2014年04月28日

伊勢貞宗

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は伊勢貞親の嫡男
室町の張良(ちょうりょう)こと、伊勢貞宗です。

張良とは、前漢の高祖・劉邦に仕えた漢の三傑の一人で
その冴えわたる知略を帷(とばり)の中に廻らし千里の先に勝利を得る
という頭脳派軍師の代名詞であり
張良なくして、劉邦の天下は実現しなかっただろうと言われる
極めて優れた「王佐の才」(王を補佐する才能)を発揮した人物ですが
貞宗は、この張良に良く例えられているのです。

伊勢貞宗

なんかちょっと髪型がきのこっぽいのは、まあ気のせいです。
ただ、大乱後の室町幕府がこの先生きのこるには
貞宗の政治手腕が不可欠だった…ってか
"全室町の命運" は、貞宗の双肩にかかっていたので
貞宗きのこる先生だったのは事実です。
(※きのこる先生…世紀末感漂う過酷な時代の中で
 この先、生きのこって行くにはどうしたらいいかを教えてくれる先生。)

それゆえ、彼は「社稷(しゃしょく)の臣」とも言われています。
(※社稷の臣…国家の安危・存亡を一身に受けて事に当たる国家の重臣)


『応仁の乱』後の、「どう考えても詰んでるだろ」と言う時期の幕府を建て直し
在国化した大名たちを(京都に居ながらにして)手なずけ
やる気のない義政を献身的に支え
問題ありな両親を持って奇行の目立つボンボン義尚(9代目将軍)を
「御父」として養育しつつ
奇跡的にも室町の継続を可能にしたのは
貞宗の政治的才覚およびその人格の高さにあったと言えるでしょう。

(貞宗の事績については、本サイトで追々詳述する予定なので
 ここでは、出典史料の明記は省略しますが
 とりあえず当時の世評なら、『大日本史料』永正6年10月28日を。)


ちなみに大乱後、義政の『東山殿』(=銀閣寺)が完成したのは
実は、貞宗の手腕によります。
もっといえば―――
義政亡き後、遺言によって『慈照寺』となった東山殿ですが
実は驚くべき事に、とある事件に巻き込まれて
破却の危機に瀕したことがあるのです。  な、なんだってー
しかし、それを救ったのも貞宗
つまり、現在私たちが
銀閣寺という "室町の美の結集" に触れることが出来るのは
全部貞宗のお蔭! みんな貞宗に感謝!  義政「……。」



それから、伊勢の十八番「美学」について
貞宗もやはり、武家故実全般に極めて造詣が深かったのですが
ただ、本人が記した書は、馬術に関するものが少しあるだけです。
まあ、日々の多忙さを思えば、もの書いてる暇も無かったのでしょうが
伊勢関連の故実書をつらつら読み漁ったところ
どうやらこの人は…
御所に祗候する女房達の、礼儀作法をも掌握していたらしい。

『室町殿』の上臈(じょうろう)と言えば、あなた
当時の最上流階級、女性達の頂点ですよ。
そんな高貴な女性の指南役と成り得るって
どこまでを極めていたんだって話ですよ、奥さん!


実は…
貞藤「美の菩薩」とは言いましたが
貞藤が菩薩なら、貞宗はぶっちゃけ「美の如来」です。
貞藤はどちらかと言うと、内心
 「ぷっwww俺言ってる事テラアホすww」
とか思っていそうなのですが
(なんせ、入道後の法名が「瑞笑軒常喜」。現代語訳すると「テラワロス」)
一方で、貞宗の美の場合は
「常時、素で涅槃(ねはん)」といった次元です。


上述の『大日本史料』の貞宗関連史料は
義政の『東山殿』に出入りしていて
貞宗とも直接交流があった禅林の僧たちによる法語画賛なのですが
それによると、貞宗「金粟如来のよう」だったらしい。
(※金粟如来は、維摩居士の前身。
 維摩居士は、在家の釈迦の弟子で『維摩経』の主人公。
 他の釈迦の弟子が誰も適わないほどの、悟りの奥義を極めた逸材)

