2014年06月21日

畠山義就(その1)

(チラ裏シリーズ)

おはようございます、『チラ裏人物記』です。
畠山義就(よしなり)は、だいぶ前に畠山政長と一緒に
適当に終わらせたはずなんですが
余りに適当だったので、ここへ来て再登場です。

前回の『チラ裏ウマー日記』「晩夏の香り」
だいたい、『応仁の乱』のあらすじは終えましたので
今日は…

畠山義就
(2015.2.27リメイク)


「義就的『応仁の乱』」というコンセプトで行きたいと思います。


…とその前に
ここで一度基本に立ち返り
「『応仁の乱』の原因とは?」という
一言で答えろったって無理だろ常考、な疑問に触れておきます。
(※以下、適宜『チラ裏人物記』「山名宗全と細川勝元」
 「『応仁の乱』3フェーズ解説」を御参照下さい。)


さて
"対立関係" に視点を絞れば
初めの初め『上御霊社の戦い』 "義就vs政長" であり
4ヵ月後の『本戦開始』 "勝元vs宗全" であり
その後は、1stフェーズ全体を通して "東軍大名vs西軍大名" であって

 「 "義視vs義尚" という将軍家の家督争いではない」

という点に注意して下さい。
まして、『応仁記』に言う「西軍が義尚を託された」という説は
東西180度ひっくり返っています。
さらに、2ndフェーズにおいても
基本的に、義政義視は家督を争っていた訳では無く
義視は、義政の腐りきった近臣にぶち切れて西軍大名を召喚したのであり
西軍大名たち
義政からの、スムーズな将軍職継承を求めていたに過ぎません。
大内政弘からの、家臣麻生弘家への書状」を見る限りでは
当初は、結構その方向で話が進みそうだった…というか
そもそも、大乱開始後も依然として
義視次期将軍である事に、変更は無かった
と考えるのが理に適っています。

本サイトでも述べたように
西軍諸侯が、伊勢国に逃れていた義視(当時はまだ東軍)へ
必死にオファーを送っていたのは
決して
 「東軍の義政に対抗する為に将軍家の分裂を謀った」
のではなくて
その時点では
 義政が認める正統な次期将軍が、義視だったから」
なのです。
(※上記の大内政弘書状については
 本サイト『2-11』真ん中より少し上をどうぞ。)


ですから
もし、早くから東軍内「義尚将軍化の動き」があったとしたら
当時の人々もかなりの噂好きですので
誰かしら書き留めていそうなのですが…
これが意外にも、どの日記でも話題にされていないのです。
なので、2ndフェーズ終盤「義尚の将軍就任」
実は、一次史料だけ見ていると、かなり唐突な印象を受けます。

まあ、結果的に義視を追い出した讒言兄妹は
実子義尚を将軍に!との欲で密かに動いていたのでしょうが
定見無しで何にも自分で決めない義政は、ずっとのらりくらりしていたと思われ
"義尚新将軍" が突然既定路線となったのは、やはり
細川勝元勝之父子&家臣の「遁世騒動」
決定打になったのだと考えてよさそうです。
言っちゃなんですが
義政の成敗は、よく日記で「また、一事両様か!」と批判されているように
本当に、近臣に甘くて言われるがままに裁許を覆し
政道センスが皆無です。
(※ただし、義視にだけは切れるのが早いw
 まあこれも、信頼の裏返しだった訳ですが。)


乱の原因について、尋尊が終結時に

 「なんかこれと言った理由は見当たらんけど…
  まああれだ、公方の近臣
  賄賂でハチャメチャな朝令暮改を繰り返したからだ!
  公方の成敗がなっとらんからだ! んもう! んもう!」

  (『大乗院寺社雑事記』文明9年12月2日)

と言っているように
政道が乱れた事が、天下の激動に繋がった
という回答が、一番漠然としているけど一番的確だと思います。
(※この辺は、『応仁記』でも強烈に批判されています。)


厳密なまでに道理に基づいた政道というのは
確かに、それを受ける世の人々にとっては厳しいかも知れないけれど
それを貫く為政者にとっても
強い精神孤独を強いる、極めて厳しいものなのです。
6代目義教の正室三条尹子の内助の功と
超過するほど公役を負担していたその兄三条実雅の誠実さを思うと
蓄財三昧、私曲三昧の義政の御台その兄って一体…。

