2014年05月09日

朝倉経景

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』朝倉特集、まだまだ行きます。
今日は、朝倉四兄弟の次兄、朝倉経景(つねかげ)です。

朝倉経景

まあ、経景まで紹介されても流石に困ると思いますが
地味に鍵を握る人物でもあるので、我慢して下さい。

さて、簡単に経景の説明をしますと
『応仁の乱』途中で兄孝景と共に越前下向し
越前平定後はそのまま在国を続け、他の弟達と共に兄を補佐していた
…らしいのですが
慈視院光玖朝倉景冬に比べて、その事績があまりはっきりしません。
朝倉家における地位は高かったようですが
そんな訳で経景に関しては、やや憶測混じりの話となります、耐えて下さい。


まず、確かなところから話しますと
経景の2人の息子、祖心紹越朝倉景職がそこそこ著名です。(私の中では。)
弟の朝倉景職(かげもと)は
朝倉教景(宗滴)と同時代に活躍した武将で
7歳年上の従兄弟の教景とは、わりと近い関係にあったと思われます。
そして、歳の離れた兄で出家僧の祖心紹越(そしんしょうえつ)は
知る人ぞ知る、一休宗純和尚の弟子です。
京都大徳寺には、一休さん縁(ゆかり)の塔頭(たっちゅう)
「真珠庵」がありますが
祖心紹越はその塔主(たっす)を務めていた事もあり
それゆえ、父の経景自身も(というか朝倉家自体)
大徳寺一休和尚とは、けっこう縁が深いのです。

真珠庵
(※大徳寺「真珠庵」は、普段は一般公開されいません。
 なので、入り口だけナムナム)


祖心紹越の生年は不明ですが
文明13年(1481)に88歳で入滅した一休和尚の弟子だったので
まあ、1460年代初め頃の生まれでしょうか。
『応仁の乱』開始時は、まだまだ幼い喝食(かっしき、かつじき)だったと思われます。
(※喝食…幼少で禅院に入った、まだ有髪の小童のこと。)




さて、ここから憶測をぐいぐいねじ挟んで行きます。
"一休さんの弟子の父ちゃん" 経景
『応仁の乱』開始前後の時期、京都で何をしていたか?
結論から言うと
幕府の奉公衆を務めていたと推測されます。


みなさんは『見聞諸家紋』(けんもんしょかもん)をご存知でしょうか?
これは、『応仁の乱』の頃に成立した
様々な武家の家紋の "図案" を記録したもので
中世の武家家紋を視覚的に伝える、非常に貴重かつ興味深い史料です。

見聞諸家紋
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)


作者については不明ですが
家紋のほとんどが、東軍側の武家のものであり
しかも、評定衆奉行衆、奉公衆などの幕府役人の記述が詳細な事、そしてその構成から
『応仁の乱』開始間もない頃(おそらく伊勢貞親の上洛後、幕府出仕以前に)
(味方である)東幕府側の武家を判別する為に
政所頭人伊勢家の家宰の蜷川親元によって作成されたのではないか
と推測されています。 間違いないと思います。

そして、この『見聞諸家紋』には、こんな記載があるのです。

二番朝倉下野守
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)


「二番」とは、奉公衆の五ヶ番のうちの二番のことです。
これが一体
 「どこの朝倉の誰であるか?」
と言う事ですが(※当時、越前以外にも朝倉はいた)
『文安年中御番帳』や
『常徳院殿様江州動座當時在陣衆着到』の
"奉公衆名簿" との比較などから
どうやら、奉公衆の二番の朝倉
代々越前の朝倉家出身者が務めていたらしい、と言う事と
「下野守」という官途は、経景が名乗っていたものであると共に
朝倉家(越前)では、しばしば当主が名乗っていた官途なので
それなりの地位の者以外が無闇に名乗る事はないだろう、と言う事から
この「朝倉下野守」
朝倉経景と見て間違いないのではないか
…と思うのですが
この事を指摘した本なり論文なりを見たことがありません。


おそらく、家紋が朝倉家「三つ盛木瓜」とは似ても似つかないので
スルーされているのだろうと思うのですが…うーんw
しかし、実は
江戸時代に編纂された家系図集『寛政重修諸家譜』を見ると
越前朝倉家の同族で、この家紋を使用していた家系が
少なくとも二流、存続していたことが分かるのです。
(※宗家は室町末期に途絶えているので
 それ以前に分かれた庶流と思われます。)

つまり、越前朝倉家の基本的な家紋は
三つ盛木瓜(もしくは一つ木瓜)だが
 奉公衆二番隊に所属する場合は、上図の家紋を使用していた」
のではないかと。

…ってゆーか、そんなマニアックな話どうでもいいよ!
とか思われるかも知れませんが
この推測が正しいと仮定すると
これまたまたまた『明応の政変』
関わってくるかも知れなくもないかも知れないのです!!



話は飛びますが、小田原の後北条家の初代
北条早雲こと伊勢新九郎盛時東国進出の切っ掛けが
『明応の政変』であったことは
近年、だいぶ周知が進んできていると思います。
 (※本サイト『2-10』の最後の方で、少しだけ触れています)
伊勢新九郎盛時は、全然素浪人なんかじゃなくて
伊勢貞宗と同じ、幕臣の伊勢一族だった訳ですが
ただ、そんなにしっかりした出自にもかかわらず
後世、様々な説が乱立するほど
本人は生前、自分の事を周囲に話さなかったのは事実でしょう。
それはなぜか?
隠したい事があったから。 …ですよね、普通に考えれば。


現在、一般的には
 「伊勢新九郎盛時東国出陣
  政変で新将軍の座に就いた足利義澄(堀越公方足利政知の子)
  による "幕命" であり
  当時、伊豆の堀越御所父政知の後を継いでいた
  義澄の異母兄(義澄母の仇とされる)を討伐する為だった」

とされていますが
しかし、幕命ならば何も隠すことは無いし
むしろ、「京都公方の御敵討伐!」と大々的に主張した方が
軍勢を効率よく集められます。
 (もし、不意打ちを狙ったのだとしても
  討伐成功後は、それこそ全てを明かして問題ないはず。)
それなのに
判明している援軍は、駿河国の今川氏親くらいだし
当時の数々の日記(京都周辺在住の者達による)の中で
京都から東国への出陣に関して記しているものが一つも無い
というのも、どうにも不審です。


そもそも、政変の直前まで天龍寺の僧侶だった新将軍義澄
いきなりそんな権威を振るったと考えるのは不自然だし
実際、「政変で担がれた将軍」ということで
実はあまり…ってゆうか、かなり
幕臣たちの忠誠心が低かったことが、一次史料の記述から分かるのです。

(まあ、あんな政変起こされたら、そりゃ、みんな白けてしまうわな。
 何も知らずに将軍になった義澄
 本当に可愛そうな立場だったと思う。)


つまり、伊勢新九郎盛時が東国に進出したのは
正式な(少なくとも表立った)"幕命ではなかった"
しかしやはり、『明応の政変』に関わる "何か重大な秘密を抱えていた"
それは、自身の半生を捨てなければならないほどの
"重い覚悟を強いるものだった"
そして…それを裏付けるかも知れないかも知れないのが
上述の仮説
 「奉公衆二番隊の朝倉は、越前の朝倉出身者
  宗家とは違う家紋を使っていた」

なのです。

なぜなら、幕命では無いとは言え
政変当時、"奉公衆" だった伊勢新九郎盛時の出自を考えたら
それに付き従った者達の中には
少なからず、京都の幕府関係者が含まれていただろうし
伊勢新九郎盛時が出自を隠したなら
彼らもまた、同じく過去を捨てたはずです。

実は、上述の『寛政重修諸家譜』
(宗家とは別の家紋を使っていた)朝倉家のうちの一流は
初代は義政に仕えて戦功があり
この頃、越前を離れて駿河の今川氏親、のちに後北条家に仕え
しかし、その経歴にどこか取り繕った感じがあるのです。

(ちなみに、この一流が「越前の朝倉僭称していた」
 …という可能性は、ほとんど無いと思います。
 なぜなら、当時、越前の朝倉小田原の後北条家の間には
 連歌師宗長や、伊勢家の者が行き来していた間柄なので
 そんな嘘ついたら一瞬でばれてしまいます。
 宗長と仲の良かった朝倉教景(宗滴)は、伊豆の早雲の話を常々聞かされていて
 どうやら密かに尊敬していたらしい。)


…つまり、憶測全開で申し訳ありませんが
『明応の政変』当時
奉公衆二番隊を務めていた朝倉(ただし経景の系譜とは別)は
自身の出自を隠して伊勢新九郎盛時に付き従った
…言い換えれば
あの東国進出では、伊勢新九郎盛時の他にも
 「過去を捨てる覚悟をした奉公衆がいた?」
のではないかという事です。
彼らはなぜ、そこまでしなくてはならなかったのか…



…と、まあ、『明応の深淵』に切り込み過ぎて
疲れて来たでしょうから
今日のところはこの辺でw
とりあえず今は
 伊勢新九郎盛時の東国進出は、想像以上に深い闇を隠している」
と言う事だけ、知っておいて下さい。
そして、そこにはおそらく…
伊勢新九郎盛時の従兄弟に当たる、伊勢貞宗が関わってきます。

 あの東国進出の建前は、真の目的は、そして彼らの政治的立場
 …本当は何だった?


…ってゆうかまたか! また貞宗か!! このきのこめっ!!



ところで、前回の朝倉景冬回
 「あの政変は、本当は誰の為だった?」
との疑問を呈しましたが
当然の事ながら、「朝倉の為」ってんじゃありません。
ただし、『明応の政変』が起きた事で
あの "厄介な訴訟" が有耶無耶になって、すっかり命拾いしたのは事実です。
ってか、『長禄合戦』も『応仁の乱』も『明応の政変』も
どれも当事者の為になっているとは言い難い
「誰得(だれとく)事件」ですが
なぜか全部、結果的に「朝倉得」なっている、ってゆう。
いやーやっぱり正直に生きていると人生違うね!!

(その結果、約100年に及ぶ朝倉統治時代越前一乗谷
 乱世の中の楽園となりました。
 あと、大内さん周防山口「夢の小京都」状態。
 田舎を小馬鹿にしていた京都の公家が、一瞬で改心するレベルw)

あ、でも『明応の政変』自体には、朝倉は賛同していません。
(その逆で)追い出された旧将軍応援団の一員として
"その後の15年の物語" で、脇役ですが登場します。
ちなみに、この踏んだり蹴ったりな旧将軍
このブログの冒頭で、いつも
おいしそうにぬる酒を飲んでいる足利義材です。 切ねぇww


あーそれにしても、今日は話がとっ散らかり過ぎた。
よくぞここまで耐えてくれました。
最後ですので、朝倉経景に話を戻します。

経景は、『応仁の乱』開始当時は幕府の奉公衆だった」
という仮説が正しければ
彼は東幕府御所の警備に当たっていたはずですが
そうすると
西軍の兄孝景たち盛大な戦いぶりを、どんな目で見ていたんだろう
…と思いながら描いた上の肖像画のイメージは


朝倉経景


という、引きつった笑顔。



posted by 本サイト管理人 at 00:05| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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