2014年06月26日

畠山義就(その2)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その1)」
途中からガンダムの話になってしまったので
改めまして

畠山義就


とのコンセプトで参りたいと思います。


さてシャークさん、冒頭からイライラがMAXですが
義就をはじめ、西軍の連中は、常時100%の戦力は出していなかったようなのに
(というか、本気で容赦ない戦闘してたら、確実に東軍は壊滅しているw)
どうも、「めし」が絡むと
いきなり120%の遷移状態でムキになって反撃してくる
という、大人気ない習性がありました。


応仁2年(1468)3月
西軍糧道を塞ぎ、兵粮庫を焼き払った悪党足軽の頭
骨皮道賢に対して
 畠山義就、山名宗全、斯波義廉(ここに朝倉)、大内政弘
という
壮絶な西軍オールスター連合天誅を食らわせた、あの記念すべき一件は
珍闘の多い『応仁の乱』においても
ひと際見事な「戦闘力の無駄遣い」だった訳ですが
…ってゆーかおまえら
タケノコの皮とか被ってる足軽に対して
上京の一条から洛外の伏見稲荷まで
甲冑まとった武士で埋め尽くさなくてもいいだろ。
相当、めしが弱点のようです。


ただし、本当に腹が減ると
とかもう、どうでも良くなってしまうようで
同年7〜8月の、東軍による山科での糧道断ちでは
空腹のイライラをお手紙でぶちまけた後は
終日、なんか一生懸命「物運んでた」
という、ちょっとかわいい一面を見せています。
(※以上、詳しくは本サイト『2-10』をどうぞ。)



さて、戦域が京都郊外に広がり出した2ndフェーズでは
東軍による "糧道断ち作戦"
中距離弾道ミサイルでの攻撃が主流になっていきます。


文明4年(1472)の山名宗全・細川勝元の「和独交渉決裂」後
東軍は却って、西軍への追撃を "強化" した
…という事は既に述べましたが
7月4日、赤松の重臣浦上則宗が、山城国天王山に出陣します。
洛南の山崎は、「西国の咽喉(いんこう)」つまり
西から届く物資の重要な流通経路だったので
早速「うるぁぁーーー!!」と取り返しに来たのは
西国の大内軍…と思いきや、義就の兵でしたw
この頃南山城周辺は、大内軍義就軍の庭と化していたとは言え
大内軍が主で、義就軍は気が向いた時に顔出して来る
みたいな感じだったので
ちょっと意外です。
ちなみに、夜襲で一旦ぶちのめした後
また浦上則宗に瞬時にwやり返されて、それ以降どうなったのかは不明。
ちゃんと九州の米、届いたのでしょうか。


さて、同じく夏頃から
今度は東国からの物流の要、近江が狙われます。
東方の京極の重臣多賀高忠が一国を討ち取り
 「西方一大事か!?」(『経覚私要鈔』)
という、またしても俺のめし大ピンチ!
…のはずだったのですが
しかし近江といえば、すぐ隣が―――美濃
この時点で多賀高忠、ちーん。
西方の六角に合力すべくやって来た持是院妙椿
美濃十八郡(の兵を)悉く」引き連れて来たもんだから
大勢中々是非に及ばず」(あーもうだめだこりゃ)
と、多賀高忠は越前に没落して行きました。(『大乗院寺社雑事記』)

(※ちなみに、多賀高忠は文武両道の名将です
 間違えのないように。
 妙椿相手に無駄死にする必要は、何人(なんぴと)たりともありません。)



さて、西の "めし止め" をするつもりが
うっかりこっちの息の根が止まってしまう所だった東軍ですが
まだまだ諦めません。
さらに援軍を追加投入したところ
「うるあぁぁーーー!!」と反撃の矢軍で切り込んで来たのは…
またしても義就軍
結果、秋には東軍は諦めて帰って行ったらしいが
近江の方まで義就軍が出張して来るのは、意外な気がして仕方ない。
ってか、妙椿に任せておけば心配ないだろ!
どんだけ、めしの事になると頭に血が上るんだよ。
(※以上『大日本史料』文明4年7月4日、8月2日、9月9日)

(※ちなみに、京極持清
 細川勝元が甥、畠山政長が娘婿にあたる
 東の重要メンバーですが
 文明2年に他界(戦死ではない)した後
 京極家は家督騒動により東西に分裂してしまい
 乱後の時点では、旧東が京極政経、旧西が京極高清
 この西方京極高清
 斎藤利国の婿(つまり朝倉貞景と義兄弟)になります。)



さて、そんな西軍の胃袋に
またしても腹ペコの危機が迫ります。
前年の文明3年(1471)6月に越前で合戦を開始した朝倉孝景
幾多の戦闘の果てに
遂にこの年の8月、府中を制し
 一国中の様、朝倉方打勝つ」 「(越前は)一向朝倉成敗
すなわち、「国一統」を成し遂げたのです。
(※府中(ふちゅう)…国府のこと。分国の行政の中心。)

これは、結果を知っていると当然のように感じてしまいますが
実際は、甲斐朝倉、どちらが負けてもおかしくない
…というか、当初の越前の状況を考えたら
むしろ、朝倉の勝利の方が奇跡だったと思います。
未来を知らずにを生き、負けたら終わりの戦いの中で
朝倉孝景も、そして当時は被官クラスに過ぎない孝景に従い
忠節を尽くした部下達
見えない闇の向こうを信じる力というのは、一体どこから湧いて来るのか
現代ではちょっと想像が付かない信念ですが
この文明4年8月という "夏の終わりの勝利"
まだ薄闇にある彼らが見た、最初の日の出となりました。

ちなみに、"一国平定" と言ってもあくまで「ほぼ」であり
この後まだまだ激しい戦いが続きます。
しかし、越前での朝倉の100年
この時既に約束されたと言えるでしょう。



という訳で
朝倉孝景大勝利を収めたのは嬉しいのですが
しかし、この時点での孝景
「東軍の公方義政の命」で戦っていますから
西軍からしたら、腹がひっくり返る事態です。
というのも、越前敦賀(つるが)は
日本海経由で西国からの兵粮を運ぶ超重要経路であり
そこを東軍に押さえられた事になるからです。

「西方、困り果ててるんじゃね?」(『大乗院寺社雑事記』)
と、尋尊にも見透かされていますが
…あれ、でももしかして
めしの事となると、簡単に理性を失う奴等の事だから…
しかも隣、美濃
き…来ちゃうの?
きゃ〜孝景逃げてぇぇ〜〜!
シャークさんが泳いだ後は、こんぶも生えないわよ〜!!
…と焦りたいとこですが
しかし、西軍諸侯はその頃―――
……。
お家にこもって、日々夜々ちまちま会合を重ねていた。


って、おーーーい!!
めしが絡むと一も二も無く猛禽類の目でとっ込んでくるお前らが
何、大人しく家飲みしてんだよ! 方向違うだろ!!

彼らは、空腹のイライラを我慢して久々にを使い
そして思いついた
 「そうだ、東幕府の本陣を攻めよう!」
って、何でそっちに向かうんだよ!www
 「うるあぁぁーーー!!越前めしの道開けろゴラァァァ!!」
と、猛禽シャークの群れ
バショウカジキのスピード(※海最速)で突進して来る
という "予告" を聞いた義政
"予告" だけであっさり白旗を揚げ
朝倉孝景に、越前の糧道から退くよう通達し
西軍は戦わずしてペコペコの危機を脱出
そして訝(いぶか)しがる尋尊であった。

 「希代希有事也、且如何」
  (え、何?? 意味わかんない、なんそれっ!!)


(※以上『大日本史料』文明4年8月6日、22日)


さて、「南山城天王山」や「近江」の時とは明らかに違うこの対応
もうお分かりだと思いますが
西軍諸侯は、朝倉を直接攻めることが出来なかったのです
仲間だから。
でも今の朝倉東軍で、西軍の為に糧道を開けられない
どうしたら…
そして閃いたのが
 東軍の公方義政の命令で、朝倉に糧道を開けさせる」
という方法だった訳です。



まだ十分ではありませんが
これまでの本サイト、当ブログの解説で
 「朝倉は西軍を裏切った」
という説は "真実ではなかった" のだと、納得してもらえたと思えます。
他にも例えば…
乱後、大内政弘周防に帰国した翌年
九州の領国、豊前・筑前平定の為に出陣、渡海
目出度く凱旋するのですが、その際
「(九州)御入国の祝言または「両国(平定の)御祝儀
方々から(ホントに沢山)届きます。
そしてそこには、西国の武将たちに混じって…
朝倉孝景からの、お祝いの太刀二千疋(20貫)がw
(※ちなみに、千疋超えは3人だけ)

西軍諸侯との同盟が断たれていなかった証であり
また、乱後においても
周防越前の間で情報が行き交っていた、と言う事です。
(※『大日本史料』文明10年9月16日)
さらに、河内の義就への贈り物や
乱後も長く親しい関係が続いていた事を示す記録が残っています。
(※『大日本史料』文明14年7月是月、文明16年4月20日
 『大乗院寺社雑事記』明応3年2月17日、6月30日)



これらのピース(=個々の史実)を矛盾無く組み合わせようと思ったら
 「朝倉は、西軍を裏切っていない」
という説が、わりと簡単に浮かび上がってくるはずなのに
なぜこれまで、誰もその事に気付かなかったのか?
それはきっと
 「人は、自己の利益のみに生きるドライな生き物だ」
という前提に囚われて
もっと高次にある彼らの行動原理が、見えていなかった為だと思います。
しかし
「自己利益を最大限にするべく行動する」ゲーム理論のプレイヤー
日本中世室町の武士とは、明らかにその精神が異なります。
彼らには
胸に貫く「道」があり
足利家の将軍、共に戦った盟友への "信義"
"己が欲望" よりも優先される大事なもので
それが、室町の天下を秩序立てていた「目には見えない条理」なのです。


『応仁の乱』の頃
義就が、その武勇に感嘆してしばしば座上に朝倉孝景を招き
  「真の将軍」(※ここで言う将軍とは、広義の大将の意味)
と讃えていた
という話は、孝景の三十三回忌の法語に記されたものですが
(※参照…『大日本史料』文明13年7月26日)
もし、孝景にとっての西軍
越前という褒美の為なら "簡単に切り捨てられるもの" だったとしたら
こんな西軍時代の話
法語に読み込まれるほど、大切に語り継いだりはしなかったでしょう。
当時の朝倉孝景にとって
管領家畠山惣領武勇を讃えられる事が、どれほどの栄誉だったか―――
そういう視点から
プレイヤーではない "人としての" 心の動きを詳察すれば
孝景にとっての西軍とは
 「死ぬまで貫こうと決意させる絆だった」
という真相が見えて来るのです。

(※越前の朝倉だけでなく
 本サイト『2-12』の後半で述べた石見の益田家についても
 益田貞兼陶弘護(大内政弘の重臣)が交わした書状は
 もっと重く考察されて欲しいと思います。)



朝倉家は、『応仁の乱』終結後の
美濃を中心とした旧西軍ネットワークの一員でしたが
(※例えば『大乗院寺社雑事記』文明11年12月7日、文明14年4月5日)
彼らの協力があったからこそ
始まったばかりのまだ不安定な越前統治を、軌道に乗せることが出来たのです。
もし、これが本当に完全な裏切り
周囲の旧西軍諸国がみなだったのなら―――
朝倉が歴史に名を残す事は無かったでしょう。
「信義」を捨てた武士が生き残れるほど
中世武家社会の正義は、廃れてはいなかったのです。



『応仁の乱』後の、大名たちによる在国統治においては
京都の公方との関係も重要ですが
実はそれと同じくらい、周辺国の大名たちとの関係も大切なものでした。
当時の "横の繋がり" は想像以上に強く
"群雄割拠" という、個人プレー的な世界観ではなかったのです。
(※つまり、隣国 "ライバル" ではなく "友" なのです。)

それぞれが、幕府の一員として
公方を頂点とした天下の視野を持ち
無益な領土拡大志向の欲を持たず
仁政徳治の「王道」による自国の統治・繁栄に専念し
局所的な紛争は、複数の周辺国の協力で解決する
…という "新しい社会の形" が上手く行っていたら
戦国を迎える事は無かったのかも知れない
と、ふと考えます。


私が、朝倉家を好きな理由は
孝景の代に越前の国主となってからというもの
一途に越前を愛し
領土拡大志向を持たず
寺社本所との関係では義理堅く半済を守り
を出す場合は、自国の防衛か他国への義軍に徹し
100年「王道」を貫いた、まさに武家の "正統" をゆく武家だからです。



「王道」「覇道」については
本サイト『2-9』の最後の方で述べましたが
『応仁の乱』辺りから、歴史を "継続" として見れば
室町末期 "戦国期" と呼ばれるような社会になってしまったのは
この「王道」を知る武士が減り
「覇道」に走る者が増え過ぎた為だと分かります。

まあ現代は
下克上領土拡大を目指す野心が、上昇志向として好意的に捉えられていますが
しかし、本来武士にとっての "向上" とは
「精神の修練」や「土地の豊かさ」を目指す「質的向上」であって
「広大な領地」や「膨大な隷属者」を欲する「量的向上」を目指す者
すなわち
 『六韜』『三略』『論語』『孟子』『大学』『中庸』
の教養を持たず
その行動原理が「義」ではなくて「欲」である者は
やはり、英傑英雄とは言いかねる存在です。


もちろんエンターテイメントとしての歴史なら
深く考えずに
奪い、得て、頂点に立つ者をスターと見る
いわば「覇道アルゴリズム」で解釈した方が、派手で楽しいのだとは思いますが
歴史を娯楽で終わらせず
そこから教訓や知性を得て、未来に役立てようと思ったら
歴史は「王道アルゴリズム」で読み解く必要があります。


日本の歴史というのは、比較的史料が豊富に残っているし
何より、国が途切れた事が無いので
研究する上では非常に恵まれているのですが
ただ、その解釈において「王道アルゴリズム」の視点が欠けていて
理解が表層に留まり、深い所に達していないのが残念だと思います。
視点を欠くと
或いは、天皇武家を一律に "権力を奪い合う敵" としてみたり
或いは、覇権主義者を英雄と讃えたりと
解釈が迷走してしまいます。
それどころか―――

私は、日本人の「卑怯と嘘を何より嫌う正直な気質」
とても誇らしいものだと思っていますが
しかし一方で
自国の歴史における賢人を貶める捏造虚構
随所に見受けられるのです。
こんなに「道義」を重んじる国民性なのに
歴史の上では、性質の正しい者が虐げられている
この矛盾する傾向は一体どこから来ているのか、正直、私には分かりません。
(しかもこれ、室町に限らず
 実は、『古事記』『日本書紀』の神代の時代から
 果ては、幕末・明治に至るまで
 歴史を調べれば調べるほど
 この二面性には、我ながら驚きを隠せません。
 あるいは…何者かが意図的に―――
 とか言い出すと、陰謀論が始まってしまうw)


ともあれ
特に、室町初期の南北朝期において
主上として花園天皇、武士として足利直義が見過ごされている現状は
非常に由々しきものだと思います、はい。

(※特に、撫民の精神で足利直義の右に出る武士は
 いないと思います。
 花園法皇が「序文」を手掛けられた珠玉の勅撰和歌集
 『風雅和歌集』での一首。
  「しづかなる 夜半の寝覚に 世の中の
       人のうれへを おもふくるしさ」
  (静かな夜にふと目が覚めると
   世の人々の憂いや悲しみが胸に押寄せて…苦しい

 なんて歌を
 本気で詠っちゃってるんですよ。
 もう、そんなんだからお前は! ばかばかばかぁぁーーー!!
 とかもう、無意味にパンチしたくなる清らしさですよ。)



この国の "深層" を知り、過去未来に生かすために
日本の歴史においても今こそ
『春秋(三伝)』や『史記』のような
「天道是か非か」の視点を持った解釈の試みが、必要だと思います。
という訳で…

「王道アルゴリズム」で描き直す中世日本


これも、本サイトのコンセプトの一つです。
そこで見えてくる室町
幕府創生期『応仁の乱』はもちろんのこと
『明応の政変』はとりわけ
未だ見ぬ真相が、大きな感動を呼ぶ事になるでしょう。
たぶん。



なんか、「めしの道」の話から「武士の道」の話になってしまった。
また義就の話してない…まあいいか。



posted by 本サイト管理人 at 02:06| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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