2015年12月25日

室町的鎌倉旅行記(その2)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で、前回の「室町的鎌倉旅行記(その1)」の続きです。
続きもののくせに、またとんだロングパスですみません。

何をしていたかと言うと
先月末からパソコンにちょっとばかし問題が生じて
瀕死で格闘しておりました。
PC関連の非常事態って
なんでこんなに精神ダメージ感半端ないんですかね。
いろいろ遠回りして、結局今んとこ
データ用のHDD(ハードディスク)を換装しただけなのに
一時期すっかり心身ともに萎(しお)れていました、げっそり。


というか、今回グラボの換装も考えていたのですが
数年前のマザボじゃ
今のグラボ挿しても動かない可能性のが高い
ってお店で言われて
「うん、まあグラボは別に問題ないし、このままでいっか」
と納得して
OSの不具合だろうから(…と思っていた、この時点では)
システム用にSSD買って来てクリーンインストールまで試みたのに
どうやらグラボが関係する問題らしい…という事が判明して
手も足も出なくなりました。
そりゃあ、システムの復元しても直らなかった訳だよ (´;ω;`)

それでも、折角だから心機一転するか、と思って
そのまま作業を進めたのですが
な ぜ か
アンチウイルスソフトが何度やっても上手く機能してくれない。
という訳で―――
出戻りました。(元の環境の落ち着き感ぱない。)


ちなみに(元環境で)グラボのドライバをアップデートしたら
DVIで接続しているモニタだけ色がおかしくなって慌てて元に戻した
とかもうなんなの!
まあでも、戻せるならいいんですよ。
今回、元に戻せない事態にも遭遇し
ああ… ほんの数時間、ほんの数時間でいいから過去に戻れたら
と、天を仰いで真っ白になるという
「虚無化」を体験しました。 (  Д )


まあ実は、何だかんだ言って大した不具合では無いので
なんの支障も無いと言えば無いのですが
 (つまり、この一連の無駄な苦労は一体…)
切っ掛けはどうあれ
PC本体の掃除HDDの換装を終えられたのは良かったです。
静音快適!!
…てゆうか
ファンもヒートシンクも埃でモコモコし出していたのに
2年以上掃除さぼってた。
その上、だいぶ前からHDDは不良セクタが発生してて
動作音もそろそろやばい域に達していたのに
いや、まだだ、まだ戦える…!! ってギリギリ感を堪能してた。
すまぬ、すまぬ… (´;ω;`)
そりゃ、PCも不機嫌になるがな。


なんか今回は、摩訶不思議なくらい
色々とちっさい試練が重なって
それに一個一個半虚無状態で対処していたら
妙な境地に達してしまったような気がするんですけど
もしや、何者かが私を輪廻から解脱するよう導いて―――
…というのは痛い妄想ですが
それにしては、この意味不明な不可抗力現象…
もしかしたら
HDDが自らの死期を悟って
完全に逝ってしまわれた後でギャアァァぁぁーーーーー!!!
と大惨事になる前に換装を終えられるよう
私を動かしてくれたのかも知れない…
とかいう妄想はよくしてしまいます、はい。


まあ何はともあれ、ひと通り過ぎ去ってしまうと
あんだけ絶望していた自分がアホでしかないのですが。


そんな訳で
半月前までは何度も「あの日に返れたら…」と虚無った私ですが
もう後ろは振り向かない事に決め
この先にどんな(大した事ない)試練が待っていようとも
このまま突き進む事にしました。
今のPCすごく気に入っているので、まだまだ何年も使うつもり。
不具合も含めて愛します。 キリッ☆




ところで、関係ないけど
尊氏って(少なくとも現時点でのイメージでは)
不具合いっぱいな将軍だけど
なんか史実無視のアクロバットな美化とかする事なく
なぜかみんなに不具合ごと愛されているよね (´・ω・`)
尊氏の事を少しでも自分で知った人なら。ってか研究者からもw)
こんな愛され方される歴史上の人物って一体…



ちなみにこの不具合
…特に『観応の擾乱』時のものは
一見、OS(将軍)の問題に見えますが
実際はその他のアプリケーションドライバ達の問題です。
(それらの内、ごく一部に生じた不具合が全体に飛び火した。)
その大問題を
OS尊氏さんが一人すべて肩代わりしようとして頑張ったのが…
『観応の擾乱』です。

人の嘆き無くして、天下治まらん事本意たる…」(『梅松論』)
 (人の嘆き無しに天下が治まる事が本望

…なので「誰も罪人(つみびと)にせずに事態を収拾する」
という離れ業をやってのける為
持ち前の "方便" を使いまくったから
非っ常ぉぉーーーに分かり難い擾乱になってしまっているのです。
つまり尊氏こそ…

 誰よりも天下を不具合ごと愛した将軍

だったと。
げ、解脱している… 確実に解脱している… (´;ω;`)



ついでに言うと
尊氏は幕府立ち上げまでは冴えまくっているけど
『観応の擾乱』以降、晩年はグダグダ…
とか思われているOSですが
それどころか、実際はその逆で
晩年こそ、強力なSP(サービスパック)がリリースされ
大幅な更新を遂げているのです。

私の脳内リリースノートによると…
 SP1 が観応元〜2年(1350-1351)の、擾乱第一期最盛期
 SP2 が観応3年(1352)直義没後の、擾乱第二期開始時


特にSP2インストール後の尊氏は
別人…というくらいの変わりようで
本気本気出しますので、心の準備をしておいて下さい。

(その時期なら南朝旧直義派に対して?
 …と思われるかも知れませんが
 実はそうではなく… Σ(゚Д゚;)!!!!??? )

なんて事だ…
Windows Me がいきなり Windows 7(SP1)に…!!
…って
不安定フリーズ(出家)とか言わないで下さい ><


いつもの↓

Windows比較AA





与太話☆*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆終わり





という訳で、前置きで話が逸れ過ぎました。
旅の続きに移ります。


さて、今回の旅の切っ掛けである「鎌倉国宝館」
『鶴岡八幡宮』の境内にあるのですが
ここは最後に取っておく事にして
次の目的地に向かい、ひたすらへ進みます。


金沢街道


歴史ある金沢街道です。 わりと狭いです。
しかし、こっち方面は
源頼朝時代の幕府の中心であり
さらに進めば
鎌倉時代の足利家の本拠地であり
室町時代には鎌倉公方「御所」として政治の中心地だった
『浄妙寺』周辺に誘(いざな)ってくれる訳で
これほど室町マニアの気持ちを逸(はや)らせる道はありません。
うきうき、わくわく。
…(中略)…
『杉本寺』に着きました。 わーい!!


『杉本寺』

『杉本寺』の苔むした石段。
 現在は安全の為通行止めなので、時が止まって一層情緒深い。)



『杉本寺』はなんと奈良時代に遡る「鎌倉最古仏地」
「十一面杉本観音」と幟(のぼり)にあるように
3体の十一面観音像を本尊とする天台宗の寺院です。
そして、かつては『大倉観音堂』と呼ばれていました。

(この辺りは、西の源頼朝時代の幕府の地だけでなく
 さらに東の『浄妙寺』辺りも含め
 大倉(大蔵)と呼ばれていたようです。)


光明皇后(聖武天皇の皇后)の御願に始まったといわれ
長らく信仰を集めて来た観音堂ですが、しかし…
鎌倉時代最初期の文治5年(1189)11月23日の夜
隣屋の火災の延焼により本堂が焼失してしまいます。
そ、そんな…

だがしかし! 燃え盛る炎が迫りくる時
3体の観音様は…
自ら境内の大杉の下に避難していて無事だったw
セーフセーフ
以来、「杉の本の観音」と呼ばれるようになったそうな。

(´・ω・`)助かったね。(´・ω・`)うん。
でも本堂焼けちゃったね。(´;ω;`)うん。
…とか話していたんだろうか。

(『吾妻鏡』によると
 本尊を救出したのは、炎の中に飛び込んだ僧侶
 その際、僧衣がほんの少し焼けただけで
 体は不思議と無事だったそうな。)


その後、本堂の再建は進んだのか進まなかったのか
2年後の段階で
風霜に晒されて瓦葺きの屋根は破れ、軒は傾き…
という有様だったそうで
建久2年(1191)9月18日、『大倉観音堂』に参詣した源頼朝
その惨状を憐れんで修理料を寄進(『吾妻鏡』)
さらに運慶作の十一面観音像を納めたと言われ、現在に伝わります。





さて、この『杉本寺』が
どう室町創生期に関わってくるかと言うと
『杉本寺』背後の山は、かつて「杉本城」の要害となっていて
北は『瑞泉寺』まで達していたという広大な城郭だったそうですが
ここで、幕府誕生の建武3年(1336)の翌年
大規模な戦がありました。

その頃、関東では
足利家長(いえなが)を筆頭に
上杉憲顕、憲藤兄弟や桃井直常高重茂などの主だった面々が
尊氏の嫡男千寿王(のちの2代目将軍義詮、当時8歳)を擁して
鎌倉を守っていたのですが
建武4年(1337)8月
南朝の北畠顕家が、奥州から京都を目指して西上を開始
上野国から駆けつけた上杉憲顕(のりあき)が
下野国小山城に押寄せた敵の撃退に成功したものの
 (※『上杉家文書』建武4年9月3日
  直義に褒められる上杉憲顕w )

しかし12月13日
利根川合戦での敗退で、鎌倉の幕府軍は劣勢に立たされ
12月24日から25日には遂に
勢いを増した南朝北畠顕家軍と
鎌倉で決戦を迎えることになってしまうのです。


(※足利家長(または斯波家長)は
 足利高経(たかつね)の嫡男。
 家長は、奥州を含めた関東の統治を任された関係で
 個別に「斯波殿」と呼ばれている事もありますが
 (「斯波」は奥州斯波郡に由来する名)
 足利高経の家系の "家名" として「斯波」が定着するのは
 もっと後の代からとなります。)



大軍の南朝軍を前に、籠城戦ではとても勝ち目は無いと
上杉憲顕たちは、味方の一万余騎を四手に分けて
道々に出合いつつ、その都度馬を駆け合わせて臨機応変に戦う
という戦法で、何とか一日持ち堪えたのですが…
しかし、大将として「杉本城」に向かっていた足利家長
家長は… (´;ω;`)
敵の進軍を防ぎ切れず、『杉本観音堂』にて家臣300余人と共に
切腹の最期を遂げたのでした。
 (※この辺『太平記』情報)


奥州方面の総大将かつ関東執事であった足利家長
当時、数え17歳
斯波家の地位の高さが窺えますが
しかし何より… こ、この若さで (´;ω;`)ウウッ…

『杉本寺』の本堂手前右側には
古い「五輪塔群」があるのですが
これが建武4年(1337)12月25日にこの地で果てた
足利家長たちの供養塔だと伝えられています。


杉本寺と杉本城

(『杉本寺』本堂より、「杉本城」のあった北側の山を望む。)


この写真の右側に、無数の「五輪塔」が並んでいるのですが
なんとなく直接写真に撮るのが憚られてしまって
画像が無くてすみません。
室町ファンかつ高経ファンとして
 「家長ぁぁーーーーっっ (´;ω;`)(´;ω;`)(´;ω;`) 」
と思いながら
現地で心を込めてなむなむして来ました。



この「杉本城」での敗戦で散り散りになった幕府軍
千寿王(義詮)を連れて一旦鎌倉を脱出しますが
鎌倉を占領した南軍北畠顕家
早くも1週間後の建武5年(1338)正月2日には
京都を目指して西上を再開したので
幕府軍は帰還
しかし多くはすぐさま北畠顕家の後を追って
諸国で軍勢をかき集めつつ追撃
やがて彼らが京都の幕府軍と合流し
美濃国「青野原の戦い」から、畿内での大決戦へと
運命の筋書きを繋いでゆくのです。


(※ちなみに「青野原の戦い」では
 『太平記』の記述により…
 南朝北畠顕家軍の大勝! 北朝足利軍の大敗 ('A`)ウッウー
 …みたいに思われていますがw
 しかし激戦だったのは確かですが
 ここで勝ったのは足利軍です。
 北畠顕家軍は足利軍の防衛線を越えられず
 近江から京都への道を諦めて、"已む無く" 伊勢に逃れた
 …というのが実際です。
 「顕家卿已下…青野原被打落、伊勢国落行云々」
  (『鶴岡社務記録』建武5年正月28日)

 2月3日には、戦勝を報じる尊氏の御教書
 鎮西の諸氏に宛てて出されています。
 (『大日本史料』暦応元年2月3日) )





ところで『太平記』では、この鎌倉での合戦に際して
一旦安房上総に退却して加勢を募ろうと提案する諸将に対し
当時11歳(※これは誤りで実際は8歳)の千寿王(義詮)が

「自分は東国の管領(or 大将)を任されて鎌倉にあるのに
 戦わずして退く事は出来ない」(←実際はもっと長い発言)


と、思慮深く道理を尽くして防戦を主張したので
勇将たちはみなこの一言に励まされ、討死覚悟で戦いに挑んだ
…とありますが
これは実際には
関東執事&大将足利家長の発言だったと思います。

満7歳にしては不自然過ぎるこの知的勇ましい発言は
将軍尊氏の若君 "聡明さ" を潤色した
リップサービスなのでしょう。
(あるいは、鎌倉の情報が "伝聞" として京都に伝わるまでに
 どこかで入れ替わってしまったのだと思われます。)

『梅松論』にも似たような若君賞賛記述がありますが
"幼少期" の(あるいは "次期将軍就任未満" の)義詮
それなりに普通に期待されていたんだって事かと。

え、どういう事かって…
(良く知られている話ですが)
尊氏直義はもちろん、直冬(尊氏実子&直義猶子)さえ
気持ちよく褒められている『太平記』
なぜか2代目将軍義詮 "だけ" は
かなり評価が低くて何それ謎過ぎる とされているのですが
これにはやはり明確な理由が―――

…おっと、今はここまで。ふう。




なむなむ☆*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆なむなむ




さて、いきなり建武4年の思い出に浸ってしまいましたが
もちろん、その前に本堂へのお参りをしっかり済ませています。


『杉本寺』の本堂は、上の写真にあるように
茅葺き屋根のとっても趣ある造りなのですが
中の方も、これがまた
すごいじわじわ来る感じwで雰囲気が素晴らしかったです。

靴を脱いで上がれるようになっているのですが
奥の格子の向こうに秘仏として安置されている
本尊の十一面観音(3体)のほか
源頼朝寄進の十一面観音
それから、地蔵菩薩不動明王やその他様々な仏像が
小さな堂内にみっちり安置されていて
みな直接目の前でなむなむ出来るようになっている
というアットホームさw
本尊のみ、格子戸まで少々距離がありますが
 淡い光に浮かび上がるシルエットが
 なんとも幻想的で良かったです。)




さて、私が『杉本寺』に来たのは
足利家長の追悼をしたかったから… だけではなく
十一面観音様そのものにも興味があったからです。

というのも、尊氏に関する記録で
十一面観音が関わってくるものが一つあるのですが
これが実は
尊氏の謎にめっちゃ深く関係する核心的エピソード
 (…という事を、5〜6か月本気で考え続けた末に知り)
半年ほど前に、この謎の最終結論に達して以来
十一面観音様が気になって気になって仕方なくなっていた
ってゆう。

まあこのエピソードについては
どこか特定の十一面観音という訳ではなく
尊氏の心の中にあった観音様… といったものですが
尊氏が育った鎌倉の大倉にある『杉本観音堂』の本尊は
幼い頃に最も身近にあっただろう観音様な訳で
だとしたら、ずっと心の片隅にあったかも知れない…
…というのまあ
少々妄想し過ぎな気もしますが
 「尊氏幼少期に親しんだかも知れない十一面観音様
との可能性に夢を見て
700年前に思いを馳せてなむなむして来ました。


『杉本寺』

(『杉本寺』の本堂から、南側を望む。
 本堂はかなり階段を上った所にあるので、眺めが良い。)



ところで、このお寺は全体に
すごーく甘い香りが漂っているのですが
お線香がめちゃめちゃ良い匂いさせてるらしい。
本堂の入り口で、100円でお供え出来るようになっているので
私も一本灯して来ました。
是非みなさんも、甘い香りに包まれながら
観音様に、足利家長に、なむなむしに行ってみて下さい。




こっから与太話☆.*:.。.:*・゚(n‘∀‘)η゚・*:.。.:*☆再ターボよ〜




てゆうか、今日はなんの話がしたかったかって
『杉本寺』足利家長と来れば…
父ちゃんの足利高経(たかつね)ですよ!!

これまた半年と少し前に足利高経の真相に目覚めて以来
気になって気になって、そりゃもう気になって眠れなくな…
まあ、ぐっすり眠っていますが。


高経については
ブログ「暑中お見舞い申し上げます」
後半のてきとーなネタバレコーナーの ( ゚Д゚) < その三
で話したように
私は、全国でただ一人だろう熱烈高経ファンですが
(もっとすごい方いたらすみません
 でも今んとこ、気配すら感じません)
なんでそんなに高経なんかに…失礼、高経様
興味が湧いてしまったかというと
それはですね…
私は最近このブログでしょっちゅう
尊氏の秘密がどうのこうの」という話をしていますが
これはその内容の宿命的重さから
当然人に話せるようなものではなく
尊氏にとって心の内をさらけ出せる相手は
神仏だけだったようなのですが、しかし―――


まあこれは、明確な証拠があるのではなく
史料から分析した尊氏高経の言動より導いた可能性
(ただし、ほぼ100%に近い可能性)
…という話なのですが
おそらく足利高経
尊氏が誰にも(もちろん直義にも)話せなかった秘密を

 神仏以外で唯一打ち明けられていた、たった一人の人物

だったと考えられるのです。
(;゚Д゚);゚Д゚);゚Д゚) ななな、ぬわんだってえぇぇぇーーー!!???



つまり、高経こそ
尊氏がすべてを信頼していた本物の腹心であり真の友だった
という事
これで興味が湧かないでいられようはずが無い!
しかも初期スペックめちゃ高なのに妙に影薄いとか
わたし的どストライク!!
…まあ、私の性癖はどうでもいいのですが。

(私がしつこく「尊氏と高経は同い年!」と告知していたのは
 この関係があったからです。 ネタ的においし過ぎる!!)




というか、南北朝期の幕府方の人物の人気度って
尊氏派の方が圧倒的に高い…ってか
尊氏を一貫して支持した(…ように見える)」って理由が
人気度の最大要因になっているような気がするのですがw
だから
一見尊氏に反抗したと思われている直冬
どんなに正しく健気純粋だってエピソードがあっても
すごく評価低いし
反対に、どんなに人として間違った事してても
尊氏派だとされる武士は
「道理を破るのは革新的!元気!素敵!」
とかいうアクロバット擁護をしてもらえる
スーパーラッキーポジションを独占している訳でw


…と、いう事はですよ
高経の行動はこれまで
反尊氏派、あるいはどっちつかず
家格で対抗意識を燃やしていたとか、尊氏に疎まれたとか
散々な見解だった訳ですが
これがすべて、尊氏の秘密を知るが故の
真の意図を隠した意味ある行動だという事が知れ渡ったら…

当然それは、尊氏の指示によるものであって
尊氏高経は疎遠どころか、重過ぎる秘密を共有し
固い信頼で結ばれた関係だったって事が知れ渡ったら…
知れ渡ったら…

ぬおおぉぉぉぉーーーーー!!!
ってくらい、色々となんかもう大変な事になる訳ですよ!!!




すみません、だんだん錯乱して来ました
でも気持ちは分かってもらえるかと思います。




というか、みなさん足利高経なんて
これまで完全ノーマークだったでしょうから
いきなり登場されても
これまでの世界観崩れまくって大変困るでしょうが…
なんたってもし
『太平記』…が描いている時代を "青春群像小説" にするのなら
本来その最大の裏主題は…

 「尊氏高経友情物語

これが本当の『太平記』なんですよ?
目ん玉飛び出すどころの事態じゃねぇ
てゆうか、そんな南北朝小説ねえよwwwww 却下!!
とか思うよね、うん思うよね… (´;ω;`)

(※もっと言うと、尊氏高経に加えてあと2人
 主人公レベルがいます。 一人はもちろん直義
 というか、この二人の友情
 一つにはもちろん天下の為なのですが
 突き詰めれば結局は "直義の為" だったりする。)


まあ、現時点では
まごう方なき空気虚無な高経ですから
この先の道のりが果てしなく遠いだろう事は覚悟していますが
本当の『太平記』が知れ渡るまで
高経ファンたぶん筆頭の私としては責任を持って
高経を全力で持ち上げまくって行く所存です。

(私の脳内では既に、「the truth in 太平記」という
 痛いプロジェクト名まで付いています。)

という訳で
今日は足利高経の記念すべき肖像画第一弾を発表します。


足利高経斯波高経


って、消えそうwwwwww
まあ、そりゃ "虚無" ですから。


ちなみに、「七條殿」(しちじょうどの)というのは
一時期、高経邸七條東洞院にあった事に由来する別称
「玉堂」(たまのどう、ぎょくどう)というのは
東山清水坂の邸宅にいた時の別称です。

(※この東山の邸宅は、のちに高経の子義将によって
 絶海中津を開山に招き『玉泉寺』という寺院に改められています。
 (今はもう残っていないようですが。)
 この義将も、父に倣って「玉堂」を別号としていました。)



てゆうか、「玉堂」(ぎょくどう)ってもともと
「玉で飾った美しい殿堂」あるいは
「他人の家の尊敬語」って意味なんですがw
東山は洛外なので
通りに由来する邸宅名が付けられなかったからだと思いますが
それにしたって、洛外の山荘的邸宅だろうに
「玉堂」とか呼ばれ出しちゃう高経って一体www

(※『斯波家譜』には
 「東山玉泉寺に住していたから、諸人に玉堂と呼ばれた」
 とありますが、実際は上記のように時系列が逆で
 「高経が住んでたから玉堂と呼ばれた邸宅を、禅院に改めた」
 となります。)



このように「居所に由来する呼称」が色々残っている
というのは
世人から見た斯波家の家格の "特別さ" を表していると言えます。
(朝家や公家以外の)武家でこの傾向が顕著に見られるのは

足利家の「三条殿、三条坊門殿、室町殿、北山殿、東山殿…」
 (直義は三条殿の他に「錦小路殿、高倉殿」)
斯波家の「七条殿、玉堂、勘解由小路殿」


くらいですから。


つまり…
高経のサラブレッド指数って、マジで半端ないんですよ。
重要度最弱とか言ってネタにしてますけど(というか私がw)
実際は、本当に格が違い過ぎる貴公子な訳で
 (つまり、それを上回る尊氏直義って一体…)
家格も相当なもんですが
当然それに見合って、教養もむちゃむちゃ高い!
…という事を示す高経の筆跡
折角なので紹介したいと思います。


足利高経斯波高経法楽和歌

(斯波高経筆法楽和歌 忌宮神社所蔵
 『大日本史料』第六編の28 …の、p.182-183の間より引用)


めっちゃ達筆!!
こういう強弱のある筆遣いすごく好きw
思った通りの洗練された筆跡
私これ見た時、高経愛にターボがかかりました。

ちなみにこれは、ブログ「夢想の結果」で紹介した
尊氏直義自筆法楽和歌と同じものですので
見比べてみて下さい。
(どれもみんな良いですが。もっと大きい画像のがいいかな?)
内容については
詳細な解説が必要な重要史料なので、また後日。



(ついでに言うと、上記の「玉堂」とは
 大陸の「翰林院」(かんりんいん)という
 唐代以来の官庁で、儒学者文学士が集った学士院の
 別称でもあるのですが
 おそらく、それを知っていた禅僧あたりが
 高経の尊貴性博識をかけて
 「玉堂」と呼び始めたんじゃないかな〜 と思う。)





しかし、このような特別な地位にあったにも拘わらず
幕府誕生 〜『観応の擾乱』以前の京都安定期では
高経の存在感は不自然なくらいに薄い…というか
今となっては
高経の事はあまり知られていないが
高経がいるんだかいないんだか分からない事はよく知られている

という注目度最弱キャラで
実際当時も、幕政に直接参加していた兆候がない…
 (他の足利一門はみんな参加してるのにw)

一方で、直義とは親しげなエピソードがいくつかあって
この事と、以下に述べる「鬼切鬼丸」の件から
 高経尊氏から疎外されていた」
みたいに言われていますが
しかし―――
本来、直義の片腕になっていてもおかしくない高経
この時期幕政から距離を置いていたのは
決して高経が一人でつんつんしてたとか、嫌われてたとかではなく
これこそが、尊氏の意向を反映した "策" であり
二人の間には、いわば約束事があった
…という結論に達した時は、流石に私も震えが来ました、はい。

(というか、それ以前に
 あの性格の尊氏が「人を好き嫌いで疎む」とか
 どう考えてもしないと思う。)


つまり…
高経の虚無性先天的なものではなく
 「尊氏に虚無ってるように言われたから」
という、後天的なものだった訳ですよ!!

なにそれ (  Д ) Д ) Д ) ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ゚ ポーーーーン


(すみません、話がすっ飛び過ぎて来ましたが
 とりあえず結論だけ先走って
 (本当の)高経のイメージを最初に確立させておきたいので
 よろしくお願いします。)


実際、高経は『観応の擾乱』以降は存在感上げて来ますし
尊氏亡き後は、幕政の中心に立つ事になりますからね。
あ、あの高経がw 遂に虚無のヴェールを…

そうつまり、『観応の擾乱』以前の高経は
虚無被ってたんだよっっ!!
だから見えなかったんだよ!!!
…という図解↓


斯波高経…というか足利高経の虚無被衣

(※(棒)…棒読み。)

なんか、未来のアイテム的な。
いや、過去だからロストテクノロジーか…



ちなみに「被衣」(かづき、かずき)とは
女性が外出時に、顔を隠す為に被ったです。
中世では主に、(ひとえ)や小袖が用いられました。
女性の他にも
男性がどっかに逃げる時に "女性に見せかける為" とか
高貴な稚児(ちご)なんかも
人目を偲ぶときは被(かず)いたようです。(『芦引絵』)

(※被(かず)く…頭に被ること。)




ところで、上記の有名な「鬼切鬼丸」の話ですが
これは『太平記』の記述で
『観応の擾乱』以降、高経はほぼ
いわゆる反尊氏派として戦っていたのですが…

もともと高経は一族の中でも忠戦比類なく
将軍もそれを特別賞賛して、世間でも重んじられていたのに
なんで将軍に背いてんの?? なんか理由あんの??
マジで意味分からんのだけど???
…と疑問に思った『太平記』の筆者が
その訳を調べたところ
(幕府誕生の翌々年の)建武5年(1338)閏7月2日
高経軍が越前国で、南朝の新田義貞を討ち取った時
高経は、新田義貞が倒幕以来所持していた
「鬼切・鬼丸」(おにきり・おにまる)という
二振(ふたふり)の太刀を入手したのだが
これは「源平累代の重宝」という宝刀であったので
尊氏
「これは末々の源氏が持つ代物じゃない
 嫡流のうちが相伝するから急いで進上するように! OK?」
と催促したところ
それを惜しんだ高経が(ふ…渡してたまるか)と内心企み
太刀を預けておいた時衆の道場が炎上して
 太刀も一緒に焼けちゃいました!」
と言って
予め用意しておいた同じ長さの太刀二振を
わざわざ丸焦げにして尊氏に差し出してまんまとやり過ごし…
…たと思ったら、その嘘は後で見事にばれてしまい
将軍ぶち切れ、しかも高経逆ギレ
以来関係は悪化
『観応の擾乱』で反尊氏派と化す高経であった、マル。

…という話なのですが。



てゆうか!! これはどう考えてもてきとーな作り話です!!

だいたい、斯波家は源氏の末流どころか
当初は"ほぼ足利" だった訳で
本当は高経の家系が足利宗家を継いでいた可能性も
めっちゃ高かった
…という事情をよく知っていただろう尊氏
当時まだ足利を名乗っていた高経
「末々の源氏」なんて言い方するって…
不自然にも程があります!


しかもこの話は
冒頭では
「(これまで)将軍高経の忠功を特別賞賛していたのに…」
と言っているのに
鬼切鬼丸の話の後では
「怒った将軍は、高経に忠功に見合った恩賞を与えず
 建武5年以来そんな事が重なって、それで高経が逆ギレた」
と言ってて、矛盾してんじゃん! ってゆう。


極めつけはあれですよ
その後、「鬼丸」(=鬼丸国綱足利将軍家
「鬼切」(=鬼切安綱
高経の弟家兼の子、兼頼の家系の羽州探題最上家
それぞれ伝来しているんですよ。
それってつまり…

 尊氏高経半分こしたってことじゃん!!
 なにそれ超仲良いじゃん!!!

もし『太平記』の通りなら、二振とも斯波家に伝わっているはず。



という訳で
「鬼切」「鬼丸」の件で
高経がせこい嘘付いて独り占めしたとか


超てきとーな作り話です!!


まあおそらくは、『太平記』の筆者の作り話ではなくて
当時の超てきとーな噂話
そのまま書き留めてしまっただけだと思いますがw


『太平記』は、明らかに事実と異なる話も多いのですが
 悪意のある捏造はない…と思う。
 この「鬼切鬼丸」の話も、噂の出どころがあったとしたら
 それは、足利高経の話ではなく
 新田義貞の話だったんじゃないかな〜と思います。
 鎌倉幕府倒幕後に、鎌倉にあった源平累代のこの太刀を
 新田義貞が自身のものにして所持していた事は
 有名だったようで
 『太平記』にも度々描かれていますが
 倒幕後、すなわち建武政権期
 「尊氏太刀の受け渡しを求めたら
  新田義貞はあれこれ理由をつけて拒否った」

 という可能性は大いにあると思うww
 (この時期には他にも、『太平記』に
  「義家の二つ引両の旗」という似たような話があるし。
  流石に「焼けた太刀を進上…」は嘘だと思うがw)

 当時、足利新田では、社会的に明確な家格差があって
 この倒幕でも、新田義貞はあくまで
 足利軍の指揮下にあったそうなので
 これなら、尊氏の要求も正当なものと言えますし
 実際、二振とも新田義貞が所有し続けていますし。)




つまり、普通に考えて
高経戦果報告と共に太刀も一緒に進上しただろうし
たぶん、尊氏から高経「鬼切」をプレゼントしたのでしょう。
(それを高経が、文和3年(1354)の
 弟家兼奥州下向時に持たせてやったんじゃないかな、と思う。)

そう考えると、この「鬼切鬼丸」の話は
実は、めっちゃ良い話…という事に (´;ω;`)



(※2016.1.4追記―――
 「鬼切」を相伝する事になった羽州探題最上家の祖
 足利兼頼(かねより)

 高経の弟家兼次男で、高経のに当たる訳ですが
 高経の長男家長(※兼頼にとっては年上従兄弟
 関東執事を務めていた頃
 まだ幼少の兼頼(※当時は幼名竹鶴)は
 家臣に支えられて陸奥国の大将として現地に赴き
 家長東国統治の一翼を担っていました。
 (…以上参照は
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
  …の、p.379、p.385注(2) )

 つまり兼頼は、従兄弟家長
 東国での任務で深い関係があったのですが、この事から
 「鬼切」の伝来は
 伯父高経 → 父家兼 → 兼頼 という間接ではなく
 伯父高経 → 兼頼 と直接伝わった可能性のが高い気がします。
 (前者の場合だと、なぜ家兼の長男直持に伝わらなかったのか?
  …という疑問が残ってしまう。)

 高経は、当時家長に従って東国〜奥州にいた甥の兼頼
 17歳にして世を去った長男の面影を見ていたのかも知れない…
 …というのは、妄想し過ぎかも知れませんが
 かなり(というか圧倒的にw)形勢不利だった越前の対新田義貞戦
 奇蹟的な逆転勝利を得られたのは
 前年の12月に亡くなった家長助けがあった為だと
 感じていたのは確かだと思います。)




まあ、傍(はた)から見たら
尊氏高経の間に秘密があったなんて知る由もありませんから
なんか一人で虚無っぽかったり
そうかと思えばいきなり将軍噛み付き出したり…
とか意味不明な行動を繰り返していたら
強引な詮索をしたくもなるだろうし
妙な噂がこじつけられてしまうのも理解出来ます。

これも元はといえば…
二人の関係を隠してすっとぼけていた尊氏に責任がある!!


斯波高経ってゆうか足利高経


(ところで前回
 うっかり自分から「菊綴」の事に言及してしまった手前
 描かない訳には行かなくなって、頑張って描いてます。)



という訳で
初登場で目出度くキャラが固まったところで
今日の与太話はこの辺で。



てゆうか
鎌倉旅行中なのにどこまで高経で引っ張るんだよ!
とか思われるでしょうが
まあでも…
高経も、尊氏直義と同じように
20代後半までを過ごした故郷は鎌倉ですので
「室町的鎌倉旅行」には不可欠の妄想分です。


ちっちゃい頃、みんなで遊んでたのかな〜(夢見)とか
裏山に秘密基地作ってたのかな〜(口半開き)とか



すみません、色々と緩み過ぎました。(脳とか口とか)
でも高経って
調べれば調べるほど、本当に尊氏忠実なのですよw
信じられないかも知れませんが、忠誠度トップレベルですよ。
おそらくこれは
幼馴染として過ごした子供時代があってこその
信頼関係だったんじゃないかなぁ〜と。
尊氏にとっても、理屈抜きに心を許せる相手だったように思います。


将軍に忠実な上に
虚無高貴ロステク高経様マジやんごとない!!
…とかいって人気が出る日を
心待ちにしています。



posted by 本サイト管理人 at 23:54| Comment(2) | ★チラ裏観応日記
この記事へのコメント
お初です。

幕末の鎌倉で、高氏くん高国くん兄弟と従弟の憲顕くん、近所に住んでる親戚の高経くん時家くん兄弟が微笑ましく遊んでいるのを眺める高義お兄ちゃん。そして遠くから妬ましい眼差しを送る義貞くんと義助くんとかを想像しますね(笑)
Posted by 尾張守 at 2015年12月28日 18:10
> 尾張守様
コメントありがとうございます!
さらっと初名を網羅しているとは、妄想が玄人ですね!
しかも、私が今回のブログで保留した "あのネタ" の答えにまで
しれっと妄想が及んでいて、お茶吹きましたww

この話については年明けに予定していますので
来年もどうぞよろしくお願い致します!
Posted by 本サイト管理人 at 2015年12月29日 13:15
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