2014年05月18日

畠山義統(続き)

(チラ裏シリーズ)

さて、前回の『チラ裏人物記』畠山義統回の続編として
もう少し畠山家の事について語りたいと思います。

ではまず
宗家能登畠山家が分かれた時点から
『応仁の乱』を経て『明応の政変』までの時期をクローズアップした
畠山家抜粋家系図です。


c畠山家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
両者にまたがる政長義統は二色刷りとなっています。
破線(- - -)は、異説です。


満家(みついえ)と満慶(みつのり)は
本サイト『2-5』で、足利義教信任厚い兄弟として登場しましたが
二人は共に、3代目足利義満から4代目義持6代目義教まで仕え
弟の満慶が、畠山家の守護国のうち能登一国を授かった事で
能登畠山家が誕生します。
彼らは仲の良い兄弟だった様で
『満済准后日記』には
一足早く先立った弟満慶の死を、深く悲しむ兄満家の姿が記されていて印象的です。
そんな宗家能登の密接な関係は、この後も続いていきますので
両家は "兄弟みたいな関係" と捉えてしまっても
割りと間違ってないし、分かり易いと思います。


さて、6代目義教の治世の半ばで、満家・満慶兄弟が世を去り
後をそれぞれ持国義忠が継ぎますが
2人は既に、義教期の初期から幕政に関わっていて
『嘉吉の変』収束後から『応仁の乱』の一歩手前の時期
すなわち、8代目義政
 「そこそこ世の中が何とかなってて華やかだった時代」
での、幕府における宿老的な存在でした。
んで、ご察しの通り
能登の方は、引き続き安定の賢臣ポジションなのですが
宗家の方は、冒険時代に突入してしまいます。


宗家の家督騒動の始まりは
義教期末期の、兄持国から弟持永への家督交替ですが
これは、持国に言わせると
 「俺たち兄弟の間には、何のわだかまりも無かったのに
  家臣が余計な事したからだ!」

という事だそうで
義教が改替を決定したのも(別に理由なき独裁ではなく)
持国「家臣の支持を失った」と判断した為でしょう。
義教は、大名家の家督
第一に「人徳家臣の支持」を求めていましたから。
まあ、確かに
義教も、もう少しマイルドな成敗しろよ、とは思うし
持国自身も、上意に違う事がしばしばあって
それで家臣危機感を抱いた、というのが真相のようですが
少なくとも、一次史料の記述からは
 「義教が無意味大名粛清をしてた」
という解釈を導くのは、理論的無理があります。
無理無理アクロバティックファンタジー
ジェットストリームリムリです。

   ( ゚Д゚)゚Д゚)゚Д゚) <ムリムリ

…あ、ごめん言い過ぎたw
でも、もともと記録が無いならいざ知らず
こんなにも一次史料が残っている恵まれた国
それらを深く読み解けば
"限りなく真相に近い歴史" を描き出せると言うのに
さらっと斜め読みして
"想像で描いた歴史ファンタジー" を膨らませてしまうなんて
もったいないにも程があると、常々思っております。
というか、贅沢だよねw
歴史ってのは、どんなに大金積んでも買える物じゃないんだから
もっともっと、大切にしていかなきゃならんと思います。


とは言え、『嘉吉の変』後、宗家の家督持国に戻り
しばらくは平穏に過ぎていくものの
この一件で
家臣を含めた宗家に、火種が残ってしまったのは事実で
それをみんなが
寄ってたかってパタパタ団扇で扇いだもんだから… ちーん。
ってか、山名宗全・細川勝元もだけど
持国自身も、弟持富を後継者に決めていたのに
 「やっぱり、実子の次郎(のちの義就)に…」
とか、やっちまうから、もう。


まあこの辺の復習は、本サイト『2-7』を参照して下さい。
上の家系図の「政久」
享徳3年(1454)秋頃に、一旦家督についた弥三郎政久(政長の兄)です。
弥三郎政久が担ぎ出されたのは
畠山宗家の家臣の一部が、細川宗家に働きかけた成果のようですが
まだ幼い政久自身は、結構かわいそうだったと思う。
(基本的に、畠山家の騒動は家臣の画策による所が大きい)

『康富記』(中原康富の日記)によると
実子義夏(のちの義就)が家督を外され
父持国は、建仁寺西来院での隠居を決意するのですが
弥三郎政久方は、持国自身の存在は必要としていて、彼を屋形に迎え入れます。
この頃、持国は病が日に日に重くなっていたのですが
一度、不思議に回復して
公方義政のもとに出仕した事があるのです。
その時の様子が
 弥三郎政久義統の二人が、持国の手を引いて」
公方の御前に参ったと。
この時(おそらく)、政久10代前半、義統10代後半
なんか、想像すると泣けてくるw
しかしその直後、義夏+義夏方の家臣の巻き返しで
弥三郎政久方は没落。
しかも政久は―――その後早世してしまうのです。
ますます泣けてくる。
でも大丈夫だ! 政久の後を継いだ弟の政長
伝説のような歴史を残してくれたから!
(というか、政長の性格自体が伝説。)


こうして、その後二転三転大逆転の末
『応仁の乱』を経て完全に2流に分かれてしまった両宗家は
  義就流の畠山を「総州家」
  政長流の畠山を「尾州家」
と呼んで区別されています。
理由は、前者が代々上総介(かずさのすけ)を
後者が代々尾張守(おわりのかみ)の官途を称したから。
まあ、義就流上総介を称した例は少ないと思うのだけど…
まあいいか。
尾張守の方は、代々宗家の家督継承者が任官していて
「尾張守→左衛門督」と昇進するのが常でした。


ところで、かつて人の名は、(いみな。実名)ではなくて
通称官途で呼ぶのが慣わしだった訳ですが
(※名前についての豆知識は本サイト『2-6』の最後の方をどうぞ。)
畠山家の通称ってのが、これまた…
なぜか「次郎」が多い。
義就政長義統も、みんな「次郎」!
ってか、確認出来ただけで
義就以降、政長以降、能登は義忠以降、みんな「次郎」!
だから当時の日記読んでると
 次郎次郎次郎に云々」
とか、たまに訳分からんことになってる。
それじゃあ、幕政上も公式な記録する時困るだろ!とか思うけど
 「いや、大丈夫だ問題ない!
  管領家は名字を記さないから
  "次郎殿" とあったら宗家
  "畠山次郎殿" とあったら能登のことだ!」

とか、大真面目に故実書に書いてある。
職人技のような、次郎鑑定スキルである。



さて、能登畠山の事も少し解説しておきますと
満慶の子、義忠(よしただ)には
義有という嫡男がいたのですが、早くに亡くなってしまい
孫の義統に家督を継承して、後見していました。
政国は、義忠の子または義有の子の2説があって不確かですが
実は、次期宗家家督として義就の養子となっていた人物です。

この経緯については、『応仁略記』に詳しいのですが
当時、能登畠山の義忠
毎度天下の無為に功績のある "幕府の三賢臣" の一人だったそうで
(後の2人は、三宝院義賢細川持賢(持之の弟))
で、宗家の家督騒動の収束にも尽力するのですが
家督が義就に戻った時、再発防止策として
 「自身の子(or孫)の政国義就の養子にすれば
  もう公方様の気まぐれによる家督改替劇は起こらないだろう」

と考えたのです。
(※『応仁略記』は軍記ですが
 当時を良く知る人物によるものらしく
 他の日記と比較しても、特に畠山家の記述は正確です。)
しかし、賢臣宿老 義忠の願い空しく
その後もっとこんがらがって行く、ってゆう。
ま、そんな訳で
能登畠山義就流宗家と近く
『応仁の乱』では、共に西軍に属することになるのです。


ただ、ただし
畠山政国は、悲しい最期を迎えます。
文明2年(1470)10月5日
義就と不和になった養子の政国
(おそらく能登越中に下向する途中)
越前国で、義就の要請を受けた朝倉方の手の者に
討たれてしまうのです。
義就に実子が出来た事で、政国と不和になったらしいのですが
うーんwどうなんだろうこれは、義就よぉぉ!
まあ、その後
能登畠山家との関係が悪化した、という様子はないようですが
政国は義就方として結構頑張っていたから
何か政国に非があったとしても
(ってか、あんま無いような気もするが…
 でも単独で下向したのは、裏切りになっちゃうのかな、うーん)
やっぱり悲しい結末だ。


ただ、この件で実は一番気になるのは
東軍に降るべく、越前に下向していた朝倉孝景
「義就と連絡を取っていた」と言う事実。
この時は、まだ旗色を明確にはしていないとは言え
東軍化はほぼ既定路線でしたから
 「おい、なんで西軍普通に連絡取ってんだよ!」
とか思うけど、これも
 「西軍諸侯は、朝倉孝景越前下向の真相を知っていた」
と解釈すれば、何の不思議も無い訳です。
ってか、本当に西軍仲間を騙した裏切りだったら
すぐ怒る短気な義就が、軍事的報復に出ない訳が無いww

まあ、朝倉東軍化 "裏切り" と考えてしまうと
その後の色んな話の辻褄が合わなくて、ちんぷんかんぷんもいいとこなので
早くこの説が訂正されて
全国のちんぷんかんぷん状態が解除されて欲しいと思います。
ってか、なんで今まで
この "裏切り説" は放置されてきたんだろw
矛盾の多さに、誰も疑問を感じなかったのだろうか。


まあつまり、歴史の研究というのは
ただ「史料の字面を読む」という単純作業ではなく
史料からかき集めた個々の事実(点)
一つの理論(線)で繋げる、という
なかなか高度な直感と思考力を要する作業です。
都合の良い数点だけを、適当に繋げるなら簡単ですが
無数の史的事実(点)を、最大数網羅する理論(線)を見つけるのは
結構な難易度ですし
新たな一点が加わっただけで
理論がひっくり返ってしまうこともある厄介さ。
しかし、ちょっと見方を変えるだけで
全ての点が一直線に繋がって、あらゆる謎が一瞬にして解ける
という瞬間もある、実に楽しい学問ですので
どうぞみなさんも、「一次史料からの歴史探究」を始めてみて下さい。
特に、『明応の政変』の "点" は矛盾に溢れていて
"繋ぎ甲斐" があります。



さて、長々と畠山家の解説を続けて来ましたが
これは単に
歴史の知識を楽しんでもらいたい、という為ではなく
この事実を元にした "史実妄想物語" である本サイト『黎戦記』
予備知識となるからです。
ここで、紹介しているのはみな『黎戦記』の登場人物です。
彼らはそこできっと
『明応の政変』の真相を語ってくれると思います。たぶん。



posted by 本サイト管理人 at 13:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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