2014年07月16日

畠山義就(その5)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その4)」
に話題かっさらわれて終わってしまったので
今度こそ、の話をしたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就
(2015.5.29リメイク)


なんか、本人どん引きしていますが
このうっとうしい薔薇は、一体…?



さて、今回は冒頭からガンガン義就の話で攻めて行きます。
まずは、「諱」(いみな)から!

義就というは、「よしなり」と読むのですが
しかし、「よしひろ」という読みが併記されている事もあります。
ってか、最近は「よしひろ」説のが優勢か?
しかし、自称義就マニアの私が、ここで決着を付けたいと思います。
義就

 「よしなり」です!!

そもそも、「よしひろ」説の出所はというと
『東寺百合文書』
寛正2年(1461)正月23日付け、義政の御内書の写し
(※金剛峯寺(高野山)衆徒に、義就退治への合力を命じたもの)
その本文中の「義就」「就」の部分に
 「ヒロト云々」
という、注意書きが添えられている事に由来します。
しかし、「云々…」という言い方がなんか引っかかる。

東寺は、義就以前から畠山家とは親しい関係があったようですが
その東寺関連の記述と言う事を考えると
これは、むしろ
 「え、今まで「なり」だと思ってたけど「ひろ」だったの??」
みたいな
 「一般的には「ひろ」とは読まれていなかった」
的な印象を受けます。
つまり、その時たまたま耳にした意外な風聞
不確かなまま、とりあえず書き留めただけなのではないかと。


そこで、当時の他の記録を探すと
 『応仁略記』 『応仁私記』 『金言和歌集』(略本)
に、「なり」の記述があるのです。 
(※ちなみに、「ひろ」は他に見たこと無い)

 「河州よりゑもんのすけ よしなり」 (『応仁略記』)
   (※義就の官途は、右衛門佐)
 「惣門のつめにたむろをなしたる畠山義なり (『応仁私記』)
   (※この他に「義なり」×2、「よし就」×2)
 「右衛門佐よしなりが時よりそ…」 (『金言和歌集』(略本))

まあ、写書を繰り返すうちに、後世の人間が仮名書きにしてしまった
という可能性もありますし
これらは、日記ではありませんが
全て、当時をリアルタイムに知る者達が関わっている上に
『応仁略記』畠山家に近しい人物によるものらしい事
『応仁私記』当事者からの証言を書き留めた "聞書" である事
そして何より
三者が「なり」共通している上
上記の東寺の記録以外に、「ひろ」が見当たらない
というのは、偶然とは言い難いので
やはり当時は、「よしなり」と読まれていた可能性が
最も高いと考えられます。
という訳で、義就の読みは

 「よしなり」です!!

ってゆうか、「よしひろ」より「よしなり」の方がかっこいいし…
じゃなかった、これは極めて真面目な考察です!
きっと、賛同してもらえると思います。


ちなみに、義就は初め
元服した義成(のちの義政)から「義」の偏諱を賜り
「義夏」と名乗っていました。
(※父持国が亡くなり、中陰が明けた時「義就」に改名。)
「夏」がつく諱って珍しいし、これもなんかかっこいいw
義就の誕生日は5月13日なので、その関係でしょうか。
(※旧暦では、4〜6月となり
 それぞれ異称が、4月「初夏」5月「仲夏」6月「晩夏」です。)
ちなみに
義就の誕生日は、本来不明とされていますが
義就マニアの私が、5月13日である事に気付いてしまいました。なんと!
後でちゃんと説明します。


(※「義就」の読みについての関連記事です↓
 『バーボンMuromachi』「ふと思い立って畠山義就の話」(2017.3.23))




さて、続きまして義就の母上のお話です。
義就の母については
非常ーーーーに、まかり間違った話が無責任に広まっていますが
あれ、本当の話じゃありませんよ!
あまりに有り得ない出鱈目です!!
ってか、あんなアクロバットな話
どこをどう間違ったら信じられんの!!!
ちょっと考えれば、おかしいのすぐ気付くでしょ!!!!
…って
興奮の余り話がつんのめってしまった。
まあ、義就のWikipediaあたり読んで頂ければ分かりますが
ほぼ見事に出鱈目った誤解です。


結論から言いますと
義就の母は、文明18年(1486)8月時点で80歳
この頃、患っていた病が回復したそうですが(『蔗軒日録』文明18年8月23日)
4年後の延徳2年(1490)8月19日に他界。
晩年は、河内国の西琳寺に住まわれていました。(『大乗院寺社雑事記』延徳2年27日)

つまり、母上は応永14年(1407)生まれで
義就父の畠山持国(応永5年(1398)生まれ)の "9歳年下"
義就は、母 "31歳の時の子"
そして、"享年84歳"
という事になります。


さて、義就母のトンデモ説は
「小笠原家の系図」と、細川関連軍記『二川物語』によるのですが
それによると

 「3人の諸侯になった女性がいて
  彼女は、畠山持国小笠原政康、飛騨国の江間、と
  次々と男性遍歴を重ね
  それぞれの間に生んだ子が
  長男畠山義就、次男小笠原持長、三男江間の子


だそうだが
まず、小笠原持長の父は、小笠原政康ではなくその兄の長将です。
そして小笠原持長は応永3年(1396)生まれです。
どやったら、永享9年(1437)生まれの義就になんの!
ってか、41歳差 "同母の兄弟" なんて有り得ないよ!!
百万歩譲って、長男と次男の順番が逆
この女性が、10代そこそこで小笠原持長を生んだとしても
義就を生んだのは、50代半ばですよ!?
どんな魔女だよ!!
しかも、50代にして
39歳の管領家の惣領、畠山持国を落としてたってことですよ?
どんだけ妖艶なんだよ! ってか、妖怪だよ!!
…いやむしろ、畠山持国はどんだけ熟女好みなんだよ!
悟り開けるレベルだろ、それ。
さらに、義就母は延徳2年(1490)に他界したんだから…
100歳超えって事になるじゃん!! 
まさに、スーパー☆熟魔妖女!!
そりゃ、持国も落ちてしまうわな。…じゃなかった
んなヤツ居る訳ねえぇぇーーー!!!


実は、この空説は
 「義就小笠原持長が "同母の兄弟" だったから
  その縁で、時の管領畠山持国
  家督問題で小笠原持長を "支持した"」

と説明する為のものだったのです。

このように
ある人物の行動や、事の成り行きを説明するとき
架空の血縁や婚姻で理由付けて"扶持・同盟関係" があったから」
とする "創作" がたまにあるので
特に、「軍記物」の記述には十分慎重になって下さい。
鵜呑みにせず、まず保留! が肝心です。


確かに、義就の母の出自は不明な点が多く
 「義就は、皮屋の子。乗泉(僧侶)の従兄弟」(『東寺過去帳』)
という説や
家臣の中には「義就は、持国の実子ではない」と
疑っていた者がいたのは事実ですが(『東寺執行日記』享徳3年4月3日)
既に述べたように
当主の母というのは、家中での地位がとても高いので
たとえ、初めの身分が低くても
惣領義就の母である以上、大切に扱われ
ずっと下働きのままとか、妾扱いだとか言う事は
当時の常識では、まず有り得ないのです。



という訳で以上、義就の母上について巷の誤解を解いてみました。
まあでも、義就は、しっかり持国の血を引いていると思うよ。
どう見てもw


…というのも、義就の一般的イメージって、たぶん
 「生涯、戦い続けた男」とか
 「幕府に反抗し続けた男」とか
なんか、反社会的な "はみ出者" と思われている風がありますが
この人は、そんなんじゃないのですよ、実は。

確かに、人生急転直下ハチャメチャ修羅街道まっしぐらで
実は、室町不憫界のラスボスなんじゃね?
とかいう疑惑までありますが(私の中で)
しかし、普通そこまで行ったら
もっと徹底的に落ちぶれるか、激しく零落してしまうだろうに
義就というのは―――
どこまでいっても、あくまで "源氏の御曹司" なのです。
に見放されても、が見捨てておかない。 没落中も「王子」
だから、話が面白くなるww
つまり、義就の一生とは…
その本質について
今ここで "驚くべき真相" を明らかにしますので、心の準備を。
義就の一生とは…
単なる「波乱万丈なアウトロー武士の一生」などではなく

 「貴種流離譚」(きしゅ りゅうりたん)だったのです!!

な、なんだってーーー!! 
ってゆーか、ズコー


ちなみに、「貴種流離譚」とは
民俗学上の物語の類型の一つで

 「本来なら、高い地位に就くべき貴い血筋に生まれた英雄
  何らかの宿命か、謂われ無き罪により
  故郷を追放されて流浪するが
  どんな不遇にもめげず、旅路の途中で正義を発揮しながら
  様々な苦難を乗り越えて成長していく
  (…そして大抵、最後には何かしら報われる)」


という、悲しいながらも胸のすく "英雄冒険物語" です。
日本史上の「貴種」の意義については
既に、足利家や九州探題渋川家の例を紹介したように
この国の "真相" かつ "深層" に迫る大きなヒントを秘めているので
この手の物語は…しかも創作ではなく史的物語であるなら尚更
超重要研究対象であります。
(…にも拘わらず、これまで軽視され過ぎて来たと思う。)
ついでに、日本の「史的3大貴種流離譚」

 「スサノヲ」 「畠山義就」 「足利義材 & 畠山尚順」

です。(私の中で)
 (※足利義材…義視嫡男。 畠山尚順…政長嫡男。)
みな実は王子
しかも、一般に信じられている悪者説
あれみんな誤解です。 悪者に仕立てられているだけ。(きっぱり)


(※ちなみに、次点の「貴種流離譚」「足利義視」です。
 追剥に遭いつつ身一つ伊勢国に落ち延びたり
 雑人の格好で徒歩で比叡山に逃げ込んだり (´;ω;`)ブワッ
 何度、命の危険にさらされた事か。
 それでも "正義" を貫く義視。 (´;ω;`)ブワワッ
 ただし、本人に自覚が無さそうなので、選外となりました。)

(※2015.4.6追記
 しまった、「足利直冬」を忘れていました! ふ、不覚…
 現在『観応の擾乱』探究中なのですが
 直冬の一生も、相当な "物語" を秘めていそうです。)




だいたい、義就 "反社会分子" として見てしまうと
味方の多さが意味不明なのですよ。
『応仁の乱』後も "戦い続けた" っていっても
河内の奥地に潜伏してゲリラ戦してた…ってんじゃなくて
人が行き交う誉田の城下町に囲まれた「俺の城」
「太守」(=一国の領主)をしてたのですから。
(※季弘大叔の日記『蔗軒日録』で
 義就「太守」とか「府君」(太守の敬称)と呼ばれているw)

さらに、その守備範囲は
町人で栄える大和南山城と、相当に広く
家臣大和国人いっぱい呼んで「猿楽」興行したり
大和で父子3人「鷹狩」(たかがり)したり
和泉の堺で「勧進猿楽」催したり(※勧進…チャリティー)
…と
どう見ても楽しそうなのである。
(『大日本史料』文明12年8月2日、9月10日、文明13年2月25日)


(※ちなみに、「鷹狩」とは
 飼い馴らした(その他猛禽類)を放って獲物を捕える狩りで
 アジア大陸に起源を持ち
 平安時代は、天皇貴族の間でも盛んだったようだが
 中世は特に、武士の間で大いに流行り、日本での歴史は長く深い。
 室町一の "鷹好き" はもちろん
 を愛し過ぎて、人工繁殖に成功してしまった朝倉教景(宗滴)
 鷹狩は、武士の嗜み・遊興であると共に
 「地形の把握」という、戦への備えでもあった。)


つまり
尋尊をして「名大将」と言わしめたのは
武士としての素養に加え
人を惹きつけて止まない、天性の王者 "源氏の血" の為せる業
という訳だったのです。
(なんか、厨ニ心をくすぐる設定ですね。)
ただし、本人は修羅っ気を気取りたかった模様。
(※理由…2人の息子の幼名がアホすぎるから。)
しかし、どんなに表面を繕っても
生まれ持った王子属性は隠しきれなかった、ってゆうw




そんな義就の、『応仁の乱』前史については
本サイト『2-6』上から4分の1、真ん中より少し下あたりで軽く説明しましたが
当初、石清水八幡宮の法師(社僧)となるはずだったところを
父持国の意向で、家督を継承すべく12歳元服したのが
文安5年(1448)11月。
(↑記念すべき一転目王子人生スタート☆)
(※年齢は、断りの無い限りすべて数え年です。
 ちなみに、政長は義就の5歳下。)


翌文安6年(1449)4月、義成(のちの義政)15歳の元服の儀に際しては
白直垂に身を包み、椀飯(おうばん)を務める義夏13歳
(※椀飯…大名が、御所で将軍に饗膳を献ずる儀礼的な宴会。
 参照→本サイト『2-8』冒頭)
ちなみに、白直垂
元服などの「一段の御祝い」の際に着る特別な直垂(ひたたれ)で
公方様は「正月は30日間白直垂を召される」という決まりがありました。
白直垂で主君義成に仕える義夏、かっこいいw


しかし、順調に貴公子街道をゆく…かと思いきや
享徳3年(1454)8月、山名宗全細川勝元の悪巧みで
突然の家督剥奪落飾(らくしょく)の上、を追われる事に!!
(↑涙の二転目「第一次グッバイ京都」
(※落飾…貴人が髪を剃り、出家する事)
ただ、これは相当義政も怒ったらしく
12月には山名宗全隠居、義夏復帰と相成ります。

裹髪、つまり裹頭(かとう。布で頭を包んだ状態)で
幕府に出仕を果たす義夏18歳。 嬉し恥ずかし涙目の三転目
ちなみに、帰洛の際は
「騎馬と甲冑兵500〜600」を引き連れていたそうだ。
そして翌享徳4年(1455)、父持国が他界。
名門畠山家の惣領として
「諱」も新たに、一歩を踏みしめる義就19歳


翌康正2年(1456)、義政右大将拝賀では
「大名一騎打」先頭という栄誉を担います。
かつて、義教右大将拝賀で先頭を務めた父持国に続き
堂々と晴れの舞台に立つ義就20歳
(※「大名一騎打」「右大将拝賀」については
 本サイト『2-5』真ん中より少し上、一色義貫の "あの珍騒動" をどうぞ)



しかし、そんな穏やかな日々は、流浪の明日に繋がっていて…。
これもまた、王者源氏ゆえの、血の "定め" だと言うのか。
長禄3年(1459)6月、運命を告げに来た3羽の鳩―――



翌長禄4年(1460)9月
公方義政からの、突然の隠居命令
(※今回の首謀者はおそらく、伊勢貞親細川勝元
弁解の余地もないまま
冷たい都への、それでも断ち切れぬ思いを引きずって
河内国へ落ち行く義就24歳
(↑運命の四転目王子人生オワタ\(^o^)/
 そして義就の "本番" が始まる、「第二次グッバイ京都」
(※ただし、没落時の行粧は、衆人が「称美」するほど
 美しいまでに武装を極めていたと言う。『経覚私要鈔』長禄4年9月26日)


その先は、上記本サイトの通り
河内国の嶽山城で、政長軍と対峙した2年半の篭城戦
寛正4年(1463)4月の嶽山陥落後
大和国の吉野に身を潜めること3年
このまま―――
時の流れの中に、忘れ去られてしまうのか…

しかし、その血を惜しまれた。



前年には、吉野の天川で再始動の気配を見せ始めた義就
文正元年(1466)
忌わしくも愛しい故郷京都を目指して
上洛を開始した30歳、夏の終わり。
(↑奇蹟の五転目、まさかの復活帝王「義就・改」) 
遂に果たした12月の入洛
翌文正2年(=応仁元年)(1467)正月、政長との家督交替
そして、『上御霊社の戦い』へ―――
(※義就復活は本サイト『2-7』『応仁の乱』開始『2-8』をどうぞ)


以後は
応仁元年(1467)
5月の『応仁の乱』本戦開始、6月の西軍賊軍化
義就31歳、怒涛の六転目
おそらく、一番濃い京都時代だったろう『応仁の乱』の11年を過ごし
河内平定を誓って、故郷京都 "最後の別れ" を告げた
文明9年(1477)9月、義就41歳
未だ明けぬ夜空を見た七転目
二度の涙を超えて、「第三次グッバイ京都」は、花道となった。


2年後の文明11年(1479)10月、河内誉田新邸完成
歩き続けた棘(いばら)の道に、いつしか咲き乱れる懐かしの花
思い出す故郷の日々は、苦くもあり、甘くもある。
束の間の休息
そして、その3年後
『応仁の乱』終結以来、5年の空白を経て
政長との戦いが本格的に再燃
文明14年(1482)8月の合戦で、河内誉田の北
"橘嶋正覚寺" という懐に入り込まれた義就46歳、夏が秋を告げる頃。
その人生を締めくくる八転目
政長との再会―――すなわち、"原点" への回帰でした。

そして8年間、"最後の不思議な対陣" が続くのです。




以上、畠山義就的「貴種流離譚」ダイジェストでした!
元服から「第二次グッバイ京都」までの、12年間の京都時代
その後の流離時代とのギャップが良いですね。
本当に、御曹司だったのですよ、ププw いや失礼。
しかし、運命の無情なこと。
確かに、義就上意に違う事をいくつかやらかしましたが
はっきり言って、この頃の山名宗全細川勝元に比べたら
全く以て可愛いもんだと思います。
こんな酷い目に遭う謂われはないのに…

ちなみに、『長禄寛正記』によると―――
長禄4年(1460)9月、身に覚えの無い咎でを追われ
それでも上意に従って、穏便に河内国へ下向する義就
淀の大橋で、御迎えに上がった河内衆と落ち合った後
石清水八幡宮の参道で下馬し
「(八幡)大菩薩を伏し拝み」ます。
それからまた、洞ヶ峠でを顧みて、思わず溢れた本音…

憂かりける 都に何の なさけ有りて 袖引くばかり 残る面影

 (この冷淡な都に、何の情けがあるというのだ。
  分かっているのに…思いが断ち切れない。)

義就おまえ…(´;ω;`)
やっぱりつらいよなぁww
『長禄寛正記』は一応軍記なのですが
かなり正確な記録に基づいた、公的な「年代記」に近い性格のものなので
(おそらく、蔭凉職の季瓊真蘂が執筆に関わっている)
この歌は、たぶん途中まで下向に同行した奉行人あたりが伝えた
義就の本当の歌だと思われます。




さて、どうでしょうか
義就に注目すると
『応仁の乱』もまた違った見え方をして来る事が、分かって頂けたと思います。
畠山家の家督問題が、他の良くある家督争いと違う所は
 「当事者に罪が無い」
と言う事です。
義就政長も、悲しいくらい素直なのですよ。
どう考えてもワルの根源
山名宗全細川勝元伊勢貞親アホ公方のコラボ! もう!もう!
(まあでも、彼らは因果を受けたかな。
 武家のうち『応仁の乱』一番痛い目に遭ったと思う、この4人。)


そしてもう一つ、義就政長の一生で特筆すべき点は…
義就の生涯のライバルとなった政長もまた
"源氏の王子" であり、しかも性格が仏
どこまでも真っ直ぐに生きためっちゃ泣かせる人生
だと言うことw
普通、こういうのってどっちかが悪役じゃないですか。
でも違う。

義就政長を、よくある「骨肉の家督争い」だと思ったとしたら
それは非常に表面的な理解です。
この2人は、野心を基準とした
「覇道アルゴリズム」で理解するのではなく
"弓矢の道" を弁えた武士は
道義天道に基づいた「王道アルゴリズム」で読み解いて初めて
本当の、この国の "深層" を映し出した真実が、姿を現します。
民俗学としての日本の歴史
繊細で儚く、悲しいけど美しい
勝者敗者強者弱者
そんな単純で薄っぺらい「二元論」ではなく
もっと深くに、を秘めている。
室町は、知れば知るほど
切ない情緒に彩られたカタルシスの宝庫なのです。


そして何より
「日記」が最も多く残っている時代だから、実話なんですよ、これ。
「軍記物」ファンタジーじゃない。
なんでこんな素晴らしい時代を、この国は総スルーして来てしまったのか!?
本当もったいないと思う。
「王道」を忘れて「覇道」を崇めてきた結果が
道理情緒が失われ
利益至上主義に堕ちた現在なのだとしたら…余りに情けなく、悔しい。


義就は、幕府の勝手な都合で
「公方の御敵」とか「朝敵」にされ続けましたが
幕府ないし東軍正義、という見方は
から見た場合、必ずしも正しいとは言えません。
表層的な考察では、そうそう真相にたどり着けないのが
『応仁の乱』の厄介なところですが
『大日本史料』に纏められた日記の記述を、丹念に組み合わせれば
真実一点に収束します。
道理に則った、正しく深い洞察力で解く『応仁の乱』
広く知れ渡って欲しいと願います。


(※特に、『応仁の乱』から『明応の政変』(+その後)にかけての時代は
 特定のいち大名を中心に叙述するする風潮があって
 真相が見えなくなっているようです。
 正直、3回くらい解脱(げだつ)してから、ゼロに戻って
 一次史料を読み直す必要があると思う。
 これは、特に戦国期に顕著な傾向ですが
 「覇者」正義を見出して来たこれまでの
 "勝つか負けるか" だけでしかない価値観を改め
 もっと、"天道是か非か" の視点で歴史を分析して欲しい。
 そうすれば、この国の未来はかなり変わると思う。)




という訳で
今回はようやく、義就の話を進めることが出来ました。
どうです
どんなに修羅に生きようと
どこまでも王子属性が抜けない義就「貴種流離譚」
寛正4年(1463)4月の嶽山城陥落で落ちて行った時も
被官人たち一人残らず付き従ったというw
(※西十郎左衛門宛、義就書状
 『大日本史料』延徳2年12月12日)



ちなみに、「王道アルゴリズム」で天から見た場合
正邪の判断が一筋縄ではいかない『応仁の乱』に対して
『明応の政変』は、かなり明確に道義的 "正義と悪" に分かれます。

ただし、現時点での研究では
『明応の政変』は、「覇道アルゴリズム」により
  単純な「権力抗争」
として捉える考察が主流のようで
その為、なかなか核心にたどり着けず
矛盾する日記の記述の多くを、上手く理論付けられていないようです。
見た目の勝者を、「社会的にも認められた正しい勝者」
と勘違いしてしまいがちなのが
「覇道アルゴリズム」の最大の落とし穴ですが
『明応の政変』では、仮初(かりそめ)の勝者「道義的悪」です。

(※これは、現代の主観でも私の個人的妄想でもなく
 史料的裏付けのある、 "当時の価値観" です。
 例えば、尋尊の『大乗院寺社雑事記』は
 「王道アルゴリズム」で世の中を見ているので
 考察の際の指標とすると…色々と捗るぞ、うん。)

しかし、それに気付かず
(道義ではなく弱肉強食で考える)現代的「覇者=正義」の感覚で
将軍足利義材を追い出した "クーデター政権側" 正義だと思い
そこに主眼を置いてしまうと―――
「 "当時" の真相」を見逃してしまう訳です。
例えば…


クーデター政権側保身の為に、なり振り構わず敵の殲滅に走る一方で
旧将軍親衛側は、可能な限り和睦の道を模索し
敵の殲滅ではなく
あくまで「世の無為」(=天下泰平)を目的に戦っていた事。
(それゆえ、旧将軍側は、15年の後に京都を取り戻すものの
 帰参したクーデター政権側大名を排除する事も
 怨みを持ち続ける事もしなかった。)

さらに
京都では、クーデター政権側に迎合する公家たちの一方で
道義的正義から、密かに旧将軍側に立つ公家たちもいて
彼らにとってクーデター政権時代
"倒されるべき" 暗黒時代であった事。
(それゆえ、15年後に旧将軍足利義材が戻ってきた時は
 公武共に、京中が祝賀ムードに包まれた。
 つまり、みんながその帰りを待ち望んでいたと言う事。)

なんたって
旧将軍側筆頭、畠山尚順(ひさのぶ)は
『明応の政変』で父政長が自害した時、再起を誓って紀伊国に逃れ
その後15年の間、畿内各地で
京都奪還に向け、戦闘に明け暮れる事になるのですが
すべての裏事情を知る(つまり後土御門天皇の叡慮を知る)京都の公家から
その勝利の報を聞いて密かに
 「神慮か」とか「希代の天運」
とか言われた男なんですよw
(…それなのに、尚順は誤解され過ぎててつらい。(´;ω;`)カワイソス)


世の人々の祈りを一身に受けてただ一人
に立ち向かい、すべてを失いながらも戦い続ける英雄―――

…って、どこのハリウッド映画だよ!
んな宇宙人vs地球人戦ヒーローみたいなやつ居るかよ!
と思われるかも知れませんが
居たんです。 しかも日本に。
(※畠山尚順は、父政長だけでなく
 戦いの中で大事な弟3人も失っている。(´;ω;`)ブワワワッッッ!!!!!! )

しかも、天下の為に戦い続け
満身創痍の末最後の敵を倒し、遂に泰平を勝ち取ったっていうのに…
なのに…
何の見返りも求めず、平和が戻った京都を去って隠居したんですよ?
おそらく、弟たちのために。
(しかもまだ30代半ば
 昇進すら求めず、本来「左衛門督」に任じられる畠山宗家の惣領なのに
 最後まで「尾張守」のまま。
 京都に残した、まだ元服もしていない嫡男稙長
 能登より呼び寄せた畠山義元義統嫡男、能登守護)に託して。)


それなのに、この辺も
 「他大名との権力争いに負けて、幕政を握れなかった」
とか何とか
権力が最高!の「覇道アルゴリズム」で勝手に解釈されてるんですよ、もう!
なんで、欲と野心でしか歴史を見られないの!! もう!
確かに、そういう覇者戦国期には少なくなかったでしょう
しかし
畠山尚順行動原理目的意識は、そんなんじゃない
「弓矢の道」であり「天道」なのです。
なぜならやつは…

 再び将軍となった足利義材から、実は一番信頼を寄せられていて
 諸大名の会合となれば、最も上座に座る地位で
 その娘たちは、京都の公家からとして引っ張りダコで


それなのに―――
望めば、権力なんて簡単に手に出来る状態にあって
その上で、何も求めず去ったのです。
公方義材(よしき)の幸せと、京都の平和だけ見届けて
一番つらかった15年間を支え続けてくれた、紀伊国
それまで、神懸ったように戦い続けた日々が嘘だったかのように
静かに帰って行ったのです。

(ついでに言うと、最後も「嫡男稙長決裂した」とか誤解されてる!
 決裂どころか連携してたのに。 ホント、不憫なやつ!

(※ちなみに、畠山尚順京都を去ったのは
 弟たちの冥福に資するため、という理由に加えて
 (やつはこの時、若くして既に入道(出家)していた)
 実は、公方義材京都の平穏のために
 "敢えて" 退いた、と思われる節があります。
 その「泣かせる理由」とは――― まあ、また今度w)


父政長も、アホみたいにお人好しきよ侍だったけど
こいつも輪をかけて、ばかばかばかぁぁぁぁぁーーーーー!!
とボコボコにしてやりたい、清すぎるアホ侍です。
たぶん、『明応の政変』の真相のすべてが、正しく解明されたら
畠山尚順はきっと、日本一の英雄と言われる様になると思う。



…おっと、今日は義就の宣伝をしてるんだった、失敬。


まあ、そんな訳で
どんなに不遇な流浪の旅路を行こうとも
は、正しき者を知っている。
 「帰りを待ち望まれた将軍、足利義材
 「神慮と言われた男、畠山尚順
天下を舞台にした壮大な「貴種流離譚」
日本一悲しくて輝かしい、希望の物語なので
お楽しみに。

(※ちなみに、畠山家の御曹司である畠山尚順
 19歳(満17歳)まで、京都で王子人生送ってた。
 その後の15年の修羅道といい、名大将の素質といい
 義就とすごく似てるw)




ところで、『応仁の乱』中
西幕府で政所頭人っぽい事をしていた伊勢貞藤ですが
どうやら若い頃は、幕臣として
幕府畠山家の間の「申次」(もうしつぎ)をしていたらしいのです。

(※参照…『長禄四年記』長禄四年9月23日、『長禄寛正記』
 それから、伊勢家の故実書『伊勢貞親以来伝書』に
 「我等畠山殿の申次を仕り候…」だったので
 「よく(事情を)存じ候」とあります。)

康正3年(1457)には
上意に違う事をやらかしがちだった義就(当時21歳)から
罰として没収された所領が、伊勢貞藤に下されているのですが
これもおそらく、その特別な間柄によるものでしょう。
(『経覚私要鈔』康正3年7月6日)


さて、そんな伊勢貞藤
彼が変態美学を極めていた事は、当ブログ「伊勢貞藤」で紹介しましたが
青春時代の彼に多大な影響を与えた
「金吾様」(きんご さま)なる人物がいたのです。


『故実聞書』(著者:たぶんきっと伊勢貞藤)によると

 男は、見るからに角々しく
 男伊達(おとこだて)をするようではいけない。
 田舎人は、いつも目を血走らせて
 荒々しく威嚇して刀を振り回し
 笑う者があれば、すぐカッとなって切捨てる
 やれやれ ┐(´ー`)┌

と、常々仰せられては、御笑いになっていたという金吾様

 いかにも生臭い魚とか、味噌臭い味噌とか
 食えたもんじゃないだろう。
 人を従えようと、あからさまに猛々しく振舞っても
 ただ恐れさせるだけだ。
 そういう輩は心得ない事だが
 よくよく後生を心に掛け、身の程を弁えていれば
 如何なる難所も潜り抜けられるというものだよ。

と、折に触れて仰っていたそうだ。

(※後生(ごしょう)…来世の事。または、来世の幸せを願い、この世で徳行を積む事)


そんな、気品溢れる京人の鏡のような金吾様
若き伊勢貞藤にとっての目標、まさに憧れの的だったのでしょう。



さて、そろそろお気付きかと思いますが
「金吾」とは、「衛門府」の唐名です。
そして、畠山宗家の代々の官途(極官)は「左衛門督」です。
当時、こんな美学を語る品格を備えた人物といえば―――


伊勢貞藤


伊勢貞藤を、変態美学に目覚めさせた「金吾様」とは
名門畠山家惣領、畠山持国、という訳でした!

って、義就の父ちゃんだったのかよ!!
ズコー!



ちなみに当時
武家で「金吾」と呼ばれ得る人物は、他に
山名宗全もいるのですが
ただし、宗全なら「金吾入道殿」「金吾殿」となりそうだし
何より、言ってる事の内容が、どう見ても山名宗全とは正反対
ってかむしろ、これ宗全批判なんじゃないか?とか思うww


ついでに言うと、『北条盛衰記』という軍記には
 「『応仁の乱』で伊勢貞藤西軍に走ったのは
  山名宗全と深い知音(親しい仲)だったから」
という記述がありますが
しかし、この軍記はかなり後世になってから書かれた物で
しかも、伊勢貞藤伊勢新九郎盛時の父としていたり
伊勢新九郎盛時が東国に下った経緯が、ほぼ創作である事から
上記の記述も、事情を良く知らない後世の筆者が
とりあえず
「西軍大将と親しかったのだろう」という話にしてしまった
ってだけの、想像の "理由付け" だと思われます。
(…というのも、伊勢家の者が西軍についたというのは
 普通に考えたら割と不思議な事なので。)


伊勢貞藤西軍になびいたのは
本サイト『2-9』上から5分の1辺りで述べた『応仁記』
 「公方義政自身が、西軍に心を寄せていたから」
という説や
西軍公方となった義視との関係も大きいと思いますが
おそらく
「金吾様」こと畠山持国の忘れ形見、義就の存在が
隠れた一番の理由だったんじゃないかなぁ、と個人的には思っています。




いや〜しかし、持国だったかー 伊勢貞藤「美の菩薩」にしたのはw
って事は、義就も本当は
薔薇が似合ってしまう素質が…
まあでも、本人は一生懸命 "貴公子属性" 隠して
"鬼神" を前面に押し出そうとしていたようだけどw
ただ、「子は親の鏡」というから
息子を見れば、その本性が見えてしまうのかも…知れない。




という訳で今日は
単なる修羅界の暴風雨かと思われてきた義就
意外な一面を覗いてみました。
しかし、この王者源氏の持つ、伝説にも似た "貴さ"
決して侮ってはならない視点です。

伊勢貞藤にとっての畠山持国
大内政弘朝倉孝景にとっての畠山義就
どんなに特別な存在だったか。

それは、当時の武家社会の基礎をなしていたと同時に
もしかしたら今も…
気付いていないだけで
体のどこかに受け継がれている "伝統" なのかも知れないと
ふと考えながら、遠い先祖を思う
お盆の夜の、ある夏の懐旧でありました。



posted by 本サイト管理人 at 02:23| Comment(2) | ★チラ裏人物記
この記事へのコメント
私は畠山尚順の大ファンなのですが
この記事を読んで感涙にむせぶ思いです!
自分なりに尚順の事を調べていたのですが、私利私欲などで裏切ったり領土の拡大を狙ったりするような人間だとは私には到底思えません。
いつの日か尚順が英雄として再評価される日を心待ちにしています。・゚゚(ノД`)

あと、政長と義就の今までのイメージが一変してしまいました!とても面白かったです!
Posted by at 2015年03月26日 23:25
> 上様
コメント有難うございます!
この世に私の他にも畠山尚順の熱烈ファンがいようとは!
めっさやる気出てきました!!

>〜ような人間だとは私には到底思えません。
本当にその通りです!
これは、河内や紀伊の隣国である大和国人たちとの
壮大な連係プレーが証明しています。

しかも、戦闘力と性格が、義就と政長を足して
2で割るの忘れたみたいな感じなんですよ。
畠山尚順目線で見た『明応の政変』は…ああもう思い出しただけで泣ける。
なのに、この辺の話長期放置中ですみませんw
頑張ります!
Posted by 本サイト管理人 at 2015年03月27日 20:04
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