2014年05月11日

朝倉氏景

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』の朝倉特集が続いております。
今日は、ようやく当主級の登場
越前国主朝倉家2代目朝倉氏景(うじかげ)です。

朝倉氏景

「2代目」といっても、これはあくまで
"越前国主" としての朝倉家当主「2代目」、と言う意味で
実際は、朝倉家の八代目となります。


朝倉家は、元をたどれば
但馬国(現在の兵庫県北部)の古代豪族であり
(うじ。本姓)は「日下部」(くさかべ)というのですが
まあ、この辺の事については今は自粛して
但馬から越前へと本拠地を移した初代朝倉広景から話しますと
元弘3年(1333)、足利尊氏が丹波の篠村八幡宮で旗揚げした際
馳せ参じたのをすべての始まりとし
以後、室町幕府の一員として
その家門絶えるまで、足利家に仕え続けました。

幕府創生から『応仁の乱』までは
将軍の直奉公分(直臣)の自覚を持ちつつも
足利一門斯波家を直接の主君と仰ぎ、その被官として
京都越前を行き来する日々に時を過ごし
そして、『応仁の乱』での予期せぬ展開の果てに
思いがけず、越前の空二度目の朝を掴むのです。
(※斯波家との被官関係については
 正確には『明応の政変』の数年後まで続きますが
 この話はまたいずれ。)


さて、室町時代と共に始まり、一足早く先立つも
そのほぼすべてを足利将軍家の歴史と共に綴った
朝倉家の240年間の歩みは

 初代広景、二代高景、三代氏景、四代貞景、五代教景、六代家景
 七代孝景(越前国主初代)
 八代氏景(越前国主2代)
 九代貞景(越前国主3代)
 十代孝景(越前国主4代)
 十一代義景(越前国主5代)


…つまり、七代目の朝倉孝景
一族大躍進の奇蹟を起こした朝倉家の "中興の祖" という訳です。
以後、100年に渡り
盛大な城下町が栄えることになる本拠地の「越前一乗谷」
もともと七代目孝景 "以前" から、朝倉の領するところの土地でした。

(※福井県の「一乗谷朝倉氏遺跡」
 現在、国の特別史跡として整備され、保存・発掘・研究が進められています。
 是非是非是非、一度訪れてみて下さい!
 目を閉じれば甦る、あの輝ける日々!
 妄想が捗るぞ、色々とな、うん。)


それから、朝倉孝景
下克上の典型と誤解されていることがありますが
『応仁の乱』の時代は
まだまだ幕府権威家格と言った「武家社会の秩序」は健在ですから
その秩序の中で掴み取った、あくまで "公方公認" の正統な地位であり
その後の越前統治においても
乱れ行く世にありながら、きっちり約束を守り道義を貫いた
稀少な一族です。
ピンチに近い運命を、チャンスに変えたのは
意外(?)にも、野心に突き動かされた猛進ではなく
誠実に生きた末の結果であったことは
孝景自身
 「いや〜、まさか国執ることになるとは思わなかったわー
  不思議だわー」

という『朝倉孝景十七箇条』の言葉に表われています。


それと、この歴代当主を見ても分かるように
朝倉家の嫡男は、先祖と同じ諱(いみな)を名乗ることが非常に多く
もう、何がなんだ分かりません。
その中でも、断トツの登場回数を誇る
「 "教景" の謎」についてですが…

あーいや、今日は氏景の話だった。



さて、孝景の嫡男、朝倉氏景
『応仁の乱』の頃は、既に父の右腕として活躍していたのですが
どうにも…影が薄い。
まあ、父孝景亡き後の治世がわずか5年
病により38歳と言う若さで他界してしまった
と言うのもあるのでしょうが
しかし、越前朝倉家の基盤が未だ不安定な時期
孝景の3人の弟達と力を合わせてよく乗り切り
戦も強く、法語によると天性より武を好み卓越した勇気を持つ
父に劣らぬ立派な武将だったそうなのです。
まあ、強烈なインパクトの先代を持つ「2代目」の影が薄いのは
仕様ですかね。

(※法語とは、法要の際に読み上げられる、故人を讃えその事績を記した漢詩のことで
 縁のある僧によって作成される事が多く
 その故人の人柄を伝える貴重な史料となっています。)


そんな、エピソード少な目な氏景ですが
その中でひと際印象的なのは
朝倉軍が、遂に東軍への帰参を明らかにし、西軍との別れを告げる場面です。

孝景が、3人の弟達を連れて越前に下向してからの3年間
氏景だけは少数の手勢と共に、西軍として在京を続けていました。
そして遂に、越前から "孝景東軍帰参" の報が入り
程なく、京都の氏景公方義政に直に謁見、御剣を拝領して越前に下る日を迎えます。
その前日の夜
氏景は、西軍大将山名宗全の屋形で大酒を飲んだ後
東軍の陣に馳せ入ったと、『大乗院寺社雑事記』は伝えています。

この朝倉の東軍帰参が「西軍への裏切り」ではないことは
本サイト『2-10』で先走って述べた通りですが
そうすると、この夜の別れ
どれ程つらいものだったのだろう…と考えてしまいます。


本サイト『2-11』
西国石見の益田家が、長野庄の帰属の関係から
西軍在国大内家家臣達
以後も変わらぬ同盟を誓った上で東軍に帰参した
という話を解説しましたが
実は朝倉にも
東軍にならなければならない "とある理由" があったのです。
だから、この夜の「大酒」
「誓いの酒」だったのだろうし
"別れ" と言っても
それは、輝かしい明日の為の "門出" だったはずですが
それでも―――
共に戦った者達との別れのつらさを消し去るべく
大酒くらう朝倉氏景、この時23歳(満22歳)。
人生最初の、涙の酒となりました。(たぶん。)


ちなみに、後になって
その "とある理由" が思いがけず解消されたので
西軍諸侯から
 「おい、もう大丈夫だ、戻って来いよ!!」
と誘いを受けていたりするw
ただ、朝倉としては
 「え、ちょww 公方様謁見しちゃったし
  無理、流石にそれは無理www」

という訳で、お断りしたのですが
でも西軍の彼らとの親密な関係は、乱後も変わらず続きます。



では、ここで
『応仁の乱』から『明応の政変』の時期をクローズアップした
朝倉家抜粋家系図を示しておきます。


朝倉家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる慈視院光玖朝倉景冬二色刷りとなっています。


応仁世代明応世代が、ちょうど親子関係になっている事は
このブログの「伊予の国から2」で述べましたが
応仁世代は1440年代生まれ
明応世代は1470年代生まれが、本当によく集中しています。
例えば、応仁世代は…

 畠山政長 1442
 伊勢貞宗 1444
 斯波義廉 1446 or 1447
 大内政弘 1446
 慈視院光玖 1440
 朝倉景冬 1440年代半ば
 朝倉氏景 1449

あと、1430年代も多いですね。
 足利義政 1436
 足利義視 1439
 畠山義就 1437
 伊勢貞藤 1432
 朝倉経景 1438
あとどうでもいいけど斯波義敏1435
細川勝元はギリで1430
でも朝倉孝景は1428で、ちょっとおっさん。

ちなみに、こう見ると「朝倉四兄弟」ってのは
孝景+弟3人(経景、光玖、景冬)ってより、
弟3人+氏景って方がしっくりきますね。
景冬氏景なんてほぼ兄弟
それゆえ、孝景亡き後も団結出来たのでしょう。



ついでに、先走って明応世代も紹介しますと

1470年代
 畠山尚順 1475 (畠山政長 嫡男)
 大内義興 1477 (大内政弘 嫡男)
 朝倉貞景 1473 (朝倉氏景 嫡男)
 朝倉教景 1477 (朝倉孝景 嫡出末子)
1460年代
 足利義材 1466 (足利義視 嫡男)
 伊勢貞陸 1463 (伊勢貞宗 嫡男)


まあ、ややこしい話ですが
この人間関係はよく把握しておくと妄想が捗る…ではなくて
この時代の歴史に強くなるのでお勧めです。
つまり
 「応仁世代」は(30's〜)40's
 「明応世代」は(60's〜)70's
と言う事です。
なんかノリノリです。


ってゆーかこれ、500年プラスしたら
なんか現代に当てはまりますね、色々と。

私が、なんか明応世代を応援したくなる気持ちが
分かってもらえると思います。



posted by 本サイト管理人 at 03:32| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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