2014年07月09日

畠山義就(その4)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その3)」
畠山政長の「かわいそす物語(´;ω;`)ブワッ」で
終始、泣いて終わってしまったので
今度こそ、戦々慄々とした話をしたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就


…ややモフモフですが
『応仁の乱』の11年は、彼らにとって
夢の中のモフモフみたいなものだったそうです。
ちなみに、義就と差しで酒が飲める数少ない貴重な友達
本サイト『2-10』最後の元絵で、ご確認下さい。


あと、ついでに天野酒について説明しておきますと
河内国の名酒「天野」
室町幕府の武家故実によると
畠山家が年に3回、二月、七月、十二月の朔日(1日)に
5樽を進上する慣わしになってた、という
由緒正しき伝統の日本酒です。(しかも、今も健在です)
ちなみに
「河内がバトルで取り込み中の時は、京都の柳酒で代用」
とかいう決まりまである。
このお酒は、朔日の出仕で幕府に参上した人々に振舞われ
「管領以下、事のほか沈酔して退出」する
ここまでが武家故実です。 彼らは何しに来てたのか。
(※以上、群書類従22『公方様正月御事始之記』)



さて、前回までの解説で
『応仁の乱』後の世界のイメージが、なんとなく掴めて来たかと思いますが
いきなり「戦国」に突入…なんて事では当然なくて
引き続き彼らは
公方大名とで構成される「幕府」という秩序のもとに
生きていたのです。
…まあ、その中身は、色々と変更が加えられた訳ですが。


乱後の幕政については、追々どっかで語るかも知れませんが
取り敢えずは
 【鳥居和之『応仁・文明の乱後の室町幕府』
  (久留島典子編『展望日本歴史11』(東京堂出版)2006)】
を読めば、だいたい宜しいかと。
いかに、これまでの一般的な歴史認識
現実と乖離していたかが分かると思います。


そもそも、京都というのは
当時の政治経済文化の中心、主上が御座する
日本の最大都市ですから
『応仁の乱』後、荒廃したままだった…
なんて事は有り得ない訳で
ちょくちょく洛中で大きな火災が起きている事からも
家々の再建、人々の往来の回復は進んでいたのです。
ただ、乱前までの京都の繁栄寺社の規模は相当なものなので
それに比較すると、「ありし日の京都」とはかけ離れてしまったのは事実です。
しかし、それでも京都天下の中心であり続けました。
"つい最近" まで、この国の都が京都であった事は
改めて考えてみる必要があると思います。


さて、大名同士の関係はというと
東西分裂が解消されれば、彼らはまた、以前のように "同僚" に戻ります。
室町武士てのは、こう見えて基本「和」を好む生き物で
何事も無ければ泰平を一番に望むのです。
(※これは、『応仁の乱』や『明応の政変』(+その後)での
 大名たちの言動から見えてくる事実です。)
ただし、いざ戦うとなれば
とんでもなく勇敢ハチャメチャメチャ強い
というだけであって。


ところで、『応仁の乱』の終結
最終的に西軍が解散した文明9年(1477)11月11日ですが
西軍諸侯は、正確には
義政からの赦免(または東軍帰参)を以て
各々、正式に「幕府の一員に復帰」となります。

大半は、"終結後" に改めて赦免を受けたのですが
"終結前" に東軍へ帰参した例では
例えば…
越前の朝倉孝景
文明3年(1471)5月21日、越前守護職委任の義政の御内書
石見の益田貞兼
文明4年(1472)11月13日、所領安堵の義政の御教書
が、それに当たります。
(※ただし、彼らが西軍と関係を切っていなかったのは
 既に述べた通りです。
 それから、朝倉 "越前守護職" については
 少し詳細な説明が必要ですが、まあ、いずれまた。)


それから、山名政豊
文明6年(1474)4月の「細川との和睦 & 東軍帰参」ですが
これは、西軍との関係を清算した上でのもので
その後、洛中で明確にとして戦闘しています。
(※『大日本史料』文明6年7月7日、26日、8月1日など)
まあ、山名宗全亡き後、山名家の存続を考えたら
西軍より、細川との旧縁を取るのは仕方無いかな、とは思うけど
西軍の筆頭山名家が…と思うと、ちょっと切ない。


そして、大内政弘
乱終結ひと月前の10月3日(義就河内下向の11日後)
従四位下、左京大夫に叙任された上
周防、長門、豊前、筑前の4か国守護職と、石見・安芸の所領を安堵される
という、ペナルティ0どころか超VIP待遇を受け
帰国途中には、義政から
 「帰路、順調みたいね、うんうん。
  これからも京都西国の為によろしく頼むね、うんうん。」

という、嬉しそうな御内書を下されていて
どっからどう見ても、敵でも敗軍でもありませんw
まあ、大内家ほど
朝廷にとっても幕府にとっても天下にとっても
めっちゃ役立つ最強な武家は、そういないからな。

ただし、これは乱終結 "以前" の事ですから
形式的には「東軍への帰参」となるので
一見、西軍からの離脱(そして、西軍公方義視への反意)
と受け取った者も、少なくない様ですが
しかし、尋尊にはしっかり

 「今出川殿(=義視)、土岐成頼、大内政弘、畠山義就、畠山義統
  こやつらは、相変わらず一味同心してるらしい」


との情報が漏れていた、ってゆうw
(※以上、『大日本史料』文明9年10月3日、11月11日)



ただ、西軍の同盟が乱後も変わらなかったと言っても
それは決して
 「あわよくば、またを蒸し返して天下転覆しめしめ…」
などと、せこい欲心を抱いていたのではなく
基本的に泰平、無為を好み、「礼節」を弁えた彼らは
幕府に(概ねw)従順、協力的です。
ただ、11年同じ時間を過ごし
すっかり仲良くなった彼らの友情がその後も続き、事ある毎に助け合った
というだけの意味です。

彼らは単なる "寄せ集め" ではなく
同じ「本意」を共有し、共に戦い続けた仲間ですから
その繋がりが、そう簡単に終わるようなものではない事は
想像に難くないと思います。
(※特に大内政弘は、22歳から32歳という
 人生で最も熱い時期を、西軍に捧げているw)

ただし、もし天下の正義が侵される事があれば
彼らは再び共に立ち上がるでしょう。
そしてその日は、15年後
『明応の政変』という形で訪れる事になるのです。



さて、一方 "乱後" 赦免組み
乱終結翌年の文明10年(1478)
 2月27日の六角高頼
 7月10日の、義視、土岐成頼、持是院妙椿
 9月1日の畠山義統
 10月22日の京極高清

が主なところです。

ちなみに、六角高頼については
なんか、独断専行の抜け駆けっぽい行為だったらしいw
(『大日本史料』文明10年2月27日)
六角高頼は、あれだけ助けてもらった美濃斎藤家への裏切りといい
都合が悪くなるとすぐ、旧西軍諸侯に擦り寄る日和見さといい
本当に訳が分からん。
まあ、旧西軍大名たちは気の良い奴ばかりだから
それでも、見逃されていたかも知れないけれど―――
ボンボン義尚さんは甘くないで。
近江に幕府丸ごと移動する非常識さでとっ込んで来るで。 そのうちなw


それから、美濃衆の義視、土岐、妙椿の赦免は
以前から、妙椿、それから伊勢貞宗が計画を進めていた
 大々的な「義政と義視の和睦パーティー」
といった様相のものでした。
(※義政義視は、既に内々の和睦は済んでいます。)
7月10日に、義政から赦免の御内書が下され
義視、土岐、妙椿の使者(名代)が、それぞれ御礼の進物を持って参上
8月23日に、殿中で一献と御対面があり
名実共に、目出度く東西は一つになりました。


ちなみに、この時の義視の名代は、伊勢貞藤の息子の伊勢貞職
そして、使者50人の京都の宿の準備なども含め
全面的にサポートしたのは伊勢貞宗
(だから当然、両伊勢家連携があったと思われる。)
ついでに言うと
上記の大内政弘の東軍帰参、官位叙任の斡旋も伊勢貞宗
以後、旧西軍諸侯
幕府・公方との関係において、伊勢貞宗にお世話になりまくります。 
越前の朝倉なんて、貴殿様とか呼び始めるほど
伊勢貞宗は、京都に居ながらにして彼らを手なずけ…
ではなくて、父貞親の「遺訓」を固く守り
すっかり社交的に成長したのです。
(※少年伊勢貞宗の超絶人見知り&ひきこもり属性については
 当ブログ「伊勢貞宗」をどうぞ。)

(※ちなみに、貞宗は旧東軍大名との関係も良好で
 若狭守護の武田国信とは、特に親しかったようですが
 個人的な付き合いが目立つのは、その被官たちです。
 赤松被官の浦上とか、細川被官の上原とかはかなり要チェック
 やつらは、屋形(主君)より伊勢貞宗の指示で動いてたくさいw マジで。)


そのほか、文明13年(1481)5〜6月頃
大内政弘の重臣、陶弘護
伊勢神宮への参拝のため、こっそり上洛した際は
家宰の蜷川親元を遣わせて乾杯贈り物を贈答し合った
という、見違える人付き合いの良さw
この、伊勢貞宗天下の潤滑油的立場
清濁併せ呑んで、すべてを味方に取り込んでしまう手腕は
重要ポイントなのでよく覚えて置いて下さい。
(そして、彼らを繋ぎ留める事は
 形を変えつつあった幕府の "存続" の為であり
 延(ひ)いては公方の為であった、という事も。)



実は『明応の政変』において、伊勢貞宗は一見
人が変わったような、かなりヘビーな個人プレーに出ます。
バランスを保っていた天下をぶち壊し
これまで築いた信頼を、かなぐり捨てるような。
しかし、伊勢貞宗本来の行動原理を知っていれば
これは、富や権力に目が眩んだ浅はかな愚行…なのではなく
もっと別の理由があったのでは無いか、との可能性に気付くのです。

(※伊勢家にとっての公方とは?」を探るには
 群書類従の「伊勢関連故実書」を数種類、読んでみるのが一番の近道です。
 百聞は一見にしかず!
 彼らは、足利将軍家に仕える家であることに高い誇りを抱いていたのです。
 …決して、形だけのドライな主従ではなく。
 伊勢家が守り伝えた「礼節」
 公方を戴く武家社会の根本、幕府の秩序の根源ですが
 しかし、彼らの本当の宿命とは
 第一に公方を守る事」
 そして公方が帰る場所である京都を、その日まで守り抜く事」
 …たとえ
 どんな手を使ってでも――― (←ここが一番のポイント) )




ところで
実は、能登守護の畠山義統
妙椿たち美濃衆と一緒に、8月に使者を上洛させたのですが
赦免までに一人だけちょっと時間差が出ている…のは、なぜかと言うと
もともと、義政赦免の御内書
土岐成頼妙椿
寺社本所領の返還に応じまーす!」との請文を提出し
その代わりに下されたものだったのですが
畠山義統だけは、その請文が未提出だった為
赦免の御内書が下されていなかったのです。

未提出…といってもこれは
畠山義統が一人でワルだった…とかいう訳では決してなく
美濃に比べて能登が遠方だった為に
 「速やかに上意が伝わらなかっただけ」
という、単なる手違いだったのですが
そのせいで、畠山義統の使者は一人
進物を受け取ってもらえず、待ちぼうけを食らってしまいますw


しかし! ここに
 「改めて御内書を下せば、畠山義統は上意に従うはずだから」
と、間を取り持ってくれた人がいて
無事、9月1日に御内書が下され、使者は御礼の進物を献上し
一件落着となりました。

この時、畠山義統の誤解解消に一役買ってくれたのは
誰かと言うと―――
旧東軍で現管領の畠山政長です。
ずっと義就に味方し続けていた畠山義統を、ですよ。
政長公平さ気立ての良さは、本当に素晴らしい!!

(※他にも、『親元日記』文明15年6月27日で
 畠山義統から義政への進物の取次ぎを引き受けていたり。
 旧西軍大名の取次ぎは基本、伊勢貞宗なのだが
 やつはたまにドS政策を取るのでw
 (※ドS政策については→当ブログ「畠山政長と伊勢貞宗」
  それから『大日本史料』文明11年5月是月) )

足利直義畠山政長のエピソードは
なんか、調べてるこっちが恥ずかしくなってくるほど
本当にきよきよ侍で困ります。

(※以上、『大日本史料』文明10年7月10日)



あと、ちょと分かり難いのが一色義直
文明6年(1474)5月7日
山名政豊と同時期に、子の一色義春(当時9歳)が義政に謁見し
一応、東軍に帰参、という事になったようですが
これはどうやら、旧領回復の為の戦略でもあったようで
京都では東方として、義政から三河国の「御判」を得て
在地では西方として、細川成之の被官(東軍)と戦っていた、とか。
ただし、乱後の一色
"在国 & 城下町繁栄路線" の旧西軍大名とは違い
"基本在京" の旧東軍大名的性格の方が強いので…うーん、何とも。


まあしかし
義政の、ほいほい許す全方位慈悲成敗はひどいですよw
三河国の他に、一色の旧領の丹後国・伊勢国も認めちゃうから
その頃、丹後に進攻していた隣国若狭の武田と丹波の細川
寝耳に水の「え、ちょっ!そりゃないよ」状態で
三河の件もあって、東軍内で内輪揉めが勃発。
そして、東方だった伊勢国司の北畠政郷(伊勢に在国)は
この「一事両様」の成敗に激おこして
 「よろしい、ならば…西軍化だ!」
と、乱終結年に、まさかの滑り込み大転回ww
終いにゃ、北畠政郷畠山義就親子分になるほど意気投合し
乱後はすっかり
西軍ネットワークの一員として活動していた、ってゆう。
(※以上、『大日本史料』文明6年5月7日
 文明8年9月12日、文明9年5月18日、9月24日とか)

義政は「大名たちが言う事聞かない!」
と嘆いていたけれど
まあ、その天性の政道センスの無さにも問題があったと。




あと、最後に
禁断(?)の斯波義廉についてですが…
背景の詳細を端折(はしょ)って、無責任に結論だけ言い放ちますと
文明15年(1483)4月
越前を治める朝倉の、主君(=屋形)である事が認められました。
……。
な、なんだってーー!!?

しかし、これはもちろん
斯波家の家督を認められた、という意味ではなく
(※斯波家督は、旧東軍の義敏系斯波
幕府に復帰したのでもありません。
(※義政の御内書の御礼は、朝倉だけが進上している)
極めて内々の赦免だったようですが
義廉は、朝倉の主君 "渋川義廉" として越前に在国
遂に安住の地を得たのです。

(※参照…『大日本史料』文明15年3月19日とか、『朝倉家記』とか)
(※それから義廉の復習は…当ブログ「斯波義廉」
 「(続き)」 「(続きの続き)」をどうぞ。)


ちなみにこれを
 「朝倉が、傀儡主君として義廉を立てた」
とする考え方がありますが、そうではありません。
もしそうだとしたら、秩序を守る立場の幕府
 「元被官の朝倉が、元斯波家家督(しかも足利一門で御一家)を
  傀儡にする企てに賛同した」
という、余りにおかしな話になってしまうからです。
そもそも、東軍となった朝倉
 「旧西軍の義廉を推戴させて下さい!」
なんて、かなり言い出し難いお願いですよ、普通に考えて。
そんな無理な願いが通ったのも
この頃の朝倉が、地道に謙虚に
守護としての役目を果たしていたから、だと言えますが
(※参照…『親元日記』とか色々)
それだけではなく、実は
義廉その子息が越前に迎えられたのは、この約1年半前の事なのですが
それには、美濃の斎藤利国(妙椿跡継ぎ)の協力があったのです。
(『大乗院寺社雑事記』文明13年10月6日、11月4日)


これがもし
義廉を "単なる傀儡" として利用する朝倉の企みだったのなら
西軍ネットワークの中心的存在の斎藤利国
旧西軍仲間義廉への不義を、許すはずはないでしょう。
つまりこれは、義廉の為でも、朝倉の為でもある
「西軍の総意」だったのであり
しかも、ただ匿うだけではなく
内々とは言え、義政からの承認を獲得したのは
むしろ、「旧恩への報い」と言ってもいいと思います。

(※ちなみに、フェイドアウター渋川である義廉自身は
 幕政に復帰する意志も、斯波家督への執着も
 あんま無かったと思うw 尾張に居た頃から。)



なんか、中世の主従って
ふた言目には「傀儡」で済まされる傾向があるけれど
個々の事情を勘案せず
何でもかんでも「傀儡」と言って片付けてしまうのは
考察の放棄でしかないと思います。


(※ところで、この "義廉認証" の一件は、実は
 この当時、義敏嫡男の斯波義良(のちの義寛)と甲斐
 乱後も "越前奪還" に執念を燃やして
 同国へを挑み続けていたのですが
 彼らと朝倉との、「和睦」の一環だったのです。
 従って、義政の御内書は斯波義良側にも下されていて
 この時は、義政の(珍しくまともな)成敗を受け入れ
 越前を諦めて、尾張に帰国した斯波義良ですが
 しかしなんと
 その後、将軍が「義尚→義材」と変わるたびに
 話を勝手に白紙に戻して、訴訟を繰り返して来るのです。
 一旦承諾した公方の成敗を、一方的に無かった事にして、ですよ。
 風向きが変われば、過去の誓約を破って
 良く事情を知らない新将軍を味方に、自身の利を図ろうとする
 …ってそれはおまえ、あまりに卑怯だろ。
 気持ちは分からなくも無いが、義政の立場はw
  (ってか、『長禄合戦』から『文正の政変』の
   斯波義敏のハチャメチャわがまま放題を考えれば
   "斯波宗家家督&尾張国&遠江国" を獲得しただけでも
   奇跡の棚ボタだってのにw)
 まあ、これらの一連には全て
 事情を良く知る伊勢貞宗が一枚噛んでいた(←ここ重要ポイント!)
 という事と
 朝倉は、立場は弱いが味方が非常に多かったので
 簡単には、斯波義寛側の主張は通らなかったのですが
  (※実は、朝倉の東軍化は、単なる義政の気まぐれではなく
   伊勢・細川・赤松など
   東の主要メンバーの多くが関わっていた)

 …しかし、『明応の政変』で斯波義寛
 そんな恩をかけてくれた将軍義材をあっさり見捨て
 またまた新将軍に取り入った為に…やがて遠江国まで失う事に。
 因果って容赦ないよね。 (´・ω・`)… )


まあ、色々と疑問は残ると思いますがw
この辺の真相は、追々語っていく予定です。





という訳で以上
乱後の彼らが、どのように日常に戻って行ったかを見てきました。
まあつまり、割と仲良くやってたんだよ!w
この辺りは『大日本史料』が刊行済みなので
でもHPのデータベースでも、ぱらぱら目を通して見れば
 「あれ、まだ余裕で幕府続いてるじゃん」
と、納得されると思います。

旧西軍諸侯は、義政にも義尚に対しても
素直に公方として敬意を持っていたし
義政義尚にとって大名たちは
旧東・旧西関係なく、みな等しく部下であり
彼らは、怨みを引きずってなどいなかったのです。
(※まあ、尋尊
 ちょっとでも雲行きが怪しそうな噂を聞くとすぐ
 「ああ!また天下分裂か!!」と毎回絶望してはいるがw)

まあつまり、大名たちにとってはやはり
"俺らの公方" であり、"俺らの幕府" であり
それが彼らの日の本なのです。
そしてもちろん、主上にとっても。


これは、非常に見落とされている点ですが…
武家政権の本質というのは、天下の「公」ですから
私的な「幕府乗っ取り、公方追い出し」と言った行為は
社会の利益を損なう反道徳的・非人道的な行為となります。
現代から、過去の事件を "歴史" として眺めていると
善悪の意識を感じる事は少ないと思いますが
当時の人々も何も感じなかった…なんて事はもちろん有り得ず
秩序の破壊や、私的で身勝手な天下の翻弄というのは
極めて受け入れ難い悲惨な出来事で
それゆえ、「道義」「礼節」を弁えた武士ならば、望む所では無いのです。
まあ、天下への良識があれば
疑問憤りを感じるのは、自然な事だと思います。

そしてそれは、武家に限った話ではなく…
主上と公家(つまり朝廷)は
武家 "私的なゴタゴタ" には介入を拒みますが
(当然ですね。奴等のヒャッハーには付き合ってはいけないw)
しかし、それがもし
"天下の安寧" を害するものだった場合は―――


『明応の政変』
今上天皇後土御門帝は、どの様に受け止められたと思いますか?
これは、単なる叡慮の推量…ではなく
『明応の政変』の核心に迫る超重要ポイントです。
いずれ、史料的証拠を以て、解説する予定です。



ところで
長い間、"つい最近" まで
この国の「公」であり続けた武家社会
その「秩序」ごと、ある日消えて無くなりました。
それは、単なる時代の変遷だったのか
それとも―――
もしかしてこの国は
伝統文化のような、この国をこの国たらしめる
失ってはならない "根幹" を失って
今、"何か" が欠けている状態なのか…


この命題は、ちょっと壮大なので今は保留して置きますが
武家とは、単なる "封建時代の身分" だったのではなく
日本独自の "条理" の一端であった、と言う事は
本サイト『2-4』真ん中より少し上「武家政治について」で
ざっと述べた通りです。
もしあの時、人為的に国を作り変え "過ぎて" しまったが為に
今、アイデンティティーを失った状態なのだとしたら
この国の "真相" というのは
それ以前の歴史に探すしかありません。





さて、今回ここまで義就の話まるで無し!
お詫びに、心優しいその友達の話をして終わりたいと思います。

『応仁の乱』半ば、文明4年(1472)9月23日の宵
周防国から、京都に訪れる者がありました。
 「尋来当大内而上洛」(『大乗院寺社雑事記』)
大乱初年に上洛して以来
5年経っても未だ帰らぬ主人、大内政弘を尋ねて
一人、遠路遙々やって来たのは…

     水牛!! (もー)

なんか、人に連れられずに、牛単体が歩いて来たらしいww
って、なんだよそれ!!
尋尊
 「所存如人倫云々」(なにそれww人みたいwwww)
とか言ってますが
この水牛は、単なる牛ではなく
政弘父の大内教弘が、唐土(大陸)から取り寄せた2匹の内の1匹で
頭から尾までは3m15cm、角の長さは85cm、その幅は15cm
という
当時の日本では大変珍しく、そして立派な水牛でした。
何しろ、「牛車」(ぎっしゃ)は当時の最高級の乗り物でしたから
こんな立派な水牛は、人々の羨望の的、大いに注目を集めました。


しかしまあ、ご主人様の帰国が待ちきれず
会いに来ちゃったんですかね。

 「すぐ帰るって言ったのに…」

と、東の空を遠く見つめるも太郎
 (※大内も太郎…私が勝手につけた名前)

 「そうだ、会いに行こう。(・д・) 」

周防山口に別れを告げ、長い旅路に出る決意をしたも太郎であった。

泣ける!!
一見、ドナドナのようですがしかし
牛の方から来た訳ですから、これは―――逆ドナです!!
大内さん優しいから、きっと泣いちゃったと思う。

大内政弘

 (※以上、『大日本史料』文明4年雑載)


ああしかし
ドナドナを超える感動の牛物語
500年以上前の日本に、存在していたなんて!!
『応仁の乱』は、一体いくつの奇蹟を内に秘めているのでしょうか。
これは満場一致で、日本史上の「七大珍歴史」に認定でいいですね。
いやもう、映画化決定
ハリウッドがアップ始めるレベル
映画『逆ドナ』―――そして全米が泣いた。


(※ちなみに、ちょっと冷静に考えて
 もともと、大内政弘が京都に運ぶよう指示したのだが
 港で荷降ろし最中に逃げてしまい、単体で上洛

 とも思ったが、こんな稀少牛逃がしたとなったら
 家臣は血眼で捜索に当たるはずだし
 普通、人里離れた草むらを目指すだろうに…なぜか上洛
 大内政弘の居場所を知っていたのか?
 だいたい、なんで途中で誘拐されずに無事入洛してるんだよ!
 当時の治安、どうなってんだよ!
 まるで謎。)


ところで、このも太郎
5年後の大乱終結に当たり、主人大内政弘と共に周防に帰国…したのではなく
朝廷に献上されたのです。
(※公方に進上、との記録もあるが
 どうやら幕府経由で主上に献上されたらしい。
 以下、『大日本史料』文明9年11月11日)

確かに、大陸から取り寄せた水牛なんていったら
超超高級牛ですから、一目見ようと諸人が市を成し
廷臣ワクテカ炸裂するのは分かりますが
しかし、最後の西軍(大内・義視・土岐・畠山義統)が京都から去り
遂に、11年の大乱が幕を閉じる
という記念すべき瞬間だと言うのに
なんか

 「大内たちがいなくなるーーー!!」
 「大内の水牛が来るぅぅーーーーー!!!」

みたいな感じなんですよ、みんな。
おい、それでいいのか?
主要大名オールスターで戦い続けた『応仁の乱』
みたいに歩いてきたに、話題かっさらわれて終わるとは…
これがホントの
 『もー人(にん)の乱』
なんつってw

…って、ふざけんな! 俺たちの11年を返せ!!


わきかねつ 心にもあらで 十とせあまり ありしは うつつ

 (あー俺的にどうなんだろ、とか思ってたら
  いつの間にか10年以上経ってたwww 夢見てたくさい…)


これが、『応仁の乱』の本質を最も的確に詠い上げた
西軍筆頭大名、大内政弘の一首です。 (『拾塵和歌集』より)
詞書によると
この頃「心ならぬさまにて都に」いた、という大内政弘
どうやら、こんなに長居するとは思ってもいなかったらしい。
つまり彼らは…
夢の中のモフモフに騙されていただけなんだよ!!



という訳で
「応仁」に始まり「もー人」に終わった11年でした。
それにしても、大内政弘はホント、気持ちいいくらい気前が良いですね。
も太郎も、大出世です。
ご主人様に会いたい一心で逆ドナしたら
まさか、朝廷VIPドナされる事になるとは。
 (※VIP(びぷ)ドナ…VIP待遇のドナドナ)
文明9年(1477)11月17日
後土御門天皇叡覧に供せられるも太郎であった。

ご主人様は周防に帰っちゃうけど
新しいご主人様は、日の本の天子様だ。 頑張るんだぞ。

 短い…間だったけど…
  ご主人…様と、一緒、に、過ごせ、て…楽しかった…です
  いつ…までも、お元気、で――― (・д・) 」


号ーーー泣うぅぅーーーーー!!!
ああもう、前が見えなくなってきた。
オペラ『VIP(びぷ)ドナ』
バレエ『も太郎の湖』
全世界が泣いた!!



てゆうかも太郎メスだったらごめん。



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