2015年05月19日

室町絵師ランキング(第1位)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
なんと6か月半を超える無駄な延長戦の果てに
「室町絵師ランキング」が完結の時を迎えました。
感無量です。


今にして思えば
「室町絵師ランキング(第3位)」
尊氏画伯のとこで突っかからなければ
「室町創生期」の尊氏直義の秘密に気付く事もなかった訳で
これもきっと、画伯の地蔵菩薩像のお導きでしょう。
ありがてぇありがてぇ。

さて、言い訳が終わったところで
前回の「室町絵師ランキング(第2位)」花園天皇に続く
栄光の第1位は―――
これまた、ありがてぇ御方です。



何はともあれ
まずは「絵」を見て頂きましょう。

自筆の「原本」は、既に失われてしまっているのですが
原本を模写した「写本」が継承されて来た絵で
今回御覧頂くのは
14世紀後半頃、それを改めて模写し
鎌倉の「浄光明寺」(じょうこうみょうじ)に奉納された作品です。
 (※現在は、浄光明寺所蔵・鎌倉国宝館寄託)

14世紀後半といえば
「室町創生期」の終盤 or 一段落した頃。
そんな、ホットな時期に制作され
同寺に納められたのであろう―――

弘法大師像です。

弘法大師

(※弘法大師像 鎌倉浄光明寺
 【図録『特別展 鎌倉×密教』(鎌倉国宝館)2011】
 …の、p.85より引用)



なんとぉぉーー!!
「写本」とは言え、プロ絵師級の貫禄を彷彿とさせるこの存在感!!
室町アマ絵師ランク第1位の圧倒的な格の違いに
日本史上の全プロ絵師が、戦力外通告の危機!!




ところで、この弘法大師像
実は、元となった「原本」は
『互いの御影』(たがいのみかげ)と呼ばれる
"一対" の肖像画なのです。

その昔、空海(弘法大師)が留学の為に唐へ渡る際
船中にその御方が訪れて
 「一緒に、肖像画描こうよ」
空海を誘い、お互いの姿を描き合った
…という伝承を持つ事から
『互いの御影』と呼ばれるのですが
という事はつまり―――
この、画伯作の弘法大師像と "対" となる
空海作の肖像画のモデルこそが
「室町絵師ランキング」の頂点に輝いたその御方
という事になります。
 (※空海は法名、弘法大師は諡号(尊称)です。)


おおう、ついに室町No.1画伯のベールが払われる!!



ってゆうか
空海って、平安初期の人じゃん
……。

何言ってんですか、空気読んで下さい ><
その御方、ちょっと長生きなだけなので心配ないです。
細かい事気にしないで下さい!
そんな事より、発表です。




この肖像画も、空海自筆の「原本」ではなく
上掲の弘法大師像の "対" として制作された
14世紀後半頃の「写本」ですが
やはり、素晴らしい作品です。

それでは、準備は宜しいですか?
空海が描いた "伝説の画伯" の姿が、いま明かされる!
鎌倉「浄光明寺」所蔵、『互いの御影』のもう一方―――

僧形八幡神像です!!


八幡大菩薩

(※僧形八幡神像 鎌倉浄光明寺
 【図録『特別展 鎌倉×密教』(鎌倉国宝館)2011】
 …の、p.84より引用)


うおう、なんとぉぉーーーっっ!!!
室町武士らのラスボスアルティメットファイナル
にして絵師だったとは!!

戦闘力でも画力でも意外性でも
数値∞で測定不能の、スカウター泣かせ大菩薩!!

この神々(こうごう)しさ
どっからどう見ても、間違いなくぶっちぎり室町絵師ナンバーワン!!
異論はありませんね?
では、満場一致ということで、お開きと……



ってゆうか
本当に八幡大菩薩が弘法大師像の「原本」描いたと思ってんのかよ
……。

おおおお前それ、ははは八幡様の前でも
おお同じ事、い、い、言えんの?? ((((;゚Д゚))))ア、アアアアアア゙アーーーー


という訳で、『互いの御影』の弘法大師像
八幡画伯が描いたものです!!
なんの問題もありません! 空気読んで下さい ><




………………



さて、そろそろ真面目な話を始めたいと思います。

この『互いの御影』は
もとは、京都の「神護寺」に伝わるもので
その逸話については
鎌倉末〜室町最初期の頃には広く知られるようになっていたらしく
夢窓国師足利直義による禅の教科書『夢中問答集』では
国師が次のように、直義に語っています。


 「八幡大菩薩弘法大師と御対面された時は
  (八幡神は)僧侶の形で現れ
  弘法大師はそのお姿を描かれた。
  八幡大菩薩もまた、自ら弘法大師のお姿を描かれ
  その両御影は、高雄の神護寺に納められている。
  これは則ち
  衆生を導き、仏法に帰依(きえ)させ
  生死を出離せしめる為の、瑞相である。」


(※瑞相(ずいそう)…めでたいしるし、きざし。)
(※出離(しゅつり)…煩悩を去って悟りの境地に達する事。
 または、出家する事。)

(※「生死を出離させる」とは
 衆生を悟りに導き
 迷いと苦しみの六道で繰り返される生死の流転(=輪廻)から
 抜け出させる、という意味です。
 この辺の仏教豆知識については…
 下記の弥勒菩薩の話と合わせて
 「室町絵師ランキング(第3位)」で復習をどうぞ。)

(※参照…【夢窓国師(川瀬一馬訳)『夢中問答集』
 (講談社学術文庫)2000】)



京都高雄の「神護寺」
八幡大菩薩の神願(神託)により
和気清麻呂が開基となって建立した真言宗の寺院で
弘仁の昔に弘法大師真言密教を始めた
…という
日本の仏教史においても重要な寺院なのですが
平安末期には、酷く荒廃が進んでしまっていて
それを文治の頃(鎌倉最初期)
源頼朝との因縁浅からぬ僧、文覚(もんがく)が
再興に尽力し、見事に甦った
という歴史を持ちます。
つまり「神護寺」とは―――
八幡大菩薩弘法大師との特別深い関係があり
文覚とも縁がある
というキーワードを覚えておいて下さい。



ちなみに、空海
宝亀5年(774)〜承和2年(835)の平安初期の僧で
で2年間の留学を終えた後
初めの一歩を「神護寺」で、その後は
「高野山」と京都「東寺」を拠点に活動を続け
多大な業績を残した真言宗の開祖です。
どんな業績かって…それはもう
空海のお蔭で、日本の文明にチート級のターボがかかった。
なんかすごい事は全部空海、って思っとけばだいたい合ってる。



ついでに
「高野山」は、空海が開いた真言宗の総本山で
山全体が境内の密教の聖地です。
承和2年(835)3月21日
空海は62歳で、この地で入定(入滅)するのですが
真言宗においては
空海は亡くなったのではなく
今も高野山の「奥の院」で
衆生を苦しみから救う為に "入定"(※ここでは瞑想、修行の意味)を続けている
という「入定信仰」(にゅうじょうしんこう)があり
これが「弥勒信仰」と結びついて

 弘法大師
  弥勒菩薩のいる兜率天(とそつてん)に往生し
  釈迦入滅の56億7000万年後に
  弥勒に御供してこの世界に下生する。
  (それまで、兜率天から衆生を見守り続けてる)」


と言われています。


(※往生(おうじょう)…死後、別の世界(仏教的思想世界)に生まれ変わる事。)
(※下生(げしょう)…神仏がこの世に出現する事。)

(※弥勒信仰
 弥勒菩薩は、釈迦に次いでとなると約束された菩薩。
 現在、弥勒は菩薩として
 兜率天(とそつてん)で修行を続けているのだが
 釈迦入滅の56億7000万年後の未来に
 と共に、この人間世界に下生
 龍華樹の下で悟りを開いて三度の説法を行い
  (これを「龍華三会」(りゅうげさんね)という)
 釈迦の説法にもれた一切衆生悟りに導く(救済する)
 と言われている。
 釈迦弥勒の間の "無仏時代" に生まれた人々は
 地蔵菩薩などの救いに頼りつつ
 この「龍華三会」に生まれ合う事を夢見ていた。)


つまりポイントは
弥勒菩薩弘法大師
「未来に一切衆生を救済する」という約束において
いつしか分かち難い存在となり
「高野山」は、古くから弥勒信仰の聖地ともなっていた事。
末世(末法の世)に生きる人々は
弥勒弘法大師が訪れる「龍華三会」の暁(夜明け)
切なる希望を抱き続けていた、という事。

これ、超ーーーー伏線なのでよく覚えておいて下さい。




弥勒まだ〜?( ・∀・)マチクタビレター マチクタビレター




さて、ちょっと話が逸れました。
そんな『互いの御影』ですが
ただし、よくよく歴史をたどると
平安後期〜鎌倉初期頃までは
空海筆「僧形八幡神像」が、単独で有名だったそうです。

(※これらについて詳しくは(※以下、論文A)…
 【内田啓一『「互いの御影」空海と僧形八幡神画像について
  ―成立から浄光明寺本まで―』
 (仏教芸術学会編『仏教芸術』330号 2013年9月)】)



なので、ここで簡単に
それぞれの御影について、個別に解説しておきます。




まず「僧形八幡神像」について。
右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に念珠を持ち
斜め右を向いた老比丘形(老齢の僧侶の姿)の八幡神が
赤蓮華座に坐して、頭上に日輪を戴いている

…という構図の八幡神像は
少なくとも12世紀前半には史料的に存在が確かめられる作例で
「空海自筆の伝承」という付加価値により特別視され
鎌倉初期以来、特に注目を集めるようになったそうです。

この絵画を元に誕生した有名な彫像
建仁元年(1201)快慶作で、現在国宝に指定されている
奈良「東大寺」の「僧形八幡神坐像」があります。



僧形八幡神   僧形八幡神

(※僧形八幡神坐像 勧進所八幡殿所在
 【奈良六大寺大観刊行会編
 『奈良六大寺大観 第十一巻 東大寺 三』(岩波書店)1972】
 …の、p.12(カラー)p.56(モノクロ)より引用)



カラーの方は、右手に錫杖を持っていませんが
上の「僧形八幡神像」(絵画)と
瓜二つであることが分かると思います。





一方、「弘法大師像」の方ですが
弘法大師の肖像画としては
最も流布した形式の「真如親王様」と呼ばれるタイプが有名で
この『互いの御影』タイプのものは、それより時代が下り
法衣の胸元の開き具合や
坐している牀座 or 床座…などの細部に違いがあって
"別系統" とされています。

まあ、素人目にはぱっと見だいたい同じで
右手に五鈷杵(ごこしょ)、左手に念珠を持ち
斜め右を向いた姿で描かれるのですが
 (※「弘法大師」で画像検索すると一瞬で納得)
この『互いの御影』タイプのものが、いつ頃、どんな経緯で生まれたのかは
今のところ、わりと謎だそうです。
ちなみに
顔の表情に関しては、『互いの御影』タイプは
総じて柔和な感じがするとのこと。




さて、上記の論文Aでは
年代を追った文献上の両御影の綿密な追跡や
描画表現作風の分析から―――
『互いの御影』は
平安初期から "対" として存在したのではなく
初めに、空海自筆と伝わる「僧形八幡神像」が存在し
いつしか付加した
「八幡大菩薩と互いの姿を写し合った」との伝承から
"対" となる「弘法大師像」が制作され
『互いの御影』として知れ渡るに至ったのではないか

…と、考察されていてます。
なるほどうーーん、と考えさせられる深い指摘です。

というのも
空海は、その生前の業績のミラクルさから
後世になっても多くの伝説が生まれ続けたのが特徴で
実は、『互いの御影』の伝承も
両者が対面したのは、入唐の行き帰り
或いは、船中ではなく東大寺東寺だったりと
色んなパターンがあったりするのです。
 (ここでは、伝承の真偽云々よりも
  「伝説、伝承を生み出すような人物だった」
  という点が重要です。)

(※ちなみに、今でこそ
 八幡神像といえば僧形という認識ですが
 実は、八幡神は束帯姿で表される事もあり
 僧形八幡神像がいつ頃誕生し、定着したのかは
 わりと謎…
 てゆうか、頭上の日輪がかなり謎…
 という、厨二心をくすぐって止まない八幡画伯であった。)



まあ、その由来に多少謎が残るにしても
鎌倉末〜室町最初期の時代には
京都「神護寺」
「原本」なり「写本」なりの『互いの御影』が存在し
八幡大菩薩と弘法大師が「互いの姿を写し合った」という伝承
「神護寺」創建の由来と呼応し
衆生済度 "瑞相" として人々の知れるところとなっていた
…という点は確実であり
これが最も大事なポイントです。


『互いの御影』の成立を追っていると
誰かが意図的に作り上げた幻なのではなく
一枚の絵画が
まるで自ら意思を持って伝説へと成長してるような気がして…
来るのは私だけだろうかw




直義まだ〜?( ・∀・)マチクタビレター マチクタビレター




さて、ここまで来たら
早くあの話に突っ込めよ!!
と、みなさん痺れを切らしている事でしょう。

先日軽く触れたように
この、京都「神護寺」『互いの御影』の存在こそ
最近話題沸騰中(このブログでは)の
『神護寺三像』の秘密
足利直義が、兄尊氏と自分の肖像画を制作し
他でもない「神護寺」に奉納した理由
だったという訳です。



肖像画奉納の旨趣を述べた「直義願文」には
まず、神護寺創建の由緒が述べられ
続いて…

同寺が神明感応の霊地、仏法久住の仁祠(寺院)である事
とりわけ、足利家とは特に縁(ゆかり)があり
代々、厚く帰依し敬って来た事
ゆえに
常住の持経と為すため
権者真蹟(真筆)との口伝がある阿含経の一軸を寄進する事
加之(しかのみならず)
征夷将軍(尊氏)と自分(直義)の影像を描き、同寺に安置する事
これは
この場に良縁を結び
信心を来葉(後世、来世)に知らしめる為である事


以上が語られ、そして最後に―――

伏して冀(こいねが)わくは
神護寺の伽藍が、遥か龍華の三会まで永続し
法水(仏法)は窮まること無く、普(あまね)く日本の諸州を潤し
現世と来世の願いが、悉くみな成就することを


と結んでいます。

(※権者(ごんじゃ)…神仏が衆生を救う為、仮に人の姿で現れたもの。)
(※法水(ほうすい)…仏法が衆生の煩悩を洗い清めることを、に例えていう言葉。)



つまり直義
衆生を苦しみから救う瑞相という伝承を持つ『互いの御影』
遥か未来に至るまで天下と万民の幸せを願う祈りを重ねて
尊氏(伝平重盛像)と直義(伝源頼朝像)の寿像を
八幡大菩薩と弘法大師の「神護寺」に奉納した
という訳です。

なんて清いやつなんだww



…と、話を終えたいとこですが
実は、この願文は "単独" では謎は解けません。
これを
他の直義の言動と相互に関連付けつつ複合的に分析すると
この二人の寿像には
さらに深い、極めて具体的な目的(願い)が込められていた
という事実が判明します。
これが本当に泣かせる話なのですよww
 (これは、政治的対立に起因するものでは無く…というか
  その "逆" で、本当に清くて純粋な話です。)


(※2016.4.27追記―――
 この二人の肖像画の真意についてですが…
 この記事をUPした2015年5月19日の約半年後になって
 上記の「具体的な目的(願い)」のさらに奥に
 とんでもない(というかショッキングな)真相が秘められていた
 という事に気付きました。
 ラスボスの後にラスボスが待っていました… orz
 詳細についてはいずれまた。)




ちなみに
先日「GW企画 国宝『神護寺三像』」で紹介した参考文献(2つ目)では
尊氏を八幡大菩薩に、直義を弘法大師にそれぞれ見立てた
という見解も示されていますが
そういう意図でもないようです。
…というのも
尊氏は、以前紹介した和歌に詠われているように
自身の武運のぶっ飛んだ強さ
氏神八幡大菩薩の強力な "御加護" と信じていたので
自分を八幡様の "化身" と見る、という考えは
少なくとも尊氏自身は持っていなかったと思われ
それ故、直義にもそういう感覚は無かったのではないか
と考えられるからです。
 (ただし、当人達はそうでも
  周囲から見たら、化身に見えていたでしょうがw)


やはり
『互いの御影』が「衆生済度の瑞相」であるという "逸話自体"
二人の寿像奉納の決定的な動機である事
そして何より―――
『互いの御影』は向き合った肖像画ではありませんが
尊氏直義は向き合った肖像画になっているのは
単純に、それぞれを准(なぞら)えただけではない
後者だけの "特別な意味" があった
という真意を、示唆しているように思います。

ま、続きはいずれ『チラ裏観応日記』で。




こっから謎解き〜( ・∀・)ヨミクタビレター ヨミクタビレター




ところで
京都「神護寺」の『互いの御影』は
どうやら現在は
「僧形八幡神像」しか伝来していないようなのです。
 (※上記の論文A
しかし、一方で
両方(写本だが)"対" として現存している
と書いてあるものもあって
 (※先日の参考文献(2つ目))
うーん??
ちょっと真相を確かめる術がないので不明ですが
ただ、画像としては
「僧形八幡神像」しか、一般に出回っていないような…?

では、折角なのでここで参考に
現在京都「神護寺」に伝わる「僧形八幡神像」を。
鎌倉中期頃の「写本」ですが
鎌倉「浄光明寺」本のモデルとなった「原本」(or「写本」)と
ほぼ同体だろう貴重な作品です。
白黒ですが…

僧形八幡神

(※「互の御影」僧形八幡神像(神護寺)
 【黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書)2012】
 …の、p.287より引用)



鎌倉「浄光明寺」本とは
蓮華座の下の六角の台座の有無以外、ほとんど同じです。




ま、どちらにしても
室町初期の段階では
"一対" の絵として、京都「神護寺」の『互いの御影』が認知されていたのは確かで
それを元に制作された「写本」が
今回冒頭で紹介した、鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』なのですが
ただ、ここでちょっと疑問が浮かびます。


鎌倉「浄光明寺」
特段、八幡大菩薩弘法大師との所縁が語られる寺院ではないのです。
 (※現在は、真言宗泉涌寺派ですが
  室町初期頃は、浄土・華厳・真言・律宗の四宗兼学の寺院でした。)

その鎌倉「浄光明寺」に…
京都「神護寺」の『互いの御影』の「写本」を
室町初期、14世紀後半頃になって
"誰が" 主導して制作し
"何の目的" で奉納したのか?―――



もちろん、この「浄光明寺」本は
「神護寺」所蔵本の "直接" の「写本」ではなく
他寺院所蔵の「写本」の「写本」という、"間接" の可能性もありますが
しかし
 『互いの御影』は「神護寺」発祥
という話が広く知れ渡っていた室町初期
他寺院のそれを
当時としては極めて貴重 "一枚絹" に描くという事は
可能性としてはかなり低いと思われます。

……。
ええ!?
と、ちょっと思ってくれた人がいたら嬉しいのですが
実は、この鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』も
一枚絹に描かれているのです。 (※上記の論文A



「GW企画 国宝『神護寺三像』」で解説したように
『神護寺三像』の尊氏直義の肖像画は
当時の俗人の肖像画としては極めて大きく
しかも、舶来品と思われる貴重な一枚絹を使用しています。
この大きさは
諸寺院所蔵の(鎌倉時代に遡る)「弘法大師像」
京都「神護寺」の現存「僧形八幡神像」と近い大きさで
それを基準にしたものだろう、と考えられており
なるほど納得ですが
しかしここでの注意点は、これらはみな "三幅一鋪"
つまり、三枚の絹を横に繋ぎ合せてこの大きさにしている
という点です。
室町初期の作例としては
鳥羽天皇像や花園法皇像に一枚絹が使用されているそうですが
使用例は極めて限られているようです。

(※この辺の詳細は、先日の参考文献(2つ目)
 (※以下、参考文献B
 【黒田日出男『国宝神護寺三像とは何か』(角川選書)2012】
 …の、第四章第五章をどうぞ。)


とすると…
室町初期に "一枚絹" に描かれた、この鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』は
ちょっと特別かも知れない
…と、思わずにはいられない。 ドキドキバクバク


『神護寺三像』の尊氏直義像
ほぼ同じ大きさ(縦横数センチ違い)の一枚絹に描かれた
「神護寺」『互いの御影』の「写本」

何か、めっちゃ関係有りそう―――



ちなみに、上の参考文献Bでは
国宝や重要文化財である肖像画の絵絹の大きさ・種類(一枚絹か三幅一鋪か)や
京都「神護寺」の『互の御影』への言及は詳細で
とても示唆に富んでいるのですが
ただ、鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』については
残念ですが触れられていません。




