2014年08月16日

源八幡太郎義家

(チラ裏シリーズ)

こんにちは
今日の『チラ裏人物記』は
再び畠山義就ネタに戻る…つもりだったのですが
ちょうど「お盆」ですので
もう少し、彼らの遠い先祖に思いを馳せてみようかと思いまして。


ちなみに、「盆」とは
かつては、旧暦の7月15日を中心に行われていた
「先祖の精霊をお迎えして祭る行事」
日本古来の「祖先崇拝」の慣習と
仏教の「盂蘭盆」(うらぼん)とが混淆した伝統であり
その起源は、気が遠くなるほど古く
(だから詳しくはよく分かってないw)
それ故、日本人の根底に流れる素直な感覚をそのままに形にした
これ以上無い "精神文化" と言えます。

現在の「盆」
新暦の7月15日とする地域(関東に多い)もあれば
少数ですが、旧暦の7月15日(新暦では8月あたり)に
"きちんと" 合わせる地域もありますが
最も多いのが、"だいたい" 旧暦7月15日に当たる
新暦の8月13日〜16日とする場合で
これを「旧盆」「月遅れ盆」と言います。


まあ、生まれ育った地域によっても様々だと思いますが
かつては「正月」と並ぶ一大行事だった「お盆」の習慣も
今ではだいぶ、消えかけて来てしまっている… ああ…
しかしそれは
廃れていく伝統への懐古感傷ではなく
私は、日本と言う国は
「先例」「慣習」という "精神文化" で繋いで来たからこそ
現存 "世界最長国家" なのであり
同時に科学技術で "摩訶不思議の最先端" を走っていると思っていますので
どうしても、繋いで来た火を絶やしたくない
もし、失ったものがあるなら取り戻したい、と思う訳です。


室町時代には
毎年、旧暦7月15日の1〜2日前
精霊に捧げる「燈籠」(とうろう)を
義教や義政など足利家の将軍廷臣から、主上へ献上する習慣が
いつしか生まれ、定着していきました。

先祖の精霊を迎える道案内としての「迎え火」
帰り道を照らす「送り火」
ただ静かに先祖を思い、灯し続けてきた火の意味
もう一度考え直してみて欲しい
今日はそんなお話。





という訳で、前置きが長くなりましたが
足利尊氏足利直義をはじめとする室町の歴代将軍
…のみならず、畠山義就畠山政長斯波義廉ほか色々の
偉大な先祖と言えば―――

源義家
(2015.2.27リメイク)

源八幡太郎義家(みなもとの はちまんたろう よしいえ)です!

まあ、源氏の氏神である "八幡大菩薩" こと応神天皇
さらに偉大なご先祖様な訳ですが
その "八幡様と武士の蜜月" の原点こそ
この、平安時代中後期の源頼義・義家父子なのであります。
そんな訳で
前回の「南無!八幡大菩薩!!」では
ようやく八幡大菩薩の概説が済んだので、話が進め易くなりました。
何しろ武士の時代、特に、もろ源氏将軍室町時代
八幡様系の小ネタがわんさかしているので。


(※ちなみに、「源氏」には
 "武家" となった源氏も、"公家" となった源氏もいます。
 そして元々は、京都の平野社(平野神社)を氏神としていて
 八幡宮を氏神としたのは、源頼義・義家父子以来だそうです。
  (※『十輪院内府記』文明13年3月25日)
 つまり、八幡大菩薩
 正確には「武家源氏」の氏神なのですが
 本サイトおよび当ブログでは
 単に「源氏」と言ったら、「武家源氏」の事と思って下さい。)



それでは、「武家源氏の "八幡様クロニクル" 」
と題しまして―――

頼義長男の源義家
「石清水八幡宮」(いわしみず はちまんぐう)で元服した事から
通称「八幡太郎」と名乗っていたのは有名ですが
源頼義の、関東進出の "最初" の足跡として
長元3年(1030)東国への道中、戦勝祈願の為
「石清水八幡宮」(一説に「宇佐神宮」)を勧請したのが
現在の神奈川県茅ヶ崎市の
「鶴嶺八幡宮」(つるみね はちまんぐう)です。

その後、『前九年の役』(1051-1062)では
頼義の援軍の為、奥州へ向かった嫡男義家
ここで同じく戦勝を祈願し、銀杏を手植えしたと伝えられますが
これが現存の「鶴嶺八幡宮」の大銀杏。 貫禄のある大木です。

この奥州出陣の途次では、他にも
八幡様のミラクルネタを今に伝える八幡神社が、いくつかあったりしますが
何と言っても外せないのは、康平6年(1063)
奥州平定を成し遂げた源頼義・義家父子が、その帰途で
氏神、八幡大菩薩への感謝を込めて
鎌倉に「石清水八幡宮」を勧請した「由比若宮」です。
この社は、約120年後
源頼朝によって、規模を新たに生まれ変わる事となるのですが
これこそ
その後長く武士の歴史を語り継ぐ存在となる
 「鶴岡八幡宮」(つるがおか はちまんぐう)
という訳です。
(※それ故、「由比若宮」は現在、元八幡とも呼ばれます。
 場所は「鶴岡八幡宮」と海岸の中間、やや海より。)


さて、鎌倉幕府は、源氏将軍源頼朝によって開かれた
武家政権の "記念すべき第一歩" ですが
残念ながら、源氏将軍の血筋は、3代で途切れてしまいます。

源頼朝足利尊氏の偉大な祖先である源八幡太郎義家
武士の "伝説的ヒーロー" として
後世には、多くの逸話が語り継がれた一方で
実は…全盛期の活躍とは裏腹に、晩年は余り恵まれなかった訳でして
その後の平安末期にかけては
我が世の春を盛大に謳歌するのは平家だし
源頼朝が開いた鎌倉幕府
執権北条一族(平氏)に乗っ取…失礼w 運営されて
源氏の正統後継者足利家は、日陰時代でちんまりしてた
といったように
実は、源氏は、大いなる英雄を輩出して来た一方で
割りとしょっぱい歴史をたどってきた
ソルティ王子の一族なのです。 (´;ω;`)ブワッ


しかし、それでも
平安に始まった八幡宮と源氏の運命
導かれるように、伝説を綴り続けて行きました。
何度もに消え入りそうになりながら、それでも不思議に
彼らを照らすは、必ずやって来るのです。



鎌倉時代末期
嘉元3年(1305)、そして2年後の徳治2年(1307)
のちに室町幕府を立ち上げる「二人の将軍」
足利尊氏と、足利直義が生まれます。

この時の話として
今川了俊の手記『難太平記』によると(つまり、たぶん本当の話)
尊氏が産湯(うぶゆ)に浸かった時
2羽の山鳩が飛んで来て、左の肩先と柄杓(ひしゃく)の柄に留まり
直義の産湯の時は、同じく山鳩が2羽やって来て
柄杓の柄と、湯桶の端に留まったそうだ。

…って、つんつんされとるwww
これは確実に、八幡様からのお知らせじゃないですかぁぁーーww
(※ちなみに、「八幡宮」の「八」の字は
 向かい合った2羽の鳩で表される事がある。
 →「鶴岡八幡宮 鳩」で画像検索どうぞ。)

ただし、その当時は
執権北条一族に憚って、人々はこの話を口に出さなかったそうで
後になって沈黙を解いた彼らは
ああやっぱり、将軍になるべく生まれて来た二人だったのだと
八幡大菩薩の託宣を、改めて噛み締めた事でしょう。




ところで、足利尊氏・直義兄弟と
その祖先、源八幡太郎義家
そして八幡大菩薩にまつわる、こんな逸話があります。

どんな運命に導かれたのか
気付いたら将軍になっていた二人ですが
室町幕府が誕生して10年ほど経った頃の、ある4月5日
直義は、祖父足利家時がその昔
臨終の際に、家臣高師氏に託した「御書」を初めて目にして、あまりに感激
 「この御書を手元に留めておきたいので、写しを返す」
と、その家臣の孫の高師秋に書状を送りました。

(※これは、直義自筆の現存の書状です。
 ちなみに、高師秋(こうの もろあき)は、高は高でも
 最後まで主君直義に忠節を尽くした高(こう)の一人です。)


さて、その足利家時の「御書」の内容ですが
これは、これまた今川了俊の手記『難太平記』の記述と合わせると真相が見えてきます。
それによると…
源義家はその昔
 「我、七代の孫に生まれ変わりて、天下を取るべし」
と誓った「御置文」を残していたと。
しかし、その七代の孫となった足利家時
未だ時が至らない事を悟り
 「我が命を縮めて、三代のうちにて天下を取らしめ給え」
と、"八幡大菩薩" に祈って―――
自害したのだそうです。
(※この自害は、当時の幕府内の(かなり壮絶な)権力抗争である
 『霜月騒動』が遠因とも言われている。)

そして時が過ぎ
家時二代の孫(※家時を一代と見れば三代目)に当たる
尊氏・直義が、天下を取った後のこと
その誓いを記した足利家時自筆の「御置文」
今川了俊は実際に
尊氏・直義の御前で、父今川範国らと共にこの目で拝見した
という確かな話です。
(※ちなみに、"了俊" は入道後の法名。実名は今川貞世です。)


今川了俊が見た、この足利家時の「御置文」
直義自筆の "高師秋宛て書状" に言う、足利家時の「御書」
同一のものである、という保証はありませんが
しかし、そう見てほぼ間違いは無いと思われます。
つまり、尊氏・直義兄弟は
源義家や、祖父足利家時の決意を "知らずに"、動乱の天下を駆け抜け
室町幕府を立ち上げた後に
先祖の誓い(発願)を知ったことになります。

尊氏と直義は、今川範国・貞世(了俊)父子たちの前で
 「今、天下を取ったのは、ただこの発願によるものだ」
と語っていたそうですが
この「御置文」の存在を知った時の二人の心中を思うと
見えない何かが導いたのだと
信じないでいられる自信が…ない。


ちなみに、かつては
 「この置文があったから(知ってたから)
  尊氏・直義は天下取りに走ったのだ」
と、誤解されていました。
…って、それじゃ時系列おかしいじゃん!
何でそんなに、欲深い覇者にしたいのさ!もう!
…と、相変わらず
激おこゲージ満タンにしてくれる "近代的南北朝史観" ですがw
ただ普通に、実証的に史料を分析しさえすれば
もともと、尊氏・直義
権力自体への欲で動いた訳では無い事も
世の静謐と、「王道」で治められる天下を願っていた事も
割りと簡単に引き出せる結論なのに
当時の現実をありのままに記した
『二条河原の落書』『北畠顕家奏状』
夢窓国師の『語録』、勅撰和歌集に残された2人の「和歌」
そして、花園天皇の『誡太子書』をもスルーして
"室町憎し" で歴史を語るのは
余りにフェアじゃ無さ過ぎる!!
というか、これらを読めば
尊氏・直義を責める事が出来る人は、いないと思う。


新政権内部の近臣の讒言で、彼らが追いやられた事も
立ち上がった彼らが「王道」を目指した事も
それが、花園天皇の説かれる「仁政徳治」と合致していた事も
みな事実です。
自己の幸福の為に天下を取るのは、「覇道」の覇者であって
それと対極にある
「王道」のもとに天下に君臨する者は
民の苦しみの全て、戦で積まれた罪の全てを背負うという
重く苦しい宿命に耐えているのです。(※参照『夢中問答集』)
特に、光厳院足利直義なんてもう… (´;ω;`)ブワワワワッ

この時代の、北朝武家を歪曲することは
この国の本来のあり方その深層をも曲げてしまう
非常に危険な史観…と言ったら、言い過ぎかも知れないけれど。


(※花園天皇『誡太子書』を記されたのは
 『正中の変』(1324)の6年後
 『元弘の乱』(1331)の1年前である
 元徳2年(1330)ですが
 当時の天下の様相から、その後の(鎌倉幕府の終焉による)
 "乱世の到来" を予感されていた花園天皇の慧眼には
 本当に感服します。 ただ…
 「国の乱れは、天子の不徳」とされたこの国で
 打ち続く戦乱、人々の愁嘆の絶えない時代に即位した甥の光厳天皇
 自身の度重なる不遇をも顧みず
 生涯、ただひたすら民を幸せを思い続けて
 厳しい自戒の日々に身を置かれた、その心中には
 どんなに敬意を示しても足りませんが
 このような激しい時代だったからこそ
 世の泰平の為に、民の幸せの為に
  「天子とは、どうあるべきか」
 を力強く記した『誡太子書』
 本当に重みのある、貴重な書です。)



ただし、細かい事ですが
 「足利軍は、持明院統(北朝)の天皇の為に戦った」
というのとは、少し違います。
直接的に "天皇の為"、というより
足利軍は(特に足利直義は)、"道理の為" に戦ったのであり
同じく、足利軍に院宣を下された持明院統の光厳上皇
それは保身を目的としたものではなく
「道理」を至上とする世を、理想の姿だとされていたからであって
つまり両者は、その価値観を共有していたが故に
同じ方向を向いて、次の時代を築いて行けたのだと。

私は、直接的な(つまり朱子学的な)天皇への崇拝ではなく
を同じくする事で成り立つ、間接的な君臣こそ
本物の君臣だと思っています。
(※参照は…本サイト『2-12』上から5分の4くらい
 後花園天皇6代目足利義教の、素晴らしい「公武関係の話」をどうぞ。)


というのも、歴史を見れば隠れなき事ですが
声高に "尊皇" を叫ぶ者ほど、その本音は天皇権威の "利用"
という、かなり痛い事実…
そして、「道理」より「権威」を上に置くと
国も組織も、例外なくおかしくなって破綻する
という、笑い事じゃない事実…orz
やはり、「権威は天道を越えない」のが日本の条理だと思うし
本当に主上敬意を持った者は
暗黙のうちに、天意に適った政道を実現し得るのです。


花園法皇監修、光厳上皇親撰の勅撰和歌集『風雅和歌集』より
足利直義の一首

たかき山 ふかき海にも まさるらし 我が身にうくる 君がめぐみは

高い山も、深い海さえも適わない。
 この身に受ける、君(主上)の恩恵は。)

うーんw 相変わらずの、なんちゅうきよきよ侍



まあ、そういう意味で、足利尊氏や直義
南朝との関係においても、結果的に対決する事になってしまっただけで
南朝への "敵意" "憎しみ" から、対立した訳でもなければ
そもそも、対立したかった訳でもなく
当初から、一貫して和睦を望み続けていたのであって
後醍醐天皇の菩提を弔う為に『天龍寺』を建立したのも
『観応の擾乱』(※幕府の内訌)の際
直義尊氏が、南朝との停戦・和睦を求めたのも
なんら不思議な事ではないのです。


(…ただし
 この時の尊氏側の行動は、実は
 「陰謀を企む家臣の独走」が先行したもので
 尊氏自身は、とある「不審」(『園太暦』)を抱いていたという
 複雑な問題です。
 『観応の擾乱』については、いずれ改めて詳述する予定です。
 ―――2014.11.27追記 )



(※ちなみに、6代目足利義教
  「特に義教は、格別に旧院(後花園帝)への御奉公
   比類無きものだったと聞き及んでいる」

 と、後土御門天皇(後花園天皇の皇子)が
 宸翰(=天子の直筆の書状)で語るほどの
 本物の忠臣だったりする。
 ※参照…【末柄豊『禁裏文書にみる室町幕府と朝廷』
     (『ヒストリア』第230号 2012年2月)】
 義教批判
 こういう都合悪い史実、いっつもスルーしてる(´・ω・`)
 そろそろ改めた方がいいと思う(´・ω・`) )



ところで、
足利家時の「三代のうちに…」という「御置文」は本物だとしても
源義家の「七代の孫に生まれ変わって…」という「御置文」
語り継がれた "伝説" の域を出ないのかも知れませんが
でも、否定するに足る証拠もありませんし
折角のロマン溢れる物語なので、素直に信じてみますと…
尊氏・直義兄弟は、「源義家の生まれ変わり」
だと言う事になります。


この2人は、が同じで、2歳しか違わず、元来とても仲が良く
しかし、性格が正反対という不思議な兄弟です。
尊氏
「俺は、軽々しくいたい」とか自分で宣言しちゃってるように
考えるより、感じるんだ!タイプで
どんな難局もノリで乗り切り
その仁徳で、理屈抜きに万民から慕われる人物で
天下を(無意識のうちに)牽引する素質を、十分過ぎるほど備えています。
一方、直義
これ以上無いほどに廉直正直
武士としても政治家としても、ひたすら清く真面目に生きて
民の苦しみを、自分の事のように受け止めては心を痛め
それ故、荒れた世を正そうとする気概に満ちていて
その為の知性高い道徳意識を兼ね備えています。
とんでもなく頭が良いのは
夢窓国師との問答を記した『夢中問答集』 "原型"
 直義自身が日頃
  夢窓国師にお目にかかったついでに尋ね聞いた事
  何となく書き留めていたもの」

である事からも明らかです。
(※『夢中問答集』を読んで頂ければ分かりますが
 「これ、覚えてたんかい!!」とコーヒー吹きます。)


この、鎌倉幕府終焉から室町幕府創生期にかけての
ダイナミックすぎる天下の激動を考えれば
おそらく、2人でなければ
それぞれの能力を足して挑まなければ
源義家の発願は、達せられなかったんじゃないかと思います。


私の妄想では(ホントに妄想ですみません)
源義家は、まずは家時として生まれ変わってみたものの時が至らず
今度は慎重に時勢を読んで
"一人の" 尊氏として生まれる予定だったのだが
思った以上に、時代がカオスになりそうだったので
 「てゆーかこれ、俺一人じゃ無理くさいwww」
と、あっさり怯(ひる)み
2年の間を挟んで
尊氏と、それを補完する能力を持った弟直義
"二人の" 兄弟として生まれることに
急遽、予定変更したんじゃないかと。
しかし、そうすると
本来は、一人の人間として生まれてくるはずだった尊氏と直義
もしかして始めから
一人に戻らなければならない宿命を背負って、この世に生を受け……
だとしたら、天下を治めた暁には―――


なぜ、こんなに仲の良かった2人が
『観応の擾乱』で決裂しなければならなかったのか
しかもなんで
この世で一番廉直直義
誰よりも、正しい政道を進めてきた直義
死ななければならなかったのか
もう、何度考えても納得出来なかったのですが
これはつまり―――

よ〜し〜い〜え〜〜 (`・ω・´)(`・ω・´)(`・ω・´)
おめーが怯んで分身したから
直義あんな事にならなならんかったのか!!www
おいコラ!!
これは、きちんと本人に説明してもらう必要がありますね。
では、日本史上最も互いを思い遣っていた兄弟の悲劇の落とし前は
本サイトのメイン、史実妄想物語『黎戦記』でつけてもらう
という事で
平安の源義家にも、室町物語(※時間軸現代)に登場してもらいます。



ちなみに、足利尊氏足利直義…かも知れない
との疑いがひじょーーーに強い
とある神○寺「一対の肖像画」がありますが
その肖像画、実は詳察すると
目以外は "ほぼ同じ" というくらいそっくりに描かれていて
重ね合わせたら、対消滅しちゃうんじゃないか、おい!?
というレベルの代物です。

ってゆーか、どう考えても「○護寺三像」尊氏直義!!
でも、未だに認められていない
こんなに理論立てて実証されているのに…(´・ω・`)

(※詳しくは…
 【黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書)2012】
 直義の政道への姿勢や『観応の擾乱』の解釈には、やや異議ありですが
 (絵としての)絵画の分析については
 多方面からのアプローチを極めた秀逸な論説です。
 しかも、この肖像画の謎には
 これまた八幡様が絡んでくる、ってゆうw)



という訳で
長いソルティ時代を経て
遂に、真の源氏将軍の時代がやって来ました。
もう消えてしまったかと、諦めかけていたその火
それでもどこかで、繋がり続けていたのです。


…うん、まあ、室町時代も割りとしょっぱい事多いんだけどね。
ってゆうか、尊氏も鎌倉幕府の御家人時代(29歳まで)は
結構ちんまりしてたんだけどね。

(※なぜって、鎌倉時代の歴代足利家の当主はみな
 「執権北条一族の娘を母に持つ者」だった
 言い換えれば
  「北条の血筋でなければ、例え長男として生まれても
   家督継承の資格を与えられず、庶子として扱われた」
 という
 超ソルティルールがあったから。
 なんてかわいソルティ源氏嫡流足利家… (´;ω;`)ブワッ
 尊氏・直義兄弟の母は上杉清子(つまり北条でない)。
 2人には、北条の血筋の兄高義がいたのですが
 彼が早世(と言っても、多分20歳以上)したことで
 尊氏が例外的に、家督を継ぐことになったのです。
 実は…
 祖父の足利家時と、尊氏・直義の隠れた共通点は
  「歴代足利家の当主で、北条一門を母に持たない」
 ということ。
 これ確実に、源義家は狙って生まれ変わって来てるだろww)


何で源氏って、いつもこうなんでしょうか。
ただ、彼らが、妙に人々に愛される存在だったのも事実で
室町幕府創生期の、世相を伝える記録の節々にそれが読み取れます。
例えば、今川了俊の手記『難太平記』には
 「(将軍が)天下を取られて後
  日本国の人で、この御恩の下にない者はいない」
とあったり。
そもそも、当時の動乱を思えば
足利家が、"私的" に源氏の再興を望んだとしても
簡単に事が運ぶような甘い時代ではなかった訳で
実際、その最初の一歩となった "北条への反旗" を支持したのは
尊氏に期待する足利家の家臣達であった事からも
そこには、「源氏将軍」の再来を待ち望む
人々の集合意識のようなものがあった
だからこそ
尊氏の声で、無数の軍勢が集まり、時代が動いたのでしょう。

(※元弘3年(1333)4月29日
 尊氏たちは丹波国篠村
 源氏の象徴「白旗」を高らかに掲げて挙兵を宣言し
 八幡大菩薩戦勝を祈願します。
 源氏が動く時、そこには必ず八幡様!とな。
 篠村八幡宮には、尊氏の願文が納められています。
 ※参照…【上島有『足利尊氏文書の総合的研究』
  [本文編]および[写真編] (国書刊行会)2001】)

どうやら、いつの時代も人々は
"源氏" というしょっぱい王子を、心のどっかで待っているらしい。


鎌倉幕府については
『御成敗式目』に見られる北条泰時の理念は、間違いなく "武家の精神" の根本だし
全体的に、磐石な政権だったとは思うけど
北条一族による、特に初期の、有力御家人への粛清の嵐は…
うーん、なんとも。 ってか絶句ww
ただ、『梅松論』夢窓国師談によると
初代将軍の源頼朝
賞罰に私曲が無かったのだが、罰が厳しく仁に欠ける所があった、と。
それに対して、尊氏
仁徳を兼ね備える上に、なおも三つの大きな徳がある
…以下、有名な

第一に、その心、にして
    絶体絶命の窮地ですら、恐れる事なく笑ってる
第二に、天性の慈悲で、人を憎む事を知らず
    怨敵だって我が子の如く許しちゃう。
第三に、金銀も土石も、同じと思す広大な心
    財貨に執着まるで無し
    山のような貰い物も、人と物を見比べることなく
    手当たり次第、残らずみんなにあげてっちゃう


末代まで、このような将軍はそう現れはしないだろう
という事だそうだ。

そりゃあ、こんなやつそうそう居てたまるかよ…
改めて考えると、尊氏って何者なんだよww
って感じですが
日本の歴史を、巨視的俯瞰していると気付くのは

 「本物は、伝説を残す」

と言う不思議な傾向です。
源氏と言うのは、昔からあちこちに伝説を残していますが
実は、前回の「南無!八幡大菩薩!!」で触れた
"神の系譜" に属する神様達も、多くの伝説に彩られている一族で
両者は、その点でよく似ているのです。
(一方、新しく作ったっぽい神々には、"伝説が無い" のです。)

その内容の真否は別にしても
愛されなければ、物語なんて伝説になる前に廃れてしまう訳で
なぜか自ずと、そして広く人々の口に語り継がれる存在というのは
この国の、この土地に根を下ろした "本物" なのではないかと。


(※尊氏直義については、多くの発給文書自筆もたくさん)が
 今日まで、各地に残されていますが
 当時の人々にとって、実際、彼らがどんな存在だったのかは
 その「字」の中に、見えてくるものがあります。
 百聞は一見にしかず! 参照は上記の…
 【上島有『足利尊氏文書の総合的研究』[写真編](国書刊行会)2001】 )



そんな源氏将軍の幕府室町と言う時代は
主上と将軍の関係、将軍と大名公家と武家源氏と平氏の関係も
生まれた文化も、礼節儀礼も、そして「王道」
色んな意味で、実に日本っぽい
そして何と言っても、公方が妙に愛されていたw
(※室町の文化については
 義政に関連付けられた逸話がよく目に付きます。
 あんなにダメダメだったのに
 公家にも武家にも、懐かしく偲ばれる謎の公方義政。)


主上がいて、それを支える将軍がいて、将軍を慕うがいて
みなが "相対" の関係だったのは
天照大御神八幡大菩薩、そして八百万の神 "相対" だった事に
よく似ています。
ちなみに、室町幕府の平氏といえば…伊勢家
鎌倉時代の北条家足利家の関係とは打って変わって
公方の「御父」として甲斐甲斐しく世話を焼く
本名、平(たいらの)貞親、平貞藤、平貞宗、ほか色々
おまえら、公方好き過ぎんだろ
というくらい、せっせと公方の日常を書き記した故実書
大量に残してくれました。


それなのに―――
近代になって、なんであんな酷い中傷にさらされてしまったんだろう (´;ω;`)
足利尊氏 "正当に評価" しただけで
集中攻撃を受け、大臣が「辞職」に追い込まれた時代。
WW2の頃は、尊氏ゆかりの寺院(京都市内ではない)に
○軍関係者が訪れては
「国賊」だとして、尊氏の墓碑を蹴り倒していた
という悲し過ぎる実話。
平安の昔から、長く長く日本人の心に灯され続けて来た
源氏将軍を想う小さな火が踏み消され
先祖を思い、故人を敬する心すら
歪められた歴史の前に否定され、狂って行く。
一体あの時、この国はなぜ
こうなってしまったのか。

もちろん、明治から敗戦までの80年を単に非難したい訳ではなく。
ただ、戦後の日本はこれまで
他国に対しては誠意を尽くして来たと思うけれど
自国自国に対する過ちを、誰も省みていないのは
非常に大きな問題だと思います。
自国に目を瞑(つぶ)り続けているうちは
どんなに世界に目を向けようと
本当の意味で「日本の戦後」が終わる事はない
置き去りにされた問題が、余りに多過ぎる。

(※私には、終戦の約2年前
 夜間銃撃戦の末、南方のソロモン上空に散った海軍航空隊の大伯父がいまして
 決死の覚悟勇敢に戦った大叔父を、心から誇りに思っています。
 この国は、前線ですべてを賭して戦った彼らに
 今も支えられていると思っていますが
 ただ、「彼らが願うこの国の未来とは?」と考えた時
 それは、長い歴史から読み解いた "本物の日本" の延長線であって
 明治に一部の為政者によって作られた日本の続きでは無い
 と思うようになりました。
 彼らが、学問の自由が無い時代の歴史を学んだ事も承知していますが
 でも、すべてを知ったらきっと、真実の方を選んでくれる
 と、個人的には自信を持っています。)



さて、「お盆」の最後の日、8月16日は
お迎えしていたご先祖様をお送りする為
夕刻に「送り火」を焚いて、帰り道を照らす日です。
有名なのは、京都の夜空に灯される「五山の送り火」ですが
実は、この火も
明治初頭から約10年間、新政府によって禁止されました。
先祖の精霊を祭る「盆」
近代国家に相応しくない "迷信" であるとされたからです。

精神文化を破壊した張りぼての根無し草国家のが
よっぽど非近代国家だろがぼけ!
…とかいうマジ切れコメントは自重して
禁止令が解かれて再開したものの
伝統文化が急速に廃れてゆく時代の中で
かつて十山で灯されていた「送り火」は、半分まで減ってしまいました。
それは残念な事ではありますが
しかし、現在まで脈々と受け継がれているのも事実で
それはきっと、京都の人たち譲れぬ思いの賜物なのでしょう。


私は、伝統と科学技術の共存こそ
"摩訶不思議国家" 日本の、未来図だと思っていますので
ちょっと失い過ぎてしまった伝統を思い出す為に
少しの提案が出来たらと考えています。

たまには、小さな火の中に
遠い先祖を思ってみるのも良いものです。
日本の夏の夜に灯され続けてきた
単なる迷信なんかではなく
もっと "大きなもの"
過去から受け継ぎ、未来へ伝えて来たのだと思います。


迎え火

これは、13日の「迎え火」…のつもり。
本来は野火であるべきなんだけど
現代の住宅事情では、これが精一杯。



posted by 本サイト管理人 at 14:57| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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