2015年09月18日

夏休みの宿題(その3)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
…という訳で
夏休みの宿題 "第3弾"「室町ロゴ」の続きです。


先ず初めは
本当は前回の「sunrise 三兄弟」と一緒に紹介したかったロゴです。


「sunrise 三兄弟」は基本的に "京都" の幕府を基準としたロゴですが
室町幕府にはもう一つの重要拠点――― "鎌倉" があります。


京都の幕府が
"室町殿"(将軍) "管領" を軸に構成されるのと同様に
"鎌倉殿"(=鎌倉公方) "関東管領" で構成されるのが
「鎌倉」(=鎌倉府)で
室町幕府の一翼として東国を統治していました。
(※なお、現在の鎌倉公方・鎌倉府という呼称は学術上のもので
 当時は一般的ではありません。)
鎌倉についてはこれまで…

本サイト『2-4』「室町幕府の仕組み」
『2-5』「鎌倉のこと」(※最後の方に、2015.5.29追記少々あり)
『2-6』「それは東国の渚から」(『享徳の乱』)
『2-10』「ところで、東のあいつらは」(『応仁の乱』時期の鎌倉)

などで断片的に語って来ましたが
室町の歴史というのは基本、京都を中心に記述されるものなので
鎌倉はどうしても実態が見え難い存在ではあります。
(というか、根本的な問題として
 京都は、家業として日記をつける公家のお蔭で
 一次史料的にとっても恵まれている。)


なので、歴史学上の位置付けとしては
京都の "いち地方機関" …というかモブキャラ
みたいな空気が無きにしも非ずだったり
また一方で、逆に京都に対する東国の独立性を強調する見方もあるようですが
しかし―――
どちらにしろそれらは、現代人の主観的イメージでしかなく
真実というのは、当時の人々の認識の中にあるのであって
その認識は何かと探れば、それを "形成していたもの" の存在に行き着くのですが
いわば根源たるそれとは何かと言うと…
何かと言うと…
室町における「鎌倉」の "始まり" を作った
尊氏直義に他ならないのです。  Σ(゚Д゚ ) …!!!


実は、室町の「鎌倉」というのは
"統治機構の一端" という単純にシステムとして作り出されたものではなく
(あるいは、自然発生的に形成されたものでもなく)
初代将軍である尊氏直義意志が深く介在する…
というかむしろ
 二人の意志そのものとして誕生した
と言っても過言ではない存在だったのです。

…これは、尊氏直義の対立的なものではなく
 むしろその逆で、二人の祈り願い誓いと言えるものです。)

…という事を
ここ最近『観応の擾乱』の真相究明に没頭する過程で知って
わりとマジで震えが来ましたw


(※正確に言うと、『観応の擾乱』"以前" の鎌倉は
 純粋に地方統治機関だったのですが
 (↑この十数年間の鎌倉の主は、のちに京都の将軍となる
  2代目足利義詮(尊氏の実子で、幼少〜20歳の時期。
  なので、実質的に権力を振るっていた訳ではない))

 しかし、『観応の擾乱』を境に "特別な意味" が付加され
 (潜在的な意味で)生まれ変わる事になる、という意味です。
 (↑これ以降の鎌倉の主は
  足利基氏(義詮の同母弟で、当時13歳)とその子孫

 ちなみに…
 一般には、『観応の擾乱』を境に
  「(それまで直義の影響下にあった)鎌倉
   尊氏によって直義派一掃されて
   完全なる尊氏派の勢力圏として生まれ変わった」

 という解釈が主流ですが
 この見方が実は誤解で
 一見表面的にはそう見える、というだけだったのです。)



この「鎌倉」の特殊性
(観応期の)誕生時の一時的なもので終わる事はなく
その後も代々、東国武士を中心に受け継がれて行ったようです。
(これは、今川了俊の手記『難太平記』
 ある東国武士の回想録『源威集』から読み取れる
 "暗黙の共有認識"(…だったらしい)なのですが
 ただ、表には出さず行間に含ませる書き方をしているので
 かなり分かりづらいw
 でも、謎に包まれた『源威集』の "真の執筆意図" にも直結する
 極めて重要なポイントです。)


鎌倉京都の関係というのは、一触即発の事態に陥ることが
当初から…
3代目義満と、鎌倉2代目氏満および3代目満兼
4代目義持と、鎌倉4代目持氏
6代目義教と、同じく鎌倉4代目持氏
8代目義政と、鎌倉5代目成氏

…と
繰り返されて来たのが特徴ですが
これも、単なる権力争いではないある種の "因果" の中に
彼らが輪廻を続けていただけ…なのかも知れない―――
という話は、今はこの辺で。



ま、鎌倉の詳細(というか正体)は『観応の擾乱』の真相そのものでもあるので
今後の解説で明らかにしていく事になりますが、しかし…
 鎌倉は、スペシャル重要である」
という事を知ってしまったからにはロゴを作成しない訳には行かない!


という訳で
京都の室町三時代を象徴する「sunrise 三兄弟」従兄弟
…という設定で
"the KAMAKURA days of MUROMACHI"(室町の鎌倉な日々)
です。


室町ロゴ


"the another sunrise" とは
そのまま読めば「もう一人の sunrise 三兄弟」
ああ、ふーん従兄弟だからね… で終わってしまうフレーズですが
上述のように、鎌倉は "スペシャル" なのであって
 (だから蝶ネクタイがついてる。 ってひねりねぇ…)
このフレーズには非常に深い意味があります。



ところで、実は初めは
"the Guardian of MUROMACHI" …つまり
 「室町を守りし者」(or 室町の守護者
にしようかとも考えていました。

これは、今川了俊の手記『難太平記』の記述によるもので
『観応の擾乱』真っ只中、当時13歳の足利基氏
初代鎌倉公方として坂東八ヶ国を任される事になった時の話で
鎌倉について語った尊氏直義の言葉として
 日本国の守護たるべし」「(京都の)御代々の守りたれ」
などと記されているのです。


(※足利基氏(もとうじ)は、尊氏の実子ですが
 "幼少期" から直義の養子として育てられた人物です。
 …ちなみに以前は
  『観応の擾乱』の頃、"名目上" 直義の養子になった」
 と考えられて来ましたが
 実はそうではなかった、という事が
 前々々回のブログ「暑中御見舞い申し上げます」で紹介した文献
 【田辺久子『関東公方足利氏四代 基氏・氏満・満兼・持氏』(吉川弘文館)2002】
 で明らかにされています。)


まあ、こうして一部分だけ切り取っても
本来の正確な意図(微妙なニュアンス)を読み取る事は出来ませんし
そもそも、前後の文脈があったところで
『難太平記』のこの部分自体が
非常に難解(真意が掴み難い、何通りにも意味が取れる、主語が謎)
私が目にしたいくつかの文献では(※ただし、言及している文献自体が少ない)
研究者によって印象がまちまち
というかそもそも
未だ定まった解釈が存在していない、と言っていいかと。


というのも、実は
(現代の研究による)これまでの『観応の擾乱』の解釈とは
か な り 相 容 れ な い 内 容 なので
解釈の仕様がなくて見事にスルーされている…
という印象w
(言及されている場合でも、全体を包括的に…ではなく
 一文や一部分を参考までに…という感じで
 史実としてあまり重視されていない模様。)


しかし、直義関連の記述とあらば意地でも解読せずにはいられない私が
とことん食い下がってみたところ
どうやら、この『難太平記』の記述こそまさしく
当時を(じか)に知っている人物(=今川了俊)が
真相をありのままに、しかもかなり正確に、そして詳細に伝えている
という事実が判明しました。  Σ(゚Д゚ ) …!!!!!

(※『難太平記』だけ読んでても
 文言の解釈は主観的な妄想にしかならないので
 他史料の分析から導かれる説と照合しながら
 整合性が取れる解釈が可能かどうか、という試行錯誤を繰り返し
 結果、『難太平記』の記述が
 他史料の内容と相互に補強し得るものである事と
 ほぼ一義的に意味が取れる事を、客観的に確認しました。)

というか…
もし了俊がこの手記を残してくれなかったら
『観応の擾乱』の謎は永久に解けなかったかも…
(そして、尊氏直義の関係は永遠に誤解されたままだったかも)
というくらいのミラクル貴重な証言です。
なんか放置されていたから
 石ころかと思ってとっ込んだら、宝の山にダイブしていたでござる
です。



(※ちなみに、『難太平記』という表題は
 筆者の今川了俊自身が命名したものではなく
 この手記の中に
  『太平記』について語っている(難じている)部分
 があったので、後世の人間が便宜的に名付けたものであって
 『太平記』関連の記述はあくまで一部分です。
 この手記はもともと
 今川了俊(※了俊は入道後の法名、本名は今川貞世(さだよ))
 晩年に一生を振り返り、子孫に伝えるべき事柄を書き留めたもので
 その内容は、一族の事から幕府内で起きた事件の真相まで多岐に渡りますが
 やはり、了俊の若かりし頃
 つまり尊氏直義がいた時代の話が、特別異彩を放っている…
 と言うかなんか、のように輝いてる…(ような気がする。)

 (例えば、源義家足利家時「御置文」の話や
  尊氏直義誕生時の産湯の山鳩(←↑当ブログ「源八幡太郎義家」
  元弘3年上洛時の奇瑞未来を告げて夢の如く去って行った女人
  直義「清き武者」の話(←当ブログ「正月奉納連画 第三弾」
  尊氏直義に付き従った家臣達の、奮闘の日々
  そして『観応の擾乱』の秘話―――などなど。
  ちなみに、了俊は正中2年(1325)生まれなので
  幕府誕生時は12歳、『観応の擾乱』当初は25歳です。)


 『難太平記』が記されたのは
 応永9年(1402)了俊78歳の時ですが
 了俊は文武に卓越したとんでもなくスペックの高い武将なので
 記憶力も相当に良かった模様。
 つまり―――
 内容の信憑性が極めて高いのはもちろん
 巧妙に(時に意図的に)真実が仕込まれているので
 脳みそ溶けるくらい、全力で読み込む必要がある…かも。)


…これはなぜかというと
 了俊は、律儀なまでに長幼の序君臣の義を守る
 「弓矢の道」一徹!!…みたいな武士だったのですが
 皮肉な事にそれゆえ―――
 今川家の相続の件では、父範国に期待され一家の事を任されながらも
 兄の子を立てて家督を譲ったのに
 なぜか逆恨みで讒言される目に遭い
 九州探題の件では、身を粉にして無理ゲー状態の九州を平定し
 将軍義満に忠節を尽くたのに
 なんか知らんけど疑われた上終わればポイ、で
 『応永の乱』では、同じく○満からいきなり謀反を疑われて万事休す
 …という、めっちゃ不遇な人生後半だったので
 言ったら激ヤバな事ばっかなのは知ってるんだけど
 それは分かってるんだけど、どうしても―――

  本当の事を書き残さないと、気が済まなかったからw

 (だから『難太平記』は、正直者が泣きを見る理不尽な世への
  了俊の愚痴…じゃなくてもどかしさに満ち溢れている。)
 なんて世の中は冷たいんだろうね、了俊… (´;ω;`)
 でもそのお蔭で、『観応の擾乱』の迷宮が攻略出来たよw
 尊氏直義にとっては超時間差時空忠臣だから、元気出して!!
 ……
 それにしても『難太平記』を読んでいると
 尊氏直義の時代の幻のような輝かしさとは裏腹に
 二人亡き後の世界の
 「不道不義無礼」(※原文)の輩が罷り通る黒さには
 衆生を救いに来たが去って、欲に溢れた人の世に戻ってしまった
 …ように思えて仕方ない。
 うーん。  Σ(゚Д゚ ) …ハッ!!!!!!! )





それはそうと…
この記述に従えば
"the Guardian of MUROMACHI"(=室町の守護者)てゆうか
"the Guardian of JAPAN"(=日本の守護者)じゃん!
何それ、どういう事!!
軽く目ん玉飛び出るんですけどっ!!
…とか思われるかも知れませんが
にも拘わらず、なぜこのフレーズが却下されたかと言うと
実はよくよく読むと――― もっとすごいからです。




上記の言葉は、尊氏直義のものですが
直義亡き後の尊氏の言葉(おそらく遺言としての言葉)の部分を採用し
その意訳として
"the another sunrise"(もう一つの日の出)
としました。
あえて "the" をつけたのはもちろん "スペシャル" だからです。


(※つまり、直義の死を境に「尊氏の心境変化があった」
 という事です。
 (…ただし正確に言うと
  直義を失った直後と、尊氏が遺言を残す頃とでは
  また少し変化があります。(←とある戦の結果による))

 みなさんも薄々気付かれて来たかと思いますが…
 従来、「尊氏は主導権争いの末、直義を毒殺した」
 と考えられて来たので、問題にすらされなかった論点
  尊氏にとって、直義の死はどう受け止められたか?」
 という事ですが、これは―――
 (※ショックを受けたくない人はスルーして下さい↓
  見え難い場合は反転を)

  世界が音を立てて崩れるほどの絶望

 だったと言えるでしょう。
 なぜそう推測出来るのか?…というと
 ここに、前回の「西天」の真意が絡んで来るのです。)




ではその "こころ" は…というと
これは、一見かなりアクロバットな事になるので心して下さい。
"the another sunrise" とは詰まるところ…


 "the MUROMACHI compatible"(=室町互換機)


という意味なのです!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?



もちろん、別にパソコンの話をしているのではなくて。
京都と互換性のある "sunrise"
それが「鎌倉」だと言うことです。

なぜそういう事になったのか?
…というのがまさしく
『観応の擾乱』とは如何なる事件だったのか?
擾乱の最中(さなか)、尊氏何を考え何を思っていたのか?
…というに対する答えとなるので
お楽しみに。





室町時代の「鎌倉」については
京都に比べ遅れをとっていた研究が近年、一気に加速しつつあって
喜ばしい(というかホント助かるw)のですが
その位置付け役割を定義するには
統治機関としての制度的な性格だけでなく
「鎌倉」の在り方に最も強い影響を及ぼしたもの―――
すなわち
当時の人々の意識の中に脈々と生き続けた "初代将軍の意志"
探る必要があります。



鎌倉にしろ京都にしろ
というか "室町そのもの" が、遥か後代まで

 創始者である尊氏直義
 不思議なほど強く規定された幕府である


というのが、『観応の擾乱』の探究を通して私が知った
「どう理解したらいいのかまるで分からん事実」ですが
これはもちろん
表面的に "意識してやっていた" という意味ではなく
(儀礼的には(つまり表面的な部分では)ほとんど
 3代目義満の先例が踏襲されています)
そうではなくて
誰もが気付かぬ内に "その夢の中に流転していた" ようなもので
そのような観点に立ち "本質" で室町時代の歴史を解読し直すと
6代目義教の生涯や『応仁の乱』『明応の政変』もまた
繰り返された輪廻 "一章" でしかない―――
…おっと
オカルト妄想はこの辺に、と言いたいとこですが
これがまた、史料的裏付けのある大真面目な話だったりするので
もう何がなんだかwww
(どういう事かと言うと
 輪廻が繰り返される事を知っていた人物が… Σ(゚Д゚ ) …ハッ!!!!!!!!! )


私が前々回「夏休みの宿題(その1)」
「室町は思った以上に "本物" 」と言ったのはまあ、そういう意味なのですが
 (つまり人智を超えている、と)
ただ、もっと重大なのは
いま仮に
 「我が七代の孫に生まれ変わって天下を取る」
と書き残した源義家「御置文」が事実だとするならば
この輪廻は "室町" に始まったものではなく
初代の二人、尊氏直義"遥か過去" から繋がる天命を受け継いでいた
という事になる訳ですが
ならばそれはどこから…と、根源を尋ねて遡ると―――
どうも、二人の一生天性の王として天下泰平に治めてから
『観応の擾乱』の悲劇に至るまで…

とある神話に喩(たと)える事が出来る、というか
その神話の焼き直しに過ぎない…

すみません、なんか頭のおかし過ぎる話になって来ましたが
でも、本当に不可思議な類似性で何がなんだかまるで分かりません。
もしかしたら、輪廻というのは地球規模で繋がっているのかも…?
だとしたら、二人の天命もまた受け継がれ
この世界のどこかに―――


あーいや、さすがに話がぶっ飛び過ぎて来た
この辺にしよう。
(それにしても、尊氏直義って一体何者… Σ(゚Д゚ )…!!!!!!!!!!! )





それでは気を取り直して
最後に、イラストについてですが
これをどうしても猫キャラにしたかったが為に
「sunrise 三兄弟」の三男がクマたぬきになってしまった、ってゆう。

では、なぜ猫かと言うと
室町時代の「鎌倉」の中心
鎌倉殿「御所」と言えば―――「浄妙寺」の東隣り!!

鎌倉「浄妙寺」については
前々々回の「暑中御見舞い申し上げます」の最後で紹介したように
その近隣には、鎌倉時代から足利家の邸宅があり
かつ足利貞氏(二人の父)の法号で、しかも直義が眠る場所でもあります。
そんな「浄妙寺」には現在…
がいっぱい住み着いてぬこぬこしているらしいw
という事で
猫にしました。 にゃー




さて、思いの外「鎌倉」の解説が長引いてしまったので
続きの派生キャラは、これまた次回に持ち越しです。



posted by 本サイト管理人 at 22:38| Comment(0) | ★チラ裏観応日記
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