…なので
これ以上は自分で妄想するしかない。 (`・ω・´)シャキーン


という事でとりあえず
京都「神護寺」と鎌倉「浄光明寺」を繋ぐものって??
と考えて
一般に、ぱっと思い浮かぶのは文覚(もんがく)ですが…。
しかし
文覚が、京都「神護寺」の中興の祖である事や
激しい荒廃の為
一時期寺院の外に持ち出されていた空海筆「僧形八幡神像」
「神護寺」に戻す為に尽力したのは事実ですが
鎌倉「浄光明寺」にまつわる話の方は…

「浄光明寺」は、鎌倉中期頃に
北条時頼北条長時が開基となって創建した寺院なので
平安末〜鎌倉最初期の人物である文覚
 「源頼朝の願いを受けて建てた堂が始まり」
という話は
史実というより、伝承の色合いが濃いと思われ
文覚つながりで…というのは
うーんww なんか、かなり無理矢理な気がします。
 (自分で言っといてなんですがw)


それでは
室町初期に両寺院に関係があり
これほど大掛かりな事をしようと思い
かつ、それが可能な人物って…??



実は、直義は鎌倉「浄光明寺」とめっちゃ関係が深いのです。



鎌倉で足利家に縁(ゆかり)の深い寺院といえば
主なところでは…

鎌倉時代以来、足利家の屋敷が隣接していて
尊氏直義の父貞氏のお墓がある「浄妙寺」
 (ちなみに、かつて直義の邸宅もここにあった。
  もっと言えば…直義終焉の地でもある(´;ω;`) )
それから
尊氏直義の祖父家時「報国寺」
尊氏の墓所がある「長寿寺」
足利基氏(※尊氏の実子で直義の養子)が中興して以来
鎌倉公方足利家の菩提寺となった「瑞泉寺」(しかも、夢窓国師開山)

…などですが
「浄光明寺」
直義の頃は、墓所や菩提寺ではないものの―――

直義の念持仏と伝わる
「地蔵菩薩立像」(通称、矢拾い地蔵)が安置されている事
また
鎌倉末頃から、ここに
浄土・華厳・真言・律宗の四箇の勧学院を建立する計画があり
それに直義の援助があったという記録がある事
さらに
直義が、天下泰平、仏法紹隆衆生の救済を願い
仏舎利を奉納した事が2度もある事
 (その際の自筆の寄進状が現存している)

…などなど
かなり、私的に密接な関わりがあるのです。

(ちなみに「浄光明寺」は、開基の北条長時以来
 赤橋家(※尊氏の正室の実家)の菩提寺だった。
 もっと言うと…尊氏が髻切って引き篭もった寺ww)




という訳で、私は最初
「これも直義の仕業か!!?」と思って
軽く盛り上がってしまったのですが…うーん。

確かに
「浄光明寺」と直義の関係を考えれば
尊氏直義の肖像画を京都「神護寺」に納めると共に
『互いの御影』の複製を鎌倉「浄光明寺」に納めて
広く天下の安寧と人々の幸せを願った
…という推測も
かなり有り得そうな話なのですが
しかし、もし直義だったのなら
上記の寄進状のように、改まった願文が残っていても良さそう…
という事で、この妄想も却下となりました。


とはいえ
寺社側が単独で、純粋に信仰の為に制作した
…と仮定すると
『互いの御影』「浄光明寺」の法流に関係が見出し難いし
(鎌倉なら、むしろ「鶴岡八幡宮」に伝来してても良さそうな絵画だと思う)
それから
京都「神護寺」の "互いの御影談"
わりと良く知られていたにも拘わらず

 現在、"対幅" で存在が確認出来るのは「浄光明寺」本だけ
  (※上記論文Aより)

というのは
"対" である事に意義を見出した模写は
意外に少なかった(ほとんど無かった?)事を予想させ
 (やはり一般には、空海筆「僧形八幡神像」の方が
  単独で注目度が高かったもよう)

それは裏を返せば
"対幅" として制作された「浄光明寺」本
(一般的な信仰ではなく)
かなり特殊な意図のもとに、誕生したのではないか?
…との疑問が沸いて
どうしても引っ掛かる。 うーーーん




という訳で、私の結論としては
やはり鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』
京都「神護寺」に納められた尊氏直義の肖像画と何らかの関連があり
しかしそれは
"直義による" ものではなく
"直義への" ものだったのではないか?
…と
『観応の擾乱』の "直義後" の結末を探究した結果
有名な "あの肖像画" との関連から
そんな仮説に至りました、はい。



……………
ちなみに
鎌倉「浄光明寺」の『互いの御影』の成立年代
 14世紀後半、南北朝期、15世紀
と、書いてあるものによって違うのですが
「絵絹の大きさ」に注目した上記参考文献Bの、肖像画群の年代考察を参考にすると
15世紀までは下らないんじゃないかなー
という気がします。
それから、上記論文Aによると
 「旧襲ともいうべき正統的な手法で、丁寧かつ繊細に描かれている」
という、14世紀後半の画像としては
 「完成された作域に達した作例」
だそうです。(※水色「」内、本文より引用)
つまり―――
技量の高さといい、一枚絹といい
制作主導に、かなり力のある者の関与が予想されるわけで…
もっと研究が尽くされてもいい
超注目ミステリー絵画だと思います。
……………




まあ、この謎を究明するにしても
すべては

 『神護寺三像』の本当のモデルは尊氏直義である

という事が大前提なので
も少しきっちり世に認めてもらいたい所なのですが…

(※この絵を、鎌倉初期の絵(源頼朝)と仮定すると
 実証的な美術史の観点からは、オーパーツ感強過ぎで
 どうしても無理があるそうです。
 …例えば
 当時は存在しない「未来の絵絹」に描かれてる事になってしまう
 とか。)

うーん
それでも、まだもう少し時間がかかるのかな…
あー( ・∀・)マチクタビレタ〜マチクタビレタ〜



こうなったら―――
神絵師八幡大菩薩
新『互いの御影』を描いてもらうしかない!
お願い、八幡様!!


南無八幡大菩薩


大画伯www 何やってんすかwwww
しかも、日本史上最長寿絵師はデジタル使いかよ!



ちなみに、これ描いたの7か月前。
 (直義部分だけ、今回描き直しました。)
なぜって…
もともと「室町絵師ランキング」は
このネタがやりたかったが為だけ軽率に思い付いたもので
実は、第5位〜第2位は後付けのおまけだった、ってゆう。


ちょっと道草…のつもりが
何て長い旅路になってしまったんだ
まさに「この世は、夢の如くに候…」by尊氏




…という、どうしようもないオチで
「室町絵師ランキング」が、ここにようやく完結いたしました。

当初は、単なる「息抜きネタ連載」の予定だったのが
なんの因果
この時代の最重要知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだ
「超伏線シリーズ」となってしまいましたが
この先の『チラ裏観応日記』の予習として、役に立つと思います。




もし、空海自筆と伝わる「僧形八幡神像」
更なる伝承をまとって『互いの御影』とならなければ
尊氏直義の "対" の肖像画も、誕生しなかったかも知れない。

もし、この肖像画が生まれなかったら
いま私が
二人の願いを受け取る事も無かったかも知れない。

もし、その願いが解き明かされる日が来たのなら
もしかして―――



この因果
一体どこまでたどれば終着と言えるのか
まだこの先に続きがあるのか
あるのだとしたら…


 見てみたい


それが
「絵師ランクシリーズ」の旅路の果てに見つけた
新しい出発点です。



posted by 本サイト管理人 at 20:02| Comment(2) | ★チラ裏日記
この記事へのコメント
管理人様はじめまして、応仁の乱について調べていたらここにたどり着きました。乱の舞台裏や人物が解説されていて、とても面白く読ませてもらってます。戦国黎明記、楽しみにして待ってます。
Posted by ないない at 2015年05月28日 16:33
>ないない様
コメントありがとうございます!
『応仁の乱』は「よく理由が分からない」と言われますが
「よく分かろうとされて来なかっただけ」だったってゆう…
そんな、可哀相な時代ですが
個々の登場人物に注目すると
それぞれみんな個性も目的もあってホントに良い奴だし
特に、西軍大名は
どんな少年漫画だよ!ってくらい友情があって面白いです。
おめーの脳内妄想だろ、とか思われそうな話も沢山ありますが
ちゃんと『大日本史料』の第八編を1から
地道に調べていますので、ご安心下さいw
読んでくれてありがとうございます、頑張ります!
Posted by 本サイト管理人 at 2015年05月29日 16:18
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