2016年04月08日

二周年です(…のおまけ)

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏日記』です。

それでは早速、前回の「二周年です」の続き
みんなわくわくおまけの時間です。
折角の実質初登場!という事で
畠山尚順の小ネタ(いやむしろ大ネタ)を一つ。


畠山尚順(ひさのぶ)は、畠山政長の嫡男で
明応世代の超絶主役級の一人です。
まあ、今のところ知名度未確認飛行物体ですが。

というか、私も『明応の政変』の探究を始めるまでは
全く以て知らなかったので偉そうな事は言えないのですが
(ほんとごめんw)
しかし、先入観が無かったのは幸いでした。
公平な視点で、純粋に一次史料から人物像を探る事が出来たので。

(※ちなみに尚順
 途中「尚慶」(ひさよし)に改名していますが
 私はなんとなく元服時の「尚順」で統一しています。
 それから、30代前半で早々に入道しますが
 入道後の法名は「卜山」(ぼくさん)です。)




尚順については、前回のおさらいブログ記事
 「畠山義就(その5)」の後半
 「夏休みの宿題(その2)」
で少々語っているので、そちらも見て頂きたいのですが
どうも現時点では
尚順のすごさは全力スルーされている… というか
単に "室町守護大名のよくいる一人" として
平凡に解釈されてるってだけなら、まあいいのですが
なんというか…
随分とマイナスな見方をされている…ような気が (´;ω;`)


というかもし本当に
自分の事しか考えてない器の小さい嫌な奴!
ってんなら分かるのですが
尚順はマジで、色んなもんを失いながら全身全霊で戦い抜いて
それなのに政変15年後
永正5年(1508)6月に念願の京都凱旋を果たし
将軍義材が元の幕府を取り戻して遂にこれから春!!
って時代に―――
 (※この時点でまだ34歳(満32歳)既に入道済み)
での地位も名誉も名声も
なんの見返りも求めずに去っていった 変人 聖人なんですよ?


(↑なのにこれは、はあったのに権力抗争に負けて
 幕府復帰後の地位確立に失敗した」
みたいな見方されてる
  ええぇぇぇーーー(´д`)ーーーーっっっ!!!!!!
 あれだけ義材に信頼されて公家にも歓迎されて家格も最高で
 こんないくらでも権力振るえる立場で
 普通に考えたら "自ら" 身を引いたのに、なぜそうなる??
 尚順は、凱旋以前のかなり前から
 隠居の意向を持っていた兆候があるのですが
 (というか、一回 "出家→還俗" 騒動起こしている。
  【久保尚文『越中中世史の研究:室町・戦国時代』
  (桂書房)1983】…の p.58)

 どうやら政変でを、戦で3人の弟を亡くした事が
 相当心に堪(こた)えていたらしい…
 それでも最後まで戦ったんやで (´;ω;`)
 こんな強い子そういない… というか
 どれだけ心が折れただろうと思うと、なんか遣り切れない。
 そもそも、この凱旋後の紀伊隠居については
 義材の為を思っての行動でもあったと思われる訳で
 つまり、どう見ても涙腺崩壊の映画化案件です! )



(※ちなみに、尚順の紀伊隠居(在国)の時期は
 凱旋からだいぶ経った永正十数年頃とする場合が多いですが
 『後法成寺関白記』を見るに、相当早い時期だったと思われます。
 それから隠居と言っても
 尚順は紀伊では領国経営してるし
 京都には幼い嫡男稙長(たねなが)(※当初は元服前)
 一族の能登畠山義元もいて幕府で活動していて
 尚順自身、京都とは連絡を取り続けていた事は史料から確認でき
 決して幕府や義材に背を向けた訳ではないのです。
 (能登国守護の能登畠山家はもちろん
  畠山宗家惣領尚順の指揮下にある昵懇の間柄です。
  …『上杉家文書』「越後へ条々手日記」第5条)


 畠山義元は、稙長(※幼名鶴寿丸)と一緒に
 義材に猿楽を献じていたりもするので
 (『大日本史料』永正8年11月14日)
 宗家鶴寿丸の後見的立場でもあったと思われ
 (能登畠山は、義就・義忠の頃からそんな立ち位置)
 おそらく尚順は、紀伊に帰る自分の代わりとして
 畠山義元を能登から京都に呼び寄せた
 …と見て間違いないと思われる訳ですが、ではなぜ
 そこまでして自分だけは京都を離れたがったのか…?
 まあ、詳しくはまた。)



(でもやっぱもう一言w
 尚順は、復帰後の幕府で細川高国に主導権争いで負けた…
 と大誤解されていますが、実際は
 尚順細川高国は "敵対" どころか "懇意" な関係で
 しかも細川高国の方が尚順には遠慮があって
 頭上がらないくらいの関係だったりするのです。
 でも尚順は優しいからえばったりなんてしません!w

 凱旋後、義材返り咲き時代の幕府での細川高国って
 非常に誤解されている…というか
 細川高国は傲慢でも権勢家でもなければ
 決して強い立場だった訳ではないのですが…。
 まあこれは
 クーデター政権としての宗家の行いの数々や
 クーデター政権崩壊直前に(なぜか)いきなり高国
 細川宗家の家督についた経緯を考えれば当然ですが
 普通に考えたら
 一族が赦免された事すら奇蹟… というこの状況で
 細川高国
 「凱旋後幕府での "細川宗家の立場"
 「細川宗家での "自分の立場"の安定のため
 毎日とっても神経すり減らして頑張っていた
 …という苦労人なのです。
 でも、義材も一番権力ある大内さん(←大内義興
 みんな優しかったから頑張れたのですw)

(※ちなみに祝☆幕府再スタート時のそれぞれの年齢は
 義材43歳(満41歳)、畠山尚順34歳(満32歳)
 大内義興32歳、細川高国25歳 …です。)




(さて、話を戻して…)

それから、尚順の実際の性格を探るなら
やはり現存文書の右に出るものは無い訳ですが
これがまた…
畠山家は家格がとても高いので
大抵の大名・被官層・国人たちとは圧倒的な差があるのに
書状の内容を見ると
とても謙虚丁寧相手への気遣いに溢れていたりして
なんか壮大にズコー!!となっちゃう人なんですよ。

(※越後守護代長尾為景(←上杉謙信の父ちゃん)への
 越中の軍事作戦についての書状が
 『上杉家文書』にたくさん残っています。
 自分が窮地にある時に
 「全然大丈夫だよ!へっちゃらだよ!」
 と元気に振舞って相手を安心させようとする所とか
 (軍勢の士気を落とさない為もあるけど)
 人につらい顔を見せようとしない性格だったんだろうな
 と思う。)

(※永正17年(1520)辺りのこれらの書状については
 『大日本古文書』『大日本史料』に全ての翻刻がありますが
 物語形式で読み易くまとめられたものに…
 【山田邦明『戦国のコミュニケーション ―情報と通信―』
 (吉川弘文館)2002】…の第一話
 があります。)





あと、何度も言っちゃうけど
大永元年(1521)10〜11月のあの一件について…
(※京都凱旋から13年後の話。
 義材たちが元の幕府を取り戻してからしばらくは
 少々(いやかなりw)のドタバタはあるも
 平穏に過ぎていった日々だったのですが、やがて…)

この頃、紀伊国ではなく和泉国堺にいた尚順
「嫡男畠山稙長と決裂して息子の軍に攻められた
 (稙長は京都(幕府)の命令でに背いた)」

とかいう誤解だけはない!! ないないない!!!

あれはどう見ても『春日社司祐維記』の "勘違い" であって
実際は、尚順の息子畠山稙長
畠山義英(※義就方畠山)とだけ戦っている
ってだけの話なんです。
(『大日本史料』大永元年10月23日)

(というのもこの頃
 京都(幕府)と和泉国堺の義材尚順の間でごく秘密裏に
 どうやら何か示し合わせがあったようなのですが…
 まあいいか。)



だいたいこの件は『春日社司祐維記』筆者自身が
「子が親を攻める??不思議…」と言ってるのです。

というかこの筆者(※春日社は大和国興福寺の傘下)は
大和国(←領主は興福寺の寺社領の件で
尚順に個人的に恨みを抱いていたようで
少々バイアスが掛かっている模様。

…でも政変後、京都凱旋前後の最終局面
クーデター政権の凄惨な攻撃でボロボロ大和国の為に
大和国人をまとめて壮絶な大和奪還戦を繰り広げたのは…
尚順なんやで (´・ω・`)
大和の闕所地くらい正当にちょっくら知行する権利ある
大恩人なんやで (´・ω・`)


(↑これについてもう一言いうと…
 (凱旋前に遡る話ですが)
 世の中の時勢を的確に読んでいた大和国興福寺尋尊
 (大和の為にも興福寺の為にも)
 畿内の為に戦う尚順闕所地知行(←闕所以外はノータッチ)
 を妥当なものと肯定していて(←尋尊は分かってる!)
 その一方で(戦えもせずにただ)旧態にこだわり
 (大和の味方たる)尚順を敵視する寺門の者達
 かなり難色を示しているのです。
 (『大乗院寺社雑事記』明応7年2月20日、明応8年5月7日)
 (この時代になると大和国人たちは
  興福寺の命令に従わなくなって来ていて
  畠山家惣領 "屋形" と仰ぐのを好んでいた。)

 だって
 大和に優しい尚順を敵に回したりなんてしたら…
 次に来るクーデター側の支配者は
 大和国焼き尽くしちゃうのよ (´・ω・`) ギャアアァァァーー!!!!! )





そして最後、尚順
長く暮らした紀伊国「広城」に戻れなかったのだって
あれは自分よりも義材の事を優先したからなのですよ。

この頃、義材(=義稙)は
永正18年=大永元年(1521)3月7日から
人生最後の京都出奔中wだったのですが
(京都凱旋から13年後の事。
 この出奔も実は、隠された真相があったようですが…
 まあ今はいいか)

一方、尚順
その前年の永正17年(1520)6〜8月頃
もともと問題行動を起こしがちだった
紀伊国人で幕府奉公衆の湯川一派
(おそらく教唆された)国人達による不意打ち謀反
「広城」を脱出して和泉国堺まで遠足
…というかわいそすな目に遭っていた、ってゆう (´;ω;`)


でもこれも
『上杉家文書』(永正17年)8月11日付けの
越後守護代長尾為景に宛てた尚順書状によれば
中意雑説によって…」
 (※中意は内心の企み、造意くらいの意味かと)

とあって、結構ひどすな謀略だったようで
不慮の出来事で無念至極とか言っちゃってる尚順
慣れ親しんだ「広城」ゆえに相当寝ぼけていたと思われる。
でも
和泉の堺無事に退却したから大丈夫!安心してね!」
「いま遊佐(尚順の重臣)が紀伊国人と話つけに行ってるとこ!」

と、あくまで(空)元気に振舞う尚順
さらに『上杉家文書』(永正17年)9月28日付けの
長尾為景への書状で…
京都と協力して、もうすぐ解決するから大丈夫
 心配しないでね!!」

と言っているのです、一応。


(この「広城」脱出騒動の原因については
 なんか尚順が全面的に悪くて
 長年紀伊国人たちの反感を買っていて遂に追い出された

 …みたいな捉え方されている気がしますが
 これは同年5月の幕府洛中大騒動(←細川宗家の家督問題)
 による畿内の動揺の隙を突いた便乗蜂起であって
 謀略によるかなり "唐突な" 事件、と捉えるべきかと。
 同年4月時点で
 「都鄙怱劇の半ば」「都鄙錯乱手前の様」「京都錯乱
 といった状況だったのです。(『上杉家文書』)
 (※都鄙はここでは、京都&畿内周辺の意味。) )



ただ、尚順はあまり積極的に戻る気がなかったようで…
これはおそらく
この半年ほど後に義材が京都を出奔する件で
事態が急展開し始めたせいなのではないかと
私は見ているのですが…

(この辺の事情はまた複雑…というか、一般には
 「義材細川高国と対立して京都を離れた
  高国を討ち再び入京する為に、尚順らと共に挙兵した」
 とされていますが、どうやら実際は
 相当に深い裏事情(泣ける話 (´;ω;`) )があったようで…
 ってまあ今はいいか)



と、そんな訳で
京都を飛び出した義材のもとに駆け付けたから
自分の城へ帰る事が二の次になってしまったのです。
そうやっていっつも
自分の不遇そっちのけで公方の為に戦ってる…
そんなお人好しだから誤解されるのでしょうけど。



まあ、「人間で動くもの」という前提で見ると
尚順の "隠居聖人志向" "三度の飯より公方志向" は理解されず
理解出来ない異質な者は
偏見を持って見られてしまうのは世の常なのかも知れませんが
しかも本人は、そんな事全然気にしてなさそうなのですがw
でもやっぱり尚順かわいそ過ぎる (´;ω;`)


(実は当時も…
 京都凱旋後に全く権勢を求めず紀伊に引き篭もる
 という如来の様な無欲さが常人には理解不能だったせいか
 「猜疑心が強い、いけ好かない性格で
  自分で人を遠ざけておいて
  陰でこそこそ人を疑っては難癖をつけたり
  財貨を溜め込んで一人で満足するのが趣味の嫌な奴

 …みたいな悪い噂をされていたっぽい形跡があるんですよ。
 なにそれもう!
 そんなちんけな奴
 あんなに長い間戦い続けられる訳ないじゃん!!
 ほんと、見事に父政長の不憫属性を受け継いでいる…
 (´;ω;`) …という
 ある意味不憫マニアにはたまらない情報である。)



ただし "聖人" っていっても
父の政長みたいな、なんか超越した生き仏系とはまた違い
領国経営では義就みたいに主導的なとこがあったり
すっごい筋が通っていて同盟を大事にし
それ故裏切りには厳しい
…というのもまた義就そっくりで好きな所ですが
(↑ちなみに "尚順が裏切った" とかいう永正4年12月の件は
 あれ大誤解です! 真相はまた後日)

おそらくやつは
15年の戦闘潜伏生活で相当野生化したと思われる訳で
とにかくあらゆる面で強いのに
やっぱり根が優しいからずっこけてしまうw
というそんな尚順のスペックを一言で言えばやはり…

 「政長義就を足して2で割るの忘れた」

これに尽きます!!





…と、尚順の話していたら
また色々と止まらなくなって来てしまったので
そろそろ自重します。

(どうも私の中では、室町創生期直義ポジション
 室町後半戦では政長尚順に重なるので
 すぐにムキになってしまう… ( ゚Д゚) ムッキームッキー )





それでは我に返って
今のところ誰それ状態な畠山尚順の知名度向上の為
私のこれまでの探究成果を
簡潔に如来名にしてみましたのでどうぞ↓


畠山尚順


畠山父子の無自覚如来シリーズ」です。
(※父政長については「夢想の結果」を御覧下さい。)

しばらく床屋行ってない政長…みたいな髪型で
野生如来感を表現してみました。

天下の期待注目を一身に集めながら
どうも本人にめっぽう自覚がない…
戦いが終われば一瞬で秘仏の如く引き篭もる…
という自己顕示欲に超絶乏しい「もったいない如来様」です。
(私のめっちゃむちゃむちゃストライク属性です。)





ここまで余談↑☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆こっから本気





さて、畠山尚順は管領畠山政長の嫡男として
『応仁の乱』終結の2年前
文明7年(1475)12月20日に京都で生まれ
19歳(満17歳)まで王子人生送ってた
…と言う話は以前しましたが
どんな王子だったかを教えてくれる、こんな記録が残っています。



前回少し触れたように
『応仁の乱』で西軍だった義視(よしみ)・義材父子
乱終結年の文明9年(1477)
美濃国守護代の持是院妙椿と共に京都を離れますが
 (※この時義材12歳(満11歳))
その後、長享3年=延徳元年(1489)3月26日の
9代目将軍足利義尚の他界(※義政嫡男、享年25歳を期に
次期将軍候補として約11年半振りに上洛します。

そして翌延徳2年(1490)の大御所義政の他界を経て
同年7月5日、義材は正式に征夷大将軍に就任(※この時25歳
しかし、またしても翌延徳3年(1491)
駆け出し将軍の息子義材を支え
 「毎事善政御儀云々」
(『大乗院寺社雑事記』延徳2年10月12日)

と称される政道を実現していた義視が病で他界…
という不幸が訪れてしまいますが
しかし、健気な義材
大抵の幕臣たちとは良好な関係を築き
(↑『蔭凉軒日録』に和やかな雰囲気が溢れています)
前将軍である亡き従兄弟義尚の遺志を継いで
室町幕府の明日の為に頑張るのです。
それなのに2年後にあんな政変… しどい (´;ω;`)


(※従来、義材が将軍となる経緯は
 義政・義尚父子義視・義材父子
 敵対関係にあるような捉え方をされていましたが
 (なんか、家督争いでいがみ合っている様な…)
 しかし、義政義視は本当は
 とても仲の良い兄弟だと自認していたのであり
 義材を後継者にする事は、義尚自身が望んでいた
 …というのが実際なのであって
 家督問題についてはお互いに "協力" していたのです。
 足利家として当たり前の肉親の情が存在していたのに
 少しの例外があるってだけで
 (それだって周囲に翻弄された不幸なのに)
 尊氏直義兄弟もそうだけど、足利さんちはなぜか
 史料の事実そっちのけで何でも悪い方に解釈されてる
 なにそれもう… (´・ω・`)
 そろそろ改心して… (´・ω・`) )




さて、おまけの尚順ネタというのは
この延徳3年(1491)正月7日に他界した大御所義視
葬儀でのエピソードなのですが
正月25日に「等持院」で執り行われたこの葬儀の様子は
『蔭凉軒日録』(※筆者は大部分が亀泉集証
に詳しく記されていて
当時をありのままに今に伝えてくれています。
(※以下、『蔭凉軒日録』延徳3年正月25日、26日より)


幕府禅林(禅宗寺院)の間の政務を取り次ぐ職である
蔭凉職亀泉集証(きせんしゅうしょう)
葬儀の間、進行役として終始将軍義材の側近くに仕えていて
その他義材の側には
御伴衆大館政重、大館尚氏、大館視綱、山名豊重、上野尚長
細川政賢、伊勢貞宗(←今回の御伴衆の首(かしら))
伊勢貞陸(※貞宗嫡男)、伊勢貞職
など
それから走衆が控えていて
そして義材の弟や、畠山尚順、京極材宗、武田元信の大名
近習、外様、奉公衆、頭人衆、奉行衆、同朋衆、公家衆
門跡衆、御比丘尼衆、義政御台と諸権門衆…
などなど
数知れない参列者の中
高僧たちの焼香、法語、諷経、念誦…
そして義視が荼毘に付され
葬儀は粛々と進められていきました。

義材はこの時、将軍となってまだ半年
頼りとする父義視を亡くしてさぞ心細かったろうに
亀泉集証に、天気に恵まれた事を語りかけられると
また「御一咲、御含胡」してにこっと微笑みてへっと頷く
かわいかわいそ過ぎる新米公方義材26歳 (´;ω;`)w (満24歳)


この日の葬儀は、厳重な(義材の)御成敗により
万事順調に進み、時節も良く、も晴れ渡り
これらはみな、誠に義材孝行の心に通じた為だと
皆が言っていたそうな。(なんて良い話…)



さて、そんな感じで無事に葬儀は終わりを迎え
義材の退出を見送った亀泉集証
再び「等持院」の方丈(本堂)に戻って来たところ
上記の参列者たち…畠山尚順、京極材宗、武田元信
頭人衆、諸奉行衆たちが皆、お辞儀をして迎えました。
亀泉集証も大役を終えてほっとした瞬間だった事でしょう。
本当にお疲れ様です。
それでは、最後に今日の感想をどうぞ。


 「就中尾張守殿太美麗也」
(なかんずく尾張守殿、はなはだ美麗なり)

「その中でもとりわけ、畠山尚順殿非常に美しかった



……。
って、ズコー!!
なんちゅう感想で義視の葬儀を締めてんだよ!!
いやでも待てよ
逆に考えると、それ程に重要な事だったんですよ
尚順の美しさはw
(※ちなみに亀泉集証
 政務に忠実で、控え目で誠意あるまともな人物です。)


てゆうか、葬儀の席なんて
みんな白の浄衣(じょうえ)か
入道してたら薄墨の直綴(じきとつ)で
一様に地味ぃ〜な服装であって全く着飾っていないんですよ?
つまり "顔だけ" しか違わない状況で
しかも表情だってしんみりしていただろうに
強調語を2つも使っちゃうほどに
一人突出して美しさが印象に残るって… どんだけなんだよww
しかもこんな全然関係ない事、記録に残すなよw
(↑史上稀に見るグッジョブです m(_ _)m )


私これ『後鑑』(のちかがみ)読んでて初めて知ったんですけど
目ん玉 (  Д ) ゚ ゚ ポーーーーーン しましたよ。
いや〜びっくりした。

(※『後鑑』…江戸時代編纂の歴史書。『大日本史料』と同様の形式。)


という訳で以前
ブログ「室町絵師ランキング(第4位)」
幻の「史実イケメン」の予告をしましたが
正解は、明応世代畠山尚順だった
という訳でした!





そんな☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆オチかよ!!





まあ、一次史料で容貌(※漠然と容姿ではなく明確に
を褒められている人物といえば
8代目義政や、13代目義晴についても…

義政9歳(満7歳)
 「御容顔豊満美麗吉相悉く備える」
 (『建内記』嘉吉3年7月23日)

義晴11歳(満10歳)
 「御容顔美麗也」
 (『二水記』永正18年7月6日)

…という記録があるのですが
ただ、幼少の将軍の子息ならそりゃかわいいだろうし
これらは初めて対面した時の感想ですから
日記に特別記されているのも、自然な事と言えます。
それから
9代目ボンボン義尚もよく賞賛(絶賛?w)されていて
まあ美しかっただろう事は確かですが
なんと言うか
足利さんは基本的に、代々美的水準が高かったようなので
将軍カテゴリはやっぱハンデが必要よね
…という独断ルールにより
一次史料といえども
私の史実イケメン認定の枠外とさせて頂きました。

だいたい
尊氏直義からして間違いなくかっこ良かったと思うから
もう錯乱気味に二人が好きな私のスカウターでは測定不可能です!
まあ、義持はなんかもちもちしてるけど。
でも、もちもちの弟の6代目義教(※義政の父)からは
妙に整った端正な顔つきになるよね。
それはつまり…
義教めっちゃイケメン疑惑…!? (; ・`д・´) なぬ!!!??



…まあいいか。
それから、儀礼や儀式、遊興の席での着飾った美しさ
盛大に御供を連れた行粧を称美した記録なんかも
よく目にしますが
そういう美しさを競う場での容姿の言及は普通の事であって
お世辞も入る上に、顔ではなく全体の雰囲気だし
また、『蔭凉軒日録』の大部分の筆者で禅僧の亀泉集証
美作国の赤松被官後藤家の出身なので
主家の当主赤松政則については
行粧などを事ある毎に褒めていて微笑ましいのですが
将軍でも身内でもない、つまり褒める義理のない畠山尚順が…
しかも、およそ人生で最も地味な葬儀の参列時に…
となると、これはもう特筆せずにはいられない訳です。


ちなみに、延徳3年(1491)正月というと
尚順は前月に満15歳になったばかりです。(数え17歳
そして、当時の僧侶の美意識…つまり
寺院の稚児喝食 "美しい" の基準(←相当ハードル高い
というか中世日本の最高峰

いわゆる超絶美少年ですから―――
後は想像にお任せします、はい。


(※喝食(かっしき、かつじき)とは
 禅院における有髪の10代後半以下くらいの童僧の事で
 『蔭凉軒日録』(←基本はごく真面目な政務の記録)には
 例えば月江美丈(月江寿桂)や月嶺美丈(月嶺瑞光)などの
 特別注目を集めていた喝食が
 もうとことん美辞を尽くして賞賛されていたりして
 (ってか、美丈ってw)
 当時の人々の美しさへの感心の高さが窺えますが
 (※参照…【蔭木英雄『蔭凉軒日録 室町禅林とその周辺』
  (そしえて)1987】…の「三 禅林の法階」)

 その『蔭凉軒日録』で脈絡もなく褒められてるって事は
 尚順はそんな(美しさが仕事みたいな)美丈たちと
 同系列だったって事だろうか… マジでか… とか思う。)



これほど厳しい「史実イケメン認定基準」をクリアした中世の武将って
他に思い当たらないと思うのですが…?(ど、どうよ?)

(ただ、『蔭凉軒日録』全部読んだ訳では全くないので
 もしもっとすごいのがいたらごめんw
 で、でもたぶん大丈夫…たぶん… )



しかも、美しさで主君に見出された…みたいなケースではなく
もともと超名門畠山宗家の嫡男で
人生の3分の1を戦に捧げた本物の武士
戦い方もなんかとんでもなく
(↑勝つ時も豪快だけど、実は負ける時も豪快w)
んでもって「神慮」とか「天運」とか言われる異次元ヒーローで
その上でたまたまかっこ良かっただけ、顔はおまけ
…って何だその安易なキャラ設定は! 誰がOK出した!!
とかいう嘘みたいな史実キャラですよ?
これはもう国宝認定が必要なレベルです!


なのに見た人が誰もいない級の圧倒的秘仏
室町はもっと畠山尚順で広報していくべきだと思います!!
早急に御開帳を!!






――――※ちょっともう一言―――――

ところで
みんなが公然好意的将軍の美しさを褒めるのと違い
尚順の場合はわりと
陰で噂されるタイプだったのではないかな…
と私は見ているのですが。

なんというか、畠山家の御曹司で
リップサービス無しにこれだけかっこいいとなると
たぶん賞賛より嫉妬の方が勝(まさ)ってしまうのではないかと。
人の良い亀泉集証は素直に日記に書いていたけど
普通はムカついて絶対認めたくないと思うw

『明応の政変』はもしかしたら
この辺の複雑な嫉妬
(色々な意味で)少しあったような気がするのですが…
まあ、あくまで不確定要素なので
ちょっと考えてみるのも有りかも、くらいの話ですが。

(上記の "悪い噂" なんかも、その一環のような…
 イケメンは性格悪いに違いない!…みたいな無慈悲な先入観w)

尚順も、父の政長
その才覚地位を鼻にかけたりなんてしない
気立ての良い性格だったのに
本人は望まなくとも、やっぱり目立ってしまったんだろうなと。

天に与えられたものが多かったから
試練も人一倍だったのかも知れない…

―――――――――――――おわり―――――





それでは、史実イケメン発表記念!!と致しまして
史実妄想推進運動の一環として
畠山尚順画像の一次史料バージョンを作ってみましたので
こちらもどうぞ↓


畠山尚順


なんという史実ずくめ!!


さて出典は―――

「就中尾張守殿美麗也」
…は『蔭凉軒日録』延徳3年正月25日より。

それから

「抑河内畠山少弼没落云々、尾張守入国云々、希代之天運也」
(河内国では、畠山基家が没落して尚順が入国したそうだ
 希代の天運である。)

…は、三条西実隆の日記『実隆公記』明応6年10月8日

大敵不移時日責落條非直事、併為神慮者乎」
大敵(=畠山基家方)を(尚順が)日を移さず責め落とすとは
 尋常ならざる事だ… 神慮か。)

…は、近衛政家の日記『後法興院記』明応6年10月10日


この2つの記述についてですが
これは明応2年(1493)閏4月以降
それまで紀伊国に逼塞(ひっそく)していた畠山尚順
和泉国で動きを見せつつ3年の雌伏を経て遂に始動するのですが
その翌年の明応6年(1497)10月
クーデター政権側であり、畠山家の守護国の一つ河内国を治める
(義就方畠山の)畠山基家の勢力を
まさに神懸ったかの如く一瞬で制圧し
一時、河内・大和・和泉・紀伊の畿内広域を
突如として掌握した時のものです。


この尚順の快進撃を全面的に賞賛した記述が
"京都の" 公家によるものである」という事実は
『明応の政変』の実態を明らかにしてくれる
非常に重要な証言です。


というのも、普通に考えたら
京都を治めるクーデター政権の、"敵" である尚順
畿内広域を制した」なんて聞いたら
京都に在住する者なら
「つつつ、次は京都に攻め込んでくる!!」
恐怖で怯えるはずなのですが…
(こういう危機は、室町時代を通して度々あった訳ですが
 公家の日記にはその都度
 恐怖とか避難の準備といった記述があるw)


しかし、この時の近衛政家三条西実隆
これまでの公家の反応とは全く逆の
まさに "異例" としか言い様のない感想を記している
これはつまり、彼らが―――

 「尚順は敵ではなく、天下にとっての味方である」

という真実を "知っていた"、という事を意味するのです。



(↑ここ、とても重要です。
 当時のクーデター政権下の京都に在住する者達には
 天下の真相を "知っている者" と "知らない者" がいたのです。
 「誰が知っている側か?」これが最大のポイントです。

 一方、知らない者達の中には
 事なかれ主義で自ら真実に耳をふさいだ者もいたようですが
 情報統制されて事実を知らない者達もいて
 義材陣営は "天下を乱すの凶徒"」
 と信じていた(信じさせられていた)訳ですが
 その筆頭が…
 クーデターで新将軍に立てられた12代目義澄(よしずみ)
 一般にクーデターの勝者とされている義澄ですが
 実は、最大の被害者だったのです (´;ω;`)
 (※義澄は義材の14歳年下の従兄弟、足利政知の次男です。
  政変当時は「天龍寺」の喝食で14歳(満12歳)でした。)


 だから義材は、終始義澄とは和睦の道を模索していたのですが
 しかし、義澄の方は最後まで洗脳が解けず
 義材は自分を心底怨み、命を狙っている」と信じて怯え
 頑なに和睦を拒み武力で対抗し続けた、という
 あまりにも残酷な話なのです。
 義澄だけはもう本当に本当に可哀相…
 良い将軍になろうと頑張っていたという史料もあるから猶更。
 ほんとこの政変、鬱… (´;ω;`)
 (だから何が何でも
  全部明らかにしてやらないと気が済まない!!!)

 まあ、詳しい話や根拠の史料はまた後日。)




さて、さらにその翌月の11月には
尚順は隣の大和国に入国するのですが
大和国興福寺尋尊はこの尚順の入国
尚順の敵方(=クーデター政権側)の大和国人が没落した事と共に
「神慮珍重」と記し、明らかな賛意を表しています。
(『大乗院寺社雑事記』明応6年11月23日)
(※珍重(ちんちょう)…めでたい事、祝うべき事。)


大和国の主、興福寺の大乗院門跡尋尊(じんそん)
自国への尚順の入国を恐れるどころか歓迎するって…
お前はどんだけヒーローなんだよww
と突っ込まずにいられませんが
『大乗院寺社雑事記』の大部分の筆者尋尊(※一条兼良の子)
『応仁の乱』の頃も貴重な情報を沢山提供してくれた
室町切っての情強ですので
『明応の政変』でももちろん、"知っている側" な訳です。

(ただし、近衛政家三条西実隆とは情報源が別で
 独自の超絶情報網と持ち前の公平公正な判断力高い道徳観
 天下の真相を的確に見抜いていた、といった感じです。)




政変後4年目にして早くも
その伝説のような名将振りを天下に示した尚順ですが
ただし…
この後の畿内の状況は何度も反転
尚順が最後の勝利を手にするまでには
まだこれから11年近い気の遠くなるような年月を
勝利敗北を繰り返し、傷つき立ち上がり
それでも闇の先にを求めて
生きていかなければならなかったのです。





Stand for ☆.*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ Sunrise !!!!!





という訳で
2回に分けてお送りした「本サイト開設二周年記念」の特別企画
11代目将軍義材畠山尚順の奉納絵と
久々『明応の政変』談義、ついでに(と言いつつ本題の)
幻の「史実イケメン」の発表でした!



ちなみに、尚順義材の9歳年下で
義材が将軍となった当時から、よく可愛がられていました。
(※この頃義材20代後半、尚順10代後半。)
二人はもちろん、将軍大名と言う主従の関係ですが
しかし実質は、深い信頼で結ばれた "友達" といった感じです。
それなのに、運命に翻弄されて何度も引き離されてゆく…
という悲しい友情です。
しかし過酷な運命にすら
最後まで二人の心を引き裂く事は出来なかった
という温かい友情でもあります。


始まりの、まだ未来を何も知らずに過ごした
無邪気な2〜3年が突然に途切れて
『明応の政変』で生き別れてから
義材の為に戦い続けて15年
京都凱旋で念願の再会を果たすものの
その後の平穏な京都時代は、尚順が紀伊に身を引いた為
途中、ほんの一時尚順が在京した事があっただけで時は流れ
しかし、何の因果か京都凱旋から13年後
再び二人は再会
最後の一年を共に過ごす事になります。
そして
紀伊に帰る日を迎えぬまま、大永2年(1522)に尚順
さらに翌年、京都に戻る事なく義材が跡を追うように世を去り
ここに
描かれたシナリオのような一生を生きた二人の友情
深い眠りにつくのでした。


その一蓮托生の人生からは意外なほどに
一緒に過ごした時間の少なかった二人ですが
政変後の15年も、凱旋後の13年
義材はずっと尚順を心配していたようで
それを示す言動や御内書がいくつも残されています。
もしかしたら
遠く離れているほどに強さを増した友情が
二人の物語の最後に
"再会" と言う答えを与えたのかも知れない…

そういう視点で見るとまた、『明応の政変』
もう一つの感動の顔を見せてくれる
深い歴史の物語… だったりもするのです。





☆☆最後にまとめ☆☆

今回は冒頭でいきなり
京都凱旋の13年後の話までしてしまい
かなり時系列的に分かり難かったかと思いますが
義材尚順一蓮托生物語…として見ると
概要が掴み易いかと思われます。


義材1st将軍時代 3年弱
 ↓
『明応の政変』義材放浪 15年
 ↓
「京都凱旋」義材2nd将軍時代 13年
 ↓
「再会」そしてエピローグ…



非常に読みにくい長文で申し訳ないのですが
以上を踏まえて情報を整理して頂けますと
理解が捗るかと思います m(_ _)m


それから、久々に原点公方義材の話題に花が咲いたので
本サイトのTOPページを春に衣替えしてみました。
天下に春呼ぶ花咲か公方義材
そんな公方の為に戦い続けたとある尚順の物語が
もう一度咲き誇る日が来るよう、願いを込めて。



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posted by 本サイト管理人 at 20:18| Comment(0) | ★チラ裏日記
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