2014年05月17日

畠山義統

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』朝倉特集
切りが良いので一旦切り上げ、次に進みます。
なんか肝心な人が終わってないような気がしますが…まあいいか。

さて今日は、畠山は畠山でも
「能登畠山」を紹介します。
管領家で、かつ河内・紀伊・越中の三ヶ国守護でもある宗家(義就・政長流)の分家筋
能登国守護を務めていました。
そんな能登畠山の、応仁世代の当主はこの人
畠山義統(よしむね)です。

畠山義統
(2015.6.4リメイク)

またマイナーなところを…。
ってか、ここへ来てなぜ能登?!…と思われるかも知れませんが
実は、能登畠山
『応仁の乱』での「西軍ワールド」でも
それから、『明応の政変』その後の15年での
「旧将軍(足利義材)親衛ネットワーク」においても
割と主要なキャラなのです。


まあ、『応仁の乱』では
他の西軍諸侯が、無駄に目立つやつばかりだったせいで
能登畠山の話題は少ないのですが
本サイト『2-9』「連署の書状」でもしっかり登場していますし
何より畠山義統
『応仁の乱』もそろそろお開き感が強まってきた頃
自身の養女大内政弘に嫁がせて、婿にしているのです。
しかも、養女と言っても
自分の母の一族の娘ですから、実際の血の繋がりもあります。
そんな娘を養女にして
義統の生年は不明ですが)
おそらく自分と10歳も違わないだろう大内政弘の嫁にする…ってww
なんか面白いことするやつらだなぁ、とか思う。


まあ、普通に政略結婚…と思われそうですが
これは、新たに関係を築く為の婚姻ではなく
既に強固な関係にあったが故の縁談ですから
西軍解散しても、仲間だからね!」という意味か
単に、大内政弘がいい年して正室なしだったから
「じゃあ、斡旋するよ!」とかいうノリだったように思う。
たぶん、『応仁の乱』開始年の夏に
すぐ帰るつもりで上洛した22歳(満20歳)の大内政弘
まだ嫁の事など、全く考えていなかったのでしょう。
ただし、直前にとーちゃんを亡くしている事を考え合わせると
もしかしたら義統
父を亡くし、乱のどさくさで婚期を逃していた大内政弘
"父親代わり" という意味で、養女を娶わせたのかも…
と考えられなくも無い。
だとしたら義統、なんて良いやつなんだww

という訳で、能登畠山家大内家の関係は
次の明応世代でも、要注目です。


ちなみに、以上は『大乗院寺社雑事記』の記録です。
こんな妄想が出来るのも
すべては、せっせと独自情報を集め
こまめに書き残してくれた尋尊のお蔭です。
この日記は、本当に珠玉の情強ネタ満載で
中世の日本を、素晴らしい程あざやかに甦らせてくれます。
みんな尋尊に感謝! 『大乗院寺社雑事記』は日本の宝!!
…いやまあ、日本中世の日記はどれも
宇宙遺産認定したいくらい、貴重な存在です。



ところで、能登畠山
畠山家を語る上では、欠く事の出来ない要素でもあります。
と言うのも
何を間違ったのか
宗家がとんでもない傑物を同時に2人も輩出してしまい
畠山家の歴史が、急速にアドベンチャー化していく中にあって
能登畠山は、比較的安心の平常運転だったので
収拾つかない宗家のはちゃめちゃストーリーを緩和してくれる
極めて重要な立ち位置だったのです。
(※ただし、畠山政長は本来
 真っ当かつ無自覚不憫系の地味めな性格です。
 義就のせいで、夢の平凡な人生が歩めなかっただけ、の話です。)

なんたって、畠山政長の子の尚順の子の稙長(たねなが)が
 「もういいよ!全部能登にあげちゃおうよ!」
とか言って
宗家の家督を丸ごと能登に進呈しようとしたくらい、能登は重要です。
…ってか
確かに稙長の時代は、もうかなりはちゃ極めちゃ状態だったとは言え
丸投げ過ぎんだろww (でも、気持ちは痛いほど分かる)


まあそんな訳で、能登は畠山家のまとも担当!
三色団子で言えば、真ん中の白!
そんな能登畠山のイメージを存分に反映させた上図の義統
長くも短くもない前髪
黒でも茶でもない髪色
右でも左でもない分け目
まさに、能登!!

