2014年05月25日

初瓜献上

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏ウマー日記』の今日は
一足お先にのお便り
熊本よりやって来た…西瓜(スイカ)です。

すいか

おおっ!なんと雄雄しく輝いていることか!
まだ5月だと言うのに、堂々と「夏」を宣言している!!
こんなにも強い主張を持ったスイカを、私は知らない。
それでは早速、今年の「初瓜」(はつうり)、いただきまー……

おっと、待ったぁぁ!!
「初瓜」はまず、公方様に献上しなくてはならんのだった。


室町幕府では
諸大名寺社から公方様への「進物」が、年がら年中ありまして
特に、八朔(はっさく。旧暦8月朔日(1日)のこと)や歳暮の贈答は
一大イベントでしたが
初夏を告げる「初瓜」の献上も
それと並んで毎年恒例となっていました。

まあ、日本人は昔から縁起の良い「初もの」は大好きだったようで
他にも、初鱒(ます)、初鮭初鱈(たら)、初雁…などが
当時の記録に見られます。


これらの「贈答儀礼」は、幕府の年中行事のメインの一つとして
室町の日常を彩っていた訳ですが
もちろん、武家社会だけでなく公家社会でも贈答の慣習は盛んですし
公家武家、そして主上将軍の間のやり取りも頻繁で
さらに、朝廷幕府に集まった進物は
"貰いっぱなし" なのではなく、再び家臣などに下賜され
天下をぐるぐる回る事で、社会の円滑化に役立っていたのです。
初代足利尊氏の、豪快な
 「貰った贈り物、片っ端から全部みんなに配っちゃう」属性
は有名ですね。
ちなみに弟の足利直義
 「貰い物をする事自体を好まなかった」
という、アホみたいに潔白なきよきよ侍です。

(…ただし、その一方で、ひたすら財物を溜め込み
 社会の円滑・健全化を妨げる超お金好きもたまにいて
 そういう人は、当時の日記で方々から非難されています。
 まあ、○○様とか。 あと御○様とか○台様。
 おっと、今はこの辺にしておこうw)




さて、公方様への進物
政所頭人(まんどころ とうにん)である「伊勢家の当主」を通すのが慣わしでしたね。
という訳で、伊勢貞宗の出番です。

伊勢貞宗

あ、あれ、寝てる…。
おかしいな、のび太だったのは少年時代までであって
政所頭人時代は、張良もとい社稷の臣もとい金粟如来(こんぞくにょらい)への道を
ひた走っていたはずなのに…
どう見てもこれでは、眠れる森のきのこ
(※「伊勢貞宗きのこ説」については
 当ブログ『伊勢貞宗』で考察しています。)
これでは政所頭人どころか、いいとこにゃん所頭人ではないか。
ああ、また父貞親が絶望してに走ってしまう。
(※私自身は、無駄な抵抗と知りつつも
 「伊勢貞親、実はハニトられた訳じゃないんじゃないか説」
 を提唱しています。
 詳しくは当ブログの『伊勢貞親』をどうぞ。)

まあいいか、んじゃもう先に食べちゃおう。
んーーーーーっはい、ぱっくり!

スイカ切ってみた

んぬおーーーーー!! この夏の色! 吹き抜ける夏の風
その一口で、まだ見ぬ夏を甘く切なく染め上げる ―――
美味い、美味過ぎる!!
熊本グッジョブ!! GJ熊本!!
(※『応仁の乱』での「熊本グッジョブ!」は
 本サイト『2-11』の、西軍大内政弘に味方した
 肥後国守護の菊池重朝と、国衆の相良為続です。GJ!)


ところで、と言っても
昔は、甘くて大きいしましまスイカや、なんか高級っぽいあみあみメロン
なんてうきうきした瓜はありません。
当時の瓜と言ったら…まくわ瓜!!
これは、手のひら大のむくっとした楕円形の瓜で
皮は黄色に白い筋が入り、さっぱりした慎ましい味がします。
(知ったような事を言いましたが、私は食べた事がありません。)
これが、旧暦の5月終わりから6〜7月にかけて
「初瓜」献上後も引き続き
一度に数十籠から時に百籠と、籠盛りにして公方様のもとへ届けられたのです。
しかも、の扱い方には儀礼作法まであって
「ヘタからおしりの方に向かって、七つ(正確には六つ半)に皮をむく」
とか
「6月から7月7日の七夕までは輪切りで、それ以降は縦に二つ割り
とか。
みんな、どんだけを愛していたんでしょうか。


まあとにかく、室町の武家故実
当時の武士の「勇」と対為す「美」の部分が垣間見られて面白いです。
特に、伊勢家関連の故実書
 「続群書類従24上、24下」「群書類従22、23」
に多く収録されていますので
たまには、室町の日常をマニアックに楽しんでみて下さい。


さて、京都に進上される
周辺国で採れる大和瓜・近江瓜・丹波瓜が主流で
それぞれその国の守護大名大和の場合は興福寺
その献上者となっていました。

大和…といえば、前回の「茶の湯」の話の続きになりますが
奈良の興福寺を中心に "茶" の文化も独自に大いに発展していて
特に「林間茶の湯」(※林間(りんかん)または淋汗)
という
 お風呂上りに、茶会を開いてみんなで盛り上がる夏の風物詩
が有名です。
主催者は、大和国人で興福寺衆徒の古市胤栄(ふるいち いんえい)で
奈良で最もノリのいい貴人経覚を招待して
目一杯工夫を凝らした会場が用意され
を何瓶も生けて彩り
はもちろん、お寿司、果物、お菓子など、ご馳走をたんまり用意し
湯壷(湯船)は、側にを立てたり
水舟とか勇士のフィギュアとかとか作って飾り立てるもんだから
 「風呂荘厳、甚だ美麗なり!!」by経覚
という状況だったそうだ。
みんな、どんだけ風呂を愛していたんでしょうか。
(※当時の様子は、『大日本史料』文明元年雑載をどうぞ。)



まあ、こうしてみると、「茶の湯」というのは
当時はかなり自由な楽しみ方をされていたようです。

義政時代殿中の「茶の湯」にしても
本来、お茶を点てるのは茶坊主の仕事で
茶会の主役は、"点てる側" ではなく "頂く側" だった訳で
今のように
そのお手前(茶の点て方)を褒めたり注目したりするようになったのは
やはり、義政「気まぐれ茶坊主体験」が発端のようです。
(それ故、伊勢貞丈
 「もともと、茶の点て方自体には法式なんてない」
 と、言っているw)

それにしても、現在の茶道
 亭主が巧みなお手前で茶を練り、が厳かに回し飲みする」
という濃茶の作法
 公方義政が点てた茶を、近臣たちが一口ずつ頂戴する」
という構図の再現である
と言うのは、軽く茶道界が震撼しそうな事実だな…
と、前回のブログ記事を上げてから改めて思ったw
まあ私は、それはそれで
むしろ面白くも尊い歴史だと、気に入っていますが
うーん…w どうだろうか?
一般的には、茶道の原点戦国期というイメージが強いし
千利休が、それまでの慣習を体系付け
発展させた功労者であるのは疑いないところですが
ただ、千利休の全盛期と義政の時代とでは
100年ほどの差があるし
当時の茶の湯の基礎は「殿中での茶の湯」ですから
たまには、義政の事も思い出して下さい…はい。

そこには
室町時代の公方という "特別な存在" があり
さらに遡って、"茶の湯の精神" の根底には
室町初期の夢窓国師「禅の哲学」が秘められていたのです。

…という訳で
「茶を点てる側の作法」だけでなく
「茶を喫する側の精神」についても探究する "これからの茶の道"
密かに期待しています。

(※夢窓国師の茶哲学については
 足利直義との問答『夢中問答集』に記述があります。)

義政の茶


あ、貞宗がちゃんと起きてしっかりしてる。



posted by 本サイト管理人 at 17:20| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記
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