2016年03月21日

室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「家長と兼頼編」

(チラ裏シリーズ)

こんにちは、『チラ裏観応日記』です。
という訳で前回の
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長関東編」」
の続きです。
ようやく本題です。



まずは今日の本題その一
足利家長の年下の従兄弟である兼頼(かねより)
建武3年(1336)あたりの動向です。

(※兼頼は、足利高経の弟家兼(※初名時家)の次男で
 のちに羽州探題最上家の祖となる人物です。
 当時は足利兼頼(竹鶴)とも、斯波兼頼とも。)



さて、もともと建武政権時の高経
越前守護としての活動や
紀伊国飯盛城での合戦で活躍した記録があるので
当初、高経一家(そしてたぶん家兼一家も)は
尊氏と同様に京都(時々越前に滞在していたようです。
そして建武2年(1335)8月
『中先代の乱』鎮圧の為、尊氏に従って東国へ向かう軍勢の中に
高経の名前が見えるので(at『太平記』諸本)
(※以上、この辺の事は…
 【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.375-377を)

この時、家長兼頼ほかの子供達も
一緒に鎌倉に赴いたのでしょう。

(ただし、幼い兼頼や家長以外の弟達
 遅れて下向、あるいはもともと上洛せずに
 鎌倉周辺に留まっていたとも考えられますが
 まあ、細かい事はいいか。)


その後すぐ、家長は単身奥州を管領しに出発しますが
建武2年(1335)12月以降(おそらく年明けくらい?)には
尊氏たちが去った鎌倉に戻り
以後は、千寿王(義詮)を補佐する関東執事として
奥州を含めた東国の統治を担う事になります。

(この "鎌倉新体制" はもちろん
 すべて尊氏の指示によって築かれたものでしょう。
 (家長の発給文書に見られる明確な権限からするに。)
 「直義が死んじゃうぅぅーーー!!」とか言って
 てんやわんやで鎌倉を飛び出した割には
 きっちり事後の事を考えているという
 わりとマメな男尊氏。)

こうして見ると
家長東国の管領を任されるに至ったのは
事態急変による偶然の要素が強かったんだなぁと思う。





さて、鎌倉に戻った家長
尊氏たちが京都時代を動かす大仕事をしている間
武家の聖地東国を保守するという
地味だけど重要なミッションに着手します。
その一環として
前回少し触れたように
奥州から行動を共にしていた相馬重胤(しげたね)の
次男相馬光胤(みつたね)を帰国させ
奥州相馬一族の主要拠点、行方郡「小高城」
来(きた)る戦に備えさせます。
(『大日本史料』延元元年3月8日)


この計画は
『相馬文書』建武3年3月3日相馬光胤着到状によると

斯波殿(御教)書ならびに親父重胤事書に任せて
 今月八日下国せしむ」


…とあるので
家長相馬重胤相談して決めたんじゃないかな、と思う。
相馬重胤の「事書」(←色々言い付けを記したもの)が
建武3年(1336)2月18日付けなので
それから程無く鎌倉を出発して
3月8日行方郡小高に到着した相馬光胤たち
3月13日には早々に、押寄せる新政権方との戦闘を開始し
その後息つく間もなく
激しい攻防戦を繰り広げて行く事になります。



(※ちなみに…
 この『相馬文書』建武3年 "3月3日" 相馬光胤着到状
 日付についてですが…
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 214)

 この着到状3箇所目の欠損による空欄[ ]
 『相馬文書』建武3年2月18日相馬重胤事書目録
 の第二条と照合すると
 (↑『大日本史料』延元元年3月8日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 209)

 「成[御敵一]族等押寄楯…」だと推測でき、従って
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写
 第一条の合戦の事だと思われるので
 (↑『大日本史料』延元元年3月22日
  または『南北朝遺文東北編』第1巻 223
  「一族等引別為御敵之間、三月十三日
   押寄同心一族相共対治畢」)

 3月3日ではなくて "3月13日" の事なのでは?と思う。
 (3月3日じゃ小高城到着前だし、「今月八日」が
  2月4月という事も有り得ないので。)

 『南北朝遺文東北編』第1巻は2008年発行ですが
 既に他にどこかで指摘されている事だろうとは思いつつ
 一応、自分用メモとして記しておきます m(_ _)m )





やっと本題☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆兼頼登場!!





