2014年05月06日

朝倉景冬

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』は引き続き朝倉特集です。
今日は、朝倉四兄弟の末弟、朝倉景冬(かげふゆ)です。

朝倉景冬

末弟と言っても
実際は朝倉八兄弟でして、景冬の下にまだ2人の弟がいます。

長男孝景、次男経景、その下に早世した三男
 四男慈視院光玖、六男景冬
 五男、七男、八男の3人は出家僧で
 ドラクエ化することなく僧侶人生を全うしています。)


いやー兄弟多くて楽しそうだなあー
…いや、その前にこのキャラデザについてなんか言えよ
ええ、私もかなりどうかと思っています。
あっ、いや、キャラデザとか失礼な事言わないで下さい!
あくまで、綿密な考察を重ねた結果の肖像画です。


実はこの朝倉景冬
『応仁の乱』での派手過ぎる活躍から、噂大好き京童(みやこわらわ)たちに
「朝倉の小天狗」と呼ばれていたのです。

『朝倉始末記』より
 「孝景の弟に、朝倉景冬という大剛の勇士がいて
  豪侠にして軽捷なその身のこなしから
  ついたあだ名が朝倉の小天狗 @京童」


(※大剛…非常に強いこと。 豪侠…心猛く男気のあること。
  軽捷…身軽で素早いこと。)

まあ、これはいわゆる軍記の記述ですが
しかし、『朝倉宗滴話記』によると
あの百戦錬磨の宗滴爺さんこと朝倉教景(のりかげ)に戦い方を仕込んだのは
叔父に当たる、この景冬であることが分かり
彼が戦に長けていた事が裏付けられるのです。
(※『朝倉宗滴話記』については、本サイト『2-10』をどうぞ。
 宗滴(そうてき)は、教景の入道後の法名です。)

まあ、兄孝景の強さも
畠山義就を感服させ、公方義政から指名買いされるくらいですから相当なものですが
朝倉軍の強さの裏には、小天狗景冬の存在があった
という訳です。
確かに、おっさん一人ではしゃいでるにしちゃあ、強過ぎると思ったよ。


ついでに、朝倉教景の復習をしておきますと
彼は、孝景の嫡出の末子で
(ちなみに、異母兄の氏景とは28歳も違うw)
その比類無い仁徳の高さと、驚異的な勝率
人々から惜しみない賞賛を受けた、朝倉家の名武将です。
その血統から、普通に考えたら指揮に徹する大将であるべきなのに
この人は、自ら前線で刀を取って戦っています。
その強さの秘密は
 「父孝景の血を色濃く受け
  叔父景冬に、"応仁仕込みのガチ戦闘術" を叩き込まれたから」

教景の強さには、ちゃんと理由があったのです。



ところで、彼は爺さんになってまで豪快な勝ち戦を続けていたので
すっかり "宗滴爺さん" として親しまれていますが
既に若い頃から、目覚しい働きをしています。
私が、"宗滴爺さん" と呼びたいのをぐっとこらえて
教景と呼び続けているのは
爺さんイメージを払拭して、あわよくば若武者イメージの定着を…
と企んでいるからです。 しめしめ

「越前朝倉家最後の当主、朝倉義景(貞景の孫)の忠臣にして長老

として知られている宗滴爺さんですが
実は、彼の最初の主君、朝倉貞景(孝景の孫)に対する忠義は並々ならぬものがあり
しかも、若き教景は、時の当主朝倉貞景と共に
『明応の政変』のその後の物語の登場人物でもあるので
要チェックです。

ちなみに2人は、教景が叔父、主君貞景が甥という関係ですが
教景のが4歳年下…っていう、中世によくある風景w



…おっと、今日は景冬の話をしていたんだった。

ところでこの景冬
なんか単なる戦(いくさ)バカみたいに思われるかも知れませんが
そうでもありません。
彼は、越前国の要所の一つ、敦賀(つるが)の郡司として
分国の統治に携わっていただけでなく
『明応の政変』の数年前から始まった "とある訴訟" の担当者として上京
越前に在国の兄慈視院光玖と連携して事に当たっていた、という
割と知的にも役立つやつなのです。


『応仁の乱』を契機に越前国を治めることになった果報者朝倉家ですが
実は、乱後10年も経ってから、その地位をめぐって
非常にめんどくさい訴訟に巻き込まれます。
すなわち―――
かつての越前守護を自称する義敏方斯波家から
越前返せーーー!!」と難癖つけられてしまうのです。
(ちなみに、『応仁の乱』開始時の越前守護は
 西軍の斯波義廉であり、斯波義敏ではありません。
 まあでも、気持ちは分かるw)

ってか、義敏てめぇぇぇーーーーwww おめーも本当にしつこいな!
まあ、この頃は義敏自身はすっかり引退して
京都で公家とお花を愛でる日々を送っていたのであり
訴訟の相手は、義敏の子の斯波義寛なのですが。

…とは言え
朝倉越前平定するまで、どんだけ苦労したと思ってるんだよ!
(当時、同じく東軍だった義敏は、戦闘には関与せず
 それどころかちょっと邪魔しに来た。そして義政に怒られた。)
だいたい
朝倉が越前の守護的地位についた全経緯を知っている伊勢貞宗がいる以上
おめーに勝ち目はないだろう!
と言いたいところですが
シャレにならんほど際どい所まで追い詰められました。
朝倉\(^o^)/オワタ寸前です。 参った参った。


ところで、この訴訟に関して
『明応の政変』の真相に関わるかもしれない
ほんの一言ですが、非常に興味深い記録が残っています。


  あの政変は、本当は誰の為だった?
  伊勢貞宗は、一体何を知っていた?



ああ、また『明応の政変』の鍵が散らばっていく。
きのこる先生の闇は深い…



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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