2014年04月30日

畠山政長と伊勢貞宗

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の伊勢貞宗回の続編
惰眠貞宗を更生させ、不眠貞親を救った人物は誰か!?
…って、タイトルでもう言っちゃってますが
まあ、なんか変態ぞろいの室町で
人を良い意味で感化出来そうなやつなんて
政長くらいしか思い付きませんよね。

畠山政長
(2015.3.6リメイク)

室町最後の生き残り、清(きよ)侍です。
2人が友達だった事は
尋尊の『大乗院寺社雑事記』文明10年7月26日の
「知音無双」との記述で知る事が出来ます。
 (※知音(ちいん)とは、よく心を知り合っている親友のこと。
  つまり、知音無双=並ぶもののないほど親しい、と言う意味。)

まあ、この日記の記事自体は
興福寺の松林院(←院主が伊勢家出身者)に
紀伊国(=政長の領国)の所領を安堵する、という話で
その時の、政長・貞宗(の使者)による遵行(=命令の執行)ぶりが
余りにVIP待遇だったもんだから
尋尊が、「あいつら仲良いからって、贔屓だ贔屓!!もう!もう!」
と愚痴っているものなんですがw

ただ、政長貞宗の裁許が理非の正しいものだった事は、他の史料が示していますので
別に、腹黒い事をしていた訳ではないと思われます。
ご安心下さい。

(例えば政長は…
 「(成敗が)廉直」「直き心と慈悲(のある政道)「理非憲法の大名
 とか言われてます。(※憲法(けんぼう)…正しいこと、公平なこと) )



まあ、年齢は政長のが2コ上の同年代とは言え
2人は身分から言ったら、かなりの差がありますので
友達と言うと、ちょっと意外な(変な?)感じがしますが
両家が親しかった事は
伊勢家の家宰の蜷川親元『親元日記』からも、窺い知る事が出来ます。


当時(※ここでは、応仁の乱後の話に限定)
諸大名在地の国人たちからの「公方への進物」
基本、政所頭人の伊勢家当主を通して公方に披露される
という形式だったので
『親元日記』には、彼らからの進物の記録が、細かく書き留められているのですが
ただ、管領家に関しては別ルートだったらしく
斯波家細川家からの進物の記録は、ほとんど見当たりません。
…にも拘わらず
畠山家だけは、毎回律儀に伊勢家を通している
という、なんか笑ってしまう日記です。
(※『親元日記』はかなり事務的な日々の記録で
 本来、笑えるようなものではありません。
 あ、でも、もういっこ笑かす所があった、貞宗の呼ばれ方w)


ちなみに、本サイト『2-3』『慈照寺』の写真の所で少し触れたように
貞宗は、公方義政への忠誠心が非常に高く
義政義政で、貞宗がいなかったらなんも出来ない
ってくらいの股肱の臣でしたから
上記の事情により、政所頭人である貞宗
京都に居ながらにして、在国諸大名の手なずけを可能にしていたのです。
つまり、「言う事聞かないやつの進物は披露しないよ!」っていう。
貞宗、なんというドS政策ww

貞宗は、「道理に基づく公平妥当な裁許を信条とする」
 という人格の高さは確かなのですが
 政長のような
 「最初から最後まで、表も裏も慈悲と廉直で出来ている
 という、高徳生き仏系のお人好しではなく
 治国平天下という目的の為なら、狡猾な手段も余裕で連発する
 涼しい顔して脳内策略演算系です。
 まあ、『教訓』によるとかつては
 割と派手な着物賭け事を好むとか、 家臣への口の利き方が乱暴、といった
 内ワル弁慶要素があったようだ。
 つまり、政長はM系君子、Masanagaなだけにw
 んで、貞宗はS系君子、Sadamuneなだけにww
 …ってどうでもいいかそんな事)

ま、でも、逆に言うと
貞宗と上手く付き合えば、自国は安心!な訳でして
それで非常に上手く領国運営をこなしていた、超有能な当主補佐役朝倉家にいてだな…



おっと、話が逸れて来た。
そんな訳で、貞宗が生まれ変われたのは
政長との出会いがあったからなんじゃないかなぁ…
と推測してみました。
まあ
父貞親から『教訓』を授かって一念発起した」ってだけ
…とも考えられますが
でも、それまで父を、夜な夜な不安で叩き起こすほど悩ませていた訳で
それに、『教訓』が書かれたのが長禄年間(おそらく長禄3年(1459))
そして、政長が、畠山家の家督を継いだのが長禄4年(1460)
さらに、本サイト『2-7』で軽く考察した
貞親・季瓊真蘂周辺の、政長に対する評価の高さを考えると
当たらずとも遠からずな気はしています。


もしかしたら…
貞親斯波義敏(よしとし)に近づいて(※貞親の魔女は、斯波義敏の嫁と姉妹)
畠山義就の復帰を阻止すべく、斯波義廉(よしかど)の失脚を謀ったのも
もし、私情が挟まれていたのだとすれば
それは、新造(新妻)の誘惑ではなくて
 「息子の初めての友達の失脚を、何としても防ぎたかった」
と言う親心
(と、信じたい。
 無理は承知で、非ハニトられ説を唱えたい。
 しつこいようだが、エロぼけオヤジであって欲しくない!!ww
 貞親は、ハニトラの危険性
 誰よりもよく知っていたはずなんだ!! 理論的には。)


まあ、畠山家家督が義就のままだったら
それこそ貞宗は、一歩も家から出て来なくなってただろうなーとか思うw
『応仁別記』のエピソードに

 「斯波義敏の家督復帰を推し進める父貞親
  貞宗が、天下騒乱のもとになると必死で諫めたけれども
  声は届かず疎遠にされた」


と言う話がありますが
これももしかしたら、親の心子知らず…だったのかも(と、妄想したい)
(ただし、貞宗は以後、 父の教えを非常に忠実に守っていたと思われる。
 特に、見違えるほど社交的になり、人当たりも柔らかくなります。)



まあ、ちょっと妄想が過ぎて来てしまったので
そろそろこの辺で。


しかし、この政長貞宗の関係は覚えておいて損はありません。
なぜなら、これまたまた
『明応の政変』の謎解きに関わってくる(と思われる)からです。
この事件の根底には
『応仁の乱』で結局解決しなかった「両畠山家の家督問題」があり
乱終結から政変までの十数年
2人ともその解決に腐心していたのですが
貞宗が水面下で策略を廻らせ続けていたものの、結局、思うように事は運ばず
いつしか2人の間に疎遠な空気が漂い始め
そしてとうとう、とある事件を切っ掛けに
どうやら彼らは、かなり距離を置くようになってしまうらしいのです。
なんかちょっとショックw
『応仁の乱』の東幕府側での、数少ないぬくもロックな話だっただけに
あんま信じたくないけど、今のところ、仮にそんな結論です。


さて、『明応の政変』はその7年後の出来事です。
この政変の主目的は
クーデターと言う、"法""世論""朝廷"無視した手法
現将軍を退け、新将軍を立てること」であり
一般的には、貞宗は政変に主導的に関わったとされています。
そして、これは事実です。(ただし、主犯格は別です)
そして、政長
大名としては、政変の唯一ともいえる犠牲者です。

私が、「政長はただ負けたのでは無い」と思うのには
当時の状況を伝える史料を根拠にした、いくつかの理由がありますが
その一つが、この2人の関係です。
貞宗の行動には秘密めいた部分が極めて多いのですが
政長の行動にも腑に落ちない所があって
それは、政長なりに
"貞宗の真意" を何かしら察したからなのではないか?
と考えています。
ただ、彼らの間に信頼関係は残っていたのか
というのが問題になってくるのですが。

…いずれにしても、いろんな意味で悲しい事件ではあります。


まあ、細かい部分はいずれ本サイトにて。
今はとりあえず
この事件において、貞宗どんなアルゴリズムで演算処理をしていたか
私の予測を述べるなら、まあこんな感じでしょうか。

伊勢貞宗
(2015.3.6リメイク)

うーんw



posted by 本サイト管理人 at 02:24| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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