…いや別に、能登をディスっているつもりはなくて。
基本的に私は、「贔屓はいけないと思いまーす」と言いつつ
足利、畠山(能登含む)、大内、伊勢、朝倉
明らかに贔屓しています。
本当にすみません。
しかしそれは
彼らの行動の根底には、"貫かれた弓矢の道" があって
それ故、個々の史実エピソードに
光る美学が読み取れて、面白いからです。
逆に、自分の事しか考えてない、品の無い者が大嫌い…
おっと、好き嫌いはいけない。
誠に申し訳ありません。
(もちろん、他にもまだまだ
 道理礼節を弁えた正しい武家はあるし
 上記の武家の者でも、個別に問題は大いにあるw)


ちなみに、肖像画は、同族はみな同じ顔になっています。
義就政長義統も、みんな一緒。
違うのは、描いている時の私の気分くらいです。




さて、話を戻して。
畠山義統
『応仁の乱』では義就と共に西軍に属していた訳ですが
乱後は、他の西軍諸侯同様、分国に下向して自国の統治に励み
以後、代々能登国七尾城辺りを中心に
多くの公家歌人達が行き来する、見事な城下町を花咲かせます。
というか
美濃の妙椿とか、周防の大内さんとか、越前の朝倉とか
小京都系 "名君統治" を実現させてんの
元西軍ばっかじゃん…とか思う。
まあ、当主が安定して在国していたから
と言うのもありますが
彼らは、自国の統治のみに没頭していたのではなく
幕府を中心とした武家社会の秩序公方との主従関係も当然に尊重しながら
その上で地方の繁栄を目指した、道義ある名将たちであり
やはり偉いと思います。
(これらは一見、二律背反ですが
 彼らは、持ち前の「私利より公利の武家精神」で
 上手くこなして行くのです)
だからこそ、『明応の政変』でも
個人的感情で世を乱す非道な行為に対しては
勝者正義と認めず、水面下で抵抗し続けたのです。



実は、『明応の政変』という
唐突なクーデターが起きてしまった後
世の無為天下泰平を願って旧将軍の復帰を後押ししたのは
『応仁の乱』での西軍大名が多いのです。
ただし、それゆえ彼らは、戦闘という "手荒な方法" を嫌うので
京都奪還まで15年もかかってしまった、ってゆう。

まあ、『明応の政変』が起きたのは
京都が主戦場となった『応仁の乱』の初期から25年
大名の東西分裂が解消してからは
まだ15年しか経っていない時期ですから
『応仁の乱』リターンマッチだけは、何としても避けたかったのでしょう。
(しかし一方で、『明応の政変』の2人の主犯格のうち
 一人は、京都を火の海にしかけ
 もう一人は、京都以外の各地に全方位テロを巻き起こすのですが。
 …なんてこった)


まあつまり、要点としては
 「『応仁の乱』での繋がりはその後も継続していて
  彼らは、協力し合う関係にあった」

と言う事、それから
 「元西軍大名は、実はかなり真っ当
  権力の独占や無益な敵対を否定し
  和による天下の泰平を志す傾向が強かった」

と言う事。
地味なところですが
この視点は、『応仁の乱』でも『明応の政変』でも
彼らの行動原理を解明し、真相を正す上で重要です。


『応仁の乱』では、それが無意味な対立ではなく
西軍大名は「弓矢の本意」という目的を抱いていた、という事を
本サイト『2-11』の真ん中辺りの
「大内政弘から麻生弘家への書状」で解説しましたが
『明応の政変』のその後の15年間もまた
私的な利害衝突や権力争い、といった単純な話ではありません。
彼らは単に「自己利益から旧将軍側についただけ」
という訳ではないのです。
どういう事かと言うと―――
「旧将軍、京都帰還作戦」とは
なんと朝廷公家歌人まで関わってくる
"天下の一大ミッション" だったのです。

…おっと、話が先走りすぎたw
詳しくは、これから少しずつ解説していきますが
これに気付いている人、どれくらいいるんだろう…とは思う。
(もちろん、それを指摘した論文を見た事は
 今のところ無い。)



まあ、『明応の政変』については
そろそろ、概略だけでもまとめようと思っていますが
今のところは
かつてこの国で、道義ある天下を願う者達が
様々な方面で、それぞれの方法で、しかし一つになって
遂に理不尽な現状を覆したという
輝かしい、しかし未だ知られぬ "映画のような歴史" があった
と言う事を
こっそり知っておいて下さい。


さて、畠山家についてもう少し話が続きますが
長くなったので、ここらで一旦切ります。



posted by 本サイト管理人 at 02:24| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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