2014年07月26日

畠山義就(その6)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏人物記』です。
前回の「畠山義就(その5)」
途中で、畠山政長の嫡男畠山尚順の宣伝を始めてしまったので
今度こそ、義就の良い所を見せつけたいと思います。
という訳で改めまして


畠山義就
(2015.5.24リメイク)


ちょっと寝ぼけちゃってるようですが
ボーっと何考えているんでしょうか。
「腹減ったなぁ」とか?
いや、「孝景元気かなぁ…」とかかな。(※朝倉孝景)
でもキミ
随分油断しているようだけど
その頭上のに気付いてる? ねぇ、来ちゃったの、気付いてる?



さて、前回までの解説で
『応仁の乱』の本質が、かなり深くまで見えて来た…
ような…いやむしろ
意味不明感が増量キャンペーン始まった気がしないでもありませんが
まあ取り敢えず
 東西どっちもどっち
と思っとけば、間違いありません。

確かに
『応仁の乱』の日々の様子を伝える、公家や僧侶の日記では
大半は、"義政" という「権威」を取り込んだ東軍
正義と見ていますが
しかし一方で
『大乗院寺社雑事記』の尋尊のように
「権威」のみではなく
「道理」も加味して世の中を見ようとしている者もいます。
そして、西軍の大名たち
武家社会の秩序に生きる武士ですから
「権威」を尊重するのは大前提ですが
しかし、彼らは「権威」を凌駕する存在として
「道理」をその上に見据えて行動しています。

どうやら当時は、「権威」を絶対と見て "従う" 者が多い中で
一部の、特に理念ある武家では
「道理」を至上と見て "考える" 傾向があったようです。
(※尋尊は公家出身の僧侶ですが
 父が「日本無双の才人」と言われた一条兼良であり
 柔軟な思考の持ち主だったようです。)


まあ確かに
「権威」を絶対として、社会のルールを単純化してしまえば
民衆を一律に従えるには、一見都合がいいようですが
しかし、本サイト『2-9』の最後の方で、『六韜』『三略』『孟子』などを参考に
「君徳」(支配者が身につけるべき徳)について述べたように
絶対的なルールで民を従えようとする "君徳無き" 支配方法では
一瞬、バブルのような虚構の栄華が訪れた後で
何も残さず滅びます。
を吸い上げるだけで、を顧みない
それは、「天道」(天の条理)に悖(もと)る方法なのです。


前回、「源氏の貴種性」について取り上げましたが
源氏将軍の幕府である室町幕府が、15代まで続いたのは
単に、その血統の貴さに因るのではなく
武士の長たる足利家が、初めの足利尊氏・直義の代から
政道において、強く「徳」「撫民」「道理」を意識していたからです。

(※参照…『建武式目』
 本サイト『2-5』足利義教の王道政治、それから
 【榎原雅治『室町殿の徳政について』
  (国立歴史民俗博物館研究報告 第130集 2006)】
 などなど。
 それから今川了俊の手記『難太平記』の、足利直義の逸話で
 了俊が足利直冬尊氏実子、直義養子)から
 直接聞き及んだ実話として、直義は…
 (=家柄、血筋)によって身を立てようと考えてはいけない。
  文道をたしなみ、によって身を立てなさい」

 と、いつも語っていたそうだ。
 源氏嫡流に生まれながらこの心。 もう本当に素晴らしいw )



そしてまた、それは主上においても同然で
朝家という "生まれ" だけではなく
「君徳」(=聖徳※)こそ、君主に必須の要素であり
民の為に学問の労を惜しまず
仁愛の習得を何より重んじ、無徳を恥ずべしと自省する君主こそ
天道に適うとされたのです。
…と
私が全力疾走で尊敬する花園法皇が仰られております、はい。

(※聖徳…天子の徳、優れた徳)
(※花園帝『誡太子書』については…
 【石野浩司
 『『寛平御遺誡』および花園天皇『誡太子書』に見られる
  皇統思想の新展開 ―『孟子』受容と仁政徳治主義の台頭―』
  (皇學館大学神道研究所紀要 26 2010年3月)】

 をどうぞ。
 これは、皇太子時代の甥の光厳帝への訓戒です。
  「請うらくは太子、自省せよ」
 …とかもう、めっちゃかっこいいのですよw
 はいこれ、みんな必読!…と言いたい珠玉の書なのですが
 花園帝の知性は、常人のレベルを遥かに超えているので
 解説がないと(いやあっても)
 理解は相当に困難です。 でも本当お勧めです。)



「なぜ皇統は、時代を超えて存続し得たのか?」
と問われる事がよくありますが…
その答えとして、先ず一つに
主上は、己が為ではなく民の為に君たるからです。
 「天生烝民樹之君」『誡太子書』)
従って、(理論的には)がゼロにならない限り続きます。
 (己が為に支配者たる者は、当人がいなくなれば終わりです。)
それからもう一つ
中世の武家政権誕生以降は
武家「天子の御代官」として、政道を担って来たからです。
形あるものに終わりが訪れるのは世の常ですが
時代の変遷において、"滅びの定め" を引き受けて来た者
それが―――
政治的権力者である武家だったのです。


 「時代が変わっても、変わらない皇統
それは、社会が複雑化していった中世以降
武家の存在無しには語れません。
しかし、この事実を大きく誤解して
 「なぜ、歴代武家政権は、朝家を滅ぼさなかったのか?」
という、対立的視点で見る傾向が強いようですが…
それは近代以降、多くの日本人が
近世以前の歴史の深層を知らずに(もしくは、意図的に教えられずに)過ごしてきた
痛ましい弊害です。


室町中期の成立
最後の勅撰和歌集『新続古今和歌集』「序」の言葉を借りれば
征夷大将軍とは…
 「元首(=主上)に股肱たりて黎民に父母たる」存在
実際の歴史では、そう認識されていました。
(※股肱(ここう)…主君の手足となって働く、最も信頼された忠臣)
(※黎民(れいみん)…万民)

つまり、将軍もまた万民の為の存在であると共に
 「天子の股肱を、武家というが担う」
そういう相対関係
本来の伝統的姿、歴史が出した「答え」です。


もちろん、新興の覇者の中には
本来的な天子と武家の関係には無かった者もいたとは思いますが
しかし少なくとも
室町時代の公武(朝廷と幕府、主上と将軍)は
君臣として、理想の関係に到達しました。
それは、両者が共に
「徳」を至上とする心を "共有" していたからだと言えます。
(※室町時代の公武関係については
 本サイト『2-3』『2-12』真ん中より少し下などをどうぞ。)


仁政徳治「王道」を是とする主上
「覇道」を目論む覇者とは、相性が良くありませんが
「王道」を目指す王者とは、理想の君臣として共に国を育み
時代が移り変わる時は
武家が、その身代わりとなって滅ぶ
そうして700年近い時を繋いで来たのが
武士という独自の理念を発展させた、極東のこの国の歴史です。



しかし―――
これは日本の長い歴史から言えば "ごく最近" の事ですが
近代に至り突如
政権としての「武家」が消滅し
公武で成り立っていたこの国の歴史が終わります。
室町幕府が、近年ここまで貶められるようになったのも
これ以降を画期としますが
それだけではなく、実はこの時
日本古来の歴史皇統慣習神仏への
「これまでの認識・伝統」が書き換えられました。
…極めて政治的な理由で。
室町幕府のみならず
これほどの主上、花園天皇がほとんど知られていないのには
深い事情があったのです。


今からでも遅くない
どうか、武家の真実に気付いて欲しい。
そして、作られた歴史を脱却し、もう一度思い出して欲しい。
日本にはかつて、天子を支えるがいて
その君臣は自らを絶対とせず
天道のもとに、相対であった事を。
今の言葉で言えば、それが
この国独自かつ古来の "民主主義" です。
朱子学的「大義名分論」による、硬直した絶対的支配は
実は、あまり歴史的に成功していないのです。



…上記の "事情" 補足
 この辺の事は…チキンなので言及しづらいがw

 花園天皇は、持明院統(つまり北朝)であり
 仁政徳治「儒学」に基づく哲学を展開されていた事
 そして、「朱子学」をかなり強く批判されていた事
 『誡太子書』を授けられた甥の光厳天皇
 近代になってある日突然
 "北朝初代" (つまり非正統)に改められた事
 それは、南朝 "正統" とされたが故の書き換えだった事  
 その南朝では当時、「朱子学」が重視されていた事
 近代以降の歴史観では
 室町幕府は、"正統な" 南朝に対する賊臣とされた事
 これら近代日本の国家思想の土台は
 「朱子学」を絶対視する「水戸学」であった、という事 

 …つまり、そういう事です。
 え、何、それじゃ分からないだと?
 まあでも、そろそろ全部明らかにならんといけない頃だからね
 チキンとか言ってられないか。
 つまり―――
 北朝を "非正統" とし、室町幕府を "絶対悪" と見做し
 「朱子学」国家を目指す近代日本の国家体制にとっては
 どう考えても…
 花園天皇の、天の条理を穿つような壮大な竜徳(=聖徳)は
 とんでもなく都合が悪い!
 そこに真実があるから!
 北朝室町幕府、非難出来なくなっちゃうから!
 こんなの直視したら、精神崩壊してしまう!ならば!
 スルーするしかない!!
 …ってなにその理不尽さwww
 ああもう、全部全部全部明らかになってしまえ!!)



室町幕府の創生期、「南北朝期」の開始前後という時代には

 花園天皇『誡太子書』
 夢窓国師『夢中問答集』
 足利直義『建武式目』


こんなにも
「王道」を説いた、国宝級の誇らしい書が生まれているのです。
この時代が間違っていなかった証拠です。
彼らこそ、「天道」を目指した賢聖(けんじょう)であるのに
なぜ、見過ごされ、誤解され、貶められているのか。

日本は近代に始まった国ではない!!
その政治、思想、精神において
670余年前の時点で既に、これ程までの高みに達していたのです。
それなのに―――
この国は、余りにも自国の真実を知らな過ぎると思う。






…と、少々(ってかだいぶ)話が逸れましたが、そんな訳で
東軍の細川勝元
どんなに公方義政を背景とした「権威」によって西軍を黙らせようとしても
なかなか西軍諸侯が屈しなかったのは、彼らが

 「権威」は、「道理」を伴って初めて「権威」たり得る
 ( = 権威は天道を越えない )

と考えていたからです。


『応仁の乱』に対する世間一般の認識では
もしかしたら
 「天下静謐を目指す東軍と、覇権を狙う西軍
みたいな話になっているかも知れませんが
それは謂われ無き妄想構図です。
まあ、"東軍が悪" とは言わないまでも
むしろ割とかなり「逆」…と言いたいw

実際、西軍公方の義視や、西軍ラスボスの持是院妙椿
"天下の視点" を持っていたのに対し
東軍は―――
まあ、赤松が、山名から播磨・備前・美作を取り戻す為に
「東西軍の分裂継続」を個人的に望むのは分からなくもありませんが
(…いやまあ、分かりたくは無いが)
しかし、細川の保身の強さには…うーんw


文明5年(1473)頃のこと
(※『応仁の乱』2ndフェーズ、山名宗全・細川勝元他界の年)
美濃の妙椿
"東軍と西軍"、そして "京都と関東" の対立を憂慮し
それぞれの和睦を実現しようと奔走していたのですが
天下思いの妙椿
 「さて、物申したいから上洛しようかなぁ〜」
と計画していたというのに…
そんな妙椿への、東軍細川の仕打ちが酷いんですよw
"朝廷権威" と "公方の威光" をフル活用して

 綸旨の力で上洛阻止! そして、幕命で美濃衆退治!!

御内書で「凶徒」と呼ばれる美濃衆…。(@和睦画策してるだけ)
細川の要請で、幕府から奏請を受けた朝廷
一旦は勅使を立てて、延暦寺の山門僧徒妙椿上洛を防がせようとするのですが
しかし
 「実は妙椿は、(京都を荒らす為ではなく)
  "和睦の調停" をしに来たいらしい」

と言う事実を、後土御門天皇が聞き思し召され
 「え、それは防いじゃダメなんじゃ…」
と、天下を道義的立場から見据える主上は、困惑なされたと言う。

(※ちなみに妙椿は、朝廷に礼銭を献上したりして
 誠意を伝えるべく頑張っているw
 それから、一条兼良ととっても親しい。
 妙椿道徳的教養の高さが窺い知れます。)

(※以上、『大日本史料』文明5年正月21日、2月16日、21日
 『大乗院寺社雑事記』文明5年10月11日)



正直、これは余りに酷い!
朝廷への讒言にも等しいですよ。
和平を目指す者を、天下を害する朝敵に仕立てたんだから。
妙椿上洛が、東軍細川にっとって都合が悪いのは分かるし
自陣の勝利を目指す気持ちももっともですが
もう少し、妥協の道を探れなかったものか。
もちろん、言われるがままにお墨付きを与える義政に、一番問題があるのだけど。
(この義政の成敗センスの無さ
 『応仁の乱』のそもそもの原因だったな、そう言えば。)


ちなみに、この頃の細川家の中心的人物は
宗家当主の細川勝元
宗家の補佐役だった分家、典厩家の細川政国
(※典厩(てんきゅう)とは、当主が代々称した官途、右馬頭or右馬助の唐名。)
文明5年(1473)5月の勝元他界後は
幼少の勝元嫡男を、細川政国が後見したのですが…
実は、『応仁の乱』後
細川宗家の家風はひどく乱れていき
 緩怠(かんたい)狼藉(ろうぜき)、人々が驚くほど」
 (『後法興院記』文明17年7月12日 ※摂関家 近衛政家の日記)

と言われるような状態で
非人道的な事件を度々起こすようになってしまいます。
余り触れたくない暗部ではありますが
この(家臣達を含めた全体の)家風の乱れ保身の傾向は
『明応の政変』が起こった重要な背景の一つとなるので
学術上致し方ない…という事で、続きはまたいずれ言及します。



ああもう
なんか気分ががっかり感満載になって来てしまったので
ぬくもる歌で、心を清めたいと思います。

『応仁の乱』中の、とある秋の日のこと。
西軍公方義視が御所としていた、斯波義廉邸
返り咲きをしたがありました。
(※返り咲き…季節はずれに花が咲く事。特に、春の花に咲く事。)
その桜の花に寄せて、義視が詠んで、大内政弘に贈った歌

のどかなる 世にかへれとや 桜花 紅葉の秋の 名を忘れつつ

 (穏やかな世に返れと伝えたくて、秋を忘れて咲いたのか、よ)

義視おまえ…(´;ω;`)
あんな酷い目に遭い続けながら、それでも
そうやって、いっつも天下の事ばかり心配しているんだな。
ああ、やっぱり
義視に将軍になってもらいたかった…。


という訳で
西軍天下の事を考えていたんだ!という証拠の
桜の花の歌でした。 (※出典『拾塵和歌集』)




さて、『応仁の乱』前後での大きな変化として
一つに、「大名の在国化」が挙げられますが
もう一つ、「寺社本所領の押領」があります。

これについては、本サイト『2-6』上から3分の2辺りで解説した通り
室町幕府は、誕生当初から「寺社本所領」の "領主側" を保護し
それを押領する武士達に、領主への返還を命じ続けていたのですが
既に時勢となったその流れを止める事は、時計の針を戻すに等しく
やがて、俗に「応安の半済令」(はんぜいれい)と呼ばれる

 都の領主在地の武士
  "年貢半分こ" でギリギリ win-win 政策


を打ち出します。
しかし、それでもこの流れは、時を経る毎に加速し
特に、秩序を厳守し "領主側" を保護した6代目足利義教
『嘉吉の変』で暗殺された後は、一気に崩壊が進み
朝廷公家寺社の "本当の苦難の時代" が到来します。
そして『応仁の乱』では
そのカオスに便乗して、さらに寺社本所領の押領が進行しました。
実は…
義政が「武士どもが言う事聞かない…」と嘆いていたのは
主にこの、「寺社本所領の返還」に関してだったのです。


(※ちなみに、昔の説では
 この「半済令」は、幕府が "領主から"
 寺社本所領の年貢の半分"新たに" "召し上げて"
 武士に与えてウハウハする為の法令(領主迫害)だった!

 と誤解されていました。 ひどいww
 鎌倉幕府終焉〜南北朝動乱のカオスで "ゼロ" になって久しく
 絶望的に回復していなかった年貢
 武士から、半分 "返還させる" 法令(領主保護)だったのに。
 しかも、禁裏御料所寺社領は例外で全返還な!
 という、配慮も為されているのです。
  (※理由…主上は言わずもがな
   寺社国家の安寧を祈る、"天下の為" の存在だから。)
  (※以上、詳しくは…
   【桑山浩然『室町幕府の政治と経済』(吉川弘文館)2006)】
   …の『南北朝期における半済』 をどうぞ。)

 なんで室町幕府、いつも悪者にするん? (´・ω・`)
 ちょっと調べれば、矛盾する証拠ボコボコ出て来るのに。
 「室町幕府=欲と野心の覇者」と思い込んでいるばっかりに
 理論的に整合性を欠いた、消化不良な論説が山ほどある…
 というのは、悲しい現実だと思います。
  (※特に6代目義教とか。あと義教とか義教。)
 室町幕府
  「王道アルゴリズム」でないと理解出来ない幕府である
 という事実に気付けば
 面白いように謎が解けていくと思います、はい。)



まあ、とは言え「押領」については一見
武士側が絶対的に悪い!
という印象を持つと思いますが、しかし
(『応仁の乱』前くらいの時代を例に話すと)
一言に「押領」「違乱」と言っても
その主体は
守護大名その被官だけではなく
在地の武士や、寺社、公家、幕府奉行人など、様々なケースがあり
さらに、「押領」の概念についても
これは必ずしも、年貢ゼロになった事態を言うのではなく
寺社本所側が、直務が出来なくなれば全て「押領」と言っていたようで
実際は、幕府の許可を得ての「半済」
また、在地の武士が領主の「代官」なった場合なども
「押領」と呼ばれていました。

それから、当時の在地の現状は
本サイト『2-6』最後の方の「半国守護職」の解説で述べたように
権利関係が "つぎはぎ" 状態で
守護大名がその分国を「一国平定」していたと言っても
それは「一円知行」していたと言う意味ではありません。
だから、その土地での押領は、全部その大名の犯行…なのではなく
押領に悩む元の領主から、守護大名 "相談" を受けて
年貢の回復 "協力" する、というケースは
実はかなり多いのです。


(※例えば、大和国の興福寺
 越前国に、大規模な荘園を有していたのですが
 大乱の混乱で年貢が途絶え、あわや消滅!となった時
 その回復に奔走し、「半済」を実現したのは誰かと言うと…
 朝倉孝景の弟、慈視院光玖だったのです。
 尋尊はそれを「蔵主(=光玖)のなり」と感謝しています。
 (『大乗院寺社雑事記』明応3年正月23日) )



確かに、寺社本所領の押領による公家寺社の困窮は
筆舌に尽くし難いものだったと思うし
「半済」を守らず、完全に年貢を接収してしまうような場合も多く
そういう悪行は許されるものではありませんが
しかし、そもそも
を引き離し
その土地で生まれた富の恩恵を、遠く離れた都の人間が全て頂く
というのは、実は "不自然な" 社会の形とも言えます。

