(チラ裏シリーズ)
こんばんは、『チラ裏人物記』です。
ここへ来てようやく朝倉家の登場です。
高らかに朝倉贔屓宣言をしておきながら
全然贔屓がなってない現状を、自分でも疑問に思っていたのですが
そういう訳で、今日は張り切って参ります
慈視院光玖(じしいん こうきゅう)さんです!

なんで第一弾が朝倉孝景(たかかげ)じゃないんだよ
…とは、まあ私も思いますけど
光玖さんは孝景の弟で、完全なる出家僧です。(つまり、入道ではない)
孝景には、割とたくさん弟がいるのですが
『応仁の乱』前後の時期の
「朝倉家存亡の危機から、一気に逆転大躍進!」
の裏には
兄であり朝倉家当主である孝景の活躍を支えた3人の弟
経景(つねかげ)、慈視院光玖、景冬(かげふゆ)の存在がありました。
この朝倉四兄弟
なんか危なっかしくて見てらんない感じの兄弟が多い室町にあって
間違いなしに安心安全、絆の固い兄弟です。
というのも
彼らの父である朝倉家景が亡くなったのは
長男孝景が23歳の時なのですが(祖父は健在)
弟達は、孝景とはかなり歳が離れていて
すぐ下の経景でも10コ下の13歳、光玖さんは未だ11歳でした。
そんな彼らにとって
父亡き後の一家を支え、幼い弟達の面倒を見る兄孝景は
父親のような存在であったらしいのです。
そんな訳で、弟達は兄ちゃん大好き!
『朝倉孝景十七箇条』には
親を失った苦境の中で、それでも決して身の修養を怠らず
遂に一国を治めるという大業を成し遂げた孝景の
苦労の様が述べられていますが
早くに逝ってしまったものの、父家景は何ものにも代え難い弟達を残してくれた
最高にいい父ちゃんだったのでありました。
さて、『応仁の乱』における朝倉家の動向については
本サイトでは今のところ『2-10』で
西軍の孝景が、公方義政と策士伊勢貞親の誘いによって東軍に降ることを決意し
3人の弟を連れて越前国に下ったところまで解説していますが
この3人が、上記の経景、慈視院光玖、景冬です。
ちなみに、その後の事を簡単に述べておきますと
下向の3年後、遂に朝倉軍は再始動の時を迎えます。
同時に、それまで京都のにいた孝景嫡男の朝倉氏景も
西軍諸侯に別れを告げて合流し
越前の最大勢力であり、かつての被官仲間である甲斐との激しい合戦の末
最終的に越前を勝ち取ります。
勝ち取る…と言っても、これは朝倉の独断行動ではなく
公方義政の意向であり、その承認を得ての一国平定です。
ただし、甲斐との幾多の合戦は熾烈を極めるものであり
強いられた犠牲の多さは、双方ともに癒えぬ深い傷となりました。
という訳で、本サイト『2-8』でチラっと述べたこの慈視院光玖こそ
南都の成身院光宣や、美濃の持是院妙椿と同じく
非入道型完全出家僧でありながらパーティ組んでしまう
朝倉家のドラクエ禅僧だったのでした!
幼少期に寺に入った光玖は
この頃は、京都の建仁寺あたりにいたらしいのですが
既に『応仁の乱』以前から
兄孝景におつかいを頼まれて、しばしば越前国に下向しては
所領の管理など諸事に携わっていたとは言え
孝景に突然の越前下向を聞かされた時は驚きを隠せなかったろうなあw
光玖「え…俺も行くんすか?!」
孝景「うん」
光玖「そうですか。 …え、俺も行くんすか??!」
(※大切な事なので、二度聞きました。)
孝景「うん」
(…光玖さんの僧侶人生は終わった。)
(※上の画像は、固まる光玖の図:原題「マジすか」)
まあでも、実際は兄の命令には快諾しただろうし
(というか、進んで付いていったと思われる)
以後の光玖さんの活躍は
戦の大将から政治家としての領国運営まで、兄にも匹敵する優れた才覚を発揮します。
越前平定後の基盤固めに、弟光玖の政治手腕が不可欠だと読んだのだとしたら
孝景の慧眼はすごいと思うw
実は、『応仁の乱』終結の4年後に孝景がこの世を去り
さらに、次期当主の嫡男氏景も、その5年後に病により早世してしまい
次に家督を継いだ氏景嫡男の朝倉貞景(さだかげ)は
この時点でまだ14歳(満13歳)
…と、朝倉家の当主は短期間に入れ替えがあったのですが
それでも動揺することなく、初期の不安定な時期を乗り越えられたのは
孝景の弟達、特に慈視院光玖の冴え渡る社交感覚があったからのです。
そう、これまたこの光玖さんこそ
伊勢貞宗との良好な関係を築いて
歴代当主を見事に補佐した、朝倉家の隠し玉だったのです。
ただ、光玖さんは、策士と言うよりは
人との関わりにおいてとても誠実で
戦での敗者を深く弔う慈悲深い心もあり
各方面の人達…公家や朝廷からすらも頼りにされていました。
興福寺の尋尊からは、年貢の事で感謝もされているし
畠山義就とは、その子の代まで親しい関係を続けていた、誠意ある人です。
成身院光宣も妙椿もそうですが
パーティ組んでる出家僧に、悪いやつはいない!…ような気がする!
ところで、伊勢家の家宰蜷川親元の『親元日記』は
基本的に、主家の日々の政務を記録したものなのですが
日記の中で、主人である伊勢家当主が何と呼ばれているかと言うと…
「貴殿」ですよ、「貴殿」www
「貴殿、どこどこへ行く」とか
「誰々から貴殿へ贈り物」とか
たまに、「(来客があって)貴殿、酩酊」とかw
まあ、普通に二人称で使う場合は単なる敬称ですが
日記で三人称的に使われていると、なんかコーヒー吹きますよ。
しかもこの「貴殿」、なんと更に活用形があって
場合によっては「貴殿様」となります。
って、それはあれか?「さかなクンさん」みたいなつもりなのか?
こんなアホな敬称のインフレさせてんのは誰だよ!
とか思ったら… 朝倉でした orz
蜷川親元への、光玖と氏景の書状で
伊勢貞宗のことを「貴殿様」と呼んだものがあるのですが
そこは普通、伊勢守殿でいいんじゃないのか?
(※伊勢守は、伊勢宗家代々の官途。
政所頭人伊勢家当主=伊勢守、と覚えておこう)
まあ、単に「貴殿」と呼んでいるものもあるのですが
なんで、朝倉まで内輪の呼び方をしているのか、謎です。
(ただ、他がどうなっているのかちょっと自信ないので
今度、改めて『蜷川家文書』とか調べてみるつもり)
(※↑これについて、ざっと調べてみましたが、うーん…
他家からの書状の類では見当たらず
伊勢家に伝わる故実関連の文書で(つまり、身内の者から)
伊勢貞陸(貞宗の嫡男)が「貴殿様」と表記されているものが
2つほどありました。 ―――2015.4.3追記 )
まあ、被官クラスだった朝倉が
いきなり守護級のデビューを果たしちゃった訳ですから
幕府との関係では、伊勢貞宗の尽力が人一倍必要だったので
実際、感謝してもし切れません。
「貴殿様様」どころか「貴殿様先輩ちぃぃーーーっす」です。
ちなみに、(私の)貞宗の肖像画で
直垂(ひたたれ)の色が桃色っぽいのは
別に、なんか妄想が炸裂している訳では決してなく
きちんと根拠があって
「梅染」(うめぞめ)の色をイメージしているのです。
(※直垂…当時の武士の一般的な着物)
「梅染」とは、梅の樹木を利用した伝統的な染色技法で
染め方によって様々な色合いが出るのですが
美しく染められたものは
梅の花のような艶やかな色に仕上がるそうです。
是非、受け継いでいって欲しい、そして今後もっと人気が出て欲しい
伝統の日本の色です。
みなさんも一度、「梅染」または「梅染め」で画像検索してみて下さい。
さて、『親元日記』より…
ある日、光玖さんは、貞宗に梅染の帷子(かたびら)を3枚贈った。
(※帷子…下に着る単(ひとえ)の衣)
その約1ヵ月、今度は朝倉家当主氏景から、貞宗に梅染の帷子が20枚届いた。
……。
つまり、これはあれか?
まず光玖が、貞宗の好みを内々に確認してから
「貴殿様、お気に召されたようですね、では…」と
改めて朝倉家当主から正式に進上したってことか?
(もしくは、思いの外気に入った様子だったので
「ピコーン!じゃあ当主名義で追い討ちを!」というサプライズ)
光玖さん、なんという貞宗キャッチャー。
貞宗が気に入ったくらいだから、きっと梅よりももっと梅色の
美しい帷子だったに違いない!
つまり、貞宗は梅染のような色の着物が好きに違いない!
…という、やや飛躍した理論により
私の中では、貞宗は梅染色になってしまいました。
という訳で今日は
"室町一の安心できる兄弟" のお話でした。
なんかオチがない上に冗長ですみません。
朝倉家の話は、油断するとどんどんマニアックになって
誰も聞いてないよ状態になってしまう。
ちなみに、光玖さんは『明応の政変』で
かなり気になる行動を取るのですが
これが、この事件の真相の鍵の一つであると、私は踏んでいます。
(この時の朝倉家当主は、孝景の孫で氏景の子の朝倉貞景。)
なんか、『明応の政変』の鍵は
あっちにもこっちにも散らばってって、今のところ意味不明でしょうが
最後にはきっと、きれいに一本の線を描くはずですのでお楽しみに。
ちなみに、私の話には、過度な妄想が含まれますが
歴史的事実の究明に関してだけは、断じて
一次史料をこよなく尊重する実証主義であり
天に誓って、妄想完全ガードを貫いています。
当記事の最後にある『明応の政変』で気になる行動をとるのです。このことをお教え下さい。わたしはこの政変に後土御門天皇が白川忠富に命じて、勧修寺教秀・甘露寺親長・三乗西実隆という老臣三名を招集した。とありますが、この席に真盛上人が同席していたのではないかと思っております。どうか、光玖の政変での行いをお教え下さい。この政変で後土御門天皇が宮中で阿弥陀経談義を予定通り行っています。この談義は真盛上人ではなかったか?と思っています。宜しくお願いします。
コメント有難うございます!!
越前の朝倉周辺事情について
非常に深く洞察されていらっしゃるようで、恐縮してしまいました。
朝廷や幕府との交渉において
広い人脈を持ち、両者から確かな信頼を得ていた慈視院光玖が
当時の朝倉家当主(氏景、貞景)を強力にサポートしていたのは
疑い様のない事実だと私も思います。
…というより、駆け出しの越前朝倉を安定した分国経営の軌道に乗せたのは
ほぼ彼の功績と言っていいとさえ思います。
史料的事実が残らない部分は、憶測になってしまわざるを得ないのは残念な所ですが
でも、光玖を通していない交渉なんてあっただろうか?…という印象です。
さて、御質問の『明応の政変』での慈視院光玖の行動についてですが…
これについての私見は、今日(18日)か明日中にもう一度コメント返信致します。
お待たせして申し訳ありません。
遅くなってすみません、上記(↑)の返信コメントの続きです。
『明応の政変』での慈視院光玖の気になる行動というのは
『蔭凉軒日録』明応2年閏4月28日、5月2日、5月3日条によるもので
これ自体は、よく知られた事実だと思います。
要約すると…
政変に際し、慈視院光玖が被官の杉若藤次・久原平兵衛尉を大将とした越前衆を(越前から)上洛させ、これが、河内で捕らわれの身となった将軍足利義材の警護として、細川被官の上原賢家・元秀父子の軍に加わり河内から上洛した
…というもので
越前衆は、悉く甲冑をつけた一人の雑兵もない精鋭が約350で、見る人を皆驚かしたと言い、全体では2000程が上洛しました。
で、これについて、「なぜ光玖がこのような行動を取ったのか?」
あるいは「何のために精鋭を含む越前衆を越前から上洛させたのか?」
という疑問については、一般には
「クーデター政権側の細川家に合力するため」
と解釈されている場合が多いかと思います。
越前朝倉と細川家、越前朝倉と細川被官上原の関係や
何より、上原軍に従って河内より上洛したという事実から
そう考えるのは自然な事だと思います。
しかし…
これは(その後、朝倉が将軍義材側に与同するという矛盾からしても)
かなり重大な "異なる真相" を含んでいると、私は考えています。
そしてそれは『明応の政変』という大事件の見方を、ダイナミックに塗り替えるものだと。
私はこれを、『明応の政変』の最大の核心の一つだと捉えていて
このブログまたはサイトで、いつか詳しく解説したいと望んでいましたが
ただ、現在の状況が…
私のもう一つのブログ『バーボンMuromachi』のカテゴリ『☆開店休業中』で綴っている通り、私は今、研究に関して進退窮まっております。
決して研究はやめたくないし、ここまで知って辞める訳にはいかない!!…との決意ですが、解決策が見つからず途方に暮れています。
なので、今はこの返信コメントで精一杯で
史料を提示しつつの詳細な解説を用意出来なくて、本当に申し訳ありません。
あと最後に、真盛上人と朝倉(特に光玖)の関係も気になりますよね。
文明18年の河合庄の年貢の件で、中御門宣胤が真盛上人を伴っていたというのは知りませんでした。 とても興味深いです。
『明応の政変』においての真盛上人の関わりは… 私は考えた事がありませんでしたが
しかし、この政変で朝廷が何らかの対応を取ろうとしていた事は、数々の徴証から明らかですし、朝廷から見た『明応の政変』…というのは、私も最大限に注目しています。
「この政変で後土御門天皇が宮中で阿弥陀経談義を予定通り行っています。」このことについて今晩は私見を述べてお教えいただきたく存じます。
明応2年4月24日から5日間の阿弥陀経談義を予定通り行うことが4者会談で決まり実行されました。この史実は実隆卿記からのものなのですか?その条に真盛上人が阿弥陀経談義をしたと書かれてなかったでしょうか。そこが知りたいのです。実は、明応2年に年月日は不明ですが、越前府中(福井県武生市京町現在は越前市京町)引接寺(開祖真盛二祖真慶 貞景弟)に、後土御門天皇から下賜された阿弥陀像と鉦鈷を真盛上人により安置されています。このことから4月24日の阿弥陀経談義につかわれた阿弥陀像を同年11月19日以降に引接寺に安置されたと考えられます。真盛上人は延暦寺山徒乱入を避けて越前に向かわれたのが11月19日なのです。この状況証拠は揃っているのですが、実隆卿記に講義者の名前が書かれていると確実なのですが、現在の私にはそこへたどり着けません。どうかお調べいただけないでしょうか。そこが分かると、後土御門天皇が招聘した4者会談のメンバーが詳しく分かります。後土御門天皇・甘露寺親長・三乗西実隆は真盛上人から教えをいただいている人達です。無理なお願いですが、よろしくお願いします。
不愉快な思いだなんて、とんでもないです。
ネットやメールでは、行き違いや手違いなんかはいくらでもある事ですので
気にせず、気軽にコメントを頂けたら有り難いです。
時間的な遅れも、私自身が遅れがちな人間なので全然大丈夫です。
1月5日にメールを送信して下さったという事ですが
もしかしたら本サイト『戦国黎明記』のTOPページのメールアドレス宛でしょうか?
