2014年05月31日

斯波義廉

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
今日は、足利一門「御一家」渋川家出身の斯波家家督
『応仁の乱』開幕前後の室町幕府管領にして西幕府ナンバー2
…という圧倒的な初期値を示しながら
極めて上品な権勢欲で、すっかりレアキャラと化してしまった
渋川義廉改め、斯波義廉(しば よしかど)です。

斯波義廉
(2015.6.4リメイク)

義廉については
本サイト『2-6』上から3分の2辺りで初登場
『2-7』「文正の政変」に至る幕府のドタバタ劇
『2-8』の最後の方で
義廉家臣達の涙出る話、気丈な義廉母の逸話(『文正記』)
『2-9』真ん中より少し下
斯波義廉邸を死守する家臣達の奮闘(『応仁私記』)
『2-10』最初の方、「斯波、渋川、足利」の関係、先祖三兄弟のこと
そして、同じく『2-10』真ん中以降の
義廉管領罷免、被官朝倉孝景の離京」
…以上が
今のところの、本サイトでの主な登場箇所です。


まあ、こうして見るとエピソードが少なくも無い。
しかも、どれも重要かつ胸打つ物語を秘めている。
さすが義廉!!
…とまあ、私は義廉大プッシュ派なのですが
一般の評価が低い、というか気にされていない。


しかし、斯波義廉斯波義敏とでは
よくよく史料を読むと、家臣の忠誠度が全然違うのですよ。
斯波義敏はホント、「こりゃ嫌われてもしょうがないわ」
としか思えない振る舞いが非常に多い。
なんと言いますか
幼稚な嫌がらせとか、地位や所領への執着とか
"ちっささ" が目立つんですよ、斯波義敏はw
でも、幼稚ゆえに敵としては問題外…ってか
いつもあっさり負けてくれるので
義敏てめぇーーーーwww」と笑っていられる
そんな
"ムカつくけどそんな嫌いじゃないかも…まあでもどうでもいいか"
というポジションです、私の中では。
ちなみに、肖像画は…まあどうでもいいか。


一方、義廉
 「己の保身で名を穢すくらいなら、潔くフェイドアウト
みたいなところがあって
 「武士に有らざる振る舞いが無い」
という流石の品格を見せてくれます。
ただ、貴種特有の生存欲の低さが如何ともし難い、ってゆう。
まあでも、義廉は相当育ちが良いですよ。
それでいて、ボンボン特有の我侭、奇行、妙な自尊心がない!
(…おっと、ボンボン将軍義尚の悪口はそこまでだ)
 
(※ただし、義尚父義政に比べれば
 自ら家臣を率いる気概ある、武家らしい将軍だったと思います。
 しかし、その血統に気負い過ぎたのか
 不養生もあって25歳で早世。
  「義尚は死んだ、なぜだ!」 「坊やだからさ」
 …いや、違うな
  「君は良い将軍であったが、君の父上がいけないのだよ」
 …って、本当のこと言わないで下さい><
 ってか、誰なんだよシャアは。 …そんなこと知りません>< )


まあ、義廉義敏の違いは
御一家渋川家(義廉)と斯波家の分家(義敏)という
家柄のせいもあるかも知れませんが
義廉については、やはり
山名家出身の母の影響を、多大に受けていると思います。
なんたって、義廉母
『文正記』によると
 小刀、長刀、脇差を肌身離さず、合戦で潰える事あらば
  いつでも自害する覚悟を定め持つ」

という
"武士の何たるか" を完全に理解した女性で
保身執着とは対極にいるので
もし義廉が弱音でも吐こうものなら
たぶん一緒に腹切りかねませんよ、この母上はw


そんな訳で、『応仁の乱』での義廉
その高尚な気概ゆえ
西幕府ナンバー2の管領でありながら… 話題に上がらない。
西軍公方となった義視を自邸に迎え
御所として同居していたはずなのに… 動静が聞こえてこない。
そして、第一の被官、朝倉孝景越前下向を決意した時も―――

…とそこが、義廉&朝倉孝景好きにとっては
『応仁の乱』最大の "気になって気になって不眠ポイント" な訳ですが
結論から言うと
義廉朝倉孝景の越前統治に同意し
別の道を進む自由を、尊重したと思われます。


まあ、ちょっと綺麗事過ぎるようですがw
しかし、『文正記』にある
 「渋川家の "譜代の家臣" と、斯波家の "被官" の違いを
  明確に捉えていた」

という義廉母のエピソードを鑑みれば
この時も義廉は、"最も主君らしい振る舞い" をした
と考えられますし
当ブログ『朝倉氏景』で触れた
「朝倉へ。 おい、西軍に戻って来い」の書状
義廉西軍諸大名の連署で来ているので
決して「裏切り」「下克上」主従を断ち切ったのではない事が裏付けられるのです。
(※参照『朝倉家記』)


まあ、そういう意味では
朝倉孝景にとっては、報いるすべも無いほどの
多大な恩を被った主君と言えます。



さて、ここで
斯波家の被官について復習しておきますと
甲斐、朝倉、織田の3家で
甲斐越前遠江の守護代、織田尾張の守護代
朝倉は越前を本拠地としていましたが、守護代ではありませんでした。
ただ、甲斐朝倉公方の直臣でもあるので
3被官の中では、甲斐朝倉の存在感が目立ちます。

と言っても、もとは甲斐のが優勢で
朝倉が並ぶようになったのは
自己中義敏が越前をかき回した『長禄合戦』が切っ掛けです。
(※『長禄合戦』については
 本サイト『2-6』真ん中以降をどうぞ。)
義敏の自滅&孝景一人勝ちで終わったこの騒動の後
寛正2年(1461)に、義廉斯波宗家の家督につくのですが
既に述べたように、この時朝倉孝景
 公方義政から、越前守護代の任命について相談を受けた」
のです。
(『大乗院寺社雑事記』寛正2年10月17日)
しかし、それは実現しませんでした。
まあ当然、甲斐が承諾しないでしょう。
それでも、甲斐との関係が険悪になった様子はありませんから
朝倉孝景は、別段不満の色を見せることなく忍耐したようです。
おそらく―――
地道に誠意を重ね、実力を蓄える事で "その日は必ず来る"
確信していたからでしょう。

(※これは決して、私の理想的妄想ではなく
 『朝倉孝景十七箇条』や『大乗院寺社雑事記』の記述より
 孝景は、道理に対する強い信念を持っていて
 厳しいくらい誠実に任務を遂行する人物であると
 想定されるからです。)


そして、"その日" というのが
『応仁の乱』での、義政からの「東軍への勧誘」だった訳です。

つまり、朝倉孝景が主君義廉と袂を分かち
強い未練をも断ち切って西軍を去ったのは
 甲斐対峙しなければならなかったから」
であり
西軍諸侯が背中を押したのは、『長禄合戦』の頃から既に
 越前を治めるべきは朝倉であると、誰しも予感していたから」
であり
しかしそれは、余りに突然な訪れで
孝景にとっては、必ずしも望んだ方法ではなく
抗う余地のない運命に近いものでした。

(※なぜなら、甲斐との決着が "合戦" という方法になった事は
 意外かも知れませんが、朝倉は後ろめたく思っていたようで
 朝倉家の関連軍記には、その痕跡が見て取れるのです。)

しかし、決めたら最後
その道を貫くのが武士というもので
駆け抜けるような戦の月日の果てに、朝倉孝景は見事、越前に明日を勝ち取ります。
敗れた甲斐は文明7年(1475)2月、東軍に帰参し
(※この時、遠江守護代のみ安堵される)
以後、義敏方斯波の被官として
越前の朝倉との対立を、続けていく事になります。



と、ここで「どっちがで誰が対決してんのかイミフ…」
になって来た訳ですが
この時点で、甲斐朝倉東軍です。
しかし、甲斐は、東軍の斯波義敏を主君としたのに対し
朝倉は、東軍帰参当初から一貫して
同じ東軍でありながら、斯波義敏を主君と認めていません。
実は…
朝倉孝景東軍の勧誘を受けた際に示した
絶対に譲れない条件、それが
 「斯波義敏だけは、主君として認めない」
というものだったのです。
それでも、どうしても朝倉の帰参を望む東軍側
最終的にそれを認め
公方義政から斯波義敏に対し
 「越前で朝倉が合戦を始めても、手を出さないように」
との上意が伝えられました。
しかしもちろん、斯波義敏にとってそれは不満であり
(だから、途中で邪魔しに来るw
 そして義政に怒られ、孝景によって丁寧に京都に運搬されるw)
それゆえ、同じ東軍となったにもかかわらず
甲斐+斯波義敏とは、激しい敵対関係が続く事になるのです。

(つまり、これまで
 「朝倉(東軍)vs 甲斐(西軍)     義敏(傍観)」
 だったのが
 「朝倉(東軍)vs 甲斐+ 義敏(東軍)」
 となる。)


それにしても
東軍に帰参しながら
東軍の斯波家に仕えない事を認めさせてしまう朝倉孝景って…
とか思うw
まあ、一旦「子々孫々まで家督として認めねぇ!!」
と誓った決意は、どこまでも固かったという訳です。 さすが孝景


さて、この辺はまだまだ語らなくてはいけない詳細がありますが
今はとりあえず置いといて、斯波義廉の話に戻します。
この時点で、主な被官の朝倉甲斐までも失った西軍の義廉
甲斐が東軍に帰参した年の冬
つまり、大乱終結2年前の文明7年(1475)11月に
一足早く京都を後にし
残った被官、織田敏広の守る尾張国へと下ります。


では、その後の義廉の行方は?
気になるところですが、長くなったので一旦切ります。
ちなみに、なんか寂しい事になってしまった義廉ですが
(さすが、畠山政長と双璧を為す室町不憫界期待の王子…)
しかし、義廉には
渋川家 "譜代の家臣" 板倉(いたくら)というのがいて
義廉がどこに流れていこうとも
地の果てまでお供してくれますから、心配は要りませんw

それからもう一つ
斯波義敏を何が何でも認めなかった朝倉孝景ですが
それでは、もう一人の斯波、義廉との関係は?
孝景が越前に立った時、もうその主従
完全に切れてしまったのだろうか?

彼らの行き着く未来がどこなのか
ヒントは、前回のこの言葉

  「物は否を終えず」

"否" では終わらないのが
誠実に生きた室町武士の一生なのです。



posted by 本サイト管理人 at 03:17| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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