もちろん、まだ社会が小さかった頃は
それが国家としての日本を形成していく、不可欠な原動力になったでしょう。
しかし、栄えた都の繁栄は、それを支えた地方の "人" "土地"
いつか還さなければいけない。
いつまでも、地方の富中央に吸い上げ続ける
という構造は
やはり、健全とは言えないのです。
無論、元の領主の権利を否定する訳ではありませんが
元をたどれば、荘園制は人が作った制度であり
それが、自然の摂理に背くものであったなら―――
離れた土地の富で肥大した
やはり砂上の楼閣でしかなく
自らの業火で滅ぶ未来を、避けられないでしょう。

本来は、その土地は、その土地の者が管理する権利があるはずで
その点、在国大名が代官となる「年貢請負」は理に適っているし
在地で年貢を分け合う「半済」
経済文化を牽引する "都の繁栄"
国全体としての発展に不可欠な "地方の成長" とを
 「バランスよく実現する」
という意味で
時代を反映すると共に、天道に則した
理想的な政策だったと思います。


そしてまた
大名側も、得た富で自らの栄華のみを考えていた訳ではなく
この頃の
特に、在国して分国統治に当たった旧西軍大名の本音としては…
出来れば、寺社本所領は返還したくない
(=「代官」として土地の管理は自分達でしたい &「半済」は認めて欲しい)

けどその代わり
朝廷や幕府の公事etc.の料足(=費用)は、ガッツリ納めるよ!
というものだったのです。


(※参照…『大乗院寺社雑事記』長享元年8月19日、27日
 これは、寺社本所領の押領が特に激しかった近江国
 時の将軍、9代目ボンボン義尚
  幕府引っ提げて殴り込みに行くぞてめぇ六角!!
 と、ご計画中だったので
 なんとか怒りを静めて頂こうと考えた近江守護の六角高頼
 「数千貫」の料足を納めたのですが
 その心は
  料足は納めるけど、寺社本所領は一切渡さないから!
   それでもダメって言うなら、もう立て籠もっちゃうから!
   あ、これ、美濃越前近江の話し合いの結果ね、てへ☆」

 という事だったそうだ。
 …って
 六角てめぇww美濃越前道連れにする気かwww
  (※ちなみに、美濃越前は時々返還に応じております)
 こうゆう時だけしれっと
 「俺たち、仲間だよな?」的態度とりおって!
 こん時は、諦めの悪い斯波義寛(※自称元越前守護)の
  越前、やっちゃいましょうよ義尚さん
 ってな口入(くにゅう)のお蔭で
 朝倉も相当やばかったんだぞ!おいコラ!!www
 ただし、ボンボン義尚さん
 河内越前はお許し下さいました。(『同雑事記』同年11月8日)
 セーフセーフ
 しかし、六角はとっ込まれますた。ちーんw )


まあ、『応仁の乱』後の十数年間は
義尚の奇行に翻弄されつつも
割りとみんな仲良く盛り上がっていたのだ、とな。
…って、そんな事はどうでもよくて
要するに
寺社本所領から直接、都の領主が年貢を収集すれば
在地の大名は蚊帳の外ですが
「その国の大名を通して料足を上げる」或いは
「大名が代官となって、年貢を沙汰する」
という形なら
その手柄の対価(※)は、その分国の大名が受ける
すなわち、土地の恩恵が、その国に還ることになります。
(※…年貢請負料の他には、例えば
 主上将軍からの栄誉、それによる分国の安定
 また、領主である公家との繋がりは、都の文化学問を伝播する。)


つまり、『応仁の乱』後に
在国&城下町繁栄を目指した西軍大名たち
幕府の一員として「公」の任務を果たす、という
従来の役割に加え
その分国で生まれた富を「土に還元する」、という
重要な、そして新しい武家の役割を切り拓いた
と評価する事が出来るのです。
ただし
"土地との結び付き" を原点する武士の本質を考えれば
「西軍大名の在国統治」とは

 遂に、武家本来の "真の" 役割に到達した瞬間だった

と言えるんじゃないかと、個人的には主張したいw



まあ、かなり贔屓目に見ればの話ですが
『応仁の乱』という混沌を乗り越えて、この頃、中世の社会は緩やかに
地方 "共存共栄" という、時代に応えた姿に変容しつつあった
のだと思います。
もし、この移行が上手く行って
中世が、地方が足並み揃えて繁栄する "より良い未来" に発展していたなら
一部の覇者が、武力で日本中の土地を収奪していく、という
急激で破壊的な統一、すなわち戦国の覇道時代
訪れずに済んだかも知れない…
というのはまあ、私の願望ですが。


(※例えば、越前国に大荘園を持つ興福寺
 押領がさらに激しさを増す戦国期に至っても
 朝倉「王道」を以て越前を治めていた100年間は
 「半済」が実現していましたが
 朝倉家が滅亡し、越前が荒れ果てるに至って
 遂に、この荘園からの年貢は消滅しました。
 戦国期の大名は、一般に
 「分国の一円知行(=完全支配、荘園制の否定)を目指していた」
 と一概に思われていますが
 「私」より「公」の意識が強い大名は
 元領主の権利を尊重して、「義理」を通したのです。)




という訳で、前置きが非常に長くなりましたが
幕府に認められていなかった畠山義就
河内で割りと普通に「太守」をしていたのは
当時は、土地を介した荘園領主との "実質的な" 関係が重要だったからであり
別に、「武力制圧で全領地を自分のものにしていた」
という意味ではありません。
在地の現状年貢の沙汰が、義就の成敗で成り立っていて
 「みんなが義就の威勢を必要としていた」
というのが実状なのです。
(まあ、「頼らざるを得なかった」とも言えるが
 どちらにしても、幕府立場無し…である。)



まあ、大乱真っ最中は
兵粮に充てる為、また在地の混乱とで、寺社本所領は大打撃を被った訳ですが
大名達による押領は、東西軍が共にやらかしていた事ですし
しかも
 東軍方の分国でこの有様(=酷い押領)なんだから
  西軍方の分国なんかもう、惨憺たる状況だろう
  …と思ったら、なんか西軍方の寺社本所領は
  結構無事なとこがあるらしい。 たまげた」 by尋尊

とかいう記録があるw
 (『大日本史料』文明4年12月7日)

ちなみに、乱中、興福寺の衆徒
押領された寺社領返還を求めて、東幕府西軍大名のそれぞれに訴えたのですが
その返事が面白いw  (※以下『大日本史料』文明5年6月9日)

畠山義就 「ああ悪ぃ、乱中は無理だわwwすまんなwww」
って、おめーは正直すぎるだろw

大内政弘 「ごめん、知らなかった。すぐ調べて指導するね!」
なんて素直な大名なんだww

六角(在国中)「書状で詳細伝えてくれれば、下知(命令)するよ!」
意外とまともw

そして東幕府…「早々に雑掌(担当者)を上洛させるように」
なんか冷たい。

興福寺の衆徒は、これを拒否したそうだが
東幕府の下知は、一旦安堵してもすぐ撤回したりして
 「(義政の)御成敗も、管領(細川勝元)も全く頼りにならん」
とか言われてる。
(『大乗院寺社雑事記』文明5年2月15日)


まあ、西軍良い所ばっか宣伝するのもなんですが
大内政弘は乱中でも
上山城寺社本所領を悉(ことごと)く元の領主に返したり
(『大日本史料』文明6年正月11日)
興福寺大乗院の門跡、尋尊から直々に相談を受ければ
すごく丁寧な返事を送って、所領の返還に協力しています。
(『大日本史料』文明7年4月20日)

大内政弘、なんて良いやつなんだww
さすが、に愛されるだけあるな。
…あーいや、今日は義就の宣伝しなきゃならんのだった。



乱後の話ですが
文明16年(1484)春頃から
義就は、その頃勢力圏だった山城国河内国について
同国内の寺社領返還させる計画を開始しました。
(『大日本史料』文明16年5月6日)

おお! 義就良いやつw
…いやその前に
何でおめーが、幕府のお膝元山城国を治めてるんだよ!
とかいう意味不明さは…この際、気にしないで下さい。
…まあ、乱中
この辺一帯で "応仁無双" を enjoy していた
大内ときどき義就コラボ軍の "時間差" 置き土産、といいますか
彼らが撤退した乱後
幕府側に戻った山城国は、しばらくは何事も無かったのですが
文明14年(1482)に再燃した義就vs政長戦の余波で
文明14年末〜15年初めにかけて、義就南山城に再突入して来て
一瞬で以前のように "俺の庭" にしてしまった
(つまり、地下人(じげにん。土地の民衆)や国人たちと関係を結んでしまった)
ってゆう。
(※本当の山城&河内守護→ (´・ω・`)… 畠山政長



まあでも、当時の武士が寺社を尊重するのは、そんなに珍しい事ではなく
確かに乱中は、陣所となった寺社の被害は甚大なもので
それ故、公家僧侶の日記では
彼らは(ってか、特に義就はw)
 仏法・神道の敵! 神仏の冥罰食らえ! もう!もう!」
とは、よく書かれているのですが(ひどすw)
しかし彼らが、神仏素直謙虚だったのもまた、確かに事実なのです。


乱中、京都の東福寺を守った大内政弘しかり
(※本サイト『2-12』上から3分の1辺り)
乱後、清水寺の再建に、多大な寄進をした朝倉孝景しかり
(※『大日本史料』文明11年3月是月、本サイト『2-11』上から5分の1辺り)

義就も、乱後の、季弘大叔とのほのぼの交流、とか
(※季弘大叔…元東福寺住持。
 晩年は和泉国堺の海会寺にいた僧で
 その頃の義就情報に富んだ日記『蔗軒日録』の筆者。)
それから、摂津国の住吉社(※現在の大阪府住吉大社)に大鳥居(浜大鳥居)建てたり、とか
(『大日本史料』文明15年4月15日)
実は、ぬくもる神仏エピソードが揃っているw
義就が、その決意を強く誓う時
祇園社東寺に「願文」を納めて "本意" を宣言していたように
"名将" と呼ばれ得る武士は、総じて神仏を尊び
その心に「卑怯」がなくて、すごく「正直」
なんか、神様に愛されそうなやつばかりなのです。



だいたい、義就人生八転して3回も都落ちしてんのに
最後まで威勢が衰えることなく、それどころかむしろ進化を重ねて
名大将の素質を存分に発揮し
晩年は誉田(こんだ)の「俺の城」で割りとハッピーライフ
…だったのは
よく考えたら非常に不可思議な訳で
なんか神様のアシストでもあった…としか―――

あ、そういえば…
長禄4年(1460)9月の第二次グッバイ京都の前年
長禄3年(1459)6月27日に、謎の目撃情報が。
なんでも、京都の義就の館の上に、鳩が3羽やってきて
一日中そこに留まってたそうな。
しかも、そのうち1羽は…「矢をくわえていたと。
(『大乗院寺社雑事記』長禄3年7月13日)


尋尊「なにそれ珍事wwってゆうかなのなの??」
と計りかねていますが
翌年の、王子人生強制終了 & 義就の "本番開始"
という運命を考えると、これは…
どう見ても "お知らせ" に来た鳩w

しかも、といえば… "あの方" の使い。
も、もしや…最終的に、義就誉田の地に導いたのは―――


畠山義就


なんか、神々(こうごう)しいお方キタコレ!!
つんつんされる義就の明日や如何に!!



posted by 本サイト管理人 at 03:56| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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