2016年02月25日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
早速旅の続きを… と思ったのですが
ここでちょっと一休みして、追記のお知らせです。


前回の旅行記「室町的鎌倉旅行記(その2)」
(『杉本寺』と足利家長 & 父足利高経の回)
で話した
源氏累代の宝刀「鬼切」(おにきり)について
気になった事をちょっと書き加えておきました。
(最後の「尊氏&高経の画像」の少し上のカッコ内
 2016.1.4 の追記です。)

高経の手に渡ったであろう「鬼切」
なぜ弟家兼の、しかも長男直持ではなく次男兼頼の系統の
羽州探題最上家に伝来する事になったのか
不思議に思ったので。

(※ちなみに兼頼は、越前での高経vs新田戦当時は
 家臣と共に未だ関東方面にいた模様。
 『大日本史料』第6編の3、p.185-186
 『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


まあ、記録が無い事なので憶測でしかないのですが
建武5年(1338)閏7月2日に
越前国で新田義貞の大軍を相手に勝てたのは
前年の建武4年(1337)12月25日に東国で最期を遂げた
長男家長の助けがあったからだと
そう信じた高経
東国で家長の分身的立場にあった兼頼「鬼切」を捧げる事で
家長へ感謝の気持ちを伝えたかったのかも知れない
…と、妄想してみました。

(※ただし、兼頼「鬼切」を受け取った時期は
 越前の合戦後間もなく、ではなく
 文和2年(1353)くらいの可能性…もあるかも知れない。うーん…
 ―――2016.2.29追記)





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆家長のお話
※以下、舞台は建武2年(1335)8〜12月





ところで、足利家長斯波家長)が
奥州(=陸奥国)で活動を開始するのはわりと早く
尊氏の命で当地に赴任したのは
まだ数え15歳の建武2年(1335)8月
つまり "幕府誕生前" の建武政権期の事です。

『大日本史料』建武2年8月30日
『鎌倉大日記』『奥相秘鑑』などより…

 「尊氏家長奥州の管領として斯波の館に下す」

(※陸奥国斯波郡は、現在の岩手県紫波郡(盛岡のすぐ南)
 鎌倉時代以来、足利家の所領となっていた。)


(※なお、一次史料で家長在奥州が最初に確認出来るのは
 12月になってからで
 上記の記録、及び下向開始が「8月」(一説に8月30日
 …という日付は、後世編纂の史料によるものですが
 相馬家伝来の文書など、確かな記録を基にした記述と見られます。
 また、ここで言う "管領" とは
 制度上の奥州管領ではなく
 「すべ治める」という普通名詞的な意味だとされています。)





この家長の奥州赴任は従来
北畠親房・顕家父子の奥州支配に "対抗" させる為に
(あるいはそれを "奪う" 為に)尊氏がとった策略
…のように捉えられがちだったようですが
(※この辺の概要は例えば…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の、p.378-379 の真ん中へんを)

しかし
それは(幕府再興という)結果から逆算してしまった誤解であって
まだ足利勢が "建武政権の一員" であるこの時期に
尊氏が理由も無し
(あるいは単なる権勢欲対抗意識から)
後醍醐天皇の政策にあからさまに反する独断行為に出るというのは
状況から考えてかなり不自然かと。

(普段の尊氏の欲の無さ
 後醍醐天皇への慕い方から考えても矛盾します。
 …ただし尊氏
 戦で忠功を尽くした武士達への恩賞の為なら
 多少勝手な事もします。
 でもそれは将軍なら当然よね (´・ω・`) )



では、どういう意図から出た行為か?…といえば
これは、当時の現状を考えれば
『中先代の乱』が絡んだものであった事は明らかで
8月19日に鎌倉を奪還した "官軍" 尊氏
奥州に蜂起していた北条時行与党の動きを察知し
足利家長を大将とした一行を
現地調査を兼ねて奥州に差し向けた
つまり…
 「騒乱の鎮圧完了&再燃阻止の為の機転だった」
と見るのが、まずは自然です。

鎌倉奪還だけでは決して気を緩めず
 事後の警戒を怠らない尊氏の感覚は流石です。)

(※『中先代の乱』の時系列は
 本サイト『2-2』「列島を駆ける」の冒頭をどうぞ。)


…というのも
この『中先代の乱』では
奥州勢の多くが北条時行に応じた」と伝える記録があって
実際、"官軍" 北畠顕家方の諸氏が
8月13日と15日に合戦を繰り広げているように
 (『大日本史料』建武2年8月13日)
信濃武蔵鎌倉だけでなく、奥州も臨戦状態だったのです。

(※陸奥国南端白河郡での長倉合戦はもとより
 北端の津軽郡でも戦があったと伝える記録も。
 その他、『大日本史料』建武2年8月9日、9月24日
 北条与同者の所領を没収し同族結城宗広に預ける事
 『大日本史料』同8月28日
 安達郡の北条与同者に対し、翌8月29日奥州勢発向の事
 …なども。)



その後、10月になっても
相模国の北条方残党退治で
足利方の出陣があったりしている訳ですが
 (『大日本史料』建武2年10月3日)
そんな情勢不安の最中(さなか)
安易な拡大志向で一方的に味方(=北畠顕家)をライバル視し
いきなり奥州の支配権争いを始める…
なんて戦況を見誤るようなバ…失礼、視野の狭い愚将がいたら
この時代、開始早々ゲームオーバーしてると思うのですが。


尊氏が、この超絶スーパーハードモード無理ゲー時代
いつもぶっち切りで一人勝ちゴールを決めまくっていたのは
単なる運や棚ボタではなく
他の武将より戦況の分析能力が圧倒的に長けていたからです。
(これは『観応の擾乱』を考察していると
 本当に何度でも驚かされます。)

それから
「無益な欲が無かった」という人徳
予期せぬ所で身を滅ぼさずに済んだ秘訣と言えるでしょう。


(「能力人徳も、通常の人間の域を超えているのに
  通常の人間の枠内で説明しようとしてしまっている」
 …というのが
 尊氏研究の飛躍を今一歩妨げている原因だと
 個人的には思ってます。
 圧倒的な権勢を手中に出来る能力を備えながら
 恩賞宝物もみんなにぽいぽいあげてっちゃう上に
 将軍の地位すら執着なし
 …とかいう意味不明な将軍は
 もっと発想のリミッターを解除して考察する必要があります。)




(=北条時行与党)にまだ動きが見える段階で
(少なくとも建前上は)味方の北畠顕家まで "自ら" 敵に回す
なんて判断がどれだけ愚かな事か
ちょっと冷静に考えれば誰でも分かる単純な話ですが
しかし、こういう "あまりに" 当たり前の事
最も見落とし易かったりするので要注意です。(((゚Д゚;))))


『中先代の乱』ではこれ以外にも
7月下旬に鎌倉を落とされて三河国まで敗走した直義
それまで奉じていた成良親王京都に送り届けた
という事実を以て
 「建武政権との決別」「幕府再興の意思表示」
と捉える誤解がありますが
(※これについては上記リンク「列島を駆ける」の最後の方を)
…というか
もしそうだったとしたら
じゃあこの時の足利勢
東国広範囲の北条軍と京都の建武政権と奥州の北畠勢のすべてを
同時に敵にしたって事??
なにその全方位けんか上等戦略
いくらなんでも脳みそヒャッハーし過ぎだろ
…となってしまう訳で
常識的に考えて有り得ません。

乱鎮圧の勲功賞で
尊氏は後醍醐天皇から従二位を授かっているように
 (『大日本史料』建武2年8月30日)
「この時点での足利勢 "官軍" として行動している」
という点は非常に重要です。

それから
本サイト『2-2』「さよなら、俺らの聖地鎌倉」で解説したように
尊氏はギリギリまで
"自分達から" 朝敵になる事は、極力回避したがっていた」
という事実から考えても
不用意に奥州の北畠父子を敵に回すような下手は打たないでしょう。




まあ、そうは言っても
見方によっては
「(北畠顕家が味方だというなら)奥州北畠勢に任せて
 わざわざ足利勢が出て来る事はないだろう!」
という意見もあるかも知れませんが
ただ、北条時行党の蜂起については
『中先代の乱』の本当の原因… もっと言えば
「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相を探ると
そうも言ってられないのです。


つまり、尊氏足利家長を奥州に向かわせたのは
その "すべての裏" を知っていたからかも知れない―――

尊氏なら、十分に有り得る話です。

(…もちろんこれは
 尊氏が事件に関わっていた…という意味では全然なく
 尊氏が知るはずも無い真相を、すべてお見通しだった
 という意味で。)


そもそも
当時の緊迫した情勢と、下向時期のタイムリーさを考えたら
足利家長の本来の下向目的は
 「奥州の北条方与党牽制&監視
という "戦時" 的ミッションが主眼であっただろうに
記録に残された目的、つまり表向きには
 「斯波の館奥州の管領
という "平時" のほのぼの任務っぽいものだった
というのは、何とも違和感が拭えません。

(なんたって… 史料的には
 家長は、斯波の館でほのぼのしていた気配が無く
 一方で、それよりずっと手前(南)の在地の武士と
 関係を深めているのです。)


つまり… これらのヒントを繋ぎ合わせると
北条方蜂起の背景=「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相
というのは
足利方(というか尊氏)にとって
あまり表沙汰にしたくない事情があったのではないか?
…と思えて仕方ない訳ですが
当時でもそんなんだったなら、後世その真相に気付いた人間は
まだ誰も…  Σ(゚Д゚ )!!!???





―――――「家長奥州紀行の真相」
       ちょっとフライング余談―――――――


足利家氏を祖とする高経の家系「斯波家」
鎌倉〜室町初期までは「足利」を名乗っていて
(あるいは家氏の官途 "尾張守" にちなんで
 「尾張殿」「足利尾張殿」とも)
"家名" として「斯波」が定着するのは室町中期頃から
…という話は何度かしましたが
高経の長男家長については
個別に「斯波殿」と称されている事があります。
(※『相馬文書』などの一次史料から『太平記』まで。)

これは上述の記録が伝えるように
家長尊氏の命を受けて
(先祖の家氏以来相伝した)奥州斯波郡に赴任し
斯波の館に居住していたから

…と考えるのが一見自然のようですが
(※この辺は
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 を)

しかし
家長はこの年の12月には、既に斯波とは別の場所にいて
以降は鎌倉を中心とした関東の統治を任される事になり
結局この斯波では
ほとんど活動らしい活動をしていないのです。




ところで
鎌倉斯波の位置関係はどうなっているかというと…


cm1-shiba.jpg


(※図中の色の濃い部分の右側が奥州(陸奥国)
 左側が羽州(出羽国)(=合わせて奥羽)で
 陸奥国の国府が「多賀」です。
 北畠親房・顕家父子は元弘3年(1333)冬以降
 後醍醐天皇の皇子義良新王を奉じて
 ここ「多賀城」で奥羽の統治に当たっていました。)

(※ちなみに斯波その周辺
 源頼義・義家父子の『前九年の役』の舞台となった場所で
 武家源氏にとっては由緒ある特別な地だったりします。)



…という訳で
鎌倉から斯波郡めっちゃ遠い訳ですが
建武2年(1335)8月末鎌倉を出発したとして
京・鎌倉の関係が急変する11月初めまでの間は
下向の旅程を含めて9、10、閏10月の3か月しかなく
家長斯波に安住する時間は、ほとんど無かったのです。

しかしそうすると…
(結果的にとは言え)長期滞在した訳ではない
それなのに
まだ家督も継いでいない、当時15歳の少年家長
父とは別の家名「斯波殿」と呼ばれているのは
よくよく考えたらなんかちょっと不思議な訳で
これはただ単に「そこに居住していたから」というより
何かしら、別の意味が込められていたのでは無いかと…





尊氏の☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆気配!!?





という訳で、この辺もう少し突っ込んでみますと…
この "事態が急変する11月" というのはつまり
足利vs新田の決戦開始の事ですが
(※これについては上記「さよなら、俺らの聖地鎌倉」を。
 ちなみに、尊氏奏状や対戦勃発までの時系列を解説した
 最初の長いカッコ内の前半を
 またしつこく加筆修正しました)

この後
12月半ばの『竹之下・箱根の合戦』で逆転圧勝した足利軍
京都を目指す事を決心する訳ですが
この足利軍西上を追撃する為
当時、陸奥の国府「多賀」にいた北畠顕家
12月22日に当地を出立します。
そしてこの時
奥州に赴任中の足利家長は…というと
北畠軍の進軍阻止に立ち上がるのです。


ここで普通に考えたら
斯波の方から駆けつけて "北" から「多賀」に攻めかかった
…と思いそうですが
しかしどうやらそうではなく
挙兵した家長の元には
奥州「行方郡」(なめかたぐん)辺り
 (※現在の福島県相馬市・南相馬市辺り、上図参照)
を本拠としていた相馬(そうま)一族の多くが馳せ参じていて
足利家長軍
「多賀」 "南" から
府中(=多賀国府)に御発向している(『相馬文書』)
としか考えられないのです。
(『大日本史料』建武2年12月22日
 相馬行胤・朝胤父子が12月20日に一番に馳せ参じ
 相馬重胤「亘理郡」に発向している。)


(※ちなみに、相馬一族はもともと下総国相馬郡出身で
 この頃(鎌倉時代最末頃)から
 相馬重胤(しげたね)の一流を中心とする一族の一部
 奥州の所領に移り住んでいました。
 つまり、ここで下総相馬奥州相馬に分かれる訳です。)




…てゆうか
いつの間に「多賀」を超えてにスタンバってたんだよ!!!
と突っ込まずにはいられない展開ですが
この約1か月前
相馬重胤相馬胤治(たねはる)が11月20日付けで
子に所領の「譲状」(ゆずりじょう)を認(したた)めているのは
この時既に、出陣の決心を固めた証拠と見られ
 (『大日本史料』建武2年11月20日
  こういうのすごく泣ける… (´;ω;`) )

家長は遅くとも11月半ば頃までには
彼らと連絡を取り合い、糾合していたと思われます。


(※奥州の相馬一族
 これまでは足利勢と同様、建武政権に属していて
 これ以降、そのまま北畠顕家に属し続けた者もいますが
 多くは足利方となり、家長と共に戦いに身を投じて行きます。
 この建武2年11月
 足利勢だけでなく、相馬一族にとっても
 時代の激動に飛び込む決意をした一世一代の瞬間だったのです。)



さらに
『奥相秘鑑』(『大日本史料』建武2年8月30日)によると…

「建武二年八月
 尊氏卿、陸奥守家長奥州の管領として斯波の館に下し玉ふ
 (相馬)重胤始て会面、尊氏卿の御方と成て
 同年、嫡子孫次郎親胤と鎌倉に参陣… 」

…とあって
相馬重胤が初めて家長に面会したのは
12月の挙兵で参陣した時…という慌しいものではなく
家長が奥州へ下向する "行き" の道中でのんびり
…とも読める事からすると
やはり事前に関係を深めていたのではないかと。
つまり―――
家長は、鎌倉から真っ直ぐに斯波の館に向かったのではなく
途中、在地の武士に誼(よしみ)を通じながら
わりとだらだら下向してたっぽい予感…
…と考えられる余地があります。





ところで
もしこの頃まで家長斯波の館に滞在していたとしたら
「多賀」の南まで戻って来る切っ掛けは
建武2年(1335)11月2日に
直義「打倒!新田義貞」の軍勢催促を
諸国の武士に向けて一斉に発した時点
…と考えるのが妥当に思えますが
(↑これは、直義いきなり先制攻撃…という訳ではなく
 兄尊氏亡き者にしようと
 讒言&討伐計画を推進していた新田にぶち切れた "結果" です
 この京都の陰謀については『梅松論』『太平記』の他
 『大日本史料』建武2年10月15日『保暦間記』を参照)

しかしそうすると
11月2日鎌倉から発せられた情報が斯波に届き
それから準備を開始した家長一行
急速に緊張感が高まるこの情勢下
何食わぬ顔で「多賀」を通過出来たのか??
…という点は、なんかちょっとだいぶ引っかかる訳でw

しかも
相馬重胤たちが11月20日には早々に覚悟を決めていて
僅かも迷いが無い様子からすると
(普通は情勢を見極めかねて、しばらく静観しそうなのに…)
おそらく家長との関係は
"行き" に一回擦れ違っただけ…どころか
かなり密な関係を築いていた、という気がしてならないのですが
そうすると可能性としては
家長はそもそも
ずっと「行方郡」辺りでぐずぐずしてて

 「多賀」を超えて斯波まで行ってすらいないのでは?

という疑惑さえむくむく湧いて来る…

みなさんはどう思いますか?





どう?…って:.*:.。.:*・゚ (´・ω・`)゚・*:.。.:*☆知らんがな





さて、謎が謎を呼んで来てしまったので
私の見通しを述べておきますと…

家長は終始 "尊氏の指示" で動いていたのだと思います。
直球な事しか出来ない直義(ごめんw)の召集だとしたら
この時、鎌倉まで戻っていたのではないかと。

 「多賀」の南に待機して情勢に応じて動く

なんて先の先を読んだ周到な戦略
どう見ても尊氏の仕業
11月初めの時点で北畠顕家の動きに気を配れるのは
やつしかいないと思われます。
直義新田にぶち切れて、もう新田しか見えてないw)

(『大日本史料』建武2年11月2日の
 直義による "全方位軍勢催促状弾幕"
 (↑これでもかというほどに全部 "対新田" )は
 様式美の域に達していて必見です。
 直義は、兄貴の敵に対する噛み付き方が常軌を逸しているのが
 玉にキズ(いやむしろネタ的なおいしさで言えば玉に玉…)です。)


この時期(建武2年11〜12月)の家長の動きは
12月下旬の北畠顕家への追撃の件については
『大日本史料』建武2年12月22日条によって
既によく知られている事実ですが
ただ、その "不思議さ" はあまり気にされていないようです。

…というのも
これまでは「当時たまたま奥州斯波郡に居た家長
(多賀の北から)北畠顕家の追撃に向かった」

と思われていたようなので(たぶん)
それ故、何ら不思議の無い当然の事とされていたのだと思いますが
しかしここには
「つい結果から考えてしまう」という後世の私たちの盲点があって
未来を知らない)彼らの立場で
時系列に細心の注意を払って考えてみると
実に不思議なのです。
家長 "多賀の南" を標的にアクションを起こし始めたのは
1か月以上も前の11月上旬の事
しかも、その最初の一歩はさらに遡る事8〜9月
その時点で、一体何が分かっていたと言うのか?




11月19日には
京都の新田義貞軍が、尊氏討伐の勅命を受けて東下を開始するので
これ以降、奥州の北畠勢にも警戒するのは当然でしょうが
(『太平記』『保暦間記』によると
 この新田軍の東下に合わせて奥州からも攻め入るよう
 後醍醐天皇の綸旨が下された、とあります)

ただしこの時は
大軍を起こす事は容易ではなく延引となった」(『太平記』)
とあって
おそらく、京都にとっても北畠顕家にとっても
かなり唐突な出陣命令だったのだと思われます。
…とすると
周囲が11月下旬時点でこのような状態の中
家長たちの行動の早さだけが、異様に浮いて見える…



本来、尊氏が鎌倉に留まったのも
京都の陰謀が急激に推し進められて一触即発となったのも
尊氏討伐の決定もすべて
(どちらの陣営にとっても)予想外の事態だったはず。
つまり、北畠顕家の出足の遅さの方が "普通" なのです。



一方、その後の鎌倉勢の戦況に目を移せば…

11月末の足利軍第一陣敗退(at 三河国)の後(←たぶん予想外
12月2日に直義率いる主力軍が出陣のち敗退(←輪をかけて予想外
その結果、遂に尊氏
12月8日に鎌倉を出て箱根に向かい(←まさかの出家撤回)
形勢逆転して余りある大勝利を収めます。(←つまり有り得ない
この頃、北関東勢(=尊氏方)による
北畠勢の出陣を見越した要撃計画も持ち上がっていたようですが
 (『大日本史料』建武2年12月24日)
しかし、北畠顕家軍がようやく出陣の運びとなったのは
伊豆で尊氏直義が合流し
鎌倉に戻らず上洛の決意をして旅立った(←これまた思いつき
12月15日より後の事であり
結局北畠顕家は
箱根の合戦には間に合わなかった」訳ですが(by『太平記』)
でも、それが普通だと思います。
この予測不能成り行き展開の中で
後手に回った北畠軍の動きに合わせるように挙兵した家長軍
遥か以前から待機を続けていた
…という方が意味不明なのであって。

(このように
 家長の方から攻撃を仕掛ける意図があった訳では無い
 …のはもちろん
 北畠顕家の警戒感の希薄さや備えの皆無さから
 奥州での家長は、目立った行動すら取っていなかった
 (ましてや、挑発するような事などしていなかった)
 …という事が分かります。)



それにしても
この時期の、極めて不確定要素が強い未来に備えて
超要所ポジションに手駒を配備しておけるとか一体…


だいたい、鎌倉から立て続けに
三連弾のジェットストリーム出陣を余儀なくされ
全東国武士界がてんやわんやで収拾つかねーよこれ状態の時に
奥州の家長軍だけは
闇夜の猛禽類の如く息を潜めてが来るのを待ち続けていた
…というのは、実に対照的で面白い訳ですが
その深謀遠慮な冴え渡る指示を出していたのが
出陣直前まで出家希望ひきこもり一束切り将軍だった、とか
なんなのそれ!!
マンガだよマンガ!!


箱根峠ではなく足柄峠に向かったセンスといい
どう見てもこの将軍ニュータイプ
  ※ただし半端に出家コスプレ中ダサめ

とかもう
わたし的にどストライクなんですが
みなさんはどう思いま… どうでもいいですね。





ダサいシャアなど☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆いない!!





さて、まとめに入ります。

私の予想では
家長を奥州へ下向させた尊氏の目的は、おそらく初めから
斯波で腰を据えて "在国統治" させる事…ではなく
"下向の道中" に重点を置いていたのだと思います。
斯波までの道のりを出来るだけぐずぐず北上して
『中先代の乱』の余波を密かに現地調査しつつ
奥州の在地武士と面会して仲良くなる為に。

…というか、もっと大胆な事を言えば
もともと「多賀」を越えさせる予定は無く
斯波に行くふりをしつつ時間稼ぎをして
その手前(南)で留まっているよう
言い付けていたのではないかと。


流石にそれは極論だろ!…と思われそうですが
ただ、「多賀」を往復する(政治的)デメリット
家長斯波での活動を伝える記録が無い事
活動期間の短さや、残存史料の制約の問題もあるけど)
それからやっぱり
8月時点の状況では、遙々斯波まで行く必要性があったとは
どうしても思えないので。

(もし、斯波で落ち着いて奥州を管領させる予定だったのなら
 下向時期として相応しいのは
 元弘3年(1333)12月の、直義の鎌倉赴任と同時期か
 あるいは、『中先代の乱』の後なら
 尊氏の鎌倉残留が確定し(※新邸引越しが10月15日)
 一時的にしろ、ちょっと小春日和だった頃
 …だったらまだ分かるのですが。)



というか、11月初めの事態急変は
鎌倉でだって誰しも予想外だったろうに
地理的に離れた奥州で、11月半ばには覚悟を決めてるって…
 (しかも鎌倉とは別の特殊任務で、って…)
時間的にも伝達情報の絶妙さ的にも、色々と有り得ないよね?
どっかに時空無視してるニュータイプがいるよね??

という訳で、さらに踏み込んでエスパー妄想しますと…
尊氏は当初(8月)から
「多賀」の南を拠点とする奥州相馬一族をターゲットにしていて
陸奥国司北畠顕家の傘下からヘッドハンティングする為に
家長に尊氏のサイン入り紹介文でも持たせてたんじゃないか?
…とか、わりとマジで思う。
相馬重胤たちの迷いの無さ忠誠ぶりからすると。

(仮に、家長はそれまで普通に斯波で統治に当たっていて
 11月上旬から慌てて、不慣れな「多賀」周辺で
 独自に味方を募り始めた…とすると
 ある程度寄せ集めの俄か集団になってしまいそうですが
 しかし、軍忠状等の一次史料が示すその後の相馬一族
 家長のもとでの徹底した活躍ぶりは
 まるで年来の重臣…としか思えないのです。)


ではなぜ(未来予測でもしていたかのように)
"多賀の南" を重要視していたのかと言うと
尊氏は『中先代の乱』以来ずっと…
"ある嫌な予感" がしていたのですよ、たぶん。




それでは
斯波まで行っていない or 行ってたとしても
 滞在期間はごく短期、なのに)
まだ数え15歳の少年家長だけがなぜか
父をはじめとする一族と別の家名「斯波殿」と呼ばれている
…という謎についてですが
これはつまり―――
今回の奥州赴任の目的について
鎌倉出発時から大々的に
 「奥州を管領しに斯波郡に行ってきまーす!」
"公言" していて
自分から「斯波」を名乗っていたからに他ならない訳ですが
なぜそんなに建前をわざとらしく主張させたかと言うと
これは一つには
"本当の目的" を隠す為… なのは想像に難くありませんが
もう一つには
「斯波殿」という名称に
ある種の "社会的地位" を持たせていたのだと思われます。


奥州というのはそもそも
『前九年の役』源頼義・義家父子が名を馳せ
『後三年の役』源義家東国武士達との絆をさらに深めて
"武家の棟梁" としての地位を築き上げた土地であり
特に、奥州斯波郡の「陣ヶ岡」
『前九年の役』で多くの伝承を刻んだ
武家源氏の "伝説の地" みたいな所がある場所です。
 (※源頼朝も『前九年の役』の佳例に倣っている。
  『大日本史料』文治5年9月2日、同3日『吾妻鏡』)


つまり「斯波殿」という名は
奥州『前九年の役』源頼義・義家 という記憶を想起させ
"奥州の大将" 的なイメージが自然と付いて来る訳で
単なる「居所由来の家名」という結果論的なものではなく
初めから役職的なものを意識した名称であったのだと。
家長の時点で
 一族の "家名" として「斯波」が定着しなかったのも
 この特殊な事情の存在を裏付けていると言えるでしょう。)


しかも、その名乗りを保証するのが
尊氏による Go to 斯波の任命である」という事はつまり
「斯波殿」という役職的・象徴的称号はそれだけで
家長が、将軍尊氏 "名代的立場" である事を表しているのであり
奥州の在地武士の気を引くには最適!!
…だったに違いない。


将軍のお使いで奥州を管領しに斯波に行く斯波でーす!!」
なんて言えば
現代でも尊氏ファンは入れ食いですよ、たぶん。
少なくとも、私は食い付きます。 


(※ただの呼び名にそこまで意味を見出すのは穿ち過ぎ…
 と思われるかも知れませんが、そうでもありません。
 その称号が単なる名前以上の社会的地位を象徴している
 という考察についての参考として…
 【桃崎有一朗
 『初期室町幕府の執政と「武家探題」鎌倉殿の成立
  ―「将軍」尊氏・「執権」直義・「武家探題」義詮 ―』
 (『古文書研究』第68号 2010年1月)】
 …をどうぞ。)




という訳で
「斯波殿」という謎めいた称号から
家長の奥州下向は、やはり尊氏の構想であったと言え
上記の『奥相秘鑑』の記述を補強するものとなりましたが
絶妙に "策めいた" 称号でもある事から
何かしら "微妙な任務" を含んでいたらしい… という事
そしておそらく、本当の理由を隠す意図も含まれていた事から
 (斯波まで行ってないっぽいのに「斯波殿」とはこれ如何に…)
やはり
『中先代の乱』を起こした北条時行の動向、つまりは
「西園寺公宗クーデター未遂事件」の真相というのは
わりと厄介な極秘情報だったのだと考えられます。
どんな風に厄介かと言うと…
 「尊氏がそれに気付いている事に "気付かれてはいけない"
という感じ。


北条時行方の動向監視という目的を隠し
奥州に赴任した家長
斯波の館に向かう道中でーす!」と言いつつ
「多賀」の手前でぐずぐずして相馬一族と仲良くなっていた

一体、尊氏は何を予期して… Σ(゚Д゚ ) ハッ!!!???




という訳で
「家長奥州紀行の真相」フライング余談でした。
この「西園寺公宗のクーデター未遂事件」については
近いうち解説したいと思っています。





(なんか不親切なのでもう一言 (´・ω・`)
 尊氏が動向を注視していたのは
 実は奥州の北条時行与党だけではなく
 北畠顕家自身にも、相当な警戒をしていたと思われます。
 あくまで密かに探っていたのは
 情報分析からの先読みによる "嫌な予感" だったので
 不用意に相手を刺激して対立を表面化しない為の
 気遣いだったのでしょう。
 誰よりも天下泰平を愛する将軍ですので。
 尊氏は基本的にいつも
 「争いを "未然" に防ぐ事を第一の目標として行動している」
 という事に気付くと
 あの奇想天外・不可解千万な言動の数々が
 ほぼ矛盾無く面白いように上手く説明出来るので
 頭の片隅に置いておいて下さい。)




最後にもう一つ
足利家長奥州に赴任したのは「建武2年 "6月"
と伝える記録もありますが
 (『大日本史料』建武2年8月30日『奥相秘鑑』)
これは "六" と "八" の誤記であって、やはり8月が正しいと思います。
もし、6月時点で奥州にいたなら
7月の『中先代の乱』
武蔵国から北条時行軍鎌倉に迫り
鎌倉から渋川義季軍が迎撃に向かった際
北の奥州から足利家長軍も駆けつけて挟み撃ちにしているはずですが
(少なくとも、尊氏到着前には間に合っているはず)
でもそういう記録は無いので。



――――――(余談おわり)―――――――





さて、余談のつもりが本談になってしまいました。
というか今日は
最初の追記のお知らせだけで
後は旅行記の続きに入る予定だったのですが
家長(「鬼切」を相伝した)兼頼の関係をもう少し知りたくて
家長の奥州赴任の事を調べ始めたら
『中先代の乱』との関係から尊氏の影が見え隠れし出して
すっかり話が別の方向にすっ飛んでしまいました。


つまり、実は私も
この辺の事今まであまり分かっていなくて
今回初めて気付いた事がほとんどです。

(だから理論構築するのにめっちゃ時間かかった…
 もしまだ穴があったらごめん (´・ω・`)
 ちなみに
 「西園寺公宗のクーデター未遂事件」の真相だけは
 だいぶ前に気付いてて
 今回知った家長の行動が
 それを裏付けるものだったから、びびってしもた。)

こんな歴史の片隅に飛び込む事が出来たのも
先日、鎌倉の『杉本寺』
家長になむなむして来たお蔭に違いない!!
家長の事はもちろん
予想外に尊氏の理解が深まって大満足です。



それにしても
言いたい事言いたいだけ言ってしまったので
 「んなマニアックな事知るかよ… (´・ω・`) 」
みたいな内容になってしまって
本当にすみません。
で、でも、尊氏という迷宮の攻略は
全宇宙の悲願だと思うんだ、うん。

ちなみに、長くなり過ぎたので一旦切りますが
実は言いたい事まだまだ終わってないので次回に続きます。
…って、まだ続くのかよ!!
いやむしろこっからが本気
今日は余談



posted by 本サイト管理人 at 23:50| Comment(0) | ★チラ裏観応日記
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