2014年06月09日

斯波義廉(続きの続き)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』は延々と斯波義廉回が続いていますが
最終日の今日は、「渋川家」の話題で締めたいと思います。

ではまず
室町幕府創生期から
『応仁の乱』『明応の政変』とその後にかけて時期の
渋川家系図です。


渋川家系図
(2015.8.26 さらに11.15 改訂)


赤字が『応仁の乱』世代、青字が『明応の政変』世代
点線(…)は猶子(養子)関係
となっています。


さて、渋川義季(よしすえ)が渋川家の四代目
その曽祖父は、足利尊氏・直義兄弟の曽祖父のに当たります。
(※「斯波、渋川、足利」の祖、三兄弟関係については
 本サイト『2-10』最初の方をどうぞ。)

渋川義季は、鎌倉での『中先代の乱』
反乱鎮圧の為に出陣、激戦の末自害して果てるのですが
(※『中先代の乱』は、鎌倉直義軍が大敗北し
 京都から駆けつけた尊氏軍が20日余りで大逆転したあれです。
 詳しくは、本サイト『2-2』をどうぞ。)
この時のエピソードとして
譜代の家臣と共に自害を決意した渋川義季
新参の家臣の進退は拘束せず、生きる道を選ばせようとしたのに対し
その家臣は、「弓矢の道に譜代新参の別はない」と
主君の冥途の先駆けを致すべく真っ先に自害し
渋川義季を感涙させた
という、まんま『文正記』の義廉母斯波被官のような話が
『太平記』にあります。
そんな渋川義季は、享年22歳
しかも、姉が直義の正室
その上、渋川義季の忠節に感嘆した直義
その死を悼んで
  世の為に 消にし露の 草の陰 思やるにも ぬるる袖かな
という和歌を詠んで涙を流した
ってゆう
初っ端から、良い話満載渋川家!!


ところで、そもそも「渋川」という "家名"(名字)について
足利一門がみな
"氏"(うじ。本姓)が「源」(みなもと)である事は
本サイト『2-6』最後の方の「名前の豆知識」で触れましたが
"家名" の方は、各々の本領のあった地名に由来します。
たとえば
足利、渋川、畠山はそれぞれ
 下野国足利(※現在の栃木県足利市)
 上野国渋川(※現在の群馬県渋川市)
 武蔵国畠山(※現在の埼玉県深谷市畠山)
しかも、この三者は
県こそ違えど、地図で見るとかなり近い位置にあるのです。
のちの妄想のネタになりますので、覚えておいて下さい。


さて、そんな渋川家
足利一門の名門中の名門「御一家」(=吉良、渋川、石橋)であり
京都だけでなく、関東九州にも拠点を持っていて
何気に結構な一族なのですが
ややフェイドアウト傾向があって
 「あれ? 気付いたら影薄くなってる」
みたいな所が、いかんともし難いチャームポイントです。


義廉は言わずもがな、ですが
足利政知(のちの堀越公方)の側近として
関東に下っていた義廉父の渋川義鏡からして
その後いまいちどうなったか謎。
最終的には
武蔵国の蕨(※現在の埼玉県蕨市)を領する一族のもとに身を寄せたらしい…が、はて?
 (※渋川義長が「関東在住」していたそうだ。)
ちなみに
「関東管領上杉との政治抗争で失脚した」
とも言われていますが
しかし、足利政知渋川義鏡は、京都の命令に真面目に従っていただけであって
野心の輩だったってのは、割とかなり謂われ無き誤解なので
案外、細々と堀越御所に伺候し続けていたんじゃないかなぁ
と思う、消えそうな感じで。
ま、この辺の事は

【松島周一『堀越公方と鎌倉幕府―奉行人布施為基の軌跡―』
 (日本文化論叢/愛知教育大学日本文化研究室編
  第18号 2010年3月)】
【佐藤博信編『戦国大名論集3 東国大名の研究』(吉川弘文館)1983】
 …の、「湯山学『四 堀越公方と相模国』」

などをどうぞ。


ただやはり、渋川家と言えば
「九州探題」としての顔が最も良く知られています。
渋川家が九州探題を世襲するようになったのは、渋川満頼の時からなのですが
それ以前の九州
室町時代開始以来、南朝方が比較的勢力を保っていて
それでもまあ、幕府方が優勢だったのに
『観応の擾乱』で一気にガラガラポンしてしまい
何がなんだか分からない状態になってしまっていました。
その後始末を任された
一色、斯波、渋川義行…が、どうにも攻略しあぐねた難攻不落の地を
ミラクル今川了俊が、マジカル探題テク
ほぼ統一達成してしまった、ってゆう。
しかし、功績宇宙レベル今川了俊は突如
探題職を解雇され
後任に渋川満頼が任命されました。 了俊かわいそす(´;ω;`)
この方針が
将軍義満か、または時の管領斯波義将による政略なのか
(※ちなみに、渋川満頼斯波義将の娘婿)
それとも、『難太平記』で了俊自身が語っているように
讒言に嵌められたのかは分かりませんが
まあ取り敢えず、「よ〜し〜み〜つ〜」と思っておきます。


