2016年03月29日

二周年です

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。
突然ですが、本日3月29日は… 本サイト開設記念日です!
という事で2周年を迎えました。


去年のブログ記事「一周年です」では
「正確な日付は自分でも不明…」とか
てきとーな事言ってしまいましたが、これはなぜかと言うと
本サイトをUPしたのは3月29日なんだけど
ブログ『Muromachi通り』3月24日に始めてしまっていて
何これどうしたらいいの!…と混乱した為ですが
やはり記念日はちゃんとしておこうと思いまして
3月29日をスタートの日とする事にしました。
ちょうど桜も咲く頃だし
毎年心を新たにするにもいい日です。

そんな訳で
ネットの片隅でしがない室町幕府応援活動を始めて
2年となりました。
まだまだ世間にも宇宙にも何の影響も及ぼせてはいませんが
いつか必ず、室町時代の真価は天地の知るところとなる…
と大袈裟に信じていますので
これからもよろしくお願い致します m(_ _)m



「きっと彼らはもう一度戻って来てくれる…」
そんな願いを込めて、今年も記念の奉納絵を描きました。
モデルは本サイトの主役「明応世代」より
私の原点公方11代目足利義材(よしき)(左)と…
実質初登場の畠山尚順(ひさのぶ)(右)です。



足利義材・畠山尚順
(※クリックすると拡大します。1000×750px)


なんか去年と雰囲気変わんない…

自分でも描いてて
技法センスにほとんど向上が感じられなくてやや絶望したので
お花いっぱい舞わせて、希望に満ち溢れてるっぽくしてみました。

(※明応世代のキャッチフレーズについては
 当ブログ「夏休みの宿題(その2)」
 "三応兄弟" の三男「We'll be back!!」を御覧下さい。)




さて、主役といいながら
最近とんと『明応の政変』関連はご無沙汰していて
尊氏直義時代に嵌り込んでしまっていますが
決して『明応の政変』への興味が薄れた…とかいう訳ではなく
それどころか許されるなら
今すぐにでもいくらでも語り出したいくらい
義材畠山尚順他のメンバーも大好きなのですが
ただ、室町の歴史ってのは
もうとにかくあっちもこっちも意外な真相ばかりで
どっからどう手をつけていいのか
ああ、もうああぁぁぁーーーーーー!!!
と錯乱している
…という話は以前もしましたが、それに加えてここ最近
短期間に太平記時代の知識をぎゅうぎゅうに詰め込んだせいで
『明応の政変』関連の情報が脳からはみ出していっちゃってて
 (なんてスペック低い脳みそなの…)
解説を始めるには改めて知識入れ直さなきゃならんから
そうすると本腰入れる為に
まずは尊氏直義時代の解説に一応の目処を付けないと…
ってなって、ああもうあああぁぁーーーー
とかいう輪廻錯乱です、もう (´;ω;`)



というかそもそも…
南北朝動乱期のように
日本史の中でもそこそこ知名度人気もあって
相当に詳しい人も多いという時代ならまだしも
『明応の政変』って
太平記時代が天体ならこっちはUFO未確認飛行物体かよ!!
ってくらい、見た人が誰もいないレベルの知名度なので
(…って言い過ぎかw
 じゃあせめてMFO(むーえふおー。む確認飛行物体
 ってどうでもいいか)

そういう訳で
どんな風に説明していったら上手く伝わるのか
見当が付かなくて困っていたりします。

(まあ、考え過ぎなのでしょうが
 でも義材畠山尚順は本当に良い奴なのに
 なぜか酷く誤解されているので (´;ω;`)
 どうしても本当のところを上手く伝えたいのです。)



ま、取り敢えず今日のところは
これまで概要に触れたブログ記事を挙げて
ごくごく簡単におさらい… でお茶を濁したいと思います。


「畠山義就(その3)」の後半

『応仁の乱』終結の5年後、河内国を舞台に
畠山義就畠山政長(※尚順の父)の対決が再開します。
(この頃、旧西軍義就は河内国誉田で「俺の城」経営中
 旧東軍政長は幕府で管領をしていて京都在住だったのですが
 これ以降、河内国に在国して義就と対峙を続けます。)

しかし、8年間の対陣の後
二人は決着を果たせぬまま義就が他界。
その2年と少し後
つまり『応仁の乱』終結後15年以上
置き去りにされて来た両畠山家の問題に、遂に終焉を告げるべく
義就方畠山(※当主は義就次男の畠山基家の居城
河内国「誉田城」へ向けて
11代目将軍足利義材率いる大名連合幕府軍が出陣します。
(↑この幕府軍側が、畠山政長とその嫡男畠山尚順
 ただし出陣と言っても
 当初は戦闘ではなく話し合いでの和睦を企図していて
 出陣時はみな優雅なものだった。『金言和歌集』)


しかしその時…
すなわち明応2年(1493)4月の京都において
義材を廃し、新将軍(のちの12代目義澄)を擁立するという
ごく一部の首謀者によるクーデター『明応の政変』が起こり
河内の義材・畠山政長たちの幕府軍と
京都のクーデター政権との立場が逆転。
我先にとクーデター政権に恭順の意を示し
昨日までの主君を忘れて保身を図る大名が多く
屈服を良しとしない大名
抵抗を諦めて国に帰還してしまい
状況はまさに "一変" してしまうのです。

そしてそのひと月後の翌閏4月
幕府軍の本部、河内国「橘嶋正覚寺」において
将軍義材と共にあった畠山政長が家臣数名と共に自害
嫡男畠山尚順紀伊国へ逃れ
そして将軍義材京都へ護送され、幽閉の身となるのですが…
しかし2か月後
味方の手引きにより大雨夜陰に紛れて脱出
それから再び京都に戻るまでの15年間
夜明けを目指す戦いが始まるのです。



「畠山義就(その5)」後半

『明応の政変』を攻略する為の視点
王道覇道正邪を正しく見極める事で
当時の世論・人心を的確に掴み、本当の歴史を捉える事が出来ます。
(↑ここを間違えると
 『明応の政変』は180度まるで違った事件になってしまうので
 極めて重要なポイントです。)


それから、畠山尚順にスポットライトを当てた話を少し。
『明応の政変』その後の15年では
流浪将軍義材として
大名・奉公衆・国人・寺社勢力・公家衆…と
様々な立場の者達が各地で活躍していますが
やはり、京都を包摂する畿内において
都に王手をかけられる唯一の存在として
 「畠山尚順こそが天下の期待を一身に背負っていた」
という事実は
この歴史的事件を
権力者目線ではなく)天下の人々の目線で理解する為の
最重要ヒントの一つとなります。

視点を変えれば真相が見えて来る、それが『明応の政変』です。



「夏休みの宿題(その2)」

"sunrise 三兄弟" の三男「Stand for Sunrise!」
"三応兄弟" の紹介の冒頭と、三男「We'll be back!!」の箇所で
ざっと輪郭を解説。

『明応の政変』はこれまで

「(社会的合意の無い)"力" によって将軍権力が否定され
 その結果 "力" による権力掌握が社会に "許容" された歴史的画期
 戦国時代の幕開け」


という理解が主流だったようですが
しかしそれは、この政変を
事件が発生した明応2年(1493)4月末〜閏4月末の
"点" として見て "全容" で捉えない場合にのみ成り立つ解釈です。
『明応の政変』 "帰結" までを含めた15年の物語として見る事で
その本来の歴史的意義が明らかになります。

社会が "力による理不尽" を許容しなかったからこそ
将軍義材は15年後、人々の喝采の中で京都に返り咲いたのです。



…などなど。



うん、極めててきとーにマクロな概念的解説で
不親切もいいとこです。 本当にすみません m(_ _)m


まあでも、『明応の政変』どマイナーとは言え
ネットで検索すれば結構な情報が集まるので
個人的に気になって気になって仕方ない事を
やっぱり先走って言い訳しておきたいと思います。




歴史学的☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆レジスタンス




まず、最初に浮かぶ疑問は
 「この政変はなぜ起こったのか?」
という事だと思いますが
一般には
 「諸大名 "一致団結" して、新米将軍義材を追放した」
と思われがちなようですが
決してそういう訳ではありません。

(※『応仁の乱』後、父義視(※義政の弟)と共に
 それまで11年以上美濃国で暮らしていた義材
 京都に戻ってからこの時点で約4年
 正式に将軍になってからは3年弱で、それ故
 義材は「京都における基盤が脆く味方が少なかった
 という考察が主流ですが
 しかし、これはあくまで政変から逆算した考察であって
 当時の日記の記録では
 新米将軍義材奉公衆にも大名達にも普通に受け入れられ
 (少なくとも政変首謀者となった一部勢力以外とは)
 上手く行っていた様子が読み取れるのです。)



政変当時は、クーデター政権による情報操作
諸大名一味同心している」との虚構が大々的に発表されたのですが
それはもちろん、政変を正当化する為のであって
 (※以上3行、2016.4.24追記)
この突然の政変に驚いた大名の中には
義材と(政変で擁立された)新将軍義澄との "和睦" と言う形で
事態の収拾を模索している者がいるらしい
…という噂まであったように
多くの者達にとってこの事件は、不意打ちの強行でした。
(※『大乗院寺社雑事記』閏4月19日
 大名達は、義材の側近の一人には不満を抱いていたのだが
 義材自身には背くつもりも
 まして追放など望んでいなかったのが実際です。)


しかしそれでも… 善悪を差し置いて従うしかない "理不尽な権威"
背後に控えていたのです。



それからまた、この政変は
「将軍義材の方に非があり
 いち大名が将軍のすげ替えに成功して
 幕府権力を掌握し "専制政治" を敷いた画期的な事件

といった感じで
権力の下克上を評価するような見方がありますが
その視点はあくまで現代のものであって、当時の現実とは違います。

当時の世論においてこの政変は
人道に背く極めて卑劣なものであり
評価どころか、人々から非常に厳しく非難されていた事は
上掲のブログ記事でも触れましたが
そもそもこの政変の背後にあったのは
(いち大名の権力ではなく)
8代目将軍義政(※この時点では既に故人)の "御台の権威" であって
この政変を遂行させたのは、政所頭人伊勢貞宗の計略です。
(↑特に、将軍の直臣たる奉公衆
 義材から瞬時に大量に離反したのは伊勢貞宗の策
 伊勢貞宗(さだむね)は、当ブログでも度々登場している
 あの "きのこ" です。)


一般に "一番の首謀者" と見做され
クーデター計画を立てた策謀家のように思われている大名
細川宗家の当主細川政元(まさもと)は
実は、政変で主導権を握っていた訳ではなく
一貫した姿勢も持っていなかった節があり
その後の言動からも
幕府権力の掌握・独占専制政治を望んでいたとは
考えられないのです。


(※以上、『明応の政変』についてもっと知りたい!となったら
 【山田康弘『戦国期室町幕府と将軍』(吉川弘文館)2000】
 …の、第一章(それから第二章、第三章も出来れば)
 を一番にお勧めします。専門書ですが分かり易いので是非。)





…という訳で
いきなり何がなんだか分からなくなって来ましたが
『明応の政変』(…の発生原因)を解く最大の鍵
首謀者である

 義政の御台、細川宗家細川政元、政所頭人伊勢貞宗

この三者の思惑には
実は "かなりのズレ" があった、という事実です。

(さらに言うと、細川宗家内では
 当主の細川政元とその家臣内衆)たちの間で
 思惑利害も相当なズレがあり
 実際には(当主細川政元の意図とは反する)
 内衆の一部の思惑が実行されています。)



従って…
政変当時は、京都でも河内でも
様々な細かい事件・出来事が発生しているのですが
その一つ一つについて
 「どの事件誰の思惑によるものか?」
という事を慎重に紐解いていく必要があります。
(とにかく一枚岩でもなければ
 単に権力を求めた下克上ではない点が最大の注意点です。)


特に、伊勢貞宗の行動の意図・背景はとても複雑で
前者の2人の意図とは… "隔絶" しています。
(なんたって、深く追求すればするほど
 伊勢貞宗誰の味方か分からなくなってくる、ってゆう。)

しかしここにこそ
『明応の政変』本当の姿が隠れていると思われるのです。




政長☆.*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆お前ってやつは…な話




ところで、かなり以前の話になりますが
私は当ブログ「畠山義就と畠山政長」の最後で
この政変での(大名での)唯一の犠牲者である畠山政長
"敗れた" のではなく
 「死ななければならなかった訳ではないのに
  敢えて自ら自害の道を選んだ」

と言いましたが
それはなぜかと言うと…


先ず一つに、この政変の目的は一般に
 「(将軍義材だけではなく)
  将軍義材 "政長方畠山" を幕府から追放する事」

と捉えられていたりもしますが
これは… 半分は結果から逆算した誤解です。
(正確には、主語を誰にするかによって変わってきます。
 "義政の○台が" あるいは "細川宗家の内衆の一部が"
 というのなら当たっていますが… )



当時の日記の記録には
京都にいるクーデター側の細川政元から
河内に在陣する畠山政長へ伝えた意向として

「(政長とは)当家(=細川宗家)は代々扶持関係にあるので
 河内から(政長が)上洛する事を待っている。
 等閑(おざなり、疎遠)になる事は望んでいない。
 ただ公方(=義材)一人に不満があるだけだ」
(『大乗院寺社雑事記』閏4月10日)


という情報があるのです。
つまり、畠山政長自身の身の上を優先したなら
義材を見捨てて上洛する事も不可能ではなかったのです。
ただし、政長がそんな考えを抱く訳はありませんが。


(※『応仁の乱』の頃の
 細川勝元(※政元の父)と畠山政長の関係は
 本サイトでも度々言及した通り、極めて親密良好です。
 乱中は、細川勝元邸内政長の陣所があったくらいですから。
 (『大日本史料』文明3年6月11日)
 ただし、『明応の政変』当時は
 細川宗家の内衆の一部畠山基家(※義就次男)と通じていて
 主君政元に無断で、政長方畠山の排除を目論んでいた事
 (この政変後、畠山宗家の家督は義就方畠山へと移ります)
 それから細川政元自身は
 父の勝元のように一貫した心情がない…というか
 畠山政長に対してはともかく、息子の畠山尚順には
 どうも複雑なものがあったようですが…
 まあいいか。
 ちなみに「将軍義材に不満があった」というのも
 ちょっと一方的な言い分で
 実際はむしろ、これまで細川政元の方が幕政に非協力的
 義材が困っていた訳なのですが… まあ詳しくはいずれ。)




それからもう一つ
将軍義材畠山政長は、布陣していた「橘嶋正覚寺」
細川宗家の内衆の軍に "攻め落とされた"
つまり
 「政長 "合戦に負けて" 進退窮まり自害に及んだ」
と一般には思われていますが
(まあ普通に考えれば
 大合戦があったと思ってしまうのは当然ですが)
しかし意外な事にこの時
実は大した戦はなかったのです。

 「不及一合戦而破了」
((正覚寺の陣は)一合戦に及ばずして破れた)

(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月25日)

これは大和国興福寺大乗院尋尊の貴重な証言です。
驚くべき事に、政長は戦に負けた訳ではなかったのです。
(せいぜい「在々所々」で小競り合いがあったくらい。)


確かに、『応仁の乱』の頃の政長を思い起こせば
「上御霊社の戦い」でも
(※本サイト『2-8』「天に告ぐ!上御霊社の戦い」
「相国寺の合戦」でも
(※本サイト『2-9』「相国寺に紅蓮舞う」
圧倒的に不利な状況にも拘わらず
巧みな戦略戦術奇蹟的な戦い方をするのが
政長のやり方だったはずで
大火災に向かってなお
冷静沈着に自己を保つ強靭な精神の持ち主であり
(※このエピソードはブログ「畠山義就(その3)」の前半を)
窮地に陥った時こそ本領を発揮して来たのが
政長だったはずです。


その政長が、それ程の主力軍ではない敵を相手に
簡単に敗北する訳がない

つまり―――


政長の自害後
「正覚寺」には(政長方より)火が放たれたので
(敵側には)政長の行方は「不分明」だったとあるように
(『蔭凉軒日録』明応2年閏4月26日)
幕府軍の本陣「橘嶋正覚寺」の最後
政長方の "筋書き" によって描かれたものだったのです。



ではなぜ、政長 "敢えて" 自害したのか?
もっと言えば…
自害をして "敗北を演出した" のはなぜか?
それは―――
義材の為だった、というのは想像に難くないと思いますが
政長と共に「正覚寺」にいた義材はこの時
 最後まで義材に付き従った数十名の奉公衆と共に敵方に降り
 京都へ護送となります)

この時の政長の思いと言うのは
上述の伊勢貞宗の思惑と
"擦れ違いながらもリンクする" という悲しい話
かも知れませんので、頭の片隅に置いといて下さい。

(ちなみに畠山政長伊勢貞宗
 かつてはとても仲の良い友達でした (´;ω;`) )




次回の☆.*:.。.:*・゚(´・ω・`)゚・*:.。.:*☆おまけ予告




さて、ちょっとおさらい… のつもりが
なんか益々めいて来てしまったので
今日のところはこの辺で撤退したいと思います。

(上述の解説は概要の為、史料の提示が不完全ですが
 基本的に日記を中心とした一次史料を根拠としています。)



うん、まあつまり何が言いたかったかと言うと…

 義材政長も悪くないのさぁぁぁぁーーーー!!!

これだけ伝われば今日はもう満足です。




ちなみに、本サイト開設記念日という事で
今日はスペシャルなおまけを用意していたのですが…
久々に『明応の政変』の話をしていたら
思いのほか気分が乗って長くなってしまったので
おまけは次回に持ち越しです。



posted by 本サイト管理人 at 23:48| Comment(9) | ★チラ裏日記
この記事へのコメント
初コメです&二周年おめでとうございます。
「戦国黎明記」から流れてきましたー。

政元の謀略ファイターレベルが50だとしたら、富子は75、貞宗は90(一部パロメータカンスト)ぐらいありそうですね。貞親父さんも息子の成長にさぞ満足でしょうw
Posted by 左吉兆 at 2016年03月30日 22:41
>左吉兆様
コメントありがとうございます!!
しかもお祝いまで…嬉しいです ・゚・(ノД`)・゚・

そうなんですよ、まさにそんな感じのスコアなんですよ!
しかもこんなに "超黒幕" 腹黒きのこっぽいのに
『明応の政変』15年目の義材京都復帰後の幕府では…
義材に重用されてるってゆう。

何がなんだかまるで意味不明ですが
この政変での伊勢貞宗の真意は
貞宗の従兄弟の伊勢新九郎盛時(=北条早雲)の
伊豆進出の真相にも関わって来ると思われますので大注目です。

おそらく父貞親の教訓は…大いに生かされたんじゃないかと。
貞親ついに安眠!!です。 たぶん。
Posted by 本サイト管理人 at 2016年03月31日 13:57
二周年おめでとうございます。
尚順と聞いて飛んできました。ありがたやー
これからも(尚順の)活躍と躍進を楽しみにしています!
Posted by 尚順ファン at 2016年04月06日 16:24
>尚順ファン様
コメント&お祝いありがとうございます!!

尚順ファンさんにありがたやーされて
こちらこそもっとありがたや〜 (−人−。) です!
もう少しで「二周年です」の続きをUP出来ると思いますが
かなりの尚順回になりましたw
ちょっと小ネタ…のつもりが
言いたい事が有り過ぎてむちゃむちゃ長くなってしまい、読みづらいかもですが
こちらもよろしくお願いします!
Posted by 本サイト管理人 at 2016年04月06日 22:27
遅ればせながら、2周年おめでとうございます。久しぶりに明応世代の記事をがっつり書いていただき、嬉しいです。
元々は赤松政則と浦上則宗主従、それに細川政元に興味を持ってこの時代にはまりましたが、今では義材将軍の生涯を知らずに戦国時代を理解することはできないと確信しております。

ところで、「昨日までの主君を忘れて保身を図った大名」って赤松政則も入ってる…というか、代表格でしょうか?安富元家から養子を迎えてたっていう浦上則宗も…。(汗)
これからも刺激的な記事を楽しみにしております。

あと義材将軍といえば、戎光祥出版から山田康弘先生の『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』が5月下旬刊行予定とのことで、一般の歴史ファンに広く訴える好機になりそうです。
Posted by k-holy at 2016年04月12日 20:21
>k-holy様
お久しぶりです!コメント&お祝いありがとうございます!!

「昨日までの主君…」のところなんですが…
自分で読み返して、ちょっと言い方がきつくて反省しています orz
どうも『金言和歌集』や『大乗院寺社雑事記』を読んでいると
もどかしくてもどかしくて、ついムキになってしまう悪い癖が…
でも彼らも "そうせざるを得なかった" という部分もあった訳で
それぞれの立場に立って、公平公正な考察を心掛けなきゃと改めて思いました、はい。

で、先に結論を言いますと
赤松政則(と浦上則宗)については、大内義興と共に
代表格どころかその逆で、一番抵抗を試みた大名の筆頭です。
ブログ記事の後半の「義材と新将軍義澄の和睦を模索した…」
というのが彼らの事なんですが
当初は「赤松と大内は義材の陣に参じた」という風聞もあり
何より、赤松政則は浦上則宗を使者として
「公方の和与」の事を細川宗家に申し入れようとしているらしい
という情報もあるのです。
 (『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日、21日)
あと(失敗してしまったけど)
義材の陣に兵粮を運び込もうとしたりも。
 (『後法興院記』明応2年閏4月19日)
ほとんどの大名が早い段階でただ退いた中で
事の次第のおかしさに気付いて行動を起こしたのは
(周りに流されずに)自主的な状況判断をした証拠だし
やはりすごい勇気だと思います。
ただ… これまでの赤松家と細川宗家の関係や
(かの有名な)細川政元姉との婚姻もあって
最後は細川宗家との同盟を再確認し
 (『蔭凉軒日録』明応2年閏4月21日)
義材・畠山政長方の援軍の根来衆と合戦して、勝利する事になるのですが。

当時は、義材方の陣に参じた者は
討伐の対象となったり、京都の自邸を焼かれたりと
恐怖政治状態だったので
クーデター政権に迎合したと言っても
クーデターの首謀者以外の大名や近習たちの立場は
苦しいものもあっただろうなと思います。
私は(気を付けていると言いつつ)
つい一方的な見方をしてしまいがちなので
別視点のコメントは視野が広がってとっても有り難いです m(_ _)m ぺこぺこ

それから、義材本の情報ありがとうございます!!
『戦国期室町幕府と将軍』の著者の方とは!これは期待ですね!!
戎光祥出版のHPで目次を見たら
ほとんどの章題に「義稙」が入ってるw
しかも義材を "英雄" とw(義材マニアな私ですら躊躇っていたと言うのに…)

もしかして義材ブーム来る??
ああ私も明応に浸りたくなって来た…
Posted by 本サイト管理人 at 2016年04月13日 05:15
丁寧に解説していただき、ありがとうございます。
後年の赤松政則の従三位上階と合わせて結果を見ると、政則と則宗主従は義材将軍を裏切って政変を決着付けてしまった張本人なのではと思ってしまうのですが…。
上洛した浦上則宗率いる赤松勢が法華宗寺院に寄宿しようとして京兆家の軍勢と衝突した事件などもあったそうですが、それも当初は情勢を見極めつつ武力行使も辞さないという姿勢の現れだったんでしょうね。
二人とも義材の帰還前に死去してしまったのが残念です。
Posted by k-holy at 2016年04月22日 12:51
>k-holy様
いえいえ、こちらこそ細部まで考察が捗って良い感じですw
(結構、適当に史料読んでて見逃している事が多いので。)
というか、返事が遅くなってすみません orz
史料を読み返していたら、やや誤解してた事に気付いて考察し直してました。

さて、まずは政変当時の現状について…
大名たちが河内に在陣中の明応2年(1493)4月22日
京都でクーデターが起きる訳ですが
その時、早々に河内から退却して行った諸大名や近習、奉公衆、諸奉行衆たちの事が
『金言和歌集』で痛烈に批判されていて…
「諸家の人々 よいどれは 我も我もと あと先に
 逃げこそのぼれ あさましや」 (※長歌の一部抜粋)
という状態で
(この時、京都へと一番に逃げ上ったのは
 細川一族の淡路守護家細川尚春、野州家細川政春、典厩家細川政賢
 それから讃州家の細川義春も夜に紛れて撤退しています)
また同じく『金言和歌集』より…
「さてもかく 世はなりけるか あさましや 昨日に変わる 人のありさま」
と言われるほどの現状でした。

後に義材与党の筆頭となる大内義興も
この時はまだ数え17歳で、父の名代的な立場だったのもあり
実はあまり抵抗らしい抵抗をしないまま周防国に帰国してしまっています。
(帰国後、父の大内政弘はむっちゃ怒ったようですが。)
義材との関係は決して浅くない斯波義寛や武田元信、京極材宗、山名政豊たち諸大名に至っては
なんら反クーデター的行動を起こした気配がありません。

大部分の大名が薄情とも言える行動を取ったのは
"義政御台の権威に(半ば無条件に)従ったから" というのと
恐怖政治に屈服した、というのが理由の大部分だと考えられますが
どうやら他に裏事情もあったようで、詳細は後日に譲りますが
クーデター政権筆頭大名の細川政元は
一般に、策謀で義材を嵌めたと言われていますが
どちらかと言うと策に嵌っていたのは諸大名の方で
いつの間にか共謀者と化していた彼らは、気付いた時には既に後に引けなくなっていた
(それで沈黙のまま早々と恭順した)
という部分もあったようです。
一方、大内義興がいち早く帰国の途に就いたのは
政変の片棒を担がされるのを避けた為だと思われ
(↑細川政元の使者が、義材陣営への攻撃について談合する為
 大内義興の陣に赴いた数日後に、早々に帰国態勢に入っている。
 …『晴富宿禰記』明応2年閏4月1日、9日)
クーデター政権を認めなかった、と言う点では
他の諸大名とは決定的な違いがありますが
それでも実際に行動を起こすには及ばす
「義材の陣に参じた」「義材と義澄の和睦を試みた」
との風聞は、あくまで "そういう意見・希望も出た" という段階の話だったようです。


このような(かなり厳しい)周囲の状況を勘案すると
(畠山政長・尚順父子や、最後まで義材に従った40余人の近習を除き)
なぜ赤松政則と浦上則宗たちだけが義材に与同する動きを見せたのか?
という疑問が生じる訳ですが…
色々考えてみた結果
赤松自身、義材との関係と、細川政元との関係で
板挟み的になって後者を取った、と言う感じのようです。

4月22日に政変が勃発し
4月26日に一度、赤松被官の浦上則宗と別所則治が上洛し
細川政元への(おそらく先の婚姻の)御礼で、種々の礼物・金銭を贈っています。
その後閏4月3日に、細川宗家内衆たちが
義材の本陣「正覚寺」攻撃の為、河内国に下向するのですが
この時、浦上則宗は安富元家(細川内衆の筆頭)と同道し
別所則治は上原元秀(細川内衆)と同道していました。
(※つまりここまで両家の関係は問題なし)

で、赤松勢が「義材の陣に参じた」とか「兵粮を運び込もうとした」
といった情報が流れ始めるのが、実はこれ以降の事で
それと時を同じくして、細川内衆の内部対立が表面化します。
(『大乗院寺社雑事記』明応2年閏4月19日、22日)

この対立は「上原元秀 vs 安富元家や薬師寺元長ほか」という構図で
「クーデター推進首謀者である上原元秀は、個人的利権・利益目当てで
 身勝手に主君細川政元や内衆たちを巻き込んで政変を企てた」
…という事実に不満を爆発させた安富ほかの内衆たちが
反上原で結託し「正覚寺」攻撃を拒否したのです。

この細川内衆の内部対立自体は、良く知られた話ですが
この時期に「赤松被官の浦上則宗もそばにいたらしい」という点は
これまであまり指摘されていないようですが…?
(既出情報でしたらすみませんw
 ちなみに私は、史料(日記)読んでて今知りました。)

浦上則宗は、クーデター消極派となった安富元家たちと意を通じていたのは間違いないと思われ
安富たちの行動が、赤松・浦上の希望にも合致したものだろう事を考えると
やはり二人は、義材に反したくなかったのだと思います。
ただしこれは「細川宗家との良好な関係を保った上で」
という条件が付くのですが。

(※私は前回のコメントでは、赤松・浦上は
 独自の判断で義材に与同したと考えていたのですが
 彼らの行動の背景には、細川内衆安富元家との意向の合致があり
 「赤松が単独で細川の意向に反する行為に出る事は無い」
 というのが正解のようです。)

さてこの後、この安富たちのボイコットに激怒した上原元秀が
これを主君細川政元に訴える為、閏4月18日に上洛するという事態に発展するのですが
この時同時に、浦上則宗も再び上洛します。
というのも、どうやらこの頃から
赤松家にとって、細川宗家との関係で非常に都合の悪い噂が飛び交いつつあったようで、その弁解の為に。

(※以下の話は、『晴富宿禰記』明応2年閏4月21日条
 によるものですが、意味が取りづらい部分がありまして
 細かいとこ間違ってたらすみませんw)

以前、赤松政則は義材の御内書によって
細川政元の領する所領のいくつかを拝領したそうなのですが
「それは赤松政則が義材に申し入れたからであって
 それで(それを怨んで)細川政元が今度のクーデターを計画した」
…と噂する者がいたそうです。
これは赤松政則にとっては致命傷になりかねない噂であって
ここへ来て、"義材と義澄の和睦案" がクーデター阻止(=反細川的行為)だと見做されて
細川政元との関係が悪化する事を恐れた赤松政則は
和睦を勧めるつもりもなく、その計画を進めてもいず
細川政元の意向に反する意志のない事を伝えるべく
自身の書状を持たせた浦上則宗を上洛させ
閏4月18日の晩に再度入京した浦上則宗は
20日夜に細川政元と対面して、細川宗家との固い同盟を再確認し
ここにおいて赤松勢は、完全なクーデター賛成派となるのです。

…という訳で
以上の赤松政則と浦上則宗の去就をもって
義材を "裏切った" と捉えるかどうかという事ですが…
当時の状況を考えると
そう言ってしまうのはやはり酷なのではないかなぁ…と私は思います。
他の大名達に比べたら、現状に抵抗を試みたのは確かだし
赤松家の立場からすれば、細川宗家との関係のが重要だったとは言え
義材への忠誠心が全くの嘘だったという事にはならないと思うので。


ちなみに…
同盟を再確認した浦上則宗はその後再び河内国へ下向し
閏4月22日、赤松勢は契約通り立場を明示すべく
義材・畠山政長方の援軍の紀伊根来衆を撃退するのですが
(この3日後の閏4月25日に政長が自刃、義材が囚われの身となります)
この合戦が "政変を決着付けてしまった" かと言えば
確かに、結果的にはそう言えるかも知れません。
ただ…
これはちょっと複雑な話なので、今は予測だけ述べておきますと
政長はどちらにしろ(合戦の勝敗によらず)、この数日以内には
「正覚寺」を開陣するつもりだったのではないか?
と私は考えています。
(兵粮の問題もあったようですが、それ以外の理由で。)


(長くなったので一旦切ります。下に続く↓)
Posted by 本サイト管理人 at 2016年04月25日 03:24
(↑上の続き)

それから、法華宗寺院(妙満寺)の件ですが
これは、義材が京都へ護送されて入洛した5月2日のさらに後の
5月12日の事なので、また少し事情が違うようです。

この日の夜に帰洛した赤松勢の一部が、妙満寺に陣を取ろうとしたところ
京兆家(細川宗家)内衆の上野玄蕃頭元治が
赤松勢を立ち入らせまいと
細川政元のだという制札を掲げて寺に立て篭もったので喧嘩になり
騒ぎを聞いた浦上則宗たちが駆けつけて四方から火を放ち妙満寺炎上…
という経緯なのですが―――

まず、上野玄蕃頭元治は元々かなり素行の悪い人物だった事
この件を細川政元は全く知らなかった事
翌朝、浦上則宗の宿所へ報復に出ようとした上野玄蕃頭元治を
細川内衆の上原(賢家or元秀)らが説得して阻止している事
さらに5月23日には
この赤松勢締め出しに関わった細川被官の芝田両人が
上原元秀によって誅殺されている事
この芝田両人は、先のクーデター勃発時に
京都で義材の家族が住む寺院を破却した張本人でもある事
そして、このクーデター時の京都において
義材の家族や兄弟がそれぞれ在住する寺院や、義材与党の邸宅を大破壊して
放火、略奪、剥ぎ取り、殺人の暴虐の限りを尽くした悪党達を
細川邸で「悉くみな指南」していたのは
(細川政元ではなく)義政御台であったという事実
また河内在陣中の話ですが
「赤松勢、義材与同」との風聞により、京都の赤松勢の陣所の3寺院が
"何者か" の企みで破却されるとの噂があり
(↑まあ間違いなく義政○台)
細川内衆の上原賢家が警戒態勢に入っている事

…以上を勘案すると
赤松勢は、河内在陣中に義材に肩入れしたので
この締め出し事件の背景には、義政御台の差し金があったのだろうと考えられます。
(細川宗家の内衆や部下達は一枚岩ではなく
 細川政元の意に反したかなりの独断行動を取る者達が少なくない
 …という統制の取れていない状態なので、判断が困難ですが
 細川政元本人とまともな内衆は基本的に
 赤松政則擁護派と見て間違いないようです。)


あと最後に、明応5年(1496)閏2月29日の従三位の件ですが…
確かにこれは、全く先例のない異例中の異例の事で
かなり不審がられていますが
この2か月弱後の4月25日に他界する赤松政則は
この頃既に病を患っていたようで(『後法興院記』明応5年3月6日)
上階の為に、親王御方を通して種々懇望し
禁裏や関係者への礼銭・礼物も相当弾んだらしい事からすると
(『後法興院記』明応5年4月28日、『親長卿記』同4月25日)
政変の手柄とか、誰か(細川政元とか)の推挙だったのではなく
自身、死を前にした最後の望み…というものだったようです。


以上、出典をほとんど省略してしまいましたが
『金言和歌集』の他は全て日記です。
(複数の日記の記述を総合して判断しています。)
急いだので、どっかしら理論に穴がある気がしないでもないし
上手く疑問にお答え出来たかどうか自信がありませんが
また少し『明応』に詳しくなれて楽しかったですw
義材本発売まで、私ももうちょっとレベル上げしておこうかな…
Posted by 本サイト管理人 at 2016年04月25日 03:31
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: