2014年07月01日

畠山義就(その3)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その2)」は、めし道の話で終わってしまったので
今度こそ修羅道の話をしたいと思います。
という事で改めまして

畠山義就


…なんかちょっと、ゆるふわ系なのが気になりますが
でも良く見ると
表情には、隠しきれぬ修羅ビリティーが溢れています。
ちなみに、隣で義就にケーキを自慢されている不憫な人
本サイト『2-9』真ん中より少し上の元絵を御覧下さい。


さて、『応仁の乱』は最終的に
文明9年(1477)11月11日の
 足利義視&土岐成頼の美濃下向
 畠山義統の能登下向
 大内政弘の周防帰国
を以て、終焉となりますが
(※ちなみに、伊勢貞藤義視に御供して美濃へ行きましたw)
義就的『応仁の乱』フィナーレ
この約2ヶ月前で
9月22日、義就は一足お先に河内へ下向します。
(※以下、詳しくは『大日本史料』文明9年9月22日)


まあ、これは東軍からしたら「西軍義就の没落」なのですが
その実態はというと…
義就下向後の洛中の安心安全対策として、西軍公方義視の要請で
持是院妙椿配下の美濃・尾張・近江三ヶ国連合軍300騎が上洛し
下向に際しては、大内軍のアシストがついたりと
準備万端のVIP待遇だった上
当の義就軍の様相たるや…

 先陣遊佐25騎、次斎藤の13騎、甲斐庄19騎
 そして、大将義就75騎、射手80人超、楯180兵超
 その次隅田・平19騎、淀小橋7騎、御厨屋、後陣誉田42騎
 ―――都合、馬上200騎超、甲冑兵2000人超!!


「あれ、なにその凱旋…」みたいな
祝賀帰国パレード「the修羅・改・帝王降誕編」という状態でした。
あーあ、誰だよ
義就をここまで成長させちゃったアホは。
(※おっと、先見の明の無い(いや、ある意味ある)
 義政の悪口はそこまでだ。)


京都ではこの時
義就の行く手を遮ろうとする者は誰一人現れず
「衆人見物」する中、悠々とを後にする行粧
東軍方の者達もみな「見物」していたそうだw

って、おい!
まあでも、気持ちは分かるよ。
ってか、義就のパレードとか見てみたいわww
いいなー、生で見られた当時の人たち! とか思う。
ちなみに
南山城大和・河内・和泉などの周辺国の一部には
「義就警戒令」を出して、通せんぼを試みたようですが
まあ…その、無駄な抵抗だったようだ。
当初、畠山政長方だった河内国内の城は、次々と(そして軽々と)義就方に落とされ
早々と「俺の国」になってしまった河内の、さらにを目指して進む義就
やがて "その地" 「俺の城」を築き
(※正しくは、既にある城郭のそばに新築した屋形
栄える城下町に囲まれて
わりと幸せな日々を謳歌する事になります。

まあ、これまで散々な人生だったからなw
神様が、最後に休日を与えて下さったのだろう。
(…ん?南河内といえば、"あの森" に鎮座まします…)



さて、この辺の様子については
『大日本史料』または『大乗院寺社雑事記』をつらつら読むと
当時の情景がリアルに再現できて楽しいのですが
簡潔なまとめなら
 【森田恭二『応仁大乱と奈良』
  (大乗院寺社雑事記研究会編『大乗院寺社雑事記研究論集第2巻』
  (和泉書院)2003)】
がお手軽です。
それから、畠山関連の研究としては
 【小谷利明『畿内戦国期守護と地域社会』(清文堂)2003】
がお勧め、考察に隙がなく的確です。




ところで、義就下向の際
東軍は「触らぬ修羅に祟りなし」状態だったとは言え
まさか、政長もぽかーんと見物してたんか!!?
…という訳では断じてありません。
実は政長はその頃―――
「蟄居」していたのです。(※蟄居(ちっきょ)…自宅謹慎)

この蟄居に関して、現代の考察では
義就を下向させる口実か?」とか「自分から身を引いたんだろ」
などと解され、軽くチキン疑惑まで持たれていますが…
断じてそんな事はありません!!!
政長
政長は…
ひと月前にを亡くし、喪に服していただけなんだぁぁぁーーーー!!
(※『長興宿禰記』文明9年8月19日)


自分では身動きが取れない代わりに
大和紀伊、伊勢の軍勢に協力を要請すべく
「義就退治」の後土御門天皇の綸旨、義政の御内書を願い出て
それなりに、政長も頑張ったのですが
(※『大日本史料』文明9年9月28日)
母の中陰(四十九日)が明け
ようやく幕府に出仕が叶った10月9日には
既に、ほぼ河内は義就化した後だった、ってゆう。 ちーん
(※『大日本史料』文明9年10月9日)

畠山政長
    (いるよね、こういう奴。)


ってゆーか政長、お前ってやつは…
なんでそう、いつもピンポイントで、寸分違わずどツボ突いて来るのだ。
不憫(ふびん)仲間の斯波義廉さえも、ダブルスコアで引き離す
室町不憫界のMペラー畠山政長
(※M(エム)ペラー…M界のエンペラー)
義廉(もと渋川義廉)は、なんだかんだ言って
どこに流されようと、板倉さえいればなんか楽しそうだしw
政長の足元にも及びません。
(※板倉渋川家の譜代の重臣。主家に命を捧げている。)


ちなみに、この「政長の蟄居理由」(=母の喪中)ですが
指摘しているとか論文見た事ない。(´;ω;`)ウッ…
政長、いつも謂われ無き不名誉ばかり被って…可哀相なやつ。
きっと名誉挽回してやるからな。
(逆に貶めてないか?とかいう疑問は置いといて。)



政長の何が凄いかって
こんなにも、ずっこける級のかわいそすキャラでありながら
のようなエピソードを多数残し
ごく稀に本気出した時の武勇伝が、かっこ良すぎる
という意外性です。
人々から、これでもかと賞賛される廉直な人柄とか(『金言和歌集』)
時の管領でありながら
正月参賀では、摂関家以外の公家の館にも自ら訪問する腰の低さとか
(『大日本史料』文明13年正月1日)
乱後、すっかり政道に背を向けた義政に、みんなお手上げ状態だったところ
政長が何度も説得した結果、少しは政務を執るようになった
とか。(『大日本史料』文明13年3月29日)

"あの" 義政を感化したんですよ?
こ、この時期の義政政道に振り向かせるなんて…
政長、お前っては…もう!!
という訳で、全会一致で
日本史上の「七大珍歴史」に認定したいと思います。


それから、武勇伝としては
『上御霊社の戦い』とか『相国寺の合戦』とか既に出揃っていますが
特筆すべきは
文明11年(1479)7月2日の
行宮(あんぐう。仮の皇居)の火災です。

大乱終結の前年に『室町殿』が火事で焼失した後
後土御門天皇は、それより二町ばかり北にある
柳原の北小路殿を、皇居とされていたのですが
約3年の後、そこもまた火事に… (´;ω;`)ウッ…
しかし、その時の「主上救出劇」
政長が大活躍するのです。

家臣を多数引き連れて駆けつけた政長
御物等を速やかに運び出し
周辺の家々にも火が回って、路次の安全が危ぶまれる中
脱出経路の確保、輿の乗換えなど
すべて政長の指示で危機を脱したとの事で
「臨期の忠節、比類なし」と主上の叡感甚だしく
政長はその功により、御剣を賜ったのでした。
しかも、その御剣
以前、幕府から後花園帝に進上された「無双の御物」
まさに「美目至極」だったそうだ。(※美目…ほまれ、名誉)
(『大日本史料』文明11年7月2日)



例えばこれが "戦" なら
事前に心構えが出来ているし、相手は人間ですから
勇敢に戦えるの者は珍しくないでしょう。
しかし、「燃え盛る炎」という
人の意志では計れない突然の脅威を目前にして
素早く的確な判断が出来る人間というのは、そうそういないと思います。
まさに人の本性が試される火災の現場で
最高の勇気と冷静さを発揮する政長
…とかもう、かっこ良すぎるwww
この窮地に陥った時こそ本領を発揮」する政長の特徴は
良く覚えて置いて下さい。
『明応の政変』において
 「なぜ政長は、あのような行動に出たのか?」
という疑問を解く、大きなヒントになります。




―――という訳で、どうですか
この雑魚キャラレベルの運の無さにして
絵に描いた勇者のようなエピソードの数々!!
もう、この人ホント好きw 面白すぎるwww
普段めっぽう大人しく従順に生きて来たというのに
何の因果か
 「気付いたら『応仁の乱』オープン戦のマウンドに立ってた」
という、天に選ばれし不憫王
しかも、生涯の敵が史上最難関の男・義就。 ついてねぇーーwww




おっと、今はその義就の話をしてたんだった。

まあでも、もし政長が蟄居中じゃなかったとしても
義就を止める事は、たぶん出来なかったと思います。
なぜなら、尋尊に言わせれば―――

 「義就 "当時の名大将" 、逆らう奴はアホ。
  政長、どうすんだろ…」

 (右衛門佐は当時名大将也、可敵対者更以不覚事也
  又左衛門督進退可為如何哉)
     (『大乗院寺社雑事記』文明9年8月14日)

尋尊の人物評は、基本的に公平で贔屓が無く
むしろ武家には、厳しいコメントの方が目立つのですが
その尋尊が、思わずもらした本音がこれですw …ってゆうか orz


ちなみに、義就の河内下向は
政長蟄居(8月19日)以前、8月6日には既に決定していた事なので
 「政長が動けない隙を突いて、退散した」
という訳ではありません。
そんなタイミングで亡くなられた政長の母上
一見、いつもの政長の "ついていなさ" かと思いきや
無理に出陣して、余計な犠牲を出さなかったという意味で
最後に、天寿をもって息子の窮地に答えを与えた
お母様の機転だったのかも、知れない。



まあでも、義就
全く追いかけてくる気配の無い政長に対して、内心…

 「え、いいの? 俺行っちゃうよ?(チラッ
  あれ、誰も来ない…俺行っちゃうよ、いいの?(チラッ 」

と、何度も後ろを振り返ったに違いない。たぶん。
と言うのも
河内の誉田城が攻め落とされた際
城を守っていた政長方の家臣37人は、自害の最期を遂げたのですが (´;ω;`)ブワッ
義就はその首を丁寧に―――
京都の政長の元に送り届けたのだw
(※「討ち取った敵将の首を相手方に送る」というのは
 "弓矢の道" に適った正しい武士の道義です。)


「あれ、政長来ない…俺の事忘れてんのかな…」
とか、ちょっと寂しがっていたかどうかは知りませんが
実は義就は、"弓矢の道" を弁えた戦い方をする武将なのです。
(※例えば、捕えた敵方の兵が
 他国の者だった(=自身の分国河内の者ではなかった)ので
 助命してまで奢り、政長方に送り返した
 という、ぬくもロックな話がある。
 『経覚私要鈔』寛正2年6月21日)


やっぱり畠山家は、なんだかんだ言って
"名ある武家の筆頭" だな、と思わせてくれる
そんな、「武士の道義」をしっかり備えているのが
義就政長の素晴らしい所です。
(ただし…いやそれ故義就は、裏切り者にはめっちゃ厳しい。)
しかもこの2人は
自身「前線に罷り出る」
という、管領家らしからぬ戦い方をするのがまたが好き。
(※例えば、義就は上記の『経覚私要鈔』寛正2年6月21日
 政長は、本サイト『2-9』真ん中辺りの『相国寺の合戦』)
斯波義敏(よしとし)はもちろん
細川勝元さえ、実戦に出た事無いと思う。
まあ、それが普通なんですが
やっぱり、武家としては魅力に差が出てしまうw





さて、当時の河内国では
北河内の「若江城」、南河内の「誉田城」
2大要所だった訳ですが
義就は、この誉田(こんだ)の地に腰を据え
かつて西軍仲間と誓い合った…かも知れない
"地方に花咲かす分国統治" を開始します。

(※旧西軍大名の分国では
  河内国の誉田(畠山義就)、周防国の山口(大内政弘)
 能登国の七尾(畠山義統)、美濃国の川手(土岐成頼&妙椿)
 越前国の一乗谷(朝倉孝景)

 …などのように
 家臣を集住させて、地方都市を発展させたのが特徴です。
 この類似した城下町
 やっぱり偶然ではないと思うんだけどなあ。)


うん、まあでも
義就河内守護じゃないんだけどね、てへ☆
(※乱後、結局義政に赦免を受けなかった西軍主要メンバーは畠山義就のみ。)
でも、どう見ても普通に河内守護してて
大和国とか和泉国の堺とか、しばらくは南山城も "ほぼ" 管轄下
「自称実質守護」として、みんなに頼られてもいた、ってゆう。
(※参照…『大日本史料』文明16年5月6日とか
 あと、上記の畠山関連書籍の第二部第一章とか色々。)

ただ、それでいて義就
畠山家の分国の一つ、紀伊国には手を出していないんですよ。
(※紀伊の高野山の僧兵と、根来寺の僧兵が
 それぞれ義就方政長方から援軍を得て戦闘に及んだ事はあるが
 これは元々、高野山根来寺が不仲だった事による。
 (『大日本史料』延徳2年7月12日) )
つまり、無闇な領土拡大を望む覇権主義ではなかった
それがまた、好きなところです。

(※それ故、紀伊国はこれ以降
 どんな時も、政長方畠山の味方であり続けます。
 特に、『明応の政変』後の15年の間
 一時はすべてを失いかけた畠山尚順(政長嫡男)を
 一貫して援護し続けた粉川衆根来衆仁義郷土愛
 "室町美談" の随一です。
 紀伊はまさに、政長方畠山の帰る場所。

  「…まだ僕には、帰れる所があるんだ。
   こんなに嬉しい事は無い――― 」

 おっと、またガンダムが始まった。
 でもホント、畠山尚順の15年は涙ですよ。(´;ω;`)ブワッ
 お楽しみにw )



一方、本当の河内守護・政長
『応仁の乱』後、再び管領に就任し
しばらくは京都で、幕府の仕事に追われる日々を過ごします。
だから…
河内奪還が遅々として進まないw(´;ω;`)
紀伊越中の2か国は無事に治めていたものの
乱後しばらくは、実は山城守護でもあって
経済的にきゅうきゅうになりつつあった幕府財政の為に
同国の「幕府御料国化」を進めようとしていたのですが
これまた不運にも南山城
ある日を堺に、激しく義就化してしまい
政長では、両畠山のバトル勃発で埒が明かなくなり
やがて、業を煮やした某きのこる先生の策略で…あ、あんな事に!!



ところで
『応仁の乱』では決着が付かなかった義就政長の、その後の関係ですが
基本的に、公方義政の意向は「義就治罰」
政長を擁護し続けました。
(※ただし、この背景には多分に伊勢貞宗の計略があったと思われる。)
しかし、義就が河内及び周辺地域を
 「わりと平穏にw統治している」
という厳然たる事実の前では
そうそう幕府といえども、優勢を得ること叶わず
やがて伊勢貞宗
山城国人や、義就の赦免を強く望む越智古市(=義就方大和国人)と関係を結ぶ事によって
"戦略的妥協策" へと、路線を変更して行きます。


(※ちなみに、文明17年(1485)の「山城国一揆」
 民衆(山城国人)が幕府権力を廃し、自治権を獲得した…
 という従来の説は誤解で
 実際は
 山城国の「幕府御料国化」を実現させるために
 国人一揆という建前で、両畠山を撤退させた

 張良・伊勢貞宗の策です。
 詳しくは
 【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】
 …の、第二章をどうぞ。

 そもそも、山城守護に関しては
 以前から、伊勢貞宗の主導で話が進められて来たのだし
  (『大日本史料』文明13年7月10日、文明15年正月是月)
 結局、この翌年には
 伊勢貞陸(貞宗嫡男)が守護に就任しているのです。
  (つまり、幕府権力排除どころか
   黒幕は "もろ幕府の策士" だった、ってゆう)
 伊勢貞宗は極力証拠を残さない策士ですが
 これは、和泉国の堺南荘の一件と酷似しているので
 その関与は、疑いの余地が無いと思います。
  (『大日本史料』長享元年10月3日) )



さて、一方政長
文明14年(1482)に本格的に河内に出陣し
ややゴタゴタがあったものの
この年の8月の終わり頃
橘嶋正覚寺(誉田城の少し北)への進軍に成功してからは
そこに在陣して、義就と対峙を続けます。
(※この正覚寺とは、"橘嶋正覚寺" という地域or都市名でもあり
 "正覚寺城" という城名でもある。)

ただし、基本膠着状態
以後はあまり戦闘行為には及んでいなかった模様。
和泉や北河内、山城など
離れた所では、局所的にやや派手な衝突はしていたのですが
当の本人たちは、一番近くで…何してたんだろ。
かなり疑問。
しかも、この正覚寺については
もっとどえらい謎がある。
「うん?んん?」と、かしげた首が
360度ぐるんと回って戻って来るくらいの謎。
お前らは、本当に対陣…して… んん?んあ?


まあ、いずれにしても
政長は、どうしても自分の代で
この問題に決着をつけたかったのだろうな、と思います
"ある理由" から。

しかし、『応仁の乱』終結から13年が過ぎた
延徳2年(1490)12月12日
その "答え" を置き去りして
義就は、病により他界。 享年、数え54歳
人生の半分以上、30年間
実の従兄弟、かつ義理の兄弟政長との
"長い戦の物語" として綴った一生でした。



そして、この2年と2か月後
大乱終結以来15年、未解決だったこの問題に
遂に終わりを告げるべく
時の将軍、足利義材(義視嫡男)率いる "諸大名連合" の幕府軍として
政長は、義就方畠山(当主は義就次男畠山基家)の居城
河内の誉田城を目指して出陣します。
(※ただし、当初は話し合いによる和睦を想定していた)

しかし、その2か月半後
公方の留守を狙い
京都で、御台細川家、そして伊勢貞宗による新将軍擁立クーデター
『明応の政変』が起こり
畠山基家と密かに通じていたクーデター政権によって
足利義材は将軍の座を追われ
そして―――
政長はその翌月、出陣先の正覚寺で自害し、果てるのです。
義就に遅れる事、2年半
またも闇の中に取り残された "答え"
以後、彼らの子供世代、すなわち「明応世代」に受け継がれ
ここから再び、朝を探す戦いが始まるのです。





さて、ちょっとしんみりしてしまった所で、最後に一言。
上で述べたように
乱後の義政は、(もとからやや厭世傾向があったとは言え)
すっかり政道に意欲を無くしますが
(※ただし、完全に退いた訳ではない)
その理由は
 「大名たちが公方の下知(命令)に従わなくなった」から
という事でした。
(…と言っても、実際はみんなそこそこ素直に聞いてたと思うけどw)

まあでも
幕府は何かしら "建て直し" を迫られる状態だったのは事実で
そんな幕府救世主
政所策士・きのこる伊勢貞宗先生だった訳です。

(※伊勢貞宗の活動は、表面的には見えづらいので
 これまでスルーされて来たようですが
 この時期の幕府の実態は、貞宗抜きには解明出来ません。
 まあ、至る所で石づき…じゃなかったしっぽ出しているので
 今後、貞宗研究が進む事を期待しています。)


とは言え、そんな幕府のしわ寄せはもちろん…
政長にw
(※例えば、公方関連の仏事料を、みんな納めないもんだから
 政長が一人で負担したり。(´;ω;`)ウウ…
 (『大日本史料』文明17年8月8日))

というか、政長が怒らないのを良い事に
伊勢貞宗は、強引な策略取り過ぎだろww とか思う。
まあ、問題山積でイライラしてただろうその気持ちは分かるが
山城の事とか、両畠山和睦未遂事件とか
和泉国の堺南荘(※当時、政長の管轄下だった)とか
先に相談してやりゃいいのに、いっつも事後承諾で
お人好し政長は振り回されてばかり、ってゆう。
ただ、これらの事案を鑑みると
『明応の政変』でも、伊勢貞宗政長
暗に "何か" を期待していたんじゃ無いかな…
というのが私の推測です。

まあでも、政長死んじゃうんだけどね。(´;ω;`)ブワッ
しかも、それでも最後まで
貞宗の事は友達だと思ってたっぽいんだけどね。(´;ω;`)ブワワッ




とにかく
義就政長の家督問題については、ホント
公方義政近臣が、メチャメチャな事繰り返したせいだと思う。
2人とも、公方には健気なくらい敬意を持っていたのに
公方の気まぐれで何度も裏切って
不誠実極まりない!
ちなみに、この文明18年(1486)の両畠山和睦未遂事件では
また政長は、泣きを見るw
事前に相談もなく、不意打ちで「義就赦免」ですよ?
これは、どう考えても
『上御霊社の戦い』がフラッシュバックしたはず。
(あの時の義政は酷かった、うん。)

これも、シナリオ書いたのは伊勢貞宗だけど
言い出したのは―――
ボンボン義尚てめぇーーー!!
室町は終わって欲しくないけど
おめーらは一度天誅を食らえ!
…って、めったな事言っちゃいけませんw
何より、義就政長自身が
そんな事これっぽっちも願っていませんからね。
決して公方の不幸を望まないのが、室町の武士なのです。
だから余計、泣かせる。

(※義就は、こう見えて実は
 義就の方から幕府に反旗を翻した、と言えるような事例はなくて
 赦免とあれば、いつでも応える準備があったのです。)



まあ、義就政長も、色々と誤解されていますが
私は、運命に翻弄されながらも
武士としての道を守り
最後まで挫けもせず、堂々と生きた彼らの一生を
出来るだけあざやかに描き直し
その魅力を伝えられたらと思っています。



posted by 本サイト管理人 at 02:52| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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