さて、これ以後
代々渋川家が九州探題を務めていくのですが
まあその…あまり振るわなかったw
徐々にその勢力範囲は狭まり
やがて、博多を中心とした
こじんまりしたエリアの「探題さま」に納まってしまいます。
しかも、なんかいつの間にか、渋川満頼の弟の満行の家系に移ってるし
本サイトでもしばしば触れたように
周防・長門の大内さんにすっかりお世話になりながら
ただそれでも、地元では「探題さま」として不思議な敬意を抱かれて
消えそうで消えない灯を、ともし続けるのでありました。

まあ、この辺の事は

【黒嶋敏『九州探題考』(『史学雑誌』第116編 第3号 2007年3月)】

をどうぞ。いい視点の論文です。渋川ファン必見!



ちなみに、最後の渋川家出身の探題は、渋川義基
九州探題としての渋川家
ほぼ、大内家とともに終焉を迎えたと言えます。
そんな訳で、九州博多と言えば
  大内家か? 渋川家か!?
ってくらいのイメージであってもいいはずなのに…
誰にも気付かれていない。
もっと、渋川&大内で盛り上がってもいいはずなのに…なのに…


博多フェア


(※ちなみに、斯波義廉大内政弘
 義廉の正室と、政弘父の教弘の正室が
 共に山名宗全の娘なので、叔父の関係にあります。
 年齢はほぼ同い年ですが。
 さらに、義廉母は山名宗全のいとこなので
 実はこの2人、母方で見ると非常に近いのです。)



さて、渋川義鏡が関東へ下向し、義廉が斯波家に養子に入ったことで
京都の渋川宗家はどうなったかと言うと
どうやら、『応仁の乱』後も誰かしら在京していたようなのですが
(※参照…『長興宿禰記』文明11年5月23日)
しかし、永正年間頃、すなわち
『明応の政変』のその後の15年を経て、旧将軍が都に凱旋し
京都が十数年の「幻のほのぼの夢時代」だった頃の事として
当時の室町幕府の年中行事を記した故実書

 (…正月5日の「御一家」の公方への対面について)
 「渋川殿、近年は出仕無し

とか、書かれている。
もう居るんだか居ないんだか、きわどい線の上で見え隠れする
追えども掴めぬ、フェイドアウター渋川家であった。



ああ、しかし
どうですか、この渋川家の生き様の
狂おしいまでのフェイドアウティズム!!
この儚さに "美" を感じずにいられる日本人が
どこにいると言うのでしょうか?
押寄せる室町のアンニュイが、時の戯れ "今" を誘(いざな)えば
そこに彼らの「妄想物語」が始まりを告げる―――
…ってまあ、そんな事はどうでもいいのですが
私がなぜ渋川家をプッシュするか
分かってもらえて来たと思います。



ところで、上の系図には
義廉の子に「栄棟」(えいとう)とありますが
これは、喝食(かっしき、かつじき)だった頃の法名です。
(※喝食…幼少で禅院に入った、まだ有髪の小童のこと。)
「栄えある棟梁」とか、明らかにネタバレバレバレな法名ですが
まあ、取り敢えず今は
見なかったことにして下さい。 スルースルー




※※※ 以下余談、スルー奨励 ※※※

ちなみに、義廉のその後が気になって
ググってしまった方の為に申しておきますと

 「義廉は、鞍谷家とは関係ありません!」

この説は、既に疑問が呈されていて
私も関連史料等を確認し考えてみましたが
…うーんw どう考えても難しい説です。
従って、朝倉孝景の娘義廉に嫁いだ事実もありませんし
義廉の子息の諱(いみな)が「義俊」である証拠はありません。
しかも、この頃の義廉
実は、「斯波」ではなく「渋川」として認識されていたので
『余目氏旧記』の記述も、意味が異なってきます。
よって
本サイト『2-7』上から4分の1あたり
および、『2-10』真ん中より少し上でも触れましたが
『応仁の乱』前〜乱中の時期の "義廉の去就"
関東情勢に依存していた」という見解は
当時の武家社会の慣習家格秩序斯波渋川の関係など)と照らし合わせても
やはり、附会と思われます。

※※※ 以上余談、スルー完了 ※※※



まあ確かに
義廉の子孫の行方は、史料がほとんど残っていないので真相は闇の中ですが
僅かな可能性に賭けるなら
『鷹百首註』という歌集の存在が、大きなヒントになります。
まあ、この話はいずれまた。



という訳で
三夜連続でお送りした斯波義廉回
これ:;..:. にて :::;..::;.:.....
終わ:;....:り:;.:. :::と;..::;.:.....
:.::;.:. (´・ω:;.:... :::;..::;.:.....

(´・;.:... :;..:;.:.....
:;.:.....

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posted by 本サイト管理人 at 02:30| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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