2014年04月15日

大内政弘

(チラ裏シリーズ)

こんばんは『チラ裏人物記』です。
今日は、前回の畠山回ですっかりスルーしてしまったお詫びに
義就のお友達をご紹介します。
「西国全域俺の庭」大内政弘です。

大内政弘
(2015.6.4リメイク)

大内さんは「余裕」の一言に尽きますね。
 領土、経済、軍事力
 人望、仁徳、統率力

なんかもう夢のような大名です。
どうなってんでしょうか。

『応仁の乱』は、一応東軍が勝者ってことになってますが
どう考えても、大内さんは負けた気配がありません。
ってか、最後の方なんて京文化を楽しみ始めたりしてるしw
ホント、何しに来たんすか。 人生楽しみ過ぎです。


性格の良さでは、畠山政長と似ていると思うのですが
大内政弘室町のNo.1リア充の座を恣(ほしいまま)にしていた一方で
一人せっせとピンポイントで不憫を拾い集める政長
何が明暗を分けたと言うのだ。

ま、器用か不器用かってとこが違うだけで
素直さでは共通する2人ですから
それぞれに心打つ物語を残してくれていたりします。
実は、『応仁の乱』の主要メンバーでありながら
『明応の政変』においてもキーパーソンとなるのが、この2人なのです。
(ただし、政弘は政変当時、周防国に在国していて
 大内軍の大将として在京していたのは
 まだ十代の嫡男、義興(よしおき)です。)



『明応の政変』は
『応仁の乱』終結の約15年後に、畿内を舞台にして起こった事件で
一般には

 「日野○子と細川○元がクーデターを起こして将軍をすげ替え
  以後幕府権力を掌握し、将軍は傀儡となった」

と理解されていますが
どうやら、真相はかなり "別の顔" をしているようです。
基本的に「勝者=正義」史観だと

 「人々は、不当なクーデターの勝者を
  何の疑問も無く正当な権力者として受け入れた」

という事が、当然の前提になってしまっていますが―――
果たして、当時の人々は本当に
その手段の善悪を問わず歓迎するほど、間抜けだったのだろうか?



歴史と言うのは、往々にして現代の価値観を用いて評価されていますが
当時の人々の声を無視した解釈は
結局は、現代版歴史ファンタジーでしかありません。
しかし幸いな事に、『明応の政変』に関しては
当時の人々の切実な叫びが、様々な形で史料に残されているのです。

大内政弘も、それを残した者の一人。
彼の偉大な業績の一つに

 『新撰菟玖波集』誕生における最大の後援者だった

という事が挙げられます。
この連歌集は、足利尊氏の時代に編纂された『菟玖波集』に続く
ただ2つの准勅撰連歌集であると同時に
『菟玖波集』は『観応の擾乱』の
『新撰菟玖波集』は『明応の政変』の
  "数年後に誕生した"
と言う共通点を持ちます。

そして、前者との性格の違いを追及するとそこには
『新撰菟玖波集』の完成に奔走した人々(※)が
この連歌集に何を託し、何を訴えたかったのかが見えて来るのです。
 (※…その一人が前出の連歌師宗祇

勝者が綴る歴史は描かれた幻想
当時に生きた人々の声に耳を傾けて初めて、歴史は本物になる。
それが、本サイトのコンセプトの一つでもあります。



あーそれにしても、大内政弘は偉大だw
文化活動でもPKO-uchi活動でもいい話残し過ぎ!
性格いいリア充とか、無敵過ぎて人気出ない理由が分からない!!

あれですか、やっぱりみんなちょいワルが好きなんですか?
でも義就までいくと、テラワルですよ。
しかも、そんな義就と普通に友達やってる大内政弘だって
涼しい顔して、ホントは何考えてんのか分かったもんじゃないですよ。
フフッ

あ、そうだ
大内さんにはもっとぶっ飛んだ友達がいたんだった。



posted by 本サイト管理人 at 01:36| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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