2014年06月08日

斯波義廉(続き)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、今日の『チラ裏人物記』は
前回の斯波義廉回の続きです。
甲斐朝倉という斯波家の2大被官を失い
尾張国に退いた義廉(よしかど)は
『応仁の乱』が過ぎ去った世の果てに
どんな空を見る事になるのか―――

…とか、わざとらしく映画の予告仕立てにしなくても
義廉不憫属性を考えれば大体予想はつくと思いますが
期待通りの世界線をたどってくれます。


大乱終結2年前の文明7年(1475)11月
義廉は京都を離れ
守護代である織田宗家の織田敏広(としひろ)が守る
尾張国に下向します。
これは、遠江守護代甲斐が、東軍に帰参したことを受けて
残る尾張を確保する為に先手を打った "妙椿の策" だと思われます。
なぜって、妙椿は養女を織田敏広に嫁がせて
準備万端てへ☆してるからw


さて、1年ほどは平穏な日々が続きましたが
翌年の文明8年(1476)11月13日
突如として現れた織田敏定(としさだ)なる人物が
織田敏広夜襲をかけて去っていきました。
(『大日本史料』文明8年11月13日)

「って、おめー誰だよ! また東軍の刺客か??」
と思うでしょうが
どうやらそうではなく
庶流の一族である織田敏定
宗家の家督を狙って、個人的に事を起こしたらしい。
というのも、この一戦で敢え無く敗退した後
作戦を変更して
京都の幕府に取り入るべく、賄賂攻勢に出たようで
(※『蜷川親元日記』文明10年3〜8月あたり)
そのかいあって
大乱終結の翌年、文明10年(1478)8月20日には
 「尾張国の "凶徒等" 退治のこと
  "守護代" 織田敏定と相談して早よ」
と言う御内書が下されます。 (『室町御内書案』)

ってか、いつの間に "守護代" に…
しかも "凶徒" って。

この"凶徒" とは、尾張を領する旧西軍、すなわち
斯波義廉&織田敏広のことと解されていますが
ただ、厳密にはターゲットは織田敏広
尾張守護代の「争奪」が焦点の、「宗家敏広 vs 庶家敏定」の争いでした。



という訳で、幕府は
美濃の土岐成頼持是院妙椿(大乱終結後に一応幕府に帰順済み)に対し
 「織田敏定尾張入国に協力するように!」
と派兵を命じ、美濃からは
 「がってん、公方様!
との返事が来ました。
(『大日本史料』文明10年9月29日)
…ん、ちょっと妙椿の立場が気になるところですが
まあいいか。

そんな事より、織田宗家大ピンチですよ。
ってか、また礼物か!!
まあ、幕府側も、旧西軍退治に都合が良かったんだろうけど
うーん…なんだかなぁw


さて、10月当初は順調に勝ち進み、入国を果たした新守護代織田敏定ですが
しかし12月4日になって
清洲城に立て篭もる新守護代敏定
妙椿弾幕を背景とした宗家敏広の間で―――
戦闘が始まります。 やっぱりかw

ただし、これは一般には
 「織田敏広婿だったから、妙椿が幕命に背いて味方した」
とだけ解されていますが
しかし、10月に織田敏定合戦・入国を果たしてから
"2ヶ月近く経って初めて反撃" というのがどうにも謎だし
しかも、妙椿城攻め中の12月14日頃
幕府に対して「無緩怠之趣」、すなわち
 「上意をおざなりになんてしてないよ!」
と使者を介して伝えているのです。
そして、12月4日の合戦では
籠城する織田敏定方が利を得るものの
続く16日、21日の合戦では大打撃を受け、落城寸前まで行きますが
最終的には翌月
妙椿が、織田敏定に尾張国のうち二郡を宛て分けて和議が成立
城の包囲を解いて美濃に帰国
(ってゆうか、この時点でもう幕府関係なくなってる…)
以後、尾張は平穏を取り戻し
しばらくは、織田敏広織田敏定は共に尾張に在国しながら
争いも無く過ぎていきます。


つまり、以上を総合的に解釈すると
妙椿は、新守護代入国の幕命には従ったけど
織田敏定が侵攻し過ぎたから
 「おっと、尾張の治安を乱すのはそこまでにしてもらおうか」
と、報復に出ただけかと。
まあ、旧西軍の斯波義廉織田敏広の危機を、妙椿が見過ごすはずはありませんが
それに加えて妙椿
越前でも治安維持出張していたり
興福寺の尋尊には、荘園の年貢の事で相談にも乗っていて
実は、大内さんPKO-uchi伝説に匹敵する
PKmyO 傾向があるのです。
 (※ピーケーみょー=Peace Keeping みょーちん)


ところで、この12月の "妙椿反撃" に驚いた幕府は
急ぎ使者を下して妙椿城攻めを止めようと試みますが
(ってか、妙椿織田敏定入国に駆り出したお前らも
 相当どうかしていると思うぞ。)
公方からのお使いが来たと聞いた妙椿は…

  「おお、それはお待たせしては申し訳ない。
   ちょっと待っててね! いま急いで城落としちゃうから☆

ちゅどーん ちゅどどーーーーん(ターボ)

使者「……。
   って、おーーーい!! それを止めさせに来たんですけどっ!」

ちゅどーん ちゅどちゅどちゅどーーーーーん(マッハ)
   
使者「何、俺なんの為に待ってるの? 俺意味あんのこれ??」
  (「御使 無其詮逗留」)

との自問むなしく、城は半落してゆくのであった。

妙椿


(※以上『大日本史料』文明10年12月4日、文明11年正月19日)



ちなみに、この騒動の一連の記録には
義廉の「よの字」も出て来ません。
相変わらずの高ステルス性を見せつける義廉ですが
まあ、なにはともあれ、無事である事は確かなので良かったあよw
…しかし。
そう、しかし。
尾張に平穏が戻り2年半が経った頃、遂に世界線は旋回の時を迎えます。
文明13年(1481)7月23日
織田敏広のまだ幼少の嫡男千代夜叉丸(のちの寛広)が
織田宗家の家督を継ぎ
そして一族は旧東軍方の斯波、すなわち
斯波義良(義敏の嫡男、のち改名して義寛)に帰参
公方義政以下に、代替わり&帰参御礼を進上するのです。

……。
お、お、うえーーーー?!! よ、義廉はいずこ??
実は、この数ヶ月前
3月3日のこととして
万里集九の詩集『梅花無尽蔵』に
 「織田和州(=敏定)凱歌之時也」
と言う記録があり
織田敏定が、何らかの切っ掛けで地位を固めたらしい事が知れるのです。

(※ちなみにこれは
  「織田敏定宗家敏広との戦に勝って覇権を握った」
 とも解されていますが
 しかし、続く10月8日の「御内書の御礼」では
   千代夜叉丸(宗家家督)> 広近(敏広弟)> 敏定
 の順で、三者が共に進物(多い順)を公方に献上していて
 敵対している風も、宗家が極端に零落している風もなく
 その後も、共に主君斯波義寛(義敏嫡男)に従軍しているので
 武力衝突で圧倒的な優劣をつけた、という訳ではなさそうです。)


さて、以上から想定される仮説は
 「文明13年(1481)3月以前に
  宗家当主織田敏広が没したのを期に
  宗家が旧東軍方斯波への帰順を決意し
  義廉は尾張を離れた」

と考えるのが妥当かと。
織田敏広が他界したという明確な記録はありませんが
3月から、7月の代替わり&帰参の時間差は
敏広の百箇日を待ったものだと思われます。
(※当時は、100日間喪に服すのが一般的だった。)
嫡男千代夜叉丸は未だ幼少
庶流織田敏定とは和解したとは言え
いつまた対立が合戦に発展してもおかしくない状況で
当主敏広の死は、相当一族家臣を動揺させたと思います。
義廉がいつ頃尾張を離れたかは不明ですが
これを期に、やや肩身の狭かった庶流敏定の、織田一族内での地位が安定…あまつさえ
宗家の地位を侵食する事になったようです。
以後、両家は半分ずつ尾張を領し
『余目氏旧記』によると、この頃の尾張は「二守護代」がいたということらしい。



それにしても
大乱終結前年に突然現れ、幕府への礼物攻勢と
妙椿のおかげwで尾張二郡を治める事になった上に
ラッキー街道を突き進む織田敏定てめぇーーーwww
ちなみに
『文正の政変』での、斯波家被官織田家のエピソードとして…

京都の主君斯波義廉の危機を聞いた尾張在国中の彼らは
まず、織田敏貞がなり振り構わず一騎にて真っ先に京に馳せ上り
その頃、牢人蜂起があって国を離れられなかった当主織田敏広
織田広成猛勢を率いて上洛させ
しかし、それでも心配でしょうがない当主敏広
更に弟織田広近に同族の武将を何人も添えて無数の兵を追加上洛させた


という
清々しい武士の忠義と覚悟を見せてくれています。
義廉が家督改替の危機を脱し、晴れて幕府出仕を果たした時
千を超える警固の兵と共に、義廉に随従した3騎馬

 先陣甲斐織田広近(敏広弟)、後陣朝倉氏景(孝景嫡男)

義廉母の前で「二心なき旨」を誓った被官たちの、輝ける瞬間でした。
(※以上『文正記』より)
ああ、やっぱり義廉義敏じゃ
家臣の忠臣ぶりと目の輝きが全然違う!
義敏の前では、死んだ魚のような目が泳いでる。 ちゃぷん…



まあ、そんな訳で
斯波被官の織田家は本来(意味深)忠誠心があつく
この時も、「旧西軍の主君斯波義廉に背いた」という訳ではなく
尾張一族の行く末を考えたら
これが最善の結論だったと言えるでしょう。
(しかもこれは、旧西軍の現リーダー斎藤利国との申し合わせがあったと思われる。)

ただ個人的には
誓った忠誠を最後まで貫いた宗家当主織田敏広
一族最高の武将と讃えたいと思います。

(※ちなみに、義敏の嫡男斯波義良(改名して義寛)は
 義敏に比べたら、ずっと気概ある武将ではあります。
 まあ、言いたい事も沢山あるがw それはまたいずれ。)


ああしかし、義廉の行方や如何に…


まあ、義廉に関して現在は一般に
「見捨てられた存在」だとか「傀儡主君」だとか
散々な評価がなされていますが
しかし、まず一つ言える事は
現代人にとっては、義廉はどうでもいい存在かも知れないけれど
旧西軍諸侯にとって盟友
 「決してどうでもいい存在ではなかった」
と言う事です。
彼らは、大乱終結で離れ離れになった後も
互いに(よしみ)を通じ合い
河内国で在国ライフを楽しんでいた畠山アウトロー義就
幕府から追討を受けるとの話が持ち上がろうものなら
自分たちは幕府に帰順し公方義政良好な関係にあれど
やっぱり助けずにはいられない!「どーする?どーする?」
相談を始めたりする、そういう奴等なのです。
(もちろん、これには朝倉も普通に参加しているw)

そしてまた、この時点での義廉
もう斯波家家督に正式に認められる可能性はほぼゼロ
匿えば、下手すると幕府を敵に回しかねない
…という存在だった訳で
利害だけから考えれば、明らかに利点に欠けるのだから
それを「傀儡」にする、と捉える考察は矛盾しています。

…つまり、旧被官たちにとっては
 どんな立場になろうとも、義廉はどこまでも「主君」だった
ただそれだけの話なのです。


もし…
もし、今もまだ諦めていない主従があったとしたら
そして、たとえ非公式にでも、幕府にそれを認めさせてなお
揺るがずにいられる実力信頼を備えた者がいたとすれば
それは―――


越前の明日
(2015.6.5リメイク)


義廉が最終的にたどり着いたその空
あの日、で別れた明日でした。



posted by 本サイト管理人 at 01:12| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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