2015年08月31日

夏休みの宿題(その1)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
またずいぶん間を開けてしまいましたが
別に、夏休み気分でバカンスしていた…訳ではなくて
8月後半は
全国の小学生恒例の「夏休みの宿題追い込み期間」に便乗して
私も色々とセルフ課題をこなしていました。

気付けばすっかり涼しい毎日で
夏も終わってしまったかのようですが
しばらくは
夏の宿題提出編 "観応思い出夏日記" をお送りします。




では早速
前回の「本サイトTOPページ更新」に続き
夏休みの宿題 "第2段"
家紋シリーズに、新たな2種が加わりました!

その一、上杉家の「竹に雀」(たけにすずめ)です。


上杉家紋


あれ、なんか違う…
と思った方もいるかも知れませんが
「上杉 家紋」で画像検索すると、普通は
九枚笹(三枚笹を三方に配したもの)の家紋がヒットして
現在は、上杉といえば "九枚笹バージョン" で定着していますが
しかし、室町時代はどうだったかと言うと…
『応仁の乱』中に成立した家紋集『見聞諸家紋』では
上杉家の家紋は

上杉家紋
(※群書類従23武家部『見聞諸家紋』より引用)

…となっているのです。
なので、"室町の上杉" ということで
五枚笹×5の "二十五枚笹バージョン" で作図してみました。
ついでに、雀ちょっとでかくしてみた。
片方くち開いてるとか可愛過ぎるからw

(※これは、仁王像狛犬と同様に
 「阿吽」(あうん。万物の初め(阿)と終わり(吽))
 を表したもの。 雀なのに、雀なのに…宇宙を…
 ちなみに
 「竹に雀」の家紋は、他にも色んなバージョンがあります。)




ところで、"上杉" というと
現在は「上杉謙信」があまりに有名過ぎて
一般的にイメージされるのは
室町末期、戦国期の "いち大名家" …というか
"新興の戦国大名の一人" みたいな位置付けがされているような気がしないでもありませんが
しかし本来、上杉家はもっと歴史が深い一族ですし
上杉謙信は、(鎌倉時代末頃から)上杉家の被官だった "長尾家" の出身です。
(※ちなみに、長尾家も歴史は長いです。)


…というのも
私が今さら、ちまちまと上杉の家紋を作図したもの
ここ最近「室町創生期」にどっぷり深入りした結果
"初期室町" における上杉の重要度の高さを、コテンパンに思い知らされたからです。
(当初、本サイト&当ブログでは
 「室町幕府の後半戦」をメインに想定していたので
 上杉の真価を半スルーしてた。 すまぬ…すまぬ… )



室町時代の上杉と言えば
上杉清子が、尊氏直義兄弟の母である事から
一族は、足利一門とはまた別の、特別な存在であった訳ですが
遡れば、上杉家は
もともと勧修寺流藤原氏、つまり京都の公家
鎌倉時代中頃、建長4年(1252)に
後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が、鎌倉幕府の6代目将軍となる為
関東へ下向したのですが
その際、上杉重房が随伴していた事から
鎌倉との関係が始まります。

(※"上杉" を称するようになったのも
 この頃、上杉重房が丹波国の上杉荘を賜った事によります。)

(※それから、上杉家の家紋が「竹に雀」なのは
 その出自である勧修寺家の家紋が「竹に雀」(意匠はちょっと異なる)
 だったからです。
 (『尊卑分脈』上杉重房の注釈に「幕紋竹丸飛両雀」とあります。)
 ちなみに…
 現在、武家の家紋で
 似たような「向き合った雀と笹」の家紋をよく目にしますが
 これは、武家となった上杉家が繁栄し
 恩賞や親交の証として家紋を下賜することがあった為
 一族以外の武家にも広まったからです。)




さて、上杉重房の後は

 重房(1) ― 頼重(2) ― 憲房(3) ― 憲顕(4)
(しげふさ よりしげ のりふさ のりあき)(※他兄弟省略)