義教の裁許の厳密さを疎み
ひたすら許されるだけの政道を望んだ世への天罰か…
とか思いたくもなりますが
(※義教については→本サイト『2-5』
 長いですが読んで下さい。義教に代わってお願いします。)
こうなるとやはり、尋尊の後日談にあるように

 「何もかも天狗流星のせい!
  もう初めから不可抗力だったんだよ!!」

  (『大乗院日記目録』)

という、「天狗じゃ! 天狗の仕業じゃぁぁ!!」説
最有力候補でしょうか。
ああ…学術的回答から遠ざかっていく…



でも、義政は自分の政治センスのなさを自覚していて
自ら望んで弟義視に将軍職を譲ろうとしたのに
まるで運命に邪魔されたかのように破局してしまったのは
弟直義に政道を託し、その幸せを心から望んでいたのに
"定め" に翻弄されて悲劇を迎えた足利尊氏の人生にも似ていて、考えさせられます。
…ただそれでも
いつでも室町は、明日を繋いでいった。
あの日の花火は、「小京都」という花に姿を変えた。
ならば、寛正6年(1465)初秋の夜空を裂いたあの赤い大流星
"終わりの宣告" だったのではなく―――
!!?
まさか、人々を "試しに来た" と言うのか!?
くっ! シャアめ、一体何が目的だ!…
(※ガンダムに例え出すと切りがないので、止めておきます。)




さて、ではようやく話を戻して
『応仁の乱』の嚆矢(こうし。オープン戦第一球)は
応仁元年(文正2年)(1467)正月18日の夕刻から
翌19日のにかけて繰り広げられた
  義就vs政長の単独決戦 『上御霊社の戦い』
という、当時としては衝撃的な洛中ファイトだった訳ですが
本サイト『2-9』の最後でも述べたように
義就政長は、これ以降
大乱終結まで正面切っての勝負はしていません。

政長はともかく、義就はちょっと意外な気もしますが
両陣営とも、割とチームワークを大切にしていたのかと。
大乱初期の朝倉孝景との連携とか
大乱中盤の、京都郊外での大内政弘軍とのコラボとか
なんか楽しそうw とか思う。
ついこの間まで、大和国の吉野でひきこもりをしていた義就
たぶん、友達が出来て嬉しかったのでしょう。
まあ、脱ひきこもりの祝賀上洛パレード「the修羅・改」の様子は
恐ろし過ぎますが。
(※参照…本サイト『2-7』←赤い大流星の話もこちら。
 あと、どうでもいいけど当ブログ記事
 「2-7 室町幕府の後半戦はじめました」



とは言え
義就のお友達になれるほどの勇気を備えた者は
やはり、そんなにはいなかったようで…。
文明6年(1474)2月
前年末の義尚新将軍就任を受けて、西軍内に諦め和睦ムードが漂う中
一人、首を縦に振らない義就のために
西軍公方義視は、西軍諸侯の会合を計画します。
義視…、本当は自分が一番つらい境遇だろうに。 (´;ω;`)ブワッ
さて、会場は義就邸が選ばれたのですが
当日は…
大内政弘しか来なかったww
(『大乗院寺社雑事記』文明6年2月)

さて、これは尋尊が聞いた話によると
 「他に誰も来ない上に、大内政弘も盃一杯飲んで
  そそくさと帰っちゃったから、義就が蒼ざめた」

となっていますが
しかし西軍内の状況を考えると、どう見てもこれは尾ひれが付いたうわさ
本当のところは
 「一人機嫌激ワルの義就の屋形で
  義視が大名たちの酒宴を開かせてみたものの
  みんな恐れをなして近寄らず
  唯一、大内政弘だけが義就を宥めにやって来た」

と言ったとこでしょう。
そりゃ、腹空かしたシャークさんの館に
ノコノコやって来るぽっちゃりあほペンギンはいなかろう。


大内政弘義就は、この2年前
最初の山名・細川間の和議がいきなり壁にぶつかって
山名宗全が切腹を図り洛中騒然…となった翌日

 「直接会って、お互いに決して見放さない事を誓い
  一揆同心した」
 (『経覚私要鈔』文明4年正月25日)

というくらい、本当に仲が良くて
義就が大乱終結の年の9月、分国の河内に下向する際は
大内軍が弾幕アシストで花道を整えています。

 グッバイ京都、forever!! 今度はいい夢見られたぜ!!!

(…まあ、前回のグッバイ京都(17年前)は切なかったからな。
 今度こそ forever で頼むぞ。
 ※前回のグッバイ京都→本サイト『2-6』真ん中より少し下)




…ところで
上記の文明6年(1474)の和睦(山名の東軍化で終わる)の際
義就が一人、頑なに反対したのはなぜだと思いますか?

東軍の赤松が、山名との分国の事で断固反対したように
義就も、政長との家督の事で…
と考えるのが普通ですが
しかし、大乱終結で京都を後にした義就
自力でいとも簡単に河内一国を "俺の国" にしてしまった上に
隣国の大和、山城、和泉にまで影響を及ぼすようになります。
つまり、その気になれば
いつでも単独で片を付けてしまえたのです。
従って、個人的な家督問題だけで、西軍仲間を引き留めようとしていたとも思えず
まして、一人未解決の問題を抱えていたため置いてけぼりを食らった…などという
弱い立場にあった訳でもないでしょう。


義就は、この最後の下向に先立ち
東寺願文を納めて
分国平定の「本意」を達せんことを祈願しています。
(※『大日本史料』延徳2年12月12日の、現存「東寺文書」
 いま「東寺百合文書」で話題の、あの東寺です。)


つまり、誓った「本意」は貫く主義義就にとって
それを途中で諦める事は、意地でも許せなかった
これが正解だと思います。

だから
「和睦已む無し」と傾きつつあった他の西軍大名
義就の屋形に行かなかった(行けなかった)気持ちがよく分かるw
 「ああ?おめーら魂(たま)ついてんのかゴラ!!怒怒怒怒怒」
とか責められたら、ちびってまう。
この和睦交渉が流れた後
祇園社への願文で、改めて決意を宣言し3rdフェーズに突入していった事を鑑みても
義就消極的理由で一人孤立していたのではなく
一貫して、強い意志断固「本意」の元に行動していたのだと言えます。
まあ、その意地の源泉が「義視への忠義か?」と聞かれたら
絶対認めないとは思いますがw



ところでこの時
義就が西軍内で一人、和解したくても和解できず
困っているとでも思ったのか
そこに付け込んで大金をせしめようと
 「現金で2100貫文の礼銭を払えば、進退について取り持ってやる」
との話を、御台の兄が持ちかけてきたそうな。
尋尊
 「とんでもない!!以ての外だ!!」
と、驚きと怒りを露(あらわ)にしていますが
本当に、信じられないくらい汚い人物ですよw いやワロえない。
御台兄はこの頃、公方義政への取次ぎを独占し
 「現金でなければ、一切話を通さない」
と言い切っていたといい
御台はと言えば
 「一天下之料足は此御方に有之様に見畢」
つまり、一天下の現金を吸い上げていたというから
尋尊
 「ああ、もう天下に頼れる者など誰もいない…」
絶望しているように
この御台兄妹によって、どれだけ世の中が汚されて
どれほどの人が困窮したんだろう…と思うと泣けくる。
(※以上『大日本史料』文明6年閏5月5日、文明9年7月是月)


まあ、ここまで来ると
何で周りの奴等は、こんなののさばらせ続けたんだ!
と思うでしょうが
しかし、御台に逆らうというのは、公方に逆らうのと同じ事ですから
残念ながら、みんなそのやり方に従うしかなかったのです。
また、大名たち公方に取り次いでもらうには
この御台兄妹に礼銭を贈るしかなかった訳ですが
そうまでしても、彼らにとって公方との関係は大事だった
と言う事でもあります。
ただ、それによって賄賂政治が助長され
『建武式目』の精神が穢されていく悪循環は何とも…
当時、それにNOを突きつける事が出来たのは義視くらいだったのですが
その義視が「将軍就任の道」を断たれた今
『室町殿』に巣食う魑魅魍魎
いよいよ、その欲望を暴走させて行くのでした。

(※ちなみに、新将軍義尚はまだ9歳なので
 御台の兄が「御代官として世務を指南」し「権威無類」で
 「和漢の重宝を山岳の如く集め置いて」いたそうだ。
 もう、なんだそれ!)



これが、御台(将軍の正室)または大方殿(将軍の母)が「強大な権力を持つ」という
当時の慣習の恐ろしい所です。
一方で、斯波義廉の母や、大内政弘の母(どちらも山名家)のように
武士の道を弁え
一族家臣の良き求心力となった立派な女性もいたので
その名誉を貶めるようで… なんか一層悔しいorz

しかも、この無双の権力の為に
『明応の政変』では遂に、世界は地獄を見る事になります。 はぁ…orz
ただ、この弊害は古来、繰り返されてきた訳で
歴史に学び、それによる惨禍を未然に防ぐべく
室町幕府創建の誓い『建武式目』には
 「今に始まった事じゃないが…
  権門貴族、女性、僧侶の口入は禁止な」

との条文があります。
(※これはもちろん、利権を悪用する輩の口利きに限った事で
 室町幕府では、高度な知識と人格を備えた公家僧侶
 大いに政道に参加しています。)



ああ、武家の政道というのは
本来、どこまでも清廉
美しく貫かれた厳しさの上に、分別ある慈悲を備えた
「王道」の中の「王道」だったのに!
なぜ義教が目指した「彼の岸」
人は信じようとしなかったのだ!
これが、厳密より甘い許しを選んだ世への呪いだと言うのなら―――
赤い流星の炎に、すべて焼き尽くされてしまえばいい!
天狗流星、行け! 忌まわしい記憶と共に!!」

( ( ゚д゚)ハッ! ファーストしか認めない私としたことが、逆シャアなど!!)


まあでも、そんなめったな事言うもんじゃない訳でして
実は…
『応仁の乱』終結のほぼ1年前
文明8年(1476)11月13日
紅蓮の炎は、『室町殿』を焼き尽くしてしまうのです。
たった一宇も残さずに―――


信じられますか?
あの大乱の中、10年の不落を貫いた「東軍の本陣」
あれだけの戦火を潜り抜けた「花の御所」
土倉・酒屋からの失火
欠片も残さず、焼け落ちてしまったなんて。

しかも、当時の『室町殿』
「将軍御所」のみならず「内裏」でもありましたから
朝家の累代の記録抄物楽器などの貴重な宝物も悉く失われてしまったので
笑い事ではないのです。
もちろん、義政の私物も、御台の物も、残らず焼失した上に
周辺の公家の屋形武家の陣所も、相当数が焼けてしまったそうだ。
(※ちなみに、この約5ヶ月前
 大徳寺あたりも数百家が火災で焼失している。)


洛中での戦火が鎮まって久しい乱の終わり
よりにもよって、中世の金融業者でもある土倉・酒屋からの火で。
…こんな最後って、あるのでしょうか。
ただし、当時の御所(幕府)の内情は
政治が汚染されていただけでなく、連日の大酒でかなり堕落していたそうで
それを思うと
人々の業が招いた、因果という定めだったのかも知れないけれど
でも…
乱前は、四季を通して無数の花が咲き誇り
人々が行き交った華やかなりしあの日々の記憶がもう戻らないなんて
あまりに悲し過ぎる。
10年の戦いを刻んだ牙城は、なぜ沈んでしまったのか…



『室町殿』は消えた、なぜだ!」
「坊やだからさ」
なんつって、ププッww
って、冗談言ってる場合じゃないですよ!
もう、なんなんだこの暗示的な終わり方は。
本当に…『応仁の乱』の勝者は、東軍なのか?
と考え直したくなってしまう。
確かに、東軍西軍は "終戦協定" を結んだけれど
ホワイトベースは沈んでしまった
という、あのやる瀬無さ。

(※ちなみに、"東軍が京都を制した" とは言いますが
 その後、在京を安定して継続した大名は実は少なく
 大半は、乱後の後始末(またの名を、地方の延長戦)で
 分国への下向を余儀なくされたのでした。)


ああ、終わってしまうのだろうか…
室町はもう、やり直しも許されぬまま、赤い炎と共に―――

坊やだからさ

!!?
おい、誰だおまえは!
シャア…じゃないな、ん?
その特徴的なきのこるカットは、もしや―――
ってゆーか、立ち位置それでいいのか? なんか違うようなw
まあでも、室町が続くなら何でもいっか。