さて、ここで今日の本題その一が関わってくるのですが
相馬光胤たちはこの時
 「足利兼頼に属して(=兼頼を大将として)奥州へ向かった」
のです。
(『大日本史料』延元元年3月8日
 …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)


この兼頼の立場はつまり、これまでの家長のそれな訳で
奥州の管領を任務としていた「斯波殿」家長
関東執事と言う立場になったので
おそらくそれまで鎌倉にあった兼頼
家長の役割を継承する事になった、と見ていいかと思います。

ただし、この時の兼頼
まだ「大将軍 足利竹鶴殿と幼名で呼ばれているように元服前
(『大日本史料』延元元年3月22日
 『相馬岡田文書』建武3年3月相馬長胤軍忠状写)

家臣の氏家道誠が代理として判形(花押)を加えていた
…という子供大将だったのもあり(※上記、氏家道誠注進状案)
史料を見る限りでは
奥州全域の総大将という訳ではなく
 「奥州行方郡周辺の作戦での大将」
という限定的なものだったようですが。

(この方面での軍事作戦では、常陸国守護の佐竹一族
 この後、石塔義房桃井貞直なども参戦して
 指揮を取っているのと
 兼頼の奥州での活動期間は
 結果的に1年間ほどだったようなので(※少し後述↓)
 もともと建武3年(1336)2〜3月という緊急事態での
 臨時的な名代だったのだとも考えられます。)


とは言え
相馬一族と共に奥州での作戦に従事する」というは
まさに家長の分身と言えるかと思います。



という訳で、先日
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭の追記のお知らせ
兼頼「家長の分身的立場にあった…」と言ってみたのは
以上の事実を根拠にしたもので
それで、戦死した家長の代わりに
兼頼「鬼切」が渡ったのではないか?…と想像した訳です。





ちなみに、この家長と兼頼の関係を反映している
…のかも知れないもう一つの形跡があって
(【小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館)1980】
 …の p.387 註(13)
 原文は『大日本史料』暦応元年10月5日
 または『南北朝遺文関東編』第1巻 890 より…)

『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状案の末尾に
 「志波殿 承候了 在判」 (※志波=斯波)
とあるのです。
(※『南北朝遺文』によると、
 この「志波殿」の文字は案文に記された後筆です。)

つまり
家長が戦死した1年弱後である暦応元年(1338)10月に
足利方として戦った常陸国の烟田時幹軍忠状
「一見しました!OK!」の判を加えた「志波殿」とは誰か?
という話ですが…


これは、『大日本史料』と『南北朝遺文』では
(兼頼の父である)家兼(=高経弟)としていて
上記文献では
(当時京都方面で活動が見られる家兼とは考えられない
 という的確な指摘から)

『茂木文書』建武3年7月12日の家長の軍勢催促状にある
「足利少輔三郎」であり、且つ
家長の子(養子)とされる詮経(※後述↓)と同一人物
と比定されていますが
ただ、数え17歳で他界した家長
既に成人した人物を生前に養子にとっていた
…というのは少々考えづらいので
この「志波殿」
普通に兼頼を指すものと見ていいような気がしますが…

家長亡き後、当時関東で「斯波殿」と呼ばれ得るのは
一時奥州相馬一族の大将も務めた同族の兼頼以外に
いないのではないかと。
(判自体は、兼頼代理の氏家道誠のものだったかも知れませんが。)


(※この頃の奥州では、建武4年(1337)春夏頃から
 中賀野義長石塔蔵人(頼房?)が指揮を執り始めていて
 (『大日本史料』建武4年3月10日、4月1日など)
 また、兼頼家臣氏家道誠の奥州での活動を伝える史料は
 建武4年(1337)2月6日付けの
 武石道倫への本領安堵の奉書が最後のようなので
 (『大日本史料』建武4年2月6日)
 兼頼が奥州で大将だった時期はおそらく
 建武4年(1337)正月26日合戦(※詳しくは後日)
 くらいまでだったと思われ
 暦応元年(1338)には鎌倉〜関東近辺にいたと考えても
 無理は無いように思います。)


そうすると兼頼
(関東限定の一時的な認識としても)
家長の名跡を継いでいたと言えるかも知れません。






――――――※ちょっと余談――――――

家長の名跡を継いでいたかも…」
とか、さらっと言ってしまいましたが
斯波に行った事もなければ家長実子でも養子でもない兼頼
「斯波殿」と呼ばれていたとしたら
それはあまり看過出来ない事のように思うので
ちょっと気になる事を、ついでに突っ込んでおきます。


家長関東執事として
建武3年(1336)〜建武4年(1337)12月25日まで
2年間ほど鎌倉で活躍しますが
この関東執事が後に関東管領と呼ばれるようになるので
(便宜上)家長は「初代関東管領」とも言われます。

で、家長の次に関東執事に就任した2代目は誰かと言うと
上杉憲顕なのですが、その就任時期は
建武5年=暦応元年(1338)5月頃になります。
(※建武5年8月28日「暦応」に改元)


これはなぜかというと、先日解説した通り
建武4年(1337)12月「杉本城」の合戦の後
鎌倉を脱した上杉憲顕・憲藤兄弟や桃井直常高重茂たちは
軍勢をかき集めて上洛し
「青野原の戦い」畿内での南朝方との合戦に従事していた為で
上杉憲顕が再び鎌倉に戻って来たのが
建武5年(1338)5月末〜6月初めくらいの事だったからです。

(※以上、この辺の事は…
 【黒田基樹編『関東管領上杉氏(シリーズ中世関東武士の研究
  第十一巻)』(戒光祥出版)2013】
 …の、第2部T
 「小要博『関東管領補任沿革小稿 ― その(一)―』1978」)



つまり、家長卒後から上杉憲顕の就任まで
関東執事は半年弱ほど空席の状態だった訳ですが
まあ、鎌倉の主君である千寿王(義詮)も三浦に避難していて
鎌倉に帰って来たのはこの年の7月11日なので
 (『大日本史料』暦応元年7月11日)
建武5年(1338)の前半と言うのは
先の建武3年(1336)の前半と同じくらい
人員的にもすっからかんな非常事態だったと言え
平時の体制が整わなかったのは仕方の無い事でしょう。


…とはいえ、それでも人々の日常は続いていく訳で
政務の継続が求められる以上
一応の代表者と言うのはやはり必要になります
特に武家政権では。

とすると、この主要人物軒並みかっさらわれた鎌倉
形だけでもいいから代表者になり得る人物って…
と考えると、やはりここは
足利尾張家の子息兼頼しかいないのではないかと。



もちろん、実際の政務は鎌倉に残った数少ない御家人や
兼頼家臣の氏家道誠が執り行ったのでしょうが
もし、この建武5年(1338)前半の半年間に

兼頼は "鎌倉の代表者として" 家長の後継者に立てられた

…という事実があったとしたら
上述の『烟田文書』建武5年10月烟田時幹軍忠状
「志波殿」なる記述はもしかして
兼頼がこの時、家長「斯波殿」という肩書きを

鎌倉代表と言う "地位の裏付け" として継承していた

という事実を反映したものなのではないか?
…との推測も可能かと思います。


(※建武3年(1336)3月時点で「足利竹鶴殿」だった兼頼
 建武4年(1337)正月時点でも
 家臣氏家道誠が代理で花押を据えていた幼子大将ですが
 暦応2年(1339)3月には「式部大夫兼頼」と元服済みなので
 (『大日本史料』延元元年3月8日
  …『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案)

 もしかしたら、この建武5年(1338)前半の事情の為
 (早めに?)元服したのかも知れません。)


(※それから、10月時点では既に上杉憲顕が関東執事で
 また、常陸国の豪族である烟田時幹はもともと
 常陸国守護の佐竹一族の指揮下にあったのですが
 (『大日本史料』建武4年2月24日、7月是月『烟田文書』)
 ただ、この暦応元年(1338)10月の合戦は
 実はかなりの緊急事態でして…
 同年5月北畠顕家、続く閏7月新田義貞の戦死により
 戦略変更を迫られた南朝方
 奥羽〜東国での南朝勢力再建を企図し
 南朝の重鎮北畠親房9月、伊勢国から海路で常陸国に漂着
 これが、常陸国南部を中心に5年にも及んだ長期戦の
 幕開けとなったのでした。 
 つまり、北畠親房の登場という
 関東勢にとっては相当衝撃的な重大事件でして
 急遽、鎌倉から「斯波殿」兼頼が特任大将として向かった
 という事は十分に有り得るかと思います。)



という訳で、もしこの推測が少しは的を射ていたら
家長の「斯波殿」という称号が
単なる「居所由来の家名」ではなく象徴的意味を持っている
という先日の一考とも合致しますが
何より、家長と兼頼の関係
(奥州の大将としてだけではない)
想像以上に "近い" ものだった
という事が明らかに…なった、かも知れない? Σ(゚Д゚ )!!!??


ただ、これが「関東執事と言えるか?」と言われれば
あくまで臨時の "機転" であって正式なものではなく
でも実質的にはそれと同等の立場を想定してたんじゃないかなぁ…
くらいに個人的には思うのですが
 (これでもちょと言い過ぎかな?と思うのですが)
しかし暦応2年(1339)3月に
既に任官して「式部大夫兼頼」となっていると言う事は
もしかしてもしかしたら
京都の指示の上での正式な "何か" があったのかも知れない
とも考えられてしまうので、うーん… 何ともw

(あの尊氏が、半年近くも中途半端な状態で鎌倉を放置する
 とはとても思えないし、特に「斯波殿」の名乗りは
 そんなに勝手にはしないだろうと思われる訳で… )


まあここでは取り敢えず
初代関東執事足利家長と2代目上杉憲顕の間の

 1.5代目関東執事(仮)「斯波殿」兼頼

…という可能性だけ、提示しておきたいと思います。


(ここまで突っ込んどいて何ですが
 この仮説、まるで見当外れの可能性もあります
 \(^o^)/ナンテコッタ )



――――――――――おわり―――――





という訳で
「いいかげんマニアック情報やめて… (´・ω・`) 」
みたいな話になってしまって申し訳ありませんが
「鬼切」高経から兼頼に伝わった背景が
どうしても気になって気になって仕方なかったので
 (え、みんなも「鬼切」気になるよね?ね?)
高経の亡き長男家長兼頼の関係を掘り起こしてみました。



この暦応元年(1338)の「志波殿」兼頼を指すのだとしても
その後の、奥州〜東国での兼頼に関係しそうな史料は
翌暦応2年(1339)の家臣氏家道誠による
相馬胤頼の(2年以上前に遡る)軍忠についての
再度の注進状くらいなので
(『相馬文書』暦応2年3月20日氏家道誠注進状案
 …『大日本史料』延元元年3月8日)

家長亡き後、しばらくは関東にいただろう兼頼
2〜3年以内には京都に移ったのだと思いますが
しかしほんの一時期でも
家長の片腕となり、その跡を継承した(ような気もする)日々の記憶は
長く残ったのではないかな… と思います。




ただ…
「室町的鎌倉旅行記(その2)…の続報「足利家長奥州編」」
の冒頭お知らせの最後
ちょっと追記(2016.2.29)しておいたのですが…
「鬼切」の伝わり方は
もうちょっと複雑な経路をたどったのかも知れない
…とも思う訳で。




すまん.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから再び家長情報





家長は数え17歳で他界してしまったので
『武衛系図』に

 「無子、自斯波養子云々」

…とあるように
子が無かったので "斯波" より養子を迎えたらしく
(※ここでいう斯波とは "他系統" くらいの意味かと)
実際、『奥州斯波系図』には

 家長 ― 詮経 ― 詮将 ……

と、家長の子に詮経(あきつね)
その孫に詮将(あきゆき)が記してあって
後にこの系統が奥州斯波郡に定住し
(おそらく詮将の代から)代々当地を治めて行く事になります。

ただ、養子と言っても
これは家長の没後しばらく経ってから
おそらく父高経の意向で
名目上…というか名誉的意味合いを込めて
長男家長の跡として由緒ある奥州斯波の地を継がせる為の
便宜だったのだろうと思います。(※詳しくは後述↓)

(家長の孫とされる「詮将」
 高経の次男氏経の子(=家長の弟の子)である「義高」
 同一人物とも考えられていて
 私もそう思いますが(もしくは兄弟?)…まあ詳しくはまた。)





そんな訳で
家長には実子が無く、名目上の子孫が跡を継いだらしい
そうなのかふむふむ… で終わるかと思いきや―――
終わらないのです。 Σ(゚Д゚ )ナント!?



実は『常楽記』に
 「文和二年五月 斯波三郎入滅 十七歳
…という記録があって
文和2年(1353)5月に享年17歳(=生年建武4年(1337))
斯波三郎って誰だよ!!
と突っ込まずにはいられないこのネタに
え?家長養子?? 実子…な訳ない、よね??
と、私はずっと疑問に思っていたのですが…。

(この時点では「斯波」は一族の家名として定着してないし
 当然家長はもういないし
 でも "三郎" は代々この家系の多くが通称としていて
 主要人物っぽい気配満々だし
 (家長は正確には弥三郎だが(『相馬文書』)
  『太平記』では斯波三郎と記されていて
  それで通っていたようだ)
 何より生年が、高経家兼の子とするには中途半端で
 該当者がいない… \(^o^)/ドウイウコッタ )

しかしその後
【木下聡編『管領斯波氏(シリーズ・室町幕府の研究 第一巻)』
 (戒光祥出版)2015】
…の p.14 で
「斯波三郎=詮経」としているのを読んで
あ、やっぱり家長の子でいいんだ
と呆気なく解決した、という次第であります。

(※これについては
 【今谷明・藤枝文忠編『室町幕府守護職家事典 下』
 (新人物往来社)1988】の「斯波氏」の項 p.42 にもありました。)



……。
てゆうか、一件落着でほっと一息お茶飲んでる場合じゃないですよ!!
これはつまり

 家長には、「杉本城」で戦死する年に生まれた実子がいた

って事じゃないですか!!
(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;) な、なんだってーーーーー!!?

わたし的には、わりと不意打ちな衝撃的事実なんですが
…まあいいか。


(※ところで『常楽記』では
 通常の俗人「他界」と記されていて
 「入滅」と表現されているのは結構な高僧に限られるので
 なんかちょっとうっかり間違えたのだと思いますが
 まあ、死因は病などの平時のものだったのでしょう。)




しかしそうすると、上記の『武衛系図』の
「子が無かったので斯波より養子を迎えた」
という記述は家長ではなくて
実際は、家長の実子斯波三郎(=詮経)のものであって
どちらも享年17歳だったので、のちに混同してしまった
…という可能性もあるかも知れません。

詮経の「経」が祖父高経の偏諱である事からすると
 (※「詮」はのちの2代目義詮の偏諱)
将来を期待していただろうに… 高経ショック (´;ω;`)
(この頃は、高経の次男氏経や三男氏頼
 父を支えて活躍し始めていたとは言え… )

おそらく、この斯波三郎(=詮経)の跡を絶やさぬ為に
惣領高経の意向で
次男氏経の子詮将を名目上の養子としたのだと思われ
従って上記の『奥州斯波系図』の記述は正確には

 家長 ― 詮経 = 詮将 ……

となるのでしょう。(※=は養子関係)





という訳で
上のブログ記事の冒頭の追記で
「鬼切」兼頼に渡ったのは文和2年頃かも知れない…」
と追記しておいたのは
可能性の一つとして…

建武5年(1338)閏7月2日の越前の合戦
「鬼切」は一旦、家長の忘れ形見三郎詮経に渡ったのだが
17歳にして父家長と同じく早世してしまったので
ショックを受けた高経
かつて東国〜奥州家長の分身として頑張った兼頼
家長の面影を偲んで「鬼切」を受け継がせたのかなぁ


…とも考えてみた訳ですが、うーん?
(※この翌年の文和3年(1354)
 兼頼は父家兼や兄直持と共に、奥州へと旅立ちます。)




ただやはり
「鬼切」兼頼に渡った背景が
東国での家長と兼頼の関係にあるのなら
(↑もちろん、この仮説自体が誤りの可能性もあるけどw
 でもこれ以外に「鬼切」兼頼の接点を見出せない… )

暦応2年(1339)以降
程無く京都へ移っただろう兼頼
建武3年(1336)という一番大変だった時期を乗り越えた
家長兼頼 "二人の" 功績を讃えて
当時直接、高経から兼頼「鬼切」が捧げられた
…と考えた方が自然でしっくり来るように思います。

幼くして鎌倉に残っていた兼頼
それゆえ、大将として戦場に赴くという重責を負った訳で
それは特別に褒められていい事なんじゃないかと。

(兄直持が嘉暦2年(1327)生まれなので
 弟兼頼は2〜3歳は離れていたとすると
 1329〜1330年生まれくらい?でしょうか。
 (ちなみに千寿王(義詮)は1330年生まれ)
 とすると奥州に赴いた建武3年(1336)は数え7〜8歳
 暦応元年(1338)でようやく9〜10歳といった所。)




まあ、真実のみぞ知る訳ですが
私としては、建武5年(1338)閏7月2日の奇蹟的な勝利に
高経はきっと家長の事を想っただろう
…と思っているので
東国帰り兼頼
戦功への褒賞と感謝の意を込めた「鬼切」
受け渡されたのではないかと、そう想像しています。





―――――※最後に豆知識―――――

文和3年(1354)
奥州管領として京都から当地へ移った足利家兼一家はその後
家兼の長男直持の系統の奥州探題大崎家
(…拠点は、宮城県仙台市の少し北辺り)
家兼の次男兼頼の系統の羽州探題最上家
(…拠点は、山形県山形市「山形城」)
の2流に分かれ
そして奥州斯波郡の地(※岩手県盛岡市の南)
高経の長男家長の養子としての奥州斯波家(高水寺斯波家とも)
が定住し、以後
奥羽の斯波一族はこの3系統が栄えて行く事になります。

(※奥羽両探題についてはこの後(40年後くらい)
 鎌倉公方2代目足利氏満、3代目足利満兼の時代に
 鎌倉府との関係で色々と色々な事になって行きますが
 …まあ、先の事はいいか。)



それではおまけに、前々回の奥州〜関東周辺地図
マイナーチェンジ版をどうぞ↓

家長兼頼の奥州関東地図


―――――――――――おわり―――



以上☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆家長兼頼鬼切
あったかも知れない昔々のお話



さて、ようやく本題…といいながら
結局本題その一までしか終わりませんでした。
というか、実はその一すら終わってなくて
兼頼相馬光胤の話まで行けませんでした。

という訳で次回に続きます。



posted by 本サイト管理人 at 17:30| Comment(0) | ★チラ裏観応日記
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