2014年06月16日

晩夏の香り

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏ウマー日記』です。
今日は、熊本生まれの初夏の柑橘
夏の日差しを切り取ったような色の
「天草晩柑」(あまくさ ばんかん)です。

天草晩柑

うーん、気持ちいいくらいにお日様色です。
sunshinesunrise です。

天草晩柑は、熊本県天草市や愛媛県のごく一部で
4月〜8月にかけて収穫される、わりと稀少なみかん
 「和製グレープフルーツと呼ばれるさわやか柑橘」
だそうですが
味はグレープフルーツよりも、もっと奥深く奥ゆかしく
甘さの少し後ろに見え隠れするほろ苦さ
ただひたすら楽しかったはずの夏の日々に感じる
あの不思議に切ない、届かなかった夢のような感覚に似ています。
…ってもう、うっとうしい解説はどうでもいいから
早速頂きたいと思います。 もぐもぐ

ウマーー(゚д゚)ーー!! ポロポロ(;∀;) ウマーー(゚д゚)ーー!!

しかし何と言ってもこのみかん、とっても香りがいいのです。
写真で伝わらないのが、本当に残念ですが
例えるなら…
今日まで忘れていた、あの夏の雲の彼方に憧れた心が
風になって舞い戻ってくるような……ってまあ、どうでもいいか。


ところで、天草晩柑
正式名称を「河内晩柑」(かわち ばんかん)といいます。
生まれ故郷の熊本県熊本市河内町(かわちまち)に由来する名なのですが
実は私、"天草晩柑" という別名を知るまで
"河内晩柑" は、大阪の河内国に由来するみかんだと思っていて
 「河内の晩柑かぁ…
  河内といえば畠山義就だな、じゃあ義就晩柑だな」
とか、あさっての方向に妄想を膨らませていました。
いや〜お恥ずかしい。
でも、これでみなさんも一つ勉強になりましたね。
…え、そんな勘違いしてたの私だけですか?

とは言え、一度刷り込んでしまった印象はそうそう上書きできませんので
私の中ではすっかり、河内晩柑義就であり
その香り
『応仁の乱』の西軍に、イメージが結びついてしまいました。

(※彼らが、なんか晩夏の夏祭り好きだったっぽい事は
 本サイト『2-7』「文正の政変」から
 大乱開始1〜2年の『2-9』 『2-10』をどうぞ。
 あと、どうでもいいけど当ブログ記事
 「2-8 室町幕府の『応仁の乱』はじめました」



さて、西軍と言えば
前回の『チラ裏人物記』の「山名宗全と細川勝元」の続きになりますが
乱の半ばで、2人が舞台を去ったその翌年
文明6年(1474)4月3日
山名家細川家は、大乱開始以来7年の決裂にようやく終止符を打ちました。
ここへ来て、年明けから急に進展したこの和議
前年末の、義政嫡男義尚への "将軍職継承" を受けてのものと考えていいでしょう。
義政から義視への "約束の実現" を夢見た西軍の「本意」
文字通り、に帰してしまったのです。


既に前年から被官人の出入りが始まっていた両家の間には
彼らを長らく隔てていた堀にがかけられ、人々の往来が始まります。
(つまり彼らはお隣さんであった)
この時の山名家当主は、宗全の息子の山名政豊
細川宗家の方は、勝元嫡男がまだ9歳なので
同族の細川政国細川成之が一族をまとめていたと思われますが
彼らは前当主、宗全勝元のように
諸大名に対しても主導的な立場にあった訳ではありませんでした。
4月半ば、山名政豊とその嫡男(のちの俊豊)は新将軍義尚に謁見し
名実共に東軍に帰参
西軍諸侯と袂を分かち、去って行くのです。


「山名の東軍化」という限定的な結果で終わってしまったこの時の和議ですが
実は、2月の時点では
東西諸大名の和睦が模索されていて
東軍方では、細川宗家と庶家武田等、そして畠山政長も賛意を示し
赤松だけはやはり反対の姿勢を崩さず
西軍方では、みなが賛同する中、畠山義就だけが同意せず
という状況でした。

つまり、東軍西軍
ほとんどの者は、和睦を「然る可し」と考えていたのです。
こう見えて彼らは「当初から天下静謐を目指していた」というのは
本サイトでも度々述べた通りですし
西軍諸大名にとっても、現時点での正統な公方
やはり東軍の義政なのです。
(※これは見落とされがちですが重要なポイントです。
 だからこそ彼らは
 義視への将軍職継承を認める "義政の上意"
 待ち続けていたのです。)
つまり、西幕府の夢が破れた今
自分達の利害、今後の事 "のみ" を考えたら
早々に和睦、もしくは東軍に帰順してしまった方が得策のなのです。
ただそれでも、結論に至らなかった。
それははなぜかと言うと―――
西軍の大名たちは、"義視の事" で揺れていたのです。


この時点では、既に将軍職は義政嫡男の義尚に譲られてしまっていますから
東西軍が和睦となれば
実は一番立場が危うくなる…というか進退が窮まってしまうのが
義視だったのです。

4月、尋尊にいつも "西軍方の情報" を届けていた
美濃担当からの話―――

 西軍諸大名は(義視との)主従が諦め切れない、と言う」
  (「諸大名主従未練事共也」『大乗院寺社雑事記』文明6年4月7日)

天下の無為に向け、一度は和睦の道を探るも
彼らはどうしても、義視との主従を思い切れなかったのです。
もはや、将軍になる道は断たれた主君なのに。
そして迷いの果てに、保身より主従を選ぶ決意をしました。
これが利害を超えたものであることは
『大乗院寺社雑事記』の

 大内政弘は、(義政と義視の)和与があれば
  今出川殿(=義視)に御供して東軍に参る、と言う」

   (文明6年4月18日)

 大内ほかの西方諸大名は、(義政と義視の)和与がなければ
  決して東軍には帰参しないと申し切り
  こうなったらもう、何年に及ぼうと耐え忍んでやる!
  との覚悟だと言う」
 (文明6年閏5月15日)

という記述に現れています。
たとえ将軍の道は断たれようとも
義視の立場が保証されるまでは、どんな困難も共にする
と決めたのです。


大内政弘なんて、分国の事が心配で本当は早い和議を望んでいたし
実際、いつでも、しかもかなり良い条件で帰参出来ただろうに
(※大内政弘は最終的に、義政から破格の待遇を受けているw)
それでも率先して
義視と進退を共にする道を選んだのです。
室町には
自己の利を後回しにしても「諦められない主従」が実在した
という、信じられないけど本当のお話です。



ちなみに、当の義視はと言うと
西軍の大名頭、山名宗全が没した翌月の文明5年(1473)4月
自身の進退について―――
美濃の持是院妙椿を通して、一条兼良に意見を仰いでいます。
(『大乗院寺社雑事記』文明5年4月23日)
一条兼良といえば
のちには、将軍義尚に「政道の指南書」を進呈している
仁政徳治の「王道」を熟知した、当時の一大博学者です。
つまり、義視を動かしていたものは "覇権への欲望" などではなく
道義的にどうあるべきか」という "正しさへの信念" だったのです。


大内政弘は、義尚、義政、義視への追悼に
胸打つ和歌をいくつも残していて
本当に面白いくらい素直で、にもにも溢れた人なのですが
それゆえ、義視への仕打ちやその境遇の理不尽さには
簡単には納得出来なかったのでしょう。
どうしても不義に屈することが出来ない
室町の武士の、どうしようもない(さが)と言えます。


つまり、この西軍の大名たち

  「道理と主従への、諦めの悪さ」

これが『応仁の乱』が延長に延長を重ねた、その真の理由だったのです。




室町「弓矢の道」
本当は一番この国らしい、最も素直な "武士の道" だと思います。
それなのに…
いつしか "本物" は偽りの塵に埋められて
賊の仮面に閉ざされた室町の真の姿を、誰も見ようとしなくなってしまった。
どうして、この時代が葬り去られなければならなかったのか
なぜ人は
"そこにある真実" よりも、"教えられた偽り" を信じ続けるのか
私には分かりませんが、しかし
室町『応仁の乱』から『明応の政変』にかけての時期は
本当にたくさんの日記が残っていて
講談や小説ではなく
真実なのに素晴らしい、宝のような話が数知れず実在します。
それを少しでも多くの人に伝えたい
どうか本物の歴史に感動してもらいたい
それがの、そしてたぶん彼らの願いです。




という訳で
たとえ西軍公方の将軍就任が叶わぬ夢となろうとも
義視の為に、義政との和与の実現だけはと願う西軍の彼らは
「本意」を貫くことを選ぶのです。 永遠すら恐れずに―――
畠山義就大内政弘
合戦に及ぶかどうか、今後の指針について持是院妙椿の指令を仰ぎ
以後、『応仁の乱』は3rdフェーズに突入するのでした。



それでは、この2年と少し後に "遂に" 始まる
「最終的な東西軍和睦」に至る交渉の
その切っ掛けとなったのは何か?と言う事ですが
それは―――
かつて「邪徒両三輩」と称された邪臣のうちの一人
義視に、誹謗中傷を浴びせ
賄賂私曲で幕政を汚し続けた御台の兄
文明8年(1476)6月14日に他界した事だったと考えられます。

(※ちなみに、この "京都の和睦の動き" について
 「東国の長尾景春の乱と連動する」との解釈もありますが
 うーん…
 確かに、足利成氏討伐の強硬姿勢を取り続けた東幕府方に対し
 西幕府方は、妙椿を中心として
 堀越公方足利政知(京都方)と古河公方足利成氏(東国方)の
 和睦の道を推進していたのは事実ですが
 最終的な京都関東の「都鄙和睦」は
 大乱終結の5年後なので、やはり両者は別問題であり
 因果を見出すのは、やや難しいのではと思います。)



この御台兄妹は本当に凄いですよ。
乱中、困窮した者達への金貸し利息膨大な蓄財
…は有名な話ですが(『大日本史料』文明9年7月是月)
この頃、公方義政への取次ぎはこの兄妹が独占していたらしく
話を通すには金・金・金
西軍大名との和平交渉では、間に入って相当な礼銭を得たそうだ。
(純粋に天下の和平を望んでいたなら、利権を利用して錬金なんてしない…orz)
平和って金になるんだなぁ…とか思う。
もちろん、それを自由にさせた義政の罪は計りかねますが。
(※他界する約1ヶ月前、御台の兄
 この家格の公家としては超異例の、左大臣に任官したのですが
 これは、前月から腫瘍を患い始めたため、昇進を所望
 義政が朝廷に執奏したんだそうだ。
 そのせいで、前日に左大臣に任命された九条政基たった1日で辞任している。…orz
 てめぇ義政!!
 本当におまえの近臣甘やかし分別無き慈悲はどうしよーもねぇな!)


まあでも、単なるお金好きならまだ良かったのですよ。
「誹謗中傷」による精神攻撃のほか
本サイト『2-10』で被害者となりかけた烏丸益光義視のように
気に入らない者を○す、というのは何とも…。
しかも御台は『明応の政変』で、人としての一線を越えます。
そして、被害者を助けるのはいっつも大名たち
…あーいや、この兄妹の話題は心がすさんで来るからいい加減にしよう。

(※御台の兄については
 本サイト『2-8』真ん中より少し上でも、多少触れましたが
 怖いもの知らずな方は、『大日本史料』文明8年6月14日のP.896
 肖像画の「自賛」を御覧下さい。(HPのデータベースで閲覧可)
   (((((( ;゚Д゚))))))ガクガクブルブルガクブルブルガク 
 私が、この兄妹名すら避けたがる気持ちが
 分かると思いますw )


さて
義視と対立関係にあった義政の側近
伊勢貞親と、御台の兄が幕府の中枢を去った事で
ようやく、「義政と義視の和解」が、実現の日を迎えます。
『大日本史料』文明8年12月20日の、義政から義視への書状には

 「あの時は、義視の言い分も聞かず
  讒言鵜呑みにしちゃってごめんね!
  次は絶対、ちゃんと話聞くから!
  これからは仲良くしようね!」 (超意訳)


って、おめー義政!!
初めからちゃんと義視の話聞いとけよ!!

(※ところで、伊勢貞親はいつの間に退場…
 と思われるでしょうが
 これは遡ること5年、文明3年(1471)の
 "朝倉孝景の越前での再始動" と関連します。
 ちなみに、「文正の政変」で伊勢貞親義視を謀殺…
 というのは、誤解が生んだ誤解だと、個人的には考えています。
 詳しくは、本サイト『2-7』真ん中より少し下をどうぞ。)



こうして、当初の思いとはやや異なるものの
西軍の「本意」は達成され
翌年、最後まで京都に残っていた大内政弘畠山義統
義視を伴った土岐成頼が一斉に離京した
文明9年(1477)11月11日をもって
西軍は開陣となり
長かった『応仁の乱』は、ここに終わりを告げます。
ただ…
西軍の大名たちにとっては、それは始まりでもあったようです。
というのも
東西軍の大名頭、山名宗全細川勝元が去り
義尚新将軍に就任し、山名家が東軍に帰参…と
次々に過去が清算され行く中で
望むと望まぬとにかかわらず、大乱終結のずっと以前から彼らは
"次の未来" に向き合い始めていただろうと考えられるからです。

 ―――それでは、彼らが見ていた明日とは?



ところで、『応仁の乱』の結果は一般に
 東軍の勝利、西軍の敗北」
であり、"京都を制した" 東軍諸大名に対し
西軍諸大名は、分国に "没落して行った" とされていますが
しかし
在京在国の違いはあれど、乱後の彼らは
公方への進物、幕命による軍勢召集段銭の徴収…などなど
(これは、かなり意外に思われるでしょうが)
幕府公方との関係では
東軍西軍も、それまでと基本的には変わらないのです。
やや(いやかなり)言う事聞かなくなっては来ましたがw
しかしそれでも
あくまで室町幕府は、公方大名"俺らで幕府" であり
将軍敬愛すべき存在である事に、変わりはなかったのです。


私は、『応仁の乱』の終焉がもたらしたものは
"勝ち負け" という結果なのではなく
これまでと変わらない明日を見ていた東軍に対し
西軍が見ていた、しかも明確な意志を持って見据えていた
  "少し違う明日"
なのではないかと考えています。


なぜなら
在国の道を進んだ彼らが帰った国には―――
  周防山口、美濃、能登、越前 (あとちょっと特別枠w、河内
場所は違えど、「同じ花」が咲くのです。
つまり、京都だけでなく

 「これからは、地方にも花を咲かせよう」

これが、共に過ごした西幕府の日々
彼らが語り合った "未来" なのではないかと
そしておそらく、既に城下町が栄えていた美濃の持是院妙椿
周防の大内政弘の「在国統治」が参考にされたのではないかと
やや妄想混じりですが、そう考えています。

「西軍諸侯の下国」とはすなわち
明日を断たれ、都に居場所を失った敗者の失意の没落なのではなく
確かな目的を持って、次の未来を掴む為に "自ら" 選んだ一歩だった
それが、11年の戦いの先に
彼らが見つけることになった「答え」なのです。



それは、夜半の日頭(=真夜中の日の出)を心に思い続けた
足利直義のように
の明日にを信じるような、途方も無いものだったかも知れないけれど
でも、信念の為なら、永遠を恐れず戦える彼らですから
まだ見ぬ日の出を目指す事に
躊躇(ためら)いなど、感じはしなかったのでしょう。

京都で追いかけた、でも半分しか届かなかった「本意」
少し苦い思い出になってしまったけれど
それぞれの国に帰った彼らの、今日から始まる新たな「本意」

    stand for sunrise

そして見事に彼らは
夏の日差しの色をした、懐かしい晩夏の香り
「小京都」という花を咲かせるのです。

(※stand for 〜 =(信念、主張など)〜のために戦う
    他には… 〜を支持する、〜を意味(象徴)する)



『応仁の乱』の後に彼らが進んだ "未来"
「戦国」ではなく、「黎明」だったのだという事実を
どうしても彼らに代わって伝えたくて
本サイトのタイトルに込めました。

(※普通に考えたら、応仁・明応という
 「戦国の黎明期」= the beginnings of SENGOKU
 なのですが、実はそうではなくて
  戦国に堕ちそうな時代の縁(ふち)で
   それでも黎明(=夜半の日頭)を目指した
   彼らの「本意」の物語」

 という意味で、英訳は stand for sunrise となります。
 …うん、まあ、割とどうでもいい話なんだけどね。
 でもこの「本意」
 足利尊氏、足利直義の時代にも当てはまるのはもちろん
 実は、『明応の政変』後の世界にも受け継がれ
 「応仁世代」の彼らの子供達もまた
 「黎明」のために戦う事になるのです。)




それでは最後に
楽しかった西幕府の思い出の一枚を。


西幕府の思い出


たぶん、真ん中で "座布団" 敷いてるのが義視
あとの、斯波義廉畠山義就畠山義統
大内政弘伊勢貞藤朝倉氏景は、適当に当てはめて下さい。
本当はここに土岐成頼もいるべきだけど
すまんw、『明応の政変』に繋がるキャラを想定してるんだ。



という訳で
『応仁の乱』という
長い長い西軍の夏
それでも終わらぬ「本意」のお話でした。



posted by 本サイト管理人 at 00:41| Comment(0) | ★チラ裏ウマー日記
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