2016年07月07日

君の願いは…

(チラ裏シリーズ)

こんばんは、『チラ裏観応日記』です。
今日は七夕なので、なんか願いが叶いそうなこの妙な雰囲気に便乗して
今年も天の川でお星様きらきらな七夕絵を描いてみました。

去年は尊氏さん一人で寂しげだったので(こちらです→「七夕」
今年は直義と一緒にして差し上げました。
喜んで頂けるでしょうか? 恩賞にお団子下さい。



尊氏直義

(※クリックすると拡大します。1200×900px)


直義が何書いたのか気になって気になってチラ見するブラコン将軍尊氏です。


本人は何をお願いするつもりなんでしょうね…
直義と一緒に空が飛べますようにとか書こうとしたけど
でも直義にバレたら恥ずかしい///やだどうしよういやんっっ☆☆と内部では激しくパニクりながらもあくまで表面はしれっと涼しい顔して平静を装うクールな将軍ポーカーフェイス尊氏、みたいな。


直義の方は、早々に書き終えて目を輝かせている所です。
直義はいつでも大きな希望祈りを抱いてきらきらしている感じです。
大抵の大人なら、どうせそんな願い… と祈る前に諦めてしまうような
遥か夢の向こうの願いだって…
腐敗の無い、平穏幸せ秩序ある天下の為の天下のような世界を
本気で目指してしまえる透き通った心の持ち主なのであります。
(その一方で、現状の人々の苦しみを思って毎夜胸を痛めている
 とかいう所がもう… (きよ)過ぎてやばいww )



そんな直義の願いと言えば…
これは鎌倉「浄光明寺」慈恩院
直義が「天下泰平」「仏法紹隆」「寺院安全」を願って
仏舎利一粒を安置した時の自筆の書状ですが…


足利直義自筆書状「浄光明寺」

(※足利直義筆蹟
 【高柳光寿『改稿 足利尊氏』(春秋社)1966】…の巻頭より引用)



"天下の為の祈り" といったら
全国六十六州と二島に設置した「安国寺利生塔」(の利生塔への仏舎利奉納だけでも
もう68回繰り返しているはずなのに
こうやって事あるごとに天下の幸せを願い続けていた本気で純粋な人なのです
直義というのは。


ちなみに、紹隆(しょうりゅう)とは
「先人の事業を受け継いで、さらにこれを盛んにさせる事」で
"仏法紹隆" とは
釈迦誕生以来の長い歴史の中で、檀越として仏法を保護し(主に国王や権力者)
あるいは修行者となってを伝え広めて来た先人達の跡を追い
さらに一層の隆盛を願う意味の言葉で
それによる一切衆生の済度(救済)を切望する心が込められています。
具体的には
国家の安泰繁栄、人々の精神知性の向上、衆心の平穏といったところでしょうか。

"仏法"(仏の教え)とは
今で言えば倫理道徳、人の踏み行うべき正しい道、心を満たす生き方・考え方
そして学問智慧といった広い意味に捉えると分かり易いと思います。
精神思考心のあり方といった
人間のすべての知的活動に根本的な指標を与えてくれるものです。

(さらにはこの世の仕組みも説いているけれど
 これはまあ実証されるのにまだ何千年とかかりそうな事なので
 今はまだ誰も真実を知らない… )




という訳で、な、なんという生き仏な願い事… な話ですが
「天下泰平」「仏法紹隆」というのは、まあ普通に普遍的な祈りではあるものの
しかし、直義がこのフレーズを用いたのは単に定番だから…というのではなく
一応元ネタらしき出どころがありまして
直義夢窓国師に「仏法とは、とは?」を問うた問答集『夢中問答集』の第9問の
夢窓国師の答えにこの言葉が登場します。

(※非常に長い答えなので該当部分だけの紹介です。
 メインは後半で、これはだいたい原文に即した訳文ですが
 前半は一部分の要点だけかいつまんだ要約となっています。
 元の原文現代語訳について詳しくは…
 【夢窓国師(川瀬一馬訳)『夢中問答集』(講談社学術文庫)2000】)




 仏菩薩やその化身である諸神一切衆生を憐れむのは
 衆生を救い、等しく利益(りやく)を与える為であるから
 その憐れみに親疎偏頗(へんぱ。不公平や贔屓)は無い。
 もし仏菩薩敵の調伏をする場合も、それは仏法に害を為す者を除き
 あるいは邪心を断ち切って正しい法の道に導く為であって
 ひとえに仏法を流布し衆生を利せんが為である。
 だから祈る人間の方も、(利己的な理由で)敵を怨んでその滅亡を望み
 自分だけは世俗の名利栄華を求める、という様な身勝手な心であったなら
 現世でも来世でも悪い報いを受けるだけで、願いなど叶うはずもない。
(=仏菩薩の慈悲一切衆生の為に分け隔てなくあるのだから
 同じ心で祈るならば、きっと利益が得られるでしょう。)
 
(…というそんな仏法であるから)(…中略…)

 たとえ乱世であっても
 仏法さえ世に広く行われているならば、嘆く事は何も無い。
 それ故、禅・教・律と立場(宗派)は違っても
 仏弟子となった者は皆、同じく天下太平・仏法紹隆と祈る事が大切である。
 そうしたならば、この世のどこかにいる相応しい誰か
 天下に仏法を紹隆するという前世からの約束を負って生まれ
 時勢その力をも備えた人が、その祈りを聞き届けてくれるだろう。


(※親疎偏頗…関係が親しいか疎遠かによって、不公平な贔屓(ひいき)をする事。)




…という訳ですが
直義は他にも、夢窓国師の言葉のままに行動したと思われる事例がいくつも見られる事から
上の「浄光明寺」仏舎利安置状「天下泰平、仏法紹隆」の文言も
この『夢中問答集』の国師の説法からのもので
上記のような意義が込められていたと見て間違いない、と思われます。


直義って、本当に素直に夢窓国師の教えに従っていて
それは国師が極めて優れた指導者だったというのもあるけれど
やはり、心から夢窓国師を信頼し慕っていたんだなぁ… というのが
もうひしひしと伝わって来て
そういう意味でも『夢中問答集』は面白い訳ですがw しかし
『夢中問答集』が、直義の行動の "元ネタ探し" として楽しめるなら
逆に、直義の行動の "推測" に役立つ可能性がある… とも言える訳で
「こういう時、直義ならこうするこう考える)だろう」
といった考察の論拠を与えてくれるかも知れないので
そういう視線で読んでみる価値は、大いにあるかと思います。
(これらはもちろん、尊氏の場合にも当てはまる事ですが。)





ところで、上の問答の後半部分の意味というのは…

世の人々が仏法を尊び「天下太平・仏法紹隆」と祈ったならば
相応しい力地位のある者が仏法の守護者となり、それを実現してくれるだろう

…という事を言っているのですが
つまり、天下の政道を担っていた直義は実は
人々の願いを聞き届ける "仏法の守護者側" である訳です。


もちろん、夢窓国師もそのつもりで言ったのだろうし
直義自身も分かっていたはずで、実際、直義(と尊氏)は
天下に仏法を紹隆する為、国家事業として様々な政策を実行していますが
「天龍寺」の建立、全国「安国寺・利生塔」の設置、五山十刹の制定
 各種追善・供養の法要、『夢中問答集』の刊行などなどなど…)

それなのに、この「浄光明寺」の書状が示すように
一方で直義は、どこまでも一人の仏弟子として "祈る側" でもあり続けた訳です。


なんて謙虚な人なの (´;ω;`)www
…ともう感動を通り越して笑ってしまうレベルですが(君、祈り聞く側でしょ…)
「どんなに権力を持った王であっても
 自らもまたいち仏弟子として仏の道を求めてゆくべき」

というのはまあ、夢窓国師の教えの基本でもあって
これまた直義はきっちり教えを守っている…
という子供のように素直な話でもあるのですが
それにしても、実質天下の最高位という地位に立ちながら
決して傲慢や慢心に飲み込まれる事なく、これほど純粋な心でい続けられる人って…

やっぱり直義は尊氏とは別の意味で理解不能な極東の奇蹟…というかもう宇宙の奇蹟!!
直義宇宙規模でも人気出ておかしくない逸材!! とか言ってみる。


直義ファンクラブに入会しようと地道に修行を続ける直義、というのも
あながち妄想ではない…  ってまあいいか。




宇宙で直義☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆来るでこれ




さて、この「浄光明寺」直義自筆書状については
もう一つ指摘すべき点がありまして
この書状の日付が観応2年(1351)4月8日だという事です。


観応2年(1351)4月といえば
貞和5年(1349)閏6月に始まった『観応の擾乱』の序盤のクライマックスで
直義勢尊氏勢に大勝した2月の大合戦から程無い頃
一時期の内訌を乗り越えて、再び直義のもとで幕府が再スタート… といった時期ですが
(ただ、残念ながらこの平穏は5か月程で終わってしまいます)
この時期になぜ、直義が鎌倉「浄光明寺」
このような祈りを捧げたのかと言うと―――



ところで、これまで繰り返し予告していますように
『観応の擾乱』は従来思われていたような「政治方針の違いによる政争」ではなく
極端な話、全くと言っていい程違った顔の事件であります。

例えば…
高師直(こうのもろなお)が "尊氏派として行動していた" というのも実は違うし
直義と足利家の執事高師直が(擾乱以前から)長らく "政敵" だったというのも
直義の地位の実態を考えると、常識的に考えて有り得ない対立構造です。

執事直義では本来比べ物にならない… というかそもそも直義主君です。
 「部下主君の意に沿わない」という事はしばしば有ったでしょうが
 「"対等な敵" として派閥を作って対立する」なんて事は
 直義の地位を知っている幕府内部の人間からしたら
 「え、何それ???」となるでしょう
 外部の人間で、実態をよく知らなければ誤解したかも知れませんが。
 (幕府の風評被害を望んだ南朝重鎮北畠○房とか… おっと
  あの時は南朝方の結城親朝(←尊氏に勧誘され中)の気を引く為に
  なり振り構っていられなか… というか
  当時既に尊氏ヘッドハンティング完了済み
  あの情報操作は失敗に終わっているのですが。
  この話、詳しくはまた後日。)

 なお、(擾乱前の)当時の幕府は直義のもとに一つだったのであって
 尊氏のもとに(幻の幕府が)もう一つ有った、とかいう訳ではありません。)

では、地位的に高師直 "敵" となり得る者(たち)といえば…
もう少し言うと、この者達が敵意を向けられたのは
彼らこそ本当の意味での(いわば)"尊氏派" だったから―――
…おっと、今はここまで。



と、そんな訳で
従来の『観応の擾乱』観は、各人の立場思惑敵味方構造根本原因などなど…
諸々の齟齬が積み重なって大きな誤解を含む事になってしまった訳ですが
(やはり一番影響が大きいのは
 "高師直の思惑" に対する誤解かな〜と個人的には思います。
 それから(従来、共謀関係と思われていた)尊氏高師直目的・認識
 実は か な り 違います。 あの時、尊氏は何を考えていたのか?
 ここめちゃめちゃ重要ポイントです)

従って…
この観応2年(1351)4月8日を含む半年弱の幕府再興期についても
やはり多くの謎を残した状態で、特に…
「なぜ半年も経たずに擾乱が再燃したのか?(しかも一層残酷な戦禍を伴って)」
という疑問については未だ究明されていません。

(↑これは今の所「直義の失策」とか「尊氏と直義の不和」とか
 あるいは「(さしたる理由の無い)単なる幕府内の派閥争いの再発
 などの解釈が試みられていますが、実際は
 明確な故意によって引き起こされた内乱罪に該当する(全国規模の)事件
 です。 詳しくは後日。
 直義尊氏が悪いのではなくて良かったものの
 (それと直義方の武士たちも悪くないです)
 事実はかなりショッキングなものなので心の準備を… orz )



…という現状の為、今ここで全体像を解説するのは困難なので
とりあえず今日の所は、この時期の直義の様子についてだけ採り上げてみますと
一般には
擾乱を引き起こした高師直一派が誅伐された事で
(それまで一旦政務の座から退いていた)直義
政道再興意欲を持って取り組んでいた」
…という見方が主流かと思います。

(これは私も同意見です。
 ただし、直義はいつでも "天下の為の政道" を志していたのであって
 「(敵対勢力を排し)自派の者で幕府を固めた」との政局的な見方
 擾乱の実態に対する誤解があります。
 直義が廉直政道に私曲を交えなかったと伝える『難太平記』『梅松論』の記述や
 親疎偏頗を誡める夢窓国師の教えを、直義が忠実に守っていた事実にも反します。)


しかしこれとは全く逆に
2月の大合戦の直後に数え5歳(満4歳弱)の実の息子如意王を亡くした為に
「この時期の直義は全く無気力で政務にやる気を見せなかった」
という意見もかなり前からあるようですが…
うーん、やはりそれはちょっと(史料的には)無理があるかと。


この時期は追加法も出されているし
引付方のメンバーも戦功のあった者に入れ替えがあったり
("ある理由" で突然破談するまでは)南朝との和睦交渉も順調だったし
そもそも直義合戦の勝者
帰京後は尊氏を自邸に招いて懇切丁寧にもてなしてむっちゃご機嫌だったりと
むしろ極めて元気やる気に満ちているのです。
如意王に起きた事を考えると、不思議なくらいに… )

そしてさらに―――
実は上掲の「浄光明寺」仏舎利安置の書状
この事実を裏付ける証拠となってくれるのです。



なぜ直義がこの時期にこれを…という疑問は
この書状と "同日" に出されたもう一つの書状が答えを示してくれるのですが
直義はこの日、京都「臨川寺」(りんせんじ)の塔頭「三会院」(さんねいん)
亡き息子如意王の追善の為に、但馬国太田庄秦守の地を寄進しているのです。


 奉寄 臨川寺三会院
  但馬国太田庄内秦守事
 右為亡息如意王追善料所、々寄附之状如件

   観応二年卯月八日  慧源


(※出典…『大日本史料』観応2年4月8日『臨川寺重書案文』)


つまり、鎌倉「浄光明寺」慈恩院 "天下への祈り" を込めて仏舎利を安置したのは
実は、ひと月半ほど前に亡くなった如意王への "追善の一環" だったという事です。

(※直義の実の子如意王については…「正月奉納連画2016 第三弾」




臨済宗の寺院である京都「臨川寺」の塔頭「三会院」
夢窓国師が草創し、そして "終の住処"(ついのすみか)となった場所なのですが
建武政権が始まってすぐの元弘3年(1333)6月
後醍醐天皇(…の命を受けた尊氏の使者)によって
鎌倉から京都に招かれた夢窓疎石(この時59歳)は8月に「臨川寺」に住し
建武元年(1334)(or 2年?)10月には同寺の開山とされて
寺の北に「三会院」を草創します。
その後は、建武政権から北朝幕府への時代の変遷の中で
南禅寺天龍寺の住持を歴任し、尊氏直義光厳上皇の政道を支え
文字通り「国の師」として、激動に崩れかけた天下の再構築の為に残りの生涯を捧げ
そして如意王他界の7か月後となる観応2年(1351)9月30日
(直義による如意王追善の料所寄進からは5か月半ほど後)
数え切れない僧俗(僧侶と俗人)に見守られる中
ここ「三会院」にて示寂し、同所に埋葬されす。
以後、この「三会院」
夢窓国師の「滅後入定之御在所」(観応3年6月27日尊氏書状(案文))として
後世に至るまで、歴代足利将軍をはじめ人々の厚い崇敬を受けてゆく事になります。

(※現在の京都「臨川寺」本堂は、かつて「三会院」だった所だそうです。)




…という訳で
「臨川寺」三会院に(何かにつけて心を込める)あの直義
亡き息子如意王の追善の料所を寄進したというのはつまり…
まさに直義にとって
夢窓国師父の如き存在だったという事の証な訳ですよ!! (´;ω;`)ナニソレモウ!!!!!!


もうこれだけでも涙腺崩壊して仕方ないエピソードですが (´;ω;`)ゴオォォォーーーーー!!!!!
一方で鎌倉「浄光明寺」の書状の方は
如意王の事には全く触れずに「天下泰平、仏法紹隆」 "天下の為の祈り" に徹している…
一見、ちょっと(常人には)ちぐはぐな印象を感じずにはいられませんが
これはつまり―――
私的な悲しみの中にいてさえも、自分だけの救いを求めるのではなく
広く "天下の幸せ" を求める事で "自身の救い" とする

…という直義の特徴が良く表れた事例、と言えるでしょう。


直義にはこのような傾向がよく見られます。
 「個人的な願いを、天下への祈りに昇華してしまう」
 という、この "天性の菩薩気質" については
 以前「直義の年齢(その2)」の初め方でも言及しましたが
 これが「他の事例」の一つだったりします。
 上記の『夢中問答集』第9問の国師の答えそのままに
 直義は何事も無私の心天下万民の利益(りやく)を祈っているのです
 いつだって。)


晩年に授かった幼い一子を失って
本当は泣き崩れたいくらいの悲痛な胸の内だったろうに
自分の涙は押しとどめて、天下の未来のため歩き続ける道を選んだのです。
無気力どころか、こんなに強くて健気な人いるだろうか… というエピソードかと。

上で「(この時期の直義は)如意王の不幸の事を考えると不思議なほど元気…」
と言いましたが
それは、その悲しみが大きかったからこそ気丈に振舞っていたから、という訳です。
直義、なんて我慢強い子なの… (´;ω;`)




まだまだ続く☆*:.。.:*・゚(´;ω;`)゚・*:.。.:*☆直義の祈り




ところで、この「臨川寺」三会院への料所寄進や「浄光明寺」慈恩院への仏舎利安置は
如意王四十九日(=4月15日)に臨んでの追善だったと考えられますが
しかし、4月8日では少々気が早いような…?
と思われるかも知れません。
しかし、これにももちろん理由があって
陰暦4月8日というのは他でもない、お釈迦様の誕生日なのです。

この日はどこの寺院でも釈迦牟尼の降誕を祝って
古くは「潅仏会」(かんぶつえ)(※現在では「花まつり」とも)
と呼ばれる法会が行われる、仏教においては極めて大切な日であり
それ故、ちょっと早いけど直義はあえてこの日を選んで祈りを捧げたのです。
きっと、仏菩薩の慈悲一切衆生に遍(あまね)く行き渡るようにとの願いを
如意王の追善に重ねて祈っていたのでしょう。



直義というのは、日付とか由緒とかそいういう小さな関連
とても大切にして、いつもきちんと心を込める傾向があります。
何というか、絶対記念日忘れないタイプ…というか
花を贈る時は花言葉まできっちり考えるタイプw
一つ一つの行動がとても誠実繊細
本当に根っから優しい人なんだな〜と、何度でも感心してしまいます。


良い話だなぁ〜〜 (´;ω;`)
(というか、こんなに可愛くていいんだろうか直義45歳
…と、ここで終わっても十分にハートフルな心温まる話なのですが
しかし―――
この4月8日という日に書状を認(したた)めた直義の心にあったのは
釈迦の降誕への善縁を…」という普遍的な祈りだけではなく
"とある7年前の記憶" が甦っていただろうと思われるのです。


康永3年(1344)4月8日
実は直義は、この年の釈迦牟尼降誕の日にも
今回と似たような事をしていたのです。


足利直義自筆書状「浄光明寺」

(※足利直義仏舎利寄進状
 【鎌倉市史編纂委員会編『鎌倉市史 史料編 第1』(吉川弘文館)1972
  (初版1958)】…の巻頭より引用)


これは、直義が鎌倉「浄光明寺」玉泉院
仏舎利一粒を「常住の本尊」として奉納した時の自筆の書状で
三宝(仏、法、僧)が再び隆盛して、正しい仏法が末世を覆し
 絶える事ないその恩恵で
 郡萌菩提の道(悟りの境地)に導かれる事(=一切衆生の済度)を願って…」
との奉納の旨趣が述べられています。




つまり、如意王追善の為の書状を四十九日には少し早い4月8日付けとしたのは
7年前の康永3年(1344)の仏舎利奉納に合わせる為でもあって
観応2年(1351)の直義は間違いなく
"あの時の心" を思い出していただろうと考えられるのです。
…というより
7年前と同じ事をする為に、如意王追善を4月8日に合わせて
鎌倉「浄光明寺」(今度は慈恩院)に仏舎利を奉納したのであって
それは "あの時と同じ心" を誓う為だったのではないかと。



私は以前から時々「康永三年の謎」というキーワードを使っていますが
幕府創設から8年目に当たるこの年は
直義の地位や立場、環境に大きな飛躍があった年で
幕府の訴訟機関である引付方の改編三方内談方の新設
従三位に昇進して公卿に列した事、下文や裁許状の署判の変化
その他、文化面でも気になる出来事が目白押しの年で(それから尊氏の周辺でも…)
「なぜこの年に、様々な変化が集中しているのか?」
という謎に迫る為に、色々と解説しなければならない事があるのですが
とりあえず、この康永3年という年の直義の心境は
「これからきっと、世界は素晴らしい未来に向かっていく」という
新しい希望目標に満ちていたと思われ
4月8日に「浄光明寺」玉泉院に仏舎利を奉納して天下の明日を祈ったのも
大きな区切りとなったこの年の、直義の "始まりの決意"
形として記しておく為に思い立ったのだと考えて間違いないでしょう。


そして観応2年(1351)4月8日
直義は再び7年前と同じ祈りを捧げます。
その胸にはきっと、強い思いが込められていたはずなのです。

あの時、直義は再び未来に目標を見据え、夜半の日頭を探し続ける事を誓った。
実子を失った悲しみで政務に背を向けるのではなく
政務を全うし天下の為に尽くす事で、幼くして消えた命への手向けとする
それは、これ以上無いほど "直義らしい" 考え方なのではないかと。



ところで、鎌倉「浄光明寺」
以前「室町絵師ランキング(第1位)」で言及したように
直義の念持仏である「地蔵菩薩立像」(通称、矢拾い地蔵が伝わる真言宗の寺院ですが
当時は浄土・華厳・真言・律宗 "四宗兼学" の道場であり
これら四宗の勧学院(慈恩院、華蔵院、玉泉院、東南院)を建立する計画に対し
直義の援助があったといい
直義はこの寺院に個人的にとても心を傾けていたようです。

禅宗(臨済宗)ではないのに… と思うと、一見ちょっと不思議な気もしますが
その理由の一つはおそらく
(むしろ)「浄光明寺」四宗兼学だった事にあるのではないかと私は考えています。
…というのも、『夢中問答集』第10問の夢窓国師の答え
このような言葉があるからです。(ちなみに、夢窓国師自身は臨済宗の僧)
(↓以下、訳文)


 普通の人々ならば、前世の縁によってどれでも一つの宗を信じれば
 自身の悟りの為にはそれで足りるが
 (しかしそれでは仏法を広める事は出来ない、だから)
 外護者となって、広く天下に仏法を紹隆する使命を負った(王たる)立場にある者は
 一宗のみを信じてを捨てるような事があってはなりません。
 (そのような天命を受けて生まれたあなたは)
 まず、国家に仏法を護持するという大願を発し
 外(=行動)では大小の寺院を興隆し、内(=心)では真実の道心に安住し
 諸宗を広め、普(あまねく)く善縁を結び
 万人を導いてみな同じく悟りを証せるよう、深くお誓いなさい。


…つまり、四宗兼学の鎌倉「浄光明寺」
夢窓国師への(そして天下への)直義の誓いにぴったりな寺院だった
という訳です。

康永3年(1344)の方の奉納状には
 「この玉泉院は、古徳の玄風を伝授し天台の奥旨を談論する浄場なので…」
 と、仏舎利奉納の理由を述べています。
 それから観応2年(1351)の方では「天下泰平、仏法紹隆」と並べて
 「寺院安全」と記し、「浄光明寺」そのものの安泰も祈っています。)


直義は、尊氏とそして光厳上皇と共に
国家的な規模で仏法に捧げた祈りが多い(目立つ)と言えると思いますが
この「浄光明寺」への場合はわりと個人的なもの
 「自分への約束としての天下への誓い
という感じのものだったかと。

(人の見えない所でこんな純粋な誓いをする人って… 直義はほんと、裏が無さ過ぎるw )

「何かにつけて善縁を結ぶ」というのもまさに直義
また何たる素直… ってゆう話 (´;ω;`)



ただ… この二通の自筆書状を比べると
やはり観応2年(1351)の方がいささか寂しさを感じさせるので
実際は相当無理して元気に振舞っていたんだろうな… と思われる訳ですが
それでも… いや、だからこそ
泣いてばかりいないで、もう一度あの時の心を思い出して前を向く事を
如意王に誓ったのでしょう。


それなのに―――
直義の思いは、残酷な形で再燃した擾乱によって
絶ち切られてしまう事になります。
『観応の擾乱』が、天下にとってどれほど痛ましい出来事だったかは
絶たれた祈りの大きさを知ってしまうと、やり切れないものがあります。


許されるのなら、途切れた直義の祈りが再び始まる日が来る事を
私は天に祈りたい…




空飛ぶ☆*:.。.:*・゚(`・ω・´)゚・*:.。.:*☆ブーーン将軍




という訳で以上
直義の祈りについて、推測材料となりそうな史実を紹介してみました。

尊氏が必死でチラ見する直義の短冊には、こんな感じの願い事が書かれて…
…いたとしたら、あほな事書こうとしているクール仮面将軍
益々恥ずかしい事になってしまう…  (; −`д−´)う、うおう…

しかし私は
案外直義尊氏と似た様な事を書いたんじゃないかな〜 と思っていますw
というのも、どうも直義
天下兄貴の区別があまりついていなかったんじゃないか??…とか思うのだが
まあいいか。


でも、もし直義も同じ願い事だったら
嬉しさ100倍で本当に空飛べちゃいそうですね
"あの時" みたいに―――




さて、新暦の7月7日は今日一日で終わってしまいますが
去年と同様に、室町ファンにとっては当時の慣習に倣い旧暦の7月7日七夕本番です。
今年の旧暦7月7日は新暦8月9日なので
まだまだ一ヶ月七夕気分をお楽しみ下さい。

一ヶ月もあっても暇なんだけど… という方は
冒頭の画像からデネブアルタイルベガを探して
「夏の大三角」を作って暇つぶししてて下さい。

ヒント↓

   ベガ☆(織姫)

デネブ☆     ☆アルタイル(彦星)




今年も無事に、織姫彦星が会えますように。



-
posted by 本サイト管理人 at 02:30| Comment(2) | ★チラ裏観応日記
この記事へのコメント
管理人様、こんにちは。こちらも書いてしまってすみません。
い、いよいよ南朝ワードが・・!
日本一の直義ファン・佐☆進一先生が著書で「直義は南朝にハメられたんだよ・・」とおっしゃっているのを見てから一体どういうことなんだと気になって仕方がなかったのですがその近辺が明らかに・・?
ますます目がはなせません!
Posted by hoppy at 2016年07月20日 05:09
>hoppy 様
またまたコメントありがとうございます!!

『観応の擾乱』における南朝との和睦交渉(直義方 対 南朝)や
いわゆる「正平の一統」(尊氏方 対 南朝)については
色々と知られざる真相が隠れているようです。

この辺は、誰が敵で誰が味方で、誰の企みで誰が悪で… といった構造が極めて複雑で
常に誠意と正直で物事に当たる直義が
卑怯な謀略にやられてしまったのは無理もありませんが
ただし、直義をハメたのは… 南朝ではありません。
むしろ南朝もハメられた(騙された)為に
直義との和睦交渉が "突然に" 決裂してしまったのです。

確かに、和睦交渉における南朝の姿勢は極めて強弁で柔軟性に欠け
その独善的な言動には賛同出来ない所が少なくありませんが
しかし、『観応の擾乱』のゴタゴタの中では
そんな南朝を時に応援したくなるくらい
許されざる過ちを犯した一部勢力が存在します。
もちろんそれは、尊氏でも直義でもそれから直冬でもなく…
ああいや、今はこの辺にしておきましょうw

推理小説よりも伏線が複雑で、サスペンス映画よりもシナリオが巧妙で
誰も予想しない結果が待っているのが『観応の擾乱』という "現実" です。
((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
Posted by 本サイト管理人 at 2016年07月21日 23:11
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: