2014年05月01日

伊予の国から2

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏ウマー日記』です。
今日は、またまた伊予の国から "みかん便り" が届きました。
愛媛県は西宇和の、甘さ一番「デコポン」です。

デコポン

デコポン
ポンカン特有の良い香りと、清見の甘さと風味を合わせ持った
新しいタイプの柑橘で
 "フルーツランドのニューフェイス"
だそうです。
いつまでニューなんだろうか…
とか言う疑問はさて置き、早速頂きます。もぐもぐ。

ウマーーー(゚д゚)ーーー!!
ポンカンの感動と、きよ侍のような清見の清さ
同時に心に押寄せる!!
フェイスはニューなのに、甘酸っぱさは、まさに
 550年物のオールドヴィンテージブーメラン!!
美味い、美味過ぎる!!


うおーーーっっ 気合ゲージ満タンになって来ました!!
この勢いで、大内&河野の連合デコポン軍反撃いきまーす!!

細川勝元軍なんて、デコボコポンにしてやんよ!!

逆襲のシャア

あーすっきりした。

…しかしみなさん、思い出して下さい。(忘れた人はこちら→『2-7』
この出陣の最中、大内家当主の大内教弘は病に倒れ
帰らぬ人となってしまうのです。
享年46歳。
父に先立たれた大内政弘は、この時まだ20歳(満19歳)。
気丈にも、そのまま大内軍の大将を引き継ぎ
父の冥福に資するべく、見事勝利を収めるとは言え…
つらかったろうなぁ。

大内政弘

西瀬戸の海に沈む夕日に、亡き父を偲ぶ政弘であった。


さて、本サイトのメイン期間である
『応仁の乱』から『明応の政変』、そしてその後の逆転物語では
割とたくさん、父と子の良いエピソードがあったりします。
というか
ちょうど『応仁の乱』の主要メンバーの子供達が活躍するのが
『明応の政変』 "その後の15年の物語" となっていて
この2つは、「父と子との関係にある」と覚えておくと
人間関係が理解し易いのでお勧めです。

例えば、大内家に関して言えば
"応仁" 世代大内政弘
 (政変当時は在周防、48歳)
"明応" 世代大内義興
 (政変を目の当たりにする、当時17歳(満16歳))
となります。


それから、『明応の政変』は
明応2年(1493)の政変という "点" で完結する事件ではなく
それから15年を経て京都を取り戻すまでの、"長編物語" です。
つまり、政変は「始まりに過ぎない」という事も
よく覚えておいて下さい。
当時の日記を注意深く読むと
 政変後、重く薄暗い雲に覆われ続けた京都
 旧将軍足利義材たちの15年後の "凱旋" で明るさを取り戻す様が読み取れます。)

  
今のところ、本サイトでも当ブログでも
『応仁の乱』の話題が中心となっていますが
実は、どちらかと言うと、本サイト(のメインの『黎戦記』)では
『明応の政変』以降に活躍する子供世代「主役」に想定しています。
彼らは、『応仁の乱』の親世代に比べても
さらにマイナーな顔ぶれですが
知れば知るほど魅力に溢れた、最高に頼もしい英雄達です。



さて、畠山家の場合は
畠山政長が応仁世代で、『明応の政変』により他界、享年52歳。
(※ちなみにこの時、義就は既に故人)
そして、父政長と共に19歳(満17歳)でこの事件に遭遇しながら生き延び
その遺志を継ぐことになるのが
明応世代の主役の一人、畠山尚順(ひさのぶ)です。

明応世代では、大内義興の事績ももの凄いですが
この畠山尚順の人生も
絶望感動が想像を超えた、物語よりももっと物語な一生です。
しかも畠山尚順は、どんな人物だったか?…を一言で言えば
義就政長を、足して2で割ったような感じ。
心は清い人生が修羅…って、そんな事可能なんでしょうか。



では最後に、今年の牡丹(深見草)を
大内教弘畠山政長への、追悼の花に代えたいと思います。

儚い花の美しさは、悲しみの中の希望によく似ています。

大内教弘

畠山政長

大内教弘

畠山政長



posted by 本サイト管理人 at 03:36| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記
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