意外にも貞宗は、晩年まで入道した形跡が(たぶん)無いのですが
父貞親の死を境に、なんか悟りの境地に片足突っ込んでしまったらしく
「有髪の僧」などと言われています。
なんか、日常的に解脱(げだつ)していたようで
法衣をまとった姿は「陶弘景のよう」だったとか。
(※陶弘景は、六朝時代の博学多才なすごい人。眉目秀麗だったそうだ。
 ちなみに張良も、「婦人好女の如し」(美しい女性のよう)
 だったと言われていますが…まあ、いいか。)



さて、そんな感じで
こぞって貞宗を讃える禅僧達には
君ら本業で水をあけられてるのに、感心してる場合じゃないでしょ!
と突っ込まずにはおれませんが
どうですみなさん
そろそろ貞宗の魅力に目覚めてしまった事でしょう。
しかし、これほどの人物でありながら、貞宗はあまりその活動が目立たない
それゆえ、ほとんど知られていない…むむ。
それは、まさに張良の如く帷の中で全てを片付けてしまうタイプであり
一次史料を丹念に追って、ようやく貞宗の関与が見え隠れする
と言った具合で、その地味さゆえ
これまで表立って研究対象にされる事が少なかったのが一因ですが
ああ、それにしてももったいない!
しかも、この貞宗
『明応の政変』最大の鍵を握る人物でもあるのです!
別の言い方をすれば、貞宗の行動を上手く説明出来ないから
今以て『明応の政変』の謎が、イマイチすっきりしないのです。



さて、そんな "なんかとんでもないらしい" 貞宗ですが
更にもう一歩踏み込んでその魅力に迫るべく
ここで再び、父貞親『為愚息教訓一札』『伊勢貞親教訓』
を取り上げたいと思います。


この『教訓』、実は
伊勢家伝来の "汎用な" 家訓」と言うより、あくまで
貞宗に宛てた "私的な" 手紙」という性格が強いのです。
ですから、この『教訓』から読み取れるのは
「家としての訓戒」だけでなく
「少年貞宗の性格」であり、これが非常に興味深いw

注意して読むと
「簡潔な条文」と「やたら具体的にくどくど説いた条文」
とが混在している事に気付くと思いますが
まさに、前者が「伊勢家の理念」で
後者が「少年貞宗へのお説教」なのです。


では、この『教訓』を分析した結果判明した
少年時代の貞宗の性格とは…

 「とにかく引っ込み思案で、人見知りが激しく
  表に出ずに、女の子が居る家の奥にばかり引っ込んでて
  そのくせ、ちょっと利口ぶった生意気な所がある内弁慶
  内輪の家臣と馴れ合うばかりで、同世代の若い友達は無く
  父から見ても、能無し
  武士が好むべき力技を嫌い、弓馬の稽古も怠りがちで
  朝夕と無く寝てばかりいる
  二度とない輝かし青春の日々を、友と思い出を作ることもなく
  とにかく無駄に寝っこけている

…って、おめーはのび太かよ!!!


『教訓』の最後に添えられた末文より
 「あー心配だ、我が子が心配でまた早朝に目が覚めてしまった
  仕方ない、この悩ましい心の闇を、ありのまま言葉にしてしまおう」

と、暁の薄闇にむくりと起き上がって筆を取る、不眠貞親
『教訓』の中で、貞親がしきりに
「人から悪く言われないように」と強調していたのも
伊勢家の方針が「上辺重視」だったという訳では無く
 「おまえは何の才能も無いんだから
  せめて人から悪く言われないように心掛けてくれよ
  はあ…(貞親、欝で不眠)」

という、悲痛な親心だったのです。


それにしても、なんという絵に描いたようなのび太
天下の潤滑油たる伊勢家の次期当主がこれじゃ
そりゃ、父親も頭抱えちゃうわなww

しかし、上述の通り
伊勢貞宗は、少年期ののび太属性を見事に脱し
後には張良と見紛うほどの人物へと成長します。

彼を変えたのは、一体何か!?
…まあ、この先は割と私の妄想となるのですが
『教訓』の中にヒントがあります。
父貞親が、伊勢家に有るまじきのび太な息子に対して
繰り返し説いた言葉

    「良い友達を持ちなさい」

つまり貞宗は、良い友達に出会えた事で
脱☆引き篭もり&無能を達成したのではないかと。
では、貞宗 "張良への一歩" を踏み出させた友とは?


それは… 室町一の情強、興福寺の尋尊が書き記した日記の中に
見つけることが出来ます。



posted by 本サイト管理人 at 02:09| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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