と続くのですが
このうち
上杉重房(1)の娘が足利頼氏に嫁いで
足利家時(尊氏直義の祖父)を産み
上杉頼重(2)の娘(=清子)が足利貞氏(家時の嫡男)に嫁いで
尊氏直義を産みます。
(要するに、上杉重房(1)から見ると
 足利貞氏はひ孫で、上杉清子はに当たる。
 んでもって、二人の子が尊氏直義。)



つまり、上杉家足利家の親密な関係は
鎌倉時代中期から始まっていた訳ですが
鎌倉時代の足利家は代々
執権北条一族から正室を迎えていて
北条家の母を持つ者しか、嫡男として家を継げなかったのに
上杉重房(1)の鎌倉下向を境にして
上杉家の娘が2代続けて、足利家惣領の側室となった上に
生まれた家時尊氏
"例外的" に家を継ぐ事になった、ってゆう。
しかも
家時と先祖の源義家「御置文」によると
もしかして義家が狙って生まれ変わって来てたくさい
…とかいう、私の脳内疑惑が濃厚な話まである
ってゆう。
(※この疑惑については、1年前のブログ記事
 「源八幡太郎義家」をどうぞ。)




そんな訳で
鎌倉幕府の特別有力御家人足利家の外戚となった上杉家
その後、京都では引き続き廷臣として
主に女院の蔵人を務める一方で
鎌倉では足利家の被官として
武家としての歩みを始める事となります。
(たぶんですが…どうやら兄弟で分業していた模様。)

尊氏直義の伯父である上杉憲房(3)
二人から厚く信頼される重臣であった事は
今川了俊の手記『難太平記』
上杉憲顕(4)宛の "直義自筆書状" に見える通りです。
(※この直義自筆書状については
 当ブログ「画像修正しました」の冒頭をどうぞ。)



ただ、上杉憲房(3)
建武3年(1336)正月27日
京都四条河原の合戦で討死してしまう為
二人の甥による新しい時代の幕開けに立ち会うことは
出来ませんでした (´;ω;`)ウッ…
この合戦は
足利軍の一度目の上洛で、一旦入京に成功した約半月後
再び京都撤退を余儀なくされた決戦で
官軍の激しい攻撃に

 「両大将御馬を進められて
  思し召し尽きたる御気色みえしほどに…」(『梅松論』)


つまり
尊氏直義が "決死の覚悟" をした、というほどの激戦だったのですが
しかしその時

 「勇士ども、我も我もと御前に進みて防戦し」
 「を捨てて、忠節を致しける」 (『梅松論』)

これにより
尊氏直義は、九死に一生を得た
という、スペシャル泣ける奇蹟の一戦だった訳ですが
この "勇士" のうちの一人が
二人のおじの上杉憲房だった、ってゆう (´;ω;`)

直義なんて、心が折れてしまいそうだったろうなぁ…と思う。
 上記の自筆書状によると、その後ずっと
 「(上杉憲房の討死に)万事力を落とし候て、悲歎無極
 だったそうな。)


今川了俊の伝える所によると
上杉憲房は、上杉家だけに伝えられた
(尊氏と直義は知らない)足利家時足利貞氏
とある "思い" を知っていたので

 「殊更、其人(=上杉憲房)骨を折りて河原合戦に討死しける」
 (『難太平記』)


だったそうだ。
歴代主君に尽くした上杉憲房…… 泣ける (´;ω;`)


(※以上は、本サイト『2-2』「西へ」辺りの話です。
 それから、この上杉家に伝えられた秘密
 上記の家時「御置文」
 (↑これは執事の高(こう)家に伝えられたもの)
 とも共通するもので
 他エピソードにも絡む核心ポイントですので
 気にしておいて下さい。)




さて、"室町の上杉" といえば
何と言っても
「関東管領」(※鎌倉公方の補佐役)と
「越後守護」としての顔ですが
これは、尊氏直義のいとこである
上杉憲顕(4)に始まる歴史です。

(※その他、関東の上野守護
 伊豆国、武蔵国、相模国なども重要です。
 上杉家は、室町幕府誕生時は
 京都尊氏直義に近侍する一族が一番多かったのですが
 二人の時代が終わった頃くらいから
 山内家、犬懸家、宅間家、扇谷家などに分岐します。
 これらの名字がみな
 鎌倉の地名に由来する事からも分かるように
 室町の最初期以降、上杉一族は "関東" を本拠地とし
 越後国はいち守護国、のちには京都に祗候する一族もいた
 という感じです。)


しかも、この上杉憲顕は徳治元年(1306)生まれなので
誕生年的には
 尊氏(1305)― 憲顕(1306)― 直義(1307)
となって
3人は年子みたいにきれいに並ぶ、ってゆう。

(※ちなみに、私の一押し足利高経尊氏と同い年。
 あ?しつこいだと? でもここ、後で超重要になってくるからっ)




まあ、上杉憲顕からしたら
尊氏直義は、あくまで "主君" なのですが
足利家上杉家は、どうやら家風がとても合ったようで
特に禅宗関連で、帰依僧に共通点が見られる…
というか、ほぼ一体だったんじゃないか??
と言っていいかと。
(※この辺の参考文献と詳しい話は、また後日。)


上杉家は、もともと京都の公家ですし
『上杉系図』には上杉頼重(2)について
「文武達者。歌人」とあることからも
代々京文化に精通していただろう事は容易に想像出来ますが
一方、孫の尊氏は…
これは良く知られた話ですが(それでもやっぱり意外ですがw)
趣味の域を超えたかなりの歌人であった事からも
両家の相性の良さが窺えます。

(ってゆうか、尊氏
 歌に超絶長けてた歌人将軍…どころか
 和歌だけを望みに生きていこう… (´ー ω ー`)
 とすら思っていた事があるっていう。
 なんて切ない将軍なのw)


つまり、足利家にとっては
上杉家は単なる被官ではなく、私的な親交が極めて深い間柄で
特に、直義上杉憲顕
信仰政道に見られる類似性から
おそらく、性格も良く似ていて
小さい頃から気が合ったに違いない…というのは私の妄想ですが
しかし
現存文書の内容をかなり突っ込んで分析すると
上杉憲顕は、相当に直義を慕っていたらしい
という事が改めて判明したりするw
(※これについてもまた後日。)


まあ、二人の信頼関係については
「上杉家文書」が有名なので
既に広く知られた事実で、誰も異論は無いと思いますが
この関係は、単なるほのぼのエピソード
…で終わるものではなく
『観応の擾乱』の真相究明で、超重要事項になって来るので
よく覚えておいて下さい。
上杉憲顕の行動から、直義の真意が読み取れる
 という意味で。)





という訳で
上杉家足利家のちょっと気になる関係について
簡単に述べてみましたが
実は、(わたし的に)最も気になるポイントは
両家の関係が
 「宗尊親王の鎌倉下向を機に始まった」
という点です。


というのも
元弘3年(1333)、鎌倉幕府が終焉を迎えたのは
足利軍が後醍醐天皇の勅命を拝し
執権北条一族に反旗を翻した事による訳ですが
これは
それまでの北条得宗家の専制政治に対し
御家人達の反感が限界に達していた、という事が
直接かつ最大の要因…ではあるものの
遡れば
皇族将軍である6代目宗尊親王足利家
さらには、京都の公家社会足利家の関係を一気に深めた
"上杉家の存在"
極めて重要な意味を持っていたのではないかと。

(※ちなみに、鎌倉幕府の将軍は
 6代目宗尊親王から、宗尊親王の嫡男である7代目惟康親王
 と続きます。)



この上杉家の位置付けを論じたのは

【田中大喜編『下野足利氏(シリーズ中世関東武士の研究 第九巻)』
(戒光祥出版)2013】
…の、第2部W
「田中奈保『高氏と上杉氏―鎌倉期足利氏の家政と被官―』2005」


という論文で、とっても興味深い&素晴らしい指摘満載です。
6代目宗尊親王の王女は
大覚寺統の後宇多天皇の妃となった永嘉門院という女性である事や
(※後宇多天皇はつまり…
 後二条天皇後醍醐天皇の父帝です(母は永嘉門院とは別))
それから
上杉家は代々女院の蔵人(※身の回りの日常諸事係)を務めていて
例えば、上杉重房(1)
式乾門院(四条天皇の准母で、宗尊親王を猶子とする)の蔵人
上杉憲房(3)(もしくは、兄弟の頼成)は永嘉門院の蔵人だった事
…などなど。

…これについては、系図により差異があるのですが
 私の予想では、永嘉門院の蔵人は頼成
  頼成が京都の廷臣上杉家憲房が鎌倉の足利被官上杉家
 をそれぞれ担っていたのでは? と思う。
 (もう一人、重顕という兄弟も京都担当だった模様。)
 理由は…
 上杉憲房は突出して尊氏側近としての活躍が目立ち
 重顕の子息には、京都公家社会との関わり見られるから。)

上杉家は従来
代々の足利家の家宰だった高(こう)家とは
同じ足利家の近臣的被官として
"並列的" に語られる傾向が強かったのですが
上杉は、その意味合いがかなり異なるのではないか
と結論付けられていて、うーんなるほど大納得です。




まあ、室町創生期前後の時期の
足利家にとっての上杉家の "位置付け" については
追究すればするほど
これまで思われていた以上に
『観応の擾乱』に深く関わって来る "実は最大級の鍵"
他にも紹介したい論文があるので
続きはまた後日に。
…という事で
今日は、両家の関係をビジュアル化しておきましたので
復習どうぞ。


上杉足利系図


二重線(=)は婚姻、点線(…)は猶子(養子)です。

上杉家については
上杉憲房は、姉妹の加賀局の子の重能重兼兄弟のほか
もう一人の女子と、加賀局自身も猶子にしています。
(おそらく、加賀局の夫勧修寺別当宮津入道道宏が没した後
 残された母子を、全員引き取って面倒を見たのでは、と思う。)

それから、重行上杉憲房の実子ですが
重顕の猶子となっています。

上杉憲顕の世代では、憲顕のほか
重能朝定(ただし朝定はちょっと若い)が特に重要ですが
この次の世代も含めて、続きはまた後日に。


足利家については
「足利一門の祖」を記入しておきました。
ここには記載し切れませんでしたが
鎌倉幕府成立時の足利家当主は、義氏たちの父の足利義兼
その兄弟の義清が、仁木・細川の祖となります。

桃井の祖については
父の義助が『承久の乱』で討死した後
子の義胤が、祖父の義兼の猶子となって跡を継いだようです。

石橋の祖
家氏の後で、庶長子の義利(石橋の祖)と
嫡男の宗家(斯波の祖)に分かれます。


足利泰氏の子については
本サイト『2-10』「愛しのへっぽこ公方様」の最後で解説したように

 長男家氏(斯波) 次男義顕(渋川) 三男頼氏(宗家足利)

の順番です。
家氏義顕の母が、名越流北条家
頼氏の母が、北条得宗家
…で、長男の家氏が家督に…と思いきや
大人の事情で三男の頼氏が足利を継ぐ、と。
なので
家氏の子孫は室町初期まで
「斯波」ではなく「足利」を名乗っています。
(先祖の官途から、尾張殿と呼ばれることもあった。)

渋川義季は、尊氏より9歳も下ですが
その姉は直義の室で、直義と同い年です。

足利高経は…高経です。


この世代は、年齢の近さといい
最も身分の高い尊氏直義めっちゃ性格良いし
みんな子供の頃から仲良かったんじゃないかなー
…というのは、私の妄想です。



ちなみに、足利義氏の娘が
四条隆親に嫁いでいるのですが
(時期はおそらく、1240年くらい?)
初代〜三代の将軍、源頼朝、頼家、実朝はもちろん
源氏はもともと、公家社会との縁は深い一族ですから
建長4年(1252)に宗尊親王に随伴して東下した上杉重房
不慣れな鎌倉で足利家との繋がりを求めたのも
ごく自然な流れだったと思います。
その時は
80年後の未来に待っている運命など、知る由も無く―――


ところで
ここでもう一言突っ込んでおきたい事があって
"室町幕府創生" というのは
尊氏直義たちの人望と奮闘によるものですが
しかし、その大前提となる
"鎌倉幕府終焉" というのは
これはやはり、後醍醐天皇の存在と行動力無しには
起こり得なかった歴史だと思います。
そして、さらに元をたどれば
後醍醐天皇の討幕の意志と、もっと言えばその帝位・存在自体が
鎌倉後期に始まる
後深草天皇を基点とする「持明院統」と
同母弟の亀山天皇を基点とする「大覚寺統」という
"皇統の分裂" に起因する事を考えると
「室町幕府の誕生」というのは
ここまで因果をたどる事が出来るのではないかと。


上で私は、上杉家と足利家の関係について
「宗尊親王」が最も気になる…と言いましたが
これはなぜかと言うと
なぜかと言うと…
宗尊親王後深草天皇亀山天皇は―――
みな後嵯峨天皇の皇子、つまり兄弟だから!!
(※宗尊親王のみ、母が違います。)


 (;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?


ってことは… つまりあれですよ!!
すべてはここで始まっていたって事で
上杉重房の下向も、足利家との出会いも
室町幕府は80年前に描かれていた既定の世界線でしかなく
尊氏直義が生まれた時点というのは
準備の整った舞台に、主役が降り立った "仕上げ" だったという訳で
半世紀の時を経て
整然と噛み合った無数の歯車が一斉に回り始めた
つまりは、「天のシナリオ」でしかなかった訳で―――



…とか考え出すともう Σ(||゚Д゚)ギャアアァァァーーーーー
ですが
まあでもしかし、室町幕府
近代になってから本当に酷い否定のされ方をして来たので
本当は
 「室町幕府こそ、天に定められた運命だった」
という事になれば
この時代を見る目も一層変わるのではないか、と
密かに期待しています。



え、史実妄想主義とか言ってるくせに
妄想分が暴走し過ぎですか?

ところで、みなさんは
未来は決まっていると思いますか?
私は、まあ大まかな輪郭くらいは存在していて
でもそれは、小さな誤差の蓄積で日々描き直されてゆくもの
少し先の未来となると
原型はあまり意味を持たないんじゃないかなぁ
…という凡人の発想でしたが
しかし
「室町創生期」という時代を調べていて思うようになったのは
こんなにも、偶然にしては
あまりに出来過ぎた奇蹟が重なり合った時代が実在したのなら
やっぱり未来は決まっていて
ならば、それを知っていた人間ももしかして―――


…おっと、今日の所はこの辺にしておこう。
妄想解除、妄想解除っと。
まあ、一言だけ先走っておきますと…
室町というのは、思った以上に "本物" ですよ。






さて、「家紋」の話がまだ終わっていませんでした。
では、ちょっと急ぎ足で
その二、八幡宮の神紋「三つ巴」(みつどもえ)です。


八幡宮神紋


「三つ巴」には
"巴" の回転方向が逆の、左巴右巴がありますが
これは左巴になります。
(※『見聞諸家紋』による。)

八幡大菩薩については
本サイト&当ブログでちまちま語っているので
まあいっか、という事で
夏休みの宿題 "第2段" 「家紋シリーズ」追加分の発表でした!
(投げやりで本当にすみません。)



ちなみに、背景の金魚がとってもかわいいですが
これは、私が使っているペイントソフトの
公式HPで公開されている素材
上の「上杉家紋」と「上杉足利系図」の背景にも
同様の素材を使用させてもらってます。
(※主に、ブラシツールや背景パターン素材。)


いや〜クオリティ高過ぎ
毎回コーヒー吹く!!
この場を借りて御礼言っとこ、どもども m(_ _)m
らくがきしているだけで楽しいんですよ、ホント。

ってか、そんことばっかやってるから
宿題が先に進まない、と。
まあでも、今日は何とか
全国の小学生全力疾走の8月31日に間に合いました。

ずさーーー⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡≡≡ーーーーーっっっ



posted by 本サイト管理人 at 23:59| Comment(0) | ★チラ裏観応日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: