2014年10月21日

画像修正しました

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。

ここ最近のリビジョンアップ祭りに便乗して
当ブログ「足利尊氏と足利直義」
直義の画像をちょっと修正しました。(尊氏の方も少し)

(※その後2015.3.9完全リメイクを施してしまいました。
 なので、以下↓のネタが意味不明になってしまいました。)


まあ、あんま変わってない気もしますが
従来の拙(つたな)さはそのままに
「おいこれ、どう考えてもおかしいだろ」
って部分だけセルフ添削してみました!

…いや、拙さとか残しておかなくてもいいから。
とはまあ、私も思いますが
あんまり修正しちゃうと、尊氏の方とバランス取れなくなってしまいますからね。

(※2人の肖像画が、一対のものである事の意義については
 当ブログ「源八幡太郎義家」をどうぞ。)
(※2015.9.27追記…
 詳しくは「GW企画 国宝『神護寺三像』」をどうぞ。)



だから―――
尊氏直義の肖像画は、意地でも「対」(つい)にする!
あの "一対の肖像画" が、二人のものだと認められるまでは!!
私は、このお絵描き魂を、史的レジスタンス活動に捧げたのだ!!!


…まあ、本当は
今の画力じゃこれが精一杯ってだけの話ですが。
でも、直義が一番ってくらい好きなのに
これじゃあんまりだから、ちっと直したw



直義については
調べてると止まらなくなるし、語りたい事もわんさかあるし
自分でも、割りとかなりマニアだと思いますが
しかし「直義通」を自称するまでには達していません。
…というのも
直義については
著名な歴史学者でも、ファンだと言う方がいらっしゃるそうで
私の知識では、足元にも及ばないからです。
つまり
本当の歴史に精通している本物の歴史学者を虜(とりこ)にするくらい
直義というのは
めちゃめちゃ誠実で、奇蹟の清々侍(きよきよざむらい)で
知れば知るほど、史上に並ぶ者がいないのです。



例えば、建武4年(1337)
室町幕府が誕生したばかりの時期のこと
直義たちが『建武式目』を掲げて
「公正」「道理」に則った政道への一歩を踏み出したものの
未だ世の中は夜明け前ヒャッハーの余韻でカオスだワッショイ!!
だった頃ですが
そんな中、関東で統治に当たる上杉憲顕(のりあき)の分国だけは
素晴らしく良く治まっていたそうで
その功労を讃えた、上杉憲顕宛ての
「直義の自筆書状」が残っているのですが
それによると…

 「諸国の守護の非法ばかり耳にする日々の中
  貴方の分国の素晴らしさは、皆が賞賛していて
  本当に、喜ばしい事この上ありません。
  忠節比類無く、国を良く治めていた父上(上杉憲房)が
  去年、討死してしまった後は
  ああ、もう終わた(´;ω;`)…と悲嘆に暮れていましたが
  当国(上杉憲顕の分国)の様子を聞いて
  まるで、父上が生き返られたかのようで、本当に嬉しいです。
  貴方父子の忠功に適う者は、誰もいません。
  諸国の守護の惨状を聞くたび、心苦しい思いをしていましたが
  貴方の分国の話を聞いて、なんとか生き延びています


 (※『大日本史料』建武4年4月16日
  「上杉憲顕宛て、足利直義書状」の一部、意訳)


婆娑羅(ばさら)な武士たち
建武の新政の、欲に飲まれた近臣らにより
完膚無きまでに秩序の崩壊した、真夜中のような世界の中で
唯一、直義「生きる力」を与えていたのは
金でも権力でも女でも娯楽でもなく

 「道理もとに、正しく治まった国」

だったという訳です。

…って、清(きよ)過ぎるwww
非法には、消え入りそうなくらい胸を痛め
正しき政道には、生き返るほどの思いを抱き
信じても苦しいだけなのに、それでも明日を見続けている―――

な、なんという完全無欠のムロマチスト(=室町のロマンチスト)。
なんか良く分かんないけど
恥ずかしくて赤面してくる。(聞いてるこっちが)
こういう事を、素で言ってしまえる所が
脅威の清侍(きよざむらい)たる所以(ゆえん)であります。


以前、当ブログ「畠山義就(その2)」の最後で
民の苦しみに思い悩む「直義の和歌」を紹介しましたが
ここまで純粋に、を憂いを憂い
一途(いちず)に公正道理秩序を愛した、という点で
直義を超える人間は、他にいないと思います。

しかも、こんなにも高い人格を備えながら
人生経験を十分に積んだおっさん…という訳ではなく
『建武式目』を掲げた時点で
まだ数え30歳、満年齢では20代ですよ。(※尊氏は数え32歳)
直義…なんて恐ろしい子なのww



ちなみに、上記の父上上杉憲房
尊氏・直義兄弟の母の上杉清子の兄弟で、2人にとってはおじであり
子の上杉憲顕は2人の従兄弟で
特に、直義憲顕の信頼関係は厚く、わりと泣かせるものがあったりします。
ついでに言うと、憲顕
室町中期の関東管領、上杉憲実(のりざね)の曽祖父に当たります。
 ※上杉憲実については本サイト『2-5』「鎌倉のこと」をどうぞ)
どうやら上杉家ってのは
代々、誠実さを受け継いでいるようです。

(※ちなみに、有名な戦国期の上杉謙信は、上杉家ではなく長尾家出身ですが
 父ちゃんの長尾為景が「明応世代」と絡みがあって面白いw)



ただ…ただ
このカオスの闇夜に覆われた時代では
直義のように、あまりに真っ直ぐ純粋過ぎる人間は
それが…命取りになってしまう事があるのです(´;ω;`)ウッ…

「正義には魔物が潜む」という残酷な現実については
本サイト『2-5』「正義の代償」で、6代目将軍足利義教の話をしましたが
まあ、直義義教ではややケースが異なるものの
実は、直義
 善根(善い行い)に心を傾け過ぎる余り
  それが却って、政道の妨げになり
  世の中をうまく治められなくなってしまうのでは無いか」

と、薄々自覚していたのです。


その事を、直義夢窓国師に相談したやりとりが
『夢中問答集』に記されています。
直義の「問い」に対する夢窓国師の「答え」は、とても長いものなので
要点だけ述べますと

 「鎌倉幕府の滅亡以来、世の中は荒れ果て
  戦で命を落とした者達の無念、巻き込まれた人々の悲しみ
  秩序が失われた社会で、日々に苦しむ民の嘆きは計り知れない。
  そしてそれらは
  (宿命として)すべて為政者である貴方の罪業となる。
  それなのに、未だ仁義の恵みある政道は行き渡らず
  世の人々の愁嘆が重なるばかりなのは
  善根が足りないからである。
  どうして、善根に心を傾け過ぎることが問題になりましょうか」


 (※「善根」とは本来、「善い果報のもととなる善い行い
  という意味の仏教用語で
  この国師の言葉も、仏教の「因果」に基づいたものです。)


夢窓国師の「答え」は
直義強い期待を寄せていたが故の叱咤であり
尊敬する国師にこう諭された直義
迷いを断ち切り
一途(いっと)、善根への道をひた走る決意をしただろう事は
想像に難くありませんが
しかし、その先に待っていたのは… (´;ω;`)

(※『観応の擾乱』については
 本サイト『2-2』「たどり着いた場所」
 『2-4』「夜明けを描いて」などで、軽くですが触れています。)


夢窓国師は、直義の人間性を良く知っていたのですが
(※尊氏直義の人柄を讃えた夢窓国師作の漢詩が、残されています)
その夢窓国師でさえ、直義を救い切れなかったのだと思うと
もうどうしようもなく悲しくなってくる…。

まあ…
直義真っ直ぐさが、あらゆる人間の想像を超えていたのだ、仕方がない。
直義はたとえ
自身の、道理への純粋過ぎる想い
いつか滅びの道に繋がる事を知っていたのだとしても
それでも、信じる道を諦める事は出来なかったと思います。
それを示唆する、ある「直義の花押」が存在するのですが
まあ、この話はまたいずれ。
(※花押(かおう)…かつて日本で用いられていた直筆サイン



――――――――


ところで、この『夢中問答集』の記述に関しては
 「乱世を招いた尊氏・直義への赤裸々な非難だ」とか
 時の権力者に対し、微塵も臆せずその非を一刀両断する国師はスゴイ!」
とか解釈されている事があるのですが
それは、夢窓国師の真意を汲めていない誤解です。

(…というかそもそも
 直義は、国師を崇敬し教えを請う側なのだから
 国師直義を恐れる」という前提はおかし過ぎるし
 しかも、この問答を書き留めたのは直義自身ですが
 もし、自ら世を乱すようなを平然と犯す人物なら
 こんな不都合な非難は、抹消しているはずですが
 しかし後述するように、この書は衆人の目に触れる形で
 版本として刊行されます。)

夢窓国師は、その高過ぎる才能により
鎌倉の執権北条一族から、建武の新政の後醍醐天皇まで
時の権力者に、政道の指南役として招聘され続けていたのですが
国師は本来、その身を隠し人里離れた自然の中で
ひっそりと修行を続ける事を好み、権力への欲が全く無いので
基本的に辞退し続けていました。
(それでも諦めてもらえず、あらゆる手を尽くして招かれ
 結局、歴代政権に貢献する事になってしまった、ってゆうw)
その夢窓国師
尊氏・直義に関しては、その人物を非常に高く評価
相談役として誠意を尽くしていたのは
ひとえに、この乱世を立て直せるのは
「この二人の将軍だけだ」と看過していたからであって
もし、「乱世を招いた張本人は尊氏・直義だ」と思っていたのなら
2人に協力するなんて事は、まず有り得ません。

そもそも、夢窓国師は―――
幕府立ち上げに至った尊氏・直義の挙兵を
「義兵」(正義の為の戦)と言っていて、さらに
尊氏・直義が、武将として万人に仰がれているのは
「宿善」(前世の善根)果報だと言っているのです。
(つまり、将軍になるべくしてなったと。)
2人が罪業を背負っているというのは
これは必ずしも、彼らが "直接罪を犯した" という意味ではなく
この世の因果として
 万人の将は、天下の罪業を背負う宿命にある」
という意味です。

上で紹介したのは、ごく一部ですが
全文を読めば、真意が掴めることと思います。
自身、世の中の惨状に苦しみ悩むと共に
時代の真相を看過していた夢窓国師
 直義を、聖徳太子に準(なぞら)えるほどに期待を寄せていた」
という事を示す
とても胸を打つ真摯な「答え」です。

(※ついでに言うと
 夢窓国師尊氏・直義の関係は
 単なる「政治顧問権力者」や「仏道の師弟」という
 建前的なものではなく
 色々と史料を探ると、実態は「父子に近いもの」があり
 この位の事は遠慮せずに発言出来た、というのが実情のようです。)



――――――――



以上、より深く探究するために
 【夢窓国師(川瀬一馬訳)『夢中問答集』(講談社学術文庫)2000】
をどうぞ。
それから、本サイトでの言及は
夢窓国師については『2-3』「室町の京都が生んだもの」など。
直義については『2-2』全部
特に、「もう一人の将軍」 「列島を駆ける」
「夢を見ていたんだ、きっと…」
とか、まあでも全部。



ちなみに、『夢中問答集』
"仏教の本質・禅の在り方" について問う直義への
夢窓国師「答え」を集積したものですが
単なる手記ではなく
仏道を志すすべての人の為に
直義たっての願いで、「版本」として刊行されたものです。
特に、当時は仏教に触れる機会の限られていた
在俗(=出家していない)の女性の為にと。
(直義…なんて良いやつなのだ (´;ω;`) 優し過ぎるw)

しかし本来、「禅の教え」とは
文字にせず、師匠から弟子へ直に伝えるものですから
書物として刊行する事は、禅の本意に反します。
もともと夢窓国師は、この問答を直義一人の為に行っていたのであって
それ以外の人の為ではなかったので
始めは許可しなかったのですが…(※『夢中問答集』再跋)
しかし、直義の願いを受けて―――

 「何ぞこれをいなまんや」(どうして断ることがありましょうか)

と、この書の刊行を承諾するのです。


「禅の教え」を説いた書物が誕生した、ということ自体
奇跡に近い歴史的事実なのですが
『夢中問答集』誕生の背景には、そんな不可能が実現するほどに
 「国師が、直義特別に信頼していた」
という事を物語る
素晴らしいエピソードが秘められていた訳です。

しかも、夢窓国師からしたら、直義32歳も年下の若造。
…もうなんて良い話なのだw (´;ω;`)





ところで
直義の追いかけた理想を表現するフレーズとして
私はよく
 「夜半の日頭」(=真夜中の日の出)
という言葉を使っていますが
(※本サイト『2-7』「描いたのは、真夜中の日の出」の最後とか
 当ブログ「晩夏の香り」の最後とか)
これは
『夢中問答集』の最後を締めくくる夢窓国師の言葉なのです。


 「如何(いかん)がこれ、和尚真実に人に示す法門」
  (国師が私に示す真実の教えとは、何でしょうか)


という、直義の問いに対し

 「新羅夜半に、日頭明らかなり」
  (新羅の夜半に、日の出が明らかである)

と、夢窓国師は答えます。


「真夜中」なのに「日の出」というのは、正に禅問答
言葉での明確な解説は難しいところですが
 「夜半のような時代の暗闇の中でも
  貴方(直義)なら、その目に夜明けの光を見る事が出来る」

と、そういったニュアンスだと思います。

(※ちなみに、禅宗で重視される『碧巌録』という
 の時代(※日本で言えば平安後期)の書物に
  「半夜日頭出、日午打三更」 (第86則)
  (夜中に日が昇り、真昼に深夜の鐘が鳴る)
 という言葉があります。)


ところで
太陽はから昇るのに
日本の西にある、しかも室町時代では
とうの昔に滅びている新羅(しらぎ)とは、ちょっと意味不明…
と思われるでしょうが
これもおそらくは
「夜半の日頭」と同じように
地理的にも、時間的にも "有り得ない事" という意味で
 不可能にさえ囚われない」
のが、仏道の真理だと
そういう言葉なんじゃないかなぁ… と思うのですが
もう一つ考えられるのは
禅宗の始祖の達磨大師(だるまだいし)から見た場合で
達磨大師は南インドに生まれ
6世紀初頭、教えを広める為に大陸の
そこからまたに渡ったのですが
その時代・場所なら、新羅は実在することになります。

うーん…
後者の方が納得が行くような気もしますが
夢窓国師の言葉
『夢中問答集』や国師の「語録」を読んでみると分かるように
極めて巧みに意味が込められているので
現代人には難しくて何ともw

(※以上、"(※ちなみに…" 以降
 2015.8.18、さらに9.12加筆修正。)




という訳で
現代にも通じるよう、私が勝手に一部改変を加え
半分だけ難解さを取り除き、かつ
ワールドワイドな感じにさせてもらいました。
今日からこの言葉は

極東夜半に、日頭明らかなり」

これでどうだ!!
(わりと、自信満々)
きっと、夢窓国師もお許し下さるだろう…と、思う。たぶん。


足利直義


夢窓国師にこの言葉を授けられた直義
以来ひたすら
遠い夜空に一人、を探し続けたことでしょう。
例えば
誰もが思い描く "権力者にとっての頂点" といえば
勢力拡大、領土拡大、或いは世界へ…
といった、物質的なものであることが大抵で
まあ、それが現実というものだと思いますが
しかし、だからこそ
 「見えない朝に、誰も知らない日の出を探す」
なんて、これ以上大きな夢は無く
そんな夢を、本気で描いていた者がいたなんて
ちょっと、心が震えてしまいそうな歴史だと思います。



直義どんな未来を見ていたのだろう
それはどんな色だったのだろう―――

…とか妄想し出すと止まらなくなるので、程々にしますが
尊氏直義への誤解を解きたい一心で
私が、歴史学的レジスタンス活動に勤(いそ)しむ気持ちが
少しは伝えられたと思います。


うん、まあ、全然気合足りてないけどね。
今日も、極東のどっかのレジスタンス酒場・バーボン室町
駄弁(だべ)ってるだけだけどね。 ういーっす

それでも―――
この言葉は、「今」にこそ蘇って欲しい
670年ほど前、史上最も果てしない夢を見た直義の思いと共に
そして、今度こそ叶えたい
…と、極東の片隅で細々と願う夜なのでありました。



posted by 本サイト管理人 at 01:06| Comment(0) | ★チラ裏日記
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