だとしたら、申し訳ありませんが届いておりません。
私の表記の仕方が悪かったのだと思いますが、@の前後のスペースを除いた
「muromail@reisenki.com」が正しいメールアドレスとなります。
「延徳三・四年の〜」の論文ですが
ネット上で公開されていたので読んだ事があります。
ご指摘を頂いて、もう一度読んでみようかと思っている所ですが(だいぶ記憶が薄れているので)、とりあえず以前読んだ印象では
『朝倉家記』の一連の史料を、尾張(斯波義寛、織田敏定)からの視点で見ると
随分と解釈が違ってくるのだなぁ… と感じたような。
幕府の視点(※この場合、政所頭人の伊勢貞宗)や、越前(朝倉)の視点で見ると
わりと裏まで見えてくる、と思います。
(※長いので一旦切ります、下に続く↓)
さて、明応2年4月24日から行われた阿弥陀経談義についてですが…
出典史料に「実隆卿記」とありますが
これは『親長卿記』と『実隆公記』が混同しているものだと思いますが
まず、『実隆公記』については、明応2年4月分の記録は現存していないようです。
(※明応2年分は、全体的に極めて断片的にしか残っていません。)
この阿弥陀経談義の史実は、大日本史料のネット上のデータベースで見ても
『親長卿記』の記述によるものだと思われますが
ただ、『親長卿記』の該当部分(4月24日〜28日)を調べても
「4者会談」に相当するような人物名は記載されていないようなのですが…
真盛上人の名も見当たらないようです。
この時期の『親長卿記』では
勃発した直後の『明応の政変』についてや
新将軍義遐(義澄)の将軍宣下についての記述が多いのですが
恥ずかしながら私は、公家方面の人間関係に疎いので
官途だけではすぐには人物名が分からず、正確に読みこなす事は至難の業でして…
この期間は、大日本史料が未刊行の部分なので
各日記を個別に当たらなければならないので大変ですよね。
もし大きめの図書館がお近くにありましたら
「増補 史料大成」の「第43巻 親長卿記 三」の明応2年あたりを調べてみると
何か発見があるかも知れません。
お力になれなくてすみません、でもとても刺激になりました。
私も、越前関連の研究はまだまだ勉強が足りませんが
本当に大好きな分野です。
『親長卿記』のその辺りの記述は
(武家側の事件である)政変への対応についての協議に関するものですね。
朝廷としては、不本意ながら表向きはクーデター政権に従うしかない
…といった雰囲気だったようです。
宮中での法談や真盛上人の関わりについて、とてもお詳しいようで恐れ入りました。
さて、『明応の政変』における慈視院光玖の動向に関してですが…
確かに、結果的に見れば『明応の政変』の勃発によって
越前(朝倉)は二度にわたる訴訟の窮地を脱したと言えますが
しかし、これはあくまで "結果的に" という、いわゆる棚ボタ的な話であって
朝倉は、政局的な理由でクーデター政権側に加担する意思があった…のではないのです。
慈視院光玖の部隊派遣は、もっと別の理由です。
政変に関して、慈視院光玖がある情報を掴んでいたのは事実でしょう。
ただ、この辺の詳しい話に関しては…
いくつか前の返信コメントでも申しました通り
残念ながら私は現在、研究に専念できる時間的余裕がなく
今後の見通しも全く立たない状態にありまして
これ以上の解説を用意する事が出来ません。
しかしいつか必ず形にしようとは思っています。
越前の真実のために、そして何より、将軍足利義材の名誉のために。
徹底戦国年表 明応2年に
4月28日
細川政元の要請に応じ、朝倉光玖被官の杉若氏と久原氏 が兵を率いて入京する。
とありました。
将軍義材の生涯 ー義材と越中国ー 中島信之
3義材の年譜
明応2年3月20日
政元、密使を派遣し、義材に謀叛するとの意を告げる
この資料の出典と真偽の程はわかりません。3月20日以降に光玖が知り得たならば、一乗谷や大野から出兵し、28日に上洛は可能かと思われます。報告まで。
コメント投稿のエラーに関してはお気になさらずに。
重複分はこちらで削除しておきました。
さて、1つ目のコメントにつきましては…
慈視院光玖被官の入京は『蔭凉軒日録』に記述された史実ですが
「細川政元の要請に応じ〜」の部分は、あくまでその記述からの考察です。
ただし、現時点ではこの考え方が最も主流なので、史実の様に扱われてしまっています。
明応2年3月20日の件は『大乗院寺社雑事記』の記述によるものだと思われますが
実際の記述には、「(細川)政元(が)〜」とは書いてありません。
この密使は、伊勢貞宗の代官です。
次に2つ目のコメントについて…
いえ…朝倉はあくまで将軍義材を尊重していました。
義材に限らず歴代足利将軍すべてに対して、恩と敬愛の念を抱き続けていました。
細川政元をそそのかして政変を引き起こしたのは、日野富子です。
2度の訴訟で朝倉方が窮地に陥っていたのは確かですが
当時の朝倉家はそこまで力のある大名ではありませんから
政変の陰で暗躍…といった可能性は、現実的には考えられません。
朝倉は、細川家や幕府政所頭人の伊勢貞宗との良好な関係があったので
その人脈で訴訟を乗り切ったのです。
大変丁重なる回答を頂き得心いたしました。今後とも何かとご教示願います様お願いします。
拙い回答ですが、少しでもお役に立てたようで何よりです。