっただろう…と思います。
こんなに愛すべき人が、こんなにも愛された人
どうして一番大事な人である直義が、逝かなければならなかったん (´;ω;`)
もうこの感想しか浮かんでこない… orz



『観応の擾乱』って一般には
 直義にも原因の一端(悪い所)があった、とか
 先制攻撃は直義から、とすら思われていますが
 実際の事件の真相は… 直義全然悪くないんですよ、本当に。
 (政治方針の対立による政敵の排除、とも思われていますが実はこれ
  事件を起こす為にでっち上げられた罠だった、ってゆう)

 しかも…あんな酷い目に遭ったのに、最期は誰も憎んでいなかった
 と思われるのですよ(←これは基氏の行動から推測される)
 だから猶更、悔しくて悲しくてもどかしくて、只ひたすら胸が痛い…
 のですが、ささやかな救いもまた無い訳では無いです、はい。)




直義…☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆戻って来て





という訳で、以上で私による「三部作」の解説は終わりですが
どっかしら間違っている可能性があるので
別意見がありましたら、是非是非ご意見お待ちしております m(_ _)m

私は漢詩に関しては完全に素人なので
これらの解釈も、電子辞書で一個一個分からない漢字を調べてひたすら試行錯誤…
という付け焼刃です。 本当にすみませんw

でも、この詩を初めて見た瞬間から、本当の意味が知りたくて知りたくて
自分なりに精一杯考察しました。
(その日のうちにすぐに調べて
 ひとまずだいたいの意味が分かった時は…泣きました。)



これが詠まれたのは春なので
直義の命日の2月26日近くの作である事は確かだと思いますが
そのについては、直義十三回忌の貞治3年(1364)ではなく
基氏が鎌倉に帰った翌年の貞治2年(1363)〜貞治6年(1367)のいつか
という可能性もゼロではないとは思います。
まあいずれにしても10年以上後の作となるので
悲しみの深さには変わりはありませんが
私としてはやはり、直義他界の12年後と考えています。
(別意見あったら、よろしくです m(_ _)m )

前年に帰って来てた上杉憲顕もこの三部作見たのかなぁ〜
…とか妄想し出すと止まりません。



ちなみにこの漢詩は
「空華集」(※義堂周信の作品集)をパラパラと見てて偶然見つけたのですが
全然予想してない所でいきなり「大休寺殿」とか出て来たからめっちゃびっくりした。
じゃあ「左武衛」って基氏の事じゃん!…え?え??
…ってプチ半狂乱しました。 マジで神仏に感謝したw
(ちなみに、もともと別の漢詩を探していたのだが
 そっちは見つけられなかった (´・ω・`) 神様… )



少なくとも有名どころの基氏関連南北朝関連の文献では
見かけた事は無いのですが(た…たぶん)
しかし遥か以前に翻刻されているものなので
どこかで誰かしらが(三部作として)解釈を施されている可能性はきっとあると思うので
広く目撃情報をお待ちしております。
(それとめちゃめちゃ違う解釈だったらマジ恥ずかしいww)


この素晴らしい詩が、完璧な解釈と共に
一人でも多くの人の心に届く事を願っています。



(※『バーボンMuromachi』関連記事↓
 「『Muromachi通り』通信【大休寺殿に捧ぐ詩】」
 「足利基氏25歳」
 「観応3年、春の夢」 )




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posted by 本サイト管理人 at 02:07| Comment(4) | ★チラ裏観応日記