2016年03月09日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の続きです。



☆☆☆ はじめに… 今日の注意事項 ☆☆☆

本文中の建武3年(1366)の元号については
便宜上「建武」で統一してありますが
『大日本史料』では、建武3年正月〜10月までは
「延元」表記になっているので(※建武3年=延元元年)
この期間の "引用元" を示すに当たっては
 「『大日本史料』延元元年○月○日
と表記してあります。
御注意下さい。
(ちなみに同史料の10月以降は
 11月2日〜12月20日「建武」表記
 12月21日以降は、南北朝分裂の為「延元・建武」併記
 となっています。)

これはどういう事かというと…
歴史的には
建武3年2月29日、改元で「延元元年」に(at 新政権)
(↑同史料では、改元があった年は
 遡って年始から新元号表記となります)

しかしその後11月2日、和睦により光明天皇の御代となり
「建武3年」に戻るため
形式上、このように変則的な事になっている訳ですが
実態としては…
つまり武家方の認識では
8月15日の豊仁親王(つまり光明天皇)践祚の時点で
既に「建武」継続の方針は固まっていた… というか
2月半ばには光厳院の「院宣」を拝受していたので
3月以降も武家側はそのままふつーに
「建武」で通していたってゆう。
だから実際の史料では「建武3年」表記のものが非常に多く
この期間(3〜10月)における「建武」元号は
実質上は無視出来ない存在になっています。

…うん、気にしない、細かい事気にしない。
この時代は頭固いと付いて行けない。生きてけない。 
ま、『大日本史料』データベースでは
どちらでも検索可能なので大丈夫です。

☆☆☆ おわり ☆☆☆





という訳で:.*:.。.:*・゚(・∀・)゚・*:.。.:*☆今日の舞台は
建武3年(1336)〜建武4年(1337)






さて、建武2年(1335)8月当初は
『中先代の乱』の余波の偵察という
尊氏マル秘ミッション
奥州に赴任したであろう足利家長ですが
11月になって天下の情勢は一変
11月2日、直義による「打倒!新田義貞」の一斉軍勢催促
11月19日、尊氏討伐を掲げた新田義貞軍が京都より東下
そして12月半ば
『竹之下・箱根の合戦』で勝利した足利軍
遂に京都を目指す事を決める訳ですが
その足利軍の西上を追撃するべく
12月22日に北畠顕家軍が奥州「多賀」を出立
この時、同国にいた足利家長斯波家長
現地の相馬一族らと共に、その進軍阻止に立ち上がります。
 (『大日本史料』建武2年12月22日)

ただしこの時は
北畠軍を食い止める事が第一目標…というより
北畠軍が去った後の奥州〜関東
守備を固める事が主眼だったようで
各々が所々の城郭で北畠方勢力と交戦する一方
家長相馬重胤らはそのまま南下して鎌倉に入り
今後の戦略を立てていたようです。

(※相馬重胤の次男相馬光胤を奥州に下国させて城郭を構え
 現地の戦に備えています。(行方郡「小高城」
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

(※ちなみに北畠顕家
 建武3年正月13日には近江国に入っています。)




ところで、この頃の関東
尊氏たちが大軍を引き連れて西上した後ですから
かなりすっからかんだったと思われます。
そんな鎌倉の留守を預かる、という
重大任務を託された数え16歳の少年大将家長… (´;ω;`)
とかもう、最初の設定だけで泣ける話ですが
建武3年(1336)2〜3月には
再び北条時行党の蜂起があったり
 (『大日本史料』延元元年3月25日)
奥州に帰った相馬光胤たちも
それから2か月以上続く激しい戦いが始まっていて
 (『大日本史料』延元元年3月22日)
その上京都では
建武3年(1336)正月、一旦入京に成功した尊氏たちが
まさかのカウンター&ダメ押しパンチ(at 兵庫)で
九州までサプライズ船旅…
なんつー聞いてない話になっていましたから
この頃鎌倉を守っていた家長たちは
それこそ毎分毎秒を決死の覚悟で生きていたと思います。

(※この頃の尊氏たちの足跡については
 本サイト『2-2』「西へ」をどうぞ。)



しかし、何といっても
この年の最大の危機は…
建武3年(1336)正月の一連の洛中合戦の後
3月まで京都に滞在していた北畠顕家
義良親王と共に、再び奥州へと戻るのですが
 (↑この時は父北畠親房は同行せず)
その帰国の途次、鎌倉周辺を通過する際に起こった
4月16日の相模国片瀬川での戦いです。

この戦で家長は―――
昨年の奥州以来忠節比類なく戦い続けた
相馬重胤(しげたね)相馬胤康(たねやす)を失う事に!!
(´;ω;`)そ、そんな…

相馬胤康は最前に馳せ向かって4月16日に討死
 相馬重胤「法華堂」(※鎌倉の源頼朝の廟所)にて自害。
 (明確な日付は不明ですが、おそらく胤康と同日かと。)
 …『大日本史料』延元元年4月16日)

(※ちなみに相馬胤康
 昨年末、奥州での家長の挙兵を受けて参陣する際
 建武2年(1335)12月20日付けで
 子に「譲状」を託しています  (´;ω;`)ウッ…
 …『大日本史料』建武2年12月22日)




な、なんという大打撃…
建武3年(1336)2〜3月といえば
京都では、新政権軍が尊氏たちを追いやり
すっかり勝利の甘美なムードに包まれていた頃な訳で。
(↑この頃の慢心した新政権内
 時代が尊氏に流れつつあるのを看破していたのは
 ただ一人楠木正成のみ… )

一方、4月半ばの鎌倉には
九州での尊氏たちの勝利(3月2日)は伝わっていたようですが
(『大日本史料』延元元年4月11日
 建武3年4月11日付けの斯波家長の奉書を見るに
 情報の行き来はしていたようです。 なおこの奉書は
 「尊氏の計らいで、相馬重胤に奥州の闕所地を預け置く」
 という内容のもの。
 重胤が今日まで重ねた戦功は、ちゃんと尊氏に伝わっていて
 生きている内にその恩を受け取る事が出来たんだ… (´;ω;`) )

しかし4月16日時点では
九州からの尊氏たちの東上開始(4月3日)の報が
届いていたかどうか… くらいの状態ですから
明日の行方を知らぬ家長たちの窮地たるや
まるで…
取り残された少年兵ホワイトベース状態!! Σ(゚Д゚ )なぬ!!???


しかも、ホワイトベースの艦長ブライト19歳ですけど
家長は数え16歳(満14〜15歳)だから
アムロ(15歳)が艦長やってるようなもんですよ!!
なにそのハードモード!!



…ってまあ、そんなガンダムの話はどうでもいいのですが
こんな、設定からしてギリギリの鎌倉にあって
その上次々に襲い来る試練にもめげず
少年大将家長は―――
実に甲斐甲斐しく
尊氏から託された任務を全うして行くのです。


この頃(※幕府再興前〜開始初期)の家長の活動に関しては
様々な発給文書が残されていて
軍勢催促、(戦功をあげた部下への)感状
本領安堵所領預置
寺社領への違乱停止、(将軍の祈祷料として)寺領の寄進

それから
部下への恩賞下賜の為の(京都の幕府への)軍忠の披露
(これこれこんだけ頑張ったので
 (部下への)恩賞よろしくお願いします!…というもの)

…などなど
本当に立派に働いて泣かせます。


(※この辺の事は…『大日本史料』のデータベース
 キーワード「斯波家長」で検索か、数行の要約なら
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.379 後半を)


しかも、京都からの(恩賞の)返事が遅れれば
軍忠についての「誓文」を添えて、重ねて注進したりして
(※誓文…絶対絶対嘘ではありません!という神仏への誓い)
部下の恩賞獲得の為に、必死に頑張る家長

(『大日本史料』延元元年4月16日
 …『相馬岡田文書』建武4年4月17日、同8月18日
 『大日本史料』建武4年4月1日
 …『相馬岡田文書』
 しかもこれは、前年に片瀬川で討死した相馬胤康
 これまでの数々の軍忠に基づき
 残されたその子息相馬胤家(乙鶴丸)への本領安堵
 京都の幕府に重ねて求めたもの。
 (↑恩賞関連は、尊氏と執事高師直の管轄)
 「前回誓文が無かったから、疑われちゃったのかな…」
 と心配したらしい。
 亡き部下の忠節に何としても報いようとするこの純真さ… )



やばい、今日はもう涙腺がやばい (´;ω;`)





さて一方、その後の建武3年(1336)の京都では
九州から奇蹟の大復活を果たした尊氏たちの
5月の『湊川の戦い』
5月晦日〜6月の入京
(この頃、比叡山に立て篭もる新政権軍との合戦が続く)
8月の豊仁親王(=光明天皇)践祚
11月の後醍醐天皇との和睦
そして『建武式目』を掲げて、武家政権の本格再開―――

…と
を味方に付けた尊氏の止まらぬ快進撃で
時代は一気に塗り替えられ
手探りで戦い続けた鎌倉の家長たちにも
心安らげるひと時が訪れます。

(この辺りの展開って… 結果を知っていると
 「ふーん、すごいね!」くらいの感覚ですが
 改めて常識の範囲で考え直してみると
 超常現象以外の何ものでも無いような気がするのですが
 …まあいいか。)


ただ…
南朝方に依然として
北畠顕家新田義貞という勇将が健在である間は
やはりまだ、それは "仮の安息" でしかなかった訳で。





北畠顕家
建武3年(1336)のおそらく5月末〜6月初め頃までには
奥州「多賀」に帰国したと思われますが
下向の途次でこそ、次々と足利方を制圧していったものの
 (上述の4月16日の片瀬川の戦いの他
  奥州での相馬光胤たちの決死の奮闘がまた… (´;ω;`) )

しかしその後…
まず常陸国では、これより先建武3年(1335)2月
一旦優勢を獲得した瓜連城周辺〜同国南部新政権方勢力は
 (『大日本史料』延元元年2月6日)
建武3年(1336)7、8、12月
および翌建武4年(1337)2、3月にかけて
常陸国北部からの足利方の反撃により南に追いやられ
以後、劣勢確定となってしまいます。



―――※以下、常陸国での合戦次第―――

『大日本史料』建武3年12月11日、瓜連城陥落の事。
…『茂木文書』建武3年7月12日の、家長軍勢催促状
常陸国の敵方蜂起により(大将として)
 足利少輔三郎(←誰かは謎、たぶん石橋辺りの誰か?)
 を差し下す」とあり
7、8、12月の合戦を経て、12月11日に遂に落城。

『大日本史料』建武4年正月10日
常陸国の合戦での伊賀盛光の戦功を賞する、直義感状

『大日本史料』建武4年2月21日
足利方大将石塔蔵人(頼房?)、相馬親胤など
常陸国関城(南朝方)を攻める事。

『大日本史料』建武4年2月24日
常陸国小田城(南朝方)で24日、26日、29日合戦の事。
3月10日、小田城主小田治久(南朝方)国府原に出向
伊賀盛光(北朝方)「多勢の中に懸け入って散々に合戦


…などなど。
当時の(北朝幕府方の)常陸国守護佐竹貞義
佐竹一族の指揮のもと
陸奥国南部に拠点を置く陸奥国御家人
伊賀盛光の活躍を伝える文書が多く残っています。



※その他、この頃の北関東での両者の攻防戦は…

『大日本史料』建武4年3月5日、下野国小山城(北朝方)周辺
『大日本史料』同4月11日、下野国宇都宮
『大日本史料』同7月4日
7月4日下野国小山城(北朝方)が攻められ
7月8日常陸国関城(南朝方)に反撃
(↑両城、20km位しか離れてない)…まさに攻防戦
(…この辺、足利方大将桃井貞直

『大日本史料』同7月是月
佐竹義春たち、常陸国東条城笠間城(共に南朝方)を攻める

…などなど。

―――――――――――おわり――――





北畠顕家の奥州帰国後の京都では
九州からの足利軍の復活、入京、和睦、幕府再興
…と、楠木正成の先見通りの未来が訪れる事になったのは
上述した通りですが
この1か月半後の建武3年(1336)12月21日
突然和睦破棄して吉野へ逃れた後醍醐天皇
各地の南朝方(=これまでの新政権方)へ挙兵を促して
全国的戦闘の再開を指示し
奥州の北畠顕家にも
東国の武士を従えて即刻上洛すべしとの勅書が下されます。
(『大日本史料』建武3年12月25日
 この勅書は延元元年12月25日付けの宸筆(直筆)
 つまり単独和睦破棄4日後という早さ。)



しかし、この頃の北畠顕家周辺では
上述の北関東だけでなく
奥州でも南朝方の劣勢が進行していて
遂に翌建武4年(1337)正月8日
北朝幕府方の攻勢の前に
陸奥国国府「多賀」を保ち切れなくなった北畠顕家
それよりずっと南の陸奥国伊達郡「霊山(りょうぜん)城」
義良親王と共に退却を余儀なくされてしまいます。
(『大日本史料』建武4年正月8日)

(※霊山城は、福島県の霊山の山頂辺りにあった城。
 場所は、現在の福島市と当時の行方郡の間くらい。)



そしてこの移動を境に
両者の攻防戦はさらに激しさを増していき
上述の勅書への、正月25日付けの北畠顕家の奉答には…
当国(=奥州)擾乱」のため
不本意ながら上洛延引してしまっている申し開きと
霊山も敵に囲まれ、近日合戦に出る事
下国の後は日夜籌策(ちゅうさく)を廻らす」ばかりの日々に
心労」を重ねる切実な現状が綴られている…
という。
(しかし勅書を拝見して
 そんなつらさも吹き飛びました!…と続く。)
 (『大日本史料』建武4年正月25日)

敵ながら、うーん… (過酷…)




―――※以下、北畠顕家霊山退却後の合戦次第―――

『大日本史料』建武4年正月26日
相馬胤頼(松鶴丸)ほか相馬一族、奥州宇多荘熊野堂を奪還。
(↑これは相馬光胤たちへの仇討ちといえる執念の奪還。
 涙腺崩壊な詳細は後日 (´;ω;`) )

『大日本史料』同3月10日、奥州行方郡周辺で6月まで合戦続く。
行方郡「小高城」4月9日より
足利方大将中賀野義長相馬胤時など昼夜9日間の防戦。

『大日本史料』同3月17日、足利方伊賀盛光奥州退治の軍に合流。
常陸でも奥州でもすっ飛んでって働きまくる伊賀盛光…w )

『大日本史料』同4月1日、奥州楢葉郡ほかで合戦。
足利方大将石塔蔵人(頼房?)

『大日本史料』同5月18日
足利方大将中賀野義長伊賀盛光など、「霊山城」を攻める。
反撃に出た南朝方と、奥州椎葉郡・行方郡で合戦。
…『岩城飯野八幡文書』建武4年9月1日の家長の奉書は
伊賀盛光の戦功を賞し、急いで(京都に)恩賞のお願いするね!
というもの。


(※実は、前年の建武3年(1336)5月
 北朝幕府方は、相馬一族の主要拠点行方郡「小高城」
 南朝方に落とされていて
 建武4年(1337)初頭に始まった霊山〜行方郡周辺での
 この一連の攻防戦は
 まさにプライドを懸けた、弔いの反撃でもあったのだ!)

――――――――――――おわり――――






このような情勢の中
北畠顕家が再び京都を目指して「霊山城」を後にしたのは
勅命が下ってから半年以上が過ぎた翌年の秋
前回の、足利軍の西上を追った建武2年(1335)12月の上洛から
2年も経たない建武4年(1337)8月11日事でした。
(『大日本史料』建武4年8月11日)

(※以上、この辺の概要については…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の、p.184-186 を。)



(というか、この南朝方の兵の酷使を見ていると…
 北畠顕家が、あの激し過ぎる内容の奏状を書いた覚悟が
 なんかすごい分かる… とか思ってしまう。
  (↑新政権の過ちを訴えた諫書のこと)
 京都で戦、奥州で戦、撫民や和平より大義の戦
 在地の窮状
 京都奥州の間の気の遠くなるような移動距離
 大義の前では、わずかも思い遣られる事はなく
 精神論でワープでも出来ればいいんでしょうが
 彼らだって人間なんだから、食いもんがなきゃ動けない訳で
 (そしてそのしわ寄せは全て道中の民衆達の不幸となる訳で…)
 しかし、そんな過酷な京・奥州間の行程も
 建武4年(1337)8月11日の出発を最後として
 翌建武5年(1338)5月22日北畠顕家の切実な叫びは
 7日後に遺言となってしまうのです。
 敵ながら… (´;ω;`) )






この後の事は
先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」で解説した通りです。

ただ、8月11日「霊山城」を出立した北畠軍ですが
途中、下野国小山城での足利方の抵抗もあり
上野国と武蔵国の境、利根川に達したのは実に4か月後
12月に入ってからでした。
(『大日本史料』建武4年8月11日
 『上杉家文書』建武4年9月3日付けの直義御教書
 上野国から駆けつけた上杉憲顕
 小山城で敵を退治した事を賞したものですが
 一方、『結城古文書写』(※南朝方の文書)では
 来る12月8日に、小山城足利方への攻撃を予定している
 とあるので、かなりの時間が経過していますが
 その後の北畠軍大軍化からみるに
 軍勢が集まるまで時間がかかったもよう。)



しかし、12月以降の南朝北畠軍の進撃は早く
12月13日の利根川合戦、16日の武蔵国安保原の合戦
そして12月23日には鎌倉に討ち入り
24日の合戦を経て
遂に12月25日、「杉本城」
落城の日を迎えてしまうのです。 (´;ω;`)はぁ…





…ところで
北畠顕家進軍の早さ(=移動日数の短さ
よく語られるところですが、これはもちろん
第一の要因には、北畠顕家の統率力の高さが挙げられるだろうし
錦の御旗を掲げている事もその一つと言えるかも知れませんが
いま一つの理由には…
「ホームとアウェー」の問題があったのではないかと思われます。
 (※ただし通常の用法とはちょっと違う意味で。)


建武5年(1338)正月2日
鎌倉を出て京都に向かう北畠軍の行軍についての
有名な『太平記』の一節…

北畠顕家の率いる奥羽の50万騎の大軍が
 夜を日に継いで(=昼夜の別なく)
 海道を道いっぱいに広がって上洛して行ったが
 (彼らはアウェーの者達なので)
 路次の民屋では略奪を尽くし、神社仏閣焼き払って行った
 この軍勢の過ぎ去った後は、地を払ったように
 一軒の家も、一本の草木も残らなかった」


…まさに焦土。

(※これについては…
 【佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫)1974】
 …の p.187-188 と
 『大日本史料』暦応元年正月2日)



もちろん、兵粮の現地調達は北畠軍に限った事ではなく
どの戦においても
軍勢の通り道となった土地の民衆の被害苦しみ
想像するだけでもマジ鬱 (´;ω;`) …な話でいたたまれませんが
特に奥羽の軍勢にとっては、関東以西アウェーですから
通り過ぎた後の事を考慮する必要が無く
速度を最優先すれば当然
その惨状は、想像を絶するものとなったのでしょう。

これが足利軍だったら
東海道には味方の所領が沢山ある、いわばホームなので
土地に対する思いも、少しは違うものがあったんじゃないかと。


(…というか、現地奥州では「多賀」でも霊山城でも
 北畠顕家はあんなに苦戦していたのに
 京都へ遠征となったら(50万騎は誇張にしても)
 ここまで軍勢が膨れ上がっていったのはなぜ??
 …とか素朴に疑問。 アウェーだから??
 南朝北畠顕家といえば「強い!」のイメージで通っていますが
 奥州での軍勢召集の時間のかかり方をみても
 ホームではなぜか厳しい北畠軍… )





建武4年(1337)12月25日に「杉本城」を落とした北畠軍
上述のように、翌建武5年(1338)正月2日には
早々に鎌倉を後にして上洛を再開しますが
道中に比べたら、鎌倉は遥かに物資に富んだ都市ですから
この1週間の間にどれだけ鎌倉は奪い尽くされたのだろう…
と思うと
足利方の総大将家長が、どう見ても勝ち目の無い北畠の大軍を相手に
決死の覚悟で徹底抗戦に挑んだ気持ちが
なんか痛いほど分かってしまって、もう… (´;ω;`)ウウッ
(おそらく、去年の北畠軍の奥州帰国の際も
 結構な被害に遭っていると思われる。)


鎌倉京都という都市は
外から攻められる事に非常に弱いので
戦力差が圧倒的なら逃げるしかないし
互角若干の劣勢なら
一旦退いて敵を誘い込み、攻守反転した上で一斉攻撃
…という作戦が有効で
これはよく『観応の擾乱』時尊氏が取った戦略ですが
しかしこの時、家長鎌倉での防戦を選んだのは
経験の浅さによる誤算なのではなく
上記の理由をその一つとして、もしかして家長
負けるのが分かってて「杉本城」に向かったのではないか?
と、ふと思う訳ですが…

それでは、家長勇気を与えたのは何だったかと言うと―――




私は先日「室町的鎌倉旅行記(その2)」
この時に鎌倉での防戦を主張した『太平記』の逸話は
当時数え8歳の千寿王(義詮)によるものではなく
関東執事かつ総大将だった家長の言葉だろうと言いましたが
これは、上述の家長多岐にわたる活動を鑑みれば

「自分は東国の管領を任されているから…」(『太平記』)

という強い自負を持って生きていたのは
間違いなく家長だと
賛同してもらえると思います。

ただ、建武2年(1335)8月に15歳奥州へ旅立ってから
2年と数ヶ月の家長の足跡を追っていて
もう一つ思う事がありました。



この『太平記』の逸話を意訳すると―――

利根川合戦以来、士気を失った足利方劣勢により
 一旦安房上総への退却を相談する面々に対して
 家長(※『太平記』では千寿王)が主張するには…)


「そんな意見はあなた達らしくない!
 戦においては、必ず一方は負けるものなのだから
 負ける事を恐れていたら、なんて出来ない。
 俺は東国の管領を任されて鎌倉にいるのに
 相手が大勢だからと言って、一戦もせずに逃げたとしたら
 敵にあざけられるだけじゃないか。
 たとえ味方が小勢であっても
 敵が押寄せれば馳せ向かって戦い
 敵(かな)わなければ討死すればいい。
 もしそこで逃げるべきとなったら
 その時は、一点突破して安房上総に退き
 その後、上洛する敵を追って(京都の手前の)宇治・勢多
 (西からの)味方前後から攻めれば
 きっと敵を倒す事が出来るに違いない」


…と、思慮深く道理を尽くして訴えたので
みなこの一言に励まされて、討死覚悟で鎌倉での決戦に挑んだ
という訳ですが
この眩しいまでの勇ましさ
思うに、この時の家長の心の中には
昨年の建武3年(1336)4月
奥州へ帰国する北畠軍との片瀬川の合戦
鎌倉を守って果てた
相馬重胤相馬胤康の姿があったのではないかと。





建武2年(1335)8月の奥州赴任
おそらくそれまで父高経のもとにあった家長にとって
一人で手勢を率いての初任務だったと思われます。

…という事は、奥州の相馬一族
家長にとって、初めての自分の部下だった訳で
しかも、相馬重胤たちの忠誠ぶりは
本当に素晴らしいの一言に尽きるのですが
 (↑実は今回紹介し切れなかった史料が…)
斯波家(※当時は足利尾張家)の嫡男とは言え
まだ十代半ばの駆け出し大将でしかない自分を信じて
支えてくれる彼らの存在は
相当励みになったと思われます。
 (鎌倉が極端に手薄だった建武3年(1336)前半は特に。)
家長相馬胤康の恩賞に必死だったのも
こういう心情的な背景があるのではないかと。


(この頃、家長に属して活躍した奥州相馬一族
 惣領の相馬重胤をはじめ
 家臣も含めてかなりの数に上ります。
 (…『相馬文書』などの着到状や軍忠状より。)
 当時の敵味方の流動性の高さ
 一時期の足利勢の致命的な劣勢を考えると
 彼らの一貫した姿勢
 わりとかなり特筆すべき事かと思います。)




もちろん、武家社会は広いですから
家長には、譜代の家臣も鎌倉時代以来の御家人層もいて
建武3年(1336)後半からは、京都からの帰還組も増えて
多くの部下を「関東執事」として統率していたのでしょうが
しかし奥州「斯波殿」として初めて出会って以来
鎌倉までも付き従い
足利軍の未来が絶望に瀕した時期を共にし
そして、鎌倉を守って戦死を遂げた相馬重胤たちには
たとえどんなに恩賞の吹挙(すいきょ)を頑張っても
結局は、同じように命を懸けて戦う事でしか
彼らの忠節に報いる事が出来ないと
17歳の少年ならそう考えてしまうんじゃないかな。

そして今、今度は自分があの時と同じ状況にいる
そうなったら
迷う事など何もなくなってしまうでしょう。



(※先日解説したように、「杉本城」陥落後
 上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂らは
 千寿王(義詮)を擁して一旦鎌倉を脱出し
 その後、軍勢をひたすらかき集めて北畠軍の後を追う訳ですが
 これが上記の家長の言葉の通りである事からすると
 もしかしてこの言葉の真意
  「 "自分が" 討死したら、残った者達は鎌倉から逃れて
   そして敵を追ってくれ」

 という覚悟だったのかも知れない…
 と、深読みしてしまう (´;ω;`) )




一般に、奥州相馬一族の去就については
足利軍建武政権と決別した時、足利方になった」
…くらいのさらっとした書き方で
家長との関係を掘り下げたものはあまり見かけない気がしますが
(というか、そんなマニアックな事気になって仕方ないのは
 私くらいでしょうが)
でも、誰もが通り過ぎてしまう歴史の片隅
本当の物語が待っている
というのが、この太平記時代の特徴です。
一次史料だけなら、誰もが目に出来る形で知れ渡っているのに
その一歩先に広がる世界
見ようとしてくれる人がいない
というのもまた、この太平記時代の負った宿命です。

つまり… 太平記時代の実力こんなもんじゃないよ!!
きっとまだ
とんでもないものを隠しているに違いない… Σ(゚Д゚ )なぬ!!???





うん、まあ最後の方は
若干妄想が入ってしまっているかも知れませんが
でも、ここまで調べる切っ掛けをくれたのが
去年の秋の『杉本寺』への訪問だったので
きっと、そんなには間違っていないんじゃないかなぁ…と
自分では思っています。


というか、あの時は正直言ってこの辺の事
全っっ然知らなかったから
 「高経の嫡男家長〜〜ルンルン♪」
くらいのあほあほな気分で行ったので
もう一回行かない事には話にならなよね (´・ω・`)
今度は、源頼朝の『法華堂跡』相馬重胤をなむなむしに行こう
と、思いますた。はい。







独り立ちした15歳の家長が戦った日々は
2年と4か月と言う短い時間だったけれど
尊氏たちが去った後の鎌倉を背負い
建武政権との対峙から幕府再興という激し過ぎる時勢の中で
見事に任務を全うしていきます。
奥州での最初の出会いは
まだ幼かった少年を、一人の立派な武将へと成長させました。
決して敵に背中を見せる事をしなかった家長の最期が
残された者達の勇気となって
翌年の勝利に繋がったのだとしたら
それは、紛れもなく「任務完了」という事で
胸を張って将軍尊氏に報告出来るのでしょう。


(実際、分かっててもあそこで戦わなかったら
 東国武士南朝化を促進してしまっていただろう
 …とは思う。 人心って戦の行方を左右する一番大事な要素。)



家長「杉本観音堂」で最期を遂げてから
来年でちょうど680年ですが
今になって、私が家長を知る事になったのも
何か意味があるのかも知れない… という事で

 680年後の未来に届くほどの輝きを放った数え17歳の生涯

これを私なりの "答え" としたいと思います。

なにか、遠く離れた星の光
今初めて地球に届いた… みたいな不思議な気分。


つまり太平記時代は―――

六百うん十光年先の宇宙に、今も存在してるんだよ!!
Σ(゚Д゚ )なぬ!!???




うそです☆


でも、重力波も検出されたらしいし
そろそろやつらも検出され…  うそです☆



足利家長




――――※最後にワンポイント――――

建武2年(1335)12月に
尊氏たちが上洛した後の鎌倉の体制
形式的には…
 「主君」千寿王(義詮)を補佐する「関東執事」足利家長
となりますが
 (つまり「千寿王の意を奉じて政務を行う」という形)
ただし実質的には
総大将家長を年上の足利一門家臣たちが支えて
諸事を執り行っていた感じでしょう。
恩賞関連では
尊氏の意を奉じた家長奉書も多く残っています。
(※奉書(ほうしょ)…主人の意を奉じて出す文書。
 この場合、尊氏の意を受けて家長の名前で出す文書。)


 以下、自分用メモ↓
『大日本史料』延元元年4月11日(相馬重胤宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月10日(小早川宗平宛、所領預置)
『大日本史料』延元元年10月28日(小山大後家宛、所領預置)
『大日本史料』建武3年11月22日(相馬親胤宛、所領預置)
『大日本史料』建武4年7月16日(甲斐大善寺に料所寄進)
(↑これは奉書ではないけど
 将軍尊氏の御祈祷の為のもの、という事で一応)



つまり家長は…
数え15歳〜17歳に最も人生を輝かせた
少年大将かつ少年執事のみならず実質少年主君
しかも、飾りじゃなくて健気に働きまくる上に
尊氏マル秘ミッションのエージェントだったりもして
んでもって高経長男(その上、高経数え17歳の時の子w)
…とかいう
ネタ的にわりと果てしなく夢が広がる感じ。



(※ついでに余談ですが…
 尊氏のマル秘エージェントは、他にもまだ数人います。
 (先日紹介した高経はその最たるものですが、他にも…)
 これに気付くと
 特に『観応の擾乱』スペシャル異次元化してくるのですが
 もちろん、マル秘なので一見したところでは分かりません。
 ほんの少しの勇気を持って覗き込めば
 その一歩先に、もう一つの世界が広がっているのです。
 Σ(゚Д゚ )なぬ!!??? )



―――――――――おわり―――




…という訳で以上
建武3年(1336)〜建武4年(1337)の
「足利家長関東編」でした。

というか、今日話したかったのは
家長の従兄弟の兼頼(かねより)の動向だったんですが
またまたその前提の話で終わってしまいました。
相馬関連の話が興味深々過ぎました。)

つまり… さらに次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 23:41| Comment(0) | ★チラ裏観応日記
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