2014年08月30日

畠山義就(その7)

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏人物記』です。
前々々回の「畠山義就(その6)」以降
「南無!八幡大菩薩!!」
「源八幡太郎義家」
と、夏の特別編をお送りしておりましたが
今日は再び通常モードに戻って…


畠山義就


いつまで義就のネタ続くんでしょうか。
ってゆうか、そろそろ義就自身がネタになって来た…


さて、前回までの解説で
八幡大菩薩武家源氏が、極めて親密な関係にあった事
それが、現代人の想像を遥かに超えて
日本の歴史の中で、人々の意識多大な影響を与えて来た事が
見えて来たと思います。
まあ、"人々の意識" というものは
歴史の表層的な出来事・事件に対する、いわば "深層" であり
目立たぬが故に軽視されがちですが
これに気付かずに史料を分析してしまうと
肝心な所がスコーンと抜けたなんちゃって歴史」になってしまい
あんま役に立ちませんので、慎重な考察が必要なのです。


例えば、6代目足利義教
 「くじ引きで選ばれた将軍wwwww」
といった感じで
"現代感覚" ではネタにされてしまっていますが、しかし
鬮(くじ)が引かれたのは、天下の "八幡宮の神前"
つまり義教
 「八幡大菩薩に選ばれた男」
な訳で
これは当時においては
武家だけでなく、主上公家にとっても非常に重い意味を持つと同時に
みんなが賛同出来る、納得の良策だったのです。

(※八幡大菩薩は、"源氏の氏神" である以前に
 「鎮護国家の神」であり、「宗廟」でもあるので。
 八幡宮 "神前の鬮" で将軍が決定した事に対して
 朝廷の歓迎ほのぼの祝賀については
 本サイト『2-5』最後の方、義教の「三回鬮」の解説をどうぞ。)
 
 
まあ、実際
義教は日本史上の歴代将軍で、公私共に最も主上に御奉公を尽くした将軍です。
これはホントにホントw
前回紹介した「後土御門天皇の宸翰」をはじめ、色々と証拠ザクザクです。(※詳細はまた)
朝廷への崇敬が厚かった足利尊氏・直義
まだその頃は、主上将軍はそこまで私的には親しくないし
足利義満以降は、私的には非常に親しいのだが
緊張感に欠けるやつがいたのは確かw
上記の宸翰
とある案件で、両者の主張が一致しなかった時のものなのですが
 義教の忠節に比べて、義政おまえってやつは…」
という苦言だったりする。
コラ!よしまさ(`・ω・´)

(※ただしこれは、あくまで "意見の齟齬" であって
 互いの立場の否定や敵対ではありません。
 公武統一政権と言われる室町
 公武は「相対」「補完」で、互いの「信頼」が前提だったので
 こういう事がよくあったw)


(※ちなみに、鎌倉幕府については、源氏3代以降は
 京都から迎えた幼い摂家将軍または宮将軍であり
 実質権力を持たなかったのだが
 これは、実質権力者執権北条一族による
  「成長したら、京都に(強制)送還
 そしてまた新しい幼君に…というドライな政策による。
 見事なまでに開き直った傀儡政策である…。 
 まあ、それで政権が安定していたのも事実。でも、ひどすw)



それなのに…
一番の忠臣が、一番誤解され叩かれている事実(´;ω;`)ブワッ
室町に限っては忠君行為は無かったものと見做す」って
どんなアクロバットなイデオロギーに染まったら
こんなダブスタ、真顔で全開出来んだよ…
…とかいうマジな突っ込みは自重して。
とは言え『嘉吉の変』
なんか現代では、どっちかってーと義教が悪者、天下の敵みたいにされてますが
実際は
 「人倫紀綱(=おきて)を乱し、朝命を遮り
  天吏(=武家)の戦争を招いた」
 (※天吏…天命を奉じた役人)
のは
義教を暗殺した "赤松" であり
天下の「仇讐」(=かたき)として、その誅罰

 「国に忠を尽くし、家に孝を致す、ただこの時にあり!!」

と、主上御自らの加筆&勅筆(直筆)『綸旨』で命じられているのです。
(『建内記』嘉吉元年7月30日)
(※『嘉吉の変』については、本サイト『2-5』真ん中へんの概説
 『2-6』上から5分の4くらいの詳説をどうぞ。)


室町朝敵・逆賊と信じるのは、尊皇の裏返しなのだろうけど
室町批判の為なら、史実の主上の叡慮をもスルーって
なんか、かなり間違っていると思う(´・ω・`)
それ全然尊皇になって無いじゃん …おっと、本当の事は自重。

(※ついでに言うと義教
 私曲不正を特権だと思っているような役人が大嫌いで
 道理に背かぬよう「誓約書」を書かせるほどなので
 既得権益で美味しい思いをしていた官僚集団にとっては
 誹謗中傷で引き摺り下ろしたい将軍No.1だったのだw
 (※詳しくは本サイト『2-5』上述の「鬮の話」の少し上)
 それを考え合わせると
 義教批判を展開しているのは、御用学者が多いのだろうかw)
  

…ただ、遣り切れないのは
義教亡き後
禁裏襲撃・全焼という、主上の一大危機『禁闕の変』が起きてしまった事と
(※『禁闕の変』については
 本サイト『2-6』最後の方「赤松家再興」の話をどうぞ。)
そしてその後
(『応仁の乱』前までは華やかな時代だったものの)
中長期的に見た幕府の衰退が、そのまま朝廷の衰退に直結していた、という悲劇からも
実は、義教の突然の死で
結果的に一番苦難を負う事になったのは、朝廷だった…てゆう(´;ω;`)


…おっと
また、義教の話めり込んで来てしまった。失礼。
しかし、歴史を曲げると、必ずも曲がるので
どうしても正しい理解が広がって欲しい訳です。
室町の "公武関係" の正当な考察
これまでの
 朝廷幕府は相容れないもの」
という二元論的な認識の誤りを正し
マクロに見た日本の深層を明らかにしてくれる
期待の分野です。





あーさて、前置きが長くなりました
肝心の義就八幡様の話を始めます。

長禄3年(1459)6月、につんつんお知らせを受け
翌長禄4年(1460)9月に、涙の没落となった義就ですが
その後の、奇蹟的逆転ヒット(でもゴロ)の連発を考えると
落ち行く途次で
「石清水八幡宮」に捧げた祈りは届いたようであります。

(※義就の一生ダイジェストについては
 当ブログ「畠山義就(その5)」をどうぞ。)


確かに、嶽山籠城戦&吉野ひきこもりはコテンパン時代でしたが
復活した時は
 「八幡大菩薩の化身」(by『応仁略記』)
になってた、とか。 どんだけどんななんだよww

そして京都復帰
正月の『上御霊社の戦い』を経て、応仁元年(1467)5月末の『本戦開始』までは
山名方大名たちの、うっきうき有頂天期間(※ただしまやかし)
だった訳ですが
この時期、ひきこもり明けで、まだ人界の光も眩しい義就
更なるめでてぇ話がありました。
31歳にして、遂に正室を迎える事となったのです!!
おお!
よかったなぁwww
(…それにしても、嫁も無く引き篭もってた没落義就の不遇って (´;ω;`)ブワッwww )


さて、義就の正室は
山名宗全の分国、備後国の国人金澤家の娘で
(『大乗院寺社雑事記』延徳2年8月27日)
金澤勢は、この2月下旬頃上洛したようです。
(※『経覚私要鈔』応仁元年3月6日
 山名細川の対立が本格化するのは5月に入ってからで
 2〜3月頃なんて最も太平ムード
 特に山名方は、ギリギリまで油断し切ってましたから
 これは対戦準備の上洛ではなく、嫁入り上洛だったと考えていいでしょう。)

しかしなんと!
上洛の途中、丹波国(細川勝元の分国)で一行が襲われ
「金澤が殺害された」という情報が京都に届き
ブチ切れた山名宗全が、細川勝元への報復準備に入り
細川一族も反撃態勢に入って、あわや京都一触即発!!
という事件が起こります。
…ただし、被官人に少々犠牲者が出たものの
金澤本人は無事だと言う事が判明し、洛中合戦には至らずに済みました。
経覚に言わせると
 「天魔所為!!」 (天狗じゃ!天狗の仕業じゃぁぁーー!!)
と言うくらい
バクバクの事態だったのですが
(…まあ、この2ヶ月弱後に待ってるのは天狗ってレベルじゃないが。)
それにしても
嫁入り一行を襲うとは。 そこには無いのかww


(※ところで、上記の『大乗院寺社雑事記』によると
 これは、23年後の延徳2年(1490)の記述ですが
 義就のところには「御上」と呼ばれる正室
 「御料人」と呼ばれるその妹も傍にいたそうで
 さらに「御上」の乳母の冷泉局
 この3人はみな
  「義就に物申せる人」
 だったそうだ。(by尋尊)
 つまり、なんか取り次いでもらいたかったら彼女達に!
 という裏技情報なんだけど
 もしかして、あれだけ家臣の統率力分国統治力もあった義就
 割りと嫁には頭が上がらないタイプだったのだろうか。
 …ってどうでもいいか、そんな事w)


まあ、そんなトラブルはありましたが
無事、嫁迎え(婚儀)は済んだ様で
翌応仁2年(1468)に長男、そのまた翌文明元年(1469)に次男が誕生します。
…ってゆうか
めっちゃ乱中ww
しかも、洛中近辺戦闘真っ盛りの大乱初期ww
おめー本当マイペースだな。

しかし、そんな希有な時期に生まれた我が子に
何を思ったのかこの義就、とんでもない幼名をつけてしまった。
その名も―――

  修羅 と 乱

……。
って、確実にアホだろwww
修羅で乱なのは、お前だけにしとけよww
この史上稀に見る完全無欠のDQNネーム
なぜにお前は、そこまで時代の先を行くのか。


ちなみにこの兄弟は
通称、「修羅法師」「乱法師」と呼ばれていたのですが
(※法師とは、ここでは「男の子」という意味)
兄の修羅法師は、正しくは
 「修羅和光」(しゅらわこう)
と言いました。

「和光」すなわち「和光同塵」とは
現在一般には
 「優れた才能学徳を隠し、俗世間に同化して生きる事」
という意味ですが
おそらく当時は、仏教的な意味での
 「仏・菩薩が、知徳の光を隠して(和らげて)
  煩悩の塵にまみれたこの世に仮の姿を現し、衆生(しゅじょう)を救済する事」

を意図した命名だったと思われます。
(※衆生…生きとし生けるもの、一切の生物・人類の事)

つまり
 「内は和光で外は修羅たれ、我が息子!」
という
不動明王みたいな壮大な命名な訳ですが
(※不動明王については当ブログ「足利義教」をどうぞ)
それにしたって…
なんちゅうネーミングセンスだよww 
だいたいそれじゃ、持国じいちゃん(義就父)の教えとまるで逆じゃないか。
持国美学の一番弟子、伊勢貞藤から指導が入るぞ。
…いや、そんな事より
こんな名前付けたら、確実に子供グレますよね。
この兄弟、その後どうなってしまったと思います?
こんな名前付けるから…
こんな名前付けるから…
この兄弟は―――

 なんか「優しい子」に育ってしまったんです!!

はい、ズコー
しかも、初めに言って置きますが
義就は、超子煩悩です。


まず、兄の修羅法師ですが
応仁2年(1468)5月生まれで
文明9年(1477)の大乱終結&河内下向時10歳
義就の跡継ぎとして、将来を嘱望された御曹司だったのですが
しかし―――
6年後の文明15年(1483)11月14日
16歳にして、早世してしまいます。
義就、大ショク(´;ω;`)ブワッッッ
だがそれ故
修羅法師改め、法名永興寺清仲の法要たるや
すこぶる手厚く行われたw
年忌はもちろん、毎月の忌日にも祈祷が実施され
そしてこの仏事は主に、以前紹介した『蔗軒日録』の筆者
東福寺住持で、今は和泉国堺の海会寺在住の
季弘大叔(きこうだいしゅく)が勤めていました。


それでは
延徳元年(1489)永興寺殿清仲七回忌「法語」より
(※これは、建仁寺住持の天隠龍澤による。季弘大叔は長享元年(1487)8月7日に入滅。)
修羅法師の人物像とは…

 永興寺殿(=修羅法師)は、身丈適長にして、天性昂然とし
 弓術・馬術『六韜』『三略』をも極めれば
 その言葉は、士卒いたわり慈しみ
 を平らかに治め、漁猟(殺生)を禁じ、酒色に溺れる事を誡め
 若年にして、(その才知・人徳は)老人の如くなれば
 その徳の恩恵に及ぶこと
 百里の河を潤し、千里の海を満たすにも似て計り知れない
 (彼を失った事は)天下の大不幸である

な、なんという生き仏ww
うん、まあ
「法語」「画賛」は、故人を顕彰するものですから
120%(ってか200%)の美化は、当然されている訳ですが
故人を知る者達の前で披露するものですから
極端な嘘は無い、という事と
「勇猛果敢」だった人物を、「繊細で文道を専らにした」みたいに
あさっての方向に褒めるような事もない
つまり、誇張はされていても方向性は合っている、と。

しかも、どうやら容姿も端麗だったようで
没後に作成された肖像画には、季弘大叔「画賛」を添えたのですが
それによると…

 永興寺殿清仲は、人界の鳳凰、天上の麒麟
 とを備え、とを携える
 その輝ける風姿は、芙蓉の如し、秋水の満つるが如し
 温厚にして和気なれば
 即ちこれ、にも似た陽春の輝き


 (※鳳凰・麒麟…聖人出現の前兆として現れる想像上の動物。
  傑出した人物の例えでもある。
  ※秋水…秋の頃の、清く澄み渡った水。)

…まあ
スペシャル美化なのは百も承知ですが、ただ
「勇ましい、たくましい」ではなくて
「美しい」と表現されている事が、気になって仕方ないw
(ってゆうか、"芙蓉" って美人の例えだよね…)

季弘大叔は、義就との交流が深く
その家族とも、実際に面識があった事は確実ですから
この「画賛」は割りと的確に
修羅法師生前の姿を伝えていると思うのですが…。
(ってゆうか、ここから想像される父義就の容姿って一体…)
しかも、義就の人柄を良く知る人物ですから
それは、父義就の意向に沿ったものでもあるだろう、と。
(※実際、義就はこの「画賛」の草案を確認している。(『蔗軒日録』文明16年5月4日))
なんという親バカ…じゃなかった、溢れる我が子愛

(※以上、『大日本史料』文明15年11月14日、延徳2年12月12日)




ところで、修羅法師については
ちょっとけったいな噂があって
尋尊がこんな "浮説" を書き留めています。

 「去年(文明15年11月)他界した修羅御曹司
  子息(遺児)が先月(文明16年8月)生まれたのだが
  既に家督は、義就次男の乱法師と決まった後だったので
  その子は無益一家の乱の元となる、といって
  義就が、妻子共々成敗してしまった
  …とかいう噂聞いた。  なにそれマジなの??」
  (『大乗院寺社雑事記』文明16年9月10日)

という事ですが。
うーんw どう考えてもそれは無いと思いまーーす!
なぜって、この翌年の三回忌なんて
 「仏事驚耳目」(仏事盛大、人みな驚く)
   (『蔗軒日録』文明17年11月14日)
ってほど溺愛する修羅なのに
その遺児を切り殺すなんて、流石の義就でも有り得んだろう。
たぶん、みんなが井戸端会議

 「んで、修羅法師の後の家督はどうなったんだ?」
 「次男の乱法師に決まったらしいぞ」
 「ふーん。 あれ、修羅法師には子はいなかったのか?」
 「さあ? 聞いた事ないけど。いないんじゃね?」
 「いや、生まれた直後にさっくり成敗したらしいぜ!(なんつって)」
 「マ・ジ・で・か?! …でも、やつならやりかねんな」
 一同「義就、恐えぇぇぇぇ!!!」 (そして都市伝説化

とかいうネットの噂だと思う。

だいたい、臨終の直前なんて病床に伏していただろうし
そもそも、正室がいたことすら怪しいですよ。
というのも
修羅法師は、元服後の(いみな)が知られていないのですが
七回忌に関する記述で『蔭凉軒日録』に
(当事者の天隠龍澤からの話として)
 畠山修羅法師殿七年忌陞座…(云々)」
とある事から
そもそも、元服していなかった可能性が高いのです。

実は、弟の乱法師が元服したのも
修羅(享年16歳)の他界後すぐ…ではなくて
2年後の文明17年(1485)8月6日、17歳の時なのですが
これは、当時の平均に比べてかなり遅い元服です。
理由としては(憶測ですが)
祖父畠山持国の元服(いつだったかは不明)の「先例」に倣った
もしくは
公方義政赦免を待っていて、それまで息子の元服を控えていた
などが考えられますが
個人的には、義政の赦免現将軍義尚からの「偏諱」
期待していたのかなーと思います。
(※実は、公然の秘密ながら義就
 幕府側の人間との交流が、細々とあったのであるw)


まあ、正室がいなくとも
とある娘が、父親が修羅らしい子を産んで…(ry
と言う可能性もありますが
「法語」「画賛」修羅の人物像から察するに
そんな軽率な事もしなさそう。

ただ、義就は筋の通った人物で
特に、罪科人謀反人に対しては、一貫して厳しい成敗で臨んでいたのは事実で
これに関しては
義就猶子(≒養子)で、かつての跡継ぎだった畠山政国の一件が思い出されますが
(※畠山政国については当ブログ「畠山義統(続き)」をどうぞ。)
ただし、これはよくある
 「男子に恵まれなかったので、養子を跡継ぎに定めたが
  その後に実子が出来たので、約束を反故に…」
というのとは少し違って
畠山政国義就の猶子となったのは
能登守護畠山義忠(政国の父or祖父)の算段で
しかも、康正2年(1456)独身義就20歳の時だし
その上、応仁元年(1467)の婚姻は
間違いなく山名宗全仕業…じゃなかった、斡旋ですから
一概に
 「猶子政国がいるのに、実子修羅を儲けた義就の不義」
と言ってしまうのはだよなぁ、と思います。

畠山政国には、個人的に同情しているのですが
やっぱり、乱中の単独下向 "謀反" になってしまったのだろうな、と。
宗家の安泰を願った畠山義忠の老婆心が、裏目に出てしまった訳です。
うーん…(´;ω;`)
誰も悪くないのに、かくも冷たい現実のもどかしさ。




はい、では、気を取り直して
早世した兄修羅の跡を継ぐ事になった弟乱法師
文明元年(1469)生まれの1コ下
文明17年(1485)8月6日、17歳で元服して
諱を「基家」(もといえ)と名乗ります。

基家(乱法師)については
残念ながら、その人柄を伝える史料はほとんど無く
唯一の記述が―――
これは『明応の政変』の少し前
父義就没後、基家(乱法師)が家督を継いで2年経った頃
『拾芥記』(公家の五条為学の日記)の記述なのですが

 「(義就の)子、次郎(=基家)微弱…」
  (『拾芥記』明応2年2月15日)

微弱てwww
まあ、義就と比べたら誰だって微弱になってまうでしょうが
修羅法師の人柄から察するに
乱法師も兄に似て
慈悲に溢れた、慎ましい系だったのではないかと。

この翌年の明応3年(1494)正月5日
『応仁の乱』終結から16年と少しが過ぎた日
かつての義就の盟友、越前朝倉家慈視院光玖(朝倉孝景の弟)が他界したのですが
この時、基家(乱法師)は朝倉方に
緞子(どんす。上等な絹織物)や盆、香合、茶碗、花瓶、太刀を贈り
また、当主朝倉貞景(朝倉孝景の孫)への書状に
 「慈視院光玖卒去の事を聞いて
  言葉にならないくらい驚いています。為すすべもありません。
  皆さんの深い悲しみ、お察しします」

と認(したた)め
香典20貫文を贈っていますので
人の痛みの分かる、優しい子だったのでしょう。
(『大乗院寺社雑事記』明応3年2月17日、6月30日)




という訳で
"あの" 義就なら、息子を
「室町最猛☆猛禽シャーク系ソルジャー」に育てそう
かと思いきや
意外にも、菩薩のような「後光射してる系」だった、てゆう。
…それはちょっと
むしろ畠山政長に通じるんだがw
(まあ政長は、臨戦時だけは戦闘力めっちゃ高いけど。)
ってゆうか
政長の嫡男畠山尚順(ひさのぶ)のハイパースペックを考えると
義就政長は、確実に息子取り違えたと思うww


ちなみに、義就の意外性はこれだけではなくて
季弘大叔の日記『蔗軒日録』には
色んな「薬」が登場するのですが、その中で注目は

 耆婆万病円、これは
  太守(義就)が3年前に調合した霊薬。…尤も霊験あり」
 「蘇合香円、これは
  太守(義就)が調製した貴重なもの、秘すべし

  (『蔗軒日録』文明18年8月13日、9月25日)

って、おめー健康オタクだったのかよ!!
いやむしろ、調合オタクか?
しかも、なんか妙に不思議な薬扱いされているのが気になって仕方ない…。
何者なんだこいつは。


まあ、そんな意外性どうでもいいっちゃいいのですが
伊勢神宮石清水八幡宮春日社に祈祷料を寄進し「泰平の祈祷」をしたとか
(『大日本史料』文明14年3月是月)
それから、修羅法師が亡くなった時
絶望した義就が、興福寺の維摩会に300貫文を寄進し
尋尊が、(  Д ) ゚ ゚ ポーーーン な・に・そ・れっっ☆☆☆
と仰天した
(『大乗院寺社雑事記』文明15年11月15日)
とかいうエピソードは良いと思います。
あと
文明15年(1483)には、畠山家の代々の佳例として
摂津国の住吉社(※現在の大阪府住吉大社)に
 「第三大鳥居(浜大鳥居)」
を建てたり、とか。 (『大日本史料』文明15年4月15日)

義就は、"戦上手の名大将" というイメージで通っていて
かなり時代の先行く事もしているのですが(※例えば足軽段銭とかw)
伝統礼節を重んじる名主君でもあったのです。


まあ、義就ので修羅と乱の祖父畠山持国
どこか悟ったような優雅さがある人物だったようですから
(※特に、『応仁の乱』以前の
 血気盛んな山名宗全&細川勝元に比べるとw
 参照は…当ブログ「畠山義就(その5)」最後の方、「金吾様」の話をどうぞ。)
きっとこれが
本来の畠山家の家風なのでしょう。
一見、修羅は、義就とは正反対に育っちゃったように見えますが
もしかしたら、義就が隠していた本性
ありのままに映し出していたのかも…知れない。


そう考えると、
「修羅和光」とは本当は義就自身のことで
運命に翻弄され、修羅道を行くしかなかった義就
たどりそびれたもう一つの道があったのなら…

 「物は否を終えず」(すべての物事は、否では終わらない)

あの神様ならきっと
その波乱万丈な人生に、答えを用意してくれている…はず。





―――と、いう訳で
ここまで壮大な前置き、こっからが今日の本題です。 なにー



『応仁の乱』終結年、文明9年(1477)9月
義就一行が向かった先は
河内国誉田(こんだ)に建つ「誉田城」
(※現在の大阪府羽曳野市誉田)

(※当時の河内国の2大要所
 守護所だった北河内の「若江城」と南河内の「誉田城」
 後者が選ばれたのは
 京都からの距離がある、経済の要所和泉国堺に近い
 被官人の本拠地…などの、地政学的な要因だと思われます。)


さて、ここを本拠地と定めた義就
屋形を新造して分国統治を開始するのですが
実はここ
八幡大菩薩こと応神天皇=誉田別尊(ほんだわけのみこと)
「御陵」がある場所なのです。
(※「応神天皇陵」で地図検索GO! ついでに画像検索もGO!)

(※「誉田」は、"こんだ" と読むのですが
 太古は "ほんだ" と読んだようです。
 応神天皇は別名、誉田天皇(ほんだのすめらみこと)
 とも呼ばれます。)


つ、つまりこれは、八幡大菩薩の里帰り
…とかいう妄想はさて置き
応神天皇陵「誉田御廟山古墳」と呼ばれ
大阪府堺市の仁徳天皇稜(※仁徳天皇は、応神天皇の皇子)に次ぐ
全国第2位の前方後円墳ですが
"墳丘長" では仁徳天皇陵に及ばないものの
"墳丘体積"(使った土の量)では
実は、応神天皇陵全国第1位、という巨大な古墳です。

ただ、「誉田城」にしろ、義就の「新造屋形」にしろ
今のところ遺構が特定されていないので
残念ながら、詳しい事は分かっていません。
応神天皇陵の東側で発掘された「茶山遺跡」との関連が指摘されているので
今後の研究にワクテカ待機しましょう。


(※中世では、古墳を利用した城郭は珍しくなかったらしいのですが
 ただ、「誉田城」は室町初期から存在し
 この頃の両畠山の合戦でも、結構何度か落とされてる割りに
 応神天皇陵の測量図では
 頂上の社殿(後述↓)以外に、目だった遺構は見当たらないので
 (※前方部の崩落跡は、天平6年(734)の大地震によるものです)
 やはり、屋形はもちろん城郭
 堀の内側にあった訳ではなさそうです。
 (せいぜい、最終手段の籠城に使われたくらい?) )



ちなみに、江戸時代までは
応神天皇陵の南に隣接する「誉田八幡宮」から、放生橋を渡って
陵墓頂上の社殿まで自由に参拝に行くことが出来たそうだw
ついでに言うと「誉田八幡宮」には
『誉田宗廟縁起絵巻』『神功皇后縁起』という
永享5年(1433)に足利義教が奉納した重要文化財があってだな…
おっと、また私の中の義教フォルダが火を噴き始めたすまぬ。



という訳で
当初、「石清水八幡宮」社僧となるはずだった義就
その希有な人生を一回りしてたどり着いたのは
八幡様こと応神天皇のお膝元だった
という、ちょっと不思議なお話

『応仁の乱』後の十数年、幕府から討伐対象にされ続けながらも
なぜかここらは、割りと繁栄
文明14年(1482)秋以降は
「橘嶋正覚寺」というご近所に、畠山政長が引っ越して来てしまったと言うのに
なぜかそこだけ、割りと平穏
(※『蔗軒日録』によると、季弘大叔はもちろん
 みんな普通に行き来していたっぽい…のだが?)
…という
謎に包まれた義就の誉田時代ですが
それにしても、八幡様
最初から最後まで、義就の事が気になって仕方なかったのだろうかw

(※という訳で、本サイト『2-1』の最初の画像
 「誉田在住 Y.H.さん」の正解は
 "Yよしなり Hはたけやま" さん、でした。
 ちなみに、八幡(はちまん)の当初の読みは
 Yや)Hはた)です。 な、なんだってーー
 どうでもいいですね、そんな豆知識。)



しかし―――
泰平とは、願うほど遠のき、祈るほどとなってしまうのか
「誉田城」はこの後(義就没後)
「橘嶋正覚寺」と共に、『明応の政変』の舞台となってしまいます。
(…なので、場所をよく覚えて置いて下さい。
 「大阪市平野区加美正覚寺」で地図検索GO!「誉田」の北西に当たります。)

なんで…
彼らにばかり
こんなに冷たい運命が、降り積もるんだろうなぁ(´;ω;`)ウッ…


ただ、『応仁の乱』終結後
義就と、2人の息子修羅は、誉田の屋形で共に過ごしていた訳で
それは、結構幸せな事だったように思います。
畠山政長なんて
橘嶋正覚寺を落としてからは、ほぼ河内国に在陣義就に付きっ切りwで
少年期を一人、父に代わり京都将軍に仕えていた嫡男畠山尚順
もしかしたら、寂しい思いをしたかも知れない。
(※ただし、これには
 とってもぬくもるエピソードがついてきますのでお楽しみに。)




ところで河内国
「河内源氏の発祥の地」であり
実は武士の歴史において、宇宙の始まり『特異点』にも匹敵する存在である
ということはご存知でしょうか?

…うん、まあ、ちょっとそれは言い過ぎですが
武家源氏の主流となった「河内源氏」とは
もと「清和源氏」の一流で
清和天皇の4代の孫に当たる源頼信(※源義家の祖父)が
河内国司に任ぜられて、この地を本拠地にした事に始まり
この源頼信と、子の源頼義、孫の源義家の3代が
俗に「河内源氏三代」と呼ばれます。

その後、武家源氏東国に拠点を移していくのですが
現在も、河内源氏の菩提寺だった「通法寺」の跡地には
頼信・頼義・義家3代の墓がそれぞれ残っていて
(※「大阪府羽曳野市通法寺」で地図検索GO!「誉田」の少し南東に当たります。)
また、すぐ南には「壷井八幡宮」がありますが
ここは、『前九年の役』から帰還した源頼義・義家父子が
その戦勝を感謝して、自邸の傍に「石清水八幡宮」を勧請したことに始まります。
(※ちなみに、自邸は京都にもあった。) 


つまり、南河内
武家源氏の故郷であり
彼らの "八幡様クロニクル" の1ページ目であり
義就たち武家源氏の一族にとっては、非常に縁の深い土地と言えますが
しかし、もっと言えば
彼らを「武家の棟梁」として戴き発展した武家社会
武士の精神武家の政道という
他国に類を見ない独自の精神文化と政治を生んだ、という壮大な歴史を知れば
やはりここは
その時は誰も気付かなかったかも知れないけれど
後になって振り返れば
日本日本として生まれ変わった "特異点" という
特別な意味を持っているのでしょう。
ならば今、そこから始まったクロニクルを再考する事は
現在を正し、未来に道筋をつけるヒントになるだろうと思い
こうしてせっせと、武家の真相に迫っている訳です。



では最後に
室町時代初期から、後半戦途中くらいまでに期間を広げた
畠山家系図(改訂版)を示しておきます。


畠山家系図
(2015.8.26 改訂)


赤字『応仁の乱』世代青字『明応の政変』世代
両者にまたがる畠山政長畠山義統は二色刷り
点線(……)は養子関係
破線(- - -)は異説を表しています。


畠山家はもちろん、河内源氏の末裔ですから
本名は、源(みなもとの)義就 源政長、源義統…となる訳ですが
でも、彼らほとんど通称「次郎」だから
まとめてみんな「源次郎」ですよ。
あいつもこいつも「源次郎」ですよ。
超名門畠山家がそんな適当な事でっっ!! …まあいいか。

そんな事より、次郎と言えばセカンド
セカンドと言えば
全国第2位、誉田の応神天皇陵
うーん、やっぱり繋がっている!!



posted by 本サイト管理人 at 15:41| Comment(0) | ★チラ裏人物記
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