2014年06月12日

山名宗全と細川勝元

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
『応仁の乱』のメインキャラ紹介を続けておきながら
この2人をすっ飛ばしたままなのもなんなので
今日は、遅ればせながら
『応仁の乱』東西軍の領袖――― 山名宗全細川勝元です。


細川勝元    山名宗全
(2015.6.7リメイク)


『応仁の乱』といえば、この2人が断トツの知名度…ってか
この2人しか知られていない、実際。
しかし、本サイト及び当ブログでも度々申し上げているように
宗全勝元大名頭だったのは
あくまで『応仁の乱』2ndフェーズ(しかもその途中)までです。
それでは、この大乱の真の姿とは…?


という訳で、その全体像を探るべく
応仁元年(1467)始め〜文明9年(1477)末まで
約11年間続いた『応仁の乱』を概観してみますと
だいだい、次の3局面に分けることが出来ます。



☆☆ 『応仁の乱』3フェーズ解説 ☆☆


――― 1stフェーズ(約2年)―――
 応仁元年(1467)正月の『上御霊社の戦い』と5月の『本戦開始』
 から
 応仁2年(1468)11月『足利義視の西軍公方はじめました』
 まで

 ※テーマ【細川勝元&成身院光宣院の
      西軍賊軍化イリュージョン It's showtime !!】

 ※副題 東西軍の、オールスターでマジ切れ夏祭り☆
  (…本サイト『2-8』 『2-9』 『2-10』


――― 2ndフェーズ(約5年半)―――
 応仁2年(1468)11月の『西幕府誕生』
 から
 文明4年(1472)正月の和議交渉開始とその後の頓挫
 文明5年(1473)3月山名宗全5月細川勝元の他界
         12月の『義尚の元服&9代目将軍就任』、を経て
 文明6年(1474)4月の『山名・細川両家の和解、山名東軍化
 まで

 ※テーマ義政の上意による義視の新将軍就任
      …を夢見る西軍であった】

 ※副題 東西幕府の、パラレル天下で side by side ☆☆
  (…本サイト、今のところ『2-11』 『2-12』


――― 3rdフェーズ(約3年半)―――
 文明6年(1474)4月の『山名の東軍帰参』
 から
 文明8年(1476)9月義政から大内政弘への天下和平の相談開始
         12月義政義視の書状での和解、を経て
 文明9年(1477)11月の『西軍開陣』
 まで

 ※テーマ【それでも、西の「本意」は永遠に―――】
 ※副題 【天下一統、妙椿フェーズ☆☆☆



☆☆ 結果…西軍諸大名の、在国はじめました ☆☆




こうして見ると
一般的な『応仁の乱』のイメージである

 「山名宗全 vs 細川勝元」

という、純粋な大名連合対決だったのは
実は、初めの2年だけ
洛中(京都市内)での戦闘が激しかったのも、この期間までです。
しかも、本サイト『2-6』 『2-7』
「乱に至る過程」からも分かる通り
本来、この2人は、非常に仲が良かった訳ですから

 「天下の覇権を狙う宿怨のライバル、遂に決戦の時!!」

…みたいな話ではありません、別に。
勝元はこれまで、舅(しゅうと)である宗全を、健気に擁護し続けて来ましたし
山名細川の両家は、家臣ぐるみで付き合いがあったのです。
それが、どうしてこうなったかと言えば
宗全 "やっちまい過ぎ"
(敵に回したら百害あって一利なしの)勝元
本気で怒らせてしまった訳ですが
おそらく、宗全としては
まさか勝元が、自分にミサイルの照準合わせてくるなんて
夢にも思っていなかった事でしょう。
たぶん、応仁元年5月の『本戦開始』時本音

宗全「おまえ…マジ切れするなら
   事前に予告ってもんをしろよ (´・ω・`) …」

だったと思う。
そんなほろ苦さを表現したのが、上の肖像画です。
ところで、宗全
「赤入道」と言われるほど、なんか赤かったようですが
一休宗純和尚によると

 「山名宗全は、赤面顔の鞍馬の毘沙門天の化身 …(中略)…
  その業は修羅に属し、その名はに属す」

らしい。
元祖、室町毘沙門天です。
しかも the修羅。 その上マウンテン。 役満です。


ただ、宗全単純にハチャメチャだったのではなく
どうやら妙に人望があったようだ、というのが
当時の日記等から受ける印象です。
ちなみに、ぶち切れ勝元の方は髪型がちょっと分かりづらいですが
これらの肖像画は、実は元々半身くらいの大きさで描いてまして
元の画像はこのようになっています。

細川勝元
(※クリックすると拡大するので、逃げて下さい。400×533px)
(2015.6.7リメイク)


なんか魔力で舞い上がらせているのでしょうか
それとも、数多いる内衆(家臣)が後ろから風当ててるんでしょうか
よく分かりません。
まあでも、勝元も意外とロックな精神の持ち主だったんですね。

…いや、それ rock やない、lock や。




(※2015.6.7 おまけ)

細川勝元






さて、これまで頑なに
西軍との和議を拒んできた細川勝元ですが
文明4年(1472)の年明けから
山名細川による「最初の本格的和睦交渉」が始まります。
…がしかし実はこれ
かなりとんでもない事になりました。(その上見事に破談
当時の関連史料は
「『大日本史料』文明4年正月15日」にまとまっているものの
結構、様々な解釈がなされ錯綜している部分ですので
ここで改めて時系列に注意して読み解くと…
真相はこうなります。

 正月15日以前に
 山名細川の間で和睦の話が持ち上がったが
 播磨・備前・美作の三ヶ国の件で
 山名と利害が対立する東軍の赤松断固反対
 その進退がネックとなる。
 東軍の構えを出ろと言われた赤松が
 御所に祗候と称して、大勢率いてとっ込んで来た…とか
 色々うわさが飛び交う中
 和議がまとまらぬ事への引責からか
 正月21日夜山名宗全切腹を図る。(?!)
 これは、家臣の懸命な処置で一命を取り留めた
 「宗全、入滅」のうわさまで流れる。

 2月16日宗全は改めて、西軍諸大名に対し
  「各々の申立てについて
   上意(=義政の意向)を伺ってみてはどうか」
 と提案したところ
 みな賛意を示し
 特に、日頃から公武に掛け合っていた畠山義就大内政弘
 事のほか喜んだという。
 ―――しかし
 3月5日以前細川勝元と、養子で跡継ぎの細川勝之
 家臣十余人と共に
 髻(もとどり)を切って遁世、出家を図る。(!!?)
 (ただし、これも未遂に終わる)


さて、後半部分にやや謎が残りますが
 (西軍は何を "申立てた" のか?
  細川父子&家臣の、突然の遁世未遂の理由とは?)

これを最後に、和睦交渉は頓挫したらしく
その後はむしろ
東軍から西軍への、攻撃の勢いが増していきます。(←ここも謎)
さらに
義政嫡男の義尚(よしひさ)の元服&将軍就任
翌文明5年(1473)(=3月に宗全、5月に勝元が他界した年)の
12月19日に執り行われたのですが
これは当初、同年2月には既に、来る4月22日に決定していたのが
4月に入って、急遽延引となった
という経過をたどります。(←ここも謎)
(※ちなみに、山名宗全入滅は3月18日)



という訳で以上から、後半部分の解釈を試みますと
2月16日に西軍諸侯義政に伺いを立てようとした内容は

 東軍方にとって、非常に不利な事だった」

のではないかと考えられます。
それに焦った細川父子が、隠居という最終手段にまで出た為
和睦交渉は決裂し
東軍は一転、西軍退治の方針を固める事になったと。
(例えば、西軍補給路の断絶作戦とかw ああ、腹減る。)


(※ところで、この細川父子遁世事件については
  「宗全が、勝元に対し
   養子細川勝之を廃嫡して、勝元の実子(母が宗全養女)を
   細川宗家の次期家督にするようを要求したので
   廃嫡に反対した細川勝之が反発した」

 との解釈がありますが… うーーーん
 史料にはそういう話は無いし
 宗全は、条件を強要する優位な立場にあった訳でもないし
 何よりこの説では
 "父子で" 遁世を図った理由を、説明出来ないと思います。
  (養父勝元に反抗して、2人で "一緒に" 遁世…って
   かなり不自然かと。))



では、細川父子がそこまで拒否った「西軍の申立て」とは何かと言うと

 和睦の暁には、当初の約束通り "義視の将軍就任" を」

と言う事だったと思われます。
これが、兼ねてからの西軍の主張だったのは
他の史料から読み取れる事実ですし
さらに…
義尚元服&将軍就任
これは本来なら、先例の関係で
初めから11月or12月に予定されてもいいはずなのに
なんだか、随分急ごうとしたように思われるのです。
つまり
  "義視の将軍就任" なんて事になる前に、一刻も早く義尚を!!」
というのが
東軍(それから御台とか)の切望する所だったのではないかと。


まあ、優柔日和見義政が万一
この「西軍の申立て」に同意してしまったら
東軍方の大名たちは相当ガクブルでしょう。
そうなったら、細川宗家の次期家督なんてどう考えても罰ゲーム
…と、細川勝之が思ったかどうかは知りませんが
細川父子と家臣の "隠居騒動" とはつまり
勝之の廃嫡云々といった家中の問題ではなく
 公方義政に対する、最大限の抗議だった」
と考えるのが妥当です。

(※大名将軍と意見を違えた時、よく隠居をチラつかせます。
 将軍が折れて慰留するのを分かった上でw
 これは室町の慣習…というかコント様式美です。
 ただ、この時の勝元達は、かなり本気だったと思う。)

(ちなみに、細川宗家の家督は結局
 翌年の勝元臨終の際、8歳の実子が継承しますが
 この時既に、宗全は故人である事からも
 細川勝之は、廃嫡を迫られた訳でも家督に執着したのでもなく
 むしろ、「"自ら" 次期家督を退いた」と考えた方が
 理に適っていると思われます。
 勝之は程なく遁世するのですが
 (『大乗院寺社雑事記』文明5年7月15日)
 この時期は、頼りの養父勝元が急逝し
 次期将軍は未確定(義尚の将軍就任はこの半年後)という
 先の見えない状況でしたから
 勝之の心境は、察して余りあるかと思います。)



…という訳で
この一連の騒動の果てに、将軍職は義政の実子義尚のものとなるのです。
まあ、東軍方大名の立場は分かるにしても
義視との約束がありながら、当然の如く義尚を新将軍に就任させた不義
許し難いものがありますが。




一方、西軍からしたら、この「申立て」
必ずしも、自分達の利害の為だった訳ではなく
彼らは純粋に
「義視の立場と行く末」が、心配だったようなのです。

これまでずっと
『応仁の乱』は、「東軍=是、西軍=非」の視点でしか見られて来なかったので
西軍「本意」が見落とされ
大乱がこんなにも長引いた原因
今日まで誰も、的確に説明出来なかった訳ですが
しかし、視点を広げて史料を読めば
西軍の大名たちの、時に切ないくらいの本音に出会えるのです。
(※特に『大乗院寺社雑事記』)
そしてまた、義視義視
何が何でも幕府権力を!…などと固執していたのではなく
常にを優先する、実に清々しい君徳を備えた主君でした。



…あーいや、今日は宗全勝元の話でしたね。
では、この続きは次回(→『晩夏の香り』)と言う事で
話を戻しますと
和睦交渉が決裂した翌年の
文明5年(1473)3月18日、そして5月11日
2人は相次いで世を去ります。
まあ、山名宗全70歳でしたから、当時としては大往生ですが
その後、2か月もしないうちに
細川勝元が流行り病により、享年44歳で急逝したことは
当時の人々に、因果を感じさせずにはいなかったようです。


再び分かり合える日を迎えることなく逝ってしまったのは
彼らにとって未練だったのか…
物事が、どうしても "否" で終わって欲しくない私は
無理にでも "答え" を探し出そうとしてしまうのですが
でも、『応仁の乱』といえば
常にその名を並べて語られるという事実だけで
十分、悪縁善縁に戻ったと
言っていいのだと思います。



ってゆーか、それはむしろスペシャル不名誉な事なんじゃ…
とか、言わない!
お、応仁の乱は、こう見えて "生んだもの" も多いんだから!(震え声)
越前とかね。 あと越前とか越前
それから―――
そう! 西幕府の思い出とか。

楽しかったなぁ…
あの頃の夏祭り
夏の終わりの、



posted by 本サイト管理人 at 23:00| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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