(※正体が気になる方は、とりあえず気休めに
 「坊やだからさ」で画像検索して下さい。)



あれ、なんか義就の話、半分もしてないような…まあいいか。



posted by 本サイト管理人 at 05:18| Comment(4) | ★チラ裏人物記
この記事へのコメント
日野兄妹の荒し屋ぶりが素晴らしいですね。
とはいえ、彼らには品行方正な賢女とは違う、ダークで危険な魅力があります。
だから印象に残りやすいのかも。
そうした危険な魅力に浸かっていたせいか、今話題の呉座先生ほ著書「応仁の乱」には『日野富子は当初、妹を義視に嫁がせ「義視殿が将軍になってもいいわよ。ただし、次は義尚が将軍ね。」派』であった。しかし山名と畠山の暴走によって、その構想はメチャクチャになった…。」と書かれていて、ビックリしています。
室町って奥深いです。
Posted by ととめす at 2017年08月03日 15:23
>ととめす様
コメントありがとうございます!!
本当に、室町の奥深さはすごいです、謎過ぎます。
『応仁の乱』開始前後の時期は特に、人間関係や各人の思惑が入り組んでこんがらがりまくっているので、なかなか真相が見えて来ないのですよね。
裏の裏に裏がある…みたいな。 厄介さん (´・ω・`)
でも大好きですw 室町。
Posted by 本サイト管理人 at 2017年08月03日 19:34
12月1日の歴史秘話ヒストリアが畠山義就ですね。
正直、こちらの管理人さんにアツい解説をしてほしいと思います!
Posted by at 2017年11月24日 21:03
>上様
ああああーーーーっっっ今知りました!!有難うございます!!
義就、大出世ですね。すごいです。
ううぅ語りたい、私もアツく語りたいです、義就大好きです (´;ω;`)

しかしタイトル「天下の大悪人」てww
旧秩序の破壊者とか、スタンドプレーの覇者とかいった路線で語られるのかな?
やっぱりそっちのが人気の義就像なのかな〜とは思いますが
でも義就って、実はかなり友情とか仲間とか大切にしちゃう「絆野郎」ですよね。
人生8転して3回都落ちというどん底に落ちながら
何度でも何度でも蘇生する「夢のようなドリーム野郎」でもあると思うのですよ。
(他の大名もみんなそうですが)義就は
口では俺様俺様言いながら、義政のことも義視のことも本当は大好きだし
しかも、こんなにとことん修羅で悪ぶっているけど実は王子
…とかいう美味し過ぎる属性!!

もと超絶ボンボンの血筋の良すぎる王子が
コテンパンな不遇に見舞われながら不死鳥の如く蘇り
這い上がるたびにバージョンアップし、友達を得て人生が花開き
11年の大乱を通して得たのは
西軍仲間と誓い合った未来への夢「列島に広がれ小京都」
それそれの自国に帰り、離れ離れになってもずっと友達「永遠の友情」

一人ぼっちの少年だったアウトロー没落王子が、本当の仲間に出会い
眠れる修羅を呼び起こして真の姿(←八幡大菩薩の化身?)に生まれ変わる
ミラクルサクセスストーリー☆☆☆

…とか言う義就像も、すごく夢があって希望があって
現代的にもむちゃむちゃ受けが良いと思うのですよね。
ハリウッド的な胸のすくストーリーで、ドリームがアメリカンですよね。
そんなアメリカンサイズな義就路線を期待したいです!!はい!!!

『応仁の乱』の本質って、利害の衝突とか主従秩序の破壊ではなくて
「武士の譲れないもの」の衝突であり、地方の成長という「新時代」の構築であり
その衝動の根源は、西軍の "アツさ" だと思います。
彼らは、自分勝手なんかじゃなくて
きちんと列島レベルで国の事考えていたと思うのですよね
妙椿を中心として。(←義政じゃないんだ… )
実は「西軍の国家観」こそが
『応仁の乱』の最大の帰結なのではないかと・・・

あああすみません、ちょっとアツくなり過ぎました〜
義就の活躍、楽しみですね!!
Posted by 本サイト管理人 at 2017年11月24